「そらとうみのあいだをこえて」



笑顔に色があるのだとしたら、たぶんどんな笑顔にだって、ぜんぜん違う名前がつけられるんだと思う。そう、だから、あの日芳佳ちゃんが浮かべていた笑顔にはきっとすごく素敵な名前が、わたしには思いつきもしないような素敵な名前がついていたんじゃ、ないかな。そんなことを、考える。
芳佳ちゃんはどんなときでもにこにこ笑うことができる、ほんとうの意味でとてもつよいひとだとわたしは知っていたつもりだったのだけど、そういうのとはまた少し違う色で、芳佳ちゃんは、ふわりと笑っていた。一瞬のほほえみだったしそれはすぐに消えてしまったけれど、でも、確かな色だった。淡く空気に溶けてしまうにはあまりにも確かな、色だった。だから思わず、白くぴかぴかになったお皿を拭く手を一旦止めて、わたしは口を開いたのだ。

「……なにか、いいことあった?」
「うん? えっ、わ、わかる?」
「なんとなく、だけど」
「あちゃあ……うーん、リーネちゃんには、かなわないなぁ」

それはわたしがどうだとか言うよりも、多分に芳佳ちゃんがとてもすなおな子だからなんじゃないかな、とは思ったけれど言わないでおいて、ばれちゃったかあ、なんてぽりぽりと照れくさそうに頬を掻いた芳佳ちゃんの、続きの言葉を待つ。朝の空気はしずかに澄んでつめたい、だけど芳佳ちゃんの頬がぽっと赤く染まっているのは、寒いからなんかじゃ、ないんだろう。
伸ばしかけていた手をあとちょっとだけ動かして、さっきまでお皿を洗っていた水を止めた芳佳ちゃんは、ためらうような間のあとで、あのね、とちいさく背伸びをして、わたしの耳のところ、ちょっとだけくちびるを、寄せてきた。くすぐったいけどがまんがまん、あのね、ひみつのはなしなんだけど。うんうん、とこたえる代わりに、わたしもちょっと首を傾ける。芳佳ちゃんの少しくせの強い、でも朝の光できらきらしてとても綺麗な黒髪が、視界のはじっこで元気に揺れていた。

「坂本さんにね、ほめられちゃった」
「ほんと!? すごい、芳佳ちゃん!」
「わ、わ、そ、そんなたいしたことじゃないんだよ?」

そんなふうにしてはんぶん照れながら、でもやっぱりはんぶん誇らしそうに芳佳ちゃんが続けてくれたことには、飛び方を褒められたのだそうだ。坂本少佐の芳佳ちゃんに対する態度は、ここのところ――あるいはどこか、焦ってでもいるみたいに――とても厳しく、そして熱心になっていたのはわたしも知っている。たしかに初めから、それこそ前の基地に連れて来られたときから、ペリーヌさんがやきもちを妬いてしまうほどに、少佐は芳佳ちゃんにとても期待しているみたいだったけれど。でも最近は個別で訓練を受けているところも良く見かけて、そんな中での、ほんの些細なできごと。だけど芳佳ちゃんにとっては、すごく大切なこと。
飛行訓練の途中でね、そういえばお前は左捻りこみができたな、って。まるで自分の感動を抱きしめているみたいにきゅっと両手をにぎっていた芳佳ちゃんはそう言った、初めてちゃんと、教えてもらえたの。坂本さんに技を、飛び方を、教えてもらえたの。どんどん弾む調子を声のはしばしに滲ませながら、続ける。

「それでね、終わった後、あ、一言だよ、ほんとに一言だったんだけど……成長したな、ってね、言ってもらえたんだ」

言い終わった芳佳ちゃんはふっと離れると、ひみつだよって言いながら肩を竦めて笑った。それは、その笑顔は考えるまでもなくどこまでも澄んで澄んで綺麗な色をしていて、たぶんそれはわたしが良かったねって言った後に照れていた芳佳ちゃんの瞳の奥の煌きがまぶしいのと同じようなものだったのだろうけれど、ただわたしはそのむこうに、慣れ親しんだなにかを見た。そのむこうに、広々と見えるなにか。投げ出されるような、あるいは飲み込まれるような感覚、それはなんだろう、ふっととおく気分、それはなんだろう。たぶんわたしはそれをとてもよく知っていた、なつかしくてあたたかで、でも、すごく、遠い。
今更言うまでも無く坂本少佐の弟子である芳佳ちゃんは少佐につよくつよく憧れていて、だからそのときの芳佳ちゃんは、わたしが表情から読み取った分ではちっとも足りないくらいに嬉しかったんだろうと思う。わたしが黙っていたら余計恥ずかしくなってしまったらしく、めずらしく先に行くねって言葉と慌てて脱いだ割烹着だけを残して立ち去っていって、だけどその背中はやっぱり今にもジャンプしそうなくらい弾んでいるように見えたのだ。セーラー襟をふわっと揺らして、窓から差し込む朝日と踊って、そのときの芳佳ちゃんはなんだか、今にも飛んでいきそうで。

ああ、そうだ、だからそのむこうに見えていたのは青、あおいあおい、空と海。




「つばめ返し、とも言うんだ」
「つばめ……ですか、あの、鳥の?」
「そう、鳥のつばめだ。見たことはあるか? ブリタニアにも、確か生息していたと思うが」
「はい、見たことくらいなら……夏を伝える鳥だって、聞いたことがあります」
「そうか……扶桑では、春を報せる鳥なんだ、つばめは」

廊下で偶然会った坂本少佐は、ふと思いつきで左捻りこみについての話を振った私に、窓の外を見上げながら、そう答えてくれた。海軍では左捻りこみというが、陸軍ではつばめ返しというらしい。そういえば私の師から教わったときはつばめ返しという名だったな、と、遠く向こうを見つめる目で、坂本少佐は独り言のように言っていた。芳佳ちゃんと同じ色の目には、しかしただ、遠い遠い空が映っているだけだった。なつかしくあたたかに光る、空と海。少佐はただ、それを見上げていた。

「春を報せたつばめは、巣をつくり、子を育て、そして冬を越えるために南の方へ飛んでいくんだ」
「あ、だから、冬の間は見ないんですね」
「うむ。しかし冬が終わればまた、海を何千キロも越えて、戻ってくる。そうだ、知っているか、あんな小さな身体なのに、つばめは最大で200kmくらいは出せるんだぞ?」
「えっ、そんなにですか……あんなに、小さな鳥なのに」

「ああ。海面すれすれを真っ直ぐに飛んでいく姿は、とても美しいんだ。」

剣豪が技の名に選んだのも、そして扶桑のウィッチたちがその名を受け継ぎたくなったのも、わかる気がするよ。
つばめ。頭の中、或いはいつになく優しげな表情で微笑んでいた少佐の見つめる空の向こう、すっと飛んでいく影がうつる。つばめの、ように。あとほんの少し訓練の心得を説かれたのを最後に少佐とは別れた、けれどわたしはまだ、窓の外を見ていた。空を見ていた。海を見ていた。
つばめの、ように、あの子は。冬を越えて、遠い遠いその向こうへ春を報せに行く、つばめのように、あの子は――芳佳ちゃんは、飛んだのだろうか。

海を見つめるのが好きだった。空を見つめるのも好きだった。見つめていることが、たぶん好きだった。
吹き抜けていく風の音を聞いて、柔らかな匂いを吸い込んで、なつかしさとあたたかさに包まれて、そこに立っているのが、わたしは好きだった。だけどきっと、それだけだったのだ、と思う。つまりはいつだって今だって、わたしはそれを、見ているだけなのだ。いくら長い間見ていたって、いくらつよく憧れてみたって、だってわたしにはとてもとても、自分がその向こうに飛んでいけるにんげんだなんて、思えやしなかった。
知らないというためには多分ある程度それについて知っていなければならなくって、これでも一応のところウィッチとしてストライカーを履く資格だけは与えられたために飛ぶということを知っていたわたしは、だからこそ余計に、飛べるということを知らなかった。知らなかったし、そして、わたしにはきっと知ることが出来ないんだろう、ということを、知っていた。わたしの両手は雲も空も掴まないで、ゆびさきからは風が、ただ風だけが、吹き抜けていくのだ。

飛べないわけじゃない。わたしじゃ全然役に立てないなんて、逃げたいわけじゃない。ただそう、手の届かないところがあるというのを、理解しただけなんだ。世界にはいつだってさかさまが溢れていて、朝と夜があるのと同じくらい自然に、できることとできないことがある。そういうことだし、それだけのことだ。それでもいい、と思ってもいる。先頭に立って真っ先に戦うだけがウィッチじゃないと教えてくれたのは、例えばミーナ隊長だし、例えばシャーリーさんだし、例えばペリーヌさんだ。誰にでもちゃんと役割があって、それはきっと、そのひとにしかできないこと。ちゃんとそのときがくれば、自分の仕事に誇りが持てるようになる。いろんな人の背中は、きっとわたしにそれを教えてくれた。最初からひとつを目指して真っ直ぐ走っていく人もいるし、のんびり歩いていたらうっかり見つける人もいる。わき目もふらず走っていければそれもいいけれど、横道に逸れたらいいことがあるかもしれないし、転んだところに大事なものが見つかるかもしれない。言ってみればなんだってそういうものなのよ、と、ミーナ中佐は笑っていた。そっと頭をなでてくれたあのひとの手は、今でも覚えているくらいに温かくて、それはリアルな感覚だった。だからわたしにもいつか自然にちゃんとそう思える日が、くるといいって、思ってる。わたしは、それを望んでいる。

ただ、強いて言うなら、わたしのそれは、自由に広々と大空を翔けるようなものじゃなかったのだ、そう、それだけ。 


「あ……リーネちゃん、おーい!」
「芳佳ちゃん。なにか、みてたの?」
「うん、なんとなくあのへん、ぼやーって。えへへ」

歩いていたら元気に声を掛けてくれるし、いつも近寄る前に、わたしが立ち止まっている間にもぽんぽん、と隣を叩いてくれるので、わたしはいつもどこかあたたかい気持ちになれるんだけれど、たぶん芳佳ちゃんにとっては、そんなのは当たり前すぎて、いちいち何か言うことすら意味がないことなんだろう、と思う。だからわたしはいつも、こころの中でだけ、そっとお礼を言うのだ。それが伝わることは多分ないのだろうけど、ずっとないのだろうけど、芳佳ちゃんはやっぱり笑っているのだから、これでいいのかな、やっぱり。でも、ありがとう、芳佳ちゃん。
小さな風がそこにはあった。へらりと力が抜けたふうに笑った芳佳ちゃんは、滑走路の端、そのまたずっと向こうを、あっちね、と指差す。ロマーニャは空も海もはっきりした青だ。雲がないところは、境目がないみたいだよ。芳佳ちゃんが言った通りに、ふたつのブルーは溶け合いそうに見える。まるでひとつみたいに見える。

「ふしぎだね」
「うん?」
「だってほんとは、すごく遠いのに」

だけどいくらひとつみたいに見えるといってもそれらは考えもつかないほど遠く遠く離れていて、こわいくらいに、離れている。手を伸ばせば届きそうって、それはきっと目を開けたままやさしくてしあわせな夢を見ているようなもので、見下ろしても見上げても、ふたつの青はいつだって無限遠だ。せかいにはさかさまが溢れているけれど、このふたつの青も、同じようでいて、たぶん、さかさまなのかな。いちばん近くて、いちばん遠い。隣にいるようで、ほんとは、すごく。わたしと芳佳ちゃんは少しの間、黙って一緒に青のその向こうを見ていた。見ている間は、立っている間は、たしかに届くのかもしれない。だけどひとたび翼を開けば、その差はいつだって歴然だ。

「ねえ、つばめの話、聞いた?」
「えっ……っと、少佐から? うん、聞いたけど」
「あ、やっぱりリーネちゃんだったんだね、坂本さんに最初に聞いたの。それ、そのまんま、私も教えてもらったんだ」

最初に口を開いたのはたっと勢い良く立ち上がった芳佳ちゃんで、風が気持ちいいのか、体操のときの深呼吸のように、おおきく両手を広げていた。芳佳ちゃんはわたしよりも体躯としては小柄だけど、あるときほんの一瞬、背中がすごくすごくおおきく見えるときがある。なんとなくそんなことを思い出しながら、続きの言葉を待った。
つばめ、学校なんかに巣を作ってるの、見たことあるんだ。芳佳ちゃんだったらなんとなく巣を保護してたりしそうだね、とふと言ってみたら、やはりというかなんというか、間違ってはいなかった、みたい。芳佳ちゃんらしい、ほんとに。

「でね、つばめってまーっすぐ、すっごい速度で飛ぶんだって! お前もそのくらい軌道が安定すればな、って、今度は怒られちゃった」
「ふふっ、期待されてるんだよ、きっと」

だいじょうぶ、だってあなたは、あなたは、とべるひとだから。
芳佳ちゃんは飛ぶのだろう、誰にも負けないくらい大きな翼で、ふたつの青の間を飛び越えて。わたしには絶対に見ることのできない景色の合間をまっすぐと、遠く、遠く、見えないほど、遠く。小さな風はいつしか大きな風になって、わたしの前髪を巻き上げる。広がる、青が、ブルースカイ・ブルーが、目の前、一面に。わたしはこの青にあいされなかったのかな、なんて、そんなことを考えてみる。べつだんそれがかなしいわけではないのに、ただほんのすこしだけ、奥のほうがしくりと痛む。どうしてかな、どうして、それは、たぶん。

「芳佳ちゃん、つばめみたいに飛ぶのなら、」
「んっ、なに、リーネちゃん? 風であんまり聞こえないんだけど……」


「そのまま扶桑まで、飛んで行っちゃうのかな」


わたしが飛べないことよりも、あなたの隣に並べない、ただそれだけが、さみしい。

きっとそういうことなのだ、言い訳ではなくもうすぐで飲み込めそうな真実として、わたしの役割はきっとそこには見出せないってわかっているし、それなら他に、もしかしたらいつか見つかるはずのわたしにできることを自分でちゃんと顔を上げて探した方が、俯いているよりはずっといい、そう思えてる。でもそうじゃなくって、ぜんぜんべつのところで、わたしはまだ、さみしくなってしまうのだ。海を見つめるのは好き。空を見つめるのも好き。だけど青の向こうに飛んでいくその背中が、どんどんちいさくなっていくのは、やっぱり、まだ――。


「――ねえ、つばめが扶桑に帰ってくるのは、きっと扶桑の春が、あったかいからなんだよね」

ふ、と、風が止んだ。目の前に広がる青が、やさしい春の色に変わる。芳佳ちゃんの、ほっぺたの色。
立ち上がっていまにも飛び立ちそうだった芳佳ちゃんは、いつの間にかわたしの目の前に屈みこんでいて、くちもとを緩やかに綻ばせると、その手をまっすぐわたしに向かって伸ばしてみせるのだ。ぺた、とふれてきた芳佳ちゃんの、ちいさな手のひら。翼がどんなに大きく見えても、芳佳ちゃんの手のひらは、まだたぶん、ちいさい。リーネちゃんのほっぺた、あかくてあついね。くらくらするほど近くで、声がする。


「きっとつばめがまっすぐ飛べるのって、その後ろに、帰れるあったかい場所が、あるからだよ」


芳佳ちゃんの手の握り方は、たまに、ずるい。わたしには、ううんきっと芳佳ちゃん以外のほかに誰もできないような、そんな絶妙な強さと確かさで、ぎゅっとぎゅっとにぎってくるんだ。そんなの、ものの数秒もしないうちにゆびさきから手のひらから全部温まってしまうに決まってて、目を閉じることだって、どころかまばたきだって、許されない。底の見えない瞳の向こうに、どうしても惹きこまれる。
そうして芳佳ちゃんはじっとわたしの目を見たまま、わたしのことばを待ってくれるのだ。ぎゅっと握られた手は離されない。わたしがそれを、ちゃんとわかって、すとんと飲み込んで、自分の一部にできるそのときまで、芳佳ちゃんはわたしを待ってくれる。ひとの目を見続けることがどんなに難しいことかはもう知っていて、だからからだまでぽかぽかしてくるんだろう、芳佳ちゃんは、すごい。

そしてそんなすごいひとの隣に、わたしは、並べないのだけれども。

「……うん、えっと」
「うん」

「じゃあ、待ってる、ね」

並んで飛んだりは出来ないのだけれども、例えば宿り木にくらいは、なってみても、いいでしょうか。ここでずっと、ずっと待っていても、いいでしょうか。
たとえばつめたい雨が降るとき、たとえば身を切る風が吹いたとき、たとえばすこし飛ぶのに疲れてしまったとき、空と海を切り裂いて真っ直ぐ真っ直ぐ青の世界を飛び回るあなたが、ふと帰ってこれるように。


「うん、じゃあ私、リーネちゃんのところに、帰ってくるから。ぜったい、ぜったい、かえってくるから」


芳佳ちゃんはおおきく頷くと、翼のような手をぱっとひろげて、今度はわたしのぜんぶを、ぎゅっとしてくれたのだった。



 

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