「あなたのいつかへ」




 抱えていると自分の手ばかり傷つけるような痛いことは、いっそ放り投げて、はじめからなかったことにしてしまったほうがずっと楽なんじゃないかって、そう思うことの方が、きっと生きているうちにはたくさんあるのだ。

 厳しかった思い出の方が多いといえばそうだけれども、たまにベッドへいく前に渡してくれるお母さんのホットミルクは、いつもほんのり甘くておいしかった。優しい味という名前があるとして、最初にそれを知ったのは、きっとそれを口にしたときだったと思う。
 そんなお母さんが眠るようにわたしたちを追い立て始めるのは、だだをこねたくなるくらいにはちょっと早め。お母さんはよく眠ってよく食べるのが一番いいと知っている人だった。それをわたしたちにきちんとさせることを、心に決めてもいる人だった。
 だけどさすがに眠くなるにはもう少しかかるものだから、たとえば雷の鳴る夜なんかは、うるさくて寝付けずに苦労する。しばらくシーツにくるまって転がっていると、たまに――しょっちゅう、って言っても良かったのかもしれない――遠慮がちに扉が叩かれる。まだ一人部屋に慣れない子が、だけどお母さんたちの部屋に戻らせてもらうわけにもいかずに、ちょっと途方に暮れた顔でもじもじ立っているのを、中へ手招きしてあげる。
 ひとりで眠るのなんてむりだって絶望的に呟く妹の髪は、絹糸みたいに柔らかかった。きっとそんなことはないから大丈夫とわたしがいくら笑っても、お姉ちゃんはできてるからそう言うんだって絶対に信じてくれない。ただしそれを言ったわたしの側も、信じてもらえることをあまり期待していないのだ。なぜって、わたしもそっくりそのまま同じようなことを、姉に頭を撫でながら言い返したから。
 ああして撫でられるのはじつのところとてもくすぐったかったのだけれど、ちょっと肩をよじった妹も、そうなのかな。でも重みのある手のひらの方が、少しく安心できるものだと思う。だってわたしもそうだった。ほら、ふわっと体温が上がって、ぐすぐすなげいていたのが、穏やかな寝息に変わっていく。

 眠りにつく前は早く朝がくればいいのにと思うけど、起きあがるほんの直前になるとベッドの中がとたんに居心地よく思えるのだから、不思議だと思う。でも上のお姉ちゃんが起こしにきてくれているうちに目を覚ますのは、無言のきまりごと。朝からお母さんを怒らせない方がいいというのは、ビショップ家の人間なら誰だって知っていることだった。
 ただわたしは目をこすりながらキッチンにのたのた歩いてくるほうからそれをむかえるほうへとちょっと前に変わっていて、それがほんの少し誇らしかったのをまだ覚えている。家族の中での役目というのは、もしかすると時間よりも見た目よりもずっとはっきりと成長を教えてくれる。それが背伸びでも、皿を運ぶ側じゃなくてよそい分ける側になったのは、わたしにとって数少ない胸を張れることのひとつだった。
 朝食のうちで最初に与えられる役目でもある、お父さんにコーヒーを運ぶあの役目、果たす子はもう変わったんだろうか。バトンがわたるまでたぶんあともう少しだったのだ。あの子も今はもう誇らしそうな顔をして、小皿を配り分ける役目についているのかもしれない。それをちゃんと見ることは、もうないのだろうけど。
 週末が明けてまたウィッチ養成学校の寮に戻る朝は、よく玄関先で下の子たちに泣きつかれた。またすぐに帰ってくるから、といっても、それまでの数日間が長いのか短いのかを理解するにはきっとわたしも向こうも幼くて、両頬に交わすキスがほんの少し長くなってしまうのまで、いつものことだった。
 だからまた家に帰ると、門が見えるか見えないかのうちから大きな声のおかえりが飛んでくる。毛布みたいなそれはどんなにかいきおいよく投げつけられても、やさしくわたしの全身を包む。チップスのいい匂いがする。今日の晩ご飯は、なんだろうね。わたしに学校の話をせがむ妹のつめたい手はちいさくて、それでも記憶よりもほんの少し大きくなったようで、それはいつも、あたたかで。
 ――それらは、いつも、あたたかで。



「……せっけんのにおいがする」

 基地の自室、シーツはいつも清潔で、清潔は孤独だ。
 坂本少佐の訓練はいつだって的確に疲れるけれど、それはたぶんすごいことだったのだ。もう絶対に立ち上がれないといくら思ったって、言われるとおりにたっぷり眠ってご飯を食べて眠って起きあがると、どういうわけかすっきりと疲れがとれている。計ったような正確さ。それに少佐はお母さんと同じことを知っていた。きちんとたべることきちんとねむること。思っているよりもずっとずっとだいじなこと。
 でも、というより、だからこそ、だっただろうか、出撃があるとわたしの体はほんとうにどうしようもないほどくたびれてしまうのだ。それは初めての時から変わらないことで、次の日か、そのまた次の日かまでその重々しい欠落感に似たくたびれはわたしに絡み付いた。坂本少佐の訓練はいつだって的確に定量だ。それだけがずっと変わらないなかで、小さな穴がゆっくり数を増やしていくように、わたしの体は軋んでいく。
 穴が増えればもちろんそのぶんだけ軋みも大きく長くなっていって、はじめから数えてなんかいなかったけれど、ともあれその夜に自室の扉を開いたわたしのからだは、もうどうしようもないくらいにぎしぎしだった。ドアノブが自動的に発した金属音が耳にこびりつく。いつものようにご飯を口にする気力はなくて、真っ直ぐ部屋まで歩いてきたけど、抱えていたものは、空腹よりも喉の渇きとよく似ていたと思う。

 たべるなら、きゅうりを挟んだサンドウィッチがたべたいな。寝返りをうって、暗闇にはまだ目が慣れていないのに、不思議なほど確かに感じられる天井を見上げる。サンドウィッチ。いちばん最近に口にしたものだということを、そのときのわたしはもう忘れてしまっていた。あまりものをわけてもらった。それだけは得意なのだと、普段通りの平板な声よりはいくらか誇らしそうに胸を張っていたひとの顔も、たぶん忘れてた。忘れたかった。そのときの少ししょっぱかった味も。お母さんの作るそれからいつも香っていたサワークリームの匂いも。
 もう一度寝返りをうつ。くたびれているというのと疲れているというのとでは、根本的になにかが違うのかもしれない。そうでなければもっとたやすく眠れるはずで、ただ目を瞑るだけの時間は、焦りを頭の中で風船みたいに膨らませていった。ぷう。ぷう。ぱちん、ってなったら、なにか、終わるかな。終わりは始まりとひとしく見えづらい。だからまだ続くと思う。長く長く続くと思う。絶望的な確信だった。
 窓の外にはブリタニアが広がっていて、窓に背を向けてばかり眠るようになったのはいつからだったか覚えてない。ただ時を同じくして枕の端を握って眠る癖がついたらしくて、あんまりにも柔らかなそれは、つめたい引き金と同じように手になじんだ。あっという間のことだ。わたしが追いつくよりもずっと早い。とろいのは足だけじゃない。お姉ちゃんは困ったように笑ったけれど、それでもよく手を引いてくれた。

「ふあ、ぁ」

 あくびをしてみて、もう一度寝返り。してみるというのがただしいあくびだったから、響きはどこかつくりもので、ただなんとなくなきごえみたいだった。それが嫌だった。
 衣擦れの音は軋みとおそろしいほどよく似てる。それでも静かなのよりはいいかな。いいかな。キッチンあたりから聞こえてくる喧騒は空気よりもよそごとで、それでも耳を澄まさずにはいられない。起き上がっているにはくたびれすぎていたけれど、横になって目を閉じたら、わたしの耳が鋭くなってしまうことに対しての逃げ道は残されないのだ。扉を開けたら迎えてくれるのは毛布じゃなくて、清廉なシーツだけだというのに。どうしたってもう今はそうだというのに。
 ききたいことばなんて、もう、きこえないのに。からだがおもい。くたびれている。迷子になったときを思い出していた。あるいても、あるいても、いえにつかなくて、そのひはかぜがつよくて、さむくて、わたしはそう、とても、とても、くたびれて――。

「………っ、」

 なさけなくてどうしようもないのに耳だけはいっぱしの軍人みたいに澄まされるのが嫌で、枕に顔を埋めようとしたら、乾いたノックの音が室内に響いた。
 それだってもちろんのことよそごとであったはずで、でもそうなのだとしたら、限りなくわたしに近いよそごとだった。



 きょうじゅうにどうしてもよみたいほんがあって、とそのひとは言った。わたしよりもずっと煌めきの強い色をしたペリーヌさんの髪は、目にまぶしくて、少し痛かった。はあ、とうすぼんやりした返事をすると、しかめつらしい顔をする。ほとんど反射のようにしてびくりとする。それはいつもわたしがこのひとから向けられている表情だったのだけれど、わたしは痛みに慣れを感じることがどうしてもできずにいた。

「部屋にあるランプが故障したの。でも部屋の電気を煌々とつけるわけにもいかないでしょう?」
「はあ、えっと、中佐に怒られてしまいますし、ね……」
「……まあ、そうですわね」

 ばつが悪そうにしたのは彼女自身がいくぶん中佐のことを苦手に思っていたからだとわたしは勝手に解釈したけれど、なんだかそれだけではないような気もしていた。どちらにせよわたしが考えるべきことではなかったのだろうけれど。
 言うとおりに重たそうな、おまけにひどく難しいガリア語のタイトルの本を抱えたペリーヌさんは、滑らかな生地のネグリジェに身を包んだまま、わたしの部屋の中をちらっと見た。どうやら断らせてもらえる気配は無いらしいということだけ確かにわかった。わたしはとりあえず道を空ける。少し軋む。一歩が重たい。ペリーヌさんはとろくさいわたしの横をさっとすり抜けていく。電気を消した部屋の中でも、ペリーヌさんの髪はひりひりするほど輝いていた。
 それにしてもどうしてわたしの部屋なのだろうと思うよりも早く、ペリーヌさんはそのままベッド脇に座る。わたしの部屋にあるランプといったら窓に向かっておいてある机の上のそれだけだったけれど、彼女はどうもそれを使うとは思えない位置に椅子を持ってきていた。そうだというのにあくまでも乾いた音で、ペリーヌさんはハードカバーを開いている。くたびれていたし今すぐにでも横になりたくはあったけれど、戸惑いはわたしの視線と体をペリーヌさんの方へと向けたまま固定させていた。

「突っ立っていないで、寝ていて構いませんわよ」

 具合も良くないんでしょう、と付け足されたかどうか、はっきりと判断するのはちょっとむずかしい。寝ていて構わない、と言われた瞬間喉の奥からあくびがせりあがってきて、わたしは慌てて噛み殺した。暗闇だからきっとペリーヌさんにはわからなかったと信じたい。それも本当のところはどうだかわからない。
 眼鏡の奥で切れ長の瞳がじっとこっちを見ていて、それがちょっと居心地悪かったから、わたしはベッドまでだいぶ慌てて歩いた。眠たげなようにはとても見えない足取りだったと思う。でも光っているものはやっぱり苦手だった。瞳だって髪だって、ひとだって。

「その……灯りはつけないんですか?」

 普段だったら、聞き返されて、そのくせなんでもありませんなんて慌てて答えて、でもそれで終わってしまうような、そうしてまたいらつかせてしまうような重量しかない声だった。風でだって窓から射しこむ光でだって、ともかくなんでだって吹き飛ばされてしまうような声だった。そのとき、わたしが発したのは。

「窓の外を見ないから、わからないのでしょうけど」

 だから、ペリーヌさんがそのとき透明な目線をこちらに向けてくれたのは、たぶんわたしには想像もつかないようなするどさの結果で。
 このひとがいつもつめたくみえてしまうのは、その鋭さのひとつなのかもしれなかった。たとえばレイピア。

「今日は、とても月が明るいの」

 たとえば青い月明りにじんわりと照らされる、澄み渡るように鋭いレイピア。

 もう一度本に視線を落としたときに耳から流れ落ちた髪を、ペリーヌさんは静かに耳にかけた。整えられた指先は装飾の硝子細工みたいで、そう、たぶんそれは、とてもきれいだったのだと思う。こわいくらいに、きれいだったのだと思う。ペリーヌさんの透きとおった目線はふるびた紙の上でたゆたっていた。それがさっきからちっとも動いていないことを、わたしはたぶん、はじめから、気がついていた。
 でも彼女は本を読んでいるのだ。わたしは部屋を貸しているだけなのだ。それが全部からっぽな名前なのだとしても、ペリーヌさんが黙ってぶら下げてくれた刃先なのだとしても、わたしはそれに縋るしかなかった。握るのは痛かったけど、溢れさせてもらえたなにかは、やっぱりあたたかかった。わたしはさむかったのだ。さむくて、とても、くたびれていたのだ。
 ページを捲る乾いた音だけが、みじめなくらいに優しく響いた。

 わたしたちがその夜に交わした会話はそれきりで、あとは律儀に、ページをめくる音だけが定期的に響いた。ぺら。ぺらり。終わりが見えなかった。ハードカバーはとても分厚かったし、たぶん一度最後まで捲ったとしても、そのまま逆方向にページをめくるとか、そういうことを黙ってするんだろう、このひとは。
 だからといって目を閉じる以外に何をするでもなく、淀みなく繰り返される一定のリズムは、おどろくほどたやすく眠りを呼んだ。たいしたことがないように思えてしまうのはさびしいことだったけれど、それでもやっぱり気楽だった。ただみじめだった。
 誰かの音がするだけでどうしようもないくらいほっとしている自分が、シーツに包まれている爪先から肩あたりまでほかほかしてくる自分が、みじめだった。それでもページをめくる音だけはずっとずっと、心音のように響いていて、まるで初めから安らがせるためのものであったかのようなそれは、優しい嘘と同じように、耳からくたびれきったからだへと溶けていく。

「…………」

 ただ――眠りにおちる一瞬前、それまでずっと途切れなかった音が途切れて、わたしの意識は、それでどうにかしがみついていられたのだ。

「…………」

 それでどうにか、なんにも言わないひとが、ゆっくりとたったいちどだけわたしの髪を撫でてくれたのを。その指先の温度を、あたたかな匂いを。意識が沈む前に、水面から見える太陽みたいにきれいだったほほえみのことを。
 思い出すというよりはただそばにある、そのときわたしがすべて失ってしまったと思っていた、たとえば家族に関する何かのように。

 わたしは、おぼえていられたのだ。



 きっと私はだめなんですと何度も何度も彼女は繰り返して、しおしおと響くそれは、くたびれた音だった。わたしがあんまりにもよく慣れ親しんだ音だったものだから、思わず笑いが漏れる。ため息のようにさわやかな笑い。こういうときに否定の言葉を贈ってやる必要はきっとないのだと思う。そうしなくたって、いくらでも自分で自分を否定できるから。
 だってみんな、みんなそんなの我慢して戦ってるっていうのに。顔をしわくちゃにして、彼女は細く呟く。そうするとどんなウィッチだって、たとえば今目の前にいるこの子のように普段は張り詰めた顔で銃を構えることのできるウィッチだって、少しく幼くなってしまう。当たり前のことで、当たり前はいつもいとおしい。ホームシックだと言ってしまえばたったそれだけのことだけど、たったそれだけのことでわたしたちはいつも泣いたり絶望したりぼろぼろになったりする。

「ええと、それなら、一緒に寝ましょうか」
「は……っ、え、あの、え?」
「一緒に寝ましょうか、わたしと。あっ、ホットミルク淹れますから。突然お邪魔するお礼、ということで……どうですか?」
「ど、どう、どうっていうか、えっ、あの、リネット大尉、え?」
「ね。お砂糖、たっぷり入れてあげますから」

 言って何度か頭を撫でると、その子はぼろぼろ泣きだしてしまった。それでも手のひらに込めたのはいとおしい気持ちでしかなかったし、そのままでいさせてもらえた。そういうものなのだと思う。後になってからは、そう思わせてもらえる。そういうものなのだ、きっと。
 コーヒーを膝に零して泣いても、お父さんは笑ってくれた。久々に帰ってきてゆっくりしたいはずの夜を、一人で眠れないわたしと、お姉ちゃんは一緒に過ごしてくれた。ペリーヌさんは、黙ってページをめくりながら、それでも一晩中そばにいてくれた。

「し、しし、失礼します、大尉……」
「あー……その、さすがに、ベッドで大尉、は、やめない?」
「えっ!? あっ、は、はい、ですね!! リネット、さん……?」
「リーネ、でもいいんだけど」
「むりむりむりっ、むりです!!」
「そ、そう……?」

 かちこちになりながら、その子はシーツのほんの隅っこにもぐりこむ。別にそれでもいい。大切なのはひとりではないということだし、たぶんそれだけだ。ひとの温度はわたしが思っているよりもずっと強かった。それを今はどうにかわかるようになった。
 抱えていると自分の手ばかり傷つけるような痛いことは、いっそ放り投げて、はじめからなかったことにしてしまったほうがずっと楽なんじゃないかって、そう思うことの方が、きっと生きているうちにはたくさんある。だから、ときどき、くたびれる。無かったことにしようとした傷が、痛みだす。

「……リネットさん」
「うん?」
「その……えっ、と。また、というか、あ、いえ、たまに……たまに、」
「うん」

 わたしの言葉はナイフくらいにはなっただろうか。レイピアみたいに鋭いものには、やっぱりなれそうにないです、ペリーヌさん。あなたのようにはいきませんし、あなたのように黙って上手に髪を撫でてやることなど、わたしにはできそうにもない。それでも、なかったことにしようとした傷にまで、届いたでしょうか。届いて、そこにとどまり続ける想いを、存在するものとして溢れさせてあげられたでしょうか。
 傷を隠して笑える強さを、わたしはきっと教えてあげられないから。いつだって当たり前に訪れるものに、わたしは負けてしまっていたから。乗り越える強さ、そこから一歩踏み出せる強さを教えるのは、わたしにはできないことなのだろう。わたしがずっと握り続けているのは、そうあるままでいられた傷は、笑ってしまうほどまるきりぜんぶが、弱さだ。

「うん、また、いつでも。」

 だからわたしが贈れるのは、いつだって、あなたが、あなたであるように、という、多分に弱くてどうしようもない、みじめに優しい、たったそれだけ。
 ただ、そう在るわたしが、いろいろなひとびとに与えられて覚えているそのすべてによってそう在らせてもらえる今のわたしが、ほんの少し好きだから。

「ありがとう、ございます」


 よわいあなたよ、あなたであれ。

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