だれかがないた日




 どうか、この子を、救って。

 ほしいものが手に入ったら、だれだってしあわせになれるはずだと思った。そんなわけないなんてわけない。よくわからないことを、吐息でやけた胸をひりつかせながらあかねは考える。のどが渇いてしまったなら、甘い水をあげる。寒くて寒くて凍えそうなら、柔らかい毛布をあげる。さびしいならここにいてあげる、とにかくきみにあげる、だから。だから、笑って、ください。
 だから、っていうのでじぶんの方がなにかお願いをするのはなんだかおかしいような気もしたのだけれど、そんなことはあかねにとってとっくのとうにどうでもいいことになってしまった。だってもう二回目だから。それにしてもくちびるまで冷たいんだ、こんなになるまで放っておいたのはだれだろう。いったいだれだろう。ふるえる指先で頬にかかった髪をながしてやった。
 れいかの、深く沈んだみずうみの色をした瞳が、あかねの指のうごきを追う。その奥の光だって冷たい。この子は、なにもかもが、すごくすごく冷たい。あかねはぎゅうっと目をつぶる。太陽はさっきから雲間に隠れていくばかりで、だから、だれもあかねのことを助けてくれないのだった。たとえば奇跡みたいな力でさえも。

「っ……ん、」

 鼻の奥に引っかかったようなれいかの声が、体育館裏に充満するへんな空気をがくがく揺らして。でも、かあっと熱くなっていくのは、あかねのほうばっかり。
 れいか、とかすれた声が勝手に名前を呼んでしまって、きれいな響きに泣きそうになった。きみの、名前は、なんでこんなにきれいなんだろう。れいか。れいか。れいか、れーか、れーか。ふるえてしまいそうなくらいに冷たいそれをあたためるためにと、何度も何度も触れる隙間で、あかねはたくさん呼んだ。
 そのうちなんだかえらくみっともない呼び方になってしまったことはわかるのだけれど、そうやってしがみついていなかったらどうなるかわかってる。れーか。れーか、れーか、れーか、れーか。こわれたみたいに呼び続けて、綺麗な髪がくしゃくしゃになるくらい抱きしめて、リップがすっかり落ちてしまうくらいキスをして。
 そうでないと、そうしてでもいないと、この子はあっという間に、自分のことなんか見なくなる、から。

「は……ぁ、かね、さん」
「もいっかい、しよか?」
「……っ」
「ええよ。れいかがしたいだけ、しよ」

 やっと呼んでくれた名前を、だけどあかねは必死になって遮った。れいかに、自分の顔を見て、その名前を呼ばせてはいけないのだ。だってそれはべつに、れいかがほしいものではないのだから。あげられるものなんてほんとは一つも持ってない。みずうみの奥の奥に沈んだ笑顔を、引き上げるためのすべを知らない。知りたかったのもほんとだったけど。
 あかねはれいかの頬をじいっと包みながら考える。この子がいつか、自分の目も耳も上手にふさげるようになって、じぶんの姿も声も、いっそ感じないようになってくれればいいのだ。そうしたらとても便利なのに。なのに、残酷なくらいに優しいれいかは、なかなかそれをしてくれないのだった。
 だかられいかはまた泣く。あかねよりも先に泣いてしまう。だからあかねはれいかの頭を抱えこむようにして、縮こまってふるえる背中をそっとさすってやるのだ。

「れーか、泣かん、で」

 なおの慰め方といえばこれでただしかったかな、なんてことを、考えながら。



 そうやって、れいかがほしいもののためにあかねがポケットを破れるくらいひっくり返すようなことはすでに片手の指では足りないくらいになってきていたけれど、それもしようのないことなのだ、というのが、現状あかねが弾き出している結論であった。両手の指で足りないくらいになってきたら、もう少しことはましになるのかもしれないとすらあかねは思う。
 こういったことに、どういう意味であれれいかが「慣れて」しまうのは、悪いことではないはずだった。それが許されることかなんてことはどうでもよくて、だれだかもわからないだれかに許されるかなんてどうだっていい。それよりは目の前にいて、名前もわかる、大好きな人のためになにもかもを使うってことのほうが、あかねにとってはずっとずっとリアルだった。
 でもそれにしたって、さすがに体育館裏でというのはまずかったのかもしれない。いつもだったらちゃんとふしぎ図書館という都合のいい助けを、上手に使ってきたのに。昨日のれいかはとくにひどかったから、ほんとうにひどかったから、あかねは即座にれいかの手を引くことで頭がいっぱいになってしまったのだ。

「見たよ」
「えっ?」
「見たんだ」
「なにを、ですか……?」
「とぼけないで!」

 だからまさかその向こうで、黄色いリボンがびょおびょお風に揺れていただなんて、思いもしなくて。
 叫び散らしたなおの声が放課後の教室に沈黙をたたき落とした。忘れ物を取りに帰るなんていつでもできることをどうして今日にしてしまったんだろうとあかねははげしく後悔したけれど、一緒に帰る約束をしていたという平和な日常から足をすべらせた二人を見かけてしまったいま、もはや踵を返せるはずもない。
 膝の裏がみょうにかちかち冷たくなって、倒れてしまうのが怖くなって、あかねは廊下の壁に半身を押しつける。そうしたら振動でもじかに伝わってきているのか、教室の中の沈黙で、頬がひどくひりついた。のぞき見をしているという罪悪感よりもさきに、昨日の熱が身体をかすめる自分が、ちょっとだけいやになった。
 沈黙が爆発する教室の中で、窓際の壁に追いつめられたれいか。カーテンがちょうど、れいかの綺麗な身体のラインをかたどるようにしわを作る。まるで白いシーツに沈み込んでいるみたいなその姿は、あかねと、それから激昂しているはずのなおにも、すこし淫靡な想像をさせた。

「っ、きのう……なんで、あかねと、あんなことしてたの」
「あ……」
「ねえ、なんで? れいか、なんで……?」

 ただ、なおの場合、それから直結するれいかの表情といったら、昨日のもので。流麗に整った顔を、恥ずかしさとか微熱とか、そういう自分が一度も触れたことのないもので歪めていた、とおいとおいれいかの顔で。
 思い出すだけでわけがわからないくらいあちこちが痛くなって、痛いのに、れいかはなにひとつなおの聞きたいことを言ってくれそうになかった。せめて見間違いですよとかいったいなんのことって首を傾げてくれればよかったのに、なんにだって誠実なれいかは、そのときだってやっぱり誠実に俯いて、唇をかみしめるばかりだった。
 それがなおの痛い痛い記憶に、鮮やかな色を与える。夢にも嘘にもできなくなる。これでもし謝られでもしたら、いったいどうしたらいいっていうんだろう。勝手に暴力的な力が入るなおの手のひらの中で、カーテンがぐしゃぐしゃにつぶれる。

「なんで、なんでなの、れいか」
「なお……」
「あたしがっ!」
「ぃたっ……!」

 突き飛ばされる細い肩、どんと鈍い、窓が揺れる音。あかねは思わず出て行きそうになるのを必死にこらえた。ばか、ばか、そんなふうに乱暴にするな。れいかはなんも悪くあらへん。頭には真っ直ぐその一言が掠めたのだけれど、ただそれをいったいどんな声で、どんな顔をして言ってやればいいかわからないということだけが、あかねの足を一歩だけで止めていた。
 短くて止まりそうな呼吸のあと、なおの手は、れいかの肩を、今度はやさしく握った。痛そうにゆがめられていたれいかの瞳が、こわごわとこっちを見る。こんな顔をさせたのは初めてかもしれなくて、自分がする行為の間に狂気的な差がうまれていることになおは気がついていたけれど、どうしてそんなおかしなことになっているのかはよくわからなかった。
 どうかしちゃったのかな、あたし。でも。でも。

「あたしが、どれだけ、れいかのこと、を」

 どれだけきみのことを、かんがえてきたかも、しらないで。
 なおはれいかの俯いていた顔を髪を引っ張って上げさせた、さいあくのやりかただった、なめらかな顎のラインが本当にきれいだと思った。れいかはいつも綺麗で、みんなが振り返ってしまうくらい、とても綺麗な女の子で。だから、こんな邪悪なことをしてはいけない、はずで。かりにそれをどんなにか、どんなにか夢に見てきたとしても、いけないはずで。

「………っ」

 ずっとそう思ってきたこと、を、なんだかとてもひどい方法で、なおはれいかにぶつけた。歯があたったような気がするんだけど、それが間違ってるのかただしいのかも、もうよくわからない。名前を呼ぶ前にふさいでしまってよかったということだけが、どうにかなおを救う。
 くらくらするくらい柔らかい感触で頭がいっぱいになりそうな一歩手前で、だけど昨日見てしまったことがそこに重なってしまう。知らない顔で、知らないところを、何度も何度も触れあわせていたれいか。曇天の鈍い明かりにきらめく濡れた唇が、とても、とても綺麗だったれいか。いつも涼やかな目元が、ひどく甘い熱に溶けていたれいか。
 自分じゃないだれかを、瞳にうつしていたれいか。それはたとえば。ほんの一瞬だけ目線をよそにやったなおは、何かがひどくあっけないふうに、多分なんの音も立てずにくずれていくのを見た。まあ、もう、いい、けど。

「ん、ふぁッ……ぁ、っ?」
「なんで……なんで、れいか、なん、で」

 あったかいなあ。わめきたてるようなことを細々と呟きながらなおはそんなことを考えていた。れいかの、くちのなか、あったかい、な。粘性と湿り気をたっぷり孕んだ音がなおの指の間で鳴る。突然自由をうばわれたれいかの小さな舌が、その下でこわばっていた。
 やっぱりどうかしてるんだ、あたし。そういうことにして、なおは、れいかの口に沈めた指先で、そっと歯列を撫でた。こんなことでどきどきしてるなんて、だって、おかしいもの。なおの言葉は問いかけの形を呈しているわりに、答えをもとめていなかった。今のれいかになにかを話すってことが求められるはずもないことは、なおが一番よくわかっている。

「ふぅ、ンっ……!」

 内側から頬を撫でるなんて初めてだった。外側からだって、さいきん、ちゃんと撫でたことなんてない気がした。ぬるぬると溶ける感触に頭を痺れさせながら、なおはたくさんたくさんれいかの中をかきまわす。こっちかな。ここかな。人差し指と中指を、きらきらひかる糸がつなぐ。残ってる味が少しでもあるなら、ひとつのこらず、かき出してあげる。
 れいかの口のはしから零れたぶんに吸い付く。他人の味だなんてわからないくらいそれは甘く喉をすべっていくのに、なおはもう半分何かを許すってことを忘れていたのだ。れいかががまんできなかった咳で身体を揺らす、けれど、なおもそのときにはもうほとんど全身でおさえつけにかかっていたから、意味のないことだった。

「っ、こほっ、なぉ……ん、ぅ」
「れいか、れいか……れいか、っ」

「…………」

 ぐしゃぐしゃに濡れたなおの手が、夕陽のあかりで、とてもきれい。
 あかねはぼうっとそんなことを思いながら、なぐられでもしたかのようにその場に立ち尽くしていた。頭はさっきからそんな感じでがんがんしていた、なおが壊れてしまったみたいに何度も呼ぶきれいなきれいな響きや、れいかが零すたくさんのきらきらした声で、さっきからずっとがんがんしていた。
 わかってるんだということをあかねもちゃんとわかっていた。そういうひとつひとつが見えるような場所にいて、全く気が付かれないって奇跡は起こらない。世の中にみちあふれているのはおおよそどうでもいい奇跡ばかりで、やさしい魔法はどこにもない。たとえばれいかの中をぐしゃぐしゃにしてしまう手前で、なおが確かにこっちを見たことのように。
 こわい目ではなかった。(あの親友はこわい目なんてほんとはできないやつなんだって、あかねは知っていたのだし。)ただとても静かな目だった。荒涼としているというのに近かったのだろう、きっと。そこにいろともいなくなれとも言わずに、なおはふいっとれいかの方に向き直った。言う必要がないとわかっていたのかもしれない。どっちにしろ、あかねはそこから、動けなくなるから。

「れいか――」
「えぅっ……な、お」

 動けない、し、もしかしたら自分は動きたくないのかもしれないとあかねは思い始めていたのだ、なみだながらになおを呼ぶれいかの声にまたがつんとなぐられながら。それは自分があげられないものだったから。それは、れいかが、ほしかったものだから。
 でも頭でわかっていることだって人間なかなかなっとくはできないもので、ことれいかのことについて自分の頑固さときたらあかね自身の手にもあまるほどだったのだ。だからいっそ。教えてくれればいい、なおが。自分の持っていないもので、れいかのほしいものを、なにもかも持っているあの大親友が。全部直球に突きつけてくれればいい。
 焦がれて、焦がれたものをぜんぶ見せつけて、もうぜったいに届かないと、おしえて、

「――っ!!」

 水につつまれていたようであった教室の中で、えらく乾いた音ががたんと響いた。あかねは思わず瞬きをしたから、飛び込んだ風景をやけにはっきりとした視界で見ることになってしまう。
 床に落ちたネクタイ。ひとつだけ列を崩した机、斜めに投げ出された椅子。れいかの、ひらいたシャツの衿元、しろくういた鎖骨、薄い青の肩紐。ふるえている、なお。ひとつひとつが見える場所にずっといたから、あかねはなにひとつ見落とさなかった。
 ただほんの一瞬だけわからなくなったのだ、これからなにが起きようとしているかはいやになるくらいわかっていたから、いったいなにが起きたのかが、ほんの一瞬だけ、わからなくなったのだ。

「っ、ごめ……ごめん」
「え……」
「ごめん……ごめん、ごめん、れいかっ!」

 そしてなおは、そのほんの一瞬のうちに、あかねの横を走り去って行ってしまった。
 その場で言うとしたらもっとも悪い一言だけを、残して。



 ほしいものはなにひとつ持っていないのに、わかることばかりが増えていく。さいあくなことだなあとあかねは思う。わかってたからってどうしようもないことばっかりなのに、どうしてこうなのだろう。衣擦れの音がしんしんと教室に染みて、だまってネクタイを結び直すれいかの影はひどくちっぽけに見えた。
 カッターシャツは第一ボタンまできっちり留めて、直す必要なんてひとつもないみたいにネクタイをちゃんと締めて。それが当たり前になっているかぎり彼女は、どうして毎日生徒会副会長さまの隣にいるなおが制服を型通り着てこないのかなんて、きっと考えもしない。自分だってそうだったんだから。ゆるんだネクタイをぐっとひっぱって、自分で自分の首をしめる。息なんてさっきからずっと止まってると思ったのに、そうでもなかったらしい。

「……だいじょぶ、かー?」
「あ……あかね、さん」

 この一言も、この場にはあまりそぐわない。わかっていながらあかねがなんとか言えたのはそれきりで、だから、だいじょうぶですと答えたれいかもなんだかちぐはぐだった。
 さっきまで露わになっていた右肩がさむいのだろうか。そこにあてがわれたれいかの手はとても小さくふるえていて、ただそれはなにもかもを拒絶するふるえと良く似ていた。そんなひどい子ではないと知っているけれど、今自分が手を伸ばしたところで、れいかはそれを振り払うだろう。またわかることばかり増える。いやなことだとあかねは嘆息する。
 きれいだった、のに。きれいだった、から。陶器みたいになめらかな肌がなおの瞳にどううつったかまではわからないけど、それがなにもかも吹っ飛ばしてしまうくらい、たとえばかっとなった頭でも思いっきり冷やしてくれるくらいきれいだったということなら、あかねにもわかるのだ。れいかはとてもきれい。そんなこと、自分よりも幼なじみのあんたの方が、知ってるはずで。
 ――でも、それだから、なおの手は、止まったのだ。

「ごめんなさい、あかねさん」
「……いま、うちに謝るとこか、これ?」
「ん……でも、ごめんなさい。」

 きれいで、きみがきれいだったから、なおはそれ以上きみに、触れなくなった。
 微笑んで謝ったれいかを見て、すれ違いざまになぐりつけてやればよかったとあかねはひどく後悔する。少なくとも、この笑顔を受ける羽目になった自分の胸と同じくらいには、痛くしてやらなくちゃ気が済まない。握りすぎた手に爪が刺さって、そっちも痛いはずなのに、わからないくらい胸がぎゅうぎゅうしていた。
 れいかが好きで、れいかが好きだから、大切で大切で大切で大切で。なおの頭の中はきっとそればっかりなのだ。ばかみたいに、そればっかりなのだ。そればっかり積み上げて、れいかを大事に、大事に、自分の手なんて届かないような高いところへ、置いて。
 血へどを吐くような気分であかねはもっとこぶしを握る。ばかみたいだ、ほんとに、ばかみたいだ。だってそれだかられいかは、ひとりぼっちで、あんなにも冷え切っているって、いうのに。

「なあ、れーか……」
「っ、ごめんなさい」

 伸ばした、手は、ふい、と避けられた。れいかの実に自然な仕草でひらかれた、たった一歩の距離が絶望的に遠い。
 ごめんなさい。あかねはもう何度謝られたのだろう。れいかはどうして、笑っているのだろう。

「ごめんなさい、」
「れー、か」

「私に、さわらないで。」

 ああ、あのばかやろうのことを、すきで、すきで、本当にすてきだと思っているきみは。冷え切った身体をたったひとりで抱きしめるようにして、あるいは隠すようにしているきみは。あんなにもきれいなきみは、そうやっていとも簡単に、笑顔で、自分のことを、きたならしいかたまりにしたんだ。
 わかってる、ふたりにとって必要だったのはもっと優しい触れ合いで、ほんとはたったそれだけ。たったそれだけなのに、たったそれだけができなくて、今日もこころにひびが入る。今日も、きれいな微笑みを浮かべるだれかが、よそのだれかの中で泣いてる。


「あかねさんの手。あったかかった、です」


 どうか、この子を、救って。
 だれか、この子を、救って。

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