まいごの話




 類は友を呼ぶなんてかなしいことを言い出したのは、いったいどこのどいつだ。

 学校の水道、特に外にある水道に温度調節のための機能がついているはずもなく、そうなると真夏はどんなにうだるような暑さでも生温い水しか出してくれないし、冬は冬で心臓のひとつも止まってしまいそうな冷水が出てくるのだ。まあ、どんなに寒かろうが散々走り回った練習直後に頭からひっかぶるなら冷たい水が一番だけど。
 でもその冷水のしんとした冷たさもわずかに鋭さ失くし始めているので、これは春が近いって証拠なのかもしれない。春。というと、もうあたしがこの学校に通うようになって一年が過ぎるということだ。顔を上げなくても、目を閉じたままでも位置がわかるようになった蛇口を捻って水を止めながら、髪からぼたぼた落ちる水滴を軽く振り払う。ええっと、タオルは――。

「……あ、もしかして」
「向こうに置いてきたんじゃないですか、なお?」
「わっ!?」

 突然かかった声、と、ふわり、涼やかなにおい。そんなにびっくりしなくても。凛とした声、ふふふと笑って、空気がくすぐったく揺れる。頭の中がふっとぶと、真っ白になると、そういうふうに、自分の感じたことだけストレートに考えだすんだ。たぶん、あたしの、悪い癖。だからそのときもそうだった。
 でも飛び上がるほどびっくりしたのだって、冷水で動きをある程度鈍くしていたはずの心臓が信じられないくらい元気になったのだって、原因は頭がちっとも働かなくたってわかるようなことで。顔に優しく押し当てられたあたたかい水色のタオルをちょっと下げれば、目に飛び込んでくるような、ことで。つまりあたしの幼馴染が、いつもの真っ直ぐな立ち姿で、そこにはいたのだ。
 いいタイミングでしたね、私。あ、という間もなくあたしの手から零れたタオルのはしっこを握ったれいかは、あたしの額やら耳のあたりやらに残っていた水滴を拭き取って、風邪を引かないようにしてくださいねと付け足した。そういう常套句でもれいかの喉を通ると、不思議ななにかを、帯びてしまうもので。だからあたしは常套句らしい返事をすることもできず、かっくりとひとつきり頷いたのだ。
 それよりほそっこい指先ひとつひとつの感触が、額と頬のあたり妙に残ってしまっているのは、彼女の手つきがやっぱり丁寧だったからなのか、それとも。

「え、と。どうしたのさ、れいか? こんな時間にグランドにいるなんて、珍しい」

 これ以上頭をまっさらのままにしておくのは本当に良くない。そう思い直して、たったさっき冷やしたばかりなのに熱暴走気味な頬をぱしんとはたく勢いで、あたしはどうにか口を開いた。タオルからふわふわ香ってくる、おぼえのある、ありすぎる匂いから逃げるためにほとんど息継ぎをしなかったので、随分早口になってしまったけれど。
 すると幼馴染というのはこういうときめんどうなもので、なんだかあたしが妙に慌てているということだけばっちり伝わってしまったらしいれいかはくすくす笑っていて、でもそれ以上は聞かないでいてくれた。とてもありがたいことだと思った。春を先延ばしにしようと吹き付ける風が、身体の表面をさっと冷やす。

「生徒会の仕事、あるんじゃないの?」
「ええ、まあ……そう、なんですけど」

 れいかが生徒会副会長の座に着くのはこれからもう少し後の話で、それでも彼女は一年生の初めから執行部に所属してはいた。しかもすでに有能さを発揮しつつあったので、放課後は弓道部か生徒会のどちらかに引っ張りだこで、つまり小学校の時と比べたら話す時間がぐっと減ったのだって、そんな話をしているわけじゃ、ないんだけど。
 そういえば二人きりでまともに顔を合わせて話すのはどれくらいぶりだったろうか。そんなことを考えている場合ではないのに、まだ止まない冷たい風が揺らすれいかの、青みがかった長い髪を見ていると、さらさらと巻き上がるそれを見ていると、海か何かに飲み込まれていくような気分になるのだ。つめたい流れの中に飲み込まれているような気分に、なるのだ。
 そうなんですけどね。一瞬風がやんで、髪が流れ落ちると、その向こうから現れたれいかは困ったような、でも笑っているような、あいまいな顔を浮かべていた。あたしたちはもう完全な子どもではないから、いつも隣にいられたころのあたしたちのままではないから、単純に割り切れるような表情を、もう浮かべられないのだ。

「今ちょっと、その、戻りにくくって」
「戻りにくい、って」
「いえ、きっと私が悪いんです。たぶん、そうなんです……ねえ、なお」

 浮かべたくないような顔で笑うようになって、気づきたくなかったことに気づいてしまって。

「わからないんです、"すき"って、どうやって受け取ったら、よかったんでしょう」

 わからないことを、わかりたくなかったようなことを、すこしずつわかって。
 あたしたちは、おとなになっていくのだ。


「そういえばすごいことになっとったもんなあ、バレンタインデー。で今度はホワイトデーか。あんたら二人仲良く、よーやるで」
「いや、あたしたちの方は別になんかやってるってわけじゃないし……だいいち性別が違うだろ、性別が」
「せやから余計目立っとるんと違うの。あんたは女の子担当、れいかは男の子担当、ほんで二人並んでビューティーペア言うて」
「なにそれ、言われたことないんだけど」
「そりゃ本人の前では言わんわ。女番長は怖いしなー」
「だからその番長って言うのやめてよ……そんなつもりないんだって、こっちは」
「でも、実際れいかにまとわりついとった虫、一睨みで追い払っとったんはあんたなんやろ? 噂ならよぉ聞くで」

 そんな昔の、しかもしてほしくないタイプの話を、と言い返してやろうかと思ったが、雑草をぶちぶちと手慰みに抜いているあかねの横顔を見ると、なんだかそんな気がなくなってしまった。口はいつも元気で、でもこの子の場合、どうもそれだけってことが多いのだ。口は元気、でもそれだけ。
 だいたいがとこそういう、誰にも会いたくない時に会ってしまうらしいあたしたちは、その日も二人並んでどういうわけか河川敷に座っていた。仕方ないじゃないか、会ってしまう時間帯に還ってるんだから。そんな言い訳をあたしが思い浮かべるよりも早く、風に削られてしまいそうな横顔で、あかねはあんたも苦労するな、と続けた。

「にしても、どうやって受け取ったら、ね。れいからしいわ、生真面目ちゅうか、誠実ちゅうか……そんなん、何十個て渡されるうちの一個やろ?」
「そりゃ……そういう子だしね、あの子は」
「……うちにノロケんのはやめてくれへん?」
「なっ、そ、そういうのじゃないって、今のは!」

 でもほんとに、そういう子なのだ、れいかは。いつだって、何にだって、精一杯真摯に向かい合っている。だからこそ、わからないものには、わからない、と言う。
 今回もそうだったのだろう。何十個と渡されるうちの好意の一つ、言ってみればそうなのに、れいかにとってはそのひとつひとつだって、ちゃんと大切にしなければならない、自分に向けられた気持なのだ。そしてれいかは考えて、悩む。困る。あいまいな笑顔を浮かべてしまうほどに、ゆらぐ。
 ああいう顔――は、でも、あんまり、浮かべさせたいものじゃ、ないよ、やっぱり。

「わからないって、困るかな」
「……なお」
「困る……ん、だろうなあ、きっと」

 どうせならわからないほうがよかったのに、わからないなら無視もできたかもしれないのに、幼馴染というのは、ほんとうに、めんどうなもので。
 鞄の中から覗くのは、水色のタオル。でもタオルっていうよりも今は包みって様相を呈していて、それは多分あたしの言い訳のかたちだった。タオルを返すついでに、みたいなさ。妙に膨らんでいるタオルを気になったれいかがそっと開いてみたら、中にはクッキーの袋が入っていて。
 そしたらあの子はきっとなお、っていつも柔らかな目元をくっとまるくしてびっくりするのだ、でもまたすぐに笑ってくれて、ありがとうって言ってくれるから、なんでもないみたいに、言ってくれるから。だからあたしの方も、貰ったからお返しねって、なんでもないみたいな顔をして、笑い返して。

「じゃあ、渡せるわけ、ないじゃんね」
「……そーか」

 でも、その時の笑顔はきっとあのあいまいな顔とよく似てしまうのだろうと、ざんこくなほどにわかっていたから、あたしは、できなかったのだ。できなかった。だってなんでもないってことにはできそうになかったんだ。あたしはきっと言ってしまう。言ってはいけないことを、言ってしまう。れいかを、困らせてしまう。わかってる。
 だからできなくて、できなかったから、あのあとそれでも行かないと、なおのおかげで少し勇気が出ました、と強がって行ったれいかの背中を見送って。それが戻ってくるまで玄関で待っていたあたしは、ただお疲れ様、とだけ言って、帰っていくれいかに、さよならも上手に言えずにいたのだ。
 もっと練習しないといけないのだなあ、と思う。さよならの練習を、しないといけないのだ。きっとこれからその言葉を上手に遣わなくちゃいけないときが、たくさんくるから。たとえばあの、なにもしらなくていとおしい幼馴染の前で、とか。

「んっ……え、なに、この匂い?」
「あ? あー……やっぱわかるか、ソースの匂い」
「ソース? 使ったの?」
「アホ、なんでマフィンにソースが登場せなあかんの。しゃあないやろー、うちはお好み焼き屋やから、なんやかんやソースの匂いついて回るんや」

 おかげでこいつにもな、と言ってあかねが取り出したのは薄い黄色の袋も可愛い包みで、よくよく嗅いでみれば香ばしい匂いの中に、甘そうなのが顔をのぞかせていた。ただ惜しむらくは包みがもうだいぶくしゃくしゃになってしまっていて、思うに原因は、あかねの中身が粗雑に突っ込まれた鞄の中で、長いこともまれたことなんだろう。
 ほんとは長いこともまれるつもりじゃなかったんだ、多分そうだろ。聞いちゃいけないことはさっきのあかねと同じく草をぶちぶち抜くことで紛らわして消してしまって。今の、夕焼けが終わってしまいそうな空の色は、あかねの瞳とよく似てる。なんとなく、そんなことを考える。

「やよいはな、男の子が怖いんやて」
「ああ……うん」
「結構人気やのに、怖いからこういう行事も嫌いって、屋上とかにすぐ逃げよって」
「そういえば今日は、授業以外だとあんまり見かけてない気がするね」
「せや、ほんま難儀なやっちゃ……おかげで、こっちまで困るわ」

 そりゃまあ、屋上っていったら、二人っきりだしね。そういうことから逃げ出しているのはあかねの方だけれど、ほんとうのことを話せないのはこっちの方だけど、あかねはあいつがあいつがとぶつぶつ文句を言いながら膝を抱えていた。手元では包みが揺れている。あかねらしくないくらい可愛いラッピングだった。こんなくるくるのリボンなんて、いったいどんな顔して買いに行ったんだろう。
 というと隣のあかねがいい加減真っ赤な顔して怒り出しそうだったので、あたしはとりあえずそこについて突っ込むのはやめて、包みをためつすがめつしているあかねの手から、ひょいと取り上げた。あかねは抵抗しないし、取り返そうともしなかった。ただ、あ、とだけ呟いた。すごくからっぽな声で。
 ただそれっきりで、あたしが包みを開けて、上手に焼けているそれを一口で齧って指先についた分までしっかり舐め取っても、あかねはぽかんとしたままで。

「ん。うまい」
「え? あ、ああ、おおきに」
「ほんと、うまいよ……もったいないくらい、だね」

 ――引き金だった、らしい、それが。
 正直に言おう、すごくびっくりした。だってひっ、なんて変な声が隣からしたから、何事かと思ってちょっとそっちを見ただけなのに、さっきまであんなにからっぽの顔してたあかねが、今度は何が詰まってるんだかわからないくらいいっぱいいっぱいくしゃくしゃにして、ぼろぼろ泣いてるんだもの。

「えっ、い、いや、なに、どしたの急に、あかね」
「ぅ、っぐ、るさいっ、い、いろいろ、溢れとんの……ああ、もうっ!」

 思うに今度からっぽな顔をしていたのはあたしの方だったと思う。いや、だって、どんな顔していいかなんて、わかるもんか。なんてあたしが一人でおろおろしている間にもあかねの頬はどんどん濡れていって、どんどんでかい粒が零れては沈みかけの夕陽をきらっと反射して、あたしはなんだかそれが、ほんのちょっと、眩しくって。
 眩しいなあなんて思っていたらあかねの手はばっと伸びていたのだ、掴んでいたのは、水色のタオル。もとい、あたしの作ったクッキーだった。タオルを取り払って肩にひっかけたあかねは、即座に包みも開く。迷子の贈り物が、思いっきり鼻を啜ったあげくに開かれたあかねの大口のなかに、ぼりんぼりんと消えていく。
 そんなに固く焼いたつもりはないのに、多分に食べ方のせいで、随分と思い切りのいい音だった。何かをほんの一瞬でも振り払ってしまえるくらいには、思い切りのいい音だった。

「……ふまい」
「えっ?」
「っ、アホ、せやから、うまいって! めっちゃうまいわ、このアホぉ!」
「ちょっと、あんまりアホアホ言うなって、バカ!」
「あっバカって言うた、今バカって言うたな!? この泣き虫が!!」
「はあ!? 泣き虫って、それ、どっちが……っ」

 どっちが、って、どっちもだったんだね、知らなかった。頬がこんなに冷たかったことも、知らなかった。ああこれも気づきたくなかったことのうちのひとつだな。ひとつ。気づきたくなかったいちばんのことを突きつけられてあたしは、立ち尽くしていた。昨日までと今日からと同じように並んで立てるはずだったあの子の隣を遠くに見ながら、あたしは立ち尽くしていた。でもそうやって考えだすころはいつだって手遅れなのだ。俯いたってもう逃げられない。
 手を伸ばしたのも、もうどっちからだかわかんなかった。寒かったのだと思う。気がつけば日はもう落ちてしまっていたし、そうでないものをとってみても、あたしたちは二人ともあとちょっとでこごえてしまいそうなところまできていた。肩をとん、と一回きり叩くと、あかねの両手はあたしの背中を随分乱暴に引き寄せた。なまぬるくって心地よい温度が、触れ合った部分から染み込んでくる。
 でも泣き止むのはあたしの方がずっと速かったと思う。というよりあたしが涙を流せたのは一粒っきりだったのだ。そういうときは、ほんの少し――ほんとはいつも、けっこう、あかねのことが羨ましくなる。ひっ、ひっと一定のリズムで震える背中をとんとん叩きながら、あたしはぼんやりと、あかねの肩に、淡い水色のタオルが引っかかったままのそこに、顔を埋めて。

「なお、なあ」
「うん」
「さむい」
「ん、」

 れいかの匂いだなあ、なんてたぶんさいていなことを考えながら、あったかいからだを引き寄せた。

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