はつこいの日




 れいかとキスした。


「お、なお、おはよーさん!」
「した……した、ん、だよな、やっぱり」
「……なお? おーい、なおー?」
「したよな……うん、した、と思う……した、っけな、いや、したって……」
「なおさーん。なおさーん、姐さーん、みーどーりーかーわーなーおーさーん?」
「し、しちゃっ、たんだ……う、うわ、わー……」
「……あっ、れいか、おはよーさん!」
「わああああれいかっ、お、お、おはようございましゅっ……て、あ、あれ?」

 そうして無理やりに意識をひっぱり出されたあたしの目の前にいたのは、さっきのさっきまでなんというかこう非常に心臓によろしくない感じで思い浮かべていたひとではなく、もう呆れてますっていうのを極太の筆ででかでかと書いたような呆れ顔をしたあかねであった。
 あ、と瞬きをした途端に、廊下はこんなにうるさかったのかと気が付く。周りの声が戻ってくる。じゃあさっきまで何を聞いてたかのかって、さっきまでは自分の心臓の音だけで、とてもじゃないけど、頭がいっぱいで。ちなみにそれは落ち着いてくれたのかっていうともちろんそんなことはないのが問題といえば問題だが、目下のところの最優先事項は、一応のところ目の前で超が三つつくくらい怪訝そうな顔をしているこの親友ってことでまちがいがないのだろう。
 どうにか取り繕うつもりでこほんと咳払いをした瞬間にいやもう手遅れやからと即座に突っ込みを入れられたのだけれど、まあ、その、ちょっとあたしの話も聞いてよ、親友。

「いや聞かんと大体わかる。だからこそ聞きたない。頼むからうちに構わんでくれ、今日はあんたうちの半径五十メートル以内に接近禁止や」
「同じ教室にすらいられないじゃんそれ! こっちこそ頼むから聞いてくれって、なんかもう一人で抱えてるのいっぱいいっぱいなんだよ、一晩で!」
「一晩……て日曜の話かい、やったら余計聞きたないわ! ちゅうかそないあっかい顔してれいかの名前にだけ超反応とかもう嫌な予感しかせえへんし! 掴むな掴むな掴むな、あかねさんのぷりちーなカーディガンの袖が伸びる、伸びまくる!!」
「今流行りの萌え袖ってことでここはひとつ!」
「おーい誰か来てくれ、学校一女子にモテるイケメンなおさんが壊れたー!! 早う誰か来て、そしてうちをこっから逃がしてくれー!!」

 空元気満載なやりとりにあかねが付き合ってくれていたのも束の間、今日のあたしには近寄りたくないというあかねの言葉はどうやらかなり真剣な本音だったようで、あたしの両腕によるホールドをこんなところでバレー部エース候補自慢の身体の柔らかさを大発揮してするりと抜けだしたあかねは、まさに脱兎というのがぴったりないきおいで逃げていってしまった。
 といって、あかねの判断はたぶん間違っていないと自分のことながら言えてしまうのが自分でかなりむなしい。なんというかその、今日のあたしは、非常に、よくない状態なのだ。

「あー……あー、あー、だめだ、だめだだめだだめだ……」

 なんていうおよそ頭の中だけで思い浮かべていればいいようなことをいちいち呟いてしまう辺り、あたしの頭がいかにいっぱいいっぱいなのかはおわかりいただけるだろう、周囲の生徒たちにも。というかあかねと大声で妙な言い合いをしていた時点で結構な視線を集めていたのであり、その後ひとりになっても挙動不審なあたしが目立たない道理はない。
 そうはいっても人間、我慢できるときとできないときっていうのは必ずあるのだ。そして今のあたしは後者の極大値をとっているといってもいい。ていうかもう無理です。なにが無理なのかは自分でもぜんぜんわかんないけど、とにかく、もう、無理です。今日正常な思考とか絶対、無理。もしかしたら明日も無理かもしれないけど。ていうか無理な気がする。ここから一か月先くらい、あたし、正常な思考とか、無理な気がする。

「あっ、なおちゃーん、おっはよー! ねえねえ聞いてよ、今朝も花壇でれ、むぐ」
「みゆき、今、あたしの前でその名前を出したら……」
「ぷはっ! え、だ、出したら……?」
「爆発」
「えっいやだ怖い!」
「あたしが」
「あれっもっと怖い!?」

 ――れいかとキスした、昨日の、帰り際のことである。


 何時ごろだったのかって聞かれたら、実は正確なところが思い出せないのだ。あたしやあかねのそれとは全然違う、なめらかに白く澄んだ頬をとてもきれいに赤く染めたれいかが、恥ずかしそうに肩を縮めてちょっと手を振って、消えてしまいそうな声でまた明日、と言ってくれた。その後姿が玄関扉の向こうに消えていったのを見た、ところまでは、くらくらするほど確かな記憶だ。
 けれどその後のことがとにかくはっきりしないのだ。どうやって家まで帰りついたのかもわからないけど、それ以前にまずいったいどうやって隣町の入り口まで来ていたのかがわからなかった。本当に焦った、早く帰って弟たちのご飯の支度をしてやらなきゃいけないのに、自分がどんな道を歩いてきたのかだってあたしはただの少しも覚えていやしなかったのだ。じゃあ何をおぼえてたかって、国道沿いにごうごう走る車の音も帰り道を走るひとびとも全部置き去りにしてあたしがたったひとつ何を考えいていたかって、そんなの、そんなの、は。

"れいか、待って"
"あ……なお、"
"待っ、て。"

 距離と時間を手探りで埋めていくような沈黙が、流れて。途切れた会話と繋がった目線、たぶん同時に息が止まって、きみがゆっくり、目を、閉じる。倒れるのを失敗したみたいに足を出した、履き古したブーツの下で砂がじゃりっと鳴って、その微かな音にもぴくっと震えた小さな肩に、それ以上に震えが止まらない手を置いた。
 抱きしめてしまわないようにするのと逃げ出さないようにするのと、その両方をするのがこんなに難しかっただなんて。あのときあたしはそれをありありと実感して、でももうそれ以外にあれこれ考えることはできなかった。ちかくなる、ちかい、ふれそう、あと、さん、に、いち――。


「じゃあ、十二ページから……青木、読んで」
「はい」

 なんて考えているうちにも一時間目が始まっていたあたり手遅れを実感するのだが、たっぷり油でも引いたように目が滑る教科書に、それでもあたしは視線を固定しようと躍起になった。集中なんて不可能なことはわかってる、でも、ほんのちょっとでいいからとにかく別のことへ意識を逸らさなければ、隣で立ち上がった椅子の音にですらあたしは飛びあがってしまいそうだったのだ。
 こういうとき、隣の席って、けっこう困る。例えば二時間目の数学ではきっと小テストが行われるであろうし、その採点はまたいつも通りに隣の彼女と交換してやらなければならないのだろうが、その時あたしがまともな回答を記せている気なんて絶対にしないのだ。ただでさえいつもここはあとでいっしょに復習しましょうねなんて言われるのに。いや迷惑なんかじゃないけど、すっごい嬉しいけど。でもとにかく。

「まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の、花ある君と思ひけり」

 凛と澄んでいて耳に心地よく染みていく、れいかの声を聞いていると、いつもは深いところを優しく洗い流されている気分になれるっていうのに、今日ばっかりはそうもいかなくて。ただあたしはどくん、どくん、と教科書を握る指先の一本一本までが脈打っているような気分でいっぱいになってしまうのだ、落ち着くための深呼吸がみっともないくらいに震えてしまうのだ、喉がからからになって、次に当てられたら絶対にうまく読めないだろうなってことが、もう、わかるのだ。

「やさしく白き手をのべて、林檎をわれにあたへしは、薄紅の秋の実に、人こひ初めしはじめなり」

 りんご、熟れたりんごみたいだったな、れいかのほっぺたと、やわらかくて湿った、ところ。
 人間これだけは考えないようにしよう考えないようにしようと思えば思うほどそこに指向が向くのは当然で、具体的に言うとその先は教科書に何が書いてあったかあたしは知らない。でもれいかの声だけはちゃんと聞いていた。意味のある言葉の繋がりになっていたかは(それが古文体で書かれていたからという話を抜きにしても)ちょっとよくわからないけど。
 おなじいろになるのかな。ひんやりとした声であたしの中からどんどん溢れていく熱で、半分うかされた気分になりながら、あたしはふっとそんなことを考える。教科書に隠れて、横目で音読を続けるれいかの方を見ながら。おなじいろになるのかな、綺麗な線の首筋も、制服からちらと除く華奢な手首のあたりも全部。そんなことが、あるのかな。
 
「わがこゝろなきためいきの、その髪の毛にかゝるとき、たのしき恋の盃を、君が情に酌みしかな」

 すきなひとなのだ、と、こういうときに実感させられる。すきなひとで、すきなひとだから、きっと考えてはいけないところまで考えているのだ、あたしは。すきっていうのは怖い、この暴力的にあたしの中で膨れ上がる熱の正体は、あたしがどうにか予想できるだけでも、とても怖い。だって全然ふつうなんかではないし、優しくもないし。へたをすればとても簡単に、大切な人を傷つけるかたちをしてる。
 だけどどうしても考えてしまう、考えずにはいられない、ふつうでなんかはいられないんだ。しかも今日はそいつに、めまいがするような鮮やかさが追加されてるときたもんだから。なにせ絶対に憶測を超えなかったそれに、実感が追加されてしまったのだ。手にありありと残った細い肩の感触が、初めてあんなにはっきり感じたれいかの熱が、およそくだらない妄想と呼ばれるべきそのあんまりよくないいろんななにかに、しっかりした色を与えてしまう。主に肌色と桃色で。勘弁してくれ!

「林檎畑の樹の下に、おのづからなる細道は、誰が踏みそめしかたみぞと、問ひたまふこそこひしけれ」
「よし、そこまで……ん? おい、緑川、どうした、大丈夫か」
「へ、っ?」
「顔が赤いぞ?」

 ――保健室に搬送された。


 頭の状態がこれで昨日の夜眠れたのかっていうともちろんそんなことはなかったわけで、その眠気も限界に来ていたらしいあたしは、保健室のベッドにたどり着いた瞬間結構な爆睡をかました。保健の先生が少し席を外すかなにか言っていただろうか、もうよく覚えていない。徹夜明けの眠りというのはこんなに重く引きずり込んでいくのかと思いながら、あたしは高速で意識を沈めて、だから浮き上がるまでもすごくあっという間だった気がする。

「ん……」
 
 何度か瞬きをして、それでも開ききらないまぶたをごしごしこすって無理やりひらく。光に弱くなっているらしい目に、保健室のシーツやカーテンの白が焼き付いて、頭の奥がひりひりした。そんなふうに身体は重たいけれど、すごくすごく重たいけれど、ここでぐーすか寝っぱなしっていうわけにもいかない。なんというかそれは、その、もったいない、し。
 いっしょに出かけたりできるのが日曜日だけっていうのと同じように、すきなひとだけど、すごくすきだけど、同じ場所にいられる時間はいじわるなくらいに少ないんだ、とくにタイムスケジュールってやつが決められてる中学生のうちだと。
 だからどんなに変な顔色してても、頭の中めちゃくちゃでも。それでも真っ直ぐ向き合いたいから、できるだけは、そばに、

「なお? 起きたの?」
「っおぅわ!?」
「ひゃっ!?」

 あ、ど、どうしよう、へんな声出た。思いっきりびっくりさせてしまったらしいれいかの手から滑り落ちた文庫本が、床でぱさりとまぬけな音を立てる。
 えっと、でも、その、びっくりさせられたのはこっちも同じだ。まだ頭も目も身体も寝ぼけっぱなしだというのに、あたしはとにもかくにも跳ね起きてれいかの方へ向き直ることを余儀なくされた。(顔を逸らすとか布団に隠れるとかそういう選択肢が思い浮かべばいいのに、直球勝負の染みついた体はこういうとき、本当に不便なのだ。)

「あ、えっと……体はもう、大丈夫なの?」
「へっ、あ、う、うん、全然平気、へいき……っ!」

 のぞきこんできた顔、やさしい瞳、ふとゆれた髪。あたしの額まで、ぺたりと伸びてきたれいかの手は、いつもちょっと、つめたい。
 つめたい、のに、間違いなくそのコンマ数秒で、あたしの熱は一気に暴走した。

「でも、なお、まだ顔が赤いわ。もしかして、熱が」
「ち、違う! 違う、からっ……」
 
 おねがいはなして、いまきみに、触れられ、たら。

「れいかちゃーん! 次、体育だよー!」
「どーせなおはぐーすか寝とるんやろ、そんなんほっといて行くでー!」

 保健室の扉の向こうから聞こえてきたそんなみゆきたちの声は、片方は救いのような形をして、白いカーテンの隙間から飛び込んできた。
 そういえばと思って、寝転んでいた時には見えなかった時計を見ると、たった今長針が二時間目の始まりまであと五分を告げる位置にかちりと動いたところで。そういえばれいかが座っていた丸椅子の傍らには、れいかがいつも体操着を入れている袋が置いてあった。
 扉の外でやよいちゃんをからかうあかねの声がする。すっとぼけたことを言うみゆきちゃんの笑い声が聞こえる。そのほか移動教室をしている生徒の声で、廊下はにわかに騒がしい。だからきっと、こんなに静かなのなんて、真っ白なカーテンで仕切られたこの空間の中、だけで。
 れいかがきしりと静かに椅子を鳴らして立ち上がる、文庫本を拾い上げて、片手で体操服の入った袋を持って。なお、と、あたしの名前を、呼ぶ。でもわかってるんだ、きみの涼やかで綺麗な声はもう、あたしの中で熱しかよばない。

「後でまた様子を見に来るから……ちゃんと休んでいてね、無理は、しないでね? それじゃあ、またあとで――」

「……だめ。」

 行かせたく、ない。
 ひゅっと小さく息を飲むのが聞こえた、耳元で。ずっと描いていたはずの感触よりももう少し華奢で、だけどずっとずっと柔らかで、そしてくらくらするほどいとおしいからだが、あたしの両手に掴まえられて、胸の中に沈み込む。なお。吐息のように、れいかはあたしのことを呼んだ。それが逆効果になるんだって、きみはそろそろ、おぼえたほうがいい、よ。
 細っこい背中を抱え込むようにして、綺麗な髪をくしゃりと少し乱して、きみが少しくるしそうなのも構わずに(あるいは、構えずに)、抱きしめる。だきしめる、ってさ、しめる、っていう言葉が入ってるからさ、きっとそんなに優しいばっかりのことじゃないんだ。だってこんなにうまくいかない、あたしはもっと苦しくしてしまいそうな暴走する力を、目をぎゅうっと瞑ることでどうにかおさえていた。
 いたいかな、いたくないかな、ちょっといたいほうがうれしいかなあなんて最低なことを考える、ふつうじゃないことばっかり考える。

「な、お……っ?」
「すき」
「え……?」

「すき。すき、れいか、だいすき」

 きっと困らせているだろうってことはわかっても、すきなんだ、ぴくりとふるえた指から肩にこつんと降りてきた額まで、もうぜんぶ、ぜんぶ、すきなんだ。
 遠くにチャイムの音を聞いた、みゆきたちは先に行ってくれたかな、きっとそうだと信じ込む。あかねがうまいこと言い訳してくれるさ。だいたいにして、そんなこと今はもう、どうでも、いい。保健室の外も今度は静かになって、どうしようもないような沈黙が、鼓動の音を加速させる。
 けれどあたしの腕からすっと力を抜くことができるのも、不思議なことに目の前のこの子であるのだ。拒絶するというのではどうやらないらしい両手で、あたしの肩をすっと押し返したれいかは、とても、とても短い深呼吸をして。

「……私も、すき。」

 濡れた瞳を伏せたまま、静穏でも流麗でもなんでもない、熱でどうしようもなくなった、とってもつたない声でそう言った。

「れいか」
「なお……っ、ん」

 れいかとキスした、かぞえきれないくらいたくさん、キスした。

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