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おちていく日




 このままどこか、どこか誰も知らないような、すごくすごく遠いところまで、行ってしまおうか。


 土曜日、午後六時過ぎ、夏の夕焼けにまぶしく照らされた六号車の車内は、じつに快適な温度に保たれていた。コンビニの冷房というのはたいがい効き過ぎているし、かといって学校の教室備え付けのクーラーなんて仕事をしているのかしていないのかたまに怪しいと思ってしまえる部分が多々あって、どうも空調設備とはそういい仕事をしないものらしいというイメージがあかねのなかにはぼんやりとあったけれども、たったいまここにある空気は、おどろくほど心地よく、外から飛び込んできたばかりの火照った肌に染みこんだ。
 目立った施設が沿線にあるわけでもなく、しいて言えば上り線終点二つ前の駅に高校があるくらい、というまさに通勤通学のためだけに引かれたようなローカル線は、平日の時間帯によっては殺人的なラッシュを引き起こす癖に、週末になるととにかくがらがらに空いている。重ねていまはその高校ですら期末の試験期間に突入していて、部活生たちですらこぞって家に閉じ込められていたので、つまりそういうわけで車両内にはひとりも他の乗客がいなかった。空気が澄んでいるように思えるのは、きっとそのせいもあるのだろう。
 でもそう感じる一番大きな理由は、きっとそれではない。すくなくとも、あかねにとっては。

「……よー寝とる、なあ」

 つぶやきというにはあまりにもこわごわとひそめられた声は、決まったリズムで揺れる電車の音の間に静かに挟まって、そして線路の向こうに流されていった。真っ直ぐ並んだ窓に延々と映る街々は太陽を隠したり隠さなかったりして、そのたびごとに射し込んでくる陽が、あかねの俯いた額のあたりと――そして、隣のひとの、ていねいに切り揃えられた髪なんかを、ちらちらと照らしていた。
 集団になって騒ぐ男子連中も、椅子に広く腰掛けて甲高い笑い声を立てる女子連中もいない車内は、たたん、たたん、という定期的な振動だけがただやさしく満ちている、とてもものやわらかな空間で。きっとそれだからなんだろうと、一応あかねは結論付けている。隣の、いつだって凛と背筋を伸ばしている彼女が、たったいま首のすわっていない子どもみたいになっていることについては。れいかはふわふわ眠っていた、たぶん二駅くらい前からの話だ。
 ここがあんまり静かだから、まるで自分たち以外には、誰もいなくなってしまったみたいだから。そんなときになってやっとからだから力が抜けてくれるってところが、なんだかじつにれいからしい。そう思うと、いやべつに思わなくたって、あかねにはとてもじゃないがれいかを起こす気にはなれなくて、それにしても振れはばが控えめ過ぎるような彼女の頭なんかを、さっきから眺めているのだった。あかねにとっては別にここが涼しくなくたって、れいかが隣にいさえすればいつだってそこにある清涼な空気を、ひそめた呼吸でくりかえし胸に忍び込ませながら。
 あんまりじっと見ているのはほかでもない向かい側の窓に映る自分なんかにとがめられそうだったので、制服の上に羽織ったオレンジのパーカーのポケットに手をつっこんで、背もたれにふかく腰掛けたあかねは、誰もいないのをいいことに足を前に思いっきり放り出したまま、さっきからずっと俯いていた。そろそろ首が痛いというのももちろんなくはないのだけれど、ものごとにはなんだって優先順位というやつがあるのだ。
 だから騒がしさのない、ただ淡々と続いていく景色からふいと目を逸らしたまま、それこそきっちり足を閉じて背筋を伸ばして座っていたようなれいかがゆらゆら、ゆらゆら、細波みたいに揺れるのを、あかねはこっそり眺めていた。ほんとにこっそり、ちょっとだけ。それこそ、はじめは電車の揺れと同じくらいだったはずの鼓動が、いまはもうすっかりと駆け足になってしまっていることを、ひた隠しにするみたいに。

「あと、ふたつか……」

 とはいえその時間がこれからも長く続くということはどうやらなさそうで、れいかを起こすにはぎりぎり足りないらしいアナウンスとともに電車が減速していくのを見ながら、あかねはぽつりとぼやいた。気が抜ける音で開かれた扉からはむっと暑い空気だけがわずかに入ってきて、この車両に乗客は結局増えなかったけれども。どちらにしたって、状況なんてわりと簡単に崩れてしまうものなのだ。変わって欲しくないってどんなにかがんばって祈ったとしても。
 一学期の期末試験前ということは夏休みの直前でもあるということで、どうしても生活指導についてのプリントを完成させておかないといけないから、という話を昨夜メールのやり取りの中で出してもらえたのは、きっととても奇跡的なことだった。そしてあかねが言い訳と嘘を考えるのにはためらいも時間もいらなかった。部室に忘れ物があるどころか鍵も持っていない自分は、本日この怒涛のような暑さのもと校舎からグラウンドを突っ切った運動部室棟までただ走って往復するだけというちょっとした苦行を強いられたけれども、だからといってどうということもない。
 だって、忘れ物は見つかりましたかって、自分の用事のついでだからってあんなに言い聞かせたにも関わらず、やっぱりちょっとだけ申し訳なさそうな顔で笑うれいかが、玄関先に立っているんだったら。その穏やかな笑顔とか、ちょっと寝不足なんですって行きの電車で恥ずかしそうに口元をおおっていたこととか、アイスとかき氷はどっちが好きかというくだらない話題でも真剣に考えている横顔とか。それだけの、たったそれだけのものたちに出会うことが、たとえようもないほど、あかねにとっては大切な用事だったから。

『つぎは――』
「………、」

 眠たげな電車のアナウンスが、次の駅の接近を告げる。たたん。たたん。たたん。れいかはいっこうに起きる気配がない。次の駅を過ぎたら。もう、起こさないといけない、だろうか。そんなのあたりまえのことだってわかっているけれども。できてあたりまえのことを、あたりまえにできるほど、あかねは自分が上等にできていないことをよく知っていた。少なくとも、この子のことに関しては、自分はどうしようもないくらいできそこないだ。
 きっととてもずるいことをしたのだという自覚は、はじめからあった。言ってみれば、単語の羅列に悲鳴を上げている自分と同じように、年号と人物名と事件の海であっぷあっぷしているあいつからメールがあったもうそのときから。顔を合わせていないやり取りというのはこういうとき都合がいい。あかねがどんなにか必死に考えて普段のくだらない内容のメールを送り続けていたことを、なおは絶対に知ることはないから。
 言うべきか言わざるべきかという判断が入る余地だってそもそもとしてなかったのだと思う。ことれいかのことについて、なおに知りたいか知りたくないかなんてことを聞くのは、それこそ一たす一の答えを高校生にもなってテストすることよりも詮無いことだ。そしてれいかにとっても同じ。考えなくてもわかる。今朝、改札の横で、両手で鞄を持ったまま、むせ返るほど熱を帯びた風に髪を揺らしていたこの子は。
 れいかは、きっと、そこに姿を現したのが大好きな幼なじみだったなら。
 きっともっと、もっとくすぐったそうな顔で、うれしくってたまらないのがどうしても隠せないような顔で、笑ったのに違いないから。

"すまん、明日はちょっと用事あんねん、付き合えへん"
"うわ終わった、あたしの歴史終わった……"
"待て待て待て、ちょっとは一人であがいてみんかい"
"超あがいたよ! あがきすぎて方向性を見失うくらいあがいたよ! もう百人一首とか広げてるよあたし!"
"落ちつけ!?"

 でも、言わなかった。言えなかった。それが一番、ほんとに一番の一番、れいかが喜んでくれることだって、わかっていても。
 用事があるって聞いたらそれを頭から信じ込んでしまうような、憎たらしいほどに真っ直ぐな大親友。まったくもってさいこうなやつだと思う。さいこうで、でもきっとそれだから、れいかは景色がどんなに変わったって、あいつのことが好きで、好きで、たまらないのだ。あいつと一緒にいるときが、ほんとに幸せで、幸せで、しょうがないのだ。
 いまの、あかねみたいに。

「ぉわ、――っ!」

 喉元で言葉を押し殺すのに、こんなに苦労したことは、今までなかったように思う。状況はいつだって唐突に変わる。最後の駅を通り過ぎたところだった。れいかの、控えめに揺れていた頭が、ようやっと着地点を発見したのは。
 そうだ、背、背が、伸びた、から。できないことばかりつい数えてしまうけれども、あかねにだってできることは知らない間に一つずつ増えていて、いつの間にかれいかのことを追い越していた背丈と肩は、れいかの頭を受け止めるのにふさわしい位置にあった。たたん。たたん。たたん。電車は速度を増していく。それでも、あかねの中でとくとくと鳴る音の速さに、それはきっと絶対に追いつけない。
 涼しくってちょうど良かったはずの空調が、一気に意味を成さなくなる。寝息って、こんな、こんなに、ひびくものだったっけ。ゆらゆらあまい吐息が、耳元をしびれさせる。ひどいことに夏服に衣替えしていたため、外気にさらされた首元のあたりとか、そのもうちょっと向こうとかが薄く、穏やかなリズムで上下しているのが、見えて。れーか、ほんと、ほそっこい。腕の辺り、華奢な肩のかたちがわかる、ということはそれくらい、距離が、ない。
 音を立ててはいけないってわかっているのに、言葉とか空気とか、吐き出したかったたくさんのものたちを無理やりに押し込められたあかねの喉は、ごくりとおおきく動いた。そうして、たたん、と電車がゆるいカーブにさしかかったときのことだ。
 れいかの頭はほんのちょっとだけ、あかねの肩から落っこちそうになった。

「あ、」

 でも、だから、というのですべて済ませてしまえるには、あかねの手は――思わず、れいかのことを支えてしまった手は、すこし、こわばりすぎていて。
 だいてる。考えなきゃよかったって一瞬にして後悔する言葉は、残念だけれどものすごい現実感をもってあかねの頭で瞬いた。かた、だいてる。さっき華奢だと思っていた、かたちがわかる程度のものだったそれが、いまはもうあかねの手の中にあった。かたちがわかる、というのと、それを確かめられる、というのの間には、きっととんでもないくらい大きくて深い溝がある。それをうっかり飛び越したあかねのからだの中は、なんだかもういっそ、静まり返っていた。
 たたん。たたん。たたん。ひどい耳鳴りがしているような頭の中で、ぼんやりと響く電車の音が、静けさを増幅させていく。指先がみっともないほどふるえているのがわかった。もう向かい側の窓なんて見られるわけがない。いまのことを確認してしまいたくない、いや、ちがう、ただ。ただ、目をそらしてしまいたくない、だけだ。一分でも、一秒でも、髪の一筋でも睫の小さなふるえですらも、見逃してしまいたくない、だけ。ぜんぶ、ぜんぶ、見ていたい、だけ。
 息を止めているのは、起こしたくないからとか、静かにしていたいからとかじゃ、なくて。そうやって目の前のことを、ひとつでもとりこぼさないようにって、どうしようもないくらい必死になってる、たったそれだけのことなのかも、しれなかった。

「……っ、ぅ」

 ぴくり、と、変なかっこうでかためられたままだったあかねの手が、れいかの肩に回ったあかねの手が、ついにうごく。
 それは考えてはいけないことだ、とか、それはやっちゃいけないことだ、とか。そんなのが、ひとずつゆっくりと、あかねの頭から、こぼれおちていく。たたん。たたん。なんで、だろう。間近に迫ったテストや、昨日広げたワークブックなんかよりも、ずっとずっとわからない問題が、底からこだまするようにふつりとわきあがる。たたん、たたん、たたん。れいかは目を、覚まさない。なんでだろう、なんで。
 黙ったままなのに、この子はただ静かに寝息を立てているだけなのに、それが耳に届くころにはあかねの頭の隅から隅まで、もしくはからだじゅうのあっちこっちに残っているたくさんのものたちが、いっせいにきらめきだす。あかねさんって、呼びかけられる、たびに。その回数が、増えていくたびに。少しずつ少しずつ、そうやって、きみのことで、からだがいっぱいになっていく。そうしてこういうときにいつでもそいつらはざわめきだして、心をぶるぶるふるえさせる。

『発車します――閉まるドアに――ご注意――ください――』

 見慣れた駅のホームが窓の向こうを通り過ぎていった、気がつけば、あるいはわざと、乗り過ごした。あとどのくらいいけばいいんだろう、あとどのくらいいけば終点なんだろう。
 わかってるってあかねはぎゅっと目を閉じた。手に、このわがままなくせにひどく臆病な手に力をこめるのには、そんなことすらも必要だった。わかってる、きっと。きっと、止まらない。細っこいかたちを包み込んで、そして、ぎゅっと、引き寄せる。夏服の薄い生地の向こう、やわらかな肌に、ほんのすこし沈み込んでしまうほどに。
 そうやって、とまらないくらいの気持ちがあふれてあふれて、だけど一番笑顔を願うってこともうまくできなくて、よくばりになったり、うそをついたり、できそこないだったりする。なんでかな、どうしてかな。

「れー、か」

 なんで、こんなに、きみのこと、好きなのかな。
 肩なんて抱き寄せなきゃよかったのかもしれない、このままどこまででも行けるわけがないから、あかねはなきだしそうになる。