「けんかの話」




 例外が目の前にいるというのにこんなことを言うのもなんだが、一般的にいって、定期試験は学生の敵であると思う。高校生にもなって今更語ることではないのかもしれないが、本日あたしはそれを、ひどく痛感させられていた。まあ確かに試験自体は嫌だけど、試験期間中はいっぱい一緒に勉強するからちょっとラッキーだよな、なんて思っていた幾日か前の自分、は、いや、テスト中に何度も殴り飛ばしたっけか。
 だいたいあたしはあれだけ面倒見てもらいながら、先生なんかよりずっと丁寧でわかりやすかったであろう解説をちゃんと耳かっぽじって聞いてたのかいって話で、高校でも余裕で校内随一の天才に教えてもらったあたしに隙はない、なんて美奈子ちゃんやうさぎちゃんともども鼻息荒くテスト用紙を裏返してみたら、嘘みたいに手が止まったんだから笑えない。そして結果ももちろんのごとく、笑えなかった。
 そんなわけであっさりと先生から居残りと追加課題のプリントを申し付けられたわけだが、それが、よりによって、な日付だったのである。夏休み明けにある実力テストはこれだから嫌なんだ。もうカタキの中のカタキといっても過言じゃあない、だって、だってだよ。思わず漏れ出そうになる溜息を、隣に聞こえてしまうからと必死に押し殺しながら、教室前方、黒板の隅に書いてある日付を、見つめる。そして、同じく前方にかけてある時計を、見つめる。

「……やれやれ」

 あ、結局ため息ついたな、なんて考える、9月10日、17時、27分。
 ペンを握りなおして紙の上でとんとんと叩くと、芯すらまともに出ていなかったことに、そこで初めて気づけた。それがおかしかったけど、やっぱり、笑えなかった。
 居残りも命じられてないし追加課題も何一つないのに、手持ちの参考書を広げたままずっとリズミカルにペンを動かしていた隣の子は、あたしの嘆息が聞こえたらしく、その時やっと、顔を上げる。こっちを見つめて、ふっと穏やかに目元を緩ませた。そうこの子は、こういう顔で、いつもみんなの先生をしてくれる。この間だって、物覚えが悪いというか、理解力が多分に足りていないらしいあたしの面倒も、文句の一つも言わずにきっちり見てくれた。そうだって、いうのに。

「ん……どうしたの、まこちゃん? なにか、わからないところ?」
「あ、いや……そういうんじゃ、ないんだ」
 
 そう今日は、亜美ちゃんの誕生日で、だっていうのにあたしの手元には素敵なプレゼントじゃなくて、小難しい数字が並ぶプリントが五枚ほどあった、というわけだ。まったく、テストのやつめ。
 いや、テストのせいじゃないだろう、それは、なんてあきれた声が、頭のどこかでこだました。


 ところでそういうんじゃないってあたしが答えたら、そう、じゃあ頑張ってね、とちょっと笑ってから、またすぐ真剣な目で目の前の問題を片付け始めるのが、やっぱり全国模試トップの成績を維持し続ける天才少女だった。さっきから沈黙してる時間の方がずっと多いあたしの手元と違って、彼女のそれは、もういっそ耳に心地いい音楽にも近い。毎日それだけの問題を解いて良く飽きないなんて微妙に失礼なことをずけずけと言ってのけたのは美奈子ちゃんだったけれど、一問一問学べることはたくさんあるし、新しい解法を思いつくとわくわくするじゃない、なんてたのしそうに言われれば、ひくりと頬のあたりをひきつった笑みを浮かべ、なぜかあたしの肩をぽんぽんと叩くというオチが付いた。
 もちろんその時の美奈子ちゃんが言わんとしていることはわからなくもなかったのだけれど、かといって、ね、なんて笑いかけられると、そうだね、予習復習は大切だよね、なんて心にもないことをひっしに言ってしまうあたりがあたしではあった。ダメだこの二人って背中で言われたような気がしたけど、目を輝かせた亜美ちゃんとそのまま今日の復習明日の予習コースに引っ張られたあたしは、それを気にしている場合でもなくて。
 予習にしたって復習にしたって、本当に先生はこの子に授業をする必要が生じるんだろうかって思うくらい隅々まで手を伸ばしているのに半分くらいはぽかんとしながら、でも、やっぱり、机に向かっているときのこの子は、とても、とてもきれいなんだ、なんてことしか、考えられなくって。
 ――まあ、そりゃ、頭にも入らないよな、って話ではある。

 テスト開始のチャイムが鳴って、他のみんなと足並みそろえて、あたしも目の前のテスト用紙を裏返した。最初の問題を見た。知ってる、と思った。知ってるぞこの問題、一緒にやってもらったもんね。質問したら、ああ、そこはね、なんて、テーブルの向こうから、優しい匂いと一緒に、亜美ちゃんがやってきて、そいで。

「…………」

 そいで、あたしの足並みは、みんなからがくっと遅れてしまったのである。


 いや、どころか、あたしは思い切り後退して、夏休みに集まった火川神社のあの部屋まで一気に戻ってきてしまったのだ。
 あの日はほんとに暑かった、甲高い声で蝉が鳴いてたんだ、扇風機の回る角度がどうたらってことでレイちゃんとうさぎちゃんがなんだかんだ喧嘩してて、美奈子ちゃんはすっかり暑さにへばってた。気温なんて関係ないって顔で集中してた亜美ちゃんも、側で見ると、眩しいくらい白くてなめらかな首筋に汗がゆっくりつたってて、それは、それはなんだか、あたしの目を、ぎゅうっと奪ってしまったっけ。慌てて頭を振ったら、亜美ちゃんがどうしたの、なんておかしそうに笑っていた。くすぐったい気持ちが、暑さのせいじゃなくて体温を上げる。

「二次関数はね、ややこしそうに見えるかもしれないけど、法則をひとつずつちゃんと頭に入れておけば、あとはパターンで解けるの。この問題はね、例えば……」
「う、うん」

 覚えておくべきことを最初にまとめてくれた亜美ちゃん。問題をいちど見ただけで使うべき法則がさっと出てくるあたり、やっぱり本当に頭がいいのだな、と思う。知っているということと理解しているということは根本的に違うのだってことなら、あたしもなんとなくわかってきていた。知識が頭にあるだけじゃなくって、それを上手に使う方法もちゃんとわかってるから、亜美ちゃんはすごいんだ。整然と並んだ文字を見ながら、そんなことを考える。それらが語りかけてきた内容は、だけど、ちっとも、頭に入らない。
 うだりそうな頭で考えていたら、少し身を乗り出した亜美ちゃんの手が、こっちに伸びてきた。青みがかった髪が、目の前でふわっと揺れる。横顔が、とてもきれいな、きれいな横顔が、ちかい。
 
「完全に正確なグラフなんて無理な話だけど、それなりに正確なものが書けてると、それもヒントになるわよ、まこちゃん。ほら、こうすると……交点が大体どの位置にあるかわかっるようになるでしょ?」
「あ、うん……ほんとだ、きれい」
「え……あ、ありがとう」
「へっ? ……うわっ、いや、違うんだ! や、違わないけど……違うんだって!!」

 否定するから余計ややこしいことになるってにやにや言われたのはいつのことだったか、もしかすると毎度言われてるのかもしれないが、毎度言ってくる本人はというとアイスの棒を咥えながら、こんだけ暑いのによくやるわー、なんてぼやいていた。
 だからつまり、黙ってたら、亜美ちゃんがすらっと書いて見せたグラフが綺麗だったって、たったそれだけの話で、済んだかもしれないのに。まったくどうしてこう変なところであたしの頭ん中と口ってやつは直結してしまっているのやら、そしてどうしてこう理性ってやつはどうしようもないタイミングで消えたり戻ったりしてくるのやら。きれいだなあって、ああ、そりゃ、思ってたんだけどさ、別にそれをだな、ぽろっと零しちまった挙句に焦るなんてこと、しなくたっていいじゃないか!


 とまあ、よくよく考えてみれば勉強の時点からこうだったというのに、テストでしっかり勉強の成果を発揮できるなんてことが、まあ、あり得るはずもないのであった。付き合ってもらった亜美ちゃんには本当に申し訳ないと思いつつ、赤くてはっきりとした現実を何枚も持ち帰る羽目になり、先生が黒板に書いた補習者得点に一人だけ引っかかったのがとどめ。肩を落としていたら、私も付き合うから早めに終わらしちゃいましょう、なんて、今日がとっても特別な日であるはずの子から言われてしまったのが、おいうちだ。
 なんて考えると、また吐息が漏れそうで、今度こそちゃんと飲み込んだ。そうにしたって、一番がっくりきていいはずなのは、あたしじゃなくて隣のこの子なんだから。といって、なんだかその意見に疑問符をつけたくなるくらい、彼女は今目の前の問題に熱中しているわけだけれども。

「…………」

 そのまま見つめると、捉われてしまいそうな気がして、いや、これはもうほとんど確信だな、と思いながら、視界の端でだけ、姿勢よく机に向かう姿を映してみる。思っていることとやっていることが、こんなに一致しないのも珍しい。単純って言われればそれまで、みたいな性格をしているあたしにとって、亜美ちゃんのことは――正直、どうしたらいいかわからない部分が、たくさんある。
 たとえば目が離せなくなって不審がられるのが怖いなら、無理にでも問題に熱中しようとすればいいのに。口元に手をあててる。考えるときによくやる仕草なんだ、あれ、きっと。そんなことを考える。目の端からのちっぽけな情報でも、そんなことを、考えてしまう。

 ほんと、ばかみたいだなあ、と、思う。

「……まこ、ちゃん?」
「へあっ、え、あ、はい?」
「えっと、大丈夫……? あんまり進んでないみたいだけど。あの、一人で考えたいっていうのはすごく大切なことだから、私がいちいち口を出すのもどうかとは思うんだけど……」
「い、いやいやいや! ちょうど今わかんないなーって思ってたとこだったんだ、ええっと……ええっと、そう、ここ! この問題!!」

 慌てて適当に難しそうな問題を選んで差し出した。どのくらい手が止まっていたかは自分でもわからない。目をやると針はぐいっと回って17時48分。って案外経ってるじゃないか、ああ、その間あたしってば、亜美ちゃんに、どういうふうに見えてたんだろう。

「これ……は、二次不等式も入ってるのね。未知定数のaの用い方は、でも等式と同じなのよ。最初に与式を変更して……ちょっと待ってね、書いて説明するわ」
「うん、ありがと」

 難しそうな問題も何も、補習で出されるようなおそらく基本問題しか載っていないであろうものなんて、亜美ちゃんにとっては全部同じ「さらっと解ける」レベルのものばっかりだったわけだが、とりあえずそれでも丁寧に説明しようとしてくれるのが、やっぱり亜美ちゃんである。
 そして、自分の机から持ってきた紙の裏に、また涼やかに整った字で魔法のように綺麗な解法を書き出していく彼女には――たぶん、あたしの心配なんて、まったくもって関係ないところにあるに違いないのだ。優しい匂いで頭がいっぱいになってしまうようなのは、だってあたしだけで、亜美ちゃんの頭の中には、いつだって今だって、足並みそろえて答えに向かう数字が闊歩してるんだ、きっとそう。
 誕生日だろうがなんだろうが目の前に解くべき問題があるならそれに真っ直ぐ立ち向かえるのが彼女のすごいところで、あたしはその姿勢をやっぱりとてもきれいだなと思って、そいで、そいであたしは、それを見つめることしか、できなくなるんだ。ねえ、誕生日なんだよね、なんてさ、言えなくなっちゃうよ。

「こうなって……式変形が終わったら、aの値によってxの範囲が場合分けされるでしょう?」
「あー、うん……うん」

 だってきっと、テスト中だろうがなんだろうがパンクしそうなくらいいっぱいになって、あー、なんて叫びたくなって。
 それでも今日、この大切な日に、とびっきりすてきな顔で笑ってもらいたいなんて、できることならそれを一番そばで見ていたいなんて、そんなわがまま言いたくなるのってさ、たぶんさ。

 あたしだけ、なんだろ?

「……亜美ちゃんは、すごいよなあ」


 すごくって、あたしはばかで、あたしばっかり、ばかなんだ。


 零した声はあたしでもちょっとびっくりするくらいに情けなくひびいて、慌てて取り消そうとしたら、その前に小さな風が、外から飛び込んできた。ちょうど二人してきょとんとしているところだったので、うまい具合に隙間を見つけたとばかりに駆け抜けたそれは、ちょうど亜美ちゃんが解法を記してくれた紙を、さっと吹き飛ばしてしまう。整然とした数字が、あたしと亜美ちゃんの目の前で、ひゅっと舞う。
 そして、それがひらりと教室の床に落ちたときには、さっきまで見えていた裏、ではなく、表になっていて。

「あ……っ!」

 なぜだか勢いよく亜美ちゃんが立ちあがったため盛大に後ろに倒れた椅子が、あたしのへ、なんてとぼけた呟きを、かき消した。
 椅子を立て直すのもそぞろに、まさに飛びつくって表現が正しいくらいの素早さでもって亜美ちゃんはその紙を取り上げたのだけれども、これでも一応身体能力は高いわけで、まあ、つまり、瞬間視力にだってそれなりに優れているのが、あたしで。

「それ、今回の数学のテスト?」
「…………」
「今日返ってきたやつだよね?」
「…………」

 問いかけはほとんど確認に近い。だから沈黙ですらも答えになる。というより、沈黙が一番適切な答え、といったところだろうか。亜美ちゃんはあたしに背を向けた状態だったのでどんな顔をしているかはわからなかったが、びっくりするほど強く、さっきまで裏紙で使っていたそれ――つまり亜美ちゃんのテスト、を、握りしめていた。
 ただその手元が気になって気になって仕方がなかったのは、亜美ちゃん自身の態度というより、もっとほかのところに、理由がある。

「……きゅうじゅう、はってん?」
「っ……!」

 亜美ちゃんはそれが合図だったみたいに振り向いた。
 そう、とあたしが認識した瞬間、彼女は耳まで、ぽっと赤くなった。
 もちろんその表情には思わず心臓が跳ねたけれども、頭に引っかかる。98点。いつも、「水野亜美500点」がデフォルトみたいな彼女が、よりによって大得意なはずの数学で、98点。いや、98点だってあたしにとってはそりゃ夢みたいな点数なわけだけど、そうじゃなくって、そういうんじゃ、なくって。

 そこからの亜美ちゃんといったら、なんだかおもしろかった。いや、そんなこと言ったら怒られそうなんだけど、おもしろかった――というより、えっと、かわいかった、すごく。
 ちょっと耳に痛い沈黙を破ったのは亜美ちゃんで、力なく椅子を引いた彼女はとんとその上に腰かけると、やけに丁寧な手つきで、持っていたテスト用紙を、鞄の中に、しかもできるだけ奥深く奥深くに、しまい込んだ。そしてしばらく俯いたまま縮こまっていたのだけれど、ふと目だけでこっちを見遣って、あたしとかちんと目が合うと、逃げるみたいにぱっとまた、目線を落として。
 そうして、ふかーく、ふかーく、ひとつ、ため息をついた。なんだか聞き覚えがあるな、と思ったら、それはなんとなく、さっきのあたしに似ているのだった。

「……数学、最後だったでしょう?」
「え? ああ、そういえば……そうだったね」
「だから……その、ええと、ね……」

 最後の問題だったんだ、きっと。なんとなくそう思う。最後の最後、しかもあとちょっとでいつもどおりの完璧な回答、って感じの。最後の問題の配点は確か15点。2点マイナスだったら、まあ、最後の計算ミスとか、そういうの。つまり、亜美ちゃんが一番、やらかしそうにないところでのミスだ。
 じゃあ、彼女にそれをもたらしたノイズって、いったいなんだった?

「……ちょっとでも考えないようにしよう、って、思ってたのに……わかってたのに」

 わかってたのに、まこちゃんのこと考えたら、もうすぐ誕生日だな、なんて考えたら、もう問題どころじゃなくなること、くらい。
 なんだかまるきり代弁してもらったような言葉は、言葉というにはあまりにもよわくよわく、あたしの鼓膜を揺らした。それがくすぐったくって、くすぐったくって。

 ――ああ、そうさ、笑いだしそうなんだ!

「って……そんなに楽しみにしてくれてたんなら、なんで今日居残って勉強なんか」
「そ、それは、だって……私がまこちゃんと一緒に居られる自然な理由なんて、お勉強しかないじゃない。だから……」

「……は、はぁ!?」

 素っ頓狂な声に、ぎゅうっと俯いていた亜美ちゃんは、今日が誕生日で、あたしと一緒にいたいって思ってくれてて、その理由を一生懸命考えた挙句補習に求めたらしい亜美ちゃんは、思わず顔を上げて。
 あたしと亜美ちゃんの目線は、そのときやっと、一致したのだ。

「あー……オーケイ。亜美ちゃん」
「は、はい」
「けんかをしよう」
「はい……っ、え? ま、待ってまこちゃん、今なんて……」

「けんかしよう、あたしと。いいかい、いくよ?」

 自分でもなんて無理なことを言っているのだろうと思うんだけど、とりあえずそういうことじゃあ、ないんだ。
 あたしもばかで、ごめんね亜美ちゃん、それは、亜美ちゃんも、ばかだから。二人してばかだったら、とりあえずね。

「あのさあ、亜美ちゃん、あたしはすっごく怒ってんだ、今」
「ご、ごめんなさい……?」


「もっとわがまま言ってよ、ばか!」


 とりあえず、けんかでもして、一回どうしようもなくばかなこと、言い合ってみるといいわけだよ。それがあたしの、導いた解法。


「……まこ、ちゃん」
「はい、まあ……というわけで、けんかしてるんだけどさ、いま、あたしと亜美ちゃん」
「う、うん」
「こんないい日にけんかしっぱなしなんて、やだよ、あたし。」

「……そうね。私も、いや」

 ぽつりと言った彼女は、なんだかずいぶん考え込んだようであったけれど、でも。でも、そうだ、とびっきりすてきな顔で、笑ってくれた。もう一回飛び込んできた風が亜美ちゃんの髪を優しく揺らす。穏やかな追い風。
 仲直りしましょう、まこちゃん。たった数秒の、それこそ時計すらも覚えてないみたいな、犬も食わないほどばかばかしい誕生日のけんかが、終わる。

「あのね、まこちゃん」
「うん」
「……手。繋いで帰ってもらっても、いい?」


 うん――う、ん?


「…………」
「………?」


「ちょおおおっと待った、それがわがまま!?」

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