ゆめみるさかなの日




 強い人には、なれそうにもない。

 きれいやなあ、というのが、うちの根っこには、きっとあった、それは、ちがいない。
 そりゃあいくらなんだって大阪から転校してきたばかりだと緊張もするし、目線があちこちふらふらすることだって初めはざらだった。どこに行けばいいかわからないそれは、先生がなんやようわからん図を並べ立てる黒板とか、前から三番目の切れかけの蛍光灯とか、わずかに曇った窓ガラスなんかにぶつかってばかりで、はじかれてばかりで、ぜんぜん、落ち着かなくて。
 でも、それが、もう初めはいつやったか思いだせんわ、そのくらい静かないっしゅん、ぴたりと止まった。おちついた、のだ。もっとも、あれだけ激しゅう心臓跳ねさしといて、それを落ち着いたっていうならの話やけど。椅子の足がなんも音を立てんかったんはきっと半分以上が奇跡のできごとで、ともかく、ともかく、そのくらいには、縫いつけられた。にんげん誰でも知ってる上手な呼吸のしかたってやつが、ぽん、と、頭から抜け落ちる。
 横顔、を、覚えてる。新雪みたいな色の肌に、なめらかにかかる、深い深い色の髪。細くてつめたそうな指先が、こめかみから耳までを、そっとふれて。窓から射し込む日差しでひかる、髪、が、流れて。そいつがなんだかしっとり濡れているように見えたんは、うちがまばたき忘れてたせいなんか、それともあの子の髪がひとよりずっとつやつやしてたからなんか、もっとちがうなにかだったんか、うちはもう、たしかめられない。
 青木サン、て、その時点でうちは、はたして認識しとったんか。くっと変な力が喉元に入ったかと思ったら、妙なかたまりがすべりおりていったような音がした。なにを飲み込んだのかはわからんかったけど、からだの奥あたりでぱちんとはじけたらしいそれは、指先とか、つま先とか、頭のてっぺんとか、なんかそういうとこらへんまでを一気にぎゅうっと巡って、それがすごく、すごくつめたくて。おなじように、すごく、熱くて。
 ああ、そうか、て、なんもわからんのにうちは、そのときなにかひとつがすっかりわかってしまったような気になっていた。劇的、というよりは、絶望的、に。なぜだかぼんやりと、薄い氷を思い出していた。それをなんもわからんとつっついたとき、きっとさっきみたいなつめたさと熱さが、どうしようもなく、からだじゅうを走るのだろう。
 だから、ああ、そうか。このひと。冬の朝日は氷のうえにふりそそいで、あおい、あおいひかりがはじける。
 そうか、このひと、きれいなんや。ほんとに、ほんとに、きれいなんや。

「……なーんて、な」

 あれから、あれから何日、何ヶ月、か。意味もなくぺろっと舌を出してみる。一昨日から降り続いている雨のせいで空気は今度こそ本当にじっとり湿っていて、ひりっと冷えた舌先に、重さが一気にからみついてくるみたいだった。いやそれにしたって、なんもかんもわかっとらんかったわりに、さすがうちやな、うまいこと言うわ。薄い氷、て。
 そうつまり、ふれればびっくりするほどかんたんに壊れてしまう、ってところなら、すっかりよく、当たってる。夜明けの空は、水の底からみあげる光と、くらさがよく似とるんやて。早朝にはオニイサマと一緒にジョギングをしているんですなんてことを話したときに、ぽろりとこぼした一言を、まさかうちが拾って覚えとるなんて、いちいちそんなことしとるなんて、あんたはきっと、思いもしない。
 でもべつに、それでもいいと、思うけど。ただなんとなく考えるのだ、何日何ヶ月前よりもなぜだかずっとずっときれいに見える指先が白くなるほど握りしめられているようすとか、どっからどうみてもかっこいいことこの上ないユニフォーム姿がさっきから茂みのすきまで揺れてるのとか、わあっと近づいてくる黄色くてみずみずしいたくさんの声だとかを聞きながら。うちは、なんか、考えてしまう。

「あ……れいかー! ね、今日はちょっと、早く上がれるから! 待っててよ、一緒に、帰ろうねー!」

 ここんとこそっぽを向いてばかりいる太陽よろしく、汗をきらきら散らしながら手をふったかっこいいあいつに、窓辺からきれいなきれいな手を振り返したこの子は。ひかりにはちゃんとひかりを返す、この子は。
 薄い氷の下で、しんとつめたい水の底で、どんなくらさを、みてきたのだろう。



 さてうちはここで、いつもおなかを空かせているのに重ねて、ここのところの悪天候中での練習で燃費が悪いことこのうえない幼なじみのために、日課のジョギング以上に早起きをして、昆布と塩鮭のおにぎり(ちょっとおおきめ。)を握ってきたというのに、みんなの王子サマ緑川先輩の空腹を耳ざとく聞きつけたファンの子たちが手に手にもってきた差し入れで、ぴたりとそいつをひっこめる羽目になったっちゅう、いわゆるひとつのかわいそうな女の子の話を、まあ、べつに、してもええんやけど。
 物語ちゅうんは、たぶん、ものを語ってくれる人と、それから聞いてくれる人、その両方がいて初めて、物語になるんであって。ようは、誰も知らない人がかりに居なくなったって、誰も知らなかったんだから、初めから居なかったのと同じ、ちゅうみたいに。からからと優しい手つきで窓を閉めて、鍵もしっかりロックまで閉めて、これで戸締まりは終わりですねなんてこの子が笑ってしまっているいじょう、そいつは、たぶん、なんにもなれん。
 穏やかに笑うくちびるを凍ったみたいにかたくむすんでいる限り、れいかがなんも言わん限り、たとえばさっきのかわいそうなだれかさんの話、なんていうんは、なんもならんと、また、薄い氷の下、つめたい水の中、音も、影も、かたちもなく、ゆっくりゆっくり、しずんでいくだけ。

「日直のお仕事、あとは、日誌の記入だけですね」
「ん、せやな。にしてもれいかとやったらめっちゃ早よ終わるよな、こういうの。あんたと組んだ日直てたいがい幸せやなー、なんやったらうち、次もれいかとがええわ」
「そこは名前順の兼ね合いですから……それに、今日早く終わったのは、半分はあかねさんのおかげです。おあいこですね」

 うん、きっと、前まで組んだやつらにも同じこと言うて、同じように笑ってきたんだろう。目元と口元を涼しく綻ばせて、れいかはとってもきれいに笑う。昨日よりも、一昨日よりも、まして一年近く前よりもずっととぎすまされているような、「きれい」。氷はみえない間にどんどん厚くなる。つめたい水で冷やされて、どんどんどんどん厚くなる。ひかりのあおさだけが、濃く、深くなっていく。
 だから。だから、と思う、そのくせとんと日誌を揃えたれいかが、たったいちどでもこっちをちらっと見上げてきたようなのだって、そのうちこおりついてしまうんかな。いなくなってしまうんかな。からんころんとすずしい音も、きっとぜったいに立てないままで。
 そうやって水底で手を握り合わせるみたいに、幼なじみを風の吹かない窓辺から見守るれいか。日直で組むと喜ばれるれいか、いつかほんとうにきれいだとうちから酸素を奪ったことのあるれいか、どんどん、どんどん、きれいになっていくれいか。

「……あの。あかね、さん?」
「うんー?」
「その、部活もあるでしょうし、あとは私がやっておきますから……ほら、もう日誌の記入をして、先生に提出するだけなので。あかねさんは、どうぞお先に、」
「うん、行かんよ?」

 多分にうちの肩をそっと押そうとした手を、うちのたった一言でびくっと、不必要なほどに跳ねさせた、れいか。

「行かんよ、どこにも。」

 きれいで、きれいで――それでも、まだ、きれいになりきれない、れいか。
 名前順の兼ね合いで偶然組んだ、青木れいかと日野あかねの日直の仕事は、まだ、終わらない。

 静かなのはうちもれいかも一言も発していないから、というだけではきっとなくて、雨の音からもすっかり切り離されているらしい薄暗い教室の中で、れいかが自分の腕をぎゅっと握るときだけ、止まりきった空気がちいさく動いた。丁寧にアイロンのかかった制服がしわになってしまうのが見える。それで叱られたりするんかな、この子は。それよか、藍色の巾着袋に入ったふたつのおにぎりの行方のほうが、心配すべきことかな。
 と、うちがれいかの机の横に下がったままのそれを見ていたら、まるで視界を遮るような形でれいかは一歩踏み出した。踏み出す、というのは、たとえば誰かと組んでやる仕事ともなればあっという間に片づけてしまうようなれいかにしては、珍しいことだったのだろう。だからそれだけ、うちがそれをみないってこととか、れいかがふっと笑うようなことは、この子にとってはすごく、すごく大事なことだったらしくて。

「あかねさん……あかね、さん。あの、本当に、先に」
「だから、行かんて」
「で、も……さ、先に。先に……」
「れーか。」
「っわ、たしは」

 どんな顔をしたらいいかわからないようなとき、ひとはきっと、泣いてしまう人と、笑ってしまう人の二種類に、わかれるのだと思う。そしてれいかは、あまりにも決定的に後者だった。どっちもきっと間違ってない。だからあんたは別に間違ってへんよ。
 ただ、残念なことに、それがいいかどうかっちゅうのを決めるんが、あんたとはそりゃもうまったく関係ない、うちやったってだけでな。奥歯をかみしめるように笑って、わらって、れいかは、両手を握り合わせた。ふるえてた、と、思う。指先も華奢な肩も、蛍光灯に照らされてわずかな影を落とす、ながい睫も。このじめじめあつっくるしい、なかなか降りやんでくれない雨の中で、れいかは、ふるえてた。

「私は、なんというか、その」
「うん」
「いま、っ、とても、いやなにんげん、なので」
「うん」

「きっと……さいてい、なので。」

 きんとつめたい罅割れとよく似た声が、教室の空気になかなか溶け合わないでいるそのあいだに、れいかの握り合わせた両手は、ふっと力が抜けてしまったようにひらいて。どこまでもひえきったみたいにきれいなそいつは、この子の整った顔を、覆った。
 桜色の爪の先で、まっすぐ切りそろえられた前髪がぐしゃりとめちゃめちゃにこすれる音が、いやになるくらいに響く。笑っているか泣いているか、それでもう、ぜんぜんわからなくなった。うちにも、誰にも、なんにもわからなくするためにしかない、たったそれだけのためにある、ひえた両手だった。
 いやなにんげんなので。さいていなので。それだのに、ふるえた細い十本の向こうにぼんやりと見えるのは、だんだんと見慣れはじめたような気のする、あんまりきれいじゃない笑顔で。きれいじゃないっていうかな、へたくそなんよ、ああいうときのあんたの笑顔って。なんや、へんなくらいにまっかやし、瞳とかたまに、うるうるしとるし。あわててぱっと消そうとしたくせ、すぐまたくすっとこぼしたり、するし。
 だからな、へたくそなんよ、ほんとに。こと、自分でも考えていないようなところで、それこそ心の奥深くからひょっこり顔を出したようなことを、うっかりこぼすときの、あんたの笑顔は。
 そうやって、あんたの、だいじな、だいじななおの話をするとき。
 あんたはいつも、なんか、ものすごく、へたくそになる。

「………っ」
「なー、れーか」

 れいかは顔をくしゃりと覆ったまま、縮こまりそうになっていた。もともと肉付きの良くない子であることくらいは、親友にこづかれながらの女子更衣室なんかで、知っていたつもりだけど。ただこういうときに感じる細っこさは、どっちかというと弱さというのに似ていて、胸がちょっと重くなるのだった。
 それでも良かったと思うのは、一歩近づいたら二歩ないし三歩逃げられるっちゅうひどいことだけは、どうにか避けられたらしい、ということで。さすがにうちかてあの馬鹿力番長とはちゃうからな、あんま重たいのばっか、抱えてられへんねん。だから、よかった、うれしいわ、ありがとう。我ながらちっさいなあと思いつつ、いやいや身長はほんまいつか必ず抜かしたるから、と、思いつつ。

「れーかは、かわええなあ」

 たんねんに切りそろえられた爪が手のひらをざりざりこするのも、つややかな髪がちょっとぐしゃぐしゃになってしまうのも知らん顔して、れいかの頭を、撫でた。
 いやなにんげんでさいていで、言われればいくらでも部活帰りのあいつを待つのに、待ちたいのに、それもできなくて、たったひとつののぞみは、あいつになにも、のぞまないことで。それでもたまに、勝手に期待したり、勝手に絶望したりして、淡雪のようにふわっと溶かした表情を浮かべてしまうようなかわいいかわいいれいかの頭を、そらもうなんっかいも、撫でた。
 れいかがきょとんとしているのがこっちこそ不思議やってくらいに、それはうちの、心からの言葉。かわええよ、れいか、あんたは。きれいでもなんでもない、へたくそなあんたは。
 
 ああ、そうや、あいつに恋してる、あんたはさいこうに、かわええよ!



 背中のことをずっとずっと気にしながら、れいかと一緒にどしゃぶりの中を、なんにも言わずに駆け抜けた。急に強さを増した雨に慌てる町の喧噪を、水たまりに映った景色のように聞きながら。制服のままで傘もささずに走るうちらはそりゃもうあっちゅう間にずぶ濡れになって、あーれいかは上着着とるタイプでよかったわなんてことに、妙なくらいほっとする。
 だって下着透かしたまんま町歩きましたなんてこと、もしあの番長に知れたらいったいどんな技かけられるか、て、まあ、もう、ええか、あいつの話は。なんて。
 ちゅうか、うちもふっつーに嫌やわそれは、なんて鈍色の空を仰いだら、前髪で散った滴が目に入って、少し強くまばたきをした。拍子に手首を握っていた手に力を込めてしまったけれど、この場合あれや、もう、後戻りとか、できひん。振り払われなかっただけ僥倖、でもたまにな、たまにやけど思うねん、あんたほんまは、さわられるん、きらいや、ないやろ。
 ところで、さてどこに行こうかなんてことをなんとも無計画に考えていると、足はだいたい、行き慣れた場所に勝手に向かっているもので。気がつけばうちがよくバレーの自主練をしている高架下で、うちとれいかは下にぼたぼたとでかい染みをふたつ作っていた。すっきりと整えられた制服のプリーツをなぞるように、なまぬるい雨粒が、ぽたりぽたりと断続的なリズムで落ちる。

「はぁ、っ、は、はー……うっさいなぁ」
「えっ、な、なにか言いましたか、あかねさん?」
「あー? どした、れいかー!?」
「いえ、あの、なにか言いましたかー!」
「いや、べつにー! うっさいなあて!!」

 頭上を覆うコンクリートをものすごい勢いで雨粒が叩いているせいで、耳がびりびりするような音がひっきりなしに鳴っていて、会話なんてとてもままならない。雨宿りの場所としてはもっともひどいチョイスといえるだろう。もっとも、いまうちらがしたいんは雨宿りやないから、そんなん、関係ないんやけども。ちゅうか、そうやなもしかしたら、案外とここは、今のうちらには、ぴったりかもしれん。
 どうやら息が整ったらしいれいかが、やっと顔を上げた。顔にはりついてしまっていた髪をのけてやる。おー、ほっぺた、つめたっ。いったいどんなバケツひっくり返した大雨なのか、橋のふちからぼたぼたと水が流れているのを見ながら、これじゃあまるで二人して沈んどるみたいやって、ふと考える。

「……なー、れいか!」
「は、はい、なんですか!」
「うん! あーって言うてみ、あーって!」
「は……え、あー、ですか?」
「もっとでかい声で! ほら、あーーーー!! って!!」
「……ぁ、あー!」
「もっと、もっと! ほれ、これでどうやっ!」
「あ……っきゃあ!? あ、あかねさんっ」
「そーれ、お腹の底からー!」
「ひゃ、う、お、重いです、重いですから……!」

 あほぅ、めっちゃ軽いわ、ちゅうか心配なってきたわ、大丈夫かれいか、ほんまにちゃんと食べとるか。普段そんなことしないせいか、なかなかでかい声なんて出せないらしいれいかのお腹を両腕でおさえて、というより抱えて、うちはちょっと聞いてみたが、なんかタブーだったらしい、耳が赤い。
 いや、そりゃあな、いろいろ考えてたら、胸やら頭やら、ちゅうかからだいっぱい、ぎゅうぎゅうに詰まって、重たなったり、するわ。もうこれ以上なにも入らないってくらいに。で、そうやって、れいかはどのくらい長い間、どのくらい深いところにいたのだろう。水の底から浮き上がれもしないで、きれいなきれいな氷を張って。
 声は、全部、のぼってはじけることだってできないような、泡にして。

「ほら、れいか!! あーーーーー!!」
「あ、あー……」
「さっきよりちっさいやん!? このお、ほんならっ……うりゃうりゃ!」
「ふぁっ、ぅ、く、くすぐらないで、あかねさんっ、ちょ……!」
「ほーらー、れいかー! あーーー!」
「う、も、もう……あー!!」
「あーーーーー!」
「あーーー!!」
「あーーーーー!!!!」

「……っ、あああぁああぁあぁぁぁ!!」

 これで、なんねんぶん、かな。そんな、いかんかな。
 強い雨の音なんてピアノみたくこぎれいなもんやなあって、思えてしまうような、そんな、まあほとんど悲鳴の残響が、ぼろぼろに崩れてしまったそれが、長い、長い時間をかけて、やっと、消えるまで。うちは、肩で息をするれいかを、なんかずっと、ずっと、抱き上げたままで、いた。いいとこも、わるいとこも、ぜんぶひっくるめたつもりで。
 手のひらに低い温度がゆっくり凍みつく、水の底に溢れるくらさは、雨に濡れたコンクリートと、きっとほんのちょっとだけ、似ている。


 ――で、な、ここでちょっと聞きたいんやけどな、れいか。いったいどっちの腹が、先に鳴ったんやと思う?

「……しらない、です」
「おー。れいかにもわからんこと、あるんやなぁ」

 まあ、あたりまえか。ひっくり返したバケツはそりゃあいつかは空っぽになるわけで、もう今は小雨だか霧雨だかに近いようなのがちらほら見えるくらいになっていた、となれば、れいかのぼそりとしたそんなつぶやきも、仮に高架下に並んで膝を抱えていたとしたって、どんな調子かってことまですっかりと、わかるということで。まあれいかにとってはわかってほしくないことだったのだろうけれど、今日についてはそのへん最初から、れいかにとっては不都合なことだらけなので、そんな日もあるってこっちゃ、な。
 で、お弁当箱も空っぽで、買い食いは七色ヶ丘中学校生徒会副会長青木れいかさんがお許しにならないというこの状況からすればとても幸いなことに、うちらの手にはひとつ、ちょっとしたイレギュラーな食料があった、というわけで。あかねさんは昆布と鮭、どっちがお好きですか、なんてこんなときでもやっぱりれいかはそんな感じだったので、どっちも大好きやって笑ってやった。
 そうなるとかなり迷ってしまうらしいれいかはやっぱりなんだかかわいくて、差し出されたラップのおにぎりは、握るときのひと苦労がしみじみわかってしまうほどでかかった。逆にあれやな、なおはすこし悩むべきやな、女の子らしく。はて部活もさぼってしまったしいったいどこでエネルギーを発散したものかと思いつつ、まあ腹が減っているのは間違いのないことだったので、ラップを開く。女の子はいつでも戦いだ。主に食欲との。

「んお、うまっ」
「そう、ですか?」
「うん、うまい、めっちゃうまい!」
「……ありがとう、ございます」
「ほんまやでー? やから、れいかも早く食べ。お腹減っとるんやろ」

 この期に及んで私はそのあんまり、なんて言い訳は、さすがにうち、言わしてやらんよ。おずおずと両手に握られたままだったおにぎりを、下からとんと押して、明らかに足りひんやろってちいさく開けられた口に、むりやりつっこむ。あ、米粒ほっぺたについた、あとで取ったろ。はい口入れてー、噛んでー、のみこんでー。あんたもほら、元気にお腹、空いとるんやから。
 いろんな気持ちだけでお腹一杯になって、もうなにも食べなくていいくらい、だなんてことは、まあ、ぜんぜん、なくって。いやになるくらいひどいこととか、さいていななくらいかなしいこととかが、空からどっと降り注いでも、やっぱり今日も、たぶん明日も、お腹が空く。

「……れーか。あんな、このおにぎりな、せっかくこんなちょうどええ塩加減なんやから」

 だからそうやって、やっぱり今日も、たぶん明日も。ずるずる、ずるずる、なにひとつあきらめきれないまま、なにひとつきれいになりきれないまま、うちらは、いきていくのだ。
 しんと冷たい水の底で、それでもずっと夜明けを待って、くらさのなかでひかりを見上げて。毎日毎日しんしんつめたいくせ、たまに泣きたくなるほどあったかいものに、出会ったり、出会わなかったり、しながら。

「そんな、しおっからくすんの、もったいないで?」
「……っ、は、い」

 て、ほんまに聞いとんかいなこの子は、ああ、もう、ちくしょう、かわええ、なあ。
 ええとところで、じょうずに肩を抱くってのは、どうやるんやったっけ。それと、あいつの部活が終わるまで、あと、どのくらいやったっけ。きっと戻らなければならないのだろう、そうして元気いっぱい駆け寄ってきたれいかれいかってさわやかに笑う王子サマのことを、変わらずきれいな笑顔で迎えることだけが、やっぱりこの子の望みなのだろう。そんなことばかりがあまりにもはっきりとしすぎていて、ただなんかもう、具の塩鮭にたどりついたおにぎりが、おいしくておいしくて。

 指先にくっついたごはんつぶを舐めとりながら、ただ、ただ、れいかがあともう少しだけ、おにぎりを食べ終わらないといい、と、思っていた。

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