どしゃぶりの日




 今日がただの雨じゃなくて季節外れの奇跡的な雪だったなら、わたしはスノーマンにくらい、なれたかもしれないのに。

 教室の中には雨の音だけがしんしんと降り積もっていた。電気がついていないせいもあるのか、ずっしりと重い空気が漂っている。でもこういうのは、そこまで嫌いじゃないなあ、と思った。雨の日それ自体は好きではないけれど。女の子はみんな雨の日の湿気と髪の具合と戦うものだと思うけれど、わたしの場合その戦いが少し激しいので。
 それから、こんな日は全然、筆がのらないから。机の上で開きっぱなしの画用紙は、水気を吸ってごわごわしてしまっている。その上では八角形の鉛筆が、わたしの指先でころころと弄ばれているだけ。白紙だった。机に座ってからどれくらい経っていたかは、よく、わからない。これまでも、あんまり、わかっていなかった。
 だってそれは別にわからなくてもいいようなことでしかなかったのだ。少しずつ勢いを増してきた、窓を叩く雨粒を見つめながら、わたしはそうだよ、とひとりごちる。わたしがどのくらいの間ここにいたとかは、わたしにとっても、そしておそらくはほかのなにもかもにとっても、どうでもいいようなことなのだ。
 ばちばち、ぴしゃぴしゃ。雨はどんどん強くなる。途中で出会った雨粒が、ちょうどハートを一瞬だけ象って、すぐ流れていく。流れていくと、濡れた硝子面を滑り落ちていくだけで、なんにもなくなる。たぶん、だいたいこんな感じなんだろう、わたし。なんにもない。だれでもない。そんな感じ。
 中学一年生になったからといって、引っ込み思案や泣き虫や人見知りという、およそ人に向かい合うにつけ上手にできないレッテルのすべてがきれいさっぱり剥がれてくれる、なんてことはあるはずもなく、だから自然流れとして、入学から二か月経った時点でわたしは、誰にとっても何にとっても、だれでもないしなにでもなかった。そこにいたりいなかったりする、見つけられたり見つけられなかったりする、それだけ。
 でもべつに、それでもいいなあ、と思う。拒絶されているわけではないのだから――拒絶があるなら、それはそれでなにかしらの関心が向いている、ってことだもの――どこにもいられない、というわけでも、ないのだし。どこにでもいられるなら、いいかな。こういうのなんていうんだっけ、わたしにはちょうどいい、っていうの。ああ、そうだ、分相応。そんな感じ。
 ただ、その小難しい言葉をわたしに教えてくれたあのひとは、黄瀬さんにはもっとたのしい、もっとすてきな場所が、自分だけの居場所があるはずですよ、なんて、とびきりきれいな笑顔で、言ってくれたのだけれど。
「青木さんって、いいひと」
 自然に呟けたのは本当にそう思っているからで、じゃあどうして喉がちくちくしたのか、喉の奥の方、もっとなんだか深いところがひりひり痛んだのか、わたしにはとうてい、わかるようなことではなかった。そうであったし、たぶん、わかりたくもなかったんだ、と思う。
 慣れ親しんでもいないクラスで、雰囲気だけでクラス委員長に選ばれてしまうような青木さんは、全員に分け隔てなく優しかった。だから青木さんは、わたしにもちゃんと声を掛けてくれる。あのひとにとっては、同じクラスのみんな、というだけで、話しかけたり気に掛けたりするのは当然のこと、というふうになってしまうのだろう。すごいひとだ、と思う。
 そして――すごいひとの隣には、必ず、すごいひとが、並ぶものなのだ。
「……あめ、きらい」
 嘘、髪がまとまらないとか、絵が描けないとか、そういうの、ほんとの理由なんかじゃない。真っ白な画用紙の上にずるずると突っ伏する。肘をぎゅっと掴む。小さくなると少しだけ安心するのだ。何を不安になっているの、なんて質問だったらいつも頭の中で鳴ってるけど、答えが出たことはあんまりない。
 嘘、ほんとは。ほんとに雨の日が嫌いなのは、だって雨の日だったら、ここからベストに一番よく見えるグラウンドには、もちろんのこと誰も居ないから、だから。
「みどりかわ、さん」
 わたしがまともにきみを目にうつせる瞬間なんて、ともすれば学校にいる半日の間で、このときくらいしかないという、のに。
 きっと神様なんていないんだ。いたとしたって性格最低。深いところのひりひりがもっと強くなる。焼け付くように強くなる。青木さんの笑顔は雪みたい。真っ白で、澄んでて、とてもきれい。だから絶対に見返せない。わたしの頬はかあっと熱くなる。なんだか良く解らないけれど、その場から、このひとから走って逃げだしたいような気持で、熱くなる。

 ――そうね、たとえば、そう、なおとお話、してみたらどうかしら。あの子、とってもいい子よ。

 私が保障するから、だなんて、やっぱりきれいな笑顔であのひとはわたしにこんなことすら言ってしまえるのだ、などと考えるわたしは、たぶんその最低な神様より、もっと最低だった。


「あれ、黄瀬さん?」
「ひゃぁうっ!?」
「うわっ! ご、ごめん、びっくりさせた?」
「みっ、み、みみ、み、緑川、さん……」
「黄瀬さん、多い、多い、みがすっごい多い、あはは」
 最悪のことはたいてい最低のタイミングでやってくるもので、困ったような、でもちょっと面白そうな顔で笑うきみの頬は、練習上がりたてだからなのか、紅潮していて。というところまで確認したあたりで、わたしはさっきの発言はどこへやら、しっかり顔、見返してるじゃないか、ってことに気がつくのだ。
 ばかばか、なに、やってるんだろ、わたし。青木さんの前に居る時とはまた全然違う、くすぐったいような、消えてしまいたくなるようななにかで、頬が赤くなるのがわかる。雨でいつの間にか体温が下がっていたのか、その熱は随分と真摯に感じられて、よけいにくらくらした。
 そうだというのに緑川さんときたら、まだ残ってたんだね、なんて優しく笑いながらこちらに近づいてきてしまうものだから、わたしはちょうど磁石の反発そのままに後ずさることになった。うそ、ちがうのに、そんなつもりじゃないのに。こときみの前では、わたしの身体は、わたしのものなんかでは全然、なくなってしまって。
「え、ええっと……あのね、ごめん、ほら、あたし乱暴に見えるかもしれないけど、なんていうか、取って食ったりは、しないよ?」
「し、しないよ、緑川さんはそんなこと、しないもん!」
「えっ!? あ、う、うん、まあ、しない、しないです、ありがとう?」
「あ……う、うう、ご、ごめんなさい……」
「いや別に、謝るようなことでも……?」
 ないのかなあ、と言われたらわたしまで自信がなくなってきてしまって、気がつけば二人で頭を抱えていた。おかしかったと思う、それはもうとっても。だって先にはっと我に返ったような顔をした緑川さんは、すぐにふっと勢いよく吹き出して、雨の音なんて吹き飛ばしてしまうような笑い声を、立てたんだから。
「あはははっ、はは! き、黄瀬さんてっ……はは、なんか、すごい、面白い子なんだね?」
「う、ぇ、そ、そうかなぁ……」
 おもしろいこ。だれでもないわたしは多分そういうものですらないと思うんだけれど。でも、目のはしをちょっと拭った緑川さんは、面白いよ、黄瀬さんは面白い、と繰り返し言った。きみの、その声で、そうやって何度も言うことが、どれほどわたしに大きなものを植え付けるか、きっと知りもしないのに。
「ああ、そうそう。や、あたし元々、黄瀬さんを探してたんだっけ」
「えっ、わたしを? な、なんで?」
 ひとしきり笑った緑川さんは、うん、と言って机の天板に腰掛けて、徐にポニーテールを解いた。雨の日は髪がねえ、どうしても。呟きの内容と考えていたことが被ったからと言って、だからどうしたという話なのだけれど、ともあれわたしの心臓は跳ねてしまう。しかもきみときたらそういう仕草がひとつひとつ妙に絵になるのだから、ずるい。ほんとに、ずるいよ。
「この天気になっちゃったから、今日は体育館だったんだけどさ。終わった後下駄箱通りがかったら、傘立てに誰の傘も残ってなくて。でも黄瀬さんの靴はあっただろ?」
「う、ん……?」
「うん。だから、もしかして傘がなくて困ってないかなー、って思って」
 照れるでもなく、口ごもるでもなく。緑川さんはそう言った。よしできた、なんて、ポニーテールをぴんと後ろに弾きながら。いとも、なんでもないことのように。
「あ。あれ、ごめん、あたしも今言いながら思ったんだけどさ、黄瀬さんって朝は傘、持ってきてたよね?」
「へっ、あ、う、うん、持ってきてたけど……な、なんで知ってるの?」
「あー……うーん、あたし、見えないかもしれないけどさ。かわいいものとか、結構好きで」
 すきで。
 たった三文字の持つ暴力的な衝撃に、そのときのわたしは立ち尽くしていて、
「黄瀬さんの傘って、なんかすごいかわいいなーって、思ってたんだ」
 ちょっと首をすくめて、はにかむように笑う緑川さんのほうがずっとずっとかわいいって、即座に言い返せたりなんて、できるはずもなかったのだ。
 できるはずもなかったけど、できなかったこと、こんなに後悔したの、初めてだったんだよ、緑川さん。できなかったこと、できなかったままでほったらかして、まあ、いいや、なんて言ってきた、だれにも、なににもなれずにいたわたしは。
「に、しても! となると、誰かが盗ったってことになるね。まったく、許しちゃおけない!」
「えっ、い、いいよ……あれ、そんなに高いものじゃ、なかったし」
「だめ。黄瀬さんが良くっても、あたしがだめだ。必ず取り返すし、ちゃんと黄瀬さんの目の前で、謝ってもらう。それが筋ってもんだろ!」
 わたしなんかのために、ぱしんとこぶしを打ち付けたきみにとってのなにかに、なってみたいだなんて。そんな、ことを、
「明日……いや、今日だな、今日れいかに相談してみるよ。頼りになる子だからね、きっと力になってくれる」
 ――そんなことを、分不相応にも、思ってしまいました、ごめんなさい。

「うーん。じゃ、黄瀬さん、あたしの傘に入っていきなよ……と、言いたいところ、なんだけど」
「えっ、あ、う、うん?」
「こんな時に限ってあたし、間違って妹の持ってきちゃってるんだよね……向こうは困らないと思うけど、こっちは、サイズがちょっとなぁ……あっ、そうだ!」
 そのまま下駄箱までぶらぶらと歩きながら思案顔だった緑川さんは、確かにふたり入るには小さそうに見える傘を弄びながら、ぴんとひらめいたような顔でわたしの方を振り向いた。緑川さんはひとに話すとき、少し近寄る癖がある――たぶん、いつもひとに対して真面目に向き合っている証拠なのだろう――ので、そうなるとなんだか、だめだった。わたしはだめだった。
 だってこんなに近くで話をすることなんて、いまのいままで、あるはずもなかったのに。
「そうだよ、この傘を黄瀬さんが持って帰ればいいよ! 一人分しか入れないなら、一人だけ入ればいいんだ!」
「で、でも……そしたら緑川さんは、どうするの?」
「あたし? ああ、あたしは……えーっと……」
 あ、考えてなかった顔、してる。
「……そう! あたしはほら、走るの得意だし。それでだーっと、ね?」
「だっ、だめ、ぜったいだめ! それだけはぜったいだめ、だめったらだめ!!」
「黄瀬さんに今までにないくらい勢いよく否定された……ええ、いいアイディアだと思うんだけどなぁ……」
 よりによってとんでもないことを、この豪雨と言っても差支えなさそうなお天気の下で言う緑川さんは、わたしの思った以上に向う見ずなところがあって。でも、それをぐんぐん上回る勢いで、なんだか、どうしようもないくらい、すごいひと、で。
「だって、この傘ってもともと、緑川さんのでしょ? そ、それをわたしだけが使うのは……すっ、筋が、通ってないよ!」
「うっ、そう言われると……うーん、わかった! じゃあ、一緒に入ろう。でも、家までは送るから。ね?」
「え、あ、う、うん、ありがとう……」
「ううん――じゃあ、行こうか、黄瀬さん」
 小さめの傘は、どうしたってきみと距離を取ることを、許してくれなくって。こどもっぽい柄に緑川さんは苦笑していたけれど、わたしはその微かな吐息の動きですら感じられるような距離にあっては、触れ合った左腕や肩やそのさきざきからすべてしびれていくような気持ちでいたわたしは、とっても、なにか言えるような状態では、なくて。
 それならとっとと歩いてとにかく素早くわたしの家に着くべきであったのに、ちっとも上手に歩けないわたしは、でもどこかでそれに感謝しているようでもあって、とにかくぐるぐるだった。矛盾していたりごちゃごちゃしていたり、若しくは上がりに上がった熱のせいで結局何も考えられていなかったりして、とにかくもう、めちゃくちゃだった。
 めちゃくちゃで、めちゃくちゃになるくらい、きみで、きみで、いっぱいだった。
「黄瀬さん、」
「っ、あ、」

「濡れるよ?」

 みみもとで囁くなんてずるいよずるいよ、わたしのこころは一気に熱を上げて、どうしようもなく強い想いの始まりを告げた。
 土砂降りの中で、それがあっという間に冷えるしかないことなんて、わかっていたはずなのに。


 確かに恋だったなんて思いたくない、だって、きみには!

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