いとをむすぶ日




 ありがとうについてのはなしをしよう。

 ずっと近くにあったら、それが変化しているだなんて、きっと、気がつきもしないものなのだ。だからもちろんその日のあたしだって、なにごとかが起こっているだなんてちっとも気が付かないまま、いつもの五人でお弁当をつついていた。すこし風が強いってことをのぞけば、天気だってそれなりに順調な感じだった。
 べつだん何かが特別に悪かったってわけではないと思う。ただ世の中はおおむね、フツゴウなグウゼンの連続でできているものなのだ(とれいかがいつか言っていた、気がする)。つまり、その日は別の部活が使っていたから部活の自主練に行けなかったってことと、みゆきちゃんがお弁当を忘れてきたってことと、そんなあの子に自分のを半分こしてやったあかねが結局全員を巻き込んできたってこと、そのどれが悪かったというわけでもない。
 でもとにかくそんなことがひとつひとつ重なって、最終的にお弁当を食べ終わっても取っ組み合いを続け、ちびくろよろしくテラスの柱をぐるぐるするはめになったあたしの襟元を、そろそろどっちが追っかけてたんだかもわかんなくなったあかねが引っ掴んだ、わけで。

「あぅっ!」

 ぴしっという鋭い音、の、前に、やけにあっけない音を、もっと近くで聞いたような。しかしみゆきちゃんが突然上げた悲鳴によって、あたしたち四人全員の視線はそっちにぴたりと縫い付けられてしまっていたので、確認できるようなことではなかった。
 苦笑しながらあたしたちをなだめるように両手を上げていたれいかと、素知らぬ顔で可愛らしいおにぎりをぱくついていたやよいちゃんと、端から見る分にはちょっとおもしろかったんじゃないだろうかって格好で固まっているあたしとあかね、その全員の視線を一身に受けたみゆきちゃんは、わけもわからずといったふうにあちこちを見回していた。
 見れば、みゆきちゃんの額の真ん中はちょっと赤くなっている。さっきの音ってもしかして。いったいどこからどこまでが大凶だかわからないところがたまに(わりとよく)ある子だけれど、なんだか今回もそうなのかもという予感があたしの頭を過って、残念ながらそれはほとんど正解だった。

「えっなに、なに!? いま私、何に攻撃されたの!?」
「あれ? これって……」

 微妙に涙目で慌てるみゆきちゃんの隣で、やよいちゃんがいたって落ち着いたようすでなにかを拾いあげる。中庭に溢れるお昼の光を浴びて、やよいちゃんの指先できらっと輝いた、のは。実際は毎日何度でも見ているはずなのに、単体で見ると案外わからないものだ、あたしが気が付いたのはひょいと視線をあたしの襟に映したあかねよりも遅かった。
 あかねがあっと声を上げて、あたしはやっと、ネクタイでどうにか支えられながらもごうかいに開いた自分の襟元と、やよいちゃんの手元を見比べる。そうしてやっと、理解した。

「あーっ、あたしのボタン!」
「なおちゃんのボタン……えっ、それが直撃したの、私!?」
「……みゆき、あんた、すごいな」
「あかねちゃん、あかねちゃん、優しく肩をたたかれながら言われるとなんか最高にきついものがあるよー! せめて笑ってやってください!」
「えっ、笑っていいの? じゃあ……」
「じゃあで笑わないで、やよいちゃん、お願いだからじゃあで笑わないで!」
「ま、まあまあ、みゆきさん……えっと、昆布巻き、食べます?」
「れいかちゃあああんありがとう……! でもなんだろう、お弁当忘れから始まる本日の不幸のハイライトを見てる気分だよ……」

 うなだれながら昆布巻きをほおばるみゆきちゃんを横目に、やよいちゃんからボタンを受け取る。制服のシャツ、二番目のボタンがどうやらはずれてしまったらしい。ネクタイのおかげである程度はごまかせるものの、さすがにないとまずい。というか、すでに第一ボタンをまいど留めていないことに関してのお説教をくらう予感がする、主に隣の幼なじみから。
 だからそう、そのときは、話題を変えるつもりで、っていうのも、ちょっとあったんだ。普段だったらみんなの前では言わなかったようなことを、このときばかりはぽろっとこぼしちゃったのには。

「えーっと……それじゃ、れいか。また、お願いして良いかな」
「ええ。ですが、それが終わった後、制服の着方についてはお話があります、なお」
「うっ……で、ですよねー……」

 といってちょっと弱ったふりをしながらも、どこかでは、まあ、言ってもらえるってことはそれだけ見てもらえるってことだしなあ、なんてことを考えてもいるので、おそらくは改善されないであろうということを含めて、ばかばかしいい話なのだが。
 でもそれならジャージを取ってこないとだし、さすがにテラスで着替えるわけにもいかないから、少し移動しなければ。そう思ってあたしはれいかと一緒に腰を浮かせて――浮かせたままのかっこうで、固まることになる。多分になんの深い意味も込められていなかった、言ってみれば非常に自然な、あかねからの一言によって。

「へ、なおのボタンって、もしかしていつもれいかが付けとるん?」
「えっ? あ、はい、そうですね」
「うん……? たしかなおって、手芸が得意なんよな? なんや、てっきり、そういうの全部、自分でやっとるんかと思っとったわ」

 顔、を、見合わせる。れいかと。べつだん言い返す必要もないのに、なにか言わなければいけないような気だけはしていた。どちらかといえば、すっかりふいをうたれて、穏やかな瞳をぱちくりと瞬かせてしまっているれいかに向かって、なにか。
 ただそのときあたしの頭の中にあったのは、およそその場で言うとしたらもっとも間違っている言葉ばかりだったのだ、たとえば、だって昔からそうだったから、なんて。あたしみたいに特技ってことにしてるわけではないにしても、れいかの手先だって小さい頃からちゃんと器用で、だから。やんちゃな子供だったあたしが服を破くことなんてよくあって、でもいつもれいかはそんなあたしの隣で笑っててくれたから、だから。
 どれも、この場にはあまりにもそぐわないものばかりだった。ただ一番どうしようもなかったのは、そぐわないってことすら、そのとき初めて気がついてばかりだったってことで。いつの間にか解れていたボタンと同じ。ずっと近くにあったから、それが変わっていたなんて気がつかなかったんだ。

「あー……えっと、そう、だね。そう、だよな……ごめんれいか、いいよ、あたし、自分でやるから」

 たとえどんなに昔からそうでも、あたしたちはもう昔のままなんかじゃないって、そんな簡単なことにも、気がつかなかったんだ。



 といってもそのあとすぐに予鈴が鳴ってしまったし、五時間目は体育だったし、授業が終わったらとっとと部活に行かなくちゃいけなかったから。だから、時間がなかった、っていうのは、全部むりやりな言い訳だったかな、どうだったかな。わからないし、あまり、わかりたくないことでもあった。
 汗だくのユニフォームを放り込むように鞄に閉まってから、ネクタイをいつもよりもきつくしめる。部活終わりの火照った身体には辛い閉塞感が、喉元で停滞する。やってることは変わらないのに、手が変わるだけでこんなに違うのか、なんて、考えてる時点で、逃げ道はあまりない。

「先輩、お疲れさまでしたー!」
「ああ、うん、お疲れさま」

 ネクタイがきっちり上手にしめられなかったのは、だってもう、一年も前の話じゃないか。直せないこと、直さないこと、直したくないこと。ほんとは、変えたくなかったこと。しらない間に指の隙間からするりとこぼれ落ちていく、たくさんのこと。そう、とだけ言ったれいかから返されたボタンが、制服のポケットの中で転がっていた。
 縫い物をするとき、しなやかな指と、桜色の爪がとてもきれいって、初めて思ったのは、いつだったっけ。れいかはどんどんきれいになるなあって、なんとなく立ち尽くしたような気分になったのは、きっとそれと同じころの話なのだ。きみはどんどんきれいになる。

「なお」
「あ……れい、か」

 ――きみは、どんどん、きれいになる。
 待ってて、くれたんだ。なんだか情けなくかすれてしまった声に、けれどれいかは少し首を傾いだ穏やかな笑顔で応えてくれた。風の力を授かったくせに、風が強いのはあまりいいことではないと、こんなに真摯に思ってしまったのは初めて。だけど突然強く吹き付けた風に遊ばせた長い髪を、そっと指でおさえるれいかのしぐさは、あたしの詰まった喉に、なにか熱くてでっかいかたまりを飲み込ませるのには十分すぎたんだ。
 そろそろ下校時間も近いってときにこんなふうに校門で向かい合わせに立っていたら、そりゃ後ろやら横やらを通り過ぎていく生徒がたくさんいるのは当たり前だった。さっき通った男子三人組のうち二人と、あ、次の五人組なんて全員だ。遠慮してるのがよけい無遠慮な視線が、れいかに釘付けになったのがここからだと本当によくわかる。

「……えと。か、帰ろうか」
「はい」

 昔のあたし、だったら、こぶしを振り上げたりとか、したかな。短かった両手をいっぱいに広げて、見ちゃだめ、なんて、言ったかな。並んで歩く影がこんなに長く伸びてしまったいま、もう、考えたって仕方のないことだった、けれど。

「あのね、なお」
「ん……?」
「このあとすこし、なおの家に行きたいんだけど、いい?」
「え、うち? いいけど……なんで?」

「ボタン。つけに行こうかと、思って」

 風が、ごうと吹いた風が、開きっぱなしのあたしの襟を、はたはた揺らして。曲がってしまったらしいそれをとてもきれいな指先が優しく揃えてくれた、影はいつの間にかわずかなつながりを見せていた、喉元に突っかかっていた苦しさが消えて、変わりに心臓が思いっきりあばれた。
 いいの、なんて、ほんとはすごく、聞きたくなかったんだけど。でもあたしはよく知ってる、れいかはほんとに頭がいいんだ、あたしがどういうことを言いたくて黙ったまま見つめ返していたかなんて、きっとすっかりわかっていたと思う。だから、笑ってくれたんだと思う。
 でもそれが、なんだか、なんだか、ひどくうれしそうな笑顔に見えてしまったのは。なにか、あたしの、はげしい勘違い、だったのだろうか。それだけがよくわからなくて、並んで歩き出すのが少し遅れたあたしは、振り返ったれいかを見て、やっぱりきれいだってぎくりとする羽目に、なったのだった。



 もちろんあたしの家庭の事情をきちんとわかっているらしいれいかは、着くなりなおはお夕飯の準備をしていていいからと言ってくれて、さらには血は争えないといおうか、れいかのことがとにかく大好きなうちのきょうだいたちは、みんなしてれいかに良いところが見せたいらしく、大変おとなしい遊びに興じてくれたわけで。
 おかげでいつもは戦争のようである台所はうそみたいに静かで、あたしが料理をしている背中のテーブルで、れいかも粛々とあたしの制服を広げていた。毎日こうだといいのにねえという姉ちゃんのぼやきは、せめて一番上のけいたにくらいは届いてほしいものだ。

「そう? なおのお家のみんなは、元気な方がいいと思うわ」
「まあ確かに、ちょっと調子は狂うけどさ……」

 うそ、調子が狂ってるの、おとなしくお絵かきしてる弟たちのせいだけじゃない。まさかここにきて包丁で指をなんてへまはやらかさないにしても、今日の味付けについては少し覚悟を決めてもらった方が良さそうな気はした。せめて塩のちょっとした入れすぎくらいにとどめられればいいんだけど、針に糸が通るわずかな摩擦の音でもしっかり聞き取っているあたり、それだけでは済まなさそうだった。
 なおの家に来るの、すこし、久しぶりね。独り言のように言ったれいかは、なにかをなつかしく思い出すような目を、していて。あたしもそれを見ていたら、なんだかふっと、遠いことが浮かび上がってきた。もうすっかり忘れてしまったと思っていたのに、いったいどこに隠れていたんだろう、いまとそっと手をつないで初めてはっきりとした記憶が、あふれてくる。

"ほら、なお。ボタン、かけまちがえていますよ"

 そう、そうだ、あれ、は。ボタンのシャツを着るのが苦手だったこともあったっけ、一人でできるようになった顔をして、ほんとは何度も、れいかに助けてもらってたんだ、あたし。なんで今まで思い出さなかったんだろう、あのときはまだふくふくとかわいらしかった手が、なんとなくぴしっと気をつけをしたあたしのボタンを、上からていねいに留め直してくれて。
 でもそれを、やっぱり長い間続けていたあたしは、同じようにある日突然、まるで自然なこととして、それはおかしいって言われたのだ。まだれいかちゃんに留めてもらってるなんて、おかしいよ。彼だったか彼女だったかはちょっと思い出せないが、どっちにしたってまったくその通りだった。だって多分あたし、そのときにはもう、ほんとはちゃんと自分で、シャツくらい着られるようになっていたはずで。
 だけどどうしてだろう。そこまできて、唐突に追憶がいまと混ざりあう。長く、流麗になったれいかの指先。でもあのときと変わらない、ていねいな、ていねいな手つき。早くはないけどれいかの繕い方があたしはたぶんとても好きだった、ひと針、ひと針、まるでとても大切な何かをあつかうように縫ってくれる、そのきれいな手つきが、たぶん、とても。
 好きで、好きで、そしてきっと、あたしの手に残っているのは、たったそれだけかもしれなくて。

「ねえ、れいか」
「はい?」
「どうしてまだ、あたしのボタン、つけてくれるの?」

 同じ言葉を言いながら、どうしてだろうって思い出す。
 どうしてだろう、あのときばかにされていたのはどう考えてもあたしにちがいなかったのに、先に泣き出してしまったのは、きみの方だったんだ。

 一瞬手を止めたれいかは、けれどまたすぐに針をうごかしはじめた。そうなるとひどいことに、あたしはそれに目も意識も縫いつけられずにはいられない。だから言ってみれば、れいかがめずらしく、あのね、と口ごもるように話し出してくれたのは、あたしにとっては少々、ありがたいことだったのだ。

「あのね、おかしいことなのかも、しれないけれど」

 いいえきっと、おかしいことなのでしょう。れいかはなんだかそう言うみたいにしてそこで一度言葉を切った、けれど、終わりじゃなかった。
 そのとき手をぴくっと跳ねさせて、あ、とちいさくこぼしたれいかは、慌てたように指先をちょっとだけ口元にあてた。だからつまり、そんなふうにして、背中で鍋がしゅんしゅん鳴ってるのをあたしはすっかり忘れてて。れいかはなんか、指、ちょっと刺しちゃったみたいで。
 そしてあたしはこんなところで、帰り道のあれは勘違いなんかじゃなかったんだって、ありありと突きつけられることになる。

「私は、なんだかね。なおが、すこしわがままな方が、うれしいの」

 口元に当てた指に、隠れるようにして。はにかんだ色に染まった頬に浮かんでいたのは、やっぱりそう、だったんだ。
 くすぐったいくらいぽつりぽつりと、れいかは続ける。なおが、なおがお姉さんになったり、みんなのあこがれの人になったり、手芸が私よりもずっとずっと得意になったり、しても。時間が過ぎて、たくさんのことが変わっていって、落としたものもどんどん増えていって、もう昔のままでなんか、ぜったいに、いられなくなっても。

「それでも――なおのボタン、つけていたいの。」

 ああ、だからきっとこれは、私のわがままなのね。
 よりによってそんな言葉で結んだれいかは、それでも最後までていねいな玉結びをして、はい、おわり、と制服を広げて見せてくれる。しっかりついた第一ボタン。お鍋が焦げ臭くなるまであと数十秒。じゃあ、あたしたちが今までのままですらいられなくなるまでは、あとどれくらいなんだろうか。そんなことを考えて、考えたけれど。
 なんでだろう、あたしいま、なんか、そんな、いやな気分じゃ、ないんだ。れいかはとってもきれいになってしまったのに、自分でつけたらこの半分かそれより早いくらいに終わっていたと思うのに。そんなこともふっと飛び越えられるような、なにかが。

「……ありがとう」
「ううん、このくらいは、いつでも」

 ちがうんだ、もっと、もっとほかに、きみにありがとうって言わなくちゃいけないことがあるんだ、きっと、あたし。それだけは、とてもはっきりとわかっていた。



 幸いなことにと言えばよいのかそのときは手ひどい失敗はしなかったので、さっきから一応考えていたことではある、晩ご飯を食べていってはどうかという話をれいかにすることはできた。こうなると弟たちが味方にいるというのは強い。なにせれいかがちょっとでも遠慮するそぶりを見せたら、五人分のおねだりが、ちょっとした嵐めいてごうごう飛んでくるのだ。
 おかげでしばらくもしないうちにれいかはお家に連絡を入れる羽目になって、そこからの弟たちの素直さときたらこれまたおもしろかった。ほんと、定期的にれいかに来てもらったら、家事は格段に楽になるんじゃないだろうか。普段だってそりゃ手伝ってはくれるけどさ、お鍋の前にお皿を持って整列してくれるなんて、そう見られる光景ではないのであって。

「あの、私もお手伝いを……」
「だーめー! れいかお姉ちゃんは、座ってないとだめー!」
「あ、は、はい、ごめんなさい……?」

 いやほんと、小さい子って、強いんだ。一番小さいこうたまで、あんまりわかってなさそうなのにだめだめと叫んでいるのだからさすがに笑えてしまう。といって、あたしが肩を震わせているのに気がついたらしいれいかは、なんだか非常にもの申したそうな顔をしていたのだけれど。
 ――という、なごやかな空気をふっと突き破るように、甲高い音は、鳴り響いた。

「あれっ、電話……やば、」

 ちょうど両手で持った鍋で湯切りをしていたあたしは、ちょっと手が放せないからけいた、と思ってすぐに思い直す、そうだった、めずらしく両手にお皿を持っている。ゆうたもはるも右に同じ、ひなやこうたになると、さすがに一人で電話を取らせるには少し危ういものがある。鳴り続けるベルがちょっとした焦りを呼ぶ。
 だからいけなかった。となると、ってちらっとテーブルの方を見てしまったのが、いけなかった。だってそこには、さっきから完全に手持ちぶさた気味にちょこんと正座していた、きまじめな幼なじみが、座っていたのだから。
 つまりそう、あたしと目が合うが早いかぱっと立ち上がったれいかは、あっという間もなく素早く電話の前まできて、ベルを甲高く叫び続けるそれを、こんなときもちゃんとていねいな仕草でとったのである。

「はいもしもし、緑川です」

 穏やかで優しい、声で、そう、言ったの、だっ、

「うわっ、ねーちゃん、手、手! 鍋にさわってるっ」
「えっ……て、うわぁっちぃ!!」

 まずい、これはまずい。いやなにがまずいってもうなにもかもが。とにかく鍋を置いたあたしは受話器を受け取って、どうやら単なるセールスかなにかの電話だったらしいそいつを適当に切り上げて通話終了のボタンを押して。そして、受話器を持ってきてくれたれいかと、ぱっちりと目を、合わせてしまって。
 あっもうだめだなって思った、自分の顔の状態くらい自分が一番よくわかってる、もう絶対、言い訳なんかできない。しかもさらにひどいことには、れいかはそのときまで、なにがなんだかぜんぜんわかってなかったんだ。かしこくてきまじめなこの幼なじみは、たまにものすごく鈍いことが、あって。
 でも、さすがにあたしがこんな、さっきまで茹だってた鍋の中さながらな状態では、気がつかない道理がない。かりにそれが、どんなに余計なことであったのだとしても。

「……あ。わ、私、さっき……、っ!」

 だからあたしは、ぽんと音がしたんじゃないかってくらいあっという間に、きれいなきれいなきみが俯いて真っ赤になったのを、よりによって特等席で、しっかり見ることに、なってしまったのだった。



 はたしてその後がたがたになったであろう夕飯の味がどうであったのかを、結局あたしは自分で確認することができなかった。一口目にしてあたしとれいか以外の顔が固まったあたり、あまりよいものではなかったことだけは確かだが。もっともあとのことはほとんど覚えていない。味覚どころか五感がもうしっちゃかめっちゃかになってるって自覚だけはあった、と、思う。
 そしてそのひどい状態のあたしとれいかがどうしていたかって、ひどい状態のまんまで、多分さらにひどいことに、影もとけてしまった夜の道を、れいかの家へ向けて、並んで歩いていたのだった。

「…………」
「…………」

 いくらなんだってこんな時間にひとりで帰らせるわけには行かない、そのあたしの判断が間違っていたとは思わない、思わない、けど。なんかもう根本的にいろんな何かが初めから間違っているよなあって、頭を抱えたい気分なのに、あたしとれいかはそろって仲良くうなだれて、というよりは目線をそらしあって歩いていた。肩がぶつからないぎりぎりの距離だって、黙ったままでわかる関係、というのは、こういうときに、便利。
 そしてあたしとれいかの家はそう離れているわけでもないから、黙っていようとすれば黙っているままで全行程を終えられてしまう。だから今夜も気がつけばもう、慣れ親しんだとはいえ大きさだけははっきり感じる門の前まで来ていた。足を止めたあたしの横を、れいかが一歩前に出る。門に一度手をかけて、かけたけど、止まる。

「それ、じゃあ。なお、また、あした……」
「……っ、れいか!」

 あ。と、心の中で言ったのがあたし、くちびるからこぼしたのがれいか。すきだなあって、ずっとそれだけ、もうそれだけ思い続けた手をつかんでしまっていた。月明かりの下で振り返ったれいかは、もう目とか心臓とかそういうの全部ひっくるめて、あたしの全身、わしづかみにしちゃうくらい、きれい。
 ねえでも。わがままを言って欲しいなんて言ってくれたきみは。きれいに、きれいになった、きみは。

「わ、わがまま、言うね」
「えっ……?」
「もっかい、言って」
「もう、いっかい、って」
「さっきの。もっかい、言って、れいか」

 きみは、それでも、あたしにきみを、望ませてくれますか。
 目が合う。青くて深い色の、でもその奥で、ゆらゆら、ゆらゆら、どうしようもないくらい揺らめく光をたたえた瞳と、目が、合う。れいかの細い喉が、こくり、と小さく動いた。うすく開かれたくちびるからふるえた吐息が短く漏れて、それが、最後のためらい。

「みどりかわ、です……」
「……もっかい」

「緑川、れいか、です」

 望んでほしいと望んでくれることは、必要を、必要としてくれているということ。あたしが在って、きみが在る、そのやわらかなつながりを、いとおしいと思ってくれている、ということ。
 どきどきするくらいきれいなれいかは、そのときばっかりはそれをぶっとばすくらいなんかもう冗談みたいにかわいくって、かわいくって。結婚可能年齢とか、ここは公道午後八時とか、そういうよくわからないことをとりあえず振り払って、言ったきりしゅるしゅる小さくなりそうなくらい俯いたれいかを、あたしは思いっきりつかまえた。
 ねえもっかいって言ったらさすがにもうだめっておこられた、けど、知ってる、耳たぶのはしっこのほうで小さく、ぽつってなにか聞こえたよ。胸の奥がいっきにふわふわくすぐったくなって、なんか意味もなくたくさん名前を呼びたくなった。れいか、れいか、そうだ、言いたいことが、あるんだ。
 まだ裁縫だってへたくそだった頃から、今まで変わらずずっと、きみに伝えたかったことが、あるんだ。

「れいか、ありがとう」
「うん……?」

「ずっと、ずっと。あたしのこと、好きでいてくれて、ありがとう。」

 そしてできればこれからも、あたしと、つながっていて。
 いろんなことが変わっていって、あたしたち自身が変わっていって、つながりかただって変わっても。ただ、ただ、それでも、あたしのそばに、いてください。どんどんきれいになっていくその手でまた、解れたボタン、つけてください。

「っ、はい……ずっと、すきで、いさせて、ください」
「うん、あたしも、だいすきだ」

 ねえだから泣かないでって言ったのに、れいかはその夜、ほんとにきれいになったはずの顔をくしゃくしゃにして、けっこうたくさん、泣いてしまった。

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