まいにち、きみに、恋をする。

 大声で話しかけて手を振ってやろうかと思ったのだ、最初は。
 でもそれをしなかったのはどうしてかと言われると、本当のところがあかねにはよくわからない。廊下ですれ違った時、あの子にそういうふうに話しかけるクラスメイトがあまりいないことや、だからあかねのふっかけるそれをとてもびっくりしながら、だけど同じかそれ以上にうれしそうに受け取ってくれていることは、あかねだってよくわかってるつもりだった。
 どころか、それについてはあるていど誇らしくすら思っていたはずだったのに、はて、今日はどうしたんだろう。おおきく振りかけた手をなんとなくぱたりと下ろしたあかねは、それが、頭の隅っこをしらない間によぎった、いつだってあの子のほうから見つけてもらえる緑の尻尾のあいつのせいだということに、なかなか気が付けない。
 だからそうやって自分のことがよくわからないまま、あかねはただ黙って見ていた。だまって、じっと、見ていた。きみが、道の反対側を、そのうつくしい髪をやわらかになびかせて、歩いていくのを。方向からして図書館帰りやろうなあとか、そうだったら肩に掛けた鞄の中には参考書やらがいっぱい詰まって、けっこう重いんやろうなあとか、ふつふつとうかべながら。
 梅雨の時期にしてはめずらしいくらいにからっと晴れたその日はおそろしく暑くて、太陽光線は日陰でもなんでもないところで突っ立ってしまっていたあかねの頭を、髪色よろしくじりじり焼く。あつい、なあ。あちこちで立った陽炎とか、頭のてっぺんから広がっていく熱とかがあかねの視界を静かにぼやかせていったのに、白くて繊細な首筋を、ひかる汗がじわり、とながれおちていくのは、なぜだか。なぜだかくっきりと、目に、やきついた。

「あ……あかね、さん?」

 それが襟の向こうに消えていくところまで、じりじり目に焼き付けていたら、あかねの喉はかってに、実にどうしようもないくらいに、こくり、とおおきく、鳴ってしまったので、

「ぅ、お、おおっ、れいか、おーす!」

 そんなわけで、せっかくれいかの方から気が付いてくれたというのに、あかねがどうにかそれきり絞り出せたのは、一拍どころか五拍くらい、おくれてしまったころの話であり。
 しかもおーすってなんだろうって、思いはしたものの。あの子がおかしそうに笑ったらそれでなにもかもすべてまるっとおさまったような気がしてしまうのだから、あかねとしては、ちょっと困りものなのだった。


 さて聞くにれいかが出かけていた理由はやっぱりさきほどあかねが予想していたものとまったく同じもので、しいて言えば鞄の中に入っている参考書の量が予想と違った。予想より三冊ほど多かった。肩抜けるんちゃうのと青い顔をするあかねに、意外と慣れますなんて気丈に笑ってみせるれいかである。華奢に見えても、筋金入りの優等生はつくりがちがうらしい。

「あかねさんは、お店のお手伝いですか?」
「ん? いや、今はちょっと休憩中やねん……っと、来た来た」
「えっ?」
「おっ、と! よしよーし。こいつにエサ、あげに来てん」

 匂いを嗅ぎつけたのか、はたまたもう習慣づいてしまったのか。さっそうと飛びついてきた小さな影をしゃがんで受け止めたあかねは、茶色と白がまばらに散った毛並みの身体を、わしわし撫でてやる。こいぬ、ですね、と同じくかがんだれいかが、流れ落ちたぶんの髪を耳にかけながらぽつりと言った。

「あかねさん、犬を飼い始めたんですか?」
「ああ、いや、そうやないねん。なんや匂いにつられたんやろな、こないだ店の前でお腹空かして倒れとったとこ見つけてな。でもさすがにうちで飼うわけにはあかんし、店のお客さんで引き取り手さん探してん。それまで暫く面倒みてるっちゅーわけ」
「まあ……それで、お引き取り先は見つかったのですか?」
「うん、こないだやっとな! せやからこいつとおれんのもあと数日やなぁ、そう思うとなんやちょっとさびしいけど……うわっぷ、こ、こら、やめ、くすぐったいて!」

 すると突然、さびしいなんて言葉に反応でもしたかのように、子犬はあかねのほっぺたを小さな舌でぺろぺろ舐めてきたのだからたまらない。あかねは慌てて柔らかいおなかを押し戻そうとするけれど、無邪気なもののじゃれつきというのは、あんがいと解くのが難しいものなのだ。

「ふふ。あかねさんのこと、だいすきなんですね」
「へっ!? あ、や、やぁ、そうなんかなぁ、は、はは」

 しかもひどいことに、あかねの身体から力を根こそぎうばっていくようなことを、隣のれいかがふっと、こぼすものだから。
 だからあかねはもう、なすすべもなく頬をよだれでべたべたにされるしかなくて、たいしたこともない言葉っていえばそうなのに、どうしてこの子がいつもの穏やかな声で言うだけで、耳のあたりがじわっと熱くなってしまうのだろう、なんて、考えていた。ああもうほんとにって意味もなくため息をつきたくなって、でも息はちょっと、喉の奥で渋滞中だ。

「せ、せや。あんな、せっかくやからいっこ芸、覚えさしてん! 見とき、れいか!」
「まあ、芸、ですか?」

 それをどうにか押し戻すように立ち上がったあかねは、普段の明朗さにしてもちょっとやりすぎなくらい元気にそう言って、そのくせええっと何にしようって頭の反対側では必死に考えていたのだからおかしな話だった。なにもしらないれいかは、わあ、なんて軽く手をたたいて、すっかりお客さん気分である。
 なんか、そういう、なんの理由もなく楽しみにしてくれるようなのは、ありがたいけど、たまにすごく、ずるい。でもそれなら期待をとびこえて笑わせたくなるのは、多分にあかねの心に根付いた、ちょっとこまった性分だった。しかもそいつは、この子の前だと実に素直に、頭をもたげるものだから。

「あ、よし、あれでいこ……ほな、いくでっ! ばんっ!」
「ひゃっ!?」

 そうしてぴんと思いついたあかねは、ピストルをかたどった手を子犬に向けて撃つまね、と、れいかがけっこうびっくりしてしまう程度には似ている音を、一発ぶん放った。もちろんしっかりとしつけられていた子犬は、びくっと一度体をふるわせて、なかなか上手に地面へどっさりと倒れてみせる。

「へへー、どや!」

 おまけに人差し指の銃口に息を吹きかけるしぐさまでしてみせたあかねは、両手を口のところにそえたまますっかり呆けてしまっているれいかに向かって、あんまりない胸をはった。
 子犬はしばらくそのまま地面に倒れていたが、ころあいを見計らって何食わぬ顔で立ち上がるとぷるぷる体を振る。すぐに気づいて屈んだあかねが頭と言わず首といわずわしわし撫でてやったので、短い尻尾が元気に振られていた。

「ようできたーってときはいっぱいほめてやるんがええねんて、お母ちゃんが言うとったわ。そういう風にあんたも育てたからなーって、うちは犬と同じかいってな」
「でも、育てるものの真理ですね……し、しかし、先ほどのはいったい……?」
「ああ! 上手やったろ、れいかもほめたってや」
「あっ、はい、えっと……よしよし、お上手でしたよ」

 ちょっとためらいながら伸ばされた手で、耳の後ろあたりをこちょこちょくすぐってもらっている子犬を見て、自分で言っておきながらちょっとうらやましい気になってしまうあかねだが、それはさておき。明らかに自分の時よりも尻尾の振れ方が大きいような気がするが、まあ、それもさておき、だ。
 表情からするに、犬のする芸というのだからお手やお座りだと思っていたらしいれいかは、先ほど子犬とあかねが見せてくれた一連の動きに、どうやら興味津々のようである。

「撃つというのは……なんというか、ちょっと、残酷ではありませんか?」
「れ、れいかは真面目やな……そんなんちゃうて、ノリやノリ。あいじょーひょーげんとか、なんかそんな感じやねん。うちが大阪におったころとか、友人連中とようやりあっとったで」
「愛情表現……なるほど、あれはあれで、コミュニケーションのひとつの形、ということでしょうか」
「んー、っと、た、たぶんな!」

 たかがこんなことで、というのが、思うに、れいかにはちっとも通用しない。それはこれでも二年ほどれいかのことをよく見てきていたという自信ならそれなりにあるあかねが持っている、この子についての確信のうちのひとつだった。確かにれいかはたくさん参考書を抱えて、こんな暑い日も勉強しに出かける勉強家だけれども、単純に探究心というものがとても強いひと、なのかもしれない。
 そういうところが、なあ、と、あかねは、もはや自分も子犬も目に入っていないようにも見えるふうに、顎に手を当ててなるほどなるほどと考え込んでしまっているれいかの横顔をちらりと見つめながら、思う。そういうところが、なんか、なあ。

「れーかも、」
「……え、あっ、は、はい?」

 そういうところが。
 たとえば、いざ声をかけられたら、きれいな顔をきりっと真剣に澄ませていたのをいそいでこっちに向けて、ちょっと恥ずかしそうにあわててしまうところが。
「れーかも、やってみるか?」
 なんかやっぱり、かわええなあ、なんて笑えてしまう、あかねだった。


「で、では、よろしくお願いしますっ……!」
「や、そんな目ぇぎゅうってつぶらんでええよ!? ホンマに撃つんとちゃうねんから……ちゅうかこの状況で目ぇつぶっとったらノろうにもノれんやろ!?」
「あっ、そ、そうですね、そうでした……」
「……うー、れいかってホンマ、なんていうか……そーゆーとこが、なぁ」
「はい?」
「あーっ、いや、ええ、ええ、なんでもあらへん! いくで!?」
「ど、どうぞっ」

 て、今度は肩に力入り過ぎやし、というところまできちんと突っ込んであげる余裕は、残念ながらあかねにはなかった。愛情表現みたいなものだ、というのは別にこんな展開を見越して言ったことではぜんぜんなかったわけで、あかねとしてはなんの意図もなく自然と零した言葉だったのだけれど、どうしてだかピストルのかっこうをした自分の手を見ていると、やたらとそればっかり考えてしまう。これは、あいじょう、ひょうげん。自分ときたらよくそんな言葉をさらりとれいかに向かって吐けたものである、なんて数分前の自分に首をかしげたくなるあかねだった。
 とはいえそうなって困るのはどちらかといえば、ぱっちり開かれた瞳の色のあざやかさといったものにやられてしまうようなあかねの方で、れいかの意識はというとあかねの指先に全集中していたのだから、問題がないといえばなかったのだが。

「ばんっ!!」
「えっと……うっ」

 えいもうままよ、とばかりに、さっきよりなんだかかなり力が入ってしまったような一言と共に、一発。戸惑いながらもお腹をおさえて、しかめっ面などしてみせるれいか。その真剣さはそのままこの子の真面目さの体現といってもよかったろうが、しかしなんともぎこちないというか、へたくそである。
 と、大阪生まれのあかねの頭は一応そう判断を下してくれたのだけれど、そのままのかっこうでそっと目だけ上げて見つめられてしまうと、ふだんから自分とれいかの身長に関して非常に思うところのあるあかねとしては、ああやっぱりしゃくだけどあいつに、身長が伸びる方法でも聞くかなあ、なんてことを頭に浮かべたりなど、してしまうのであって。

「あー……うん! よーできた、れいか、えらいっ」
「えっ? あ、ぅ、あ、ありがとうございます……?」

 うんうんとわけもなくでっかく頷きながら、あかねはいやいやそんならここまでワンセットやろ、という、ある意味都合のいい言い訳を浮かべて、れいかの頭を撫でた。というか、子犬よろしく、くしゃくしゃにしてやった。

「う、あのっ、あ、あかねさん……? その、ちょっと、くすぐったい、です……」
「がまんせぇ、ここまでが一連の流れやねん。よしよーし」
「は、はあ……きゃっ!?」
「あ、こらっ、なにしてんねんお前!」

 まあ嘘やけど、と思いつつ、どうやら自分も参加したくなったらしい子犬が、夏らしく眩しい色をさらしているれいかの足元をぺろっと舐めたのを、軽くけとばして叱りつつ。あかねは、日光と気温で少しぽかぽかする長い黒髪を、それはもうわしわしとかきまぜてやった。れいかのきめの細かい髪が、ところどころ跳ねたままになる。それをぱちくりとおおきなまばたきを繰り返す瞳が、たまに追っているのが、なんだかおもしろかった。おもしろくって、どきどきした。
 もちろんその時のあかねのふるまいのらんぼうさは、なるたけ指を流れていく髪の感触とか、くすぐったそうに縮こまっているれいかのこととかを、あまりはっきり胸におぼえてしまわないように、というつもりも、多分にあったのだけれど。

「……ほい。どや、ちょっとは楽しいの、わかったか?」
「そう……そうですね、はい、とっても!」

 たぶんれいかは、髪を整えようとしてちょっと考えてからやめたようなれいかは、そういうふうに撫でられるのが嫌いだったり苦手だったりというのではちっともなくて。大きな声で呼びかけられるというのだって本当は、そうで。だからあかねは、そういうひとつひとつ、例えばこの子のたいせつなたいせつな幼なじみがあげてないものをあげるのが、とても、誇らしくて。
 そうして、そっか、なら良かった、と、離した手のひらには。
 くらくらするほど、甘い匂いが、残ってしまっているのだ。

「あかねさん。この子犬さん、少し撫でてあげてもよろしいですか?」
「ん? ああ、ええよ。たくさん遊んだってや、なんやこいつ、れいかのこと好きみたいやし」

 そしてあかねはいつも、それでほんのちょっと、足元が怪しくなってしまう。
 正確には違うけれど、飼い犬とはやっぱり、飼い主に似るものである。れいかの優しい触り方にあわせて、頭を無邪気にくいとおしつけてもっともっととねだる子犬を見ながら、それにしたってあそこまで素直になれるのは、少し、ほんとはけっこう、羨ましいと、あかねは思う。
 かがみかたまでどこか清楚な雰囲気の、華奢な背中をうしろから見つめながら。うしろなのに、手の甲でぐっと汗を拭うふりをして、これまでじゃ考えられないくらいにはっきりと残った香りをいっぱいにすいこみながら。呼吸が取り入れるのは、きっと酸素だけではないのだとたまに考える。だってきっとそれだから、あかねの身体は、れいかの淡い匂いだけでも、ぎゅうぎゅうづめになってしまう、のだ。
 あかねはいつもそうやって、れいかのまわりにごく自然と存在するたくさんのことで、いっぱいに、なる。

「……尻尾を振ってる子を見ると、なんだか、思い出しますね」
「うん? あ、もしかして、こないだのか? なおがめっちゃおもろかったやつ」
「はい。大変でしたけど、あれはあれで……なんというか、その、かわいかったです。なおに言ったら、怒られそうですが」
「まー、でももともとあいつ、れいかの前におったら尻尾ぶんぶん振っとるんが見えとるけどな! ははっ」

 甘い、甘い匂いでいっぱいになった身体に、少ししおっからい風が、吹き抜けていく。夏やなあ、とれいかの背中に、きっと今まぶしそうな顔で笑っているれいかの背中に向かって、ぽつりとつぶやいた。


「ところで、」
「ん?」

 なんの前触れもなかった。れいかが立ち上がったことについてだ。さっきのさっきまで子犬を楽しそうに撫でていたのを、だってあかねはなんとなくちゃんとあの子が影に入るようにと太陽を背負って眺めていたのだ。
 だかられいかが立ち上がって、そのまま流麗な仕草でこちらを振り返ったとき、言ってみればあかねの覚悟とか準備とかそういったようなものは、ただのひとつも整っていなかった。

「……ばん。」
「へ、」

 もちろん、れいかがさっきまでのあかねと同じ形の手をこちらに向けて、ほんの、ほんの少しだけいたずらっぽい色を滲ませて笑うようなのも、ふくめて。

「………っ、」
「わ、あ、あかねさんっ!?」

 すとん、と。
 れいかの背がいきなり高くなったと思った。というかいっそそうであればよかったのだとすらあかねは考えてしまう。しかし真実というのはだいたいいつも残酷なものであり、具体的に言うと、その時あかねがじりじり焼けたアスファルトの上なのもかまわずにぺったり尻もちをついてしまったというようなのは、まぎれもない、そこにある事実なのだった。
 ばんって。ばんって、あんた、ばんって。気がついたら自分でもちょっとびっくりするくらいの力で自分の胸元を服の上から握りしめていた。それはまるで計ったように正確にれいかの指先からの同一直線状であったけれども、現状そんなことはあかねにはどうでもいいのであって、とにかく最優先事項は、とくとくとかどきどきとかを思いきりとびこして、もうなんだかずっくんずっくんなんていうようなうるささを叩き鳴らしている心臓を、どうにかすることだった。
 て、そんなん無理やろ。血の巡りが恐ろしく良くなっているせいか、あかねの脳は身も蓋もない正直さを瞬時に発揮する。

「あ、あかねさん、すごいです……!」
「は、ぇ、な、何が……?」
「いえ、さすが本場の反応は違いますね。まるで、本当に撃ち抜かれたかのようでした……!」
「……あ、ああ、せ、せやろー! いやあ、これが本物ってやつやで、よう覚えときぃ、れいか!」
「はい、精進しますね!」

 いや、たった今、あんたに撃ち抜かれたんじゃ、あんたに!!
 ――とは、もちろん言えない、あかねであった。


 ところで、ついた嘘というものは、たいがい、後から自分になにかしらの形で、跳ね返ってくるものであって。

「ええと、では、僭越ながら……」
「はっ?」

 あ、と思ったころにはもう遅かった。なにせれいかはあかねもようく知っている通りに、とても真面目できちんとした子である。そのれいかが、一連の流れのすべてを終えずして勘弁してくれるなんてことが、あるわけもない。

「あとで結び直しますから……それっ」
「う、うぁ、れ、れいかっ、ちょ……!」

 だから、れいかがほぼ決意といってもいいほどのなんだか重々しい気持ちをもって伸ばした両手で、あかねの頭がくしゃくしゃにされてしまうのは、どうにも、避けようのないことなのであって。

 あかねがなんだかとってもなさけない悲鳴を上げて逃げ出すまで、あと五秒。

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