やさしいかぜのふく日




 こういうときに、私はすこしも賢くなどないのだということを、いたく実感する。

『……ねえ、』
「はい?」
『れいかだって、もっと、話してもいいんだよ?』
 電話口の向こうから聞こえてきたなおの言葉に、責めるような、あるいは叱りつけるようなといった調子はまったく感じられなかったように思う。それは言ってみれば彼女が下の子たちと相対するときのものとよく似ていて、あかねさんいわく「お姉ちゃんのプロ」である彼女は、頭ごなしに怒鳴りつけることの無意味さも、見守り導くことの大切さもきちんと知っていた。電話線越しに徒歩十五分の距離を隔てているにも関わらず、私が手を伸べられたような気分になってしまったのは、きっとそういうわけだ。
 むりに引っ張るのではなく、甘やかすように握ってあげるわけでもなく。自分からそうしようとしなければ、ぎりぎり、触れられないところまで。でもちゃんと、そこにあると、見えるようなところまで。そうしようと頭や理屈で考えているわけではない、というのは故意的なものよりもときにひどく的確で、なおの手の伸ばしかたはいつだって、そういう適切さをもちあわせていたのだ。あなたのそういうところが、とても、まぶしいと思う。
 まぶしくて、まぶしくて――私はいつも、どうしたらいいか、わからなく、なる。
『あ、いや、なんていうかさ……ほら、れいかって聞き上手っていうか、なんていうんだろ、相槌がすごく、気持ちいいからさ。あたし、ついつい自分の話ばっかりしちゃって』
「……そう、かしら?」
『うん、や、なんとなくなんだけどね。だから……れいかの話も、もっと聞きたいなーって思って』
 黙ってしまった、ということが成立するほんの一歩手前で、またなおのほうが先に口を開いてくれた。黙っていたのは私のほうだったのに。スピーカーから聞こえる音声というものが今の私たちのすべてである以上、沈黙してしまうことはきっととても良くないことなのだ。わかっていたのに、そして次に話すべきは私であることもわかっていたのに、黙っていたのは私だった。もっともなおのほうは、そうしてこの場を何度も掬い上げているということを、ただの少しも気がついていないのだろうけれど。
 言ってみれば、手の伸ばしかたと同じなのだ。なおは、どこかすごく深いところ、きっととてもあたたかいところで、仮にはっきりとした言葉にはできなくとも、大切なことを、ちゃんと知っている。
『ね。なんかない? なんでもいいよ、れいか』
「なんでも……え、と」
『うん。』
「……その、」
『…………』
「…………。」
 そして私は、そのほとんどをまったく覚えずに、生きてきたのだと思う。
 周囲の人々が口々にそう言うように、よしんば私に「賢い」部分があるとしたらそれきりで、幸いにもと言えばよいのか、「賢い」というのがどういうことなのかを理解できる程度、そして私はその賢さをわずかも持ち合わせていないのだということを理解できる程度には、私は賢かった。(我ながら、馬鹿馬鹿しい言葉の遣い方をしていると思う。無知の知というのはとても良い言葉だと思うし、この状況に対してはうってつけのものであるとも思うけれど、それは私の状態をうまく言い表しているというだけで、あくまでもそれだけだった。名言に納得することは理解を促しているというだけで、改善に向かっているというのとは程遠い。)
 たとえばの話。なおはさっき私に聞き上手だと言ってくれたけれど、多分に聞き上手というものには二通りのものが存在している。聞き上手は話し上手、というのはよく言われたもので、話を上手に聞けるというのは会話するという行為において主旨を上手に捉えられるということだから、その逆の行為、主旨を捉えられるように話すということもできるだろう、というのがこの場合の聞き上手だ。聞き上手という言葉が良い意味を持っているのは、この場合。そして私はそこに含まれていない――含まれていたら、だって、話をするよう求められて、応えられないわけが、ない。
 ではもう一通りの「聞き上手」とは? これは寧ろ単純なのかもしれない、言葉通りの意味である、という点では。慣れている、ということを上手、と仮に呼ぶのだとしたら、私はとほうもない聞き上手だといえる。逆に言えば、それだけなのだけれど。
 つまり端的に言って、私は、黙って人の話を聞くことに、おそろしく慣れていたのだ。なおの場合は心が知っていて、前者の場合は頭が知っていることを、私は身体で覚えてしまっている。ちょうどよい相槌の打ちかた、先の促しかた、受け答えのしかた。ヒトの身体は経験によって織り上げられていって、黙して坐したまま言葉を受け取ることばかりしてきた私は、そういうふうにできていた。
 でも――そういうふうにできている、というのと、そういうふうにしている、というのとでは、あまりにも大きな隔たりが存在する。そういうふうにしてこなかった、ことは、いつの間にか、そういうふうにはできないことに、なっていく。
「れいか? もう遅いから、そろそろ切って寝る準備をしなさいね」
「あっ……は、はい、お母様、申し訳ございません」
『わ、ほんとだ、もうこんな時間!』 
「な、なおも、ごめんなさい、付き合わせてしまって……」
『え? いやいや、電話してきたの、あたしのほうだし。こっちこそごめんね、だよ。あはは、ゆいがかわいーって話したかっただけで、こりゃ、ほんとにごめんだね』
「そんな、ことは……」
 どんなに長く語っても、どんなに長く黙っていても、問題はとてもシンプルだ。
 結局のところ、足元がすっかり湯冷めしてしまうまで、そしておそらくは髪もまだ乾かさないうちからコール音を鳴らしてくれたなおのことも冷やしてしまうまで、廊下の電話台の前で黙して立ち尽くしていた私にぴったりな言葉は、もっと幼いころの私ですらちゃんと知っているようなものですらある。ワン・センテンス。
 青木れいかは、話をするということが、おそろしく苦手である。
「それじゃあ……切りますね、おやすみなさい、なお、」
『あ、待って、れいか。最後にひとつだけ』
「はい……?」

『明日。もし暇だったらさ、うちにゆいの顔、見に来ない?』


 電話をしたいんだ、と言われたとき、したことがないわけではないのにどうしてわざわざ、なんてまぬけな受け答えをしてしまったのは私となおが中学二年生に上がる、ほんの少し前のことになる。三月の終わり、まだ頬にひりつく寒さが、すこし残っていたころのことだった。早いもので、もうそろそろ一年前になるらしい。
 保育園からの付き合いである私たちにとって電話という通信手段はそれほど特殊なものというわけではなく、というよりも携帯電話をまだ個人で持ち合わせていないこの時点ではまだまだ慣れ親しんだものという印象のほうが強かったのだ。至急でしておかなければいけない大切な連絡は私のほうからでもよくしていたし、大切な試合の前日は、貴重な睡眠時間をすこしだけ借りるという約束のもとに話をすることもあった。だから、私はどうして、と返してしまったのだ。電話、今までだってしてたじゃない、なんて。
「いや、そうじゃなくて……んー、なんていうのかな」
 するとなおは、どこかばつが悪そうに頬を指先で何度か引っかいてから、そうじゃなくて、ともう一度言った。なおの中でもうまく言葉がまとまっていないようではあったけれども、そうじゃない――今までしてきたような電話をしよう、と言ったわけではない、ということだけは、私にもわかった。(そこでやっと、だけれど。)
「えーっと……ほら、れいかってさ、生徒会にも新しい子入ってきてもっと忙しくなるだろうし、弓道部のほうだって、後輩もやってくるだろうから、大変になるでしょ?」
「まあ、それは、そういう環境の変化をするものだから……でも、それはなおも同じでしょう?」
「うん、そう、あたしもおんなじ。だから……なんていうか、今までみたいにさ、ゆっくり話す時間って、あんまり取れないと思うんだ」
 昔は、特にそうしようとしなくたって、一緒にいられたのにね。なおは呟くようにそう続けて、ちょっと取り繕うように、持っていた竹ぼうきでざっと地面を強く掃いた。舞った落ち葉はそれなりの山を形成しつつあって、その分中庭はもうだいぶ綺麗になってきていた。あと二度ほど袋詰めが終われば、と思うけれど。思う、けれど。
 ひとの手助けをするというにあたってこれといった理由を求めないなおだから、私の仕事であるところの中庭の掃除を手伝ってくれたのもそういうわけなのだろうと思っていたけれど、その予想はすこし外れていたのかもしれない。思い返してみれば遠慮する私に向かっていいからいいから、と言ったときの彼女は、珍しく私が持っていた竹ぼうきを、半ば奪うようにして持ち去って行ってしまったから。
「毎晩とかじゃ、なくていいから。でも、三日に一度とか、一週間に一度とか……そう、決めよう、れいか。れいかがよければ、一緒にこうってちゃんと決めて、電話したいんだ、あたし」
 私はなおの言葉に、それほど迷うことなく首肯した。なおはどこかほっとしたように笑って、それじゃあどうしようか、どのくらいなら迷惑にならないかな、とすぐに続けた。彼女の手は落ち葉を詰めるための袋に、ようやくかかろうとしていた。
 一週間に一度、多くはなってもいいけれど、少なくはならないように。というのが私たちの間で成立した約束で、私はそれに対しても頷いた。その頻度で家の電話を使用することについての許可を、母親と祖父に求めもした。
『もしもし、緑川ですけど、青木れいかさんは……って、あ、えっと、れいか?』
「はい、れいかです。こんばんは、なお」
『こんばんは、れいか。……えへへ、ありがとう』
「えっ? なに、どうしたの、急に……」
『うん、いや……なんていうか、さ』
 けれどそれは、どうなのだろう。
『あたしのわがまま、聞いてくれて。ありがとね、れいか』
 それを肯定する、ということと、それを否定する理由が見つからない、ということをイコールで結ぶのは、些か乱暴な行為であるようにも、思えてしまうのだ。

 共働きの両親はいつものことであるにしても、珍しくほかのきょうだいたちが揃って出かけているらしいなおの家は、外からでもわかるくらいに静けさに包まれていた。それでも、例えば私の部屋がそうであるように森閑としているようには感じられないのは、たくさんのひとが笑っていた残響が、そこにあるからなのだろうか。呼び鈴を鳴らして玄関の引き戸が開いたそのとき、いらっしゃいと笑っていたのはなおだけだったのに、なんとはなしに他にもたくさんの無邪気な声を聞いたような気のした私は、ふとそんなことを考えていた。
「上がって上がって、外、寒かったでしょ。なんだか雪でも降りそうな天気だね」
「来週末には、その可能性もあるみたいですね……こんにちは、ゆいちゃん」
「ほら、ゆい、れいかお姉ちゃんだよー。こんにちはーって」
 なおはすこし身体を捻って、背負っていたあたらしい妹との顔合わせをさせてくれた。ちゃんと口を開けて、なにか言おうとしてくれるあたり、きっといい子なのだろう、なんて思ってしまう。それほど久々というわけでもないはずなのに、まだ産まれたばかりの赤ちゃんの成長というのはやはり目を見張るものがある。くしゃくしゃの顔をしていたなごりはすっかりなくなってしまったようで、緑川家の女の子らしい顔つきになってきたみたいだった。
「へえ、そうなの?」
「ええ。目もとのあたりとか、小さいころのなおにそっくりよ」
「……そ、そう?」
 なんだかとても照れくさそうにしている姉のことなどつゆ知らずといったようすで、ゆいちゃんは、みじかい手を私に向かって懸命に伸ばして、ぱたぱたと手招きするように振ってくれた。ええ、と、挨拶の代わりなのだろうか。けいた君が産まれる前から仲は良かったので、ほんの入り口程度の小さい子の世話ならしたこともあるけれど、実際のところ私は下の子なので、本当にそれは入り口程度でしかなかったりもする。という私の戸惑いもほとんど見抜いてしまえるらしい(そういう意味でも、お姉ちゃんのプロ、である)なおは、ゆいちゃんをこっちに傾けるようにしてちょっと笑った。
「れいか、タッチしてあげて、たーっち」
「えっ? あ、でも、私、手がすごく冷えていて……」
「だいじょぶだいじょぶ、れいかの手だから。ほら」
「そ、そう……?」
 言われたもののさすがに気にはなったので、あまり足しにはならないだろうけれど息を吹きかけてからおそるおそる手を伸ばすと、私のそれよりずうっと、ずうっと小さな手が、ぺちん、と触れてくれた。目が丸くなったのは冷たさにびっくりしたからだろうか、でも、ぺちぺちと同じことを繰り返しているうちに、なおの背中でおんぶ紐がすこし軋んでしまうほど足をばたつかせ始めてしまった。
 おっと、とすこしバランスを崩しかけたらしいなおが慌てて傾けていた身体をもとに戻すと、それがたいへんに不服だったようで、さっきまできゃっきゃと笑っていたゆいちゃんは、すぐに顔をむっとゆがめてしまう。そうなると小さい子は早い。火がついたようにとは言わないまでも、なかなか真剣にぐずりだしてしまったようだった。
 とはいえ、はいはい、とあやすなおのほうは、慣れたもので。
「あー、ほんとだ、この子もしっかり緑川家になったって感じ、今のですごいよくわかった」
「えっ? と、今の?」
「そう、今の。ほら、うちはきょうだい揃って、れいかのこと、だーい好きでしょ」
 だから、何度見てもその手際にいたく感心してしまう私は、次にぼそっとなおが零した言葉を、聞き逃してしまう一歩手前だったのだ。
「……まあ、あたし、その先頭なんだけど」
 もっとも、聞き逃してほしいと思われていたような気も、するけれど。

「それじゃあれいか、なにかあったかいもの淹れてくるから、ちょっとゆいと一緒にいてくれる? あ、ココアでいい?」
「あ、いえ、お構いなく……」
 とは言ってみたものの、こういうときなおは私の言葉をたいがい最後まで聞いてくれないので、慣れた手つきでゆいちゃんをゆりかごに戻したまま、すたすたと台所へ消えて行ってしまったなおの背中を、ゆりかごの傍らにて私はぼんやりと見つめることになってしまった。あかねさんがたまに言うように、彼女のことを強引と思ったことは、ないのだけれど。なんというか、上手だなあ、と思ったりは、する。
 などと、考えていたら、よそを向いていてもわかるほどじいいいっとした視線が注がれていた、ので。
「…………。」
 思わず、じいいいっと、同じように、見つめ返してしまった。
 なんだか前も同じようなことをやった気がすると思い出してみれば、けいた君のときにもはるちゃんのときにもひなちゃんのときにもゆうた君のときにもこうた君のときにも、噛み砕いていうとなおのきょうだいたち全員に対して、私は同じことをしてはなおに笑われていたような気もする。れいかってそういうところほんと真面目で面白い、らしい。
 でもそれは真面目というよりは、多分に、どうしたらいいかよくわからない、というのが、本当のところだったから。幼い子に対してそういう不安を持って接するのは良くないのだったか、せめてこの一番下の子にくらいはべつな接しかたをしてみたい、と我ながら身に余ることを考えてしまったのが、最初だった。身に余ること。
 きちんと会話が成立する相手とすらうまく話ができない私は、しかしここでどうしてだか、この、つやつやと磨かれた瞳で私のほうをじっと見上げるというのがコミュニケーションの大半を担っているような相手に対して、言葉での通信を、試みてしまったのだ。
「え、と……ゆいちゃん、ご気分は、いかがですか」
 ……いや、いくらなんでも、言うに事欠いてこれはなかったような気がする。
 うん、仕切り直そう。
「そうですね……あ、えっと、なおお姉ちゃんの背中は、どうですか? 私は、そんなにたくさん背負われたことは、ないのですが……あったかくて、とても、安心しますよね」
 びいだまみたいなまんまるの瞳が、ぱっちりとひとつ、瞬きをする。
 あっちにいって、こっちにいって、とすこしだけうろついた目線は、また私の鼻先にぴったりと戻ってきて、でももしかするとその時初めて、この子は私を「見た」のかもしれなかった。ぱた、ぱた、と手が振られる。また、たっち、かしら。台所の方から聞こえる、氷の陽であろう蛇口から零れだした水がやかんの底を叩く音を遠くに聞きながら、でもそっちを振り返らないで、私はそうっと手を伸ばしてみた。
 ゆいちゃんの、あったかくて、ふくふくしていて、ちいちゃな爪がやっとのことで見えるような手が、ことのほか強く、私の指先を握る。
「……なおお姉ちゃんのことは、好きですか?」
 ぎゅっと、握る。
「私は――とても、好き、です。」
 火花の散る短い音が、ち、ち、ち、と数回して、コンロには火が灯されたようだった。冬の薄曇りの空は優しい灰色をしていて、わずかに暗い部屋の中、蛍光灯の明りがゆいちゃんのふくふくとしたほっぺたと、ものやことをまっすぐに見つめることだけを知っている瞳を、ゆっくりと照らしていた。
 部屋の中は静かで、でも孤独ではない静けさで、だから、だから、というのが正しいのか、もうわからないけれど、全然わからなくなってしまったけれど、ただ私はもう少し、もう少しだけ、話をしたい、と思って。
「……ほんとうは、」
 私はこういうところが、とてもずるい。この子にはきっとわからないということが初めからわかっていたなら、ひどく安心して、話が出来てしまう。伝わらないことが前提の、一方通行のコミュニケーション。その保証があって初めて、私はやっと口を開けるのだ。ひどいことを、考えている、と思う。
 あなたなら、私のことを、笑わないで聞いてくれるでしょうか、なんて、ほんとうに、ひどいこと。
「本当はね、なおと話をするのも、大好き、なんです。」
 だからもっとたくさん話をしようって言われたとき、私もって、私もそうしたいって、たとえばあなたの手でも握って、しんから嬉しそうに、応えられたらよかったのに。またワン・センテンス、シンプルな話だ、私はあなたから与えられるものが嬉しいけれど、およそ返せそうなものを、自分の手の中に見出せない。
 だからどうやって喜んだらいいかわからなくなるの、どんどん、どんどん、わからなくなるの。ねえなお、話したいこともちゃんとあったんです、一週間に一度と決めたはずなのに、私はどうにも電話口の前を通るたびになんとなし日数を数えてばかりいて、そのたびごとにこんな話をしたら笑ってくれるだろうかって、そんなこともちゃんと、多分あなたが思っているよりもずっとたくさん、多分あなたが思っているよりもずっと気持ち悪いほどたくさん、考えて、かんがえて、いたんです。自分からそうしたことはないくせに、あなたが七日経たずに恥ずかしそうに、すこし申し訳なさそうに、でもどうしても話したいことがあるからと言ってくれた時、左耳の向こうから聞こえるその息遣いですら、私にとっては思うに、最上だったのです。
 とても悪い話なのだけれど私はあなたのことがとても好きで、ひどいくらいに、好きで、だから話をするのだって、そうしたいと思ってくれることだってあなたが思っているよりもずっとずっと嬉しくて、幸せな、ことで。おかしいことだと思うけれど、だからこんなこと絶対に言えないけれど、声を聴けるだけでも、良かったのです。例えばあの日中庭の掃除をしていた時だって、思うに効率をきちんと求めていくべきだった私たちは作業中ろくに顔を合わせてもいなかったけれど、ただ、ただ、背中のどこかから、私の身体を包んでいた空気のどこかから、ゆっくりと、はつらつとした声が、あるいはくすりとこぼれた笑い声が、すぐそばにある風のように吹き抜けていくことが、私にとっては本当に、あたたかなことで。
 でも、
「とても、好きで……好き、だから。」
 あなたに与えられたそのすべてを、返せだけのなにかが私にあるようには、とうてい、思えそうには、ない、のですーー。

「ふむ。なるほどねえ」

「っ!?」
 振り向くと、あ、ココア、まだあったかいよ、と、およそその場で発せられるにはだいぶ不似合いにも思える言葉が、すとん、と落とされた。
 となれば、れいかって赤ちゃんのあつかいかたほんとおもしろいよね、というのはもう少し適切であったのかもしれないけれど、それはそのまま、いったい私が今までゆいちゃんに対して何をしていたかがまるきりばれてしまっているということの証明でもあったから、とてもではないが喜べるようなことでは、なかった。

 やっぱりあたしが考えた方法じゃああんまりうまくいかなかったか、というのが、確かにまだ熱いカップを私に手渡しながらなおが言った、最初の言葉だった。なおが考えた方法。つまり、週に一度の電話、のことだった。
「うん、でも……あたしのほうも、れいかといっぱい話せるってことが嬉しくって、っていうか、舞い上がっちゃってたんだなあ。ちゃんと話したいこと、っていうか、話さなきゃいけなかったこと、ほんとはもっと、たくさんあったはずなんだけど」
「……話さなきゃ、いけない、こと?」
「そう、なんていうか、なぁ……なんかもっと、ふつうに、大事なこと。そういうの、取りこぼさないようにって思って、たくさん話す機会、作ろうって思ったんだ」
 そういえばこの説明だって、れいかにはしていなかったもんね、と、確かに今更のように思えることを言ったなおは、ほこほこと湯気を立ち上らせるカップにそっと口をつけて、でもね、とすこしひそめた声で、続ける。
「でも、失敗してもいいっても、思ってるんだよ、あたし」
 失敗しても、いい。
 なおがするりと、例えばずっとそこにあったことをそのまま自然と口にするように言ったその言葉を私が全部飲み込むよりも早く、なおはねえ、と私に向かって呼びかけた。目が合うと、ほんの一瞬お互いさまよってから、もう一度元のところに戻ってきた。じいっと見つめ合うということが、私たちのほうはもうそう簡単にはできなくなってしまったのだ。いろんなことを感じて、いろんなことを知って、私たちの瞳は、もっと不器用になってしまった。
 もっと不器用に――ちゃんと見よう、としないと、見たいものも、見えなくなるように。
「ねえ、れいか、例えばさ。いま、あたし、れいかのこと、大好きだよって言ったとして」
「……え、」
「ああそうなんだ、って、わかってくれる?」
 首を振ってしまった。我ながらぞっとするほど素直に。
 よくよく考えてみなくたってそれはなおのことをひどく傷つけてしまうことだと理屈では分かっていたのに、私はそれを取りかえせるような言葉も行為もまったく思いつかずに、ただ慌てているということだけをみっともないほどあらわにしてしまった。手の中でココアがゆらゆら揺れていなければ、私はとるものもとりあえず立ち上がったりなどしていたのかもしれない。
 ただ、そんな私を見ても、なおは笑っていたのだけれど。
 ちょっとだけ困ったように、今日はさむいねえというときと同じみたいに、笑っていたのだけれど。
「うん、そうだろうなって、思うよ」
「な、なお……」
「そうだろうなって思ってたし、あたしもそうだから。もっと話をしようって、きめたんだ」
 例えば二人が二人とも、話せるということ自体の幸福ばかりを感じてしまって、ただそれが嬉しかったのだという、声を聴けることが嬉しかったのだという、本当は自分が最初の最初に知っていたことですら、うっかり話さないままでいてしまうような、たいへんに賢くない人間がここにふたり、いたのだとして。
 だけどそれでもいいと思ったのだと、なおは言う。話をしようっていうのは、つまりそういうふうに名前をつけただけなのであって、その中には、黙ってしまうことも、上手に話題を探せないままいつまでも電話を続けてしまうことも、もしくは、いったいどのくらいの頻度でかけたらいいかもわからないで、なんとなく向こうからの連絡ばかりを待っているというみっともなさも、すべて含まれているのだと言う。
 私の、さっきこの子に向けたような、どうしようもないような、ただとんでもなくばかばかしいような言葉も、全部、含まれているのだと言う。
「だってそれがれいかのことだったら、あたしは全部、聞いてみたくてさ」
「ぜんぶ、」
「うん、ぜんぶ!」
 ねえ、れいか。
 視線のことだけれども、手のことだって、きっとそうだ。私たちは、だから、そうしようとしなければ、無邪気に手を繋ぐことなんて、もうできなくなってしまっていて。
「ねえ、れいか、一緒にたくさん失敗しよう。いいことばっかじゃ、なくていいよ。みっともないことも、たくさんしよう。それと……わかんないままでもいいから、最初は伝わらなくてもいいから、いっぱい、いっぱい、好きっていおう」
「……なお」
「れいか。ねえ、」
 でも、だから、私は。
 一応、なんとか、どうにか、私できめて。
 自分で、自分の頭をつかって、身体をつかって、心をつかって、そうしようときめて。
 あなたに手を、伸ばした。
「あたしはね。れいかと、ゆっくりでいいから、家族になりたいんだ」
 たっち。

 多分、いろんなことを、考えないできてしまっているのだろう。それだけはとてもはっきりしていて、もしかしたらなおのほうだって、それはわかっているのだろう。言葉にはできないにしても。いろんなことというのは、つまるところ倫理とか根拠とか事実とか常識とか道徳とか、およそ世の中を見つめるにあたって必要なことの数々で、そして私の中にたいへんよく根付いているものだった。
 だけど、同時に、合わせた手のひらの中でなら、その、私だけのものではない、もうひとつべつの優しい熱のぶつかりのあいだでなら、溶けてゆけるものでもある、かもしれない。初めて、そんなことを考えた。
「……なれる、かしら」
「なれるよ」
「ほんと、に?」
「ほんとに。」
 ちいさな、声がした。私のものでも、なおのものでもなかった。だから、私かなおのどちらか、あるいは両方を呼んでいるものだった。
 揃って視線を落としてみれば、いつの間にか寝ついてしまっていたらしい――もしかすると私の退屈な、わけのわからない話に付き合わせてしまったからそうなってしまったのかもしれないので、後で謝らないと――ゆいちゃんが、片手で私の指をきゅうっと握ったまま、もう片方の手を、ぱたつかせていて。
 なおが、すこしだけ息をひそめたのがわかったような気がした。何かを考えている、とは思ったけれど、何を考えていたのかはわからなかった。わからないことがまだたくさんなのだ。ほんとうに、ほんとうに。そう思っているあいだに、なおはゆっくりと、少しふるえているようにも見える指先を、つん、とそのちっちゃな手にふれさせる。
「あ……、」
 そうしたら、ゆいちゃんは、ためらいなくそれを、しっかりと握った。
 左手に私の手、右手になおの手。ぎゅうっと握って、満足そうに、寝息をたてる。
「……あはっ」
 笑った、なおの顔を、ちゃんと見ることはかなわなかったのだ。
「ほら、ね、れいか」
「……うん。」
 だって額を触れ合わせるくらいのところにいたら、前髪がくしゅっと絡み合うくらいのところにいたら、そんなの、無理でしょう?
「なれるよ!」
 いちばん失くしてしまいそうで、でも、ちょっととくべつな。
 あなたと私の、たからもの。

 額の向こうの熱がどんどん熱くなっていくのを感じながら、次に電話をするときのことをすこしだけ考えてみた。またうまくいかないかもしれないけれど、次になんていってあと十回あとのことになってしまうかもしれないけれど、とにかく、考えてみた。
 あと、五分だけ、話していてもいいって、言えたらいいと、考えてみた。

 ねえ、なお、あなたは私のその言葉も、笑わないで、聞いてくれる?

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