「しあわせとえがおについてのはなしをしよう」






 夢だと思った。夢でいいと思った。夢であって、ほしかった。
 でもほんとは、なんて、考えてない、考えるわけがない。そんなおそろしい「ほんとう」なんて、私は要らないんだ。
 これは全部夢で、ここにあるのは全部嘘の現実だから。そうだ、だから手を伸ばしたんだ、全部「うそ」にしてしまいたくて。
 もう一度目を閉じて手を振ったら、たとえここで何をしていようとも、それは全部嘘に変わってしまうから。変わってくれる、から。

 その日私はざんこくなくらいに優しい夢を見て、夢は夢だとなんとか理解していたから、そうだこんなのは全部嘘にしてしまおうと思って、きみのつめたい頬に手を伸ばした。夢の中のきみは、そうするときれいにきれいに頬を染めて、いちど息を吸って、ゆっくり吐くくらいの間黙ってから、微かに濡れた瞳でこっちを見つめてきたんだ。

「……エイラ」

 口元に静かな笑みを湛えながら、きみは囁くように私の名前を呼ぶ。それは夢の中で、ぼんやりと、ぼんやりと、私の意識に溶け込んでいく。
 大丈夫、こんな私もきみもきっと全部全部嘘だから。だから目が覚めたら、いま手にそっと染み込んでいるきみの感触だって、全部消えてしまうだろう。
 でもそれでいいんだ、いいんだよ、ぜんぶ嘘にして消してしまえたなら、目が覚めたあとのほんとの私はまた笑っていられる。きみも、笑っていられる。
 そうして私はまた何度だって言い聞かせられるはずなんだ、サーニャが笑っていたら、きっとそれで大丈夫だって。それでもう、ぜんぶいいんだよ、って。

 きしりとベッドの軋む音、すっとサーニャの目が閉じる、息が止まる。吐息がへんにあつい。寒かったから、だろうか、違うかな、胸の中がひりつく。
 現実の気温は夢にまで影響が出るのか、なんてことを考えてしまったのは、目の前の状況をあまりにまっすぐ受け止めると、逃げ出したくなるから、で。
 だけどそんなふうにしてみたって結局私の頭の中はひどくうるさい。心臓の音のほうがずっとうるさい、けれど。ああ顔があつい、すごくあつい。
 こういうとき、どうしたらいいんだっけ、なんて、もう、あまりにもいまさらなのだ、サーニャがくっと顔を上げる。


 ――だから、そうだ、このやさしいやさしい夢のなか、こころを全部、嘘にしてしまおう。


 そう思って私は、ぽうと熱くてやわらかなそれと自分のを、いちどだけひっしに重ねあわせて。頭の中が、しびれるように痛かった。でもいまにも消えてしまいそうな感触だけは確かに感じてて、夢の中なのにサーニャの温度が優しかった、とても、優しかった。


「……っ、え?」




 まるで、ほんとう、みたいに。




「……っ!!」

 感触が消える。私が慌てて離れたからだ。さっきよりもずっとうるさい、スプリングの音。ぎし、がたり。何か落ちた。でもいまは。さっきまで泥の中みたいだった意識はしかし今ぞっとするくらいはっきりしていて、窓の外で鳥がぴいと鳴いているのすら、聞こえて。それは、「ほんとう」の音だった。どきんどきんと鳴り響きだしたたたきつけるような音は、どこか気持ち悪い音を孕む。翠色の目線。サーニャが、サーニャがこっちを、みて、いる。

「うそ、だ」

 こんなの。
 うそだ、ちがう、こんなの、ちがうんだ、だって目が覚めたら消えてるはずで、そうだ、きみはただ静かに、目を閉じている、はずで。
 まってくれ、ちがうんだ、いやだ、こんなのは、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶうそだったんだ、そうだろ、なあ、お願い、だから。
 自分の顔を握りつぶすみたいにして手で覆った、視界はふっと暗くなる、これが夢の切れ目だったなら。一生懸命目をつぶって祈る。祈る。祈る。


「……エイ、ラ」

 だけど何一つ消えてなんてくれなくて、これは、これは全部、現実の話だったのだ。

 サーニャのひどくふるえた声が引き金になって、私はすっかり力の抜けた手をぱたりと下ろした。もう顔は覆ってないのに、さっきより息が苦しかった。
 でも、いっそそんなの、止まってしまえばよかった。だってきっと、私が苦しかったのは呼吸じゃなくて、呼吸していることだったんだ。
 俯いた視界にちいさな手のひらがすっと入る。しろいそれが眩しい。すごく眩しい。目が痛い。見ているのが、つらい。でも目を逸らせない。

「ないてる、の?」



 手が。

 サーニャの手が、こっちに、伸びた。ためらいがちなそれは、だけど、指先からそっと、私の頬にまで、届く、届く。


「……めだ」

「え?」
「だめだ、サーニャ」

 勢いに任せて振り払ってしまおうとするのを、どうにかこうにか押しとどめて、できるだけそっと、サーニャの手を下ろさせる。だめだ。私に、触れては、だめだ。サーニャの瞳の中で、戸惑いが揺れる。それが何の色をしていたかが見たくなくて、俯いて、少しだけ歯を食いしばった。ほんとは一瞬見ただけでわかるんだ。わかってしまう。それがかなしみの色だったことが、私はわかってしまうのだ。ずっとずっと見てたから。ずっとずっと見てて、きみの綺麗な翠の中から、そんな色は消えてしまえばいいのにって、思ってたから。

 何を言っているんだ、と、声がした。それは頭の中で響いていて、つまり自分の声で、だというのにぞっとするほど底冷えした響きを以って、それは私に突き刺さったのだ。なにをいっているんだ、おまえは。でも、だって、サーニャを大事にしたい、サーニャの笑顔を守りたい。そう言い返すけれど。なにをいっているんだ、おまえは。まっすぐ深々と突き刺さったそれは、痛みではなく、痛みなどというあたたかいものではなく、もっと冷たいものを、溢れさせる。

 なにをいっているんだ、たったいまのいま、おまえが、サーニャにらんぼうなこと、したくせに。


「でも、エイラ」

「っ触るなったら!!」


 ――ぱしん、と。


 あまりにも軽い音だった。あまりにも軽くて、弱々しくて、悲痛で。そのくせ、あまりにも尖った、音だった。もっと大きい音だったら良かったのにってそのとき私は思ったんだ、だったらもっとすぐに、それがどういうことだったか、私が何をしてしまったかって、わかったのに。

「あ………」

 私が、サーニャの小さな手をーーほんとは、すきで、すきで、たまらなかったはずの手のひらをぱしんと振り払ったその音は、だって、あまりにも微かで。一瞬まっくらになってしまった私の頭は状況をなかなか理解しなかったんだ、これはなんだった、これはどういうこと、私は、わたしは。

 寝ぼけていた私は、それにひとり打ちひしがれた私は、サーニャにいったい、なにをしてしまった

 けれども私がそれを理解したのは、音のない音が、溢れたときだった。それはむおんの叫びとして、サーニャの目からじわりと溢れて零れた、のだ。それはしずかにしずかにサーニャの瞳から流れて、頬を伝って、シーツの上にかなしいくらいおおきな染みをいくつかつくる。透き色の雫が、落ちる、落ちる、落ちる。そうしてそれは、どこまでも切実に、私がいちばんつくりたくなかったものをつくってしまったことを、示していたのだ。大事な、いや、大事にしなきゃいけないはずのサーニャ。もっとたくさん笑って、もっとたくさん幸せにならなくちゃいけないサーニャを。


「ごめ……ごめんっ……ごめん、ごめん、ごめん!!」


 なかせた。
 わたしが、なかせた。

 それが、いちばん、みたくなかったのに。



 気がついたら部屋を飛び出していた、サーニャの声も何もかも全部振り払って私は走っていた。

 頭の中は真っ白で。
 握り締めた手は痛いくらいなのに私の感覚はどこか遠くて。
 視界はただ、鈍く赤く染まった廊下がぐんぐんと後ろのほうへ、後ろのほうへと流れていくのを、写していたのだ。











 嘘にしてしまいたいということは、自分の中にその「うそ」であってほしい気持ちがあった、という、ことになってしまうんだろう、きっと。私がいくら必死に目を逸らそうとしても、いくら消してしまおうとがんばっても、それはいつでも私の心から離れてはくれない。しかも、離れてくれない、忘れられない、それだけじゃなくて、その恐ろしい気持ちは、まったく何の前触れもなく、私の心の中、ふっと頭を擡げてしまうから。

 ――それが、わたしはいつも、こわくて、こわくて、たまらなくて。


 その日はなんだかいつもよりもだいぶ寒くて、白い息が出ることにルッキーニなんかははしゃいでいたんだけど、日が落ちて夜になればそうもいかない。身を切るようなっていうらしいけど、ほんとにそんな感じがしてしまうほど、冷たい空気は容赦なく染み込んでくる。さすがの私も、隣のサーニャも、日がな一日身を震わせていた。

「さむいなあ、今日」
「そうね、少し、さむい……」
「おいおい、これで少しだって!?」
「うぁうううう、あたしもうだめぇ……」
「ふふん、私とサーニャはなんてったって北国出身だからな、お前らと違って寒さには耐性があるんだよ」
「そういう言い方はよくないわ、エイラ……今日はさすがに、私だって寒いもの」

 しまったと思ったころには大体私の口からは余計な一言がするっと出ていて、案の定サーニャは微かに眇めた目でこっちを見ているのだった。うう、やっぱり怒られた。そうじゃないかと思っていたわりに、結局のところ私がサーニャに言い返す言葉なんて思いつくはずもなく、シャーリーとルッキーニがにやにや見てるのをただ睨み返す。うるさいぞ。何も言ってこないけど言いたいことなんて顔を見ればわかるっての、なんだよ、ほんとにお前ら血がつながってるんじゃないのか、揃っておんなじ顔、しやがって。
 そのまま二人のにやにやした視線にさらされるのもごめんだったので、ただ唸ってそっぽを向いて、白い息を吐いた。やっぱり今日は、寒い。冷たい息が、肺に凍みた。確かにスオムスもオラーシャも北欧の寒い国だから、少しばかり寒いのには慣れていたりするけれども、我慢できるっていうのと平気っていうのとは、また違うのだ。

「うー、ううううう……だめっ、もうだめ、シャーリーっ!!」
「ああ、はいはい、よしよし……でもなんだかんだいってルッキーニのほうが体温高いから、こうするとあたしがあったかかったりするんだよな」
「え、ほんと!? えへへ、じゃあぎゅー!」
「おお、ぎゅー!!」
「うぷ、し、シャーリー、ちょっと苦しい」
「……胸で挟んでんなよなー」
「お? ああ、はは、こりゃ失敬!」

 いや、実際、そのままだったら結構苦しそうだったと思う。とはいえ抱き直されたルッキーニは非常にご満悦そうに、ふたつのおおきな胸の間、ぬくぬくな笑顔を浮かべていた。失敬失敬、こりゃ失敬、なんて楽しそうなリズムで歌うように言いながら、シャーリーはルッキーニの頭をわしわしと撫でる。シャーリーの顔がどんどん優しくなっていく。今目の前に鏡を突きつけてやったらこいつはどんな気分になるだろうか、それこそ自分の顔の、あまりの緩みっぷりに、笑いだしてしまったに違いないのだ。一緒にしっけいしっけいって歌いだすルッキーニと、それこそ端で見てるサーニャまでくすっと笑ってしまうくらいに、それは、ちょっとだけあったかい、光景だった。

「二人は……ほんとに、仲良しですね」

 小さく笑ったサーニャはそう言って、どこかまぶしそうな瞳で二人のことを見つめた。ルッキーニは実に誇らしげな顔でそうでしょ、と言う。ほんとおまえ、シャーリーのこと好きだな。それでいてきっとルッキーニは、シャーリーも自分が好きであろうということを本能的に理解しているのだ。シャーリーも、だろ、なんて言って笑うってことを、心の底から知っている。どうしてだかそれがすごくすごく眩しく映ってしまうのは、なんでだったのか。わかっているけれど、私はその羨望と向き合いたくはなくて、ひとりちょっとだけ頭を振る。考えはすぐに追い出してしまって、そのときシャーリーの手、ルッキーニの頭を撫でていたのとは違うほうが、ふっとサーニャのほうへ伸びてきたのを見ていた。

「んー……あー、いや」

 しかしシャーリーはサーニャの頭に届くか届かないかのところでぴたりと伸ばすのをやめて、ちらっとこっちを見てくる。青く光るのはいたずらっぽい、それでいて何か言いたそうな目だ。なんだよ、と私が言いそうになる一瞬前にそれはまたサーニャのほうへと向いていて、シャーリーのことだからサーニャも同じように暖めようとしていたらしい手は、違うかたちを作った。ルッキーニみたいに撫でてやるのかなって思ったんだ、それを平気な顔でできてしまうくらいには、こいつが優しい奴なんだってことを私は知っていたから。でも、ちがった。
シャーリーの手はルッキーニに向けた大きなそれではなく、もっと小さく、いたずらっぽい形で、とん、とサーニャの額に触れるだけの形を、していたのだ。

「サーニャには、あたしじゃどうも、役者不足だな」

 にっとした笑みを浮かべたシャーリーは、どちらにせよ不意をつかれてちょっと目を丸くしているサーニャに向かって、一言。
 最初に反応したのはルッキーニで、シャーリーの腕を引っ張って遊びながら、なにそれどういうこと、と無邪気に尋ねた。シャーリーはただ、さあ、どういうことかな、と笑う。ルッキーニに答えてやってるくせに、こっちを見ながら、笑う。

「なにせ、今日は寒いもんなあ」
「…………」
「人肌が、恋しくなる気温ですねえ?」
「……もうお前ら、あっちいけよ」

「へいへい、言われなくても。ようしルッキーニ、あったまるようにかけっこするぞ、かけっこ」
「オッケー! じゃ、よーいどんっ」
「あ、こら待て、ちょっ、それはさすがにずるいぞ、ずるいったら!!」

 最初っから最後まで賑やかすぎる二人は去り際ぎりぎりまで賑やかで、きゃあきゃあと笑ってるんだか叫んでるんだかわかんない声が、たぶん角二つ越えてもこっちまで響いていた。ほんとうるさいよなあ、あいつら。呟いたことばに取り繕うような響きが混じっていたことを、サーニャは気がついていただろうか。きっとわかってないって、信じたいけど。世の中にはしらない方がいいことだってたくさんあるんだ、なんてことを私はこの能力のおかげか人よりちょっとだけよく知っていた、見なくてもいいことだって、たくさんある。
 だからもう、早く部屋に戻ってしまおう。哨戒の準備だってある、今日は寒いから、少し暖かい格好をしたほうがいい。そうだ、スオムスから良い防寒具が届いてた気がする。
そうだ、それを――。

「っ……え、さ、サーニャ?」
「…………」

 なんて、実は一生懸命にそれをちゃんと見てしまわないようにしていたのは私のほうだったのだけれど、そのどこかむなしい努力は、ほんのちっぽけな感触で、消え去ってしまうのだ。


 触れたのはちょっとだけ、もしかしたら指先だけ。サーニャの手は、ちいさな手は、冷たい。
 そりゃあおまえ、こんだけ顔が熱かったら手だって熱くなるだろう、って、顔が熱くなったのは手が触れた後の話で、ええと、なんだっけ。いやいや、そうじゃ、なくて。必死に考えている間にはほかの感覚がどんな働きをしているかなんてことは頭からすっ飛んでしまうもので、サーニャがこっちを見て初めて、自分がじっとそっちを見ていたとに気づいた。う、かあ、かなにか、飲み込めなかった声が漏れる。それがちょっとおかしかったのか、サーニャの目の端っこがちょっとゆるんで、それは、それは、とても、きれいで。

「……あの、」
「うん」
「……ええと」

「うん……さむい、から」

 指先、ぴくり、触れる、近付く、ゆっくりと。
 最後にきゅっと力を込められて、冗談でなく私は肩が跳ねたのだけれど、そのときサーニャは、さっきの二人と同じかそれ以上くらいに、あたたかそうに、笑ったから。あの二人にはとうてい及ばないくらい、それはそれはちいさな触れあいで、繋いでいると言うにはちょっと不格好にも見えたのだけれど、温度だけは、確かにそこにあって。

「……さむい、なあ」
「うん」

 確かにそこにあって、だからきみは、うれしそうに、笑っていて。
 サーニャの手はつめたい。だけど強くなんて握れやしません、そんなのは絶対にできないんだ。
 握られているのは手のひらなのに、握りつぶされそうなのは胸の奥。それはいつでも泣き出しそうなくらいに強くて、私の声は、いつもふるえる。

「きょうだけ」
「ん?」

「きょうだけ、だかんな」
「……うん」

 言葉はサーニャに対してのものではなくて、きっと自分で自分に言い聞かせる免罪符だ。
 今日だけだから。今日が寒い日だったから。サーニャが寒いなって思って握ってきたんだから。だから今日は手を繋いでてもいい。それは、きょうだけのはなしだから。

 だから、指先の芯がひどくひどく熱くなっていることだって、苦しいくらいの鼓動の音がほんとはたいせつだったことだって、きみが暖かそうなのがうれしかったことだって。私は全部今日だけの嘘にしてしまって、そのとき感じていたものがなんだったのかなんてことは考えないように、そのこころに名前なんて付けてしまわないようにして、また、明日を、迎えるのだ。



 だって私は心の底から、サーニャがしあわせだったらいいなって、サーニャが笑っていたらいいなって、思いたくて、思わなきゃ、いけなかった。










 そうだというのに何もかも嘘にしてしまうことができなかった私の手のひらにも唇にも、その恐ろしい、嘘であれと願うものは、べったりとべったりと張り付いていた。握りしめたって拭ったって、それはきっと感触としてではなくこころとして私の中に残ってしまっているのだ、そんなの、嫌なのに。
 必死に走って走って逃げ込んだ部屋は埃っぽい匂いがする、何も置かれてなんかない空き部屋だったけれど、そこにいるなにかに私はどんどん埋もれていくようだった。でもそのくせ、ひどくぽつんと座っているような、気もした。窓から射し込む朝日で、消えてしまいそうだった。


「うそだったのに」


 でも、うそじゃなかったんだ。
 呟いた言葉は泣き出しそうなくらいにからっぽで、どうにかしたくて、どうしようって思って、どうしようもなくて、どうしても、だめだった。ああ、もう。握りつぶしてやるってくらいに頭を抱えたって、突き刺さる爪が鈍い痛みを走らせるだけで、瞼の裏に焼き付いた真っ赤な世界は消えていかない。戸惑いに揺れていた瞳も、音もなくこぼれていった雫も。それはぜんぶ、どこまでも鮮やかに。

「……わたしは、」

 水の中みたいに静かな中で、私は一人で呟いた。たぶんまだもがいていた。そうじゃないと、だって、もう。


「わたしはただ、サーニャにしあわせになって、ほしくて」


 ピアノが好きで、音楽が好きで、きっとすてきな夢があって、眩しい音に囲まれた未来があったはずのサーニャ。それを爆音と一緒に壊されてしまったサーニャ。家族に会いたいって、今にも泣き出しそうな声で、たった一言話してくれたことが、あった。暗い夜だった。暗すぎる夜だった。毎晩こんな中を飛んでるのかって、私はぞっとしていた。飛び立つのすら躊躇われてしまった私は思ったことそのままに、すごいなって言ったんだ、毎晩怖くないのか、って。そしたらサーニャは、なにか、そう。
 なにか、とてもかなしそうにわらって、なれてるの、と、言った。


「サーニャが、もっとちゃんと、いっぱい、たのしく、わらってたらいいな、って」


 それを見るのがどうしようもなくつらいことを私はあのとき初めて知ってしまって、だから、ぶっきらぼうな言い方で、明日も一緒に飛ぶぞ、って、言ったんだ。だってきみは、きれいなのに。そうだ、あんなにきれいに、笑えるのに。たとえばあのときみたいに、あの夜、ほんと、って、うれしそうに言ったとき、みたいに。


「ほんとに、そう、おもってるんだ」


 ほんとに。


 ――ほんと、に?



 だったらどうして、自分があのこに乱暴に触れてしまうことを、私はただの夢にできなかった?



 きみに触れるのが怖かった、だって触れたらもっとずっと触れていたくなるって、このまま掴まえていたくなるって知っていたし、それは私にとってひどく恐ろしい想いだったのだ。きみが笑っていてほしい、きみが幸せだったらいい、そう思うのに、思っているのに。誰が、ってことを考えると、私はとたんに怖くなって、怖くなって。サーニャの笑顔を守りたいのは、幸せを守りたいのは、いったい「だれ」であったのかを考えるのが、私は、いやだった。

 だってそれはあっというまにひどくみにくい塊に姿を変えるこころだった、それにまっすぐ向き合うのが私はいつだって怖かった、ちがうんだ、そうじゃなくて。そうじゃない、私がこうしたいこうしたいっていうんじゃない、そうじゃなくって、もっと、もっとちゃんと、こころからきみのこと、想っていたくて。私がどうしたいとか、ほんとはずっときみの手を握っていたいとか、そういうの全部抜きにしてさ、ただサーニャが、かわいいきみが、笑っていたらいいなって、私はそれだけ、考えて。


「ほんと、なんだ」


 なさけなく声が震えているのは多分に怖いからで、怖いのは自分だったから、私はそのとき、きっととても滑稽でちっぽけな影みたいなものだった。照らされるのが眩しくて、照らされれば照らされるほど自分の影ばっかりが色濃くなっていると知っていて、腫れ上がりそうな頭を抱えて、私は目を、閉じる。
 そうやって、いっそもう、私がうそになってしまえばいいのになって、そんなばかばかしいことを、考えて、いた。







 ああ、私の手は冷たいんだな、とぼんやり思う。
 考えてるうちに微睡んででもいたのか、それはほんとうにひどくぼんやりとした感覚で、どうしてそんなことを突然、だなんてことも、私はあまりにものんびりと考えていて、ふと思い当たったそのときには、だいたいいろんなことは、手遅れであったり、する。

「はなせよ」

 同じ温度のあいだだったら、自分で自分の手を握りしめてるだけだったら、それが冷たいかどうかなんてわからない。概念ってものがまず、頭の中に生まれないんだ。だから、それはいつだって反対同士の間から生まれるように、私の手が冷たいってことを私が突きつけられるのは、たとえば、いま、私の手のひらの上。

「いや……」

 自分のとは違う、あったかい手が、のっかったときなのだ。

 か細い声で絞り出すように、そのあったかい手は、サーニャは、言った。きっとふつうなら聞こえやしないような声で、だけど私はそれを、あまりにもはっきりと聞いてしまうのだ。顔すらあげてないのに、私は膝を抱えたおかしなかっこうのままなのに、それはまるで手の温度と一緒に伝わってでもいるかのように、まっすぐとまっすぐと私に沁みる。こんなときに私は少しだけ、この、滑稽なくらいにきみの声をちゃんと拾うようになってしまった耳を、呪った。いま、いま声を聞かない方がいいってことが、どうしてわからない。すぐに言い返すのが辛くなるって、その声でどんどん喉が詰まっていってしまうって、それでも言い返さなくちゃいけないって、わかってるくせに。
 サーニャは握るというにはちょっと弱すぎるような手で、だけどそれ以上にずっと切実な手で、私に触れて、いた。だめだって、言ったのに。

 だったら振り払えばいいじゃないかって思ってもみるけれど、白い頬の上をつたった雫のことを忘れてしまうには、まだ早すぎた。だから私の手はぜんぜん動かなかった。もう一回泣かせてしまったら、なんだかもう、ほんとうに、どうしたらいいかわからなくなってしまう。私はそんなのが作りたい訳じゃないのに。それを言うなら一度自分でなかせてしまった時点でぜんぶ破綻していたような気がするのだけれど、私が矛盾しているのは今に始まったことではないわけで。
 せめてもう一度泣かせたりはしないように、それでもちゃんと言わなきゃいけないことは言うようにって、私はくるしいかっこうのままで、戒めるようにそっと息を吸った。

「はなせって」

「いや」

「はなせったら!」

「いや!!」


 はっとした。
 何を思うよりもまずいちばんに、顔を上げていた。私が思うよりもずっとずっとちかくにいたサーニャ。ちいさな声でしかあまり話さないサーニャ。
 さっき、私に向かって悲痛に叫んだ、サーニャ。

 ――が、ないて、いた。


「いや……」


 ぎゅっと、ぎゅっと、いたいくらいつよくつよく私の手を握りしめながら、サーニャは言った。なきながら言った。いや、エイラ。ないた声で、私を呼ぶ。
 それが見たくなかった。それが聞きたくなかった。サーニャの手がふるえてる。こんなにあったかい手なのに。私のからだはぴくりと動いて、たぶん、どうにか、したくなってて。抱きしめてやればいいんだろうか、そしたらきみはわらってくれるだろうか、きみのふるえはなみだは止まるだろうか、私が、この手を、伸ばせば。


「むりだよ」
「っ……エイ、ラ?」


「私はっ、サーニャのしあわせなことだけ、願ってたいんだ!」


 そこに「だれが」なんて、「わたし」なんて要らないから。
 サーニャが笑っているのを私がどうしたいだとか、こうしてきみが触れてる間にもどんどん増していく熱だとか、そんな気持ちは全部嘘にしてしまって、全部夢にして消してしまって。そんなの私は欲しくなかった、そんなのあっちゃいけなかったし見たくなかったんだ。私は、サーニャが、ただ、わらってくれてたら。


「エイラは」


 サーニャは、いたいくらいに静かな声で、ふっと、言った。
 またあたたかさをおぼえた、今度は頬から。頬が冷たかったのは、そこが濡れていたからで。
 サーニャはいちどくっと息をつめるように黙り込んだ、ゆらいでゆらいでいる瞳は俯いて、でも、すぐに、私の方をまっすぐ見たのだ。


「エイラは、いつも私がどうして笑えてるかって、それは、かんがえたこと、ないの?」


 翠色は、たぶんいままででいちばん、きれいだった。






 ねえ、エイラ。サーニャの両手は私の頬を包む。あんなにおおきな武器を振り回しているのなんて嘘みたいにきみの手は小さい、けれどきっとそれは包まれるっていうことばが正しかった。

「私は……私は、ね、エイラ」

 にげられないってすぐに思った、にげたいって思ってた。
 振り払わなくちゃいけない、このままじゃ危ない、サーニャが近い、きれいなかおが、すごくちかい。しずかな呼吸が、きこえる。
 だめだ、このままじゃ。体に力が入らない。こころは精一杯の警鐘を鳴らしてる。だめだ、だめだったら、考えるな、聞いちゃだめだ。


「私は、エイラが、いいんだよ」


 だってそれは、あっちゃいけないはずの気持ちで。
 私が思わなくちゃいけないのは、サーニャの笑顔だけで。


「エイラがそばにいるのが、幸せなの」


 私がどうしたいだとか、私のこころだとか、そんなことは、そうだ、どうでもいいはずで。
 全部消さなくちゃ、全部夢にしなくちゃ、存在することだって、許されない。


「エイラがいるから、笑えるんだよ」


 ――なんてことを、私がずっとずっと考えていたことを、きみはそのちいさな手でぜんぶ、光に変えてしまったのだ。





 サーニャは、ほらねって示してくれるみたいにきれいにきれいに笑って、私はもうそれにどうしようもないくらいどきりとしてしまったのだ、怖い音、だったはずなんだけど。でもそれがほんとはすごくすごく私にとっては大切な音だった、サーニャのことを一生懸命考えたら、かならず響く音。
 きっとすごく怖くて、消してしまいたいくらいに怖くて、だけど、ほんとは、大事に大事に抱きしめていたい、それは、こころのおと。

 きみが、だきしめてくれたおと。

 いいのかな、いいのかなってどんどん縮こまりそうになる私は、しかしサーニャの手がすっかりと捕まえてしまっていて、つまり、逃げることも、目を逸らすことも、できなくて。向き合いたくなんてなかった、消してしまいたかったはずのこころは確かに私とサーニャの間、あたたかに触れあうその隙間から、どんどん、どんどん、あふれてくるのだ。どう力を入れたらいいかだってぜんぜんわかんないけど、そのままに伸ばした手で、サーニャのことをどうにか、こうにか、だきかえす。そしたらきみはへたくそだねって言うみたいに笑って、でも、こつんとぶつけた額は、すごくすごく熱かった。多分私たちは、ふたりしてせいいっぱいだったのだ。


「エイラ」
「ん……うん?」

 
「もういっかい、してもいいよ?」


 きみでいいよ。
 きみがいいよ。


 それは否定しなくちゃいけないものだった、きっとそうだった、傷つけてしまうのは怖くて、ほんとはきみのことだけまっすぐ考えていたくて。
 ああでも、ああでも、そうだ、だって、だって、そうだ。


「……ほん、とに?」

「うん、ほんと」



 だって私は、きみが好きなんだ!!



 

inserted by FC2 system