「Supernova」




 ほとんど食べ物を口にできなかった無言の夕飯の後、姉は心許ない歩き方しかできないぼくを、肩と腕を優しく支えながら、ゆっくりと部屋まで連れていってくれた。ぼくは何も言えなかったし、姉も何も言わなかったけれど、細波のような沈黙は、ぼくを少しだけ安心させた。とかく煩いのにぼくは耐えられなかった、のだと思う。
 部屋に着くと扉を開けて、ぼくを中へと促しながら、姉はそのとき初めて口を開いた。とにかく、今日はゆっくり眠って。姉は少し掠れた、ひどく優しい声でそう言った。ぼくはそれを背中で聞きながら、軋む体をベッドの上に投げ出す。糸が切れた人形のようにぼくは倒れ込んだ、足が限界、立っているのが限界。眠たい、といえば眠たかったのだけれど、それはどちらかというと目を閉じたい、意識を何処かへ飛ばしてしまいたいという、どこかか空っぽな願いだった。
 背中にそっと布団が掛けられる。準備のこととか、そういうことは考えなくていいから、ゆっくり休んで。姉が言う。わたしがそばに、いるよ。虚ろに部屋の壁を見つめるぼくの耳元で姉は囁いて、一度ぼくの頭をくしゃりと撫でた。前髪が、ちょっと長いね。目に悪いから今度切ってあげるよ、と続けて、姉はふと立ち上がって、部屋の外へ。柔らかな足音がそっと鼓膜を揺らす。大丈夫、琥珀のことは、私が守るから。ずっと、ずっと守るから。まるで誓いみたいな呟きだった。そんな、切実な響きをもった声。
 扉が閉まる音と一緒に、姉のそんな言葉が、冷たい部屋のの中かたり、と落ちるのを、ぼくはぼんやりと聞いていた。電気がそっと消される。
 暗い部屋の中、暫く部屋の壁をじっと見る、いや、見るというのはたぶん正しくない、ぼくの濁った瞳はただ、白い白いそれを映していた。頭の中には何の像も結ばれていない。ぼんやりと、ぼんやりと。ぼくは闇に包まれた部屋の中を見渡す。物理的な話ではなく、ここにはなにもなかった。ぼくが呼吸をする場所だった。それだけだ。よくよく考えてみればぼくはいつだって空っぽで、この部屋はまるでぼくの世界そのものだったのだ。ぼくの世界、若しくは、世界にとってのぼく。空っぽな中で、水みたいに静まり返ってるその中で、ぼくは呼吸をする。まだまだ夜は寒かった。冷たい空気が、肺の中をひりりと通っていく。
 この見慣れた部屋の壁を、もう見ることもなくなるのかな。ふと、そんなことを考えた。先刻の姉との話を、思い出していた。どこかとおくで、おねえちゃんと、ふたりで。ここにいたくないっていうなら、ひとりになりたいっていうなら、それでいい。だから。姉の言葉は疑問の形を取っていたけれど、そもそもぼくに選択肢など残されているはずもなく、きっと姉は正しくて、ぼくはそうしなければならないのだろう。
 ずっとここに居てはいけなかったぼくが居続けていた時点で、それはおかしいことで、それは不自然なことだったのだ。だから姉の言うとおりにするのが、自然なのだ。ぼくがいつもなんとなく感じていた生きにくさのようなものは、多分にぼく自身の中で矛盾を抱えていたのが原因であり、ぼくはそうして、周りと自分を削っていた。ここに居てはいけないという想いで周りを拒絶する「ぼく」が居ながら、生きるために希薄ながらもそこに在り続ける「わたし」が居て、それは奇妙な矛盾の中でぎしぎしと動いていた。
 姉の言うとおりにすれば、その矛盾には確かな決着が付く。ぼくはぼくをもう許せない、ここには居られない、苦しくて傷つける、なら、そんな場所は、捨ててしまって。もう自身を守るための「わたし」なんてものを生み出す必要もない、希薄どころかぼくはそこに居ないのだから、誰も泣くこともない。最初からそうすべきだったと思えるほどに、姉が言っていることは正しくて、きっと優しいことだった。
 ぼくは世界なんか選べない、ぼくは、ぼくが居てはいけないここを、選ぶことなんてできないのだ。世界との希薄な繋がりをこれ以上ぼくは持つことなく、ぷつりと。

 うん、そう、あした。
 あした、明日になったらぼくの考えを姉に話そう、といっても姉は殆どわかっているみたいだったけれど。とにかく今日は眠って、それで、明日。またいつものようにきっと空は明るくなる、ぼくがここにいてもいなくても、違う朝なんてきっと訪れないから。だから、もう行こう。姉の言うとおりにしよう。
 ぼくのちいさなちいさなさようならは、すぐになにもかもに埋もれて消えていってしまうだろうし、きっとそれでよかったのだ。思って、ぼくは、少し暖かくなってきた布団の中、昆虫のように身を丸めながら寝返りをうった。さっき姉に梳かれた前髪が、ざらりと目元にかかる。ぼくは、ぼくのこの黒い雨がいつまでも止まない瞳で、いつだって小さくなって震えながら、ぼくが居てはいけない世界を映していた。それはいつも濁っていて、それはいつも歪んでいて。もっとも歪んでいるのはぼく自身だったのだから、ぼくの瞳に映る世界が綺麗だった事なんて。

「…………」

 なんて、ない、と思いかけたのが、ふと止んだ。
 淡い淡い、だけど痛切な。記憶、というはっきりしたかたちを持たずに、もっと朧気に、ゆらゆらと、ゆらゆらと、それはぼくの頭の中に浮かび上がる。それはどこか掠れた歌声にも似ていた、深く深くまで染み渡っていた、いつの間にかぼくの手の中にあったもの。ぼくの中に、確かに在ったもの。足音、ふと止まって、少し冷たい指先が触れる。一瞬明るくなる世界。涼やかな笑い声。慌ててぼくは、離れて、だけど。

 ――もう、ハクったら、そんなんじゃ前、よく見えないでしょ?

 きみのそんなこえがきこえたら、ぼくは、ぼくは、うごけなくなるんだ。

 そうか、ゆいだ、ゆいがそうやって前髪を払いのけてしまったとき、ゆいが世界を見せてくれたとき、ゆいがそこに居た時は、不思議と、わけがわからないくらい、世界は綺麗だった。ああ、こんなに綺麗だったっけ。ちゃんと覚えてるんだな、ひとつひとつ。緩やかに曲線を描いて笑っているゆい、風に乗せられてきた甘い匂い、廊下の喧騒、窓から射し込んでいた日差し。
 全部をちゃんと認識していたわけじゃないのに、それらすべては彼女を中心にして、ぼくの頭の中、あまりにも鮮明に描き出されていく。そして、それはやっぱり、きれいだったのだ。

 寝返りを打つ。衣擦れの音、だけどぼくの頭にその音は響いてこなくて、何が響いてるって、多分ゆいの声だった。唄、唄ってたな、さいしょだ。ゆいが一番好きな曲。今もそうなんだろうか。今は、ゆい、何を歌ってるんだろう。あの弱くて、それでいてとても強くて、優しい声で。
 ゆいの唄を聞きたくて、ゆいに会いたくて、なんて、そんな酷いことを考えて、ぼくは毎日、軽音部の部室に通っていた。いくつもいくつも、テープを無駄にしながら。そんなこともあったっけ。いろんなことを考えないようにしてきたのはいつからだっただろう。ゆいを一生懸命消そうとして、寧ろ、消した気でいたのは、いつからだっただろう。
 ぼくにとってそれは簡単なことのはずだったんだ、ずっと一緒に居る時間が長い同じ部活の皆だって、クラスのみんなの事だって、お母さんの事だって、ぼくは切ってきた。でもさ、生きるために、生かすために、希薄であろうとしたのが君の前では破綻してたんだ、だけどぼくにはどうしようもなかった、あれは、ねえ、どうしてだったんだろうね。
 どうしてぼくは毎日毎日ゆいの所に通ったんだろう、どうして廊下ですれ違ったときに必死に挨拶なんかしようとしたんだろう、どうしていつか遊ぼうなんて話をしたんだろう。君の笑顔を、声を、どうしてこころから追い出せなかったんだろう。なんとかしなきゃってあのときちゃんと思ってたっけ、それすらも怪しいんだ、ぼくは、ちゃんと思えてたっけ。
 布団がぼくの体温で気持ち悪いくらいに温まってきて、それはぼくに絡み付いて、なんだかとても熱かった。気味が悪いようにも思えた。目は閉じているはずなのに、どういうわけかちっとも眠りがやってこない。息だけが少し苦しくなっている。時計の針はいつの間にか随分と回っていた。変だな、なんだか変だ、と思いながらぼくは一度目を開けた、無機質な部屋の輪郭線だけが見えた。ここには綺麗な世界なんてないのに。もうぼくは全部切ってしまおうと思ってるのに。

「……なん、で」

 情けないくらいに震えた声が出た。自分でも驚くほど弱くて脆くて、泣きそうだった。涙は流れない。それは悲しみじゃないのだ、それだけ、なんとなくわかる、けれども。
 ぼくはきっと悲しいのではないのだ、虚しいわけでもない。だけど、泣きそうだった。

 部屋の中は寝返りを打つときの微かな衣擦れ以外は無音で、暗闇に閉ざされた部屋の中で目に映るものはなくて、だからなのか、鮮やかに描き出された一つ一つは、ちっとも消えてくれなかった。音の粒が弾けていくように、好き勝手に暴れまわるように、空虚な部屋の壁で、天井で、床で、窓で、いつか綺麗だった世界がふと浮かび上がる。どうしてだかちっとも忘れられなかったことが、ぼくがたった一つちゃんと切れなかったものが。


『ねえ、番組作ってるのって、全部ハクなんでしょ? あれ全部、ひとりで?』

 編集はね、と小さく頷いてみせたら、君は一瞬呆けたような顔をしてから、凄い、なんてどこかふわふわした声で言ってた、凄い、凄いねハク、あんな凄いの、ひとりで作れるんだ。撮影とか素材集めは手伝ってもらったし、ナレーションも出演も全部部員だからひとりってわけじゃないよ、ってぼくは付け加えたのに、ゆいはそれでも凄いって言って。
 皆ぼくが放送部だってことすら知らないし知らなくて良かったのだ、目立つ仕事は全部千夏や美緒や亜紀がやってくれる、認知されるのも賞賛されるのも彼女達だけで良かったのに。ゆいはいつだってぼくのことを褒めてくれたんだ、なんだかだんだん上手になってるね、なんて、三年生しか先輩がいなかったから、ぼくは言われないはずだったのに。そんなぼくのことをどうして一つ一つゆいはしっかり見ているのか、まだ彼女に会ったばかりだったぼくは全然わからなくて、ただ、ただ、どこかが、少し温かくなるのを感じていた。

『ハクっ……いた、ねえ見て、ギター!! ギター、買ったんだよ!!』

 その日は暑かったのに、ゆいは走ってぼくのクラスまでやってきた。重たいエレキギターを大事そうに抱えて、額に薄っすら汗を滲ませて。嬉しそうな声は、ぼくまで真っ直ぐ響いてきた。クラスの皆がぼくとゆいに注目していた、あの時初めてぼくはあんなに多くの人に視認された、と思う。ゆいがいたら、なぜか、ぼくも居ることになるのが、多かったんだ。
 だってゆいは有名だったから、それから人気だったから。そうだ、君はそんなの関係ないって言ったけど、軽音部のボーカルの子、って言ったら、ちゃんとゆいの名前を知らない人でも、知ってたんだよ。だからほんとはぼくなんかが、ってぼくはいつも思っていて、その日もぼくは少しだけゆいに着いていくのを躊躇った、でもゆいはぼくの手を握って放さなかった。廊下の隅っこまで来て、きらきらした目でゆいはぼくに青くてぴかぴか光ってる新品のギターを見せてきて、どう、なんて、仄かに頬を赤くしながら、ゆいは、笑っていたのだ。


――ねえ、なんで。


『来年はさ、二人で夏祭り、行こうよ』

 また皆から自分を切り離して、どうにか呼吸していたぼくの元に届いたのは、やけに唐突な一通のメールだった。ほんとにびっくりしたんだ、今から深堀駅まで来れる、なんて。だって深堀はそもそもゆいが使うはずのない駅だし、その駅がぼくの家の最寄であることも、話したことがあったかなかったか、くらいだったのに。色んな疑問はあったけどなんだか急いで行かなきゃいけない気がして、メールが届いてすぐに走って家を出たら、君がそこに居たんだ。両手に赤い林檎飴を二つ持った君が、くすりと笑っていたんだ。
 お祭り行ったからおみやげ、とか、食べながらハクの家まで歩こうよ、とか、そのあとのゆいの言葉も全部びっくりすることばっかりで、ぼくはついていけないまま、甘い甘いそれを齧った。ね、来年は一緒に、って君は繰り返すように言った、絡めた小指が熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうだったのを、きっと君は知らないんだろう。知らなくて、いいんだ。

『文化祭にね、出るんだ……その、ハク、は……聞きにきて、くれる?』

 秋の初め頃、どこか不安そうに言ったゆいに、ぼくは行くよ、と答えた。放送部はそもそもステージ発表の様子を映像に記録しなきゃいけなかったから、聞きにいくもなにも、元々そこにいるけど。だけど放送部の仕事だからとか、そうじゃなくて、そういう意味じゃない返事がしたくて、ぼくは行くよって言ったんだ、ゆいの唄を聞きに行くよって言ったんだ。ゆいははっとしたような顔で暫くぼくを見ていて、また不安そうな光を瞳の中で揺らめかせていたけれど、少し黙ってから、でも、笑った。照れたように笑っていた。
 そっか、じゃあ頑張らなくちゃね、と言ったゆいは確かにその日からとても頑張っているように見えた、隙あらば練習するゆいに舌を巻いている軽音部員を、ぼくはたまに見かけた。たまに見かけては、段々と上達していく彼女を見て、凄いな、すごいな、文化祭が楽しみだな、なんて、思っていたんだ、きっと。あの時のぼくの気持ちは単純で、単純にわくわくしていた。


――なんで、こんなに、おぼえてるんだろう。


『ハク、ハクっ……わ、私、やったよ、やれたよ……っ、き、聞いて、くれた? ど、どうだった!?』

 文化祭のライブが終わった後に、まだ興奮冷めやらぬといった感じのゆいが話しかけてきた、後ろにたっぷり追いかけてきたファンの人を引き連れながら。ちょうどカメラのバッテリーを交換しようと、撮影場所である体育館のギャラリーから降りてきていたぼくは焦ったけれど、ゆいがあまり必死な様子だったので、逃げられもしなかった。
 結局ぼくはあれこれ考える隙もなく、そのときに思っていたことをそのまま口にするという芸のないことをした。上手かった、すごかった、って、まるで小学生みたいな語彙だ。きっと素晴らしい賞賛の言葉なら、後ろでゆいと話したくてうずうずしている人たちが浴びるほど贈ってくれただろうけど、なぜかゆいはぼくのそれだけで満足そうに笑って。そのままぼくに飛びついてきたものだから、ぼくはとうとう持っていたバッテリーを落としてしまって、でもしまった、なんて思う暇が無かったんだ。触れた部分が、熱くて熱くて。

『うー、寒いね、ハク……なんかあったかいものでも、食べたいなぁ……たーべたーいなーぁ……』

 白い息を吐き出しながら呟いたゆいは、妙に期待のこもった視線でぼくを見てきたけれど、ぼくはいまいちゆいが何を伝えたいのかわからなくて、首を傾げていた。そしたらゆいはちょっと拗ねたみたいに唇を尖らせて、もう鈍いな、と言ってから、ぼくの手を取った。ひどく冷えた手だったのに、不思議とぼくは嫌じゃなかったんだ。こういうときはどこか寄り道しようって誘うの、覚えておいてよね、なんて、なんだかおかしなことを言ったゆいはぼくをそのまま引っ張っていく。冬の風が、頬を切った。
 コンビニに寄って肉まんをふたつ買って、駅のホームのベンチの上、二人並んで食べたんだ。その時風が吹いたからだっただろうか、肩が触れ合うほどの距離に、君が居たのは。電車に乗ったほうがきっとあったかいってわかっていたけど、食べ終わってからも暫く、ほんの数本だけだったけど、ぼくらは電車に乗らないで、寒さに震えながらも、他愛ない話をしてた。


――もう、もうぜんぶ捨てるつもりだったんだ、なのに。


『え、続き? もー、しょうがないな……まだへたくそだよ?』

 あの日、あの日も君は笑ってた、笑ってそう呟いて、すう、と息を吸ってから、静かに弦を震わせて。どこか伏目がちだったからか、長い睫毛が綺麗で、ぼくは、どきりとして。なんで不機嫌だったのかは結局わからなかったな、ぼくとゆいがまともに話をしたのはきっとこの日が最後、もう、これが、最後。あの曲を聴いたのも、これが最後だ。最後に、なるんだ。一年生の初めの頃は、大好きな曲なのにコードが難しくて中々弾けないって嘆いてたのに、今はすっかりそんなことないらしく、ゆいの指は踊るようにするすると動いていた。
 唇から零れだす、優しくてどこかかなしい旋律で、ぼくは零れそうなくらいいっぱいになる。ゆいの声は綺麗だった、ゆいの歌声はいつだって、ほんとに、ほんとに、綺麗だったんだ。少し、ほんの少しだけぼくはゆいの傍に寄って、静かで温かな空間に身を沈めていた。その間だけは、いつも鳴っていた怖い声が止むから。どうしてなのかは、わからなかったけれど。

『ハク、すきだよ』

 痛い。
 それを思い出すと、胸が痛い。いつもの痛みじゃなくて。記憶に責め立てられているときの、ぼくがぼくを殺そうとするときの、あの刺すような痛みじゃなくて。痛みと言っていいのかどうかわからないような、締め付けるようななにかが、そのゆいの震えた声を思い出すたび、ぼくのこころを襲うのだ。
 布団の中で丸くなって、胸にぎゅうと手を押し当ててみたけれど、痛みは増していくばっかりで、甘く締め付けられるばっかりで、どうしようもなくなる。でも、そうだ、ぼくなんか君の傍に居てはいけないって、気がついた時にはもう、君は泣いてた。もう何もかも、遅かったんだ。
 あの時ぼくは多分姉のことを思い出しかけていて、だからぞっとした、ゆいの前でだけはずっと逃げてきたことを、ぼくの抱える歪みを、やっと突きつけられたから。はっきりと浮かび上がった歪みはそして、ぼくからゆいを切り離した。正常に異常に、ぼくはゆいを遮断した。突き放して、拒絶した。これでよかった、これでよかったんだ、そしてぼくはここからも居なくなります、ねえ、いいんだろ、これで。
 あれがもしもほんとだったら、だなんて、もうぼくには、考えられるはずもない。あの時ぼくは君の幸せを願うような言葉すら送れなかったけれど、君はもう他の誰かと笑っているはずだから。もうそこにぼくは、居ないから。
 だから眠らなくちゃいけないのに、ぼくはなにもかも忘れて明日を迎えなくちゃいけないのに、そうさせてくれないんだ。何度も何度も寝返りをうって、一生懸命目を閉じたけど、ぼくは、ぼくは。

「…………」

 そらが。
 茜色と、群青色の混じった空が、細く細く、見えた。





「琥珀……もしかしなくても、寝てないでしょ?」
「…………」
「ごめんね、追い詰めるようなこと、言ったよね、私……でも、琥珀、私はね」
「……お姉ちゃん、わたし、行く」
「私は……あ、え?」

「ここには……もう、居られない、から」

 朝、制服には着替えなくて良かったんだっけ、なんて思いながらぼくは姉に向かってそう言った、そういえば今日は土曜日だ。普段は部活があるから、癖で着替えたんだな、きっと。姉はぼくの返答に、驚いたというよりは虚を衝かれたようだった。こんなに早く、というのが本心なのかもしれない、と思いつつ、ぼくは重い目をこじ開けて、姉の方を見る。

「そっ……か。うん、わかった。それなら、今夜発つよ。いい?」
「うん」

 行き先は、姉が療養していた場所。緑が多くて、静かないいところだよ。姉は言った。ぼくはそのどれにもなんとなく頷き返しながら、点けっ放しになっていたテレビを見る。大きな体温計を抱えた女性キャスターが、緩やかな調子で今日の天気を喋っていた。午後あたりから雨になる、そうだ。千夏が聞いたら怒りそうな発音だった。これだから民放は、なんて。
 激しい雨になります、傘を持ってお出かけください。折り畳みではなく、普通のものが良いでしょう。思案顔の姉を横目に、そんな音声を聞き流す。確かに、曇天だった。雨になるんだな、雨は嫌いだ、頭が、痛くなるから。辛い記憶の日だから。そう思ってたんだけど。
 だって、ゆいと初めて会ったのも、強い雨の日だったから。晴れたら一緒に虹を見ようよって、約束したのは、いつの、こと、だったっけ――。

「お姉ちゃん、わたし」
「ん? どうしたの?」
「ちょっと、学校行ってくる」


 姉はちょっと黙ってから、早く帰ってきてね、とだけ、言った。




 電車の中で音楽を聴くのは、好きだっていうよりも、ほとんど変な癖みたいなものだったんだろうな、と思う。思いながら、相変わらず人の少ない車内の座席の上、イヤホンを付ける。少しだけ迷って、ゆいが教えてくれたアーティストを飛ばして、次の曲から始めた。世界なんてどうでもいいみたいな音が、流れる。ぼくは目を閉じる。
 こうしているとぼくは一人なんじゃないかって思えるような気がしたから、きっとぼくはそれで少し安心していたのだ。だから、癖になっていた。ごとん、と重い音を立てて、電車が動き出す。流れる景色は、見慣れていたそれは、重い灰色の下で、なんでもないような顔をしながらぼくを見ていた。
 八代神社前駅は、ぼくらの高校の生徒くらいしか利用しない、ひどく寂れた駅だ。沿線にもほとんど店はないし、大体学校の周り自体に何もなさ過ぎる。だからいつも閑散としていて、それでも春になると、線路に沿って植えてある菜の花が沢山咲く。桜より菜の花が好きなんだ、と笑っていたのは。やめよう、思い出すの。
 改札を抜けて、階段を下りて、暫く歩いた。高校前の坂は長い。バス利用の生徒はバスにこの坂を上って貰える。電車利用、若しくは徒歩組には羨ましい限りだった。なんとなくそんなことを思い出しながら、長い長い坂を歩いて上る。途中で何人か生徒とすれ違った、部活帰りかな、午前上がりなのかな。
 千夏たちに会う可能性をぼくはふと考えたけれど首を振った、それは多分ない、殆ど知られてないけど放送部は活動時間が長いのだ、休日だって日が落ちるまでは部活がある。
 だからすぐ帰ればいいんだ、さっさと。ぼくは思って、少し歩調を速める。坂を上りきって、正門を抜けて左の道。すっかり葉桜になった桜並木をくぐって、文化部室棟まで。そこまで迷いなくぼくは歩いたけれど、正直どうしたらいいかはわかっていなかった。どうしたいとも思っていなかった、というのが本音。どうすればいいかも、わからなかった。今のぼくには学校に来る意味なんてきっとなかったし、寧ろ来ない方がよかった、それは確かにわかっていたことなんだけれど。
 どこか懐かしい気すらしてしまう道を歩いた、相対的に考えればぼくとゆいが話をしなかった時間は、ぼくがここに通わなかった時間はそう長くもないのに。古くなって軋んでいる階段を上がって、二階の奥、軽音楽部の部室まで歩いた。さっきの疑問に答えも出ないままに、ぼくの足は勝手に目的地を決めていたのだ。とはいっても、答えも出ないまま、というより、多分。

「……ハク」

 多分、意図的に、出さないようにしていたのだと思う。そんなことを考えながら、部室の扉を開けて、驚いたような顔をしていたゆいを見る。
 何故か鞄とギターを、両方抱えて出てきたゆいは、ぼくの顔を見た瞬間に、動きを止めていた。

「なに?」

 ゆいの表情はしかし一瞬のうちに硬くなってしまって、ぴしゃりと、斬りつけるような声でゆいはそう言った。ぼくは顔が上げられなかった。自分で来たくせに。何を、何を言いに来たんだっけ、そもそも何かを言いに来たんだっけか、重たい頭が回る音。鈍い頭痛がする。もうすぐ雨が降るのかな。ぼくは言葉を探した、必死に探して、探して。

「よお、里見」
「え、あ……」
「あ、カズキ」

 ゆいがそう言うのが、同じ声なのに、同じゆいの綺麗な声なのに、なんだかノイズみたいに頭に響く。頭痛が少しだけ酷くなるのを感じた、歩み寄ってくる人。昨日とは違う人だとぼんやり思った、千夏が言っていた事は、ほんとだったのかな。とっかえひっかえしてるみたいなっていう、話。だって考えてみたらゆいはずっと人気者だったんだ、友達にだって、もしかしたらこいびとにだって事欠かないくらい。唄が上手くて、涼しげに整った顔立ちで。
 そのひとは躊躇いがちな足取りで歩み寄ってきて、ぼくの隣、隣と言うには少し遠いけれど、そんな位置に立って、なんだか邪魔っけなものを見るような目でぼくを見た。というか、それは気のせいじゃないんだろう。そうだ、帰る約束してるんだろうな、このひとと。軽音部の土曜活動の時間はまちまち、今日は午前上がりだったんだろう。午後まで待つ必要もない。ゆいと一緒に帰るのはぼくじゃないから。鞄を抱えて出てきたのは、なるほど、ぼくとこのひとを、間違えたのかな。

「……ごめん、行こうか」
「ん。どっか寄る?」
「今日は……真っ直ぐ帰りたい、かな」
「お前それいつもじゃん……午前上がりくらいどっか遊んで帰りてぇけどな、俺は」
「…………」

 答えないままゆいは靴を履いて、外に出てきた。押し出される格好で、ぼくは廊下の奥へと下がる。飲み込んだ言葉がぐるっと回って少し痛かった。ゆいはぼくを見ないままで歩き出そうとする。ゆいを迎えに来た人も、何も言わずに縮こまっているぼくに一瞥をくれてから、すぐその横まで追いついていく。二人は並んで歩き出した、ぼくはそのときやっと顔を上げて、ふたりの背中を見て。
 そうだ、これでいいって思わないと、って、言い聞かせて。

「あのさ、ゆい!」
「…………」
「わたし……わたしっ、ここ、居なくなるから! だから……」
「……え?」

「……だから。ばいばい、ゆい」


 怪訝そうな顔をして振り返ったゆいに、なんとか笑って、できるだけ笑って、ぼくはそう言った。言って、二人の間をすり抜けて、学校の坂を全部駆け下りた。揺れる景色なんてもう覚えてない。頭ががんがんする。はしって、はしって、走って走って走って、改札まで走り抜けて、電車に乗って。
 そうか、これが言いたかったのか、とぼくはそのときになってやっと理解した。夜まで考えてもずっと引っかかってしまったゆいのことに、ぼくはなんとか決着をつけたかったんだ。良かったんだ、これでって、ちゃんと分かるために。これで全部大丈夫なんです、ゆいはもうぼくのせいで泣かないし、ぼくが居なくてもゆいは大丈夫。なかなか失えなかったのも、これでばいばいしてしまったんです。
 ぼくが世界を望む理由なんて、もうなくなってしまったのだ。あとは全部今まで切ってきたものばかりで、今更さよならを告げることも、ない。

 ぼくは。ぼくは、ここから、居てはいけなかったここから、やっと居なくなるのだ。




 家に戻ると、玄関先に車が用意してあった。驚いて足を止めると、車からは姉が出てきて、少し余所行きの格好をした姉はぼくに向かって手招きした。かなしそうな笑顔だった。そういえば姉は車を運転できる年齢だったし、持っていても不思議はなかったのかな、などと思いながら、ぼくは姉の手招きに答えて、車まで駆け寄った。

「用は、済んだの?」
「うん」
「そう……もう、行く?」
「うん」

 かくんと頷いた。頭が揺れて、また少し痛んだ。思い出しても、向き合っても、決して消えてくれない痛み。ぼくはぼくをきっとずっと許さないのだろう。だから。姉はじゃああと少しだけ待ってね、と言って、家の中に一度戻っていった。何か持って行くものでもあるのかと思ったら、母親と話をしに行ったらしい。ぼくは車の横に突っ立って、今にも泣き出しそうな空を見上げた。また雨だ。雨の日ばっかりだな、なんだか。
 暫くすると姉が戻ってきて、不機嫌そうな顔をしていたから見ていたら、お母さんたら見送りにも来ないなんてね、と苦い口調で言った。ぼくはなんだか笑えてきてしまって、一人で笑みを零していたら、姉が少しつよく頭を撫でた。いいんだよ、それで。全部正しい。何もかもが正常だ。いいんだ、ぼくが居なくなることはあまりにも自然なことだから。お母さん、今までごめんなさい、沢山沢山迷惑をかけて、ごめんなさい。ぼくなんかと一緒に居た、今までの時間の全てに、ぼくは謝って。目に馴染んだ家を一度見上げてから、姉の手を頭から退けた。大丈夫、ぼくは、大丈夫だよ。

「じゃあ……琥珀」
「うん」

 そうして、姉に促されたようにぼくは車のドアを開けて、中へ。


「……ハクっ!!」


 その、とき。
 鋭い声は、飛んできて。

「え?」

 ぼくが顔を上げたそこには、肩で息をしながら、苦しそうに顔を歪めて。けど真っ直ぐと、真っ直ぐと射抜くようにぼくを見ているひとが。

「ハク……!!」
「な……なん、で」


 ゆいが。



 ――ゆいが、そこに居た。




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