「正直な男とひなたぼっこの猫」




 はじめに見たときから、ずいぶん今日は疲れているみたいだって、思っていました、思ってはいたんです。
 でもそうやってリタが何日も寝ないでいるときといったら、とにかくなにかしら彼女の興味を思い切り引くようなことを見つけている時なのであって、それを邪魔ばかりしているというのもどうなのか、という結論に至ったのがちょうど同時期で。
 たまには応援だってしてほしいものよ、という完全に見透かしたことを、どうあっても追いつけそうにないような大人の顔で言われたのが、悔しかったのもある。だからタイミングが悪かったと言えば、そう。
 ぱったりと顔を見せなくなるのはそう珍しいことでもなかったけれど、よくあることはそのまま慣れたことにはならないのが辛いところで、端的に言うとこっそりアスピオの方に用事がある人に、様子を見てきてくれるよう頼んだ。
 そうすると、案の定研究に没頭していた、と多少服を焦がしながら――しっかり謝っておきました――教えてくれたから、もうしばらくは顔が見られない、と思っていた、その矢先のこと。

「確かエステルが持ってた本の中に、近い記述があったのよ! ね、見せて!」
「はっ、はい、どうぞ!」

 そんなぐいぐい壁に追いつめるなんて大胆ですリタ、なんて関係のないことを言ったらさすがにわたしも焼かれそうだったのでやめておいて、寝ていません、というのが顔にありありと書いてあるリタに、本棚への道を、あける。突風のようにすり抜けていくリタの背中を見て、でも、見るだけ。そう、わたし、だってわたしも、余裕のある大人の女性になるんですから。
 だから、面白いことに反応するアンテナをぴんと立たせて、寝食の間を惜しんで没頭するあなたの背中を、今日ばかりは黙って見守って。でも全部終わったら、それならどうかゆっくり休んでくださいと、そういうふうに、わたしもなれたらいい、いえなってみせます、と。
 ――思って、思っていたのがまさか、こういう形で裏目に出るなんて予想もしていなかったのだ。

 リタが読書をするときの姿勢はというと本をどっかりと床に広げて、その上に覆いかぶさる、というのが、一緒に旅をし始めたときからずっと変わらない基本姿勢だった。もちろん普通に手に持って読むときだってあるのだけれど、それはどちらかというと片手間に読んでいる時の話で、集中するとどうもね、と本人も言っていた。ほとんど無意識のようにとる姿勢らしい。
 目のことやまだ発展途中であろう背骨あたりのことを考えると、お世辞にもいい姿勢とは言い難いけれど、集中したらほかのことなんて箸にも棒にもかからないようなリタが、姿勢に関する注意なんて聞いてくれるはずもなく。後ろからずっと支えていようかしら、とジュディスが言っていたこともあるけれど、それは、ええと、却下、却下です。

「ふふ、じゃああなたがやる?」
「えっ……え、えっと、いや、それも却下、ですよっ!?」

 ともあれそれは旅が終わってもそれは変わらないものであって、ハルルへ訪れてくれては高確率で読書に勤しむ――たぶん、わたしの政務を邪魔しないようにしてくれているんでしょう、リタはそんなこと言わないけれど――リタにわたしが提案したのは、せめて床でない場所、ベッドの上にしてください、ということだった。だって、せっかく訪れてくれたあなたを床に座らせるなんて、なんだかわたしの気も済みませんし。

「べつにあたしはぜんっぜん気にしないんだけど。自分ちじゃこれが当然だし」
「リタ、それじゃあ足とか痛くなっちゃいますよ……とにかくダメです、読んでいいですから、読むならベッドの上にしてください。散らかしてもいいですから」
「うー、エステルのベッドって高級でふっかふかだから、安定しづらいんだけど……」

 最初はそんなふうにぶつぶつ言っていたリタも、今ではすっかり慣れたもので、そう今日だって、お目当ての本を見つけたら、それこそ今にもスキップしそうないきおいでベッドに飛び乗っていたのだ、赤味のかかった茶の髪を、スプリングが軋むのと一緒に揺らしながら。
 読むのに邪魔な分を耳にかける仕草はいくぶんおとなびているようにも見えるけれど、指先から流れる髪はまだあまりにも柔らかそうで、それはやっぱりどこか幼く見える。おとなとこどもの間に居るリタは、だから、他の誰にも見せられないようななにかで、ふっとわたしのどこかを、つよくゆさぶる。

「やっぱりあった……! そうそうこれよ、この理論をあっちに応用すれば……!!」

 床の上より、ベッドに乗ってくれた方が、机から見つめるぶんにはつごうがいいのだ、ということは、もうきっと、あなたにはずっと言えない、わたしのひみつ。


 なんてのんきなことを考えていられたのはそれから2・3刻経つまでの話で、わたしもわたしで少しく読書に没頭してしまっていて、気づいたらさっきまでぶつぶつ聞こえていたリタの声が止んでいた。

「あれ、リ……っ、と」

 慌てて、持っていた本で口に戸を立てる。呼吸も潜めて、しばらくの間見つめる。聞こえてくるのは、ただ――穏やかな、寝息。良かった、起こしてしまっては、いないみたいです。
 いつの間に眠りに落ちたのか、リタは本も開いたままで、ベッドの上に軟着陸して、規則的に肩を揺らしていた。
 本当に体力全部使い切るなんて、やっぱりこども、ううん、幼子みたいですよ、リタ。口には出さずにいても、頬の辺りは勝手に緩んでしまう。くう、くう、というあどけない寝息が、よけいにわたしの奥をくすぐる。開け放した窓からそっと忍び込んだそよ風が、頬の辺りの髪を揺らして、そのかわいい幼子を、ちいさくうならせた。

「カゼ、引いてしまいますね、これだと」

 がんばって、がんばったあとで疲れてしまったら、そのときは、あなたが休むための、宿り木に。
 できるだけ音をたてないように立ち上がって、ベッドに忍び寄る。こんなときばかり床が軋む音が妙に大きく響いたりして、そのたびに飛び上がりそうになるわたしは、今思い出してもおかしかったと思う。でもそのときは笑っている場合ではないのだから、あとちょっと、あと、一歩。

「うぅ……ん」

 ちょうどよく寝返りをうってくれたリタに感謝しながら、下敷きになっていたタオルケットをそっと抜き取る。ここ、ハルルの木の花で染めた、桃色。まだほんの少し花の香りがするようなこれが、彼女の眠りを包んでくれますよう。そんなことを考えながら、寝返りの結果猫のように体を丸めたリタの上にかける。
 おやすみなさい、は、囁くだけにして。肩までかけてあげるときに、うっかり手が頬の辺りに触れてしまって、慌ててひっこめそうになるのをどうにか抑える。そっーと、そっーと。よく小難しそうに固められている表情も、いまばっかりは、とろけるみたい。だからきっと、眠っている時のこの子は、ほんとうにまだ、おさない――。

「ん、」
「え?」

 首の後ろ、くるん、とあったかいなにかが巻き付いてきたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
 くぐもった声くらいなら上げられたかもしれない、いや上げない方が良かったのだけれど。でもとにかく何をする間もなくわたしの視界は反転していて、気がついたら天井を見つめていた。分厚い本の角にぶつけたらしい背中が、じんじん痛かった。わけが、わからなかった。ええと、あれ、いま、わたし、どこ、なに。
 だからお前は混乱すると全部いっぺんに片付けようとするから余計混乱するんだ、とか、おそらくユーリのものらしい小言が浮かんでは消え、浮かんでは消え、でもそれだけだった。何が起こったのかはわからないまま、長くて速い時間がびゅんびゅん過ぎ去っていく。首に、回された、のは、腕。

「り……た……?」
「ん……」

 唸る、だけ。意識はまだ、眠りの底。ああ相当疲れていたんだ、場違いかもしれないことを思う。明瞭なことはひとつあって、もしかすると、ひとつきりだった。リタの身体から完全に滑り落ちてしまったタオルケットが、やっとわたしに、なにがあったかを語ってくれた。
 ここはベッドの上で、首に巻きついたままのこのあったかい腕は、リタのもので。引き寄せたのはこの子で、引き寄せられたのは、わたし。ここは、ベッドの、上。全部正しく理解する。理解して、飲み込んで、まばたきをする。そう、ですから、ええと。

「………、」
「えっ……?」

 いま、なんて。
 とにかく自分の中で奔流する思考に整理をつけるのに必死だったわたしは、ゆめのむこうで話すリタの声が、うまく聞き取れなかった。それなのに、どうしてだろう、それがわたしに対して向けられたもので、わたしはそれを、それを聞かなければならないということだけは、わかって、いたのです。
 迷ったけれど迷っている暇なんてなかった、腕に巻かれたままのかっこうで、どうにか体を動かして、リタの方に向ける。

「……て」

 あ、こんなに、ちかかった、の――。


「ここに、いて」


 かすれた、リタの、ことば。
 それはあまりにも穏やかに優しく、わたしの全身にむかって、なぐりつけるような衝撃を、与えた。


 それっきり彼女はゆめのむこうから戻ってくることはなくて、かわいらしい寝息を立てるが早いか、かるく握ったこぶしで目元の光をさけるようにして、丸まってしまった。
 わたしは、わたしはでも、もう、そのしぐさを子どものようだと、目の前にいる子がただ、ただかわいらしいだけのなにかだと思うことが、できなく、なって。ねえさっきまでこの子が発していたのはこんなにもあまやかな吐息だったのでしょうか、それを吸い込まずにいられるには、きっとわたしたちはあまりにも近くにいたのです。
 鼻孔からからだじゅうを突き抜けたそれらは、わたしの正常な思考だとか、そこにあったはずの知覚だとかをあっさりと浸食してしまって、あと、考えられたことといったら、そんなに多くはなかったのです、本当に微かなことだけだったのです、それはつまり、目の前のたった一人の、ことだけだったのです。

「り、た」

 ああ、さっきのあなたよりもずっとわたしの声の方が掠れているなんて、ひどく、おかしな話。先刻のように笑えたらよかったのに、頬の筋肉は緊張したままで、どころかわたしの全身は、そのときすっかりと張り詰めてしまっていた。だから、とくん、とくんと揺れるたび、細く張った糸がふるえるのと同じくして、わたしはふるえていた。
 ねえわたし、わたしはたしかに、あなたのそばにいます。それをどうしてもっと伝えたら、いいんでしょう。ここにいますと、たったそれだけの、或いは一言で足りてしまいそうなことを、どうしてわたしはうまく伝えられそうにないと、思って、しまうのでしょう。

「リタ」

 呼ぶだけでは足りなくて、全然足りなくて、最初はきしむように、だけど生きているうちでもめずらしいほどの明確な意志をもって、わたしの手は、穏やかに上下する華奢な肩を、越えた。ちかい。ちかい。柔らかな髪がふわりと、手のひらを迎えてくれる。リタ。

 ねえ、リタ、わたし、は。



 ――コンコン!!



「エステル様、フレンです!! 至急の書類をお持ちいたしました!!」
「…………」


 扉を開けたときのわたしの表情は、それからしばらくの間、騎士団の間でも有名になったという。







「ユーリ!! お願いですから、フレンのあの……なんというか、アレな感じを、なんとかしてくださいっ!!」
「なんでオレにそれを言うんだ、お前は!?」

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