とおいとおい日




 わたしたちにとって自分が貧乏か否かというのは、おこづかいそのものの額というよりも、その使い方がうまいかどうかということでおおむね決定されるものだと思う。だってこのあいだ一緒に行った夏祭りのときなんか初め確認したところによると、どうもお母さんたちが示し合せたのではないかというほどわたしたちの所持金の額は一致していて、それだのにどうしてもキャンディを助けなければならないという段にあたって輪投げの三百円のうち半額近くの百三十円をあっさりと担当できたようなれいかちゃんは、やっぱりおうちがどうとかいうのとは関係なく、お金に余裕のあるひとなのだろう。そういうのかっこいいなって思うけど、わたしもうまいかと言われるとそうじゃないほう。
 そうなるとあの時点で二十円しか残していなかったようなあかねちゃんは、それもやっぱりふだんからお金がないないとよく嘆いていて、それだからわたしはちょっとびっくりした。いや、たしかにその日はそうとう暑かったのだし、あんがいと夏バテなんかになりやすいあかねちゃんがなかなかのゾンビっぷりを発揮していたことは、隣を歩いていたわたしにだってようく伝わってきていた。だからあかねちゃんが、いつもちょっと効き過ぎるくらいにクーラーが効いているコンビニに、吸い寄せられるように入っていった後を追うところまでは、わたしも自然とできていたのだ。
 だからびっくりしたのは、そのあとのこと。そのあと、なんとなく雑誌のあたりをうろうろしていたわたしの腕をひょいと引っ張って(あかねちゃんはこういうスキンシップにためらいがないのでそれはそれでびっくりするんだけど今は置いておいて)、コンビニの外、ゴミ箱の前あたりに来たときのことだった。

「ん」
「んっ?」
「ん!」

 わたしがそのとき五十音最後の音しか発せられなかったのはまあ端的に言ってびっくりしていたからだったのだけど、あかねちゃんはそうじゃない。なんかもっと、単純な理由だった。単純に、あかねちゃんの口はふさがれていて、それ以外のちゃんとした言葉が出せる状態ではなかったのだ。ちなみに口をふさいでいたのは、我が家の冷凍庫でもおなじみ、パピコ。そして、おなじくわたしに向かって差し出されていたのも、パピコだった。
 そもそもパピコは二本でワンセットなのだからあかねちゃんが一本持っていたらそれはまあ一本あまるよね、ということくらいなら一瞬止まってしまった思考でもどうにか考えられたけれども、昨日だって自動販売機の前で立ち尽くしたまま体操服のポケットをひっくり返していたあかねちゃんが、まさか何かを買って行ってただなんて思いもしなくて。もちろんレジの前に行ったことも知らないわたしは、思わず受け取るのが遅れてしまったのだ。
 すると、コンクリートの照り返しもきつい午後三時半の熱気といつもおひさま温度のあかねちゃんの手は、容赦なくパピコにおそいかかってしまったみたいで。

「ん、おわっ! ちょ、みゆき、はよせぇや!」
「わーごめんっ、ティッシュ、ティッシュあるから!」
「それはええから、まずこれ受け取りっ」
「んぐっ」

 そうして、たぶん二つの意味くらいであかねちゃんにつっこまれたわたしは、口の中につめたく広がったチョココーヒーの味に目をぱちぱちさせていた。通学カバンをまさぐっていた手はそのまま停止してしまって、そのときわたしの感覚は、とにかく視覚にいそがしかったのだと思う。
 喉をすべっていく氷にこめかみをじんと痛ませながら、手のひらにたれてしまったアイスをなめとっているあかねちゃんを、まばたきとか暑さとかがんがん大きくなる鼓動とかを置き去りにして、じいっと見つめているようなのは、じっさい、へんなことだったのだろうけれど。
 でも、特にこれといった対策も見つからないまま、あかねちゃんの舌はちっちゃくてかわいいなあとか、なんでわたしこんなところでどきどきしちゃうんだろうなあとか、わたしはつめたくてさらさらとしている氷を飲み込みながら、そんなことばっかり、考えていた。

「うん? どした、みゆき?」
「……んーん、なんでも。あかねちゃん、それ、手、べたべたしない?」
「あーまあ、ちょっとな……でもたいしたことないし。ウチ帰ってから洗うわ」
「そう? じゃあ……えっと、あかねちゃん」
「なんや?」
「アイス、ありがと」
「おう。三倍返しでええで」
「やだー、大阪のひとは怖いなぁもう」
「でっへっへ、姉ちゃんええカラダしとるやないかーい」
「ちょ、きゃあっ! く、くすぐったいってばあかねちゃん、っていうか、落としちゃうよっ!」

 このなめらかなつめたさは、あのひとに、少しだけ似ている。なるたけそんな思いに、たどりついてしまわないように。

 とはいえこうならないといいなあと思うそのときには、そうなってしまうための準備を自分でしているようなもので、結局逃げ出すこともできずにそれはあっさりと始まった。食べ終わったアイスと袋の殻をコンビニのゴミ箱に捨てて、また陽炎が立ち上るコンクリートの道へと出て行ったときのことだ。
 カバンを両手にぶらさげたまま、頭の後ろで手を組んでいたあかねちゃんは、だんだんと日が沈み始めた空に放り投げるように足をぶらぶらさせて歩いていた。そのままどこまでも歩いていけたらいいのにって、どうしてかな、なんとなくそんなことを、ちっちゃい背中を追いかけながら、わたしは思っていて。

「パピコっていえば……あんな、れいかな」
「うん?」
「れいかな。寄り道とか、買い食いとか、あんま、したことないらしいねん」

 ぶらぶら歩くあかねちゃんの短い影。もう夏になってしまったから、わたしは、伸びていたそれをこっそりふみながら歩く、ひみつの遊びができない。
 れいかちゃんがおよそとてもまじめなひとであることは、たとえば一緒にちょっとした不思議な関係を結ぶよりも前から、わかっていたことだった。たとえば先生に叱られたのなんて、わたしたちに巻き込まれて修学旅行の夜に騒いだときが初めてだったんじゃないかっていうくらいには。
 でもれいかちゃんは、しいてそれをほかの人にまで押し付けないのだなあというのは、話をするようになって初めて、わかったこと。同じクラスになっただけだと、きっとわからなかったようなこと。それどころかあの時なんて、怒られた後に、みんなでルールを破るのはちょっとドキドキしてしまいますね、って、それこそわくわくしてるっていうのがぴったりな顔で笑っていたものだから、わたしはびっくりしてしまったのだ。
 れいかちゃんはきっとあれからすこしずつ、みんながしていたけどしてこなかったこと、を、しはじめるようになったのだと思う。なんとなく、だけれど。わたしもびっくりしていたし、小さいころかられいかちゃんと一緒のなおちゃんはもっとびっくりしていたみたいだったけど、それが悪いことじゃないっていうのは誰にでもわかるようなことだった。明るい方へ、明るい方へ。
 そんなところへれいかちゃんを引っ張っていくのは、いつも、いちばん上手にためらいがちなあの子の背中を押してあげるのは、

「せやからな、こないだここに寄って、いちばんうまいのパピコやねんでーって教えたった。いひひ、れーかが初めて寄り道するときが楽しみやな。主にそんときのなおのびっくり具合が、な」

 あの子のことが、たぶん、ほんとに、ほんとに好きな、あなた、なのだけれど。
 でもあなたはいつだって背中を押してあげるばかりなのだ、その好きな人が振り返ってくれるかどうかは二の次にして、とにかく行きたいところまで行けますようにって。その手を、前で待ってるだれかが取ってあげられますように、って。
 わたしとあかねちゃんが話をする時間を十とすると、そのうちれいかちゃんの話をすることは二か三くらいあって、それはあかねちゃんが一所懸命押さえている結果なのだということも、わたしはようく知っている。この相手がわたしではなくてなおちゃんだと、十のうち六か七くらいはそうなるって知っているからだ。そしてそういうとき、れいかちゃんの話を、なおちゃんのことと一緒に話すとき、あかねちゃんはいつも、すごく嬉しそうにする。自分の好きなひとが、しあわせな話をするのは、だれだって楽しいやろ。聞いたらこんな答えがあっさりと返ってきそうなくらいに。
 あかねちゃんはいつもそんなことばかりを痛いくらいに心のそこから考えていて、だからこんなに嬉しそうな顔ができるのだろう。少なくともわたしにはいつだってそう見えて、だからいつだって、そういうときのあかねちゃんの笑顔はすごくまぶしい。目を逸らしたり、まばたきしたりがどうあってもできそうにないって思えてしまうくらい、まぶしい。

「……ねー、あかねちゃん。今度はハーゲンダッツおごってよ、クッキー&クリーム」
「は!? おまっ、それ女子中学生が口にすることやないで! どんだけ大奮発やねんうち!」
「だめ? ならしろくまアイスかなー。ガリガリ君でもいいよ、ただしリッチで」
「あれ、ちゅうかなんでうちがみゆきにもっかいアイスおごる流れになっとるん……?」
「あとはねえ、スイカバーBigとか、スーパーカップのチョコミントとか……あっ、そういえばMOWの黒ぶどうがおいしいって、やよいちゃんが言ってた」
「お、おう……まあ、今度な、今度。今月はもうすっからかんやねん」
「うん、ぜったいね」

 ただわたしの、ほんとうに、ぜったいに隠しておかなければならないほど正直なところを言うと、わたしはそれを見て、たまに、すごく、イヤな気持ちになるのだった。

「パピコいがい、ね」


 けれどもひじょうに自分勝手なことながら、イヤな気持ちというのは持っているだけでなんとなく重たい気分になってしまうもので、なんでかなあとかさびしいなあとか悪感情を持ってしまうのはどうしようもないことであっても、なるたけそれから逃げ出してしまいたいというのが、案外とひとを憎んだり嫌ったりしてしまうことのストッパーになるのかもしれない。うそですただの怖がりです。でもイヤな気持ちでいっぱいになるのは、やっぱり怖いんです。胸の内がわがどろどろしているのは、とても、にがてです。
 そういうときにわたしが取るいちばんに自分勝手な方法というのは残念ながらひとつあって、都合が良すぎて不都合な偶然の結果、窓の外でくだんのあかねちゃんとなおちゃん、それからクラスのひろこちゃんやまゆみちゃんがバレーボールをしているという状況は、わたしをしてあっさりその方法を取らせてしまったのだ。ごめんなさいそれもうそです、きっとぜんぶ、わたしの勝手なんです。
 だからわたしはほんのちょっとだけ窓際に目をやるまえにお祈りしたのだ、今日はいませんようにとお祈りしたのだ、生徒会の仕事とか部活のあれこれとかとにかくなんでもいいから、なにかどうしようもない用事があの子の前に山積みになってて、お昼休みでもそれにかまけなくちゃいけないんだったら、それがいちばんよかった。(っていうのも、ひどい話なのかもしれないけれど。)

「れーいかちゃん」
「あ、はい?」

 だけどれいかちゃんはそこにいたから、燦々とまぶしい日差しが照らす窓辺に、お昼休みの教室の喧騒から切り離されてしまったみたいに、ぽつんといたから。いやそれはわたしが勝手に切り離してしまっているからなのかもしれないけれど、ただ夏服の袖やスカートからのぞく、日焼けしたらどうなっちゃうんだろうって心配になるくらい真っ白な肌が、夏の強い強い太陽光にたいして少し不似合いだったのは、わたしにとってはわりとリアリティのある事実だったのだ。
 しかして、そんな真っ白なれいかちゃんのほうに導かれるようにして歩いていったわたしは、ちっちゃく笑いかけてくれるのがかわいいなあなどとわりに平和に考えたりなどしながら、れいかちゃんの隣に並んで、彼女とあまり変わらないであろう景色を見つめた。乾いた砂の舞うグラウンドはなんとなく黄色っぽくて、そんな空気の中を白というよりは灰色とかに近そうなボールがぽんぽん舞っていた。
 あかねちゃんたちが遊んでいるネットもない、ラインをスニーカーで引いたのであろうバレーボールコートは、上から見るとけっこうおもしろい形にゆがんでいる。あれはあかねさんが書いたんですよってれいかちゃんが教えてくれた。あかねちゃんはいろんなことを率先してやろうとするわりに、ものすごく器用な方というわけではないのだ。でもそういうところがむしろ好かれているんだろうなって、よく思う。たとえば今、なんかよくわからない大げさな動きをしてジャンプしたあげく、アタックを失敗して、同じチームのひろこちゃんに頭をはたかれているところなんかを見ると。

「いま、何対何?」
「ええ、と……たしか、五対六ですね。なおと木角さんが、今のところ優勢です」
「そっか。でも一点差なんだね」
「はい、ずっと競り合っていますね。あかねさん、四本もアタックを決めましたよ」
「え、すごい!」

 そんなことを言われるとわたしはかなりあっさり窓に向かって身を乗り出してしまうのだけれど、れいかちゃんはそれを知って言ってくれたのだろうか、よくわからない。でもれいかちゃんが本当にすごいのは、計算なのか天然なのかわからないところじゃなくて、よくわからないけどどっちでもいいかなって思わせてしまうところなんだろう。
 なによりそのときのわたしは運が良かった。ひろこちゃんがなにか声を掛けながら――多分、今度はまじめにやりなよ、とか言われてる――トスしたボールがふわっと上がって、なおちゃんとまゆみちゃんの視線がそれを追いかける。ひろこちゃんにウインクかなにかをしたらしいあかねちゃんが、でも今度は上手にからだをばねのように縮こまらせて、そして伸びあがる。おさかなみたいにしなやかで、きれいなジャンプ。って言ったらそれ褒めてるんかってこのあいだ言われちゃったけど、だからといって、すごくかっこいいなんてストレートに言えるわけでもない。でもやっぱり、ほんとに、かっこいい。
 からだ含めてあかねちゃんの手足はそう長いほうでもないのに、しなった腕が叩いたボールはすごい勢いで真っ直ぐ飛んでいって、なおちゃんたちの側のコートに刺さる。すごい、今だれも反応できなかった。うううぅよっしゃー!って両手をガッツポーズにしたあかねちゃんが、ひろこちゃんに頭をくしゃくしゃにされながら飛び跳ねていた。そういうときはさっきみたいなかっこよさがまったく消えてしまっているのだから、あかねちゃんは、不思議なひとだと思う。

「同点だね、これで……あ、なおちゃんがすごい悔しそう」
「ほんとですね。なおは、あかねさんと張り合うのが本当に好きみたいですから」
「そうなの? あかねちゃんはよく、なおには敵わんーって言ってるけど」
「そんなことありませんよ。いつだってなおは、あかねさんと勝負するのが、楽しみなんです」

 いいライバルなんですねって、れいかちゃんは、くすくす笑っていて。やわらかい灯りのともった瞳は、視線を送るっていうのとはなんだか全然違う、ただ静かに見つめることだけを、していて。れいかちゃんがなおちゃんを見る時は、いつも、そういうふうだ。みんなで海で遊んでいた時もそうだった。あの日のあかねちゃんとなおちゃんときたらまさに一触即発って感じだったから、わたしはすごく焦ってしまったのと一緒に、どうしてれいかちゃんはそうにこにこしてるのかなってちょっとじれったく思わなくもなかったのだけれど。
 でも、いろんなごたごたがやっと片付いたあとに、またやっています、ってくすくす笑っていたれいかちゃんを見ていると、そういう仲良しもあるんだなあとあっさり気が付く羽目になってしまったので、たぶん、そういうことなのだ、と思う。わたしは二人のことも、あるいはなおちゃんだけやれいかちゃんだけのこともそんなに長い間見つめてきたわけではないから、はっきりとはわからないけど。それでもぼんやりと、れいかちゃんは、なおちゃんのいいところ、すてきなところを、言葉にしないままのいろんなところをずうっと胸の中に持っていて、それを全部ひっくるめて、なおちゃんのことを、見つめているのだ。
 れいかちゃんはいつも、そういうふうで。それがとても、きれいだから。その瞳が、窓辺からそっと吹き込んできた風に揺れる長い髪が、たまに淡い淡い朱色のさす頬が、くすっと思わず笑うときに自然と口元にあてる手が、とても、きれいだから。
 なおちゃんを、黙ったままで、声が届かないほどの遠くで、やさしく見つめているときのそれが。とても、とても、きれいだから。

「……えへへー」
「ん……どうかしましたか、みゆきさん?」
「んーん。れいかちゃん、かわいいなーって思って」
「は……えっ、え?」

「うん。わたし、やっぱりれいかちゃんのこと、好きだなぁ」

 そうしたら、ほら、ぱんぱんにふくらんでいたはずのイヤな気持ちは、針で穴をあけられたふうせんみたいに、あっというまにしぼんでいって。そのあとには、すがすがしいさびしさだけが、残るのだ。
 あかねちゃんが大好きなひとは、やっぱりほんとうにかわいいんだなあって、そんな想いが、しぼんでいくわたしの心の中に、ひんやりと、吹き抜けていくのだ。


「……あのね、れいかちゃん。あかねちゃんがね」

 だいたいそんなふうにゼロになってしまったとき、わたしは、れいかちゃんだったらきっと黙って聞いてくれるんだろうなっていうちょっとひどい確信を抱えたままで、あなたの名前を口にする。案の定れいかちゃんは少し首を傾いで、わたしの方を見てくれた。れいかちゃんはあっさりこっちを向いてくれるんだけどな、なんていうのは、置いておいて。なんの話をしようかってほとんど考えるひまもなく、それはこぼれてくる。

「あかねちゃんがね、こないだ、アイスおごってくれたんだ。パピコ、半分こ」
「あら……パピコ、というと、このあいだあかねさんが私に教えてくれました。向こうのコンビニで、一番おいしいアイスなんですよね?」
「ん、うん、そう、かな。うん、おいしいよ、パピコ」
「それは、よかったですね。半分こって、なんだか……なんでしょう、ちょっと、かわいいです。みゆきさんとあかねさんらしい、というか」
「そ、そうかな? ……えへへ、ありがとっ、れいかちゃん」

 これで、れいかちゃんにあかねちゃんの話をするのは、いくつめくらいなんだろう。わたしとれいかちゃんの十のうちは、どれくらいあかねちゃんで占められてしまっているんだろう。これまで出てきた十のうちではきっと一番に多い。でもれいかちゃんも楽しそうに返してくれるから、それがたまに複雑だったり、でも上回るくらい嬉しかったりしながら、わたしはたくさん、数えきれないくらいたくさん、あかねちゃんの話を、あかねちゃんの大好きなれいかちゃんにする。
 転校してきた初めの日に助けてもらったことが、すごくすごく嬉しかったこと。変身もできなかったのに、ともだちだから、って立ち向かってくれたのが、かっこよかったこと。これまでにいっぱいいっぱい、わたしの手を引いてくれたこと。夕焼け色の髪が思った以上にさらさらだったこと、ヘアピンの留め方にはちょっとこうるさいこと、わたしの名前を呼ぶ時、いつも後ろの方をたらっと伸ばすくせがあること。

「それでね。あかねちゃんたら、ハーゲンダッツなんてこじゃれたもんはもっと大きなってから食べ! だって」
「はあげんだっつ……それ、おいしいのでしょうか?」
「食べたことない!? おいしいよー、すごく! そうだ、今度うちに食べにおいでよ。わたし、お母さんにお願いしてみるから」
「えっ、でもそれは……悪いです」
「悪くないよー。んー、じゃあ、お母さんにお願いするときのために、今度のテスト、勉強教えて! いい点とれたらご褒美、ってお願いしてみる」
「ううん……わかりました、では、そのように……あかねさんも、ご一緒に」
「へっ? あ……うん。うん、あかねちゃんも、一緒に!」

 ちょっとずるいなあって思ったことならたくさんあるし、たぶん今も思ってる。だってわたしはあかねちゃんが好きなひとの話をするとイヤな気持ちになるくせに、わたしだってれいかちゃんには好きなひとの話ばかりしているのだ。わたしだって、れいかちゃんに、十のうち九くらいは、あかねちゃんの話ばかりしているのだ。それがたのしくって、たのしくって、しようがないのだ。

「それで……っ、え、なに?」
「ああ、なおのファンの子たちですね。ほら、向こう」

 そのときわたしたちのぽそぽそとした話し声を遮ったのは、窓を開けた向こうから飛び込んできた歓声だった。女の子にしか絶対に出せない声のトーンってことは聞いた瞬間にわかって、それはそのまま、いつの間にかなおちゃんの近くにできていた人だかりの方へと、わたしの目線を動かした。
 サッカーボールが飛んできたみたいなのだ。コートで走り回っていたのは男の子たちだったのだけれど、ちょうどあかねちゃんたちがバレーボールをしていたコートの方に飛んできたボールを、なおちゃんが上手にトラップして受け止めたらしい。それだけでも見逃さない子たちがいるあたり、なおちゃんって本当に人気なんだなあと思う。部活終わりの度に囲まれていたりするから、そういうこともあるんだろうけど。
 なおちゃんは男子の方に気をつけなよ、かなにかしっかり言い放つと、あまり助走もつけていないのに、男子顔負けのキックで真っ直ぐそれをゴールネットに突き刺した。そりゃあ、歓声、あがるよね。なおちゃんはなんていうか、ああいうのをなんの意識もせずにやっちゃうところが、すごいのだ。あかねちゃんが敵わないっていっているのは、なんかそういう、なおちゃんが地でいっているところ、なのかもしれない。
 それにしてもたいへんな音量で、もしもあのくらいの声で叫んだらって、ちょっとだけ考えた。もしもれいかちゃんが、ここからなおちゃんに、ありったけの声で、叫んだら。そしたらなおちゃん、振り返るかな。
 そしたら。
 あかねちゃん、振り返るかな。

「ね、れいかちゃん」
「はい?」
「れいかちゃんは、」

 なおちゃんのところ、行かないの?
 というのを、聞きかけて、やめた。わたしがあまりにも微妙なところでやめてしまったから、れいかちゃんは少しだけ不思議そうにしていたけれど、飲み込んでしまったことをいちいち掘り返してくるような子じゃないれいかちゃんは、黙って視線だけを外に戻した。賑やかな歓声につつまれているなおちゃん。のことを、にやにやした顔で、からかうように小突いているあかねちゃん。黙って見つめているれいかちゃん、途中で口を閉じたわたし。
 たぶん、誰も――だれもが、言いたい人に、言いたいことも、言えないままだ。

「……ね、れいかちゃん。なおちゃんは、かっこいいねえ」
「そう、ですね。なおは、かっこいいです」
「うん。……すき?」

 れいかちゃんは、黙ったままちょっとだけ困ったように微笑んだ。とくに頷くこともしなかったれいかちゃんの、ほそい首筋のあたりで、さらりと流れた髪からつめたくていい匂いがした。なんてきれいな笑い方なんだろうって、少し、胸がぎゅっとした。
 れいかちゃんはいつも黙っている。あかねちゃんは笑ってばかりいる。わたしは、イヤになったり、さびしくなったり、いろいろしてる。そうしてわたしたちは、大事にしているんだろうなって、思う。とても壊れやすいのに、自分にとってどうしても手放せないものを、大事に、大事に、しまいこんでいる。無遠慮なだれかに踏み荒らされたりなど、してしまわないように。不用意に外に出して、だれかの、もしくは自分の手で、汚したりなどしてしまわないように。
 そうやって、言いたい人に、言いたいことも、言えないまま。
 わたしたちは、それでもやっぱり、だれかのことを、好きでいるのだ。

「あ、そうだ……ね、れいかちゃん、こうやって」
「えっ?」
「いいからいいから。ね、はい、一緒に。こうやって、口に片手を当てて」
「は、はい……」
「で、放す! あっ、なおちゃんに向かって!!」
「………?」

「はいっ、ちゅー!」

 それでもやっぱり、好きなひとを、好きでいるのだ。
 というのはどこか絶望的な言葉みたいに響いてしまうけれど、なんだろう、わたしはあんまり、そういうふうには思わないし、思えない。泣きたくなったり、痛いなあって思ったり、イヤだなって思ったりすることはたくさんあるけど。それと、気持ちを手放してしまうことや、後悔してしまうというのは、同じことではないから。
 だって、それでも、明日また――好きなひとのそばでは、ちゃんと笑っていられるような気が、するから。

「っ、あ、あの、これは……?」
「ん? うん、えっとね」

 伝わらなくても、見えなくても、言えないことがたくさんあっても。
 胸いっぱいの大好きがあるよって、いつか、届くと、いいな。 

「投げキッス!」


 *


「……なお?」

 予鈴が鳴ったということは五限目の開始が目前に迫っているということに他ならなかったが、親友がなにか妙な動きをしていることに気が付いて、あかねは思わず足を止めた。まだ残響が回っているグラウンドで、校舎に向かっていく生徒たちとはちょうど真逆の方向を向いたあかねは、なんとなく手癖でバレーボールを地面に打ちつけながら、不思議そうに尋ねる。
 
「なんや、背中でもかゆいんか?」
「や……べつに」

 この真っ直ぐバカな親友にしてはめずらしく歯切れの悪い答えが返ってきて、だけどあかねから見ると、なおは背中になんだかぱしぱしと手をあてている奇妙な行動をしているようにしか映らなかったので。かゆいならかいてやろうかと申し出てみるが、だからそうじゃない、と一蹴されてしまう。
 しかして、背中から戻ってきたなおの片手は、なぜかぎゅっとなにかを握りしめたかのようなこぶしのかたちを、していて。

「……なんでも、ないよ」

 それをそうっと、とてもたいせつなものみたいに口元にあてているなおを見て、あかねは余計に、わけがわからなくなるのだった。

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