「つき、よる、みずのおと」



月のない夜に吹く強い風は、どこか怖いところへ連れていこうとするうめきのようで、私はそれがとても、怖かったのだ。

夜中に一人で飛ぶのが怖くはないか、と聞かれたことがある。そのほとんどは、何か不思議な生き物に恐る恐る話しかけてでもいるかのようなものだった。そのほとんどは、自分とは異なるものをしげしげと見つめる目をしていた。
初めてそうでない言葉で、目で尋ねてきたのは、覚えてる、すごく意外な人だったから。"青の一番"なんて、それこそ昼間の抜けるような空に似合いの名前で飛んでいるような人が、いつだって影のようだった私のことを真っ直ぐと見て、その瞳で確かに捉えて、怖くありませんの、と言ったのだ。ペリーヌさんは私が思っていたよりもずっとずっと優しい人だった。だってあのひとは私のことを違うものみたいに見なかった。少なくとも同じ――自分と同じところに、私を置いてくれた。そして、心配してくれたんだと、今ならわかる。
それなのにあのとき私は、何を見て、何と言ったろう。少なくともペリーヌさんにとって私の返答はひどいものだったみたいで、だからあのあと、いるのかいないのかわからない、なんて言われたこと、私、気にしてるなんて、言えなかったんです、ごめんなさい。ごめんなさい、もう今では、伝えられない。ほかのどこかでわかってくれるさ、と、彼女のことを完全に信用しきった目でエイラは優しく私の肩を叩いてくれた。どう返したらいいかは、ちょっとわからなかった。

きっと私はひとりで言葉を探すのが上手になっていたのだと思う。だいじょうぶもがんばれも自分にだけは何回だって使える呪文だとそのときの私はちゃんと知っていたし、それは私が自分でやっと見つけた、自分で自分を守る大切な方法だった。
そのときはもうしていなかったけれど、しなくてもほとんど反射のようにしてその言葉が浮かぶようになっていたけれど、ナイトウィッチになりたての頃、私はよく飛ぶ前に、いつだって暗い部屋の中うずくまっては耳を塞いでいた。そうするとざあざあとほんの少し落ち着くノイズだけが流れるから、私はその中に、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と、自分の言葉を混ぜ合わせるのだ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。ノイズの中で何度も繰り返されることばは、いつしか身体に流れる信号になって、それは私のふるえを止めてくれた。
だから私は何も言わなかった。何も、言えなかった。返答は無言。いつだって無言。私はそれに答える言葉を持たなかった。持っているのは自分に対して言い聞かせてきたいくつものことばかりで、おもしろそうに尋ねてくるいろんな人にも、そして心から心配してくれたペリーヌさんにも、同様に無言しか返せなかった。思うに、怖いのは、あたりまえだったのだ、そのときの私にとって。大切なのは怖いか怖くないかじゃなくて、つまりは、その怖い中で、どうやって自分の震えを止めるかっていう、たったそれだけで。

だってこわいことしかなかったなら、こわくないなんてものじたいが、私にはわからなかったんだ。
そしてずっとわからないまま、そのはずだった。


――なあサーニャ、心配しなくても大丈夫だよ、今日は雨にはならないから。

――雨の夜に飛ぶのは、嫌いなんだろ。だっていつも、天気が悪いと、沈んだ顔してるじゃんか?

――へへん、これはなぁ、占いの本にもちゃあんと載ってた、由緒正しい晴天祈願のお守りなんだぞ。

――今日は私が、これを持って一緒に飛ぶからさ。だから、


――だいじょうぶだよ。


「……エイラ、」


それなのに私は、どしゃぶりの雨の中でも決して私の手を離さなかったその温度の向こうに、ざんこくなくらいやさしいやさしい安心を、見つけてしまったのだ。
ねえエイラ、私、私ね、あのあと雨が上がった夜、まだ雲が晴れていない夜に空を飛んで、初めてつよくつよく思ったんだ、ひとりで飛ぶのは、こんなに怖かったんだって。あまりにもあたたかなはんたいを手にした瞬間、そのまたはんたいの冷たさは、どこまでも真摯に私の体を刺した。ぎゅっと目をつぶってみたんだよ、だいじょうぶだいじょうぶって何回でも言ってみたんだよ、でも全部、意味がなかったの。
だってあなたの言葉じゃないと、なにもかもが、もう響かない。

「そばに、いて」

それがいつかなくなってしまうものだってことも、そのときから私はちゃんと、知っていたのに。
一人で飛ぶ空のおそろしさを、もう一度見つめるのが嫌で、きっと私はずっと逃げていたのだ、今更わかったって仕方がない。手にずっしりと重い武器は、身を切るように冷たくても、これが私の生きるすべだったのだから。
帰ったらきっと、きっとまた迎えに来てくれたあなたがおかえりって言ってくれるはずだからって、私はいちど片手で耳を塞いでみるのだ、いつかの魔法の再現だ。おかえり。おかえり。おかえり。何度も思い出して、何度も思い出してようやく、私のこころの奥のふるえは、止まる。

「エイラ……」

止まる、止まってください、おねがい、だから。




「なあサーニャ、一緒にサウナ、行かないか?」

私が思わず肩を震わせるくらいびっくりしてしまったのは、エイラがそう声を掛けてきたのも、月のない夜のことだったから。それでも明日は飛ばなきゃって、ひとりで飛ばなきゃって、ちょうど考えていた時だった。ちょうどそう考えながら、また同じように半ば反射のようにして、もうずっとずっと前のことなのにちっとも色褪せてくれないいつかのだいじょうぶを、思い出していた。そこに根っこだけはずっと変わらない、だけどいつかよりももっとなにか静かな色味を帯びた声が重なったものだから。
何かを考えている余裕がなくて、しかしだからこそあっさりと頷いてしまった私に、エイラはよかった、と笑った。穏やかな微笑みだった。最近エイラは、そういう顔で笑うようになった、と思う。ふわりと立ち込めるあたたかさに手を伸ばせば、穏やかに笑ったあなたが、私の手を、取ってくれる。
飛べなくなって、魔法も使えなくなったエイラは、だけど深呼吸をしたあとみたいに、何かふっきれたような顔をするようになった。ああ、あと、それから、ふたりでたくさん、これからの話をするようにも、なったっけ。そんなときはたまに、ちょっとだけ、昔みたいにいたずらっぽい笑顔も見せてくれる。躊躇いがちに絡む指先は、昨日よりも優しい。たぶん明日はもっと、優しくなる。

だけどサウナにいる間エイラはずっと無言のままで、次に口を開いてくれたのは、近くの湖へ汗を流しに行った時だった。
りい、りい、とどこかで虫の鳴き声がしていて、だけどそれはいっそう、辺りをすうと満たしている沈黙を、私に感じさせる。火照った肌に冷たい水がなめらかに染みた。
と、そのとき、ちゃぷりと静かな音を立ててやってきた細波が、私の腕のあたりをそっと走っていく。自然とそっちを向く。ちゃぷ、ちゃぷり、と水音、エイラが、岩の上に腰かけたかっこうのまま、足先で飛沫を遊ばせていた。

「やっぱり、雨の空は嫌いなままなのか?」
「え……どうして?」
「んん、月のない夜は、サーニャ、いつも悲しそうな顔、してるからさ」
「そんなこと……ないよ」

――ぱしゃん。
少し重い音がして、びっくりして顔を上げた。そのとき初めて、自分が俯いていたのだと気が付いた。はっきりと感じられる流れが、私の体を奥の奥の方までゆさぶる。エイラが、こっちに、やってくる。音がしたのは最初だけで、あとはゆるりと歩いてきたエイラは、また目線を落とした私にはっきりと影を落とすところまで、近づいてきた。
そのときばかりは月のない夜でよかったなんて思ったんだ、水面にゆらゆら揺れている影ですらエイラのからだはこんなにも眩しいというのに、月明かりの下で照らされるのなんてみてしまったら、たぶんもう私、なにも、考えられなくなるから。

「……サーニャは、そういう嘘、じょうずだよな。」

でもあなたには、見抜けるんでしょう。ちょっとふるえているみたいに――たぶん、困ったように笑っているのだ、このひとは、見なくてもわかる――言ったエイラは、俯いたままの私の手を、取った。逃げる隙もなかった。引退したってダイヤのエースは飾りじゃないんだぞ、なんて、相変わらず追いかけっこでは無敗なエイラが、頭のどこかで胸を張っていたような気が、した。
そのままぐらぐらしている私を、さっき自分がいた岩のところまで引っ張っていったエイラは、先にひょいと自分だけのってしまって、それからぽんぽんと隣を叩く。ほんとうにどうしようもないときはなんともため息をつきたくなるほどどうしようもないひとだというのに、こういうときはまた違う意味でため息をつきたくなるほど、ずるいひと。私がやっと覚えたはずの上手な嘘だってあっさり見抜いて、それから、私がどうしたらあなたの隣に行きたくなるかすらも、すっかりわかっているらしい。ずるい。ずるい。ずるいよ、エイラ。

「なあ、サーニャ」
「…………」

「つらいことはさ、はんぶんこ、させてくれよ」

ねエイラ、あなたはずるいよ、そんなふうに、やさしく抱きしめてくれるなんて。

しかもこのひとときたらきっと今自分がどんな状態で私を抱きしめているかなんてことはほんの一瞬頭から飛んでしまうたちだからややこしい。だって私が思わず喉を鳴らしそうになったそのときになってやっと、エイラの腕はかちんと固まったりするんだ。そんなふうだからエイラときたら完全に手遅れで、そうだよ、私たちいま、いまどんなかっこうしてるって、わかった?
あ、う、なんて今更口の中で唸ったって、もう、遅いんだよ、エイラ。本当は私だって、さっきまで直視もできないくらい眩しかったのに、少し湿った肌がぴったり吸い付いてきてることを考えると、視界全部までかっとなりそうな気分だったけど。
けど、でも、もう。

「あ……っと、さー、にゃ?」
「…………」
「ええと、つまり、そういうことだから……じゃあ、そ、そろそろ、」
「行く?」
「……え」

「ほんとに行くの、エイラ?」

でももう、こんどは、私のほうが、ておくれなんだ。
エイラの瞳のなか、戸惑いが揺れる。たぶん私の体を突き放すか何かしようとしたらしい手が行き場を失っているのを見て、私はそこにゆっくり、じぶんのを重ねる。緊張や躊躇いの隙間は、私の、或いはエイラの手のひらの上、ぬるくなった水が、とろりと埋めてくれた。一度ぴくんと跳ねたエイラの指から雫が落ちて、私の手の甲の上をなぞった。エイラの指は動かない。このひとときたら、もしかすると、呼吸まで止めてるのかもしれない。なんとなくそんな気がして、少し、おかしくなった。

「うぁ、っ……さ、サーニャ、ちょっと」

エイラはひゅっと細く息を吸った、吸わされたみたいな音の後でやっとそれだけ絞り出して、なんだかあまりにもあわれっぽい声だったから私は思わず吹き出してしまいそうだったのだけれど、でもいっぱいいっぱいなのは私も同じなんだよ、だから、見てあげない。まだ軽くなんどかふれただけ、しっとり濡れた指の上、なんどかキスを、落としただけ。唇の端から忍び込んできた雫が、舌に染みる。湖の水はこんなに甘かったかな、ねえエイラのゆび、すごく、つめたいね。のどが勝手に、こくん、とうごく。
甘い甘い味が舌先からからだいっぱいにじんわりと染みたそのときには、思うに私はくらくらとそのあまいあまい毒にすっかりおかされていて、だからもうすこしだけ、ほしくなった。全然動いてくれないエイラだって、全然私の手を握ろうとしてくれないエイラだってきっと悪いの。そういうことにしておいて、白く白く綺麗な指先を、そうっとくわえる。ひっ、なんて、すごくなさけない声がした。

「サーニャ、さ、にゃってば、あの、えっと」
「んっ……ふ、なに、エイラ」
「な、なにっていうか……なにっていうか、さ……」
「だって」

ああもうエイラの手はなにで濡れているのかよくわからないけれど、ぴったりとくっついていることだけは確かで、視線がどうしようもないくらいあっちこっちいってるエイラだって、ようやく私の腰のあたり、迷っていた手が、もうちょっとでつよくつかまえてくれそうな予感は、していて。ゆらゆらしてるエイラの目は、だけどもうすぐこぼれそうな何かでいっぱいだった。私ももう、いっぱいだった。
それに二人で溺れてしまうことが、いいかどうかなんて、わからないけれど。でも私は最後の引き金を引いた、自分の意志で引いた、私は自分の意志で、この頼りなくて弱い腕をできるかぎり広げて、あなたの首に、抱きついたの。

「つらいことは、はんぶんこしてくれるんでしょ、エイラ」
「う……うん、そう、言ったけど」
「だいじょうぶなんかじゃ、ないの」
「……サー、ニャ?」
「だいじょうぶなんかじゃない……っ、さみしい、ひとりで飛ぶのさみしいよ、こわい、こわいの、エイラ、あのね、こわいの、すごく……すごく、」

わかってるよ、それがどうしようもない考えなんだってことも、わかってる。同じように、どんなに触れ合ったって、ずっとあなたがそばにいるなんて、そんなことはありえないってことも、私、わかってるんだ。さっきはどうにか飲み込めてしまった疼きは、今度こそ喉のあたりからくうくうと溢れた。また、水とは違う、たぶんそれよりずっと切実な温度を持った滴が、エイラの綺麗な筋の背中のうえ、ぽたり、ぽたり、と落ちていく。
それでも震えが止まらないの、あなたの前ではつよくなれない、どんなにかわがままなこと、どんなにかあまえたがりなこと、いつになったら治るんだろうって、考えることも、あるのに。エイラがね、エイラがそばにいると、そういうのはゆっくりどこかに溶けて行ってしまって、そうじゃない優しい温度が、私を、私のすべてを、いっぱいにしてしまうのです。
――だから、もうすこし、もうすこしだけ、なんて、ほんの一瞬で消えてしまうすべてを、私はどこまでも、どこまでも、ほしがってしまう。

「エイラ……エイラ、っ」
「……うん、ごめん。わかった、サーニャ」

めを、とじて。
ひとつ、ふたつ。エイラと一緒に呼吸した私は、言われた通り、目をとじる。月のない夜なんかより、ずっと深い暗闇。なのに、あたたかい、くらやみ。こつん、と最初に額がふれたのは、もしかすると、エイラの最後の、ためらい。

「っ、ん……」

そうだというのに、最初に吐息を漏らしたのは、私だった。覚悟ができていないのも、私の方かもしれなかった。どちらかの髪から落ちてきた水が、かさなった唇の間をつうとなぞって、おちていく。それがからだの上に落ちたのがなにかの合図だったみたいに、いちど離れて、もういちど。どっちのだかわからない吐息がふわりとしのびこんできて、私の肺を優しく焼いた。
それはいつもよりもずっと近いのに、溶け合いそうなほど近いのに、よけいになんだか遠いように思えて、どんどんくるしくなる呼吸とくらくらする頭のことをどうにか無視したまま、いっしょうけんめい濡れたふたつを重ねた。ねえ、わすれたくない、わすれたくないのに、どうしてあなたは、こんなに遠いんだろう。
はなれて、はなれたけど、それがやっぱりかなしくて、額を肩口にすりつける。エイラのからだはあたたかい。なきだしそうなくらいに、あたたかい。

「あ、っ」

そのとき、多分に惑っていたエイラの手が一瞬腰のあたりに触れて、思わず体が跳ねた。でもそれより一番びくっとしたのが目の前のエイラのほうで、だから、なんだかそれは、おかしいと思うんだけれど。ごめん、ごめん、なんて、まだ私が何を言ったわけでもないのに、エイラは一生懸命謝る。答えるほどの、というか、怒るほどの余裕は、もう、残されていない。
だから、黙って手を伸ばして、エイラの体の後ろに隠されようとしてた手を、さっきと同じところに、おしつけた。自分でそうしただけでもこんなにどきどきしてしまうのだから、たぶんエイラが自分で触れてきたりなどしたら、もしかするとそれだけで、私はおかしくなってしまうんじゃないかって、思うけれど。だから――あるいは今まで、私はあなたに触れられるのがまるで苦手みたいに、映っていたのかもしれないけれど。

「えと、さー、にゃ」
「いいの」
「……い、いい、の?」
「うん」

もう今はそんなことをぜんぶ忘れてしまって、私に、ほんの一瞬でいいから、永遠を、ください。
ふるえたのどが、ようやくことばを、しぼりだす。


「――さわって、エイラ」

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