「あとどれくらい、わけあえば。」




 いつか止まるからうつくしいのではなく、止まる瞬間がもっともうつくしいのだと、教えてくれたのは、きっと君の横顔だった。

 声を掛けるのを躊躇った。足が勝手に止まっていた。変な形で前に進むことを阻まれた制靴の裏が砂を噛んで、ノイズのような感覚をぼくに短く残す。目がちかちかしていたのは、真夏に差し掛かった陽光が白かったせいだろうか、地面や白い校舎からの照り返しが目を焼いたからだろうか、そのどれも正しくないと、どうしてこうも簡単に、ぼくは、思ってしまえたのだろうか。
 ともかくそのとき一瞬、ぼくの中にあったはずの立っている感覚とか今日は気温が高いといったものはぜんぶ、浮遊してしまっていた。だから、彼女がゆっくりとこっちを振り返ったとき、それが本当にゆっくりだったのか、それとも単にぼくがおかしくなってしまっていたのか、そういうことも、わからなくって。
 ただ、照りつける日差しから身を守ろうともせずに、玄関先で立っていた彼女のこめかみから流れた汗が、輝く滴が、ひとつぶ、白い白い肌の上をつたって地面に落ちるのを、ぼくはけっして、見逃さなかった。見逃すことが、できなかった。

「あ、ハク」

 そうしてゆいはぼくのほうを見て、張り詰めた糸みたいだったくちびるをほんの少しだけ緩めて、きれいに笑ってみせたのだ。
 あついひのこと。なにもかもどうでもよくなってしまうくらいにあつくて、君は気怠げに笑って、のたうつように張り付いた髪は、くろぐろと、くろぐろと。


 帰りはどこかへ寄っていこうかって、言えたら言おうって、思っていたんだ。たまには誘ってみせてよってゆいがぼくに言ってくれたのはもうそれなりに前のことだったというのに、ぼくは結局、そのお願いに応えてあげたことは、いや応えようとしたことだって、一度もなかったから。
 でも今なら言えるような気がしていたし、状況もきちんと整っていたから、そうしてみようって。

 一緒に昼食を囲むことはあっても、話に自分から参加することはまずなかったぼくは、ありふれた話題に突然声を上げたものだから、だいぶ三人を驚かせてしまった。どこのドーナツが期間限定のセールで安い、とかって、たったそれだけ。彼方が友紀にふっと振った、たったそれだけの話だった。
 桜まで頓狂な顔でああ驚いた、なんて言って――まあ、彼女の場合は、単にからかっていたような気もするけれど。ともかく、そのあともごもご尋ねたら、ちゃんと店の場所や期間まで教えてくれたので、結果としてはよかったんだろう、たぶん。
 それにしてもそんな話題に乗ってくるのはめずらしいな、と後で桜が言ってきたとおり、声を上げただけでなくそういう食べ物の話に乗ったこと自体が珍しいことで、その程度にはぼくの食欲というものは普段から薄かった。食べること自体に興味がないみたいね、と姉が苦笑していたのは、一緒に暮らすようになった初めのころだったろうか。
 ところがここ数日、お昼も味気なくて小さいパンをひとつきり齧っていたぼくは、少し事情が違っていたのだ。

 どんな仕事をしているのか、そもそも仕事に就いているのかすらちゃんと聞いたことはないけれど、ともかくなにがしかの用事で暫く家を空けなければならない、とすごく辛そうに姉が言ってきたのは、四日ほど前のことだ。長くて一週間、短ければ五日で帰って来られるはずだと苦々しく呟いていた姉は、そしてもちろんのことぼくの食生活を心配した。そりゃもう、すっごく。
 なにせその用事というのは随分唐突に舞い込んできたものらしく、一週間なら一週間分のご飯を作り置きして冷凍でもしていきそうなきちっとした姉は、しかしそのときばかりは何の準備もしていなかったのだ。さらにタイミングの悪いことに、食材はちょうどその日で尽きかけていて、昨日の夜などにそろそろ買い物に出るから何か食べたいものは、なんて聞かれたのを、ぼくですら覚えていた。しかも何かを買いに行くには時間が遅すぎるときたものだから、極め付け。
 姉は苦心の末に外食でいいからきちんと食事を摂るように、と一週間や五日間にしては多すぎる額の食費を置いて行ったけれども、もとより興味がないぼくが外に出て何かを食べるほどの労力を厭わなかったかといえば、残念ながらそんなことはなかった。人間は丈夫だからそのくらいで体調を崩すなんてことはないのだし、そもそも一週間程度なら水だけで生きていけるという知識はぼくの頭の中にもあったので、そこは許してほしい。姉には言わないとして。
 とはいえそうして数日の間、少々おかしな食事をしていたぼくの胃には、姉の今までの努力の甲斐あってか、多少の余裕ができていた――つまり、寄り道してなにか食べに行ってもいいかな、なんて、ぼく自身が一番驚いてしまいそうな思いが、生まれたのである。

 そうして、昼に得たドーナッツの話を頭で反芻しながら、ぼくは土曜午後の廊下を歩いていた。
 高校二年生だというのにやっぱり受けさせられる模試のせいで、教室にちらほら見える生徒の影はみんなどこか疲れていて、だけど終わったから、表情だけはまだ明るい。終わってからもゾンビみたいになるには、ぼくたちはまだほんの少し猶予があるように思えていた。中途半端は一番心地がいい。夏の滞った熱と空気で、閉塞した呼吸は生ぬるくて、どこか安心する。二年生で、七月で、うだるように暑い日だった。
 向かったクラスにゆいは居なくて、部室なんじゃないのかと意外にも親切に教えてくれたのは、ゆいと同じ軽音部でギター担当の蕪木さんだった。と、思う。多分。上手にお礼が言えたかどうかを心配しながら、或いは決めたからって思い浮かぶわけでもない誘い文句をあれこれ絞り出しながら、ぼくは廊下から玄関に、文化部部室棟に向かうつもりで、少しく勇み足で歩いていた。廊下に塗られたワックスが、陽光を反射して鈍く輝いていたのが、かるく目を焼いた。

 そうして、みつけた、

「…………」

 ――そうしてみつけた、玄関の向こうで、日の光にさらされたゆいは、いまにも止まりそうに、きれいだった、のだ。

 夏服からのぞくまぶしく尖るように澄んだ肌が、微かに眇められたままどこかとおくを見つめる瞳が、そのなにもかもが、ひとつ、ひとつ、ぼくをどこかへ、連れていく。
 研ぎ澄まされたナイフで薄く切り離していくように、痛みもないまま、ただ刃のつめたく透き通った感触だけ残すように。ゆい、ゆいは、きれい、だった。
 とくん、とくんと冗談みたいに大きくなった心音は、しかしあっというまに、遠くなる。

「どうかした?」
「え……っ、あ、い、いや」

 実際そのときぼくの呼吸はほとんど止まってしまっていたのだ、そう気がつけたのは、ゆいが話しかけてくれた後だったけれど。ゆいは、へんなの、と囁くように笑って、流れ落ちていた髪をうっとうしそうに耳にかける。かかりきらなかった分が、細い細い糸みたいに、汗がにじむ肌にへばりつく。艶めいた仕草が、ゆいを不似合いなまでにおとなに見せる。
 いと、そう、いとだ。歩き出したゆいの後を追いかけながら、ぼくはまだぼんやりしている、まだいっしゅん焼きついた表情が忘れられない頭で、かんがえる。必死に、かんがえる。ゆいが歩く速度は今日だけやたらと早くて、一歩に差があるぼくはほとんど小走りのような形になりながら、それでも、かんがえる。言いたかったことなんてもうなにひとつ覚えていなくたって。冗談みたいに強い日差しに肌が焼けたって。
 早い歩調はぼくらの体温を上昇させて、ゆいは流れ落ちる汗を、タオルも出さずに乱暴に腕で拭った。袖から覗いた二の腕はやわらかく白く、それはどこか、ここにはないもののようにすら思えるほど、きれいなものに、見えて。

「……暑い。」

 ゆいは、凛と澄んだ声を、けだるそうにひずませた。
 目があったときにゆるりと浮かべてくれた笑顔は、はりつめてはりつめて、いまにもぷつんと切れてしまいそうな糸に、似て。



 明確ななにかがそこに見えていたのかといえば、きっとそんなことはなかったのだ。ゆいはなにも言わなかったし、ぼくもなにも聞かなかった。聞いてはいけないような気がしていた、の、かも、しれない。ねえどうして、どうしてそんなに止まってしまいそうなの、なんて、聞けるわけ、が。ぼくらの間に深々と刻まれた、絶対的不理解という溝を飛び越えるだなんて、夢に見ることすらも、おこがましい。
 だいたいにして、それに話せば楽になるよ、とか、ぼくは君の話を聞くよ、とか、思うに今のゆいに必要なのは、そんな言葉ではなかったのだ。ぼくがわかったことといえばそれくらいで、でもなにが必要だったのか、ぼくにあげられるものなんていうのがあったのかは、わからなかった。どこにもいなかったぼくがなにも持っていなかったのは当然といえば当然のことで、どんなに願ったって、ないものはあげられない。
 ぼくはゆいが笑っているのを嬉しいと思うことができたし、ゆいのくれるもので幸せになれるという事をいくらか受け入れつつあったけれども、そのすべては決して彼女を救わない。ここにいるだけでいいなんてことをいくら言ったって、存在そのものを理由にされても、それは存在理由にはならない。ぼくの言葉すべては、君のひずみを治さない。想いは、ひとを救わない。
 ただ生きているというだけでひとはひとを幸せにも不幸にもするし、ぼくにとっての君は前者であったけれど、君にとってのぼくがそれほどおおいなる何かであるとは、とうてい思えもしなかった。ついこの間まで、きちんと呼吸していたかどうかだって、怪しいぼくだった。
 それがこんなに悲しいことだったと、それがこんなにむなしことだったと、せめてでも気がつけたのは、いくらか良いことだったのだろうか。
 わからない。

 駅まで下ったあと、それだけでひどく疲れてしまったように、或いはもうとっくに疲れきってしまっていたように、ベンチにもたれかかって、ゆいはトタン屋根を仰いでいた。多少乱れたハーフアップが背もたれで潰されて、ゆいのまっしろな首筋のあちこちに、無造作にかかる。不安定なリズムで、長い睫がそっと降ろされては、彼女の瞳を濡らした。電車はまだこない。男子学生のグループが、マンガ雑誌を広げて、今月の展開について大声で話している。
 言葉をほとんど交わさないのは、ぼくたちにとってそう珍しいことではなかった。ぼくはもとからそうおもしろい話ができるタイプではないし、ゆいもにぎやかな方かといえば、そうでもなかったから。だから千夏たちなんかからすれば、ぼくたちはずいぶんと楽しくなさそうに見えるらしい。そうなのかな、どうなんだろう。ゆいは、どう思っていたんだろう。
 わからないことも知らないこともあまりにたくさんありすぎて、わかっていないことすら気づいていないことだって、きっとたくさんある。それはたとえばゆいのようなひとにとってはとても恐ろしいことだろうから、ぼくはぼくの知らないところで、いつも怖がらせていたのかもしれない。言われたこと、ないけど。
 でも思うにゆいは、ゆいは痛切で、そして優しいひとだったから、言ってくれることは思っていることの、十分の一にも満たないのだ。それがいいことだとちゃんと知っていて、それが生きていくにはきっとすばらしいことだと、ちゃんと知りすぎているひとだったから。

「ねえ、ハク……CD、そう、なにかCD、貸してほしいんだけど」
「え、あ、ぼくの?」
「うん、そう、ハクの。自分のは、飽きちゃったし」
「う、うん……いい、けど……どんなの?」
「そーだなあ……なんか、うん、よく眠れそうなやつ。そういうのが、いいな」

 電車に乗ってからゆいは唐突にそう言って、ポールにもたれかかりながら、振動のたびに体をゆっくりゆらしていた。ゆいの、雨水色の瞳の向こうを、町が過ぎていく。町が過ぎていく。そうだ、このまま家まで、借りに行っても。断る理由もなく、ぼくは首を縦に振った。電車は一度、大きく揺れる。
 それきり降りる駅まで話をしないままで、ぼくらは並んで無人駅の改札をくぐった。古びた木の柱を、外から飛び込んでくる日差しが焼いて、橙色が滲んでいる。ゆいは、ぼくの手を、取った。だれもいないから。ね。口の中で噛みしめるような言葉が、耳元で囁かれる。
 ゆいの声は、いくらひずんでいたって、世界中のほかのなにとも比べようがないほどに、ふるえるほどに、綺麗だと思った。

 まだ上手にかみ合っていなかったのにゆいは握る力を強めてしまって、ぼくも、ぼくらにもよくわからない形になってしまった手のままで、握り返すしかなくなる。もちろんのこと手のひら同士の間にはすぐにじんわりと汗が滲んで、おかしな形であいた隙間から、空気が通ってひやりと染みた。手を繋ぐのは優しい行為だったけど、ゆいの固まった指先は、おかしな形のせいかぼくの手の甲に触れそうで、でも触れられずにいた。
 それでも家まで着く道がもっと長ければ良かったのにと思ったけれど、変わってほしくないことと違って、変わってもいいことはずっと変わらずにいる。玄関に着いた時点で、ゆいはぼくの手を離した。その一瞬で、ぼくの手はおどろくほど冷えた。そして脱力した。本当は引かれていたのだ。ぼくの手は、ゆいに、あるとないの間で、引かれていたのだ。

「これ、とか」
「ん……へえ、おもしろい名前。ハク、これ好きなの?」
「えっと、好きっていうか……眠れないときは、合うかなって」
「そっか。ありがと」

 ハクって、いろんなアーティストを知ってるよね。うん。こんど、これ弾いてみるから。うん、聞かせてくれる。いいよ、美穂にも頼んでみようかな、アレンジ。そういえば、このあいだ亜紀が、美穂のアレンジかっこいいって、言ってた。こないだやった、そう、チャットモンチーの――。
 玄関先で、照りつける太陽から逃げられもしないまま、ぼくとゆいはぽつりぽつりと話をした。ぼくもいくつかのことを絞り出した。もう、うまく話が、なんて、言っているときじゃ、なかった。あとそれから。あとそれから。ゆいの言葉に応えながら、熱暴走しかけた頭を、必死に回す。ぼくらは会話を続けなければならなかった。ゆいには、いや、たぶんぼくらには、時間が必要だった。
 ずっとできなかったことを、ずっとそこにあったひとりを、ずっとしがみついてきたそれを踏み越えられるだけの、ながい、ながい時間が。

 どのくらい続けられたかはわからない。足が痛くなるよりは長かった。影の形が変わるよりは長かった。でも、ゆいが歩くには、あまりにも、あまりにも、短すぎた。もっといっぱい趣味があったり、もっといっぱい桜や友紀、彼方の話を聞いておけば良かったなんて、勘違いな後悔で、ぼくは唇を噛みしめる。他人の言葉はいつでも羨ましくてまぶしくて、それでもぼくの喉を通れば、それは他人のものでしかないのだから、きっと彼女にとっては遠いだけだろう。必要なのはそれじゃない。たいせつなのはそれじゃない。
 沈黙が流れはじめてどれくらい経ったっけ。彼女が、帰る、と言うまで、あと、どれくらい。俯いて行き場のない視線を落としていたゆいが、突然ふっと顔を上げる。それはゆいの中で渦巻いてふくらんだものが彼女を突き動かした一瞬だったのだろうけれど。

「……ハク、」
「あのさ!」

 ただ君は、それをくしゃりと握りつぶすように笑う方が、ずっと、ずっと上手だった、から。
 
「あの、うち……いま、お姉ちゃん、いなくて」
「え……」
「た、たぶん、明日も、帰ってこないんだ。それで、あと、土曜だし……明日、部活、休みだし……そう、それでっ、だから……ゆい」

 でも、なにもかも止まってしまうその一瞬前の表情を、ぼくに見せてくれたことだけ、それだけでも、嬉しいと思いたかった。
 ぼくは、それがゆるされたことなのだと、たいせつにしたかった。

「うち。泊まって、いかない?」

 だから、止まってしまう君だって、ぼくは、見ているよ。そうしてできたら、もうつかれたね、がんばったね、ばいばいって、それだけでも、言わせて、くれたら。
 誰も救わない祈りのことばが世界に霧散して消える前に、ゆいはとん、とん、と二歩、前に出た。それでぼくらの距離は埋まった。簡単なことだったのかもしれない、本当は。ただそれがどんなにか、死にものぐるいでがんばっても届かないように思える人が、世の中には、いるのだ。むっと熱をもったゆいの頭が、ぼくの弱々しい肩の上で、くすんと揺れた。とろけるように甘い甘い汗の匂いが、鼻孔から脳天までを、すうと突き抜けた。

「……うん、」



 ゆいは憚られたようにではあったけれども、それでもやっぱりめずらしそうに視線をあちこち動かしていた。姉とゆいの折り合いはお世辞にも良いとは言い難かったので、呼ぶこと自体がほとんど初めてのようなものだから、仕方のないことだったのかもしれないが。いちどぼくのお見舞いに来てくれたことはあったけれど、その時は先導が姉だったようだから、ゆっくり周りを見渡す余裕なんてなかったに違いないし。
 そうはいっても取り立てて面白いものがあるわけでもなし、と思っていたら、ゆいはしびれを切らしたように立ち止まって、ねえ、とぼくに声を掛けた。振り返ったぼくは初めにゆいの不思議そうな顔を見て、それから、指差している先を見た。小物入れが、あった。

「ごめん、あの、ひとの家に口出すわけじゃないんだけど、さすがに気になる」
「ん、なに?」
「なんでこんなにあっちこっち、こういうのが置いてあるの?」
「あー……それ……」

 なるほど、もうぼくにとっては慣れたものだったけど、そう言われてみればそれなりに、目を引くかもしれない。そう思いながら見渡した、綺麗に整頓されたリビングのあちこちには、今ゆいが指差しているものと同様に小物入れやら籠やらに入ったお菓子が、点々と置かれていた。むろん、置いたのはぼくの姉である。種類も味も多岐にわたっていて、全部集めたらちょっとしたお店でも開けそうだ。今更気づいたけど。
 といってそれ以上の説明が必要だったかといえばそうでもなく、ああ、お姉さんね、とおかしそうに笑ったゆいは、だいたいのことは察してくれたようであった。とにかく栄養を摂らせようとする姉の姿勢にはほとほと頭が下がる思いだけれども、それと食べるかどうかというのは、また別の話だ。目的の人間の手に取られることもなく、夏の日差しと気温のもと溶けてしまったキャンディは、しかしゆいの手に取られる。ゆいは口に放ってから、しかめつらで指をなめた。

「あ、しかもこれ、メロン味……私、メロン味の飴って嫌いなんだよね」
「なんで緑取っちゃったの、それ……」
「マスカットかなって思ったんだけど。うーん、ハク、もらってくれない?」
「う、えっ?」
「……じょーだんだよ、じょーだん」

 おどけて言ったゆいは、いたずらっこみたいに肩を竦めてから、座ってもいい、と聞くが早いか、ソファーに身体をうずめていた。すっかり引っ掻き回された気分のぼくは、だけど何か言おうと口を開いたその瞬間に、ゆいがぼくの薄い青のクッションを抱えて微笑んでしまったので、ぱくりと口を閉じるしかなくなる。
 手招きされたので隣に座ると、つくりもののメロンの匂いが、濃く漂った。あますぎるから、きらい。呟くように言ったゆいは、膝を抱えるかっこうでクッションを挟んで、細い溜息をつく。ほんのワンフレーズだけの鼻唄。ぼくの知らない歌だった。
 もう少し聴いていたいと思ったけれど、ゆいはすぐに黙ってしまう。とりつくろうように、というにはいくぶん穏やかに、ハクのにおいがする、とちょっとだけ笑ってくれた。ちょっとだけ。

「ハクって、好きな食べ物とかって、特にないんだっけ」
「うーん、まあ、そう……かな」
「嫌いなものは、たくさんあるのにね。そのほうがハクらしいけど」
「……褒められてるの、ぼく?」

「うん。そういうハクが、好き」

 思うにその時ぼくらの会話は完全にかみ合っていなかったのだけれど、ゆいはそんなこと気にもしないで、ぼくの耳元をくすぐるように撫でた。効いてきた冷房で冷えはじめたのか、指先は少し冷たくて、爪の艶やかな感触が妙に残る。ひやり、ひやりと、それはどこか、あまい。あますぎる。メロンのキャンディみたいに。
 くすぐったくて身をよじると、それがよけいにおかしかったようで、ふっと笑みを深くしたゆいが、髪を引っ張ってぼくの頭を寄せた。そのまま完全に遊ばれる体勢になってしまって、どうもぼくは、ゆいから逃げるのが苦手らしい。いや、まあ、得意と思ったことも、ないけど。ひとにさわられる、のは、好きじゃないような気が、していた。前までの話。自分がそこにいると人の手を通して確認できるのが、思うにぼくは嫌いだった。

「わー、ハク、耳ちっちゃい……あっ、待って待って、ここんとこ」
「うぁ、ゆ、ゆい、くすぐったいってば……っ、ひゃ」
「このさ、耳の上の、生え際のとこ! すごいよハク、ここだけ赤ちゃんみたい、ふわふわしてる!」
「ゆ、ゆいぃ……」

 しかして、しばらくは離してもらえそうになくって、ただぼくはそれがそんなに悪いことじゃないんだってことは、わかっていたのだ。とびついて抱きしめて転がって、ゆいはくすくす笑いながら、ぼくに触れる。
 さっきから耳にかかる吐息が、どうもぼくの奥の辺りをがくがく揺さぶるのは、ちょっと勘弁してほしくはあった。でも、それは、ゆいに触られるのがくすぐったいのと同じように、がまんするのも少しだけたのしい、きっとそんなことだったから。

「……おかえしっ」
「わ! って、ちょっと、ハク……っ、だーめ、もう!」



 ところで、泊まりに来てほしいと言ったくせに出来合いの弁当を買うというのもどうかな、なんて頭の他所で考えていたぼくにゆいが何を言ったかといえば、ご飯は私が作ってあげるね、なんてちょっとばかり本末転倒もいいところな意見だった。それをぼくなりに懇々と諭してみたつもりなのだけれど、どうもゆいはそういうところ強情で、ぼくの手を引っ張って買い物に出てしまったのだから困った話。料理は得意な方じゃないから、って、それなら、無理しなくていいのに。言葉とは裏腹に、ゆいの顔は終始楽しそうであった。

「で、なんでオムライス……?」
「んー、簡単だから。自慢じゃないけど、卵だけは上手に焼けるんだよ、私」
「えっと、うん、見た目はすごくいいと思うんだけど」
「味も大丈夫だよー、塩コショウとケチャップしか使ってないし……はい」
「……う、うん」

 あ、やっぱりこうなるんだな、と思いながら――えらく山盛り差し出されたおかげで、それなりに心の準備が必要だった――ぼくは鳥の子供か何かみたいな気分で口を開ける。まだ湯気がもうもうと立っているチキンライスからは、ぷんとケチャップの匂い。姉ほどではないにしても、野菜は一生懸命細かく刻んであって、ちょっと驚いた。がんばったんだよー、とふざけたように言っていたけれど、本当にがんばってくれたんだ。申し訳ない、ような。でも、それよりは、うれしい、ような。
 久々に口にするまともなご飯は、量のせいもあったのかなんだかうまく噛めないし飲み込めないしで、何の味がしたかといえばケチャップの味がした。感想は期待していないらしいゆいは、ぼくが少々苦労しながらどうにか喉を通したのを見計らって、あと二口ほど問答無用で差し出した。このまま全部食べさせる気なのかな、もしかして。それはちょっとなんというかぼくがもたないし、なによりゆいの分が冷え切ってしまうから、という心配が、ケチャップで塗りつぶされていきそうな頭の中をぐるぐるめぐる。
 けれど、ほんの数秒後に、ぼくの心配は解消されることとなった。ただし、少々不本意な形で。

「……ふっ、く、くくっ」
「んぐ……えっ、な、なに、ゆい?」
「ハクって、さ……ふふっ、ほんと、食べ慣れてない、って感じだよね」

 肩を震わせるくらいの笑いを、どうにかやっとこらえてます、といったふうなゆいは、ぼくに向かって手を伸ばす。目がかるく潤んでいるのは、たぶん、こみあげているせい。ただそれですら、ぼくのどこかをくっと跳ねさせるには十分だった。おもうに、彼女はいつも、ずるいのだ。ずるいくらいに、きれい、なのだ。
 頬に触れたかどうか、わかったのは一瞬。まばたきよりも短い間のこと。ひとしきり笑って満足そうに頬杖をついたゆいは、指先にのっかったそれを、オレンジ色の粒を、少し大仰な仕草で、それこそぱくっ、といったふうに、くわえてみせた。その一連の間、ゆいはじいっとぼくを見上げていた。部屋の灯りで煌く瞳が、ぱちり、とひとつ、こどものような、でも目を惹くには十分なまばたきをする。だから、君の、目は、ずるい。
 今度の今度こそ、かっと頬が熱くなる。たぶん、すぐにばれた。だって他にゆいが笑った理由、ぼくは思いつけなかった。

「かーわいーいね、キミは」
「ゆい……ばかにしてる、でしょ……」
「してないよー。」

 うそだ、絶対、してる。
 それきり、早々に自分の分を食べ終わったゆいは、普通の量の食事に慣れないまま時間のかかっているぼくを、ずっと頬杖をついたまま、楽しそうに眺めていた。なにがそんなにおもしろいのかはちっとも分らなかったけれど、もう絶対ほっぺたに残しなんてしないように、とこわごわスプーンを口に入れるぼくは、ひょっとすると、おかしく映っていたのかもしれない。
 ところで、定型句みたいに聞きはするけれど返事は期待しない、何か食べたいものある、なんて質問に初めて間髪入れず答えが返ってきて、用事から戻ったばかりの姉は相当驚くことになるのだけれど、それはまたちょっと、別の話だ。



 それからお皿を洗って――さすがにぼくがやった――のんびりとテレビでやっているバラエティー番組を流し観て、一時間ほど経ってからのぼくがいったい何をしていたかといえば、お風呂上がりだというのにぼんやりとしか血が巡っていないような気すらする頭を、それでも必死に回していた。せっけんの位置と、シャンプーのボトルの見分け方と、あとなにか、他に、あったっけ。
 もともと四人家族のためにつくられた家の脱衣所はそこそこ広いはずだけれども、家の中で活動しているのが二人だけで、ぼくはただぼうっと突っ立って頭だけ悩ませていたのだから、廊下から脱衣所の戸と、脱衣所からお風呂場への入り口という二つの扉を隔てていてもなお、たとえばシャワーの音が響いてくるのは、当然といえば当然のことだった。だけど、さらさらと軽い音の癖に、それはぼくがちっとも予想していなかったほどに、ぼくの深いところをぐらぐら揺らすのだ。風呂場の床に跳ね返っている音だとかは、自分がいつも聞いているそれとちっとも変らないはずなのに、なんでか、なんでだか、へんに、響くのだ。
 だからぼくとしてはできるだけお風呂場には近寄らずに、ぼくの部屋をちょっと片づけたりなどしていたかったのだけれど。そうそれが、さっきからぼくが抱えている、懸念事項だった。

「ねえハク、タオルどこー?」
「あっ、え、えっと、洗面台の右……草編みの、ラックみたいな……その、二段目」
「二段目? わかった。桃色の方、使っていいんだよね?」
「う、うん」

 ともかく、この調子なものだから。
 最初にくぐもった声で呼ばれたときから、わりと定期的に質問が飛んできて、ぼくは結局ゆいがお風呂から上がるまで、脱衣所前の廊下から動くことを、許してもらえなかったのだ。
 脱衣所からの引き戸を開けて、首からかけたタオルをほっぺたにとんとん押しつけながらゆいは出てきて、だけどぼくはそれをちらっと見ただけで、あとは視線を叩き落とした。まさに叩き落とす、って感じだった。反射的、というのも、きっと近かった。だから、ゆいが笑っていたような気がしたけれど、本当のところはどうだか、知らない。

「……ハク、こっち来て」
「へ? え……な、なん」
「まだ濡れてるの……だから変な癖ついちゃうんだよ、朝」
「う、うん」
「ハクは、ちゃんとしてればかわいいんだから……あっ、こら、動かない」
「だっ、だって、い、痛い、ゆい、いたい」

 なにそれ、子供みたい。言ったゆいは、今度こそわかった、吹き出してた。へんなくせ、っていうのは、普段の髪型のことを言われているんだろうか。邪魔っけだからてきとうに結んで、でも切るのは面倒だから伸ばしっぱなし。それがぼくの髪型だったけれど、姉がついに鋏を持とうとしているので、もしかするとこれから、何か変わるのかもしれなかったけど。
 それにしたってこんなにごしごししなくてもいいだろうに、ゆいはぼくが痛がっているのをちょっと面白がっている節があって、結局タオルを持ってもぼくらはしばらくじゃれて暴れた。せっけんの匂いがそこいらじゅうに飛び散る。柔らかい匂いなのに、なんでせっけんの匂いって、こんなに強いんだろう。あっという間に、むせかえるほど部屋の中の空気を塗り替えた、泡。泡。泡。

 結局ゆいはぼくの髪を、およそ姉にしか役立たせてもらえていなかったであろうドライヤーなるものまで使ってきっちり乾かすまで満足せず、おかげでぼくはすっかりくたびれて、全部終わったころにはソファの上でなめくじみたいに寝転がることになった。お風呂に入ったすぐ後に暴れたから、よけい体も重い。
 傍らに満足そうに腰かけているゆいが、それでもなんとなくしめっぽいぼくの髪をいじって遊んでいてくすぐったかったけど、もう、暴れる気力は、なかった。つまんで流れ落ちるまでほったらかして、水あそびみたいだと、ひとりごちていた。なめくじのぼくは、這い回るように寝返りを打って、ゆいのほうを見上げる。
 下から見上げるゆいの瞳は、水底から見上げた曇り空と、よくにていた。

 テレビをつけていればよかったと思ったのはそれから数秒もしないうちのことで、どうしてかというと、ゆいの手が、ぴたりと、止まったからだ。
 指先から最後の最後でこぼれおちた髪が、目のあたりにぴしぴしぶつかって、それで二度瞬きをしているうちに、ゆいの手は、ぼくの両目の上、柔らかい毛布みたいに、ふわりとのっけられた。視界を遮る意図があったようには思えなかったけれど、結果的にぼくは暗闇だった。自分で目を閉じるのと、人に目をふさがれるのとでは、見えるものが、少し違う。そんなことを、考える。ゆいの手はほかほかしてて、しめっぽくて、やわらかかった。

「……ハク」
「うん?」

 彼女の顔は見えなかった。

「ありがと、ね」

 せっけんの匂いが濃くなって、額のあたりが一瞬つめたくなったのは、君の髪がふっとそこを包んだからで、だけどぼくは。
 ぼくは、君がぼくの額にキスしたあと、いったいどんなふうにきれいな顔をしていたかってこともわからなくって、わからせてもらえなくって。ただ、君の吐息がひりつくみたいに熱かったから。
 それが、ほんのすこし、かなしかった。



 寒いくらいに冷房を効かせた。きっと風邪を引いてしまうと笑ったゆいは、だけどリモコンをぼくの手から奪い取ったきり返してくれなかったし、温度を上げたりスイッチを切ったりする様子が見られなかった。ぼくも、別段それを彼女に強制はしなかった。
 ぼくのベッドの上にあたりまえのように座って、かたちのいい両足をぷらぷらさせていた。姉のだからか、ゆいに貸した短パンはちょっと大きそうだった。でもぼくのだときっと小さすぎるだろうし。ゆいはやっぱりぼくの知らない歌を歌っていて、空気がもう乾燥し始めているのか、声は少しかすれはじめていた。

「水とか、持ってくる?」
「んー? うーん……うん」

 鼻唄みたいに返事をしたゆいは、あどけなくて、へんにどきどきした。

 戻ってくると今度は寝転がってぱたぱたさせながら歌っていて、思うに今日のゆいは、やけに行動的だった。体育やなんかだと――どういうわけかぼくらの高校の体育は、やたらめったら厳しくって、体育会系だった――いつも怒られるか怒られないかのぎりぎりでサボるのが上手だと、同じクラスの人は言っていたのだけれど。今日のゆいは、飛んだり跳ねたり暴れたり、とにかく、良く動いていたと思う。 
 水をベッド脇のテーブルに置くと、ゆいは目だけこっちにやって、ありがとー、と間延びした声で言った。ちょっと眠たいサインだったのかもしれないし、少し早いけどいい時間ではあるから、と思って、電気を消す。週末課題のことは、いったん忘れておこう。結露でもしそうな窓の端っこで、静かにカーテンが垂れていた。今日は、月が明るい。防犯のために閉めるほど、ここいらは物騒でなかった。退屈なくらい安穏だった。
 ここで寝るかどうかということを確認したらなんだか怒られそうな気がして、とりあえず隣で丸まった。左を向いて寝る癖がついていてよかったと思う。背中のほうで、ゆいはまだぱたぱた歌っていた。なんの歌なのか、聞いてもきっと教えてくれない。そういう妙な確信があった。歌詞がないから調べようもない。知りたかったのだろうか、ぼくは。

「うわっ」
「んっ、ハク、かるいなー」

 と、突然くるっと世界が回ったかと思うと、ゆいの方を向かされた、だけでなく、抱き上げられた。そう、抱き寄せられた、じゃなくって、抱き上げられた。ゆいの上に、そう、ほとんどひっぱりあげられるようなかたちで。気づいたらぼくはゆいの上に居て、見下ろしている立場だったというのに、ぽかんとしているのはぼくの方。
 手の置き場を考える隙は一瞬しかなくって、迷う間もなく、自然とゆいのからだを挟む形でぼくはベッドに手をついた。シーツにはっきり皺が寄って、ぎしり、と静かに軋んだのが、やけに耳に残る。ゆいはぼくの首の後ろで手を組んでいて、強引に引き寄せることはしなかったけれど、放してくれるつもりもなさそうだった。ゆるいゆるい、ゴムの首輪。人工的な冷たさが充満する中で、ゆっくり、ゆっくりと、甘やかにぼくを侵食していく、ゆいの、吐息。
 くすりと、せっけんの湿った匂いをゆさぶるようにして笑ったゆいは、いまに、いまにこなごなに砕けてしまいそうなほど、きれいで。
 
「よし、ハク」
「な……に……?」
「キスをしよう」

 たった今思いついた最高のいたずらを話すみたいにして、ゆいはそう言ってみせた。きすをしよう。ゆいの呼吸が幾分深くなったことを、ぐっと首の後ろにかかる負荷が大きくなるのを感じながら、ぼくはぼんやり、みていた。きすを、しよう。何度も頭の中で繰り返す。くすぐったくって、優しい言葉だった。
 ゆいの体を挟むようにしてベッドの上についていたぼくの腕はなんの前触れもなくぽっきりと折れて、肘がシーツをくしゃりとゆがめるのと同時に、ぼくらの温度は重なった。熱っぽいくちびるから、ふあ、と息が漏れる。首の後ろにあったゆいの手が、ぼくの髪をかき回すみたいに、頭を抱えこむ。いっかい。にかい。もっと、もっと、たくさん。

「ふ……っ、ん、」

 くぐもった声と、シーツがぐしゃぐしゃになる音だけが、秘めやかにこだまする。その先の行き方も知らなかったけど、ぼくが上だったから、ぼくがどうにかするしかないと思った。もっと、って、だって、ゆいの目が、いうんだ。本当かどうかはどうでもいいけど、乾かして整えてくれた髪をゆい自身がぐしゃぐしゃにするあいだ、とにかくぼくは、ゆいの柔らかなくちびるのうえ、はしっこだったりうえのほうだったり、とにかく、とにかく思いつく限りあっちこっちに吸い付いた。
 感触を分け合ったり温度を分け合ったりするにはきっともっと便利な方法があると思う。唇はそんなに敏感で器用な器官じゃないから、ぼくらの目的だってきっとそれではないと思った。そんなのより、頭から髪からわしづかみにしてくるようなゆいの手の方が、ずっと確かで温かかった。でも、それでもできないことがあるとしたら、普段じゃあ絶対に分け合えないようなものを分け合うために、それはあるのだと思う。たとえば。

「……っ、はあ」

 たとえば、呼吸。たとえば、取り返しがつかないくらいに大きくなる、心臓の音。いきるためのそのいくつか。
 できるかぎりのすべてをゆいと分け合った。ひりつくほど寒い部屋の中で、でも気がつけばゆいは汗だくだった。汗だくで、苦しそうで、額に前髪がぺったりはりついていて、むせかえるほど甘い匂いがして。そいで、そいから、君は、きれいだった。

「んぅ……ハク、ね」
「ふぁ、え……?」
「みず。のみたい」

 こなごなに笑ったゆいはテーブルの上で静かに揺れていたコップを指差していて、ぼくのしびれた頭は、しかしだからこそ、どうすればいいかをおどろくほど瞬時にはじき出す。ゆいはずっとぼくの髪をつかんでいた手を放して、腕で両目を覆った。荒くなっているはずの息を、だけど飲み込むみたいにふっと吸い込んでいて、はりつめたゆいの体は、ぼくの体の下で弓なりに反った。くらくらする、しぐさ、だった。
 コップを取って水を口に含むと、そう長い間ほったらかしていたわけでもなかったのに、それはもうなんとなくぬるくなっていて、ひりひり熱い口の中では、あっという間になくなってしまいそうにも思えた。コップを置いてから見ると、腕を降ろしたゆいが、ゆったり手招きするような目線をこちらにやっていた。ぼくは、引っ張られるように、ゆいの上へ、もどる。
 いそがないと、すぐにでも、飲み込んでしまいそう、だった、から。そんな、ぼくにとってはおそろしい失敗がぼくの背中を蹴り飛ばして、ゆいは小さく笑ったようなかたちでぼくのくちびるを受けた。口の中でなんだかぬるりとしている、水なのかそれともほかの、もう少しなまなましいなにかなのか、よくわからない液体が、ゆいの中へ吸い込まれていく。近くて、近すぎて、ゆいの喉がぐっとそれを飲み込むのを、ぼくはあまりにもはっきりと感じ取ってしまった。

「ん、っ」

 あ、おおすぎた、と、ぼんやりした頭で、思う。ゆいの唇の端から、どこか粘性を持っているみたいに、つ、と、道筋を作りながら、おちていく。おちて、いく。見ていたときから近づいたときまでの記憶を、ぼくは持たない。舌先にねっとりと苦くて甘い、あとすこししょっぱい味が染みた。ゆいの味だ、と思った。
 おおすぎたのは、きっと、それだけじゃなくって。しょっぱいのがひどく強くなったから、なんだろう、と思ったら、それはゆいからこぼれた雫だった。ぼくは乾ききったなにかどうしようもない生き物のようで、ゆいは喉を震わせながら、ぽたぽた、ぽたぽた、いくつも雫を流した。

 ――そう、これが、水なのだとして。

「っふ、ふ」
「……ゆい?」
「ハク、っ、かわいい、ね……こいぬっ、みたい、で」

 呼吸と心臓とそれから水と、全部分け合ったぼくらは、たとえば、二人で生きる、なんてことが、そんなことが、できたでしょうか。
 ひとりでも、ひとりでも本当は生きていくことはできると、そんなことを知りすぎた君と、泣きながら笑ってしまうような君と。
 ぼくは、離れてはいけないなにかのように、そうでなければ生きていけないなにかのように、なれたでしょうか。


「はあ、もう……つかれちゃった」
「うん……うん、だから」
「んー?」
「……寝よっ、か、ゆい」

「――うん。そだね、ハク」

 ねえきっと君は眠れていないんだって、ぼく、気づいてたよ。眠れない夜を知らないままでいられたら、きっとゆいの瞳は、こんなにも痛切にきれいじゃなかったろう。こなごなに砕けてしまいそうなほど、きれいじゃ、なかったろう。向かい合った、濡れて濡れて硝子みたいにきらめく瞳を、ぼくは両手で覆い隠した。どうすれば生きていけなくなるだろうと考えていた。あとどれくらい、わけあえば。ともかく、ともかくどうすれば、ぼくらは、ひとりでは生きていけなくなるだろう。
 どうすれば、ぼくらは、ここでふたり、生きていけるように、なるだろう。

「ねえ、明日早起きしようよ、とびっきり」
「とびっきり……何時、くらい?」
「五時くらい。そいで、始発に乗るの。始発電車に乗ってさ、終点までいくの」
「終点……そう、だね、いつも、行かない方の」
「そう、反対側。だーれも、行かない方。きっと、すっごい田舎だよ」

「うん……うんっ、それでっ、ゆい、」

 どこかに行きたかったんだ、どこかを探していたんだ。ここで止まってしまいそうな、壊れてしまいそうな君は、きっとどこかを探していたんだ。ぼくも、そうだった。どこかに行きたかった。「ここ」じゃないどこか。もっとうまく呼吸ができそうな、もっと上手に眠れそうな、泣かなくてもすみそうな、どこか。

「それで……ゆ、夕暮れになったら、電車に、乗ろう」
「…………」
「夕焼け、このへんけっこう、綺麗だから。い、一緒に見て、それで」
「……ハク、」

「それでっ……また! また、泊まりに、来てよ」

 それでもぼくらは、いつだって、どこにだって、行けなくって。
 朝なんて来なくていいって願っても、眠れない夜でも、朝は来る。知らない歌を歌っても、か細く笑っても、逃げられない。ぼくらはここにいる。どうしようもなく、ここにいる。

 ゆいは、じっとぼくの方を見て、それから、ぼくを抱え込むように、抱きしめた。さっきまであんなに暑かったのに、いや、さっきまであんなに汗をかいてたからかな、つめたかった。ゆいの身体、すごく、つめたくって、掠れた匂いがした。マスカットのキャンディを、明日になったら探そう。そんなことを思う。君の呼吸を、心臓の音を、ぼくからはどうしようもなく遠い遠いそれを聞きながら、ぼくは思う。

「……ハク。私、ね」
「うん」
「たまに、すごく、苦しくなるんだ。ごめんね、理由、なんにもない、たぶん。でも……たまに、すごく、」
「うん。」

 長い話を、しよう。一晩中、長い長い話をしよう。
 ぼくらはここにいるから。どうしうようもなく、ここにいるから。


 ここにいて、君を、好きでいるから。






〜あとがき〜

またあした。

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