おまじないの日




 いたくないよって笑うのと、いたいいたいって泣きだすのと、どっちの方が正しいかって、そんな話をしたいわけじゃあ、ないんだよ。

「……びっくりした」

「うん?」

「すごく、びっくりしたの」


 それは生徒会主催の白雪姫の朗読会がなんとか終了した放課後の、帰り道のことだった。
 ぽつりと独り言のように繰り返しそう呟いたれいかは、かばんの紐を握っていた両手をきゅっと軽く握りしめていた。れいかの中で揺れる戸惑いがふるえになって、細っこい指先にあらわれている。なおはそれを横目で見つめながら、当たって欲しくない予感ほどこういうふうに当たってしまうのだなと息をつきたくなったのを、頭の後ろで手を組んでごまかした。

「プリキュアのこと?」

 ちがうって知ってる。青みがかった髪に夕暮れの灯りをとても綺麗に反射させたこの子が言っているのは、自分が伝説の戦士に突然変身してしまったとか、きっとそういうことではないのだ。なおの中でそれはとてもはっきりしていることだったけれど、それでもこう聞かざるを得なかったのは、なおの中にいつまでもめんどくさく燃え残り続ける期待のせいだった。ちがうって知ってるけど、ちがわないならずっといいのに。そんなことはないだろうとわかっていながら、なおはそう祈るのをやめられない。
 案の定れいかは首を横に振る。微かに、だけど確かに。絹糸みたいな髪がふわっと浮かんで、流れに沈む。それが後ろに消えていきそうになって、なおは慌てて歩調を緩めた。れいかはもうほとんど停止してしまっているのと同じだった。ふかい、ふかい色の瞳は、どこを見ているのかわからなくさせる。この子の目がこんなにきれいじゃなかったらよかったかなあ。およそ関係がないようなことを、ついに立ち止まってしまったれいかの方を振り返りながら、なおは思う。

「みゆきさん、は、どうして」
「みゆきは元々、ああいう子なんだと思うよ」
「そう……そう、みたいね」

 続きの言葉を掻き消してしまうために即座に口を開いたけれど、それはほとんど逃げだった。れいかの中に浮かんだまま、おそらくは長いこと消えないであろう疑問からの逃げ。どうしてあの子はあんなことを言ったのとれいかが言うのを、なおはちゃんと聞きたくはなかったのだ。
 自分らしくないことをしたなあと思う。らしくないことをしているからなのだと言い聞かせる。だって胸のところがちくちく痛い。できれば歩き出したかったけれど、くすりととてもかわいらしく口とをほころばせたれいかが、それを許してはくれない。

 ――ねえ、みんな! 青木さんたちの手伝いをしない?


「……へんなの」

 どうしてあの子は、あんなことを言ったのかしら。そんなふうに笑うれいかは、凛としている目元が緩んでいて、頬に微かな赤を灯していて、くちもとに華奢な指先をちょっとあてていて、ほんとうにかわいい。なおはせめてそれから目を逸らさないようにして立っていた。こんな時でもおかまいなしに、とくん、と幸せに熱をもった音を鳴らす心臓を、ぎゅっと握るように服を引っ張りながら。なおはどうにかこうにか、立っていた。
 つまりそのくらい、ぜんぜんわからないわって笑うれいかはなおにとってほんとうにかわいかったのだ。なんにもわかることができなくて、ただそれがとてもあたたかい言葉であったというところだけを心の深いところで感じ取って笑うれいかは、ほんとうにかわいくって、すてきで。
 そして、ちょっぴり、ざんこくだった。

 長い長い間一緒だったけれど、なおはれいかが勉強に関して困っているところを見たことがついぞない。どころか、たまにサッカーや家のことでいっぱいになった結果助けてもらった記憶ならたくさんある。れいかはいわゆるテスト勉強というものを知らないタイプの人間で、一日一日の積み重ねできちんと成果を出すことのできる人だった。
 もちろんすべてが満点というわけではないけれど、テストが終わった後にはちゃんと生じた疑問を解決するのに全力を注ぐから、結局今のところれいかが勉強でわからないことなんてなにひとつないのではないか、となおは思っている。
 それに、そうでなくたってれいかは本当にいろんなことを知っていた。もともとなにかを調べたり考えたりするのが好きなのだろう、というのが、幼馴染たるなおが得てきたれいかについての見解のひとつだ。知識をひけらかすわけではないけれど、ちょっとした会話の端々に現れる言葉のひとつひとつに、含蓄が滲み出るタイプ。れいかはそういうひとだった。
 そしてそういうれいかの一面に触れたひとが、必ずと言っていいほど口にする言葉がある。

「青木さんって、なんでもわかっちゃうんだね」

 それはなおのきらいな言葉でもあった。
 れいかだってわからないことはあるんだ、とか、そういう話だったらまだ良かったと思うのだが、話はもう少しややこしい。先の朗読会の一件がいい例だ。自分たちと一緒に戦ってほしいというみゆきの頼みに対して、ただ「忙しいから無理だ」、と断ったれいか。生徒会長という重要なピースが抜け落ちてはいるものの残った自分たちだけでなんとか朗読会を成功させたい、という旨を語るだけで、みゆきが言うまで、いや言っても、「手伝ってもらう」ということを考えもしなかったれいか。

 ――みなさん、本当によろしいのですか?
 ――もちろん!

 そのやり取りの後に浮かべられた笑顔だって、その日の帰り道にれいかが浮かべたものと同じかそれ以上にとてもすてきでかわいかったけれど。それは結局のところ、れいかがなにもわかっていなかったのだということの証明にしかならないのだ。
 きっとみんな気づきやしないのだ、だからいやなんだ。ふつうの人がわからないことだってわかっているようなれいかが、こんなに簡単な、或いは誰だってわかっているようなことが、わかっていないなんて。いいやなにより、れいか自身が、いちばん気がついていないのだ。だから、いやなんだ。

「なお。みゆきさんって、とってもいい子なのね」
「うん、そうだね」

 当たり前のことをちゃんと当たり前にできる子だから、みゆきは本当にいい子だと思うよ。自分の半歩先を歩き出したれいかの背中に向かって、自分は立ち止まったままで、なおは声もなくそう続ける。あたりまえのこと。誰だって、わかっているようなこと。

 でもきみはそれをわかってない、すてきにかわいく笑ったきみはつまり、「たすけて」って言葉の遣い方が、わからないんだ。

「ねえ、れいか」
「うん?」
「その、大変なこととかあったらさ、いつでも言ってよね。手伝えることはなんでも手伝うしさ、話だってあたし、ちゃんと聞くから」
「ええ、もちろん。ありがとうね、なお」

 夕陽を背負って笑うれいかは、だけどただの一度だって、なおに手伝ってなんて言ったことがない。たぶん思いついたことも、ないんだろう。
 もうすぐ一番星が見えるころだということをどうにか思い浮かべて、なおはあまりにもきれいなれいかの顔から、藍色が混ざりはじめていた空の向こうに視線を放った。


 そんな話をしてから数日が経ったころである。その日なおは、多少のいらだちを隠せない足取りで校内をずんずんと闊歩していた。途中で出会ったあかねにはまた番長が怖い顔してるだのなんだのとからかわれたが、今はそんなのかかずらっている場合ではない。目指すは一路、職員室である。なおの足取りは彼女の性格らしくあくまでも真っ直ぐとしていて、角なんて九十度にぴしっと曲がっていた(あかねが後ろで爆笑していた)。
 彼女をしてそうまでさせたのは、先日の朗読会の一件についてのあまり良くない噂話だ。聞けば朗読会に招かれた子供たちの親のうち、騒ぎを聞きつけた何組かが、そんな危険なものにうちの子を参加させるなんてと憤慨しているというのだ。そして校長はもちろん、生徒会担当の先生、そして生徒会長の代わりに行事の責任者を務めていたれいかにまで、謝罪を要求してきたのだという。
 なおが爆発を我慢して端から聞けたのはそこまでで、あとは気がつけば教室を飛び出していた。まさかバッドエンド王国のマジョリーナっていう悪い奴がですね、なんて話はできないにしても、あの場には自分も居たのだ、れいかには何一つ非がないと証明することはできるはずだ。なおはとにかくそれだけを一つ掲げて、職員室へと早足で向かっていた。
 すると、そんななおの背中にかかる弱々しい声がひとつ。

「あ、緑川先輩、こんにちは」
「えっ? あ……えっと、会計の寺田さん、だよね」
「はい。覚えててくれたんですね」

 なおの中で生徒会役員の一人である、という認識から、先日会計の寺田るなちゃん、に変わった人物がそこには立っていた。なんだか随分とやつれた顔をしているので聞いてみれば、件の親の話というのはあながち大げさな噂というわけでもなかったらしく、その一件で多少生徒会が荒れているのだという。

「でも、副会長はすごいです。大人相手でもすごく毅然とされていて、しっかりした態度で……だから私たちの方も、つい副会長にばかり話してもらいっぱなしで」

 どうやられいかのことをいたく尊敬しているらしい寺田は、私も頑張らなくちゃ、と疲れた顔にちゃんと笑顔を浮かべて見せたが、なおはそれに返しながらも、ふと渦巻きはじめた不穏からどうしても抜け出せないでいた。まただ、という言葉がどうしても最初に浮かんでしまう。れいかはまたわからないまま全部一人で飲み込もうとしている。たすけてもいたいよもかなしいもつらいも全部。
 だいたいこういうときのれいかはいつも、なおの前を行き過ぎるのだ。あとからどんなに追いついて何とかしようとしても、彼女はもう、それよりずっとずっと前の方で、なんでもなかったように笑っているのだ。だから、だからいつも、あたしは、

「そういえば……あの、全然関係ないんですけど。緑川先輩、これなんだか、知ってます?」
「これ……っ、て」

 それではと言って立ち去るその一歩手前、本当にただの思いつきのように立ち止まった寺田がなおにしてみせたのは、子どもが良くやる手遊び――と、少し形を違えた、もの。

「はい、この手。きつねー、っていうんなら私も小さい頃よくやってましたけど……きつねって確か、この、ここんとこ、人差し指と小指って、伸びてましたよね? でも私が見たのは、ここがなんか、へなって曲がってたんですよね」
「それ……どうして、知ってるの?」
「あ、やっぱり緑川先輩はご存じなんですか? 最近副会長がよく、こうやって……なんか、ぱくぱく、ってやってるので。副会長と幼馴染の緑川先輩なら、ご存じかなって」




 なんだか可愛かったから、覚えちゃったんですよね。という寺田の続きの一言を、なおは最後まで聞けたかどうか、もう自分でもわからないのだ。

「……っ!!」
「あっ、え、み、緑川先輩!?」

 なおのあくまでも真っ直ぐ、真っ直ぐな足は、今度はただひとりのところへ向かって、強く地を蹴り出した。


 それはとても幼い頃の記憶で、今でも思い出すとなおの頬は少しかっと熱くなってしまうような、くすぐったい思い出だった。
 今がとてもしっかりしている分だけ話してもれいか以外の人にはなかなか信じてもらえないが、そういうちゃんとした姉というものにたどり着くまでなおは相当の苦労を要した。気風が優しいのは今も変わっていないけれど、以前はその優しさがそのまま弱さにつながっていたから、なおはとても泣き虫で、いくじなしでもあったのだ。
 反対にれいかは小さい頃から本当にしっかりしていて、そしてこのころから、決して泣かない、弱音も吐かない子だった。大きくなってからそれがれいかにとっての危うさにつながることなんてその頃のなおは知りもしないけれど、ただ当時のなおにとってれいかは、とても眩しい子だったのだ。
 それだからなおは一生懸命考えた。だってれいかはとても大切な幼馴染なのだ、置いて行かれるなんてまっぴらだ。ちゃんと追いつきたいし、できることなら追い越したい。追い越して、前かられいかの手を引いてみたかった。沢山の絵本を一緒に読んだけれど、中でも物語に出てくるお姫様に憧れていたれいかの幼い横顔を見つめながら、なおは心の中にずっとそういう思いを育てていて、だから。

「なお、だいじょうぶ……?」
「ひっ……ぐ、だ、だいじょ、だいじょぶっ!」
「うん……? なあに、そのおてて」

 まだじんわり赤く血がにじむ膝小僧の痛みをぐっとこらえて笑って見せたなおの手は、保育園の先生にこの間教わったきつねさん、とはまたちょっと違った形をしていた(それはわざとではなくまだ上手にできなかったからだったのだけれど、それを正直に言うにはなおはちょっと、れいかの前ではかっこつけしいだった)。
 なおはそれを自分の膝と、それから涙が今にも滲みそうになる目元のあたりで、ぱく、ぱくと動かして見せる。ひとりでできないことがあるなら、ひとりでしないようにすればいいのだ。それはなおが一生懸命考えた、現状自分がどうにかしてれいかに追いつく方法だった。きみに追いつくために考えたおまじない。

「これは、きつねさん。でも、ただのきつねさんじゃないんだよ、れいか」
「うーん……おみみが、まがってる?」
「ええっと、そうじゃなくって……これはね! いたいこととか、かなしいこととか、そういうのをぜーんぶ、たべてくれる、きつねさん!」


「……れいか」
「ああ、なお……ね、これって、自分でやってみると、意外とむずかしいのね」

 なおって小さい頃からとっても器用だったんだわと笑ったれいかは、徹頭徹尾自然な所作で手を後ろ手に組んだ。たった今まで頬の辺りに、なおにとっては見覚えがあるどころではない形の手が添えられていたというのに。すぐにないものになってしまったそれは、まるで初めからなにもなかったみたいで。行き場のない荷物が放られ埃っぽい匂いが充満している空き教室で、れいかはそろそろ戻らなくちゃね、とだけ言って。
 そのとてもかわいらしい笑顔をみて、なおは唐突に理解するのだ。どうしてこんなにきれいなものが自分にとってざんこくに映ってしまうのかがずっと不思議で、いやだった。でも、そうだね、きっとあたしはさびしかったんだ。さびしくて、くやしかったんだ。きみのその顔を見るたびに、あたしの手は絶対的に届いていないのだってことばっかり、つよくつよく思ってしまうから。

「れいか」

 でも、届かないってつよく思った分だけ、あたしの中には、きみに届きたいって思いが、あるってことだし。
 それなら届くまで、さびしがるのも、くやしがるのも、あたしはやめないよ。

「……な、お」

 背中と頭とに、片手ずつ、添えるというには少し切実すぎる力のこもった手をあてて。れいかがそう呼ぶのがだいぶくぐもった声になってしまうほどに、なおの抱きしめ方は強かった。苦しいくらいに強くて、痛いくらいに切実で、だから、とても、優しかった。
 なにもわかっていないれいかだけれど、このままではまずいということはとてもよくわかった。なおの匂いも温度も、髪を撫でる指先も、私には少し優しすぎる。どうしてだかそう思って、なお、と肩口に額を埋めさせながらも、れいかはどうにか呼びかけた。なお、だめよ。

「ひ、るやすみ……終わってしまうわ、なお」
「うん、でも、だめ」

 かかとがちょっと浮くくらいに、抱きしめられる。泣き虫だったころ、自分よりも小さかったころ、すべて昨日のことのように思い出せるのに。私の目の前にいるなおは、いまこんなにもしっかりと私を捕まえられるようになってしまったのだ。これ以上はまずいとわかっているのに、ぼうっと熱の上がってきたれいかの頭には、そんなことばかりが浮かぶ。
 短く吸って、ふるえるようにゆっくりと吐き出される。なおの呼吸が耳のふちあたりをふっとくすぐる。れいかは思わず目を強く閉じた、だめだ、もうだめだ。

「はなさない」

 低く落ち着いた声で言われたのが、れいかにとって決壊の合図だった。

「っ……ふ、ぁ」

 抱きとめられた背中から、くしゃりと絡め取られた髪から、そしてなおの声が響いた体の中から、溢れた熱がゆっくり雫になって、れいかの目から、ぽたり、ぽたりと、零れていく。

「ぅ……っ、あ、あぁ、あ」
「なにも言えなくても、いいよ、れいか」

 あたしの名前を呼ぶことすらもできなくたって、別にそれでいいよ。肩口に染み込んでいくれいかの涙のあたたかさをじんわりと感じながら、なおはゆっくりと言う。手探りで、それでもちゃんと届いたもの、見つけたものを、一つしっかり抱きしめるように、言う。
 頼り方がわからなくてもいいし、助けてって言えなくてもいい。わからないならわからなくっても、きみがそういう人なら、きっとそれでいいのだ。それでもきみの悲しみに届きたいとあたしが思っている限りは、それだけで、どうにかしてみせるから。

「かなしいことは、」
「あ……っ、ん」

「ぜーんぶ、たべてあげる」

 きみがわからないなら、わからないぶんだけ、あたしがわかってあげる。
 れいかの濡れた頬にちょっとだけ歯を立てる。ぴくっとくすぐったそうに肩を跳ねさせたれいかは、びっくりしてしまったのか、それともほんとに、たべられてしまったのか。泣いて、泣いていた顔に、ちょっとだけへたくそな微笑みを浮かべて。
 それをいとおしそうに眺めたなおは、どこか遠くの方で予鈴ではなく本鈴が鳴るのを聞いて、あかねがうまく言い訳でもしてくれるといいんだけどなあと、じつに他力本願なことを考えていたのだった。

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