「それでも、」




 「それでもいい」、というのは私にとって、いつだってひどく使い勝手の良い、魔法の言葉だった。
 だって15歳の私でも、どうしようもなくって、どうしようもないから納得しなければならないことが、世の中にはたくさんあることを知っていた。どうしたって指先からこぼれ落ちていくことがあると、知っていた。
 特に今は、こんな時代だ。ひとがしぬということはそのどうしようもないことの極致みたいなもので、昨日見かけた新兵さんが、明日の夜には埋められる。お母さんにもおばあちゃんにもみっちゃんにも暫く会えなくて、手紙に書くまたねは、いつ嘘になるか知れない。お父さんには、泣いても叫んでも、もう二度と会えない。どうしようもないことだ。
 だけど、その指先からどうしたってこぼれ落ちていくすべてをつかもうとして、今握っているものすらも手放すのか、と坂本さんに言われた。それは間違っている。水面に映った自分に向かって吼えるのは、してはいけないことだ。夢鏡の自分には絶対になれない。人間には、できることと、できないことがある。できないことはあっていい。できることをしないのが、一番正しくない。
 それがわかっているからこそ、私に必要なことは、きっと、自分に向かって上手に言い訳する方法だった。言い訳というとなにか悪いイメージしかわいてこないけれど、そうではなく。今自分が見つめるべきことのために、他のことから目を塞ぐ。そういうこと。守りたいものを見つめることと、同じこと。これ以上亡くしたくないから、亡くさないための努力をする。

 そうして私が覚えたのは「それでもいい」という言葉だった。便利な言葉だった、と、思う。たいがいのことは納得できた。
 あの日、ガリアをみんなで解放したあの日。背中を押してくれたみんなのために。守りたいと思ったすべての人のために。私が握っていたいもののために。お父さんがくれた翼はゆっくりと落ちていった。真っ赤にぎらぎら光る向こうへ消えていった。おとうさん。頭の中で、なきだしそうな声でひとつそう呼ぶのが聞こえて、でも、「それでもいい」。
 「それでもいい」。「それでもいい」。「それでもいい」。

 ――だって、わらってくれたから。


「いったいどういう風の吹き回しですか、エイラさん……ハルトマンさんの固有魔法でも浴びたんですか?」
「う、うるせーな……いいだろ別に、なんだって」
「なんだってよくありませんよ。教えるのは私の方なんですから、ちゃんと説明してください」

 なんて、ほんとは全部わかっているのに聞くのは、多分に意地悪なことなんだろうけど。でも別に、いいと思った。知らないことが与えるいたみは、どう考えたって私の方が大きい。そしてそれは、このひとに伝わることは、絶対にない。途方もない低確率。気がつくわけがないんですよね、あなたが。知ってます。わかってます。大丈夫。
 だいたいあなたの答えなんていうものは、たとえばその、おどろくほど映える白の上に赤が散っていることだとか、一昨日の超高高度ネウロイの一見だとかで、わかりきったことなんですから。私がわからないなんてありえない、ってことをわからないあなたの方が、悪い。まったくもって、背中を押したのは誰だと思っているんだろう。
 まあ、別に、それでもいいのだけれど。

「……ま、守りたい、し」
「きこえません」
「ぐっ、お、お前なぁ……」
「あー、そういう態度なんです? じゃあいいもん、私リーネちゃんとこ行ってきますから」
「うわわ、待て、待てってば! 悪かったって、その」
「はい、なんでしょう」
「……っ、ま、守りたいからだよ! そう思ったんだよ!」

「――だれを?」

 ばかみたいだなあ、と思う。どっちがって、どっちも。
 頭のどこでだって、私、この人がなんて答えるかなんて、わかってるのに。どうしようもないって、わかってるのに。
 そしてあなたはその通りに答える。一瞬きょとんとした顔をして、いっそう頬の色を強くして、ふっと唇を噛みしめた、そのあとに。吸い込まれそうな青い瞳を、きんと澄ませて。
 誰もを引きつけてしまうような、そのくせたったひとりのためにしかない、清廉な表情を浮かべて。ばかみたいに、まっすぐな響きで。

「サーニャを」

 今までの、あるいは実にかっこわるい、しどろもどろなやりとりなんて嘘みたいに。すっとそれだけ、エイラさんは、答える。

「だから、シールドの張り方。もっとちゃんと知りたいんだ、頼むよ、ミヤフジ」

 そうしてダイヤのエースは、エイラ・イルマタル・ユーティライネン中尉は、ぴしりと整った礼を、扶桑からやってきた、まだたいした戦歴も残していないような私に向かって、してみせる。必要なときに尽くされる礼は、のどが詰まるほどに染み入る。心がきちんと詰め込まれているのを、肌で感じてしまう。
 それに関しちゃ、おまえがいちばんだって、思ってるからな。照れたように付け加えられるのが、いつもの平板な調子でそんなことをさらりと言えるのが、あなたのずるいところ。そしてあなたは全部知らない。知らないことが罪なのは、そのざんこくさからではなく、こちらに何を言う機会も与えられていないから、なんだろう。ずきずきする。
 でも、そう、それでも、いいのだ。息を吸って吐いて、ずきずきするのを飲み込んで飲み込んで押し込んで、それだけの話。いつものことだ。あなたの清廉な表情を、きれいだと思う。あなたの青い瞳の澄み方を、きれいだと思う。それを見つめられる位置にいる私は、幸せだと思う。それでいい。それだけでいい。

 だから、守りたいと、あなたがまっすぐ口にする名前が、どうひっくり返したって、どう期待したって、ぜつぼうてきに、私でなくても。
 ――「それでも、いい」。

「……はい、よくできました。もう、たまにはちゃんと、本人に言ってあげてます?」
「い、言えるわけないだろ! あ、でもいいのか、リーネのとこに行かなきゃなんじゃ」
「頼んでおいてそれですか……リーネちゃんなら今頃、ペリーヌさんと花壇の手入れしてるとこです。さっきのは冗談ですよ」
「なーんだ……なら良かった。じゃ、悪いけど、つきあってくれな、ミヤフジ」

 それでも、いい。それでも、いい。
 だって、そう、だって、エイラさんは、たいせつなひとは、それで、わらってくれた、から、


「……ミヤフジ?」


 つかむなら、すがりつくなら、もっと上手な場所にすれば良かったのに。
 言い訳に慣れきった私の手は、そのくせそれだけでは我慢しきれない私の手は、ひどくおくびょうで、わがままで、ばかだった。

 私の名前を呼んでくれたのが、もうほんとうはそれだけで嬉しくて、エイラさんの軍服の裾、伸びてしまったらきっと、きっと私が繕いますからって、自分で握りしめながら、そんなめちゃくちゃなことを、考えた。
 恐らくはハンガーへと進みかけた足をぴたりと止めたエイラさんは、この弱々しい拒絶や懇願でも鋭敏に感じ取ってしまえるひどいひとは、どろどろにあなたは、もう一度だけミヤフジ、と呟く。一度目は困惑。二度目は、心配。
 わけもわからないのに、なんにもしらないのに、あなたは私に優しくする。そういうところがすごくずるい。そういうところがびりびり私を裂く。ひとが、一生懸命、呪文で、塗り固めようと、しているのに、この、ひとは。

「ミヤフジ、なんだ、どうしたんだよ? 具合でも悪かったのか、もしかして」
「……っ、ちが、い、ます」
「お、おいおい、なっ、泣いてないか、お前? なんだよ、ほんとに、どうかしたのか?」

「振り向かないで!!」

 ああひめいになったな、と思った。
 エイラさんはなんだかおかしな格好のままで、びくりと体を固める。しどろもどろに伸びようとしていた手が、おろされる。それでいい。それでいいんだ。今、あなたに触れられたら。考えるだけで恐ろしい。その甘やかなきぼうが、恐ろしい。

「ミヤフジ、」
「……ふりむかない、で」

 ねえエイラさん、私、期待したくなんてなかったんです。頼ってもらえたって、笑いかけてもらえたって、私の名前を呼んでもらえたって、あなたがなにをくれたって、それは結局私がいちばんほしいものになんかはならないわけですから、それならはじめから、期待したくなんかなかった。
 あなたのじゃまになることはとても恐ろしいことで、あなたの笑顔は私の守りたいものでもあって、だから、そのために私は切り捨てるべきだったのです。この場合、あなたに対するすべてのきぼうが、それに当たります。笑ってうなずいて、そう、だいすきなひとのためにがんばるだいすきなひとの背中を、押してあげられる私で。

「わたしで、いられない、よ」

 額を押しつけた背中は、なきさけびたいほど、あたたかくて。
 肌で感じるからだの動きから、あなたがちょっと首をかしげていることが、わかって。

「……ねえ、エイラさん」
「な、なんだ?」


「どうしたって、それでもいいなんて思えないことって、あるんですね」


 ――せめて、笑って言えたと、おもう。

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