ほしをみた日




 私でないものは、きっと私でないからこそ、純粋に、真摯に、素直に、とてもきれいだ、と、思うことができるのでしょう。

 みゆきさんが漢字の小テストで満点を取ったのは、テストの結果が芳しくなかった、と落ち込んでいたことがまだ記憶に新しい頃のことだった。

「もうほんと、れいかちゃんのおかげだよ!」

 まるでステップでも踏んでいるかのような軽くて楽しい足取りで、なぜか真っ先に私のところへと来てくれたみゆきさんは、やはり彼女特有の、こちらもついつい無意識に口元がゆるんでしまうような強い光を放つ笑顔でそう言った。笑い返す資格が私にあるのだろうか、というところまで思考が及ぶ前にそうさせてしまうから、みゆきさんはすごいのだと思う。
 話を聞くに、これまで本を読むうえでわからなかった漢字とテスト範囲内の漢字を、何度も読んだ記憶を頼りに(こと童話の一節の暗記ということに関して、彼女の右に出る者はそう居ないだろう)関連づけて覚えたらしい。たった一冊でも本がくれる知識は多様だ。みゆきさんは、その使い方を自ら編み出したということになるのだろう。
 だから、特に私がどう、というわけではないのだけれど。

「ううん、れいかちゃんのおかげ! 私だけじゃぜーったい、こんなお勉強の仕方なんて思いつかなかったもん。せっかくたくさん本読んでるんだし、これからはもっといろいろ考えて読みたいなぁ」
「とか言うて、漢字のお勉強のために本読み返して、そんだけ目ぇ泣き腫らしとったらキリないがな。そもそもとして物語楽しみ過ぎや、自分」
「うっ、だ、だっておもしろいんだもん! あかねちゃんだって、この間から英語の授業、突然頑張りだしちゃって」
「へぁ!? な、なんで知ってんねん!」
「そりゃ後ろの席だもーん、あかねちゃんがどの授業でぐーすか寝てるかなんてぜぇんぶ知ってるよ」
「ぐっ……み、みゆきかて普段はぐーぐーひとの後ろで寝息立てよるくせに……」
「まあまあ、二人とも……それよりも、見てこれ! 数学で使う道具をモチーフに、キャラクターを作ってみたのっ」
「て、また斬新なヒーロー生み出しよったなぁ、やよいは……まあでも、そこそこかっこええやん」
「うんうん、三角定規の使い方がいいよねー!」
「ほ、ほんと!? れいかちゃんはどう思うっ!?」
「えっ? あ、はい、とっても素敵だと思います」
「やったー! ようし、じゃああとはこれで数学を楽しくっ……」
「やよいー、わかっとると思うけど、人に教えるためには自分がその三倍は理解しとらなあかんねんでー?」
「わ、わかってるもんっ、だからちゃんとここまでは完璧にしてきたよ!」

 あかねさんに負けじとやよいさんが見せた教科書にはたくさんの書き込みがあって、一見落書きのようにも見えるそれは、だけど絵の得意な彼女が自分で見つけだした、れっきとした理解の方法だった。だってあっという間にあかねさんもみゆきさんもすっかり感心しきりで教科書に見入りはじめているのだ、もしかすると次のテストで彼女たちの数学を救うのは、ちょっと胸を張っているのがかわいらしいこの子なのかもしれない。
 そしてあかねさんのスカートのポケットからは、先日一緒に参考書を見に行った時の単語カードが顔を覗かせていた。とにかく最初からさらえるような参考書を、と頼まれて、私もできるだけの知識を総動員して勉強法から一緒に選んだけれど、どうやら彼女の肌には合ってくれたらしい。といっても、授業中の先生からの質問に初めて正解したときに、明るいウインクをもらえるほどのことをしたとは、やっぱり思えないけれど。
 そう、だって、どうあってもやっぱり、すごいのはみなさんの方で。生かしたいことがあって、やりたいことがあって、そのためにがんばることもできている、みなさんの方で。

「まあ、漢字はこの私に任せてよ、51点だったあかねちゃん!」
「あっ、この、後ろから集めるとき見たなー!? くっそ、ほんならうちの単語カードかて呻りを上げるでぇ……!!」
「だから二人ともやめようってばー。そんなことよりほーら、ここで放たれる角の二等分線キック……!」

「はー、遅くなってごめん、みんな、帰ろっ……て、な、なにやってんの?」

 なおの言うことに誰かがちゃんと答えたわけではないけれど、勉強の話だとすぐに悟ったらしいなおが、くすくす笑いながら、ふっとこちらに向けた目線を照れくさそうにゆるめて、じゃああたしも今度、れいかに歴史を教わってもいいかなあと囁きかけてくれる。私が頷いたのはほとんど反射のようなものだった。それなのになおがあんまり嬉しそうに笑うから。笑うから。頭の、奥が、すこし、くらくらして。
 みんな、みんな、きらきらひかる、まぶしいひとたち。色も、光りかたも、その強さも。違っていて、違っているから、きれい。夜空と似ているのだとゆっくり思う。教室やグラウンドは、あかるい夜空とよく似ている。そこにいるひとたちがいっせいにきらきら輝いて、夢のみちしるべを残していく夜空に似ている。
 ――とてもとおい、とおいところまで、すっかりよく、似ている。



「れいかは、すごいなあ」
「え……」
「うん、れいかはほんとにすごい。みんなのいいとこをあんなふうに探せるなんて、すごいよ」

 もうすぐ日が暮れるねと言うのと同じときの声で、なおはぽんとそう言った。日が暮れたり晩ご飯の匂いが漂ってきたり、そういったものを、中学に上がってからはたくさん感じるようになった、と思う。本当はもっと早いうちに帰り着くこともできるのだろうけれど、みゆきさんたちと別れてなおと二人になるったら、途端に歩くペースが落ちる、らしい。どっちのせいってわけじゃないだろうけどとからかうようにあかねさんが笑っていたのは、もう少しだけ前のことになる。
 ああ、さといものにっころがしのにおいだ。今にもお腹を鳴らしそうな調子でなおは続ける。だから、とても自然な言葉だった、と思い知らされる。なにも変わらないことのように、毎日のあたりまえのように。さっきのなおの言葉は言ってみればそういったものの中のひとつで、だから私は思わず足を止めた。ああ、あかねさんが言ってたこと、間違ってなかった。あまりにも簡単に行進から停止へと変えた足元を見つめそうになりながら、私はぼんやりと、そんなことを、考えて。

「……私は、すごくなんかないわ。すごいとしたら、そういう風に光るところをちゃんと持ってるみなさんのほうだし……私は、なおがせっかくくれた時間の中でも、ほんとにやりたいことは見けられなかったから」
「それは……でも、れいか、もっといろんなことを知って、やりたいことを探したい、って言ってたじゃん。それだって十分、やりたいことの一つなんじゃないの?」
「そう……そうね。今の私は、それが、やりたいこと」

 そう答えた時に私は少し笑えていたようで、だからなおも、安心したように笑ってくれた。もう大丈夫、大丈夫です、私は。
 要は、道を歩く速さが、ひとそれぞれに違うのと同じことなのです。例えば私の足はなおよりも少し小さいわ。例えばやよいさんはあかねさんと歩くときたまに小走りになっているわ。みゆきさんは後ろをくるくる振り返りながら歩くわ。道端に転がっている小石に躓く人もいるし、追い風に乗ってずっとずっと走っていく人もいる。そういうのと、同じことだから。
 だから、私が今さら、他のみんながきっととっくのとうに通り過ぎ去ってしまったようなところで、悩んだり、立ち止まったりしていることは、もう、しかたのないことなのだ。教室の机で、グラウンドの隅で、頭の中までちらちらと弾ける光を見て立ち尽くしてばかりいるのは、考えたって、しかたのないようなことなのだ。

「だから私は、もっともっと、がんばらなくては」
「ん? え、そうなの?」
「ええ。みなさんを見習って、早くいろんなことを知って……早く、やりたいことを見つけたい」

 しかたのないようなことだから、どうしようもないことだから。やらなければいけないことはきちんといつもはっきりしている。歩くスピードが遅いなら、転んで遅れを取ってしまったなら、自分の足でちゃんと立って、走って、追いつくしかない。いつの間にか遠くなってしまった背中に。
 みんながきちんとやれていることを、私もきちんと、足並みをそろえて、できるようにならなければならない。そのために必要なことが私はひとよりも少し多かった、たったそれだけのことだから。わかっています、ちゃんとやります、もう大丈夫、まだ大丈夫、だから。

「……がんばります、私」

 だから、



 家に帰ってからやらなければならないことだってちゃんとはっきりしていた。立ち止まってしまった分を取り戻さなければならない。それはもともと皆さんが毎日してきていることなのだし、私はそもそもとしてこれをやめてしまっては現状何もできることがないのだ。机の前に座って、教科書とノートを開く。今日の復習と明日の予習に昨日と一昨日とその前が付加されただけのことだ。やりたいことを抱えている人の比ではない。
 いや、だから、やらなければいけないことだけしていてはいけないんだっけ。いつも就寝する時間が近づいてきた辺りでやっとそこに思い当たったというのだから、私はやはり歩くのが徹底的に遅い。時計を見るのを少しやめて、今日できる限りのことは今日してしまおう。それってどこまでなのかしらという疑問を消しゴムのかすといっしょに捨ててしまって、新しいノートのページを開く。この透明な匂いが、私は少し好きだった。
 真っ白はきみによく似合うよ。誰が言ったのだかもよくわからないような言葉が頭を掠める。そんなにいい意味ではなかったはずだけれど、良い言葉を贈られるのもなんだかちぐはぐでぶかっこうだ。そんなことより確率の問題を解かないといけない。問題から簡略図を書いて解法をまとめる。この間藤川さんに教えてもらった解法を試してみよう。学年で一番頭がいいと称されるべきはきっと努力家の彼女だった。
 四角い図を書いて、中に、問題通りの数の丸をいくつか並べてみる。十一個。ああ、なんだろう、これ、どこかで見たことがあるわ。

「………?」

 ぼんやり思っていたら、不思議なことが起こり始めた。私がノートの上に書いただけの小さな丸がひくひく動き始めて、ついには走り出してしまったのだ。あれっと思ってうっかり身体から力を抜いたら、一瞬にしてそれは見えなくなってしまった。いえ、そう、私の身長では、背伸びをしていなければ、教室からグラウンドってよく見えないんだもの。窓の桟に必死にしがみついて、私は背伸びをする。
 同じクラスの男の子たちが数人私の後ろを走って行って、一人の腕が背中にぶつかった。私はまたバランスを崩してしまう。足の裏がちょっと痺れてしまった。これは少し考えなければならない。見回すと、先生がいつも立って授業をしてくださる教壇が目に入った。そうだ、あそこから窓を覗こう。お昼休みの教室に残っている四年一組の生徒は殆どいないし、少しくらいはいい、はずだ。

「れいかぁー!」

 そう思って教壇に上がった瞬間、目の前でなにかがぱちぱちっと弾けたような気がした。なおだ。そうだ、なおが見たくて私はずっと背伸びをしていたのだ。清潔すぎて気味悪がられるほどの上履きの下で、まだ足の裏がひりひりしていた。でもそれよりも目のほうがひりひりしていた。たったさっき眩しいものを見てしまったばっかりだったから。それにしてもまさか、教壇に上がったとたんに目が合うなんて。
 なんだかそう考えるとよくわからないくらい嬉しくなって、私は買ってもらったばかりのカーディガンが伸びてしまいそうなくらい、なおに向かって手を振った。ちょっとだけかすめた不安はたったのコンマ二秒で拭い去られる。男子に混ざってサッカーの試合中なのも構わず、なおは飛びあがるくらいに手を振り返してくれた。それだのに彼女は隣をかすめたボールのことを見逃さなかったのだから、驚いたのは敵チームの男の子の方。
 ああ、もうボールしか見えなくなってしまうかしら。カーディガンの袖を手慰みに引っ張りながら私は自分勝手なことを思っていたけれど、やっぱりそう、なおはいつでも、私の不安を吹き飛ばすのが上手なのだ。だって、また振り返ってくれたから。

「れいか、れいか、見てて! あいつら全部抜いてゴール!!」

 言われた私も、それは驚いたけれど、それを言うならなおの周りにいた人たちだって十分腰を抜かしたと思う。ただ腰を抜かすだけでは済まされなかったのが、なおによって随分と大雑把に指差されたゴール前の男の子たちの方。
 このころからなおは誰の前でも物怖じしない子だったけれど、それを良く思う人たちばかりではないことは、私だって知っていた。舐められてたまるものかと躍起になって走り出した敵チームのひとたちが、寄ってたかってなおを囲む。さっきなおが指したよりも多いんじゃないかしらと思ってみてみたら、コートの片側はほとんど空っぽになっていたのだから当然の話だった。
 でもなおは、嘘をつかない子だ。ひとり、またひとり、ときにはふたりいっぺんに、なおはすいすい抜いていく。まだ結ぶにはちょっと短かくて、ちょこんと跳ねているような髪とリボンが、風に舞ってとてもきれい。いつの間にか袖をいじくるのも忘れて、私の両手はしっかりと握り合わさっていた。お祈りのかっこうとよく似ていると、その時の私がきちんと思えたかどうかは、わからない。
 いったん戻ったボールがふうっと蹴り上げられて、鮮やかなジャンプを決めたなおの胸にとんと当たって。目が悪くなっていなかったことをここまで良かったと思ったのなんて初めてで、そのときですら私はまだなおがこっちをちらを見遣ってくれていたような気がしていたのだ。あと一人、抜いた、なおが、どろんこの足を思いきり振り上げる。鋭い音を立てて綺麗な軌跡を描いたボールが、ゴールネットを揺らす。
  やった、すごい、すごい、なお――!

「……あ、」

 叫ぼうか、と、思って、声が出てこないことに、気が付いた。なんでもできるね、というのは。下の方で響く喧騒がこんなに賑やかだったことを今更実感する。力を入れ過ぎて、さっきから震えていた手先の向こうに実感する。なんでもできるね、というのは、できることしか、してこなかったからなのです、きっと。できないことは、してこなかったのです。だから今の私の身体は、それをしないことに決めてしまっている。
 なおはきっと一等星。グラウンドできらきらと駆けまわるたくさんのひかりの中でも、力強く、眩しく光っている恒星。時間と距離を軽々と飛び越して、くらくらするほどの輝きを見せてくれる、一等星。まだふるえが残った指先をそうっと伸ばす。グラウンドに吹いていた風が指先にごうごうぶつかる。手を振ってくれたなお。きらきらしている、眩しい星みたいな、なお。私の手はぴたりと止まる。できないことは、しない。
 だって星に手を伸ばしたって、届くわけがない、のに――。

「……う、ん?」
「あ、れいか……目、さめた?」

 届くわけがなかった、のに、どうして私の手は今、こんなにあたたかいのだろう、とても不思議なことだと思った。



「がんばりすぎ。」

 ふしぎ図書館を使ってここまでやってきたのだというなおは、思わず声を上げてしまいそうになった私の口にとんと指先を当てると、困ったように笑いながらそう言った。見てみれば家中の電気はもう消えてしまっていて、時計を見たらさすがにあまり見たことのない時間だった。
 じゃあ、なおはどうしてこんな時間に、こんなところに居るのだろう。聞いてみようとしたけれど、見上げた途端に私はなんだかまた口をつぐんでしまった。これもできないからだったのだろうか、どうだろう。でもなおはきっと答えてくれない。ただの勘だけど、はっきりとそう思った。
 そうなると私の視線は少し行き場がなくなってしまって、なんとなく見遣った机の上では、あれからいくらも進んでいない問題とほとんど白いままのノートが鎮座していた。

「ねえれいか、少し外に出よう。上着、貸してあげるから」
「え? で、でももう、こんな時間で……っ、わ、ぅ」

 頭からすっぽり被せられたのは、草色の、私には少し大きいパーカー。まだ夜はちょっと寒いからねと笑って、私はつまり、ノートを見てため息をつくことも、なおについての心配も、そうやって全部包み込まれてしまったのだ。いつもの青い寝間着の上に羽織らされたそれで手まですっぽり隠された私は、口元に手を当てることも、そうしていつものくせで考え込むこともできずに、ただなおに袖を引かれた。
 外と言ってもなおが言っていたのはうちの庭に出ようということだったみたいで、縁側に腰掛けたなおが、目で隣を促してくる。ここはれいかの家なんだから、あたしが言うのもおかしいけど。そんななおがゆっくりと足をぶらつかせている様子は、なんとなく私の中で時間を飛び越させた。もっとも昔はもっと元気にぱたぱたしていたはずだったけれど。
 しかし、私がなおと手のひら二つ分の距離を空けて、正座のままでじいっとそんなことを考えられていたのは、ただそのときまでのことだったのだ。

「さて、れいか! えいっ」
「ひゃっ……え、な、なん、なんです、かっ?」
「んー、なにってほどのことでもないけど。それより、あんま声上げたら、家の人が起きちゃうよ?」
「……っそ、れを、使うのは、ずるいです、なお……」
「あはは、ばれた?」

 でも離してあげない。理不尽なくらい耳元で囁かれたそれに、私は結局身を固めるしかなくなってしまう。いや、遅かれ早かれ私はそうなるしかなかったのだ、というおおむねなんの役にも立たない言い訳だけが、一気に熱の集まった頭に浮かんだ。でも残念ながら正しくはある。たとえばこういうふうに、背中にぴったりくっつかれたりなどしたら、私はどっちにしたって、縮こまるくらいしか思いつかないのだから。
 とくり。とくり。丸めた背中の向こうから伝わってくる音なのか、自分の中でどんどん大きくなっている音なのか、よくわからないけど、響いている。なおのしなやかな両足がほとんど私を挟むような恰好で投げ出されていて、有り体に言うと逃げ場がなかった。そしてなおは極め付けに、よいしょ、と随分かるい一言ののちに、もう少しだけ距離を詰める。もう指先一本分もなかったようなのに、まだくっつけるとは、我ながら驚きだった。やはり私が知らないことなど、本当にたくさんあるのだ。
 だからこれも、知らなかった。いつもそうなのだ――ひとの手の温かさを、私はいったい何度、なおに教えてもらうことになるのだろう。

「……え、と。なお?」
「うんー?」
「あの……なに、を?」
「撫でてる。」

 撫でて、ああ、はい、えっと、そうですね、百点満点の回答です。でもそうではなくて、そういうのが欲しかったわけでは、なくて。
 しかしそうやって私がうっと喉を詰まらせている間にも、なおの手のひらはくしゃくしゃと私の頭の上を何往復もしていく。やわらかな指が髪を梳いて、流れ落ちるのがわかる。毛先までこんなに神経が通っていたとは驚きです。撫でられているだけ、なのに、何も言えなくなってしまうのも、驚き、です。
 言った通りに、なおはそれだけしかしなかった。夏を待てない虫が小さく鳴いているのをこっそり聞くように、長い睫の向こうに爛々と輝く瞳を隠したまま、なおは私の頭をずっと、ずっと、撫で続けた。私の耳元で、優しい呼吸の音を響かせながら。パーカーのフードの下がびっくりするくらい熱くなっても、そのうち縮こまっていた両肩がゆっくりと解けて、なおの腕にぴったりと吸い付いても。

「………っ、」

 なお、は、きっと。あたたかすぎる体温から逃げるように膝を抱えた。それでもなおは、私の頭を撫でるのをやめない。何にも言わないまま、優しくふれてくるのをやめない。
 なおは、きっと、ひとにふれてあげる、ということが、どれほど大切なのかを、本当に良く、知っているひとで。なおの弟や妹が彼女に頭を撫でられて嬉しそうにしているのを、傍らから見ているだけでは、きっと想像もつかないほど。これは力強くて、そしてきっととても大切な行為。
 手のひらから、しんしんとしみわたる温度から、何かをゆっくりと伝える、とてもすてきな方法。

「れいかは、ばかだなあ」

 夕飯の匂いを思い出すように、なおは言った。膝を抱えた私を、それごと全部ぎゅっと包み込んで、頭をとん、とん、と一定のリズムで、小さな子どもを寝かしつける時のように優しくたたいて、そう言った。
 気が付けば目を閉じていたのは私の方。まぶたがふるふる震えているのが自分でもわかる。そうやってでもいないと、力を抜いてしまいそうだった。だってもう、あんなに力を入れて、優しすぎる温度から逃げ出していたはずの身体は、気が付けばすっかりゆるんでしまっていたから。
 だって、でも、ちがう、のに。もっと頑張らないことが私にはたくさんたくさんあって、胸を張って大好きな皆さんと一緒に歩きたいのだったら、それ相応の努力を支払わないといけないのは当然のことで、どうしようもないくらい、当然のことで。
 頑張らないといけなくて、頑張らないといけなくて、がんばるから、だから――だから、わたしを、おいて、いかない、で――。

「ばかだなあ」
「っ、なお……ひゃ、あ、ち、ちょっと、ぐしゃぐしゃに、なりますっ」
「ぐしゃぐしゃに、してるの。うりうりっ」
「うう、な、なおぉ……」

「ばかだなあ。他の人のことはあんなにちゃんと見てあげられるのに、れいか、どうして自分のことは、ちゃんと見てあげないの」

 両手を使って、髪やら頭やら、もうぐしゃぐしゃに、おなかいっぱいになるくらい、撫でまわしてくれたなおは、そう言って、笑って。
 大丈夫って、こんなに優しい言葉だったのかしら。頭の中で改めて響いたそれを、なんだかとてもふわふわした気持ちで聞くことができた。大丈夫、大丈夫、もう、大丈夫。ああ、そうか、と思う。それが、私の声で響かないからなのだ。私の、追詰めるような、切りつけるような声ではなく。

「だいじょーぶだよ、れいか」

 きみのいいところならぜんぶ知ってるって、笑ってくれるあなたが、そのあたたかな手のひらで、私に向かってぎゅうっと云うから。



「ねえれいか、あれ、あれなんていうの?」
「あれは……北極星ね。こぐま座のポラリス、ともいうんです。昔の旅人は、みんなあの星を見て、道しるべにしたそうですよ」
「へえ! じゃ、れいかみたいな星だ」
「えっ、わ、私ですか?」
「うん。」

 少し苦しいくらい抱きしめられながら、星を見た。
 背中に温度を感じながら、なおと二人で、たくさん、たくさん、星を見た。

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