「かぜのちはれ」





自分のすきなひとが自分に対して笑顔を向けてくれるのにそれをちっとも喜べないなんて、私はもしかすると、すごく悪い子なんじゃないだろうか。

そんなことをふと思ってトゥルーデに聞いてみたら、とてもとても渋い顔で、そう思うなら少しは部屋を片付けろ、と言われた。
別に私はそんなお小言が聞きたかったわけじゃないのであって、そうなるとそもそもお前は軍人としての気構えが云々といった話をし始めた彼女の目の前に居る理由はない。
考えている間にもトゥルーデの話は三つもの目覚ましの大合唱にもかかわらず目覚めなかった昨日のことから、先週提出を忘れていた書類をちゃっかり彼女に書かせたことにまで及んでいた。
よくもまあそんなにぽんぽん思い出せるものだなどと端から忘れている私はうっかり口にしそうで、それはとても危ないんだろうなということは私にもぼんやりわかった。
いろいろまとめると、これ以上ここにいたってきっとお互いのためによくないのだ、そうに違いない。エーリカの直感はすごいって少佐も言ってたし、てことは間違ってないだろう。
というわけで、私なりの状況判断の結果として逃走作戦を実行し、いい加減追いかけ方まで性格と良く似て直線的すぎるトゥルーデに捕まるなんてことはなかったのだけれども。

私にとって不都合だったのはつまり、逃げた先で、そもそもの原因であるところのひとが、うじゃうじゅ言ってる小さな黒豹と、追いかけっこを楽しんでいたことだったのだ。
基地の外、いかにもその黒豹が好きそうな、足場が悪くてちょっと狭いそこで、ふたり――シャーリーとルッキーニの二人は、きゃあきゃあ笑っていた。


「おっ? よお、ハルトマン……っと!」

「やったぁー!! あたしの勝ちぃっ」

「あちゃあ、油断したな……」


普通に身のこなしだとか足の速さだとかを全部ひっくるめて考えたら凡そ捕まるはずのないシャーリーがルッキーニのタッチを受けてしまったのは、いちいち姿を現した私に手を振ったからか。
だけどもきっとシャーリーのことだから、そんなときはいつだって上手に上手に手加減してやっているに違いないのだった。相手には絶対わからないように。自分でもわかってないのかもしれない。
ともかくシャーリーときたら、まるで息を吸って吐くのとおんなじように、そういうことをやってのけてしまえる人物なのだから。


「なにしてんの」


私の声がひどくあきれた調子になっているのに気がついたのか気がついてないのか、恐らく完全に後者であろうルッキーニは、至極ご満悦そうな顔で説明をしてくれた。
しかしいくら私と彼女が常識ってものから若干逸脱気味な天才同士とは言え、簡単にルッキーニと意思疎通ができるかっていうとそんなことはまず無い。
興奮冷めやらぬといった調子でルッキーニが手をぶんぶん振りながら言った言葉のうちで私の中意味を持ったのは「勝負」と「掃除」の二つだけである。もはや言葉じゃなくて単語だ。
しかも言うだけ言ったら、彼女ときたらすっかり巣に戻ってお昼寝するモードに変わってしまって、ばいばいハルトマンーなんて言葉だけ残して去っていってしまうのが、天才ルッキーニなのだ。
自由だよねえ、と思わず呟いたら、"The pot calls the kettle black."なんてことを、残ったシャーリーはくちぶえのように呟いた。


「……で?」

「ああ、いやね、今日はルッキーニが掃除当番だったんだけど、どうも気が乗らないみたいだったから」


誰だって、嫌なことはしたくないだろ。だったら、それを楽しんじゃえばいいわけ。シャーリーはにっと笑ってそう言う。
つまりそういった、掃除だってゲームの一環だと考えればいいという彼女の考えに基づいて、掃除当番を賭けた追いかけっこは、先ほどまで実施されていたわけだ。
そういえば今日の掃除当番はルッキーニとペリーヌで、さっき目くじら大尉から逃げる途中で同じように頭をかっかさせているペリーヌを見かけたような気がしないでもない。

そんな、半ば通訳みたいなシャーリーの言葉で、私は状況を理解して、理解したのだけれど。言ってみれば、私の関心はもう、全然違うところに向いていた、のだ。
けれど軍服の袖の中でいくら手を握り締めたって、隠している限りはきっと伝わらない。シャーリーの目線は私よりもずっとずっと高い。私の全部はきっと彼女には見えない。
わだかまってる私をよそにふわふわ吹き抜けていく風に、シャーリーは彼女らしくくりんくりんと自由そうな髪を遊ばせながら、その笑顔のままでいやあ、と頬を掻いた。


「それにしても、やられちまったなあ。負けてやるつもりはぜんぜんなかったんだけど、あたし」

「私のせいだって言いたいわけ?」

「はは、じょうだんだよ、じょうだん。それにしても珍しいな、ハルトマン。こんな時間に起きて、ふらふらしてるだなんて」


暇ならあたしと一緒に、掃除デートといかないかい。いともなんでもないことのようにシャーリーはそう言った。
そのくせまたすぐにじょうだんだよってにっと笑って、すれ違いざまに私の頭をぽんと遊ぶように撫でてから、すたすた歩き去っていくのだ。
彼女の足はきっとまっすぐに掃除場所へと向いていて、対等な勝負ってやつを持ちかけた以上、賭けにのった以上、報いはちゃんと受けてやろうっていうのが、彼女の考え方で。
シャーリーはだってそういう人なのだ、もともとルッキーニの当番なのだからシャーリーがあの子のやる気を出させてやる必要なんてまずないはずなのに。
それでも仮に誰かがそういって彼女の足を止めたとしても、だってあたしも賭けたんだから、なんてことばで笑ってしまうのが、シャーロット・E・イェーガーなのだ。

だからシャーリーがにっと浮かべる笑顔はいつだっておおらかで、誰の周りにでもおんなじようにやさしく吹き抜けていく風のようで、彼女はつまり、風のようで。
微かに夏のにおいがする橙色の風は、そうして私の横もすたすたと吹き抜けていく。やさしいやさしいあの笑顔をふわりと浮かべて、吹き抜けていく。



「お?」

「…………」

「……なんだよ、ハルトマン。袖、あんまり引っ張ったら伸びちゃうって」




そいで、私は、私に向かってまっすぐ吹いてくるシャーリーのそんな笑顔が、ひどくひどくきらいだったのだ。




なんだどうした、ん、なんて言って、少しだけ腰を屈めた、深いブルーは私のことを掴まえる。見透かすというよりは促すような調子の言葉。私はいらいらする。
隊員うちで一番背が高い彼女が私と目線を合わせようとしたら自ずとこういうポーズになるってことも、わかっているのに、すっと近付いてきた夏のにおいにすら私は、ひどくいらいらする。

だってそんなシャーリーの口元にはやっぱりあの笑顔が浮かんでいるのだ、おおらかでやさしい、きっとルッキーニあたりは大好きに違いない、笑顔が。


「なんだよ。やっぱり暇なのかい」

「…………」

「んー、ならさ、別に手伝わなくってもいいから、一緒に来いよ、ハルトマン」

「え、なんで……」

「ま、話し相手が居る方が、何事も楽しいってことさ」


じゃあ、いこうか。
そうして彼女が私の背中をぽんと押したのは、何事も楽しんでやろうとするシャーリーらしい考えに基づいた上での行動だったのかもしれない、けれど。
つまりそのときの私はひどくいらいらしていたわけで、そのままぐいぐい背中を押してくるのを払いのけて、彼女の隣にらんぼうに並んだ。背中はへんにあたたかい。手のひらの名残がある。
振り払うように歩調を早めた私にも、シャーリーはおいまてよ、なんてくすっとした言葉と一緒にあっさり追いついてきてしまって、それが、それも、もう、ぜんぶ、ぜんぶ。



――だいっきらい、だった。




「……なんだよ、今日はやけにせっついてくるな?」



何の前触れもなく握ってやったのに、シャーリーの大きな手のひらはすぐに私のわがままなそれを握り返してくれる。親しみのこもった指先の強さはいつだってあたたかい。

だけど、だけど、ああ、いやな子でも悪い子でも、もうなんでも構わないから。その顔で笑わないでよ、こっちをやさしく見つめないでよ、私に歩調を合わせないでよ。
わだかまる想いを言葉にする代わりに、私は握る手に無理矢理ぐっと力を込めた。ほとんど本気だった、いっそ痛がればいいと思った。


「お……おっ、やるか、この」

「……っ」


いたずらっぽく目の端を綻ばせるのを目に入れないように俯いて、手に力を込めることだけおかしいくらい必死になったのに、結果は現実にとてもとても正直だ。
だいたいにしてシャーリーと私の筋力はほとんど拮抗しているのであって、おなじくらいの力で握り返されたそれは、彼女に痛みを与えることなんかできやしない。

そうこうしているうちに考えにふけっていた私の手からはふっと力が抜けてしまっていて、くっと走った痛みに耐えかねて手を放したのは私の方だった。
あたしの勝ち、なんて声は上から降り注いできて、それはざっくりと、ざっくりと、私のわだかまりの上に突き刺さる。清掃場所は空き部屋。シャーリーが扉を開く。
それじゃあ始めるとするか、お前はそこらへんでくつろいでなよ、なんて、本当に話し相手ってだけのつもりで連れてきたらしいシャーリーは、伸びをしながらそう言った。

私は――わたしは、まだ、熱っぽいいたみの残る手のひらを、見つめていて。


「…………」


きっと、あのひとだったら、この風を戸惑わせたにちがいない、なんてことを、ぶつぶつと考えていたのだ。






いやなことほど簡単には忘れられないもので、脳裏に焼き付いてしまうっていうのはこういうことを言うのだろう。
そんなことを考えてしまうほどそのときの記憶はまだはっきりと残っていて、別に思い出そうとしなくても、それは吐き気がするほど鮮やかに、私の中でよみがえる。


「あー……ハルトマン、ち、ちょっといいか?」

「ん? なにさ」

「まあ、なんだ……その、これを、だな」


いつもの軍人の鑑のような態度はどこへやら、トゥルーデがやけにもじもじした調子で取り出したのは、なにやら甘い匂いを放っている、そのくせやけに地味な包みだった。
包みっていうのもちょっとはばかられるほど質素なそれを私は差し出されるがままに受け取って、頬を掻いたり視線をさまよわせたりと忙しいトゥルーデの続きの言葉を待つ。


「これを、あー……シャーリーに、渡してやってくれないか」

「……じぶんで行けばいいじゃん」


あたりをきょろきょろ見回す、っていう仕草を最後にした彼女がぼそっと言ったのはそんな言葉で、報告は大きな声で、明瞭に、なんて軍規が珍しく私の頭を掠めた。
そして私の至極まっとうな返答にトゥルーデはいやそうなんだが、しかしだな、といったいいわけをもごもご並べ立てて、よくわからないが断るのがとても面倒なことだけは伝わってくる。
ああ、もう、いいや、付き合ってたらまた眠くなっちゃいそうなんだもん。あごに手を当てて真剣な目をしてるけど、言ってることは大体あほらしいのが現在の彼女だった。
つまり起き抜けの眠たい頭でこのちょっとめんどくさい状態のトゥルーデの相手を延々する気分にはなれなかった私は、とりあえずひらひらと手を振ってその場を去ることで、了解の意に代えたのだ。
渡せなかったら別にいいんだ、でもできれば、とかそんな言葉が背中で響いていたような気がしないでもないが、聞いてるこっちが混乱してきそうだったので、耳にはふたをして。


しかしもうすこしめんどうだったのは部屋を出てすぐひとつめの角のあたりでなにかそわそわしている影を見つけたからなのであって、いい加減つっこむ気が失せてた私はすぐに声をかけた。
なんかもうとっとと終わらせてしまいたい気分が蔓延していて、嫌な気分はその煙に巻いてしまいたくて、昼間の日差しが降り注ぐ廊下では、夏の色がふわりと揺れていた。
お、ハルトマンか、どうしたハルトマン、なんてまるで確認でもするみたいに二回もひとの名前を言った彼女は、その声の調子が少しだけうしろむきなことには気がついてないんだろう。
ついでに、私が包みを放ったときに、ブルーの瞳の中で、仄かな光が揺らめいたってことにも。


「これ、トゥルーデが渡してこいってさ」

「へ……あいつが?」


ぽんと放られたそれをあわてて受け取ったシャーリーは、しずかに揺らめいたままの目でじっとそれを見つめてから、おずおずとその無骨な包みを開いた。
中身はだいたい私の予想と当たっていたお菓子、というかクッキー数枚で、シャーリーは信じられないとでも言いたげにそれをためつすがめつしている。
そんなに見なくたってそこにあるものはあるんだからと言ってやりたくなりながら、私はぼんやりと、そういえば昨日部屋に帰ってくるのがやけに遅かったな、なんてことを思い出していた。

声をかけてみたらあんまりびっくりするものだから、何をそわそわしているのかと尋ねたら、そわそわしてなどいない、という非常に説得力のない答えが返ってきた。
トゥルーデのそういうところはばからしくて、そのくせへんにかわいらしいからすきで、でもそれが私にとってはひどく悔しいのだ。
加えて、同じことがぽうっとうれしさだかはずかしさだかよくわからない色で頬を染めている、目の前の彼女にだって当てはまってしまう。


「……マジかよ」


そのうちにようやく存在を疑うのに満足したらしいシャーリーは、ひどく戸惑っているふうな指先で一枚摘んで、やけに弱々しくさくりとそれを口に入れる。
たぶん、おいしい、と思う。料理も科学だと言ってはばからない彼女は、私の妹には勝るとも劣らないほど計量器と仲良くするから、形式ばってはいるが、失敗はあまりしないのだ。

だから、それはきっと、おいしい。きみがわらうほどに、おいしいんだ。わかってる。


「はは、まったく、ばっかじゃねーの、あいつ」

「……なんで、おかし?」

「ん、賭けたんだよ、あたしとあいつで」


だってあいつが、お前みたいな大雑把な奴は絶対料理なんてできないだろう、って言うからさ。くすくすと笑いながらシャーリーはクッキーを齧る。口の端っこにちいさな欠片がくっついてる。
そんじゃあ作って食べさせてやる、うまかったら素直に認めて、そうだな、お前もあたしになんか作れよ。いつかのくだらない口論から生まれた話はそんな形で発展したらしい。
いいだろう、もしうまかったらの話だ、そのときは必死にお前のために作ってやろう、なんて鼻で笑ってたくせに。くすくすと漏らされる、シャーリーのうれしそうな言葉。
おいしいものを食べたら幸せになるんですって言っていたのはミヤフジだったかリーネだったか思い出せないけど、今の彼女がしあわせそうなのは多分そんな理由じゃなくて。


「ちぇ、まったく、これじゃああたしが形無しだよなあ」

「なんでさ……賭けには勝ったんじゃないの?」



「だって、これ、あたしなんかのよかずっとずっとうまいんだ」



言って、シャーリーは、頬をまぶしく染めながら、夏の色をふわふわと揺らしながら、ああ、ちくしょう、って、笑っていた。こどもみたいな顔で、笑ってた。

私はその笑顔に、はじめてみたその笑顔にたぶんものすごくどきどきしていて、シャーリーのそんな笑顔を間近で見られたのはきっと幸せだったのに。
そのときせかいは少しだけ滲んで見えていて、認めたくなくてものどの奥がつんと痛くて、ぎゅっと握った手は微かにふるえていたのだ。

シャーリーは、あいつには内緒だぞ、これはありがたく貰っとくけど、なんて言葉だけ残してすたすた去っていった、風は微かな熱を帯びていた、しらない熱だった。
しりたくない熱だった。


「なんだよ」


なんだよ。なんだよ、なんだよ、なんだよ。そんなかおで、わらえるんだ。そんな――こどもみたいなかお、するんだ。
いつもはそんなふうに笑わないくせに。もっとやさしくって、おおらかで、誰もがきっと安心してしまうような、深い笑みを浮かべるくせに。
それでも目と記憶にはっきりと焼きついた記憶は絶対に消えないのだ、どこかこわれてしまいそうな、そのくせやけにぎゅっとする笑顔は、しらない笑顔は。


私に向けては一度も浮かべられないのに、ぜったいに、ぜったいに、きえてくれないのだ。













「なん……なん、だよ、ハルトマン」

「……やっと、びっくりした」

「え?」

「なんでもない、よ」

「は、ちょっと、なにっ……ん、」


力が拮抗しているということはつまり私の手で頭を押さえつけるという方法ではシャーリーを抑えきれないということを意味していて、それを知っていた私は、その役目を壁に任せてしまった。
すっかり戸惑った瞳でこっちを見つめてくるシャーリーの頭、そのすぐ横には私がついた手のひらがあって、つまり彼女は逃げられないのだった。冷たい石の壁の温度が、いっそう彼女の同様を強くする。
壁際にへたり込んだシャーリーとの距離を追い詰めた両手で縮めて、言葉もぜんぶ飲み込ませるように、らんぼうなキスをした。咬みつくようなそれにシャーリーはやっと戸惑ってくれる。
やっと、おどろいてくれたのだ。

階級は彼女の方が上だとか、撃墜数だったら私のほうが勝ってるとか、背は向こうのほうが高いとか、歳はおんなじだとか、そういう話でなくて。とにかく、いまのままじゃ、いやだった。
だから私はシャーリーがちがう顔をするのが見たくて、おおらかなやさしい笑顔はだいきらいで、でも口げんかしかしてないはずのトゥルーデにこっそり向けたような笑顔はどうしたって手に入らなくて。


「ふぁ……は、るとまん、っやめ……」


どこか埃っぽいにおいと一緒に空き部屋の中を渦巻いたのは、シャーリーのひどくよわよわしい声だった。
熱っぽさを帯びたそれは、くちびるの間、無理やり割って入った私の舌で、くらくらするくらいに温度を上げる。何度も顔を背けては、そのたびに逃げ場がなくって捕まえられる。
シャーリーはつまり私と壁の間でなされるがままになるしかなくて、そうしたのは私で、そんなことをひとつひとつどっちのかわからない唾液と一緒に飲み込んでいく。

あまくてあまくて、どこか背徳的な響きを持っている水音だって私を満足させてくれるにちがいないのだ、溺れていくように追い求めるように私は舌でシャーリーの中を蹂躙する。
いくら負けん気の強いところがあるリベリアンな彼女とはいっても、突然すぎる行為にはすっかり度肝を抜かれてしまったんだろう、舌の裏も表も舐めつくしたって、シャーリーはただもがいていた。


「っはあ……シャーリー、すっごいまぬけ顔」

「なっ……そ、そりゃ驚くっての、おまえ、突然、こんなっ」

「じゃ、もっとびっくりしてよね」


「ぅあっ、ちょ……ばか、やめろ、ハルトマ……んんっ」


掃除のために彼女がいつもの臙脂色のジャケットを脱いでいたことは、現在の私にとっては好都合で、シャーリーにとっては不都合にしかならなかった。
白いワイシャツのボタンはそれなりに追い詰められている状態の私が引っ張っただけでやけに簡単にはだけてしまって、あらわになったくびすじに、私は今度こそ本当に咬みついた。
歯をあてて、わざと音がたつようなキスをして、赤いあとがぽっつりとのこるように吸い上げて。下着の上からちょっと私の小さなそれだと役者不足気味な胸の上に手を伸ばす。
空き部屋の中、だんだんとおおきくなるシャーリーの声が、どこか悲痛に響いた。


「ひと、きちゃうよ。それとも、見られたいの?」

「な、何言っ……んぁ、やめ、やめろったら」


いやだいやだと首をふってみせたのを最後にシャーリーはきゅっと目を閉じてしまった、それがなんだか気に入らなくて少しだけつよく咬みつく。いた、ぁ、と、あまいあまい毒のような声がする。
そうそれは、もしかしたら毒だったのだ、耳から入って頭を体を駆け巡っていくあまいあまい毒は私のなにもかもをぐいぐい掻きたてていって、たぶん行為だけが乱暴さを増した。

どうせ手に入らないなら、ないものねだりなんて辛いだけだから、上を見たって眩しくて目を閉じたくなるだけだから、私はもっと下を下を追い求めることにしたのだ。
ねえ、こっち見てよ。私が行為の上では完全に優位に立っているせいか、シャーリーはしんじられないくらい素直に私の言葉に従って目を開ける。
ブルーの中ではどうしようもないくらいの戸惑いが揺れていた、それもちゃんとはじめてみる顔だったから、もうそれでいいって、それが欲しかったんだって、私は思った。


私が手に入れられるのがそのおおらかでやさしい笑顔だけだったのなら、いちばんほしいものが手に入らないのなら、もうそんな笑顔なんて要らないから。苦しいだけなら要らないから。
それなら違うものを手に入れようって思って、それならもう、笑顔の中じゃなくて、涙の中に、せめて私だけを置いて欲しかった。



「あ、んっ、ん……やめろ、やめろったら、ハルトマン……っ」

「…………」



そうたとえばそんなふうに、きれいにきれいに濡れた瞳の中にだけは、私が、私だけが、居たら、いいなって。





ついにまったく余裕を失ったらしいシャーリーの目からは、じわりじわりと雫が染み出してくるようにこぼれて、それはそれはまっすぐと頬を伝った粒は、ぽたりとあかいあとの残る肌の上に落ちた。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。一度こぼれたらあとはもうほぼ規則的にあふれてきたそれは、驚くほど静かに流れては、シャーリーの肌を濡らす。


「……っ、ふぇ」


なんだやっぱりこどもみたいなんじゃないかって、私は思ったんだ。
私になされるがままになってさ、顔真っ赤にしてさ、おまけにそんなよわよわしい声まであげちゃって。



「うぐ……ぅ、えふっ」




ぐずぐず鼻鳴らして、でっかい雫をいくつも、いくつも、ぽたりぽたり、ぽたりぽたり、まえが、見えなくなるくらい――。




「う、あぁぁっ……!!」

「……なんで、おまえが泣いちゃうんだよ」



ばかだなあ、という、言葉と一緒にぽんと頭の上にのっけられた手で、それこそ海みたいにぼたぼたあふれてきた涙を止められなかったのは。
泣かせたくて泣かせたくてたまらなかった、そういう顔を見たかった彼女じゃなくて、それを望んでいたはずの、私だった。









思い切り泣いたら眠たくなってしまうっていうのはちいさなころから変わらなくて、しばらくすると私の頭はぼうっとしていて、その間ずっとシャーリーは黙って私の頭を撫でてくれていた。
おまえの髪、きれいだよなあ、やわらかくって。そんなことをぼそりと呟かれたのは、私の頬がどうにかやっと乾いたころだっただろうか。
長い指でゆっくりゆっくり梳かれていくのがくすぐったくて、腕の中で小さく身を捩ったら、シャーリーはそのときやっとくすっと笑った。そのときやっと、顔が見られた。


「……その、かお」

「え?」

「その笑った顔、私、きらいなんだ」

「あら……傷つくねえ」


「なんか……なんだか、とおい、みたいで」


そばにいるのに、すぐ見えなくなってしまいそうな気がして。無意識のうちに伸ばしたどこかひっしな手のひらは、だけど、あたたかな温度によって包まれる。
指先までしっかりと絡めてくる。シャーリーはいつもより少しだけつよく握ってくれて、ちょっと痛いくらいで、そのくせ私はほっとしてしまった。
わかってるんだ、これじゃあ今までとおんなじじゃあないかって。だってこころのどこかではまだやっぱりいらいらしてる。頭の隅ではしらない顔したシャーリーが笑ってる。
でも、だけど、ぎゅっと握ってくれている手があったかいのも、髪を撫でてくれるのが心地いいのも、シャーリーの笑顔がやさしいのも、それはだって、ぜんぶぜんぶほんとうで。


「ああ、もう、わかんないよ……シャーリーの、ばか」

「おいおい、あたしのせいじゃないだろう、それは」

「シャーリーの、せいだ。ぜったいそうだ、だって、そんな顔、そんなの、私、きらいなのに。だいっきらい、なのに」

「……泣くなったら、ハルトマン」


泣くよ、泣いてやる、もうシャーリーなんてだいっきらいだよ、どうしたらいいか全然わかんないんだ。
やさしい顔で笑ってるのが嫌いなのに、その顔で頭を背中を撫でられると、私は、わたしはだって、すごくすごく、ほっとしてしまう、から。
そんならつめたい涙だとか悲しい顔だとかを私のものにしてしまえなんてことをさっきのさっきまで必死に思ってたはずなのに、でも――。


でも、やっぱり、きみがすきで。



「だって……だって、きらわれるの、やだ」



泣いた顔で、おびえた瞳でだけ、見られるのは。そんなきみしか、手に入れられないのは。やっぱり、やっぱりすごく、悲しいことのように、思えてしまうから。
そうやって私は彼女の腕の中でちいさくなってかたかた震えていて、ぼろぼろ泣いているのは私のほうで、このままじゃあ、消えてしまいそうな気すら、したんだ。



「きらいやしないさ、ばかだなぁ」



だから、シャーリーがそう言ってゆっくりゆっくりぎゅっとしてくれると、私はどうしようもないくらい、ほっとして。




なあ、こういうときどうやったらいいかしってるかってシャーリーは言った、詰まったのどからは何の言葉も出なかったけど、表情で私の思いは伝わったらしい。
シャーリーはにっと笑って、いつものあのおおらかな笑みを浮かべて、私の額を指で軽くぱしんとはじいた。いい音だった。仲直りのやり方、しらないのか、ハルトマン。
じつに楽しそうに笑っている目の前の彼女と、やさしく吹いてくる風と、夏の匂いと。


「いいか、こんなときはな」

「う、うん」


「思いっきり抱きしめて、キスをするのさ!」



それから、やさしく響いたきみの言葉とを、私はきっと、忘れないのだろう。


 

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