「かぜっぴきの話」





「おっじゃまっしまーす!! まこちゃーん、どこー?」
「やっほーまこちゃんっ、元気してるー?」
「風邪の人に元気してるって聞くかしら、普通」
「それにしても、急にみんなできちゃって、迷惑じゃないかしら……?」

 最初に飛び込んできたふたつの声を聞いて、ただでさえ具合が悪いのに、余計疲労感が募って。みっつめに、さすがだなあ、なんてちょっと感心して。そして、よっつめで、口元が緩む。なんつう反射がついちゃったもんかねえ、なんて、自分で自分がちょっとおかしくなっていたら、余計に笑いがとまらなくなって、一日中だらっと垂れてた頬のあたりが、くすぐったくなった。
 いい加減慣れてきた一人暮らしとはいえ、風邪を引いたときはやっぱり少しは心細くなってしまうもので――いや、けっこう、つらいもので。だからこそなんだか、いつもよりも、耳が幸せ。ちょっと眠っては暑さに目覚めてってしてる間にぼんやり見上げてた白い天井、その向こうに誰かをこっそり描いてたのは、ひみつだけど。なんてね、考えたら余計に、くすぐったくなるや。

 ところで何か買ってきてくれたのか、がさがさと袋の音をひっきりなしに立てながら、最初に覗いたのは、ちょっと見慣れたおだんご頭。で、元気に揺れる金髪。先頭切るのは、やっぱりこの二人。あんまりどたばた走らないの、って、レイちゃん、さすがにうさぎちゃんのお下げを引っ張るのは、痛いんじゃないかな。部屋の入り口で口げんかでも始まりそうで、緩んだ顔がちょっと苦笑に変わる。とはいえ、その背中からひょっこり顔を出した涼やかな色に小さく手を振ると、あ、って顔のあとに振り返してもらえると、まあ、さっきよりもっと緩んだ顔に、なってしまうんだけどさ。

「よ、みんな。揃って来てくれたんだね、ありがと」
「あっ、まこちゃーん! なぁんだ、結構元気そうじゃん」
「ほんと、それだけにこにこしてられるなら大丈夫そうって感じね、まこちゃん」
「むう、元気なさそうだったらこのナース美奈子ちゃんが、腕によりをかけて元気爆発おかゆを作ってあげようと思ってたのに!」
「あ、あはは……」

 これは、なんていうか、違う意味ですごく助かった気がする。美奈子ちゃんが腕をふるったら、まず間違いなく、あたしの元気じゃなくて台所が爆発するに違いない。蘇るいつかの悪夢。もうなんていうか、うさぎちゃんが持ってきてくれたコンビニ袋いっぱいのお菓子っていうお見舞いだけで本当に嬉しいので、ほんとになんていうか、遠慮してください、美奈子ちゃん。
 といって、その袋を最初にぱんと開けて中身を取り出すのは、やっぱりその美奈子ちゃんだったのだけれども。一口サイズのゼリーが、テーブルの上、少々乱暴に開けられたスペースに広がる。色がきれいだなって、まだ少し熱の残る頭でぼんやり思っていたら、そのまんま伝わったみたいにうさぎちゃんと美奈子ちゃんが歓声を上げる。女の子ってのは、とかくこういう宝石みたいなのに弱い。

「じゃ、ピンクいただきっ!!」
「あーっ、あたしもそれにしようと思ってたのにぃ!!」
「ふっふーん、私は愛の戦士よ? やっぱりピンクが相応しいのはこのあたし……」
「なんでまこちゃんへのお見舞いを、あんたたちが先に食べてんの、よっ!」
「ぎゃっ!? ちょぉっとレイちゃん、仮にも女の子に対してグーパンはどうなの!?」
「私も女の子だもの。で、まこちゃんはどれがいいの?」
「え? ああ、そうだな、あたしは……」

 なんともいい音をさせて――中身が詰まってるからよ、ってそれ、自慢の仕方が良くわからないよ、美奈子ちゃん――拳骨を落としたレイちゃんは、だけど優しげに尋ねてくれる。多少手厳しいところはあるけれども、基本的に優しいのがレイちゃんだ。まこちゃんのためにみんなで選んで買ってきたんだからね、遠慮しないで好きなの選んでちょうだい。懲りてはなさそうだけど一応しょぼくれている美奈子ちゃんは、向こうでうさぎちゃんと羨ましそうにこっちを見ている。そう五人で居ると、賑やかの中心は、いつもこの三人。
 いつもの五人で居ると、とかく場を盛り上げてくれるのがうさぎちゃんと美奈子ちゃんで、たまに止めてるんだか遊ばれてるんだかわかんなくなるのがレイちゃんで、だけどあたしの視線は、なんとなく"いつも"を捉えようとしていた、そう、つまり、あたしにとっての"いつも"だ。それはどこにあるかって、輪の中心ではないけれど。

「……じゃ、青で」
「はーい、どうぞ。さ、いつまでもしょぼくれてないで、あんたたちももう好きに食べなさい」
「やったー!! レイちゃんやっさしー!!」
「"待て"でもされてた犬みたいね、あんたたち……」

「……どう? まこちゃん」
「うん、おいし。」
「ふふ、そう、良かった。」

 ちょっぴりすみっこで穏やかに揺れているブルーを見ると、もしくはその手にそっと握られている緑を見ると、あたしはほっとしたように、笑えるのだった。

 つるんとすべったゼリーはまだちょっと冷たくて、いくら水を飲んでも満たされないようにひりついていた喉を、ひどくやさしくうるおしてくれる。満たされるとは、たぶんそういうことなのだろう。それは、或いは三人してラブチャンスが訪れるとかいう謂れがあるハートのゼリーを取り合う三人のきらきらと賑やかな声だったり、また或いは、こっそりもうひとつ持ってきてくれた手だったり。
 ああだって今日は一日中ひとりで寝ていたものだから、ひとりで見上げる天井はほんとに白いだけでさ、でもこうやって寝っ転がると、今は傍らに、ぬくもりのある影がちゃんとあってさ。やっぱりまだきついの、って眉をひそめる亜美ちゃんに手を振って応える、だいじょぶ、そりゃあまだ熱はあるしあっちこっちだるいけど、もう、だいじょぶって感じなのさ、いま、あたし。それでも心配そうな亜美ちゃんはそっと覗き込んでくれて、え、そのときちょっぴり風邪に感謝したりしてなかったかって、ええっと、まあ不謹慎だけど、あ、はい、ちょっとは思いました、はい。だってわざわざあたしのために来てくれたりさ、そりゃこんなに心配そうな顔させといて何言ってんだって話だけど、一生懸命考えてくれてるんだな、なんて考えると、まあ、なんていうか。

「そーんなに心配しなくてだいじょーぶよ亜美ちゃん、ほら、見て、まこちゃんのこの緩みきった顔。もーしあわせいっぱいって感じでしょ」
「え、で、でも、見たところまだ熱も下がってないみたいだし……」
「いーのよそんなのは、亜美ちゃんがそばにいれば。ねえまこちゃん?」
「うえっ!? い、いや、えっと!!」

 しまった、読まれた、気がする。美奈子ちゃんときたら、こういうことにばっかり妙に鼻が利くというか、なんだその、何でもお見通し、って顔は。こういうの、悪い顔、っていうんだろうな。あたしは結局何も答えられなかったというか、それなりに具合が良くないので突然の攻撃に答えるには若干オーバーヒート気味で、とりあえず咳のひとつでもして、なんとかごまかしてみた。美奈子ちゃんはもちろん追及の手を緩めようとはしなかったのだけれど、早々にレイちゃんの救いの手、というか今度は平手が飛んできたので、とりあえずその場は収まる。

「れ、レイちゃん、今日はやたらと暴力的じゃなーい……? いくら私が丈夫だからってそれはちょっと」
「丈夫だって知ってるからやってるの。それにしてもまこちゃん、そういう意味じゃなくて顔、赤くなってない?」
「ほんとだぁ、まこちゃん、顔真っ赤だよ。ほっぺりんごみたい、おいしそー!」
「その感想はどうなのかしら、うさぎちゃん……まこちゃん、ちょっといい?」
「えっ? あ、ああ、うん……」

 確かに、さっきと比べたらほんとに熱が上がってるみたいで、ああなんだかくらくらするなって布団をちょっと引っ張り上げたら、そうそのとき、優しい手は、伸びてきたんだ。あ、やばい、触れる、って、なにがやばい、だったのかは全然わかってなくって、ただなんとなく、そしたら余計に熱が上がりそうだなあ、なんてことを、あたしはくすくす、考えていて――。

「っ、いた!」
「……へ?」

 ――ぱしん、という鋭い音が、した。

 今、ほんとにたったいま。ぼうっと熱いひたいの上、触れそうだったゆびさきが、ひゅっとひっこめられる。
 ひっこめて手を押さえている亜美ちゃんは呆然、あたしも呆然。え、いま、なにが。同じ疑問が、顔に書いてあった。亜美ちゃんが上げた悲鳴はそんなに大きなものではなかったけれど、この場にはそぐわない何かとして響いた、それは確か。だから美奈子ちゃんもレイちゃんもうさぎちゃんもみんなこっちに注目して、そして三人ともの顔に、同じ疑問は書いてあった、そう、いま、なにが、と。
 ぱちりといちど瞬きをした亜美ちゃんとあたしは顔を見合わせて、だけど意を決したように、亜美ちゃんはもう一度、手を伸ばして。

「んっ……!」

 だけどまた、ぱしん。あれ、でもこの音、どっかで聞いたことが、いや、なんだかあたしにとってはすごく馴染み深いような、そんな気が。
 とかいうことを考えてはいたのだけれど、あたしは正直さっきからあとほんの数センチくらいで亜美ちゃんのきれいな指先が届きそうな額のあたりがむずむずしてて、なんと、いうか。もどかしいっていう思いのほうががんがん先に立ってしまって、理詰めで考え事をするなんて場合ではなかったのだ、いや、普段からそんなタイプでは、ないんだけれどもね。

「あ、わかった! まこちゃんって確か、帯電体質だったでしょ!!」
「へ? え、あ、そうだけど……こんなふうに具合悪いときだと、よけいひどくなっ……て……」

 だから最初に声をあげてくれたのはレイちゃん、びしっと突きつけられた指先にびっくりしながらあたしはぼそぼそ話して、だけど話しながら、ゆっくりと、理解する。
 ただ理解しながら、なんだか背中の方がすっとさむくなるのを感じていた、おいおい、ちょっと待ってよ、まさか。こら、美奈子ちゃん、早々にあちゃあって顔、しないでくれよ。でもこわごわそっちへ、また手を引っ込めてしまった亜美ちゃんのほうへ目を動かすと、あたしよりもずっとずっと理解速度が早いに決まってる彼女は、つまり、ひどく困った顔を、していて。

「あー……水の守護星が、仇になったわねえ」
「え、なになに、どういうことレイちゃん? まこちゃんに触るとなんかあるの?」
「えっと、たぶん……うさぎちゃんは、大丈夫だと思うわ」
「うん? あ、ほんとだ。えっ、なんでなんで? なんで亜美ちゃんだけ、ぱしぱし言うの?」

「……水はねえ、電気を良く通すのよ、うさぎちゃん」

 ぼそりと美奈子ちゃんの一言、風邪のせいじゃあぜんぜんなく脱力感でいっぱいになったあたしに、うさぎちゃんの遠慮のない手のひらが、ぱしんと止めを、刺した。 





 といってもいつまでも落ち込ませてなどくれないのがこのメンバーの不思議なところといえばそうであって、結局みんなが帰る直前くらいまでは賑やかなまま時間が過ぎていった。大体あたしがちょっとでも落ち込むそぶりを見せると、美奈子ちゃんがそれを端から拾い上げてはからかってくるのだ、おちおちグチも零してられないじゃないか、そんなの。それに乗っかったレイちゃんが、はいはい亜美ちゃんじゃなくて悪うござんしたね、なんて言いながら、ぺたんぺたん乱暴に濡れタオルをのっけてくるので、厄介なことこの上ない。因みに一人なにひとつわかっていないらしいうさぎちゃんが、あたしも風邪引いたらまもちゃんが看病しにきてくれるかなあって横でトリップしてて、それに付き合っているのが、亜美ちゃんだった。

 で、あたしはできるだけそっちを見ないようにも、していた。なぜってどっかであきらめようとはしていても、どんだけ美奈子ちゃんやレイちゃんが気をそらそうとしてくれても、だめなもんは、だめなんだ。やっぱり目が合っちゃうと、ちょっと困ったみたいに――あたし、どんな顔してたんだろなあ、たぶんなっさけない顔だったんだろな――笑われると、寂しく、なっちゃうじゃないか。
 一番そういうことに詳しいのは亜美ちゃんだって皆わかってるから、看病ってワードですぐ連想しちゃうのが亜美ちゃんでさ、期待してなかったかっていったら、そりゃ、嘘になるよ。っていうか、正直言って、すごーく、期待してたよ。夢はお医者さんなあの子の患者第一号があたしかななんてにやついてたりもしたよ、ああ、悪いかい!


「じゃ、寂しくなったらいつでも電話してよ、元気になるトークしてあげるからさ!」
「あんたはやめときなさい、夜中の長電話は迷惑だから……まこちゃん、しっかりあったかくして寝るのよ」
「そんじゃねまこちゃん、また明日!! 元気で会おうねっ」

 そんな叫びをどうにかやっと飲み込んだころには外もなんとなく暗くなり始めていて、みんなはそれぞれ荷物を纏めて、挨拶やらをくれながら立ち上がった。
 ああそういえばそろそろみんな帰る時間だなって思うと、やっぱりちょっと寂しいけれど、言っても仕方がないので、玄関まで送れなくてごめんよって手を振る。夜になればなるほど症状は大概重くなるもので、流石にこのくらいの時間帯にもなると体が重たくてしょうがなかった。それを皆もわかってくれているみたいだから、いいみたいだけど。

「って……あれ? 亜美ちゃんは、帰らないの?」
「ばっ、うさぎちゃん!! 聞かない優しさってものがあるのを知るべきよ!!」
「……一番聞きたそうな顔して何言ってるのよ、美奈子ちゃん」

 ただ部屋を出て行く直前にうさぎちゃんはいろんな意味で誰も、あたしを含んで誰も聞けなかったらしいことをさらっと聞いてしまって、こんなところがこの子のすごいところだななんて思ってしまう。そう皆が立ち上がっている中、ひとりだけ、そのままの場所に座っているひとは居た。そして美奈子ちゃん以上に、あたしが聞きたかった。どうしてって、聞きたかった。

「えっと、私は……もう暫く、ここにいるわ」


 どうしてまだそばにいてくれるのって、あたしはきっと、聞きたかったんだ。


 それは彼女にとって満足のいく答えだったのか、また随分と悪い顔で笑った美奈子ちゃんはうさぎちゃんの背中を押しながらごゆっくりなんて余計な一言を残して立ち去っていってしまう。三人が居なくなったあとの部屋の中は、火が消えたように静かだ。或いは、水がそっとたゆたうように、静かだ。ベッドから少し離れたところに座っている亜美ちゃんは、ふっとこっちを、見る。青いひとみは熱にうかされそうな頭にすっと沁みて、それは沈むようで、だからあたしは何も、言えなくなる。帰らなくていいのって、ここに居ていいのって、ほんとは、聞こうと思ってたんだけど。

「……無駄なのにって、思う?」
「えっ?」
「私、ここに居てもまこちゃんに触れられないわ。看病なんて、全然できない」

 だからここに居ても、意味がないでしょう。亜美ちゃんは、どこかかなしそうに笑った彼女は、自分の胸のところにちょっと手を当てて、言う。
 あたしは泥みたいなだるさも跳ね除けて起き上がって、ぶんぶん首を振った。こういうときに考えなしだなって思うんだ、この状態でそんなことしたら、くらくらするに決まってるのに。ひとふりした瞬間にぐらつく身体と鈍い痛みに顔をしかめたけど、でもなんとか持ち直して、それでもあたしは首を振る。そんなことない、ないんだ、ないったら。

「ま、まこちゃん、あんまり振ったら気持ち悪くなっちゃうわ」
「う、うん、もうなってる……でもっ、そんなことないよ、亜美ちゃん」
「そう……?」
「そうだよ! その、なんていうか……」

 ああくらくらするなって思いながらどうにかこうにか目を開けてみたら彼女はなんとも遠いように思えた、まるで見失ってしまいそうだった。熱のせいなのか何のせいなのかもうよくわからないけれど、あたしの視界はにぶいにぶい赤でいっぱいになりかけていて、青を、あおを、みうしなってしまいそうで。だから手を伸ばすその代わりに、言わなくちゃいけないことがあるって思ったんだ、伝えたいこと、あります、あります、ちゃんと、あります。もうちょっと頑張れ、あたしの意識。


「あ、亜美ちゃんが、そばにいると……それだけで、けっこう、元気になるよ、あたしっ」


 それはもう言ってるあたしですらはっきりわかるくらいにかすれて弱りきった声だったし、そのうえあまりにもつっかえつっかえだった
 それはあたしのぜんぶでせいいっぱいで、へたっぴに投げつけたようなので、伝えたいだなんて言ってこれか、なんて、あたしは思ったんだが。


「……うん。ありがとう、まこちゃん」


 あたしのそんなひっどいことばでも、若しくはことばとすら言えそうにもないようなぶかっこうななにかでも、じつにじつにかわいい笑顔になってくれるひとは、ここにいるのだった。
 ひどいコントロールでもやさしく受け取ってくれたそのひとは、ああにぶくて赤い中でもなぜかはっきりとわかったんだ、とってもきれいな朱色が、ほっぺたに灯ってた。なんだか一緒に熱でも出したみたいだなってあたしはぼんやり思って、まあたぶん、そろそろ、限界だったんだね。重い重い瞼が、あたしからすっと色を奪っていく。

 そうだから、きっと、その直前に見た色があんまりきれいだったからさ、だからあたし、おかしかったんだね、あのとき。
 傍に居るだけでいいって、ほんとうにそう思っていたはずなんだけど。それは、紛れもないほんとうだったんだけど。

「でも、さ」
「あ……どうしたの、まこちゃん? 辛いの……?」

「ん……目、つぶると……見えなくなって、ちょっと、さびしいね」

 ぽろりと零れ出たそんなことばも、そんなどうしようもない呟きも、残念ながら、かなしいほどにほんとうだったのだ。
 ねえおかしいかな、おかしいって思うけど、このまま目を閉じていたら、いつ居なくなってしまうかって、そんなことばかりが、気になってしまうんだよ。たぶん、たぶんそう、或いはあまりにも、あなたがそこにただいることが、しあわせすぎてしまうから。言い訳、それは酷い言い訳、でも、弱い弱い、ほんと。


「…………」

 亜美ちゃんが黙っていたのはふたつほど呼吸を数えるくらいの間だったろうか、しかしなんにせよあたしが後悔に打ちひしがれるには十分すぎるほどの時間だった。たったいまの今あたしが言ったことで亜美ちゃんは笑ってくれたというのに、その直後に手の平を返すとはいったいどういうことなんだ、ああでも、ほんとなんだよな。目をつぶった中は暗くて、でももうあんまり瞼が重くて開けられないんだ、ずっしりとした痛みがまとわりついてる身体では、気配を感じるなんてできっこない。鼻が詰まって、いい匂いも感じられないよ。

「ねえ、まこちゃん。さっき、私、うそを言ったの」
「え? さっき、って」

「……触れられない、ってことは、ないのよ」

 そうよ、やり方は、ちゃんとあるの。
 みょうにふるえた声だなって思ったんだ、そうなんだか、ためらっているみたいに、ほそいほそい吐息みたいに、それは頭痛が酷い頭の中、しんと響いた。

 え、でも、と、すっかりからからになってしまって使い物にならない喉をどうにか震わせる。でも、だって、それは前に一度、やってみたじゃないか。そして失敗したじゃないか。その結果を彼女が忘れているはずがないし、なによりあたしにはかなり飲み込み辛い理屈だって、頭のいい亜美ちゃんの中ではすっかりきれいに片付いているはずなのだ。
 だけど傍できしりとかすかな音はした、ぼんやりとしか働いていないはずの耳でもそれは真っ直ぐと真っ直ぐとあたしまで届く、だってそれは、きっと欲しかった、音だから。でも与えられるはずもない音であったのも確かだ、あたしはほとんど最後の力を振り絞って目を開けた。さっきよりもずっとそばで青い瞳は揺れていて、とくんと跳ねる。まるで元気な鼓動だった。なんともばかみたいだった。ただどこまでもそれはあたたかかった。ああ、そうそれで、熱で溶けそうな視界の中で、あたしが何を見たか、ということだけれど。


 ――そりゃあもう、とても、説明できるようなものじゃあ、なかったんだな。

「……っ」
「え、あみ、ちゃ……おわっ!?」

 だってこの瞬間をどう伝えよう、いつもならとってもそんなことをしそうにないひとが、ばっと腕を広げて勢い良くとびついてきた、この瞬間を!
 そりゃ変な声も出るよ、とくんどころじゃなくってどっこんどっこんくらいに体の中はうるさくなるよ、亜美ちゃんのからだはひんやりしてた、いやあたしが熱いのか、そうかも。ひんやりつめたくって、なのにほとんどぴったりとくっついているその肌と肌の間ではどうしようもないくらいの熱がどんどん生まれてきて、ばかばかしくもあたしは沸騰するんじゃないかと思った。あっ、亜美ちゃん、そのあんまり動かないでくれると嬉しいっていうか、すっかりのっかる形になってるからいろいろ柔らかすぎるような刺激がお腹の辺りに来てるっていうか。
そんなあたしのある意味どうしようもない焦りは、首の辺りいっしょうけんめい頭を押し付けている亜美ちゃんには、まあもちろん、伝わらないに、決まってるのだ。

「ど、どう……?」
「へっ!? え、あ、えっと……っ、え、な、なにが?」
「え、あ……そ、そうね、私だけの問題よね……私は、なんともなかったわ」
「……ん、んん?」

「その、だから、電気が……」
「あっ……ああ!」

 どう、って聞かれて、あっ、やわらかいです、とか答えかけたあたしはとりあえずその辺に蹴り飛ばしておくとして、だ。
 言われてみればぱしんという音もなにもしなかったし、亜美ちゃんは悲鳴のひとつも上げなかった。我慢してる様子も全然見えない、今確かにあたしに触れているのに。確かにそれは不思議なことではあって、ただ彼女には若干あたしの気持ちもわかって欲しかったというか、流石にこんなだいたんに抱きつかれて、正常な思考を保ってられるわけもないというか。
 ただやっとこさっとこ――相変わらずどっこんどっこんしてはいたものの――落ち着いてきた気もするあたしは、どうしようか一瞬のうちに五十通りくらい考えたあとこっそり手を華奢な背中においてみる。

「ほんとだ、なんともない……」
「やっぱり。静電気の類だったから、接触する表面積を増やして、電気を分散させればよかったんだわ」
「えー、っと……つ、つまり?」

「だから……その、こうして」

 首の後ろあたり、ぎゅ、と。
 亜美ちゃんの表情は見えなかったよ、全然見えなかった。涼やかに整った顔立ちはすっかりあたしのからだに押し付けられてしまっていたんだ、だけど。

「お、おもいっきり、抱きついたら……私も、触れる、から」
「う……うん」


「だから……安心して、眠って、まこちゃん」


 だけど、そう言った彼女の耳がなんともあかくあかく染まっていたことはしっかりと見つけてしまって、ああもう沸騰した、絶対、今、した。亜美ちゃんはいつでも真面目で一生懸命だ、だからその延長できっとこんな素晴らしい解決方法を考えてくれたのだ、それはすっかりわかってるつもりなんだけどさ。


 ――つもりなんだけど、どうしたもんかね、眠れるわけがない!
 

 

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