あついあつい日




 ものごとには誰かだけが悪いなんてことはなくって、誰かと誰かと誰か、全員がいびつに絡みあって悪かったりするから、ややこしいことになるのだ。

 でもこの場合、悪いのはやっぱりあんたなんちゃうかな。どうしてもそう言いたくなってしまうのは目の前の光景がついついぽうっと見とれてしまうほどに綺麗だからなのだとあかねはよくわかっていて、それが少なからずしゃくなのだった。
 綺麗、だとか可愛い、だとかそういう感情に理由を見つけられるほど自分の頭は良くないのだとあかねは決めつけていて、だからそれをこういうふうに辺りに充満させられるこの子のことは、いつもほんとうにずるい、とばかり思っていた。机に突っ伏して緩やかな寝息を立てる、滑らかな頬の上にさらさらと張り付いた髪が一筋一筋光っているように見える、れいかは、ずるい。
 放課後の教室に一人残ってれいかが何をやっていたのかあかねは知らなかったが、れいかの腕の下敷きになっているプリントを見るに、おそらくまたなにかしらの仕事をしていたのだろう。生徒会やクラス委員のことはあかねにはよくわからないが、れいかちゃんはアカンベエだけじゃなくってこーんな細かい文字のプリントとも戦ってるんだよ、といつものよくわからないノリでみゆきが感心していたことは知っている。非常に直感的ではあるが、多分そういうことなのだろう。

「……ほそい」

 自分の唇から漏れた呟きにあかねは自分でびっくりして、ほぼ日も暮れかけた教室に残っている生徒は誰もいないとわかっていたのに、慌ててきょろきょろあたりを見回してしまった。もちろんがらんとした室内に影を落としているのは、穏やかな寝息だけを繰り返すれいかと、両手を口に当ててまで息をひそめているあかねと、そしてたくさんの机と椅子の足くらいなのだった。
 うち、いつの間に近づいとったんやろ。誰もいないことを確認して確認して確認してようやっとあかねは息をつくが、落ち着いたということはさっきまでの思考の続きがやってくるということに他ならない。といって、あかね自身も何を考えていたかはわからなかったのだけれど。ただ、細いなあ、と思っていた。あとちょっと手を伸ばせば届きそう。それのなにがいけないのかという問いに答えてくれる人もいないから、あかねの指先は止まらない。
 最初に触れたのは薄いブルーのトップス、次は制服の袖。そして、とてもやわらかな。そのときあかねの手は躊躇いにふるえたけれど、止まれるはずがないのだ。だってあかねの指先には、れいかの目元を優しく隠していた髪が、ふわふわと当たっていたのだ。だから。止まれるはずないと半ば言い聞かせるようにしていたことを、あかね自身本当は気がついていた。

「さらさら、やなぁ」

 みゆきみたく水の妖精さん、やないけども。でも今自分の指の隙間を滑らかに零れていくそれに何か名前を付けるとしたなら、優しい水、とか、きっとそういうのがぴったりなのだ。あかねは自分でも少しびっくりしてしまうほど真摯にそう思っていた。自分のそれがある程度ひょんひょんと元気に跳ね回ることを毎朝よく思い知らされているあかねとしては、この子と自分が同じ生物だということにすらも、ちょっとした感動をおぼえてしまうくらいだった。

「………、」

 そんなあかねの弄ぶ手が完全に停止したのは、髪に覆われて或いは守られていたその向こう、柔らかな、柔らかな頬に、爪のほんの先っぽが、届いてしまった時のこと。
 さっきあんなに見回したのにと思いながらも、あかねはもう一度横目で教室の中をすみずみまで確認せざるを得なかった。いやだってほら、もしかしたらあの教卓んとこにやよいみたいなちっこい子がひょいって隠れとるかもしれんやないか。あんまりちっこいちっこい言わないでと頭の中で騒ぎだす、それこそちっこいやよいをどうにか追い出しながら、あかねは息を整える。というより、どうにかこうにか、吸って吐くことをする。
 その呼吸のひとつで、胸の奥が少しずつ締め付けられる。きっと肺が空気に潰されてるとかそんなんや、そうに違いない。あかねはどんどん自分に対していいわけするのが上手になっていたのだけれど、もうそんなこと彼女にとってはどうでもいいようなことだった。吸って吐いて、苦しくなる。それなのに心臓の音だけが、どく、どくと、とても元気だった。なんや、空気読めへんな、自分。そないに騒ぎ立てたら、もしかしたら、もしかしたらやけど。れいかに、聞こえてまうかもしれんやん。

「なんて、な」

 そんなことあるわけないけどな、と軽い調子で打ち消して。(そのときにはもう、あかねは、自分が軽い調子でなんて動けないって、わかっていて。)
 一度、いや二度失敗した手は、漸くれいかの頬まで、辿り着いた。ぐわっと手のひらから深いところまで一気に駆け上ってきた温度に、あかねは思わず飛びのきそうになるのを必死にこらえる。髪の先はあんなに冷たかったのに、れいかの肌は、こんなに、あたたかいのだ。
 肌。肌て。なんだかなまなましい言葉が浮かんでしまって、あかねの両頬はたぶんれいかのそれよりもずっと熱くなったのだけれど、それ以前に頭が熱ではんぶん蕩けてしまっているあかねには、それがもうわからない。さっきまで部活に勤しんでいて、忘れ物を取りに来たところであったあかねの手は、外気で少し冷えていたはずだった。それが今は、もう見る影もない。れいかの熱がとけてくる。どっちのせいでうまれたものだかわからない熱が、溶けて、くる。

「ん……」
「……っ、」

 そのときれいかがふっと喉の奥をくうと鳴らすような、あまえるようなとろけた声を発して、あかねは自分の足からゆっくりと力が抜けつつあったのに気がつかなくて、教室は静かで、とても、静かで。

「な、お……?」

 だから、れいかがそのとろけるような声のままで呟いた名前と、くずれたあかねの腰がぶつかった机の名前が同じであったことは、あかねの奥のほうまでしんしんと、しんしんと、響いたのだ。


「……あー。」
「っ、あ、れ……? あ、あかねさん? どうして、こんな時間に」

 がたんと勢いよく背中の方で椅子が倒れる音を聞いた。あのサッカー部のエースで女番長で大親友で話の合う、曲がったことのきらいな、最高にいいやつの椅子だ。もちろんそんな大きな音が立ってれいかが目を覚まさないはずはなく、いつも凛とした居住まいのれいからしく、目を擦りながらもすぐに立ち上がって、服装を正した。
 ほんま、そういうとこ、れいからしいなあ。
あかねはれいかの方を振り向かないまま笑った。きしりきしりとくずれそうに笑った。もう帰らないと遅くなってしまいますよ。耳に涼しく流れていく声で、れいかはあかねに向かって言う。さっきの甘やかな声なんてなかったみたいに、それはあかねの耳元を冷やすのだ。

「なあ、れいか」
「はい? ――っ!」

 だけどもう絶対に冷やすことなどできそうにない熱が、あかね自身にももうおさえきれない熱が、あかねの中ではごうごうと音を立てて、燃え盛っていて。
 さっきまで突っ伏していた自分の机に、れいかは今度は背中を叩きつけられる羽目になった。しかしれいかが状況を理解するよりもずっと速く、机の天板とあかねの手のひらが、れいかの肩を縮こまらせるに十分な音を叩き出す。顔の横には、今にもふるえてしまいそうなあかねの腕。覆いかぶさってくるあかねのユニフォームからは、れいかの知らない匂いがした。
 でもあかねが見下ろしているれいかの顔だって、今まで見たことのないようなものだった。打ち付けた背中が痛いのか、それとも伸し掛かられて呼吸が苦しいのか。よくわからないけれど、れいかはぎゅっと眉根を寄せた、にがい表情を浮かべていた。なおが近づいたらもっと柔らかそうな顔して、笑ったりなんかするのにな。そんなことばかりあかねは考えだしてしまって、じりじりと焦げる熱が留めようもなく増していく。

「あかね、さん」

 さっきの涼しげな声よりは、今の掠れた声の方がずっといい。耳触りは最悪やけどなと思いながら、あかねはれいかのこめかみから頬までをすうと撫でる。ふるえなんて伝わらなければいいと思ったけれど、あかねの手と瞳を交互に見るれいかの目には確かに気遣う光が宿っていて、それがよけいにしゃくだった。 
 しゃくでしゃくでたまらないのだ、ふいっと背けられた横顔がきれい、でもあと少しで鼻先だってぶつかりそうだったのに、それがとても残念だ。すっかりおかしくなっとるなあうち、なんて妙に冷静に考えながら、あかねはれいかの目を追った。

「っ、だめ……!」
「せやろ、なぁ」

 吐息がぶつかるような距離のままで、逃げ場なんてどこにも残さないままで。(そしてあかね自身だって、もうどこにも行けないような距離で。)


「じゃ、なおならええんか?」


 放った言葉は自分の胸に刺さって、もう絶対に、抜けそうになかった。

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