「でんしゃのなか」



「さ……サーニャ」
「うん?」
「えええっと……えっと……さ……さむく、ないか?」
「うん、大丈夫」
 何がいちばん良くなかったんだろう。もう何度目になるのだかわからない会話を交わして、やっぱりもう何度目になるのだかわからない、そうか、と呟いて縮こまるエイラの方をちらっとだけ見た。顎のあたりまですっぽりブルーのマフラーに覆われていて、もくもく白い息が、すこし表情を見えにくくする。でも、眉のあたりがきゅっとひそめられているのはやっぱり見えて、それは私たちが学校を出て、こうして家路をたどる少し前から、ずっとそうなのだった。

 まずひとつ悪いことがあったとしたら、私のいくじのなさなのだろうとは思う。私とエイラと、正規の部員は未だに二人しかいない天文部で、どうして部活中にうまく渡せないことがあるだろう、そうたかをくくっていたところもあった。そうだというのにこんなときばっかり時計の針はいじわるで、放課後がやってくるまであんなにゆっくり回っていたくせに、エイラがいつものようにサーニャ、いこう、と教室まで迎えに来てくれた瞬間、びゅんびゅん速度を速めて回り出したのだ。もっともこの場合、エイラといるときはいつもそうだったってことを思い出せなかった私の方が、きっと悪いのだろうけど。 
 何でもない話ばかりをしていると思うし、そもそも私はそこまで話をするのが得意ではないから、何も話さないときだって多い。天文部活動が基本的に行われる屋上へ行くには寒い季節、私たちは文化部棟の中でもてっぺんにあって、だから運動部の掛け声すらもほとんど届かないような天文部室で、しずかでゆるやかな放課後を過ごす。
 特に今日は静かだった。いつもはどこで仕入れてくるのかわからないような、星と、それにかかわる占いや神話の話をしてくれるエイラが、今日はすっかり黙ってしまっていたから。そうだというのに、いつものように、いつものように、時計の針は進みが早かった。下校の放送が鳴ったのも一瞬信じられなかったようで、エイラが慌てた様子で立ち上がった椅子の音が、多分本日初めて天文部室でこだました音。つまりそれまで、なにも話せなかった。話さなければいけないことがあるって、お互い解っていたのに。私たちの目線は何度も何度も、月の満ち欠けと日付が一緒に示されている日めくりのカレンダーのところで、ぶつかっていたっていうのに。
「そ、そいじゃ……サーニャ、靴、」
「……エイラ」
 そうだこのままではいけないと、じっさいのところあまりにも遅すぎる決意を抱えて、私はエイラに声を掛けた。みるからにぎくりとしたエイラは、振り返ってくれないかと思ったけど、一応そんなことはなかった。ぎ、ぎ、ぎって、なんだかロボットみたいだったけど。
 この人の友達で、私からすると一つ上の先輩になる宮藤さんなんかがたまに言うように、エイラはひょうひょうとしててわかりにくい、というのは、なぜだか私の前だとちっとも当てはまらない。わかりにくいどころか、あんまりわかりやすくきんちょうしてしまうものだから、私まで鞄の中で何度も何度もそれを取り落した。ラッピングが崩れてしまったら、どうしようかと思った。
「これ……」
「わ、わわ、私に!?」
「う、うん」
「あ……あり、ありがと、サーニャ……」
 指先でとん、と一度触れて、ひとつ大きく息を飲みこむような間の後に、エイラはゆっくりと受け取ってくれた。けれども私はよかった嬉しそうだ、とすぐに安心することはできなくって、それは未だにエイラがきんちょうした表情のままでいるからに違いがないのだった。なにかおかしいところがあっただろうか。まだほとんど私が差し出したときと位置の変わっていない包みと、エイラの方を見比べる。
 きにいらなかったのかな。あまいものって、きらいだったっけ。ラッピングが青いの、だめだったかな。あ、中から見えるチョコチップクッキーは、確かにちょっとぶかっこうなんだけど、でも、これは一応、たくさん焼いた中で見目の良さそうなものを一生懸命選んだのであって。そのせいでさっきの宮藤さんには、あまり出来のよくないものが回ってしまったり、したのだけれど。
「あのっ、わ、私、」
 そんなところまでぐるぐる考え始めたころに、エイラはやっと声を上げてくれて、
「お、いたいた、イッルー!!」
「あっこら、ラプラ……普通今声掛けるか?」
「え、だってイッル探してたんだろ、私たち。おいイッル、ハッセがスノーボール作ってくれたぞ、うまいぞー、これ」
「うっ、うわ、わ、ラプラ、ハッセ!!」
 ――もののみごとに、その声は遮られてしまったのだった。
「この後ニパんとこ渡しに行くんだけど、イッルも来ないか? あいつまた居残りグラウンド整備らしいんだけどさ」
「ニパはそろそろ陸上部じゃなくて整備部とかに肩書き変えたほうがいいんじゃないかなあ……ああ、イッル、いいよ、続けてくれて。ラプラ、きみはもう少し空気を読もう。それじゃあ」
「う、あ、ああ、また明日……」
 現家庭部部長であるハッセさんが、部活で作ったのだとくれたスノーボール――私にも分けてくれた――はすごく美味しかった。それはいい。そして首を傾げるラプラさんを引っ張って行ってくれたところまでも、きっと良かった。
「…………」
「…………」
「じ、じゃあ……か、帰るか!」
 問題は、次に口を開いたエイラが明後日の方向を向きながら言ったのが、そんな言葉だった、ということなんだろう、やっぱり。

 もうすぐ分かれ道だった。私たちの歩調はかなりゆっくりだったけれども、もっと遠ければよかったのにときっと私もエイラも願っていたけれども、そういうわけにはいかない。距離は距離だし、時間は時間だ。私たちの横を、知らん顔してびゅんびゅん通り抜けていくのだ。エイラは電車には乗らなくて、私はここ、この駅から、数駅のところに住んでいた。駅のホームあたりまでついて、改札のところで手を振って。あとは、二人ともが帰らなくちゃいけないところに帰っていく、それだけだ。
「ねーナオちゃん、今日だけ、今日だけだからさー。明日になったら絶対返すって」
「あんたの絶対ほど信じられない言葉はない。中学生にたかるな、クルピンスキー先輩」
「呼び方だけ先輩でも、敬意とか、むしろ優しさってものが感じられないよぅ……頼むよーナオちゃん、まさか定期券置いてきてるだなんて思わないじゃないか」
「だから、オレにたかるな、ああもううっとうしい! 金くらいあんたの取り巻きの女子から借りればよかっただろ!」
「まさか、そんなことできないって。ボクがちゃんと頼れるのはナオちゃんだけだよ?」
「真顔で言ってもかっこよくない台詞ってのもあるんだぞ」
 私も、忘れればよかったかな。定期券だからって、カードの残額とか切符の購入とかをしなくてもいいこと、少しだけいやに思ってしまうのは、きっと今日だけだろう。券売機のあたりで話している、同じ制服のひとたちを見つけて、ぼんやりとそんなことを考える。ポケットから出したネコペンギンの定期入れの中には、確認しなくてもしっかり駅名の明記されたカードが入っていた。
 電車がついたらしいのか、たくさんの人がホームからの階段を昇って来始めていて、さっきの二人組も、気がつけばもういなくなってしまっていた。行かなければいけない、それだけが明白で。
「サーニャ」
「……?」
「私……わ、私も、途中まで」
 言い終える前に、エイラは改札をくぐっていた。ぴっ、がしゃん、と無機質な音がして、右肩がまた、あったかくなる。
「あとで、姉ちゃんに電話しないとな……」
 小さくそう呟いた途端に、エイラの鞄の中で携帯が震えていたので、なんだかおかしくなって、私たちは顔を見合わせてちょっと笑った。
 そういえば一緒に改札をくぐるのなんてこれが初めてだったって、家に帰ってから気がついて、ひとりすこし顔が赤くなること、この時の私はまだ、知らない。
「えっと。この電車でいいのか?」
「うん。」
 うそ、ほんとは各停じゃなくって、あとちょっと待ったらすぐ来る、快速に乗るの。そしたら一駅、あっというま。でも、それじゃあ、たりないから。あなたが勇気を出すには――たぶん、ほんの少し、足りないから。
 空気の抜けるような音がして、ドアが閉まる。あったかいなあと笑ったエイラが、手を握り合わせる。真っ赤になっている。私の手も、きっとおんなじだ。そう思ってポケットから出して、ちょっとエイラのまねをした。うー、さむいさむい。ごとりと一度大きく揺れて、ゆっくりと、ゆっくりと、私とエイラを乗せた各駅停車の電車は、走り出す。

「ぐえっ、いてて……い、いつも、こんなに混むのか?」
「う、うん」
 ごめんなさい、知らなかったの。快速はこんなに混んだことが無かったから。そういえば各停しか止まらないのに大学が最寄にあるという駅をさっき通り過ぎたはずで、そのさっきの駅から、電車は物理法則の限界に挑んでいるような状態だった。駅員さんが背中で乗客を押し込むところなんて、じつは初めて見た。本当にこれで走れるのかどうかちょっと不安になるくらいひとひとひとを詰め込んだ電車は、それでもゆっくり走り出す。
 だから――私たち、きっと、もうにげられなかった。まったく違う方向を向いていることだって空いている電車の中だったら簡単だったし、話をしようと思えば私たちの声は電車の走る音にだって掻き消されるはずだった。
「さ、サーニャ、えっと、い、痛くないか? 足踏んだりとか、してないよな?」
「うん……うん、だいじょうぶ、だけど」
 私たちが、こんなに、近くなかったら。視線も合わせられないくらいの距離というのがあるのだ。ほとんどエイラにぴったり寄り添うようにして立っている私は、どくんどくんと勝手に早くおおきくなりだした心臓の音を聴きながら、少しくぼんやりとそんなことを考えていた。空気が乾燥しているせい、というのでなく、喉がひりひりした。
 エイラが制服の下にいつも来ている青いセーターの繊維まで、しっかり見えるみたいで。胸のところについている星のマークがかわいいって思ってたんだ、と、思った瞬間、それはもっと目の前になる。なぜって――そのとき電車が大きく傾いて、投げ出されかけた私の身体の着地点が、そこだったからだ。
「…………」
「…………」
 だいじょうぶか、って、もう聞けなかったんだと思う、エイラは。みみもとではっきりとこだまする、たしかに自分のものではない心臓の音を聞きながら、私は真摯にそう思った。それでも肩のところに、エイラの手はしっかりとあった。とてもつめたい指先が、それでもちゃんと握ってくれていた。とくんとくんとくんとくんと、少し心配になるような、そうだといのにどこかほっとしてしまうようなはげしくてはやい音が、音が、耳から伝わって、こころに染みる。
 暑かったのはきっと、冬で暖房の効いた満員電車のせいじゃない。もうそういうところに私たちは逃げられないのだ。というときに電車が止まって、エイラの腕の隙間からこっそり表示を見上げてみたら、あと一駅だった。電車が、また、ごとりと動き出す。
「……さー、にゃ」
「うん」
「わたしたいものが、あるんだ。」
「うん。」

 私たちは誰にも聞こえないような声でそう言い交わして、顔も合わせられない、うまく包みを確認することだってできなかったけれど、確かに私のポケットはすとん、と重くなって。

「ありがとう、エイラ」

 こつりと額をあてたエイラの胸からは、さっきよりもずっと大きな音がどくんと跳ねて、私は、私はなんだか、笑ってしまった。

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