「さいごのうたはうたわない」

 どうしようもなく弱いにんげんには、きっといつだって理由が必要なのだ。
 自分がどうしてそこに立っているのかという問いに、明確な答えが欲しい。自分が納得できさえすればその内容自体はどうでもいいのかもしれない。でもとにかく、理由が必要だ。答えが必要だ。それらいっさいを示してしまえるような言葉で、私はようやっと自分の周りに、透明な箱のようなものを作ることができるのだ。ほらここが居場所だよって、思えるような何かが、無形のようであっても存在を感じられるなにかが、きっと私たちにはいつだって必要だった。
 だけどそれはやっぱり見えないから、どんなに手を伸ばしてみても触って確かめられるようなものではないから、本当にそこにあるかどうかなんてそれこそいつも不安になってしまうし、仮にあったとしても、仮にその一瞬はああちゃんとあるってほっと息をついたとしても、すぐにまた、それではいつなくなってしまうんだろう、なんて終わりのない考えが、つま先から頭のてっぺんまでいっぱいにするのだ。
 それでも、とにかく私にはいつだって理由が必要だった。そこに立っているための確かな言葉が必要だった。そして同時に、それがないと、もう、ここにはいてはいけないような気が、していた。

 外はしとしと雨が降っている。昨日も雨だった。そういえば三日間くらい雨続きのような気がする。土砂降りになったりするわけではにから、あまり困ったりはしていないようだけれど、ただ糸のような細い細い雨は、音もなく地面を濡らしていた。窓をゆっくりと流れ落ちていく雫が、いくつもの水玉と出会って、大きくなって、そして、あるときすうっと落ちていってしまう。あとにかすかに残っていた道筋のような水も、あっという間に消えてしまった。まるで最初からなんにもなかったみたいな空っぽが生まれ、また何事もなかったかのように、新しい水玉がその上にぽつぽつと印されていく。
 初めて会ったころ、サーニャはたぶん、雨の日が嫌いだった。おとうさまのことを思い出してしまうから、と消え入りそうな声で言ったのは、雨の音でかき消されてしまったことにした。というより、してほしそうだった。でも私が気づかれませんようにってきみの肩に手を伸ばしたら、そのとき私たちの距離はほんの少し縮まったから、もしかするときみの希望すべてには、答えてあげられてはいなかったのだろう。それでも笑ってくれたのは、どうしてだったのか。結局聞けないまま、結構な時間が過ぎてしまった。
 今は多分、雨の日、好きなんだろうな、サーニャ。もう両親を思い出すたびにつらくなるようなことはない。いつも会えないのはさびしいだろうけど、それでもどこにいるのか、生きているのかすらわからないような状況から比べたらずっとマシだ。そうしてサーニャは、ねえエイラ聴いて、と言って、あめのうたを弾いてくれた。何度も何度も聴いていたはずの歌だったから、あれ、なんて思えたのかもしれない。それは今までずっとサーニャが弾いていたのとは微かに色を違えていて、拍手をしながら私は不思議そうな表情を隠せていなかったのだろう、サーニャは椅子からそっと立ち上がると、私にとびっきりすてきな内緒話でもするように、口元にちょっと両手を寄せて、合作なのよ、と、言った。ああ、そうか、サーニャのお父さんと。それから何日、何十日と雨の日は重なっていったけれど、サーニャはもう、つらい顔をしなくなった。雨の音を聞くと、今の私は、サーニャの歌声を思い出すようになった。
 いろんなことは音を立てずに変わっていく。久々に会った戦友からは、髪が伸びた、背も少し、それから顔つきが変わった、なんてことを言われた。そういえばサーニャもずいぶん髪が伸びた。理由は笑うだけで教えてはくれない。たまに結ぶ役を任されるので、そろそろ何かそういう技術を身に着けたほうがいいような気がする。部隊が変わって、役職も変わって、季節と時計の針はぐるぐると回る。

「……エイラ」
「うん……うん、わかってるよ」

 わかっていたよ、大丈夫だよ。
 一日、一日、流れるように、降り積もるように、なにかが、変わっていく。そうしてすとんとほうられた現実を、まるで突然投げつけられたみたいな、だけど本当はずっと前から決まっていたはずのことを、どんなに重くても、どんなに冷たくても、受け入れて、また歩き出す。そうやって未来ってやつはつながっていくんだよ、なんてえらそうなことを、私はいつか、誰かに言っただろうか。

「これで、ばいばいだな」

 ぼんやりと、ぼんやりと、そんなことを考えながら、私は、空を降りた。それも、雨の日の、ことだった。
 ああほんとうにもう飛べないのだなと思いながら立った地面の感触はやけにリアルで、空は青くて、突き抜けるほど青くて、それがひどく目に染みたのを、おぼえている。
  
 20を超えた私の魔力は底を尽き始めていて、正直昨日まで空を飛べていたことは、もはや幸運の域に入っていたんだろうと思う。シールドは随分前に張れなくなった。それには困らなかったけれど、次に防御力の低下が来たのは、痛かったな。なんせ今まで気にもしてなかったようなちょっとした風やら音やらがやたらめったら気になるようになったから、まったく魔力ってやつは便利だったんだな、なんて今更なことを、思ったんだ。次は筋力の低下、そして、飛行不能。私はもう完全に、戦えなくなってしまった。
 それはきっと小さな変化が重なった末の大きな変化で、わかっていると自分でも言ったように、すでにゆるりと突きつけられていたことだといえば、そうだった。いいや、そもそも、最後に残った未来予知は、前日私に落下のイメージを与えてくれたのだ。だから私は飛ばなかった。停止をすでに知っていたから。
 私が飄々としているだなんて評価を人から受けるのは多分にそういう理由で、つまり覚悟の時間が人よりも大目にあるから、いざというとき、ってやつにすら、私は準備ができるのだ。それはもちろん私だって人間なのだから、その時になってみないとわからないって気持ちはある。けれど私は、或いは「その時」というのを自分の頭の中で疑似体験できていたから、特にうろたえたり焦ったりすることがなかったんだろう、とも思うのだ。

 ――そう、だから、きっとその時も、覚悟なんて全部もう、できているつもりだったんだ。

「あっ……え、エイラ大尉! こ、こんばんはっ」
「うん? ああ、お前、新兵か……いいって、そんな、固くならなくって。大体私はもう、軍を辞める人間だし」
「いえっ、大尉ほどの功績の方に対し、無礼なんて働けません!」
「……めんどくさいな、おまえ」
「え、あ、はあ、すいません……あの、ところで」
「なんだよー」
「あの……なにか、聞こえませんか?」
「え?」

 目の前のちいさな新兵の視線は、窓の外へと向いていた。私もつられて、夜の空に視線を放る。明るい月、かすかにかかる黒い雲。その切れ間を、ゆっくりと飛んでいる、影。
 ぴたりと、呼吸が止まる。はっきり聞こえていたはずなのに、どうして気が付かなかったんだろう。あんなに好きだったのに、どうして。覚悟はできていた。全部、できていた。そのつもりだった。そう、わかっていたはずだろう。

 私はもう、サーニャの隣を飛ぶことが、できないんだって。
 そんなの、いちばんさいしょに理解しても、おかしくないような、ことなのに。

「……サー、ニャ」

 ああ、きれいですねえ、なんてことばが、なまなましく私の鼓膜をくすぐった。
 そうきれいだった、とてもきれいだった。いつだって、最初から今までずっと、サーニャはきれいだったんだ。そして私は、きれいなきれいなあの子の隣に並んで飛べることが、せかいでいちばん、しあわせで。だから私はいくらだって空を飛んで、この両手いっぱいいっぱい使ってでもきみのことを守って戦うよって、そう、決めてたんだ。

 いまとなっては、もう、無理な話だけれども。

「…………」
「えっと……大尉?」


 なあ、サーニャ。
 私、ここに、いていいのかな。
 どうしようもなく弱い私にはきっといつだって理由が必要だったのに、鮮烈で残酷で確固たる変化は、私からその理由のすべてを、あっという間に奪い去ってしまった。守り抜こうとしていたものは、指の隙間から、最後の最後で零れ落ちていってしまったのだ。

 それからどうやって部屋に戻っていったのかは覚えていないけれど、明日が不安で寝つけなかったのは、それが初めてのことだった。だって私にとって未来というのはほとんど確定事項のようなもので、決まっていることに向かって昨日と今日と明日が連なっていく、日が沈んでまた昇るというのは、たったそれだけのことのはずだったのに。だけど明日もここにいられる確証なんてないじゃないか。目を閉じて開くその間に、例えばサーニャが、ここから、

「っ……!!」

 弾かれたようにベッドから起き上がった私は、ずいぶんと古びてしまったタロットカードを取り出した。そういえば魔力低下が著しくなってから、なんとなく占いをする気も起きなくて、しまいっぱなしになっていたカード。綺麗に重ねて、深呼吸して、意識を集中させる。空は飛べなくなってしまったけれど、啓示を与えてくれたということは、おそらくまだ、固有魔法を使う魔力なら残っているはずだ。あとどのくらいなのかはわからない。もしかすると、これが、最後なのかもしれない。でも、いい。ゆっくりと目を開ける。
 しばらくやらなくてもカードの並べ方なんていうのは体に染みついているもので、だから、私はもしかすると今までで一番――あるいはそこまで魔力を振り絞らなければならなかったということの表れなのかもしれないが――強く、強く頭の中にイメージを抱きながら、カードを繰っていた。でも、初めてのイメージだった。だってずっと、占ってはいけないような気がしていたんだ。それはなんだか、違うって。例えば何かが見えたのだとして、ああ何もできないのだ、もう無理なのだ、ということがわかったのだとしても、それを理解するということと、それで何かをするということ、きみに対して手を伸ばすということすらあきらめてしまうということを、私はどうしても、イコールで結びたくなくて。

 だからずっと、ずっとずっと、サーニャと私のことについては、占ってこなかった、のに。

「でも……でも、っ」

 でも、ここに、理由があるのなら。
 いや、なんだったら断裂でもいい、確かさが欲しかったんだ、私にことばを与えてくれ、どうしたらいいか教えてくれ、ここにいていいか、教えてくれ。
 未来の位置に並べられたカードに、私は自分でも驚くほどゆっくりと手を伸ばした。全身が心臓になったんじゃないかってくらい大きな音がして、おかげで耳鳴りがひどかった。そのくせ呼吸は細く短く繰り返すことしかできなくて、ふるえた指先は、何度もカードの端っこをつまみそこねる。もしこうだったら、それともこうだったら、ああ、でも、知りたいんだ、やっとカードを握れた、私に確かな未来を、見せてくれ、ねえ私たちのこれからは、さあどうか、めくって――。

「エイラ」
「あ……」

 こんな優しい絵柄があっただろうかと思ったら、サーニャの両手だった。


「っ、さ、サーニャ」
「…………」

 サーニャは黙ったまま小さく首を振って、そうして、両手でカードを隠したまま、もとの場所まで持っていった。私の震えた指先からはすっかりと力が抜けていて、サーニャがカードをそっと置くのに、なんの抵抗もできないままでいた。
 そうやって私がぼんやりしている間にもサーニャは全部のカードを合わせてしまって、しかもそれをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたあげく、ぱっと、放り出してしまったのだ。あ、と思っている私の目の前を、ひらひらと、ひらひらと、カードが舞い降りていく。なんだかこれは、何かに似ている、なんだろう、ああ、そうだ、きっと白い、白い羽。

「もういいの、エイラ」
「……サーニャ」

「もう、いいの。」

 しかしすべて舞い散った過去も現在も未来も飛び越えて見えたサーニャの微笑みは、天使や女神なんかより、ずっとずっときれいだったのだ。
 きゅっと握られた手の温度はなきたいくらいに不確かで、それなのにどうしてだろう、私は、私はそれできっと。

 それできっと、どうしようもないくらいに、ほっとしていたのだ。


「ねえ、エイラ、私たちの未来なんて見えなくてもいいわ」
「サーニャ……だけど、」
「それより、私ね、エイラと一緒に、これからの話がしたいの」

 サーニャはなきだしそうな微笑みのままで、私の手を握ったまま、かみしめるように言う。祈るように言う。いいやきっと、私たちの手はその時、何かを祈っているときの形と同じだった。
 これからの、未来の話。額をこつんと触れ合わせてきたサーニャは、繰り返す。ひとりで見つめるんじゃなくて、確かなものを探すんじゃなくて、ただの夢だってかまわないから、エイラ、たくさん、たくさん、これからの話を。例えば、明日天気になるかななんて、そんな話をして、一緒に笑おう。例えば、一生かかっても全部は実現できそうにないくらいたくさんの約束を重ねて、いったいいくつ一緒に歳をとったらいいんだろう、なんて、くだらないことで笑おう。


「ねえ、エイラ、そうやって」
「……っ、うん」


「そうやって、一緒に、明日も笑おう」


 見えない明日がどんなに続いていたのだとしても、きっとその中にあるちいさな幸せを、ふたり一緒なら、見つけられるから。

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