おくりものの日




 わたしのつばさ、あなたにあげる、わたしはいらない。

 なにも変えずに、その場にただ立ち止まっている、ということは、自分に期待しなくてもよい、という点からすれば、割と気楽なことなのではないか。そんなことを、さいきん、よく考える。
 だってきっと立ち止まっているうちに私は、あるいは私をしっている誰かは、私が立ち止まっていたことなんて、いつかすっかりと忘れてしまうのだ。かみさまが人間に与えた中で、およそもっとも優しいと思われる贈り物。頭の中は、気がつかないうちに掃除されて整理されていく。いらないものは、だからぜんぶ、捨ててしまって。
 少しだけさびしくて、でもきっととても幸福で健康的なことがぷかりと浮かんでは、空よりずっと低いところで、音もなく弾けて消える。
 だから、そう、そのうちきっと、忘れてしまう。
 胸の奥のふるえも。
 日差しの下の砂場の匂いも。
 みっともないくらい頬が熟れていたことも。
 日焼けした肌の、すりむいた膝小僧から垂れていた鮮やかさも。
 いつも私の半歩前で揺れていた黄色いリボンも、砂あそびの感触が少し混ざった手のぬくもりも。
 だいじな、あなたの、名前の呼び方も。
 そのうちきっと、忘れてしまう。いつからかどこかがずうっと痛かったことだって、そのうちきっと、ほんとうに、ね。


 手のひらのことを考えていたら、手のひらのことが周りで起きていた。なんていうと、大げさなくらいに劇的な巡り合わせだと思えたりもするのだけれど。ただなおとあかねさんが隣の席にて手のひらの大きさを競っていたのは、どっちにしたって私が考えていたようなこととは、なんの関係もないのだろう。
 なんの関係もない、いつも二人がなにかしら競い合いたがるうちのひとつ。そういえば昨日は腕相撲だった。明日は指相撲かしら。ともすれば仲良く手を合わせている微笑ましい光景にもなり得るのに、二人して額をかち合わせそうなくらいにらみをきかせているのが、どこかちぐはぐだった。それなのにそっちの方が仲良しに見えるのだから、人間の関係というのはふしぎだ。
 ただ今日のそれは、いつも彼女たちが選択している力差や技量で決まる勝負と比べれば、いくらか不公平でのようにも見えた。なぜって手の大きさくらべなんて、サイズひとつが決まっていたら、あとはどうしようもないから、勝負とはいえないだろう。だいたいにしてなおの手は、同じ年の頃の女の子たちと比べれば、ちょっと大きめなのだ、昔から。

「あっ、くっそ、あとほんの数センチやのに……!」
「ふふん、あたしの勝ち! まったくあかねは発展途上だなー」
「こんのぉ、見とき、いつか身長もなんも追い抜いたるからな……!!」

 それを知っていて、その手で握る少し大きめのおにぎりが好きな彼女の弟のことも知っている私は、なおの指をかるく反らせてしまうほど力を込めているあかねさんを見て、どうしてそんなに悔しそうな顔をするのかが、少しわからないと思っていた。わからない、けど、体育会系なところのある人だから、そういう部分も、あるのだろう。
 壁は高い方が、とか、きっとそういうこと。私のように不可能性に敏感なのは、それほど良いことでもない。うん、あかねさんは、そういうところが、まぶしい人だ。そうやってひとのことを、黙ったまま、勝手に理解したふりをしたり、しなかったりする。一から十まで黙っているから、ひとには伝わらないけれど。それは多分に、私のもっている悪癖だった。

「むーん……あ、せや。うりゃっ」
「うわぁ気持ちわるいっ!! ちょ、あ、あかねっ、ひとの手のひらの上で変なことすんなっ! あーぞあぁってした、鳥肌たった、気持ちわるっ……」
「二回言いよった、女子の手ぇつかまえて気持ちわるいて二回言いよった……うちのぷりちーな爪で撫でられて幸せですくらいのことは言えんのか、この女泣かせ番長が」
「それこそほんとに気持ちわるいっての、ていうかどさくさに紛れて関係ないとこつっつくな……それ隙ありぃっ!」
「わひゃあっ!? やっ、やめ、やめぇアホ、ひとの手ぇの上で指くるくるさすなっ!!」

 そうやっている間に勝負はなぜかくすぐり合いにシフトしていて、結構暴れているように見えたのにこちらまで全く被害が及ばないのが二人のすごいところだ、と大いに関係のないことを、私はぼんやりと考えていた。集合。パトロール。パトロール。解散。随分子供っぽい声がよみがえる、あれは膝の上でやるものだったかしら。
 なおは、昔から、くすぐったがりで。気がつけば勝負はあかねさんからやり返しにやり返しをくらって、完全になおの劣勢になってしまっていた。私が言わなくとも頭の回転が速いあかねさんはすぐになおの弱点に感づいて、手首を押さえられたまま、拳を握って逃げる力も残されないなおは、なんだかほとんど涙目だ。ちょっぴりなさけないようなくすぐったい笑い顔が、ひどくなつかしい。景色が軽くゆがむほどに。
 とどめのひとくすぐりを終えたらしいあかねさんは、すっかり机の上でぐったりしてしまっているなおの背中でぱんぱんと手をはたいた。目が合うと、とても誇らしそうににっと笑っているのがおかしかった。それもなつかしいというのがおかしかった。ああ私の時計は、でもきっと、いつだっておかしい。手の大きさ比べなら勝てるのになあ、という悔しそうななおの顔が、一気に、色を変えたのは。もうとうに通り過ぎてしまった"あの日"のことばかりが、とめどもなくあふれてくる。

「ふふん、今日のところはこれっくらいで勘弁したるわ」
「ひー、もう、つっかれた……あ、ねえ、れいか」
「はい?」

 ねえ、れいか。
 身長が伸びたよ、れいかのこと、追い越したよ。
 手のひら、を、私の頭にとんとはしゃいだように、乗せて。ほら、と、自分の額までそのままくっつけたなおが、なおが、とおいとおい記憶の向こうで、笑う。それはぼんやりと、今と重なって。
 なおの、変わらない笑顔と。もう、どうしようもないほどに変わってしまった、想いと。
 ああ、また痛い。ーーまだ、痛い。

「手。比べてみよっか、久々に」

 まだ痛い。差し出された、手を、見ていると。覚えているのよりも少し日焼けの色が濃くなって、ひとまわりもふたまわりも大きくなった、手。その体温がまだ忘れられていなくて、忘れられていないから、私はそれで、まだ痛い。たまにすがりつきたくなる。たまに、何の気なしに揺れているあなたの手を、後ろから捕まえてしまいたく、なる。
 でも痛いは強いから、少しだけ便利なことのようにも思えるのです、ちょうどいい警報になる、から。なにも変えてはいけない。私はなにも、変えてはいけない。だからその手に、触れてはいけない。私が、そしてなによりもあなたが、ひとつずつ忘れていくために。あなたの、健全なこれからを、お祈りするために。
 そう、ひさびさ、そうね、そんなことをしたのはもう、本当に、むかしのことに、なりました。見えなくなるほど遠いことに、なりました。だから、むせかえるようななつかしさの中に立ち止まったままの私のことも、そこから先がぽっかりとない私のこともも、いつしか、あなたには、見えなくなるのでしょう。

「……なおの方が、大きいですよ。比べなくても、わかります」
「ん……そう?」
「ええ。昔から、ずっとそうだったもの」

 なにも変わっていることなんてありません。それは気楽なことだし、それは優しいことだし、それはそうあるべきことなのでしょう。
 一瞬きょとんとしたなおが、だけどすぐに手をひっこめる。そうかなあ、まあ、そうだろうなあ。肩を竦めてあなたは笑った。

「お。ほんなられいか、うちとやってみよか?」
「はい、どうぞ?」
「なおには負けたけど、れいかには……おっしゃ、勝ったぁー! え、ちゅうか、れいかの指ほっそいな! うちよか二回りくらい細いんとちゃう?」
「れいかは昔から、指とか細くてきれいだったからなー」

 むかしからという言葉にしようもないほどほっとする、よかった、あなたの中でだって、私はなにも変わっていない。だから早く早くその日が来ればいいのに。なにかを想っていたことだって、忘れられるその日が。
 さよならの練習を、明日もこれからもずっと続けるには、私はほんのすこし、疲れてしまっていた、から。


 とはいえそれはからだの疲れとはなんの関係もないようなことだと思っていたのに、どういうわけか家に向かう私の足は、一歩ごとに信じられないほど重くなっていって、気がつけば足を止めていた。近くにあったベンチに、ふらふらと腰掛けていた。どこを見たらいいかわからない目線が茜色の空気をさまよって、途方にくれていた、というのがきっと正しい。なんだかもう一歩も歩けないような気がしていた。多分に、ばかばかしいことだった。
 だって重く、重く私の中に積み上がっていった疲れは小さな嘘をたった一つ呼んだけれど、けれどだからといってどう、ということも、なかったのでしょう。私達の現在の立ち位置からすると、たとえば私が早く家に帰らなければいけない用事があるだなんていうのは、非常に自然なことでしかないのだ。
 私はなおがきょうだいたちの世話をしながらも部活には全力で打ち込んでいることを知っているし、幼なじみのなおは私の家がそれなりに厳格な気風であることを知っている。校門であなたを待たないための理由なら、だから本当にあっさりと、見つかってしまう。
 ざんねんだけど、そっか、それじゃあまた明日。ちょっと残念そうな顔をしてくれたなおには、やっぱりすこしどこかが痛んだけれども。それは私がいとも簡単に、なかったことにできるのだし。まだ見えないいつかには、きっと、なかったことに、なっているのだろうし。それよりはたとえば今日の、私の重たい足がもつれて、数十センチの守るべき大切な距離を飛び越えてしまうことのほうが、私はどんなにか、おそろしい。
 そんなふうにして、いま、あなたに、触れてしまうことが。
 私はどうしようもなく、おそろしい、のだ。

「……帰らないと」
「もう?」

「っ、え?」

 突然、声が、かかった。
 驚いて、鞄にのばそうとした手を引っ込めることも忘れてあたりを見回したら、ちょうどベンチに影を落とすような形で、女の人が、立っていた。いつからそこにいたのだろう、長い長い髪が、ほそい腰のあたりにまとわりつくように揺れていた。年の頃は正確にはわからない、けれど、"大人"であることだけはやけにはっきりとわかった。
 ほとんど中腰の姿勢で固まっていた私は、しかし重いからだという点からすればあくまでも自然な流れとして、ベンチの上にまた舞い戻ってしまう。といった一連の私の挙動を、ずっと穏やかな微笑みを浮かべたまま見つめていたその女性は、およそ順番が間違っているようにも思える挨拶を口にした。淡泊に、こんにちは、と。

「あ、はい、こんにちは……」
「ね……隣、座っても、よろしいでしょうか?」
「えっ? 隣……あの、え、ここ、ですか?」
「はい、そこです」

 わけが、わからなかった。なにが、と言われたら、たぶん、なにもかも。どう考えても知らない人であるその人が私に突然声をかけきたという状況も、どこにでもあるような(数歩歩いた先にですらある)ベンチにて私との同席を希望してくる理由も、なぜだか考えるより早く私がそれに、かくりと頷いてしまった理由も。
 だけどきっと、いちばん、わけがわからなかったのは。怪訝そうどころかもはや無遠慮になっているであろう私の視線を受けながらなお、ありがとう、と静かに言ってみせるその人について、私がいちばん、混乱していたのは。夕焼けに青みがかかった色を返す髪にも、どこか淡泊に響くその声にも、こちらを振り向いた口元に、浮かんでいた表情にも。

「あの、あなたは」
「はい?」
「だれ、ですか……?」

 すべてに――眩暈がするほど、見覚えがあったから。
 まったくの初対面で、話すどころか顔を見ることだって初めてなのに。コミュニケーション能力の高い人見知り、というややこしい性質を内包している私が、どういうわけかこの人に対しては、初めからなんの殻も持たずに向き合ってしまっていた。この状況にはそれなりに戸惑うべきことなのに、それもできない。いっそ暴力的なほどの、距離のとれなさ。

「あなたがそれを聞くのは、なんだか、おかしな話ですね」

 くすっと笑ったその人はそれだけ言って、私はなぜだかその笑顔を見て、妙に自信たっぷりと、ああこの話はここで終わる、と思っていた。なかば、確信していた。きっとこの人はもう、これについてなにも話してくれる気はない。どうしてだかはわからないが、それだけはとにかく、わかりすぎるほどに、わかった。
 だから、やっぱり眩暈がするほどの既視感を以て目の前で再生される、髪を耳に掛けるその人の仕草をじいっと見ながら、私は、ああきっと、なにかまったく別の話が始まってしまうのだ、ということを、かなりの割合で、予想していて。

「そうですね……見たところ、疲れているようだけど。それで、明日も学校には、ちゃんと行けるのかしら?」
「……ええ、それは、もちろん」
「そう。ちゃんと明日も、笑えそうなのね?」
「はい」

「うん――うん、あなたなら、そう答えると思った。」

 そこまではわかったのに、まるでがまんができないといったふうに、ほとんど語尾を揺らめかせながら言って、ついには吹き出してしまったその人のことは、さすがに、予想できなかった。びっくり、した。正常な受け答えをしていたという自信はあったし、立場上ひとの前で話をすることくらい散々あったのだから、裏付けのある自信のはずだった。
 だというのに彼女は軽く両手でお腹をおさえる必要があるほどにくつくつと笑ってしまっていて、私はいよいよ本当に混乱してしまう。混乱してしまうから、大いによけいなことも考えてしまう。あなたは、あなたはいったいなんですか、私の、なにを知っているんですか。どうして、私なら、なんて、言うのですか。なんて、なにを知っているわけもないのに、ついついこぼしてしまう。
 しかし彼女は、おかしな子だと顔をしかめるでなく、またいっそう笑うでもなく、ただひとつ、浅い吐息を吐き出した。ため息というには浅すぎるけれど、ただの呼吸というには少し、じわりと染みすぎる。そんな吐息を、仄かにひかるくちびるから、彼女はしっとりとこぼす。そうね、とても、残念なことだけれど。

「とても残念だけれど、私は、なにも知りません。なにも知らないし、なにも、わからないの」

 なんだか、困ったような、いとおしそうな、かなしいようなまぶしいような、そんな不思議な顔をしながら、彼女はそう言って。
 ああ、でも、そうだ。この人を見たとき一瞬で"大人"とわかったのは、なにも間違っていなかったみたい。私は変なことを言われながら、変なことで、納得していた。

「それは、あなたと、同じです」

 いろんなものをぎゅうぎゅうに詰め込んで、それでも笑った彼女は、言う。
 私はいつだって、なにも知らないし、なにもわかってないの、と、言う。

 手の大きさ比べをしませんか、と唐突に言われた時点でほとんど驚けなかったのは、なんだかそう、私が本当に、まったく、混乱しきっていたせいなのだろう。お友達とだってやるでしょうという一言がついてきたあたりではもうきわめつけで、だから私はもはや、言われるがままに手をぷらっと差し出すくらいしか、すべきことが見あたらなかったのだ。
 さっきの、不思議な表情をまだ残したままで笑う彼女は、やけに丁寧に私の手と自分の手を合わせていた。それこそ執拗なくらいしっかりと、始点も中間点も定めて。手のひらのスタートも、指の分岐点も丹念に合わせて。それは、行動としてはお昼に見たあかねさんとなおのやりとりにも似ていたはずなのだけれど、なぜだろう、まったく異質だと思ってしまった。
 異質というより、真逆。だってそう、お昼にみたのは、なんだかんだと負けず嫌いななおとあかねさんが、違いを生まないための必死さで。

「……ああ、ほら。やっぱり少しは、大きくなってる」

 ここにあったのは、私と彼女の、違いを見つけるための、必死さだったのだ。
 大きく、「なってる」、と私は彼女の発言をたどっていたようで、それを聞いた彼女がどうしたかといえば、ただ黙って笑っただけ。ああまた、なにも話してもらえないらしい。しかし手だけは合わせたままでいる彼女の目を見つめ返すのを、しばらくしてやめた。代わりに、おたがいぴくりともしないままのふたつの手を、見る。つめたくて、細い手だった。私のそれより、ほんの一回りだけ、大きな手だった。
 そのとき、ねえ、と、聞き覚えのありすぎる声は、どこかすきま風にも似たふるえをはらんで、空気を揺らす。ねえ、変わらないことなんて、きっとないんですね。たとえばこんなふうに、と彼女は言っただろうか、たぶん言わなかった。言わないまま、冷たい肌の感触だけが、ふわりと手にすいついた。細く整った指先が、ほんのちょっとだけ、私の手の向こう、彼女の微笑みの手前に、見える。
 ねえ、たとえあなたが、どんなに優秀でも。どんなに、たくさんの対策を、講じたとしても。
 それでも、よのなかにまったく変わらないことなんて、なにひとつ、ないのです。

「だから、きっと、変えられないことも、ないのでしょう」

 風が吹いた。彼女の、髪が揺れた。それと一緒に姿も揺れたように見えたのは、おかしなこと、だったのだろうか。かすかに冷たいそれを飲み込むと、知らずうちに痛んでいたらしい胸の奥に、ひりっとしみる。
 そのまま指をするりとずらした彼女は、私の手をきゅっと握りしめた。なめらかな爪が、軽く皮膚に食い込む。指と指の間から、どく、どく、という脈動が響いて、くる。なにもわからなくてなにも知らないといったその人は、私が少し顔をしかめたら、それでいいのに、とかすれた声でこぼした。
 痛いなら痛いといってもいいの。あなたの痛みは、あなただけのもの。それを痛む権利があなたにはある。それを悲しむ権利が、あなたにはある。ねえ、だけど。だけど、立ち止まったあなたに、はじめの一歩を踏み出させることができるのは。
 いつだって、痛くて泣いている、悲しくて立ち止まっている、あなただけなんだよ。

「……そうですね、こうしましょう。あなたに、魔法をあげます。たった一度しか効力を持たない、大事な魔法です」
「ま、ほう」

「あなたの。この、手には。たった一度だけ、触れたひとに、幸せをあげる魔法が、かかりました」

 彼女は、どうも私の頭を撫でようとしたらしく見える手を、一瞬だけ空にさまよわせて、それからすぐに、引っ込めた。背中に隠したそれを私がふいに目でたどってしまったのに気がついたのだろう、少しだけばつが悪そうに、笑って。小さく首を振ってから、さっきからずっとどくどくしている手に、また、力を込めてくる。
 人に、こんなにしっかりと手を握られたのは、なんだか初めてな気がしていた。しかしそれにしてもあまり上手じゃない繋ぎ方だと思った、なにも知らないしわからないというのは、案外本当なのかもしれない。きっとこの人は、この、なきそうな顔で笑う人は、まだ、ちゃんとした手の繋ぎ方すらも、知らないのかも。
 そう、私と、同じように。

「ちゃんと、考えて。本当に大切なときに、つかいなさい」

 ねえ、もう忘れてしまっていませんか、ほんとは最初に、おっことしてきてしまったのでは、ありませんか。あなたにとって、とても、とても、大切だったこと。
 さあ、ちっぽけなあの子を一緒に、むかえにいこう。きっとひとりぼっちで、泣いてるから。



「れいか……れいかっ!!」
「っ、あ……?」
「あ、良かった、起きた! はー、びっくりした、なにかあったのかと思ったよ……」

 気がついたら眠っていた、気がついたら日が暮れていた、気がついたら、なおが、目の前にいた。ついさっきまで話をしていたようなのに、私の頭やからだは随分と深く眠っていたようで、泥のような眠気があちこちにまとわりついたままだった。そんなことがあるわけないのに。
 しかし見渡してもあの人は影も形も見あたらなくて、ただ彼女が座っていた位置よりもいくらか私に近いところには、心底ほっとしたように息をついて、それにしたってどうしてこんなところでうたた寝なんて、といくらか咎めるような声で言うなおがいた。あ、お姉さんの顔、だ。どうもはんぶん眠ったままらしいのんきな頭が、ぽうとそんなことを浮かべる。

「先に帰ったと思ってたのに、こんなとこで寝てるからさ、ほんとにびっくりしたんだよ?」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いや、いいけど……れいか、ちょっと疲れてるんじゃないの? れいかはとにかくさ、昔から、なんでもがんばりすぎなんだよ」

 さあ、もう帰ろう。昔と変わらない優しさで、いや、昔よりもきっと、もっとずっと、優しい声で、なおは言って、私の方を振り返ってくれる。なおの笑顔は見ていて痛むことがたくさんあって、それなのに私は、あなたのその風のたった一吹きのようなもので、立ち上がる力を得てしまう。もう帰ろう。ベンチから元の道に戻ったら、あとは歩き出す方向がちゃんとわかっていた。私の目は前を、向いていた。
 けれどそのとき、ほんの一瞬、たとえば親指の先の先なんかが、かすかに、かすかに、触れて、しまって。

「………っ」
「ん……れいか? どしたの?」

 私は、足を、止めたのだ。
 計ったようなタイミングで、先刻の出来事があふれだしてくる。右手が爪の先まで熱い。そんなの錯覚かもしれなかったし、そもそもとしてさっきまで夢を見ていたというほうが納得できそうな結論であったのに、私は息を飲んでしまった。立ち止まってしまった足。もう帰ろう。行き先は、知っていた。
 私、私はいま、どんな顔を、しているのだろう。振り向いていただけだったなおは今や正面から私に向き合っていて、それはいつだって直球なあなたらしい行動だったけれど。目を逸らしそうになって、逸らしたくなくて、私はずきずきする胸を制服がぐしゃぐしゃになるくらいぎゅっと握りしめた。そうでもしないと立ってもいられなかったのだ、私は、きっと。
 そして右手は。からだの横においたまま、こぶしをぶるぶるさせていた、右手は。本当なのか嘘なのかもわからないような魔法で、ばかばかしいくらいに優しい魔法で、ひどく、ひどく、熱くなっていて。もうたまらなくなって、私は手を開いてしまった。風が呼ぶほうへ、伸ばして、しまった。

「……れい、か」
「なお……っ」

 なおの、手に、触れて、しまった。
 人差し指の、ほんとうに先の先をちょこっとだけつまんでいる、こんなので、触れているというのかは、少し疑問だけれど。でも私にとってはおそろしいほどに、決定的なことだったのだ。胸をずっと刺していた痛みが全身まで回って、ぼろぼろ崩れてころされそうになるほど、それは決定的なことだった。
 なおの親指が、とん、と、私の同じ指に、触れる。それがあんまりあたたかい感触で、私は泣きそうになる。なお、私は。私はずっと、それが怖くて。きっとたった一度でも触れてしまったら、だって、私はそれを、忘れられないから。あなたの手と、あなたのすべてを、そしてこのひどい気持ちを、ずっと、ずっと、忘れられなくなるから。私はそれが怖くて、怖くて怖くて、たまらなくて。
 私は別にどこにも行けなくなったってよかったのです、誰もいなくなるまで立ち止まっているつもりだった、私のことなどいつしか見えなくなったあなたが、なにもかも忘れてしまうその日まで、そうあるべきことを続けるつもりだったのです、ほんとうです、ほんとう、なんです。痛みが喉を締め上げる。言い訳すらも、言えなくなる。

「れいか」
「っ、ぁ、なお……」
「はい。」

 なおは、一歩前にいたなおは、ためらいもなく後戻って、私の右隣に、並んだ。つまんだままのなおの手が、ゆるりと開かれる。はい、と、差し出される。
 たとえば、そう、両手いっぱい広げて、ほら、待ってるよって、ちょっぴりはにかんで、笑うみたいに。

「れいかから、つないで?」

 ああ、私は、怖くて、たまらなくて。なにもかも、忘れてしまおうとして。だけど、初めに置き去りにした気持ちが、いつも痛かった。いつもひとりで、みじめに泣いていた。
 怖くて、怖くてたまらないのに、私はまだ、あなたの幸せの理由になってみたいだなんて、そんなひどい望みが忘れられずに、ずっと、泣いていたのだ。

「なお……」
「ね、ゆっくりでいいから」

 待ってるから。どうして思い出してしまったんだろう、きっと私は今だって怖いんだと思う、指がふるえて、ぜんぜんうまく握れなかった。たくさん、たくさん、間違えた。ひっかいて傷つけてしまいそうになったから、慌てて引っ込めて、やりなおし。合わせる指を一本間違えたから、やりなおし。体温にくらくらしては固まって、呼吸を忘れては苦しくなって、ずっとみっともないくらい、ふるえていて。
 それでもなおは、たまにくすっと笑いながら、待っていた。私がそこにたどりつくまで、待ってくれていた。何度も、気が遠くなるほど何度も握り直しても、がんばれ、と、囁くように繰り返していた。そのたびに私は心の中で、ごめんなさいを繰り返す。ごめんなさい。ごめんなさい。そんなすばらしいあなたに、私は。
 私は。私が。

「……なお、」
「うん、よしっ!」

 きゅっとつないで、笑ったあなたに、魔法を、あげる。


 少しくぶかっこうに手を握り合わせた帰り道で、私はぼんやりと、変な人に会ったの、という話をした。多分夢だと思うんだけれど、という前置きのせいだろうか、突拍子もないそれをなおはずっとふんふんと興味深そうに聞いていて、しかし魔法のくだりになると、ぷっと吹き出した。
 さすがにこれはおかしすぎたかしら、と思って、私も笑い飛ばしてしまおうとしたが、遮るようになおが、そりゃほんとに変な人だね、と、言って。

「変なの。そんな魔法、れいかの手にはさいしょっからずっと、かかってるのに」

 いともなんでもないことのように言って、それでまた足を止めてしまった私の手を、さっと引っ張ったなお。
 ほらね、と、手の甲の上、ちいさなぬくもりが、落ちた。

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