「それを、なんと、呼んでみようか。」




 深く沈み込めば沈みこむほど、外に投げ出されたときの苦しさは大きい。いまがあたたかければあたたかいほど、いつかくる寒さは真摯に身を切り裂く。風が強い、翼は小さい、地面は遠い、落ちるのは、いつだって、怖い。
 同じ夢に何度も負けて、同じ場所ばかりに躓いて転んで擦りむいているうちに、そこが痛くなかったときを、私はきっと忘れてしまった。もはやその痛みも含めて自分だった。そのくせ苦痛それ自体には慣れることなんてできないまま、私はまた、ふるえてる。蹲っては、ふるえてる。どうせ失くせやしないなら、いっそ両手で迎え入れればいいのに。なにかをしたいと望んで叫ぶことはできても、それを実現しようとする気が、私の中にはきっとないのだ、ろう。汗が目に入って、鼻の奥がしんと痛む。短く息を吸う。
 喉が嗄れきってしまいそうな高音が最後に持ってきてあるのは、そのときの私にとってはそれなりに幸運なことだった。つまるところ私は、考えるのをやめたかったのだ。作曲を担当してくれている美穂がにやつきながらスコアを渡してきたときは、普段の彼女から考えると、いったいどんな悪巧みをしていることやらと不安になったものだけれど。実際のところ、美穂には私のレベル向上に合わせて持ってくる曲の難易度を上げてくれたりするなどと、案外気配り上手なところもあるのだ。なんて彼女自身に言うと、頬のひとつも抓られそうだけど。
 ともあれ今の私にとっては、美穂が新しく持ってきた、ひたすらアップテンポで高音域を駆け抜ける曲は、演奏面以上に精神面の部分で、非常にありがたい影響を与えてくれていたのだ。だってこうして必死に声を振り絞って歌っている間は、尚のやたら上手なリードに合わせ汗だくになって弦を掻き鳴らしている間は、考え事なんてしてる暇、ないから。そのとき私は、ぼんやりと私でなくなる。六月の蒸暑い気温と、空調はあるけれどあまり役に立っていない――高校の空調は事務室で集中管理されているので、設定温度が高かろうが文句は言えないんだ――部屋の気温とが、分断をいっそう強くする。

「うだーっ、あっっっつい!!」

 が、尚のギターがまだ鳴り止まないうちに両手を振り上げて叫んだ智の声で、私は一度瞬きをした後、また自分の両足の上に戻ってきてしまった。頬を流れてるのは、とりあえずしょっぱい液体。ところで言葉通り智は額といわず首といわず汗だくで、いつもはふわふわと自由に跳ねている猫っ毛な髪が、今はべったりと暑そうに張り付いていた。制服も、軽音部全員が女子じゃなかったらちょっと危ない感じだ。
 けれどそれは、そんな智に向かってそれなりに勢い良く拳を振り下ろした尚も同じなのであった。まだ若干演奏の余韻が残っている中奇妙なまでに響いた、ごんと鈍い音。尚は女子相手だろうが容赦がない。それにしても、演奏自体はかなり上手くいったほうだったというのに、曲の終わりはやたらとコミカルな感じになってしまったあたり、うちの軽音部らしいといえば、らしかった。

「ったあなにすんの尚っぺ、暴力反対!!」
「あーうっせえうっせえ耳元で叫ぶな!! つーかお前年がら年中うっせえんだからせめて曲が終わるまでは黙っとけよな!?」
「だぁぁってあっついんだもん!!」
「だもんじゃねぇバカ智、そんなんみんな一緒だっつの!!」

 確かに暑いのはみんな一緒ではあるけれど、演奏が終わったばかりだというのに、殴りあうわ抓りあうわ叫びあうわの喧嘩ができるほど気力が残っているのは、尚と智の二人だけであるに違いない。なぜかスネアをだかだか打ち鳴らしている智と、ギターを抱えていなければ掴み掛からんばかりの勢いで食って掛かっている尚とを見ていると、なんだか体感温度でも上がった気がして、思わずため息。
 うっかりシンクロしたもうひとつのため息の発生源である美穂は、私と暫く顔を見合わせた後ぷっと苦笑して、まあいつものことだよね、と余裕の表情だ。ただし汗だくは、こちらも同じ。まだ六月されど六月、地球温暖化のせいでどんどん短くなっている春はすっかりどこかへ行ってしまって、そのくせ居座ったままの梅雨と一緒に、今朝もキャスターは元気に高い気温を告げていたのを思い出す。

「クーラー効かないって申請、出してみたら?」
「あー、無駄無駄。そういうのそっこーで突っ返されちゃうから……智そーりだいじん、クーラーの設定温度が少し高すぎやしませんかね!」
「はい、前向きに検討させていただく所存です!!」
「ってな具合に」
「ああ、うん……」

 前言撤回、智とそんないつもの茶化し合いができるほどには、美穂にも余力があるらしい。もっとも、どちらにも参加できる智のパワーと言ったら、底知れないものがあるのだけれど。そう思っていたらなんだか私の周りだけまた気温が上昇したような気がして、私はため息の代わりに二三歩歩いた後、ギターを抱えたまま傍にあった椅子に腰掛けた。錆びたパイプ椅子がひときわ大きな音を立てる。
 なるほど形骸化した生徒総会でもそんな結果が待っていそうだな、なんてことをぼんやり考えながら、まだ目に入ってくる汗を拭った。といって、手からも汗が噴出しているから、あんまり意味はない。じゃあぱたりと下ろした手が重いのは、こんなに汗をかいてるから、その水分のせいなのかな。少しぼうっとする目線を窓の外に投げ出すと、今日も空は灰色だった。昨日も灰色だった。たぶん、明日も。

「んー……ゆーいっ」
「わ……えっ、なに、智?」
「ううん、よくわかんないんだけど。ゆい、なんか元気ないかなーって」

 私の頬をつんとつっついたのは智のスティックで、もう一本を片手で器用にくるくると回して見せた智は、なんでもないことのように笑ってそう言った。そりゃあ智からしたら誰だって元気がないみたいなもんだろ、と尚が向こうでぼやいたのには、そういうの目くそ鼻くそと大爆笑って言うんだよ、なんてちょっと変な言葉を美穂が返して。結局今度は美穂と尚が元気に言い争い始めたのを何となく耳の端で聞きながら、私はとりあえず、立ち上がって見せた。いきおい付けの為に振った両腕は今にもちぎれてしまいそうなほどに重い。

「ん、ちょっと歌い疲れちゃったのかも」
「そお? じゃあ無理しないで座ってなよ、なんか飲み物買ってきてあげる!!」
「あ、いいの? ありがと」
「おっやすいごよーう! ねえ美穂っちは何がいい?」
「うっはー智ってば気が利くう! こりゃあ目くそから太ももくらいまで特進させちゃいたいわ! あたしはスポドリよろしくっ」
「美穂っちってばもーフェチが細いんだから……で尚っぺはおしるこドリンクでー、ゆいは何がいい?」
「待て待て待て待て、それアイスでもあんのか!? つうか甘ったるい!! 余計喉渇くわ!!」
「あら、晩年補習組の尚が浸透圧理解してるなんて意外だわ、美穂さんびっくり」
「あん? シントウ……また変なコトワザかなんかか?」
「はっはっはそれでこそ尚っぺ。生物の俊雄聞いたら泣くぞー、こりゃ」
「で、で。ゆい、なにがいい?」

 いい加減一緒にいる期間が一番長いせいか、美穂の茶化しにも慣れているらしい智は、尚がぎゃーすか噛みついているのにも構わず、さらりとこっちを振り返って尋ねる。思えばそれなりに喉も渇いていたし、と頭の中で鈍く校内自動販売機のラインナップを思い出してみる。ちなみに尚が驚いていたおしるこは実在するけど、それは無しとして。そうだな飲み物、なにがいいかな、私は。あんまり悩むようなことでもないので、とっとと口を開く。じゃあ、私は。

「じゃあ私は、」
「烏龍茶!! でしょ?」
「烏龍茶で……っ、え?」

 しかして智は、あくまでもあくまでも自然に笑った智は、ふと思いついたことを、私が口にするのと同時かそれよりもむしろ早いくらいのタイミングで以て、全く同じように言ってみせたのだった。どこかいびつにシンクロしたそれは、私がえ、と声に出さずにこぼしてからひゅっと短く息を吸うその間に消えてしまって、おっけ、なんて振り返ってしまった智の視界に、もう私はいない。

「ま、待って」

 こぼれた言葉はやたらとよわよわしかった。自分でも少なからず驚いた。
 すぐにでも駆け出そうとしていた割に財布がちっとも見つからないらしくて、鞄の中身を部室のベンチの上ひっくり返している智が、がさごそと中身を漁りながらちらとこっちを見やる。不思議そうな表情だった。呆けているようにも見えた。つまり私から何かを理解しているようには、全然見えなかった。だからそう、そのときこわいくらいふるえていたのは、私だけ。そのとき知らない間に握りしめていた手に自分の爪が鈍く鈍く刺さって、ゆるいリボンで首でも締められているみたいな気分だったのも、きっと、私だけ。どくりと嫌な音がする。これはなんの音だろう。

「なんで、わかったの……?」
「え? だってゆい、よく飲んでるし。ってゆーか、ほぼ毎回ゆいにはそれ買ってきてる気がする」
「そう……だっけ」
「そうだよ? ゆいって烏龍茶好きなんだなーって、前から思ってたもん」
「うーん智、キミはなんとゆーか、まさにもう一歩! て感じだね。いいかい、ゆいが好きなのは烏龍茶じゃなくって……」

「他のでいいっ!!」

 少しだけ、しん、と、した。
 ベースを弄くっていた美穂が手を止めたからかもしれない。相変わらず苦手らしい調弦をしていた尚がピックを落としたからかもしれない。智がやっと財布を見つけたからかもしれない。
 でももしかしたら、私が、こっけいなほど大きな声を上げてしまったから、かもしれない。ほかので、いいから。沈黙はひどく短かったのに、それにすらも耐えきれないで、私は口を開いた。直後に開かなければ良かったと後悔した。叫ぶよりもずっとおかしな声だった。おかしなくらいに細かった。どうでもいいようなことばかりなのに。何してるんだろう、私。智はおずおずと頷く。

「ごめんね、えっと……そう、紙パックの方で、新しいジュース、出てたよね。私、あれがいいな」
「う、うん……りょーかい」

 財布を見つけた智は一瞬私たちの方を振り返ったけれど、でもすぐにそれじゃあいってきますって明るい声だけ残して、自動販売機の方に走っていった。むっと暑い風が部室の中に忍び込む。何の役にも立っていないように思える冷房でも、それなりに部屋を冷やしてはくれていたらしい。もっとも、今の私の指先なんかは、冷やす必要なんてちっともなさそうだったけれど。そのくらい、もう自分で冷えていたけれど。たださっきまで爪が刺さっていた部分だけが、ほんのりと熱かった。
 ピックを拾い上げたらしい尚はまた、本当に仲良くなれないらしいチューナーとまた悪戦苦闘を始めていて、美穂はそんな尚にちょっかいを出し始めた。とりあえず休憩といった体の時間が始まる。そんな二人の様子を横目で見ながら、たまにやってくるとばっちりに曖昧に笑って返しながら、肩にずっしりと重かったギターをスタンドに置いて、窓際まで行った。外を見るようなふりをした。でも本当は、額を窓ガラスに押しつけていただけで、外の景色を情報として頭に入れるなんて、そのときの私にとっては、到底無理な話だったのだ。もうとっくに、容量オーバーだよ。
 他へ目を逸らすには汗だくになって声を振り絞るほどの努力が必要だというのに、いざ見てしまうとそれはどこまでも私をぎゅっと捕まえてしまって、また、どうしようもなくなる。いっぱいになる。いっぱいになる、私は、あなたで、いっぱいになるよ。
 もう日はだいぶ長くなっていて、部屋の中は相変わらず暑い。うだるように暑い。こめかみの辺りから雫がゆっくりと頬を伝って、肩の上あたりに落ちる。喉が渇いていた。のどが、かわいていた。烏龍茶ばっかり、そんなに頼んでたっけ。なんだかんだでちょこまか一番動いてくれて、だからよく飲み物の買い出しも引き受けてくれていた智が言うのだから、間違いのないこと、なのかな。そうだってほら、さっきも、あんまり考えてもないのに、すっとあれがいいなんて、出てきちゃってたじゃない。ちょっとおかしくなったけれど、喉がからからで、笑えなかった。のどがかわいていた。

 頭の中、どこかで、ちゃぷり、とかすかな、それでいてひどく涼しげな、水音。
 それはどんな色だっただろう。目を閉じなくてもわかる、陽を反射して静かに静かに煌いていたそれは、どんな。

「……こはくいろ、なんだもん」

 染まる、染まる、あなたの色。
 お茶が、飲みたい、飲みたい、飲みたくない。

 それはひんやりと喉を伝ってゆっくりと私のからだの中へと滑り込んでいき、そうして頭のてっぺんからつま先まで、じんわりと、じんわりと、あまりにも丁寧に、私を染め上げていくのです。すると私はまるで細い腕にそっと抱きしめられているかのような、あったかいようなつめたいような、ちょっとだけくすぐったいような思いにとくんとくんととらわれて。
 ねえそんなこと考えてるって言ったら、笑うかな。ハク、なんだかおかしいねゆいって、あなたは笑って、くれるかな。笑い飛ばして、くれるかな。ああ、あんまり豪快に笑う子じゃ、ないんだけど。でも、でもそう、私だって全然気がついてなかったの、その一回一回ではああこはくいろだなって思ってはいたのかもしれないけれど、いつの間にか一生懸命そればっかり選んでたなんて、私、知らなくて。
 知らなくて、知らなかったんです、だからどうか。一度離して、またごつりと額を硝子にぶつけた。いっそ叩き割ってしまおうかと思った。叩き割れてほしいのは、硝子じゃなくて頭だった。ねえハク、私わかってなかったの、そんなつもりじゃなかったの、そんなふうに、考えてたんじゃ、なかったの、だから。だから、おねがい。

 ――きもちわるいって、いわないで。




「……ゆい?」
「あ……っ、ご、ごめん、どうしたの、ハク?」
「え、どうしたの、って、いうか……」

 それ、こっちの台詞だよ。そう言った訳でもないのに、駅へ向かう帰り道の途中、ふっと足を止めたハクからは、確かにそう聞こえたような気がした。どのくらい黙っていたんだろう、それか、ハクの投げかけに答えられていなかったり、したのかな。わからないけれど、ハクがちっとも歩き出さないところを見るに、それなりに異様に映ったらしい。空と同じかそれ以上に鈍色をしていたせかいはふっと、ほんの少しまぶしすぎるように思えるほど鮮やかになって、背中のほう、ぞくりと一筋汗が流れる。ごめん、私。それきり、なにも言えなくなる。
 だけどありがたいことに、ハクは優しかった、どろどろに優しかったのだ、だって彼女は私が一度首を振って、それから至極どうでもいいような話題を振ると、ちゃんとそれに答えてくれたから。もちろんハクは戸惑いながらもちゃんと一歩一歩妙に早歩きだった私に合わせて足を動かしはじめてくれたし、それきりプラットホームで並んで電車を待っている時も、何も言わなかった。私はそれに甘えた。どろどろに、甘えた。

「そういえば、最近雨続きだけど……ハク、頭痛はへいき?」
「あ、うん……えっと、まあまあ」
「まあまあ、ってことは、そこそこ辛い、ってことだね」
「え……」
「ハクって、半分うそつきだけど、半分正直になってくれたね。ちょっと嬉しい」
「……う、うん」

 なんとなく気恥ずかしそうに、頷くというよりはうずくまるようにしていたハクは、しかして、まるっとうそつきになってしまっている私の手に、うっかり触れる。最初はいつも、うっかり。それからつんとためらうように触れる、それが二回、三回、と、繰り返される。たぶんいつもそうだった、もう癖みたいになってしまってるのかな。中指の先どうし、つい、と擦り合わせて。列車通過のアナウンスが流れて、それにびくりとしてしまったように、距離は一度、遠くなった。轟音とともに列車がプラットホームに飛び込んで、そして去っていく。ハクの長い前髪が揺れた。
 ハクはどこを見てるのかな、ということがふと気になったけれど、特に確認はしない。なんとなくというか経験論で、たぶん俯いてるんじゃないかなって、思ったから。まだ一緒にいることに全然慣れていない――私も一応そうなんだけど――ハクは、そうする前まではびくついたように辺りを見回しているし、そうする時にはぎゅっと目を閉じているし、どちらにせよ俯いてる。だから電車が通り過ぎていった後、やっと元に戻ってきた手が、あと30秒の勇気でどうにかこうにか私のそれと重なってくれたとき、私はハクの手を握り返した。そう、それだけだったんだけど。

「……ゆいは、さ」
「うん?」
「げんき?」

 だけど、そう尋ねられた時、はっとしてハクの方を見た私は、少し乱れた前髪の隙間から、すっと覗いているまるで透明のような瞳が、ほんとはずっとまっすぐこっちを見ていたと、初めて気づいた。
 ハクの目は、ふかくふかく沈んだ目。だから、もしかしたら色なんてそこにはないんじゃないか、なんて私には思えてしまう。結構近くで、じっと見ないと、わからないだろうけど。もしかしたらこの世の色なんてそこにはなくて、だから感情とか表情とかそんな、そんな生々しくて少し恐ろしいものはそこにはなくって。ただ、すっとつめたい温度だけが、そこにはあって。だからそれは、とても、きれいなんだ。とても、とても、きれいなんだ。げんき。ハクの問いに私は、なんとか、かくりと頭を縦に振って、応える。そっか。ハクは小さく、頷いた。

「そっか。じゃあ、よかった」

 そうしてハクは、わらう。
 この笑顔はまだ見覚えがある。そうだよ、ハクの、かなしいえがおだ。この子はいつもこんな風に、ちいさなちいさな灯りのように、かなしそうにわらうのだ。それが、ああ、それが、私は。どくり、どくり、音がする。嫌な音、というよりもこれは、苦しい音なんだ、私にとっては。それはあまりにも切実な、一種の叫びのような、こころの音でした。
 あのとき冷えきっていたのとは比べものにならないほど今の私の手は温かくて、だけど温かいから、あの部室にいた時とは比べものにならないほど、音は私の中で溢れてくる。
 ハクの手は不健康に細くてつめたくて、ちっちゃくて、胸がぎゅっとするくらいに温かい。それが温かければ温かいほど、ずきずきする、ずきずきする。いたくていたくてたまらなくなる。電車が参りますのアナウンス、鳴ったのにさっきよりも電車がくるまでの時間がやたら長いように感じられた、早く早くきてくださいって願っていた。どうか電車、早く来て。私の音を消して。どうか早く早く、私がこの子の手をぎゅっと握りしめたいなんて想いで、いっぱいになってしまう前に。

「ん、ゆい?」
「うん……うん、いこっか」

 ドアが開いて、私は口を閉じた。今にもこぼれそうだったすべてを、どうにかこうにか飲み込んだ。いっぱいになっていたのを、窒息しそうになりながら、私はぜんぶ飲み込んだ。いきぐるしさで頭はくらくらしていたけれど、でも、だって、それしかなかったから、だいじょうぶをひっしに繰り返しながら私は歩く。隣に座るためには、もう、これしかないから。
 たとえばいっこうに動こうとしなかった私を引っ張る為にちょっと手が引かれた程度でも、ほんのその程度でも、私を満たしていた音はさっと肩から腕から染め上げて、それを捕まえようとする。多分に自分勝手な想いでいっぱいになって、とまらなくなった私は、離したくなくて、話したくないまま、そうしていつか、あなたのちいさな手を、握りつぶしてしまうでしょう。
 それはとてもおそろしいことだ、とてもとても、おそろしいことだ。

「明日は……晴れると、いいね」
「ん、どうかな……予報、また雨だったし」
「でも、ほら、梅雨の時期って、よく外れるじゃない、天気予報」
「どっちかっていうと、悪い方向に、だけど……」
「……いいの! とにかく、明日は晴れるかも、って思って今日は寝るから、私」
「うん……うん、と」
「ん?」
「ありがと、ゆい」

 ああでもわたしはわたしはこんなハクのかなしいえがおが、手が、隣に座るとちょっと肩をびくつかせるけれど、たまにすごくほっとしたような顔をするところが。全部全部あわせて、この目の前にいる彼女が、ハクが、私はとても、とても、だってさ、なんておそろしいことだろう。二文字の言葉はぐるぐると頭を巡って、私はまた、いきぐるしくなる。
 だけどそんなときに限ってハクの透き色は私を捕まえてしまうわけで、結局のところ私は、どうがんばっても、このやさしいやさしいハクから逃げられたりはしないのだ。首輪はとっても緩くて伸びきったゴムのようなのに、自分でそれを引っ張って引っ張って、私はどんどん首を絞める。ハクはそれには無関係。ハクはなんにも悪くない。じっとこっちを見ているハクの瞳はやさしい。やさしくて、やさしくて。

 ただ、たまに、なきたくなる。

「……ゆ、ゆい、えっと」
「…………」

 いつもと変わらず、誰も居ない車両。鈍色の空の下で、知らん顔で流れていく景色。誰が私たちを見ているだろうか、誰もいない、きっと。誰も私たちに、気がついてやしないんだ。ここは時間限定、こっそりと隔絶された空間。ゆるいゆるいハクの瞳は私を真摯に捕まえる。私はそれにぐいぐいと引き込まれて、引き込まれて、手は、かすかにつめたい頬に、ぺたり。
 ハクの呼吸がひくりと止まったのを見て聞いて、私は滲んだ世界でぱちぱちとまばたきをしていた。でもなんかいそうしたって、瞳は濡れて濡れて仕方がなかった。たぶん、そのくらい、いっぱいいっぱいだった。なにやってるんだろう私って声は確かにどこかで鳴っていたし、いったいなにを恐ろしいことをしてるんだって声も、ちゃんと聞こえていたのにね。
 どのくらいの時間がたってからだっただろうか、そのまま黙っていたハクの手は、その上に。ひどく弱い触れ合いだったと思う。触れないようにと願ったかのような触れ合いだったと思う。けれどもそのとき私たちは確かに距離をつめてつめていて、こわごわと微かな体温だけを伝える手を頼りに繋がっていて、細く浅い呼吸を繰り返しながら、私は、ハクは、たがいの目を、見て。こくり、とハクの喉が動く。なにか言おうとしていたみたいに小さくうごいていた唇が、一度きゅっと結ばれて、それから、ハクは、目を閉じた。たぶん、わかってくれてた。黙ったままでいいよって言ってくれたハク、誰もいない車両は私の鼓動よりもずっと遅く遅く揺れていた、私はまだ目を開けていた。間違いで大きく揺れたなら、きっと、触れてた、私たち。
 どくりどくりという音はもはやそれ自体が私のようになってしまっていて、指先なんかはほとんど痺れてしまいそうだった、ハクの睫、長いんだ。この子はほんとに、ほんとは、かわいい。なんて考えると、ほら、また、なきたくなる。ねえハク、私、変われてないよね。変わらないんだよね。どうしてうまくできないんだろう。今更だって、わかってるのに。

「っ、あ……え?」


 ――こわいんです、あなたのこと、すきになるのが。


「……さ、もうすぐ、駅だね」

 わかってるのに、できないの、捨てられないの、もうその恐怖も自分勝手な想いも全部私の一部で、それこそが私になってしまっていたんだ。こつりとぶつけた額、これで崩れてしまえばよかったのにねって思ったのは今日で二回目、そういっそ、一度全部壊れてしまって、最初からやり直すことができたならよかったのに。
 また最初から"私"をやり直すことができたなら、こんなおかしなことには、ならなかったのかな。頬を真っ赤にしていたハクは、だいぶ戸惑ってしまったように、おずおず額を抑えていた。石門駅から発車した電車は、私が降りる五木町駅まで、またゆっくりと動き出す。向かいに子連れのカップルが座っていた。ハクは両手を膝の上で握って小さくなっている。耳が、だいぶ赤かった。
 ねえキスするって、思ったでしょう、私も思ってた。しようと思ってたし、したいって、思ってたんだ。ねえほんとは、いつも思ってるよ、あなたに触れたいって、思ってる。だって私はねハク、あなたのことが大好きなんです、ほそっこい体を抱きしめるのも、つめたい手を握るのも、それから、くちびるを重ねるのも、止まらないくらい。そのくせ、そう思えば思うほど私の手は堅い石かなにかのようになってしまう、好きで好きで好きだから、私はあなたに触れたく、ない、ない、ない。
 私の天秤はいつからだったかすっかりおかしくなっていて、大切にしたいという想いも、もっと触れたいという想いも、どちらも根っこは同じなのに、決してうまく釣り合ってはくれない。嬉しかったよ、あなたから与えてもらえる行為も好意も全て私にとってはまるで夢のように嬉しいものばかり、それはひどくひどくかんたんに、私を満たして、溢れて、零れてしまいそうになる。
 そうしたらなくしたくないって願うよ、だってこんなに温かいもの、だからどうかなくなりませんように、気持ち悪いなんて言われませんように、うざいなんて言われませんようにって。でもそうしたら触れるなんてとっても無理で、膨らむ気持ちを否定するしか思いつかなくて、ハク、ねえ私は、そうやってあなたを思えば思うほど、どうしたらいいか、わからなくなる。
 どちらもあまりにもへたくそ、あまりにいびつ、私のある意味切実なこころから、あなたを見つめる瞳からころりと二つ溢れたかたまりは、上手に重なってなどくれないまま、あなたを私を傷つける。だいすきで、だいすきだから触れたくて、だいすきだからだいじにしたくて、それらふたつはどんどん私の中膨らんでいくのに、どちらかがどちらかを押しつぶそうとしか、してくれないのです。
 だから私はいつも、どうしようもない自分のてのひらだけ、握り締めて。

「それじゃあ、また明日ね、ハク」
「う……ん、えっと、ゆい」
「ん?」

 電車はあっという間に私が降りる駅まで着てしまって、私はなんだか逃げるような足取りで扉の外へと飛び出した。むっと重たい空気が体中に絡み付いて、でもほんの少しだけ、心地よかった。ばかみたいだね、必死な声が後ろからそっと私を呼び止める。ゆるいゆるい首輪が引かれる。あなたの手はあまりに小さくて、あまりに弱いけれど、私はそれに応えてしまう。

「……め、メール!! する、からっ」

 だけどドアがゆっくりと閉まっていくその直前そう叫んでくれたのに、曖昧にしか微笑み返さなかった私を、あなたはやっぱりその透明な目で、見ていたのでしょうか。ごうと走り去っていく電車はすぐに見えなくなっていってしまった、私はそれをいつまでもいつまでも見つめていて、だのに足はふらついたまま、逃げ出したいと叫んでいた。






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