「おべんとうの話」




 まだこだわってる、なんて美奈子ちゃんに言われたこともあったっけな、まあ、あの時はムキになって否定したし、そもそもおあいこだったから、なんだか張り合っちゃったけど。新しい恋を探す、うん、いいことだと思うし、そうしなきゃいけないんだとも思う。あたしだって全部が全部後ろ向きな気分ってわけでもない。いつまでも引きずって落ち込むなんて柄でもないし。
 だからそんな、いつでも目に見えてこだわってるってわけじゃあ、ないとは思うんだけど。思うんだけどさ、ひとのこころってヤツは、ほら、そんなに簡単じゃないんだ。思いも記憶も、はっきりとした形を以て、どっかに記録されてるわけじゃないだろ。だからノートの上に書かれた字みたく、忘れたいから消しゴムで消しちゃえ、ってわけにはいかないんだよ。都合の悪いこと、忘れたいこと、ちょっと胸が痛むこと。どんなことであろうと、それはいつだってあたしのどっかにそうっと残っていて、忘れそうなときに、ふっといたみを放つのだ。

 それにしたって、どうしても周りで何が流行してるかってのに敏感になっちまうのは、逃れられない女の子の性なのかね。さっきから視界にちらつくのは色とりどりの包みを揺らす子ばっかりだ。まあ、そうでなくともこれだけあっちこっちで見せ付けられちゃ、目を逸らそうにも逸らせないんだけども。どーもうちの学校には、浮ついた学生が多いようで。なんて言うと僻みっぽく聞こえそうで、それはそれで癪だから、あたしはとりあえずこっそりため息をつくだけに留めておく。
 だけどそのあたしが吐いた重い息ですらさっと吹き飛ばすような勢いで、女の子はあたしのすぐ隣を駆けて行ったのだ、肩がぶつかりそうな距離だからわかった、大事に抱えたピンクの包み、二つ。彼女の足取りはそれこそ今にも飛び上がりそうってくらいに軽くって、目線は真っ直ぐとただ一点だけを捉えていた、すなわち、廊下の向こう、笑顔で手を振っている、幸せ者の誰かさん。

「……あーあ、ったく、良い彼女を持って、しあわせだねえ」

 もう僻みに聞こえたっていいや、どうせ並んで歩き出しちゃった二人には、あたしの声なんざ届きもしないんだし。乱暴に振り上げた両手を頭の後ろで組みながら、ついでにため息、もうひとつ。それからあたしがわざとごつごつ足音を立てて廊下を闊歩したのは、あたしの中でずきんずきんと鳴り始めたなにかを、とりあえずどっかにやれないかって、そんな無駄な抵抗だった。

 随分と、誰かのために弁当なんて作ってないな――つい先日呟いた言葉、どこにも行き場のなかった言葉、それはどこにも行き場がないままただ小さな棘みたいに自分に刺さって、抜けなくなる。ずきんずきん、ずっと痛いんじゃなくて、時折、思い出したように。徒にふっと現われては、からかうように肩を叩く。こだわってるなんて言いたくないけど、忘れたなんては言わせてくれない。こないだ踏み潰されちまった弁当箱と一緒に、完全に消えてくれたなら、良かったのにな。同じものを買おうかだいぶ迷った挙句、微妙に似てるけど違うやつ、ってなんともはっきりしない選択をした。それがまた、どっちつかずな自分そのままって感じで、なんだかちょっと、どうしようもない。

「あら……まこちゃん?」

 だけど三回目のため息は、ふっとかかったひとことで、あたしの胸の中、はじけて霧散していったのだ。
 振り返って、それから視線をちょっと下にずらしてみれば、いつものように涼やかな笑顔、と、それによく似合う青がさらさら揺れていた。

「どうしたの、こんなところでぼうっとして……お昼、まだなの?」
「えっ? あ、ああ、まあね。亜美ちゃんも?」
「あ、ええ、私は……ちょっと、さっきの授業で気になったところがあって、今まで質問に行ってたの」

 そしたらつい長くなっちゃった、と言ってはにかんだ彼女の腕の中には、言葉通り教科書が握られていた。ちなみに、よりによって数学だった。あまり昼休みにはお目にかかりたくないものだ。けれどそんな自分の情けなさも相俟って、やっぱりこの子はすごいんだなあ、と改めて実感。努力家なのは知ってたけど、睡眠時間のみならずお昼まで潰すなんて、舌を巻かざるをえない。まあ、お弁当を後回しにしちゃうところも、亜美ちゃんらしいといえば、らしいのか。そんなことを思いながら、なんとなくそのまま黙ってしまう。
 こと亜美ちゃんの前となると、最近そういうことがよくある、ような、気がした。言いたいことはあるはずなのに、というか普通に軽い調子で話をすればいいのに、なんとなく空っぽになるんだ。なんて、それはあたしでもまだよくわかっていないような、ぼんやりとしたものだったけど。ともあれそのぼんやりとした何かは、あたしの喉かその辺りに薄い薄い膜を張る。そうしてあたしはちょいとへんだなあ、と思いながら、まだお弁当箱の重いふたりで、廊下で突っ立ったまま。亜美ちゃんも賑やかなタイプではないから、黙っている。

 だからそう、次にあたしが口を開いたその時点では、何か考えがあったかっていうと、そんなことはなくってさ。ただやっとこさっとこ膜をつついて破ったわけ。
 何を言おうって考えてたわけでもなく、話す理由があったわけでもなく、ただただ、口を開かなきゃって思っちゃったんだよ。なんか――なんか、そのままだとさ。

 そのままだと、なあんか、すごく余計なことでも、ぽろっと言っちゃいそうで。


「えーっと、そ、そうだ、じゃあさ、これから一緒に食べないかい?」
「え? あ、お弁当? ええ、いいわよ」
「へっ……あ、ああ、そう、そうか! じ、じゃあえーっとそうだな、中庭の方にでも行こうか!」
「……?」


 といっても、結局は、ぽろっと余計なことを言ったって結果になったような気は、するんだけれども。




 違うクラスといえど仲はいい方なので、一緒にお昼を過ごしたことがなかったかって言えば、そんなことは全然ない。むしろ良く一緒にいる方だ。ただそのときは基本的にいつもうさぎちゃんが居たし、ついでに海野やなるちゃんがそこに混ざってくることだって珍しくも無かった。でも今日は勝手が違う。一応聞いてはみたけどやっぱり先に食べてもらったらしい、まああの食い意地だけはいっちょまえなうさぎちゃんが、お昼ごはんを「おあずけ」してられるって気もしないしね。
 てことは自然と、中庭に足が向くのは、あたしと亜美ちゃんだけに、なるわけで。いや、そんなん大して考えるようなことでもないんだけどさ。ないんだけど、さ。そう強いて言うなら、三人で居たって五人で居たっていつも話題の中心、って感じになるうさぎちゃんが欠けてると、ちょっとすごく静かで落ち着かないな、っていうか。

「それ、私だけじゃ不満ってこと?」
「えっ!? い、いや、そうは言ってないよ!! 十分だって、じゅうぶん」
「ふふ、ごめん、冗談よ。そんなに焦らなくてもいいわ、まこちゃん」
「……亜美ちゃん、それはないよ」

 肩を落としては見せたものの、ちょっと大仰なアクションなんてかますと、まあ、落ち着きだけは、回復したかな。
 そんなところも見透かされて、いつもは言わない冗談なんて言ってくれたのかなあ、なんて思うときりがないけれど、そっと心の中でありがとうとだけ言ってみる。亜美ちゃんはそういう子なんだ、と頭でわかっているよりずっとこの子は遠く深くを見つめられているし、優しさの温度だってたぶんあたしが思ってるよりずっとあったかい。なんてこと、自分に向いたときだけ、ふっとわかるんだ。ひょっこり顔を出すように、沁みるんだ。ああなんだか、痛みともちょっと似てるんだな、ふしぎだ。おなかすいちゃった、といつもよりはしゃいだふうに言う亜美ちゃんの隣に腰かけると、ほら、なんだか、あったかい。

 とかなんとか考えているとまたぼんやりしそうだったので、それにつけても今日はいい天気だなって便利な話題を持ってきて、あたしは弁当包みの封を開けた。亜美ちゃんもそれに倣って、だけど倣いながら、穏やかな目線はちらとこっちに向けられる。

「ん……なに?」
「あ、ううん……今更だけど、やっぱり、まこちゃんのお弁当はいつもおいしそうだなって思って」
「ああ、まあ、これに関しちゃあ、そこそこ自信があるからね」
「そうよね。まこちゃんが作るお料理もお菓子も、全部とってもおいしいもの」
「そ、そう? なんか……ありがと、亜美ちゃん」

 そのとき亜美ちゃんがいいえこちらこそって言ったのは、たぶん、たぶんだけど、レイちゃん家に集まるとき、たまにクッキーやら焼いていくこととかに対して、で。
 おいしいものを食べたら、幸せな気分になるでしょ。それがこんなに上手にできるまこちゃんって、すごいと思うの。亜美ちゃんは、そういうこと、ちゃんと言える人。知ってるよ。でも、だからさ、頭でわかってるっていうのと、それを自分の耳とか目とか肌とかでありありと感じるのとでは、また全然、勝手が違うんだ。箸を落としそうになったのは秘密。あったかい通り越して熱いになってきたのは、まあ、突き抜けるほど天気がいい陽光のせいってことにしておこうかと思った、ここ木陰だけど。

「だから、まこちゃんのお弁当食べられるひとは、幸せね」
「……そう、かな?」
「うん。そう思う」

 しかして、あつくあつくなってきたそれは、さっきあたしが苦労してもちょっとしか破れなかった薄い膜を、いとも簡単に溶かしてしまうのである。
 余計なことがどうだとかなんて端から全部ふっとばして、ぽろっとたったひとことが、口をついて出てくる。


「じゃ、亜美ちゃんのお弁当、作ってみようかな」


「え……私、に?」
「いやほら、この間も言ったけどさ、誰かのために弁当作ったりとか、今もうぜんぜんしないから……」
「それは……作ってくれるなら、すごく嬉しいけど。いいの?」
「そりゃもちろん! 料理って、自分のためにやるより、誰かのためにやった方が、ずっと楽しいんだよ」

 銀河先輩のために作ったときだって、楽しかった。一人で暮らしてるぶん、料理は誰かのためでなく、自分だけのためにするばっかりだから。
 そりゃあ、誰かに食べて、おいしい、って言ってもらえるほうが、よっぽど嬉しいに決まってる。それならこっちも、腕をふるって作る甲斐がある、ってもんだよ。誰かのためにメニュー考えて、あれが好きかなこれが好きかな、こんな味付けはどうかな、なんて想像して。ちいさい箱の中に、ありったけの気持ちを詰め込んだりして。
そしたら。

 ――そしたら、もう、ずきずきしなくなるかな、って?


「って……なんだか、これだとあたしが亜美ちゃん使ってるみたいで、なんだけどさ」
「使ってる?」
「うん……あー、ほら、あたしがいつまでも先輩のことでうじうじしてるから……なんか、寂しさ紛らわすために使っちゃったみたいで、なんか、さ」

「……ふふっ」

 それはなんだか、ちょっと、とても、すごく、あまりに、もうしわけないなぁなんて思ってるあたしの横で、だけど亜美ちゃんは、口元にちょっと手をあてて、笑った。え、と思ってあたしがそっちを見やったのも構わず、亜美ちゃんはくすくすとやさしく空気を揺らす。え、え、なん、なんだよ、なんか笑うとこ、あったっけ。
 これでもごめんねって気持ちでぼやいたというか、あたしなりに真剣にそんなことで亜美ちゃんを使うのは良くないって思ったから、言ったんだけど。あんまり笑うものだから――或いは、やさしく揺れる空気がちょっとくすぐったすぎたから――あたしは、なんだよって、拗ねたふりして言ってみせて。

「う、ううん……まこちゃんって、素直だなぁって、思って」
「は……あ、え?」
「だって、たとえエゴだってわかってても、それをちゃんと相手に伝えられるなんて、そんなにないことよ」

 ほめられてるのかな、あたしは。だから優しいのね、と亜美ちゃんが続けたのは、耳に入ったけれど。首を傾いでいるあたしに向かって、彼女は言う。
 そんなときにじっとこっちを、少し上向きがちに見つめる亜美ちゃんの瞳はいつだって晴れた空よりずっときれいで、きれいで。

「でもね、仮にそうでも、私は嬉しいわ」
「……あたしが、亜美ちゃんをいいように使ってても?」
「ええ、そうね。だって私も、寂しかったから」

 そういえば、これはうさぎちゃんに聞いた話だけど、五組の天才少女なんて呼ばれてた亜美ちゃんは、いつも一人で昼食を摂ってた、らしい。そんな時ですら、参考書を広げて。あたしはその姿をちゃんと見たことは多分無いのだけれど、今まさに亜美ちゃんが食べているサンドイッチは片手間に食べるにはちょうどいいって感じだったから。だからあたしはその向こうに、ほんのちょっと、ひとりで勉強しながら、それこそ栄養を摂取する、みたいなご飯の食べ方をしてる亜美ちゃんが見えたような、そんな気がした。

「つまり私は、まこちゃんの好意に応えるフリをして、ひとりでいつものメニューを食べる寂しさを紛らわしてる、ってことになるわね」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!! なんかそれじゃ、あんまりな言い方じゃないか」
「あら、そう? だけどそんなものよ、つまり私だって、スタートはエゴだってこと」
「でも……でもさあ、さっきも言ったけど、あたしはさ、亜美ちゃんにお弁当作るの、楽しいんだよ?」
「そう、そこね」


 そうして亜美ちゃんは、くすっと笑ったとんでもなく頭の良いこのきれいなおんなのこは、一本立てた人差し指、桜色の爪をぴっと見せながら、言うのだ。


「どっちもエゴだって、べつにいいじゃない、まこちゃん。」


 あたしも亜美ちゃんもスタートはエゴだとして、そんないびつなはずの形も、ふたつがうまいこと組み合わさってまあるく収まるなら、それで。
 亜美ちゃんは、だって今からどんなお弁当かなんて考えたらすっごく楽しみだもの、なんてことばで、そんなことを、教えてくれる。そうこの魔法のような瞬間をあたしはどっかで見たことあって、多分亜美ちゃんはいつもそんなふうに、いろんなことを教えてくれるんだ。彼女の前ではどんな小難しい方程式だって、問題文の時点で訳がわからないようなものだって、ほらかんたんでしょって言うみたいに、するするほどけていく。


「……うん、そう、そうだね、亜美ちゃん」


 そしてそれは、おどろくほどたやすく、あたしのなかにすとん、と、おさまってしまうのだ。



 次の日あたしは亜美ちゃんにお弁当を作ってあげたんだ、難しいことだとかエゴがどうとかはもう全部抜きにしちゃって、こころいっぱい楽しく作った。お弁当箱を見るたびにどこかずきんと痛んでいたのが、それと良く似ているくせにとってもあったかい何かに変わってしまったのは、多分デザインが変わったから、とかじゃなくって。
 彼氏のところに嬉々として包みを持っていく女の子にも、待ちわびたように手を振っている男の子にも、仲良くお弁当を分けているカップルにも、隠れてた痛みは、どっかいってさ。不思議だねって、不思議でおかしくってたまんないねってあたしは笑って、なんだか昨日よりもちょっとほわりとあったかいようなお弁当箱を、あたしを待ってる子のとこまで持っていったんだ。


 ま、そんな感じで、おいしい、だけじゃなくって、しあわせ、まで言ってくれたその子に、うっかり何にも言えなくなったのは、蛇足ってことにしとこうかな。


 

 

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