「Supernova」




 耳鳴りがするほどの静寂の中で、ただ水の音だけが聞こえた。ちゃぷり。ちゃぷり。絶え間なくゆっくりと響くその音だけに、辺りは包まれている。ちゃぷり。それが何の音なのかは判断できない。目が開いていないのか、それともここが暗いからなのか、それは判然としなかったが、ともあれ、世界は黒かった。そして酷く寒かった。ちゃぷり、ちゃぷり。
 何も見えないが、若しくは何も見えないからなのか、不安が渦を巻き始める。答えのない問いかけと、どうしようもない孤独感がつのる。それを助長するように、水音は激しさを増し始めた。ごぼり。切迫する感情に背を押されて足を踏み出した、そのとき初めて、水音の在処を理解する。それは足下からだった。足下から、ごぼ、ごぼり、という音とともに、溢れ出すなにか。次々と足下を埋めていくそれに足をとられて、思わず両手を地に着いた。肘の辺りまでが重く濡れそぼる、水位はどんどん高くなってきているのだ。
 そのとき、ふとした違和感を感じた。ごぼり。二の腕まで浸食していくそれは、しかし、どこか生暖かい。不思議な温度。では何故こんなに寒いのだろう。凍えたように体が震えるのだろう。思いながら立てないで居る。暫く動かないまま、ごぼりごぼりという音だけ、聞いていた。
 しかし腋まで水位が上昇した時点でぞっとして、体を起こす。が、すぐに膝をついてしまった。駄目だ、寒くて。生暖かい液の中で、がちがちと歯を鳴らす。ごぼり。ごぼり、ごぼり。
 肩まで浸食されるが、水の音が聞こえてくる度に体温が下がっているような感覚に陥って、そのときには既に、指先一本動かせないほど凍えていた。ごぼり。口まで塞がれる。あともう少しで、きっと沈むんだ。そう思って、まるで自然に、目を閉じた。どうせ開けていても暗闇しかないのだから、瞑っていたって、なんら変わりはないだろう。
 
 そう思っていたから、はっとした。 
 目を閉じた、刹那、瞼の裏に、焼き付くような光を感じた。異様な眩しさに真っ直ぐ貫かれる。とても痛かった。それはあまりにも鋭い痛みだった。痛い、痛い!!
 けれどそれをかわす術を持たない、だってもう目を閉じているのだ。だから、強烈な煌めきに貫かれるまま、目を焼いた。閉じた瞼の隙間から、雫が流れ落ちる。

 ごぼり。ごぼり、ごぼり。
 ごぼり。

 音が聞こえて、生暖かい中ついには沈んだ、浮かび上がらず沈み込んでいく。沈んだ瞬間、瞼の裏にあった光はふと消えた。残ったのは焼き付けられた痛み。鈍い鈍い痛み。
 ぼくは沈んでいた、ふるえながらゆっくりと。動かせない体を、聞こえない耳を、見えない目を、全部全部生暖かい中に沈み込ませていった。もう何も見えない聞こえない感じない。

 だから、最後に綺麗であたたかい旋律を感じたなんて、それは全部嘘だったのだ。
 全部嘘、全部嘘、嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。


 ら、ら、ら。






 喉が渇いたな、と思って目を開けたら朝だった。ぼくはゆっくりと体を起こして、やっぱり今日も見なかった、とひとりごちる。姉妹の夢を見なかった。特に最近は同じ場面ばかりみていたけれど、それもぱったりと無くなった。
 酷い頭痛で目が覚めることもないし、思い出せない顔に首を傾げることもない。鮮烈な赤と青の衝撃もない。繰り返される同じ場面もない。それは、至ってふつうの朝だった。洗面所までふらふら歩いて、顔を洗う。ぼうっとしていた頭が、少しだけはっきりとしてきた。
 でも夢だけは見たらしい、なんとなくそんな記憶があった。だけどそれは今までのように特殊な夢なんかではなかったから、記憶にもぼんやりとしか残っていない。その微かな記憶だって、一日を過ごすうちに失っていくのだろう。普通の夢なんてそんなものだ。明日になればきっと、覚えてもいない。
 今まで見ていたものは夢ではなく、ぼく自身の過去の記憶であったから、あんなにも頭に残っていたんだろう。

「あ……琥珀、おはよう。結構ぎりぎりに起きるんだね? 朝ご飯、食べる時間ある?」

 腋にあったタオルで顔を拭いていたら、姉が声を掛けてきた。色の抜けた絹のような髪を、今日は横にではなく、後ろで高く括っている。寝癖ついてるよ、という言葉と一緒に差し出された指、ひどく優しく髪を梳かれる。こういうときに再認識させられる、この人はやっぱり、夢に出てきていたあの姉なのだ。ただの他人と言い張るには、この人がぼくに向かって放つ雰囲気はあまりにも優しすぎる。あまりにも温かすぎるのだ。
 母親とはずっと疎遠だったから、自分のことを気にかけてくれる家族なんてものにずっと慣れていなかったから、逆にぼくはこの人が、姉がどれくらい温かいかはしっかりとわかった。といって、もうぼくの頭の中での認識は、夢の中の登場人物、というものから忘れていた姉、というものに、変わり始めていたのだが。
 学校には電車で通ってるんだよね、じゃあ少しでも遅れたら危ないし、と続けながら姉は腕時計に目を落としている。ぼくも壁に掛かっている時計に目をやったけれど、普段だったら特に焦ることもない時間だ。ひとりで迎える、普段の朝だったなら。しかし、そうだ、今朝はこのひとが、姉がいる。そして姉は、時間が足りない理由を口にしていた。

「……あさごはん?」
「うん、そう、準備しておいたんだけど……もしかして、今まであんまりちゃんと食べたりしてない?」
「……まあ、その、うん」
「こーら、駄目だよ琥珀。まったく、お母さんもそれくらいはちゃんとして欲しかったかな……だからそんなに痩せてるんだよ。ちゃんと食べてから行くこと!」

 言って、姉は苦笑しながらぼくの額を軽く小突いた。急いで着替えておいで、あったかいお味噌汁あるよ、なんて言い残して食堂へと向かっていく背中を、見つめる。結った髪が綺麗に揺れていて、寝癖以前にまず手入れがなってないぼさぼさのぼくの髪を、思わず触ってしまう。確かに姉とぼくは家族なのだろうとは思うけれど、そことはまた違う部分で、血が繋がってるなどとは、未だに考え辛いような気もした。どう遺伝をまかり間違ったか知らないけれど、ぼくと姉はあまりにも似ていない、と思う。姉は、それくらい綺麗な人だった。
 部屋に一度戻って制服に着替えながら、ぼくはふと頭を押さえた。そういえば暫く雨が降ってない。そして夢も見ていない。それが自分の記憶だと知って以来、頭痛に悩まされることはなくなった。思えばあれは、ぼくの体からぼくに対する警鐘のようなものだったのかもしれない。それは思い出してはいけない、触れてはいけないと、頭痛によってぼくを押し止めていたのかもしれない。そんなことを、最近は考える。
 幼い頃から小学校までの、姉がいた頃の記憶。その膨大な量の情報を一気に頭にたたき込まれたぼくは、やはりある程度は混乱したし、重さに耐えきれなくもなりそうだった。ぼくの頭は、そうやって酷く乱暴に叩きつけられたような記憶でだいぶ負担を強いられて、思い出してから数日は学校に行ってもどこか上の空だった。けれど家に帰れば、姉が必ずぼくを見つけて、縮こまった背と頭をゆっくりと撫でて、まるで言い聞かせるように何度も何度も、琥珀のせいじゃないよ、と言ったのだ。

「あれは琥珀が悪いんじゃないの。だから、そんなに自分を追いつめないで」

 姉は繰り返しそのようなことをぼくの耳元で囁いた。答えのない問いをそのまま包み込んでしまうかのような、淡くも優しい、優しい声で。そうしてぼくが顔を上げると、必ずその綺麗な顔に慈しむような笑みを浮かべて、あたたかな手でそっと頭をぼくの撫でるのだ。指先に、くしゃくしゃと髪を絡めながら。琥珀のことは、私が守るから。必ずそれを、最後に呟いて。
 それが何日か続いて、十を数えたその少し後くらいになると、ぼくの感覚はきっとある程度麻痺してしまって、気がつけばその記憶の嵐は、すとんとぼくの中に落ち着いていたのだ。突然でもなく、急激でもなかったけれど、ただそれらは深く海に沈み込むように、静かに静かに、ぼくの中へ。


 重たい通学鞄を抱えて食堂に行くと、言葉通り食卓にはきちんと朝ご飯の支度がしてあった。一応テーブルには着いてみるけれど、なんだか慣れない。母は朝から仕事に出ていることも多かったし、何よりぼくを扱いあぐねていたから、朝の見慣れた光景といえば、軽食が置いてあるか、小銭が置いてあるかのどちらかだった。
 昼食はだいたい購買で買って機材部屋で食べていたし、夕食だって母親と食べた記憶は数えるほどだ。冷えた食べ物をひとり機械的に口に運ぶのが、ぼくの食事だった。ぼくにとって食事は義務みたいなもので、しかもだいぶ順位の低い義務だったから、一日何も食べないとか、食べても一食だけとかも、よくある話だったんだけど。
 だから今朝のように、誰かが湯気の立っている味噌汁を運んできた姉がそのまま向かいに座って、いただきます、なんて手を合わせている姿なんて、見慣れないことこの上ない。とりあえず一緒に手を合わせたし、口に運んだ料理はどれも美味しかったんだけど、ぼくは終始なんだか落ち着かなかった。俯きがちでもそもそと食事を続けるぼくを見て、姉は小さく息を漏らすように笑う。姿勢悪いよ、って、それはまあいつもの癖ではあるけれど。

「美味しい? お代わりあるけど……ちょっと時間無いか。明日はもうちょっと早く起きてね、琥珀?」
「明日……明日も、作るの?」
「ん? うん。いろいろ落ち着いたし……こんなことならもっと早くこうするべきだったかも。こっちに来て暫くうちには居られなかったから……」

 綺麗な箸遣いで魚の切り身を口に運びながら、姉は言った。今までは自分の仕事のことや生活のことがあったから、家のことはできなかったもんね、と続ける。姉がうちに来てからはそれなりに時間が経っていたが、今日のように朝からご飯を準備していたのは、確かに初めてのことだった。でもまさか普通に食べさせてすらないなんて、と姉は続ける。困ったような、軽く怒っているような、そんな口調だった。

「母さんたら、いくらなんでもそんなことまで放棄しちゃうなんて……だから琥珀ったらひどい痩せ方してるんだね」
「……母さんは、わたしとは居づらいんだよ」
「それはそうだろうけど。母さんは酷いこと言ったし、酷いことになったもの……だけどね琥珀、それとこれとは別」
「別?」
「別なの。過去がどうであれ、今を生きなくちゃいけないでしょ。琥珀だって、美味しいもの食べて、笑って生きていかないと」
「……ん」
「琥珀……あのね、私、何度も言うよ。琥珀が時々凄く強情なの知ってるから、何回でも言ってあげる。あれは、琥珀のせいじゃないの。辛い記憶だろうし、琥珀は優しいからたくさんたくさん自分を責めたんだろうけど、もう、いいんだよ。ね、私が言ってるんだから、わかって、琥珀。琥珀は何も悪くなかったの、あれは琥珀のせいじゃないの、気に病む事なんて何もなくて、だから……だから、希薄であろうとしなくてもいいんだよ。普通に、生きていいんだよ」
「…………」

 返答できずに、ぼくは黙ってご飯を飲み込んだ。姉も一時何も言わなかったから、かちゃかちゃと食器の鳴る音だけが、静かに響く。それだけで、ぼくにとってはいつもよりはずっと、にぎやかな朝ではあったのだが。無音の、ぼくだけの時間が、姉が来てからは少しずつ減っていった。
 記憶を取り戻したことで、わけもわからずずっとそうだったこと、そうなんだなってとりあえず受け入れてきたことの理由は、いくつかはっきりした。母のこともそうだ。お母さんはぼくと居づらい。それはぼくが拒絶するからだろう、というのは主観的な理由で、本当はいつかの言葉を後悔しているからだ、そうだ。後悔しながらも、姉と一緒に行くのを自分ではなく父親にしたのは、母親として精一杯の愛情だったんだろう、うまくできてはいないみたいだけど、と姉は言う。
 といっても、その話はぼくにとってはあまりぴんとくるものではなかったが。母がぼくに言ったことをぼくは全部思い出したけれど、後悔するようなところは見つからなかったのだし。だって確かにぼくが居なければ姉はあんな酷いことにはならなかったのだろうし、全ての原因は家を飛び出したぼくにある。母親は正しいことを言った。正しくぼくを責めた。そこに後悔することなど何も無い、悪いのはぼくで、居なければよかったのがぼくで、だから母親は、何を後悔することが。そういうと、姉は困った顔をしていたが。
 そしてもう一つわかったこと、ぼくがわたしを否定し続ける理由、ぼくがわたしを許さなかった理由。殺してしまいたいほど、憎んでいた理由。幼かったぼくは姉のことが大好きで、きっとぼくにとっての姉は世界の全てみたいなひとで、だから、ぼくは姉を傷つけた自分が、許せなかったのだ。姉が居なくなってしまってからも、ぼくが姉の記憶を失ってからも、その罪悪感は、その憎悪は消えないままで、ぼくは「わたし」と世界を切り続けた。ここに居ないように、繋がってしまわないように、ぼくが「わたし」を否定する声に、殺されてしまわないように。
 ぼくは、お姉ちゃんを傷つけたぼくが許せなくて、ずっと、ずっと。

「もう、いいの……ねえ、琥珀。お願い、そんなに酷いこと、自分にしないであげて? 大丈夫だよ、琥珀は何も悪くないから」
「…………」
「……そろそろ、時間だね」

 ぼくがそろそろ学校に行かなければいけない時間なのを悟ったらしく、一旦話を切って、そうだ、と脇に置いていたらしい包みを取り出す。薄いブルーのチェック柄、この間百均で見つけたんだけどね、等と紹介しながら、姉はそれをぼくに向かって刺して出してきた。はい、これ、などと言われて、ぼくは鞄を肩に掛けようとした格好のままで、一瞬停止する。

「これ……え、なに?」
「なに、って……見ての通りだよ。お弁当」
「……お弁当、わたしの?」
「そう! とにかくね、琥珀がまた元気に暮らせるように、お姉ちゃんがんばるから。はい、持って持って」
「う、うん……」

 半ば押しつけるように渡された包みを、ぎゅうぎゅう荷物をかき分けて、とりあえず鞄にしまう。そうしないと姉がぼくを玄関まで行かせてくれそうになかったから。本当は三食きちんと食べるのが多少億劫な程度ぼくは歪んだ生活をしてきたので、受け取るのが少し躊躇われたのだけれど。
 お弁当は、多分姉が居なくなってからは、初めてだった。姉は玄関先までぼくを見送りに来て、不慣れなふうにぼくが行ってきます、というのを聞くと、静かに微笑んで行ってらっしゃい、と返した。部活終わったら、あまり寄り道しないで帰っておいで、今日は琥珀が好きなもの、お姉ちゃんが腕を振るって作ってあげるから。そう言って姉はいくつか料理の名前を挙げる。

「いつか治って帰ったら、琥珀に作ってあげたくて、療養中も練習したの」
「そう、なんだ」
「まあ、暫く毒味役だったお父さんはかわいそうだったけど……私、器用なわけじゃないから。でも、ちょっとは上手にできるようになったんだよ?」

 姉が照れたように笑っていたから、ぼくはつい口にしかけた言葉を飲み込む。言わない方がいい。決して言ってはいけない。早く家を出てしまおう。今はもう、好きな料理なんて無い、なんて、絶対に言わない方がいい。確信にも似た直感が、ぼくのからだを急がせる。だからぼくは時計を見て焦るふりをして、急いで扉を開けた。外の空気が頬を刺す。姉はもう一度、いってらっしゃい、と言って。

「ああ……そういえば、琥珀」
「え?」

「もう、ぼく、って言わなくなったんだね」

 扉の閉まる手前でそう呟きながら、こちらに向かって小さく手を振ったのだ。




 学校に着くと、もうだいぶ遅刻ぎりぎりだったらしく、教室の中にはクラスのほとんど全員が居て、とても賑やかだった。ぼくはその中に滑るように入って行って、席に着く。鞄を下ろしてひとつ息をついた、少しだけいつもより重いように思えるのは、間際に姉が渡した包みが入っているからなんだろう。なんだか随分ぎっしり入っているみたいだけれど、全部食べきれるだろうか。残すのは忍びないけれど、通常量の食事になれていないぼくが、完食できるという確証はない。中学の頃だって、酷い偏食の小食で、給食の時間はいつも困ったものだった。といって、困っていたのはぼく自身ではなく、担任の先生の方だったのだが。

「あっ……あの、さ、漣さん!」
「え?」
「その……あ、お、おはよ」
「……うん、おはよう」

 すると、突然声を掛ける人があって、見れば千夏がぼくの席の前で、どこか不安そうな面立ちをして居た。クラスの殆どはぼくが来たことにも気づいていないだろうから、千夏の行動にぼくは少なからず驚いた。てっきり友達に囲まれているんだと思っていたし。千夏は挨拶を口にして弱々しく笑ったけれど、挨拶をしにきた訳ではないらしい、ということだけはどうにかぼくにもわかった。まだ何か言いたそうな目でこっちを見ているし、そこから動きそうな気配もない。だからぼくも、促す意味を込めてそっちを見返した。
 定まらない目でぼくを見たり見なかったりする彼女、一時間目の開始五分前を告げる予鈴が鳴る。それに背を押されたように、千夏は漸く口を開いた。

「あの! ……き、今日はさ、部活来てくれる!?」
「うん、そのつもりだけど……」
「っそ、そう!? うわ、良かったぁ……」
「ん、え、なに、が?」
「あ、いや……漣さん、ここ数日顔出さんかったけんさ」
「……それは、その」
「ややや、責めとんとちゃうよ!? ちゃんと具合悪いけん休むって聞いとったし!! やけんそがん顔せんで!!」
「え、あ、ああ、うん」
「だから……だからさ、つまりアレよ、今日来てくれるんが、嬉しかけんさ」
「………?」

 どこか大仰にも見える素振りで千夏が胸をなで下ろすのでついぼくは首を傾いだ。喜ぶようなことでもない、と思うんだけど。寧ろ、またそぐわないのが戻ってくるだけなんだけど。そう思って千夏の顔をじっと見返してみるが、小柄で明るい彼女は、いつものような人懐っこい笑顔を弾けさせるばかりだった。瞳の中に嘘が見えない。そんなはず、ないのに。
 四月である現在は、放送部としては地区大会の準備に忙しい時期に入ってはいるし、特に朗読やアナウンスをしている千夏や美緒、亜紀は追い上げに入っている頃だろう。しかし読み部門はそうでも、専ら番組しかやらないぼくは、番組部門が始まる六月の県大会まではまだ余裕がある。取材は三人の協力もあって進めておいたし、そう急ぐこともない。
 なによりぼくは、部活に行ったところでみんなのアナウンスや朗読を聞いてアドバイスをする、なんてことができる訳でもなく、本当にただ機材部屋に入り浸っているだけだから。今更その環境に居続けることを延々許してもらっているぼくが言うのもなんだけれど、ぼくがいたところで、邪魔にしかならないのではないだろうか。
 ――この、そぐわないぼくなんか、きっとどこにも居ない方が。

「あー……あの、さ……漣さんて、よぉそんな難しい顔しとらすよね」
「……え?」
「あっ、ご、ごめん、うちすぐ思ったことまんま口にするけん、気に障ったらほんとごめんね!?」

 ぽろりとこぼした千夏は、思ったことを口にするだけじゃなくて体いっぱいででも表現するらしい、焦った様子でわたわたと手を振っている。その間に五分は経過していたらしい、チャイムが鳴って、千夏は慌てたようにまた後で、と言い残して席に戻っていった。あんまり慌てたものだから机に足をぶつけた。痛そうだ。彼女が席に着くか着かないかのときに教室の扉は開かれ、一時間目、古典の先生がのんびりと挨拶をしながら入ってくる。そのときになって漸く、授業の準備なんかしていなかったことに気がついた。
 学級委員の号令と一緒に立ち上がって頭を下げて、鞄の中から教科書とノートを引っ張り出しながら、なんとなしに千夏の方に目をやる。あんなに言葉を交わしたのは、多分初めてなんじゃないだろうか。特にぼくと千夏だけでだなんて、あまりないことだから。明るくて、話すと楽しい人間らしい彼女は、いつも友達に囲まれている。放送部の中でだってそうだ。ぼくとは逆の位置に居る人だと常々思っている。
 新二年生ながら三年生の居ない放送部の部長として頑張っていて、亜紀や美緒とも仲が良く、いつも笑顔を振り撒いている千夏。そんな彼女が、なぜぼくなんか。今日来てくれるのが、嬉しいだって。そんなこと、あるわけないのに。
 年寄りな古文の先生がのんびりと授業を進めていく。ぼくは頭の中、纏まらない思考をふらつかせながら、機械的にペンを握った。10分もしないうちに、千夏の姿勢が安定しなくなるのが見える。大体の人がこの古文の授業では夢の世界に旅立つんだけれど、彼女の速さといったら凄かった。昨日、あまり寝てないのかな。




 放課後、千夏はまるで言ったことは嘘じゃないですって示すみたいに真っ直ぐとぼくのところへやってきて、漣さん一緒に部活行こう、なんて高らかに言った。千夏はさすがに放送部と言うべきなのか、まず地声からしてなのか、ともかく声量が通常より格段に大きいので、クラス中の目を引いてしまう。なんだか、やり辛い。同じ部活とはいえぼくと彼女が行動を共にしていたことなんて必要に駆られたときくらいしかないから、珍しいんだろう。千夏の人柄のせいもあるかもしれないが。

「えっ……あれ、さ、漣さん? あのー、もしかして今日も休むとか……?」
「あ、う、ううん……ええと、じゃあ、行こうか」
「わ……う、うんっ!! 行こ行こ、行こーうっ!!」

 急に不安気になったかと思えばすぐに輝かんばかりの笑顔を浮かべて、ぼくみたいな人間からすると、彼女の表情の動きはなんとも器用に映った。それにしても、勢い良く教室を飛び出すついでに彼女はぼくの手を引っ張っていて、それもまた、今度は廊下にいる生徒の目を引いてしまう。
 有名人と歩くのはこれだからちょっと困る、どこにいても彼女を知る人がいるから。でも千夏は握ったことにすら気がついてないみたいにずんずん行ってしまうから、ついていくしかない。結局ぼくは千夏に手を引かれたまま、一組の前を通って、階段を上がって、二階の渡り廊下の途中、視聴覚室まで歩くことになったのだ。

「ついたついたー、さー今日も部活頑張っ……て、わあ!! ご、ごめん!! 痛うなかった!?」
「う、うん、平気だけど」

 視聴覚室を目の前にして漸く、千夏はぼくの手を放してくれた。発言からしてやっぱり無意識に握っていたらしい、うちそういう癖なんよ、とまた笑う。本当に、よく笑う子だった。早速機材部屋に目を移しているぼくに気がついたのか、じゃあお詫びに荷物預かるけん、と言って、千夏はぼくの鞄を握ってきた。いつもはそんなこと、してこないのに。
 ぼくは慌ててそれを振りほどく、今度はちゃんと動けた。調子が狂いっ放しだったから、ぼく自身もいつもの行動を忘れかけていたらしい。あれ、なんてぽかんとした目でこっちを見てくる千夏に背を向けて、いいよ、いつもはこっちに置いてるし、とぼくは機材部屋の鍵を取りに行こうと踵を返した。

「で、でも……あーっ、えーっとぉ……いいやもう、周りっくどいのとか苦手なんよね……あんさ、漣さん!」
「な、なに? 鞄なら、ほんとに、こっちでいいんだけど……」
「じゃなくてっ!! その、さ……今日、一緒に帰らん?」

「……え?」

 一瞬、言葉が出てこなかった。そんなぼくを見てどう思ったのか、いや見てない、千夏は何故かいつもの彼女らしくなく俯いたままで、しかも妙に早口で、続けた。

「や、あの、漣さんて三和行きに乗るやろ? うちもそっちでさ、あの、前まで他の人と帰とったみたいやけど最近一人やし、でうち三和行きの東ノ宮で降りるし……」
「あ……三つくらい、前だ」
「そ、そうやろ!? やけん……あー、その、やけんさ……い、一緒に、帰ってみん?」

 言って千夏は漸く顔を上げた、軽く頬が朱に染まっていて、随分と勇気を振り絞ったのか、弱々しい笑顔を浮かべていた。あ、この笑顔見たことがある、ぼくの記憶に良くある笑顔。千夏のこんな笑顔なら、真っ直ぐと見たことが何度かある、それは、だってそうだ。今にして思えば、放送部でだってクラスでだって一番ぼくに必死に話しかけてきたのは彼女で、そして鈍くぼくが突き放すたびに、彼女はこんな顔で、笑っていた。罪悪感にまみれて、否定でがんじがらめだったぼくのことを知らないままで、人懐っこい彼女は、一生懸命、ぼくに。それは多分、今だってそうなのだろう。
 『琥珀だって、笑って生きていかないと』『もう、いいんだよ』――姉の言葉が、頭の中で、明かりが灯るように甦る。それで少しだけ、ぼくの頭ははっきりした。ぼくが黙っていたのはそんなに長い間ではなかったけれど、その間にもどんどん小さくなって、何かもごもごと言い訳のようなことを千夏は呟いている。こういうときどう言ったらいいんだっけ、ごめん、多分もう忘れてる、きっとぼくは、人と関わることを忘れてる。でも、それでも、いい、のかな。

「……帰ろう、か?」
「だからつまりうちが寂しいだけって言えばそうなんやけ……えっ、あ、え?」
「その……方向、同じだし。あ、わたし、話しても楽しくない、けど……」
「ややややや、構わんっ!! いい、全然いい、やった、帰ってくれるんやね!?」
「う、うん」

 ずっとそぐわなくって、自分を責め続けて、否定して、切り離して、切り離して。まだ足りない、お姉ちゃんを傷つけた罪はまだ重いって、叫び続けてきた。でも姉は、そんなぼくに笑って生きて欲しいと言ったのだ、ぼくが元気に暮らすことを、望んでくれたのだ。琥珀は悪くないよって、何度も言い聞かせて。
 ぼくが頷くのを見て千夏は一瞬ぽかんと口を開け、それからさっきよりいっそう頬を綺麗に染めながら、両手を突き上げた。弾ける、笑顔。

「やっ……たぁ!! あ、そや、やったら……っていうかずっと言おうと思ってたんよ、あんさ!!」
「……?」
「千夏、でええよ、琥珀!!」

 言って千夏はぼくに向けて手を差し出してきた、握手の形を呈していた、ぼくは躊躇って躊躇ってから、おずおずと手を伸ばす。さっきとは違う強さで、握られる手のひら。
 いいのかな、ぼくは、いいのかな。

「じゃあ……部活頑張ろうなっ、琥珀!!」
「う、うん……その、千夏も、頑張って」
「おおーっ、おっけいおっけい、千夏頑張っちゃうけんねー! さっそくロングトーンロングトーン!!」
「あ……あの、呼吸からやらないと、また亜紀に怒られるよ?」
「ぅえっ!? し、知っとんの!? うわあ、は、恥ずかしか……そがんとって意外と聞こえるんやね……」
 
 ぼくは、「わたし」は、世界と繋がっても、笑ってても、いいのかな。
 巡るぼくの疑問は口に出さないままで、それじゃあまた後で、と言いながら視聴覚室に消えていく千夏の背中をぼくは見送って、静かな機材部屋の中、ひとつ息をついた。防音室だからか、ここに入るといつも耳鳴りのような静けさに包まれる、外からの遮断、ぼくが好きな場所。場所が好きだっただけで居た、放送部。
 扉の開く音は、まだぼくにも聞こえるだろうか。そんなことを思いながら、ぼくはそっと、耳を澄ましてみたんだ。




「こっはくー!! ごめんごめん、遅ぅなったわ、亜紀のチェックのこまいことこまいこと……さすが朗読のホープやわ、表現の鬼っちゅうか」
「千夏……えっと、お疲れ様」
「ん! 琥珀も、いつも番組おつかれ。肩凝っとらん? うち上手いけん、良かったら揉んじゃるよ?」
「い、いい、いいから……あの、ほら、電車の時間あるし、行こう?」
「あ、そ、そやね!! あはは、ごめんごめん。みょーにテンション上がっとんね、うち」

 もうちょっと静かにしとるわ、と千夏は苦笑したけれど、そこから暗くなった廊下を歩いて玄関口に至るまででも、彼女はずっと口を開いていた。一緒に居ると楽しいというより、賑やかだ。そんなところがきっと人気なんだろう、相槌を打ちながら、どんどん流れ出る楽しい話に耳を澄ます。ぼくと同じくらいの背丈なのに、千夏は体いっぱい使って話すから、なんだか少しだけ彼女が大きく見えた。

「亜紀と美緒もこっちやったら良かったんやけどねぇ」
「神明さんと、植田さんは……徒歩組だったよね、確か。じゃあ、裏門から帰ってるんだ」
「そそ。ってか、堅いわ琥珀!! ええって、亜紀と美緒で!!」
「え……でも……」
「よかけんて!! 部長のうちが言うんやから!! な、後で二人にも言うとくけんさ」

 よくわからないけれど、これぞ部長特権、だそうで、千夏は得意げにピースサイン。三人をまとめているのは大体しっかりしている亜紀だけど、最後の最後ではうちが引っ張っとる、そうだ。玄関を抜けて駅に向かいながら、私は曖昧に頷く。そうは言っても、現在同じクラスである千夏とですらあまりまともに会話をしたことがないぼくは、二人とだなんていっそう関わっていない。いいんだろうか、いきなり名前でなんて呼び始めて。

「よかよか、文句は言わせんさ!! ほんでちょっとずつ仲良うなってさ、そしたら四人で遊びに行こうや!」
「……わたし、面白くないよ?」
「そんないつもギャグセンス求めんよ!? 心配せんでも、琥珀の分までうちが笑かすけん。な、行こう!!」
「…………」

 口には出せなかったけれど、それはまだできなかったけれど、ぼくはどうにか、小さく小さく、肯きを返した。見えないかとも思ったけどちゃんとわかったらしい、千夏が満足そうに笑う。琥珀が混ざってくれたら絶対楽しいわ、と言う。それにはまだ、納得できそうにないけれど。
 それでもぼくは、千夏と話をするのはやっぱり楽しかったんだ、人と居るのは、楽しかったんだ。久しぶりにたくさん声を聞いた、あたたかいひとの声に包まれた。いつもみたいに渦巻くだけのものを聞くのではなく、拒絶する内側で聞く外の声を聞くのではなく、自分に向けられた声。姉や千夏は、ぼくにそれを与える。
 そうやってぼくは、少しずつ肩の力が抜けていくのを、ぼんやりと感じていた。このまま繋がってもいいかな、姉の言葉と千夏の優しさに紛れて、「わたし」は、笑って生きても。

 ――なんて、さ。


 ねえ、おかしいよね。





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