とくべつの日



 こういう日にいたってふつうである、というのも、それはそれでちょっと困りものだけれど、じゃあその逆だったらまるきりいいのか、っていわれると、そうでもなくて。
 そう思うとよのなかには単純なことって意外とすくないのだなあなんてぼやいていたら、心配せんでもあんたがおればよのなかに単純なことがなくなったりはせんよ、と赤い髪をくつくつゆらして、隣で廊下の窓枠にだらんと寄りかかっていたあかねは、いつものようにいたずらっぽく笑っていた。
「なにそれ、どういう意味」
「んー? そりゃあ、あんた」
 こいつがたいがいこういう含み笑いをするときは、あくどいことを言おうとしているときなのだとわかってはいるのだけれど、あたしはついつい尋ねてしまう。でもそういうふうにむこうの返答がきまりきってるときというのは、こちらの返す反応だってきまりきっているときにほかならない。
「そういうの地でいっとるなおみたいなんがおったら、単純って言葉の地位も安泰っちゅうことで……あでっ、あででででで、ちょ、ねじるなねじるな!」
「誰が単純が服着て歩いてるって、このこの」
「そこまで言うてへんけど!? 自覚あるんと違いますか緑川サン!!」
 あたしがあかねの言葉の終わりを待たずに、じっさいなんとも抱え込みやすい位置にある赤い頭をぐいんと腕を回して引き寄せ、迷いなく側頭部ににぎりこぶしをあてがったのは、つまりはそういうことである。大仰に悲鳴を上げながらあかねがばたばたあばれると、あたしのよりかはだいぶん柔らかいようにも思えるきめの細かい髪がさらさらこぶしにかかって、なんだかくすぐったかった。もっともあかねのほうは、くすぐったいどころでの話ではないだろうが。
 そういえば、それをみごとに数値的な意味で裏付けることとなってしまった、スポーツテストであたしが十四才女子平均を悠々と越した握力を叩き出したときも、ゴリラ女だかなんだか言ってきたこいつは、あたしに同じ技を喰らっていたような気もする。ほうほうそういえばあかねゴリラ大好きだったんでしょなんならハグしてやろうなに遠慮するなこっちにおいでよさあ来い覚悟しろとか、だいたいそんな感じで。
「ちょおまマジでええ加減にせえ脳味噌耳から出る!」
「それはそれでなかなか笑いが取れそうだぞ、がんばれ関西人」
「ぷりちーあかねちゃんは身体を張る方向ではなく堅実にトークスキルで笑いを取って行きたいと考えております!」
「そろそろ方向性の転換を考えてみてもいいんじゃないかなって」
「この状態やと方向性より先にうちの首が転換しそうなんやけど!?」
 慣れた友だち、というもののあいだには、たとえばこんなふうに、あかねが余計なこといってあたしがシメるのが一連の流れ、というような無言のうちのやくそくごとにも似たものが、なんとなくのうちにできてしまうものだと思う。
 小突きあい(あかねいわくは大突きあい)もしょうもない会話の応酬もいちおうやりとりとか繋がりとかのひとつのかたちであって、それが軽快に続いていくというところからすれば、あたしにとってあかねは、非常につきあいやすい親友ということになるのだろう。どうすればお互いが楽しいかということを、あたしたちは両方が了解しているのだ。
「ちゅーか……あんなぁ、なお」
「なに」
「こんなとこでうちとじゃれとらんと、行くべきとこがあるんとちゃう?」
 しかしてあかねは、感心してしまうほど器用に表情と声を変えて、あたしに向かってそう言った。まったいらに一筋切り込むようなひびきを、ふとした瞬間にもつことのできるあかねの声は、そうしてあたしの耳に、しんとしみこむ。
 とても絶妙な切り替え方だった。タイミングも雰囲気も、そして内容もぜんぶ。あかねはきっとあたしにとってどのくらいその言葉がつきささるものなのかも、どのくらい必要なものなのかもすべて知っていて、そしてあたしのほうは、ずるいことだけれど、あかねならそれをあたしに言ってくれるんじゃあないかと思って、わざわざ放課後に彼女の前で、ぼやいたりなどしたのだ。
 期待は期待のとおりに返されて、コミュニケーションは順調だ。あたしたちはわかりあっているから。友だちだから。
「……わかってるよ」
 そしてこういうときに何度も、あたしは、あたしにとってのあの子が、どうしても、どうあっても、"友だち"であってはくれないのだと、実感するのだろう。そうであったほうがよかったのかもしれないとは、できれば、考えたくないけれど。でもたまに聞きたくはなるんだ、ひどいことなのかもしれないけど、きみにとっては、どっちのほうがよかったんだろう。
 大事な幼なじみのれいか、あたしのそばにずっといてくれたれいか。でも、ただの友だちのままでは、いられなくなってしまったれいか。たぶんあのとき、きっと慣れた情況と場所であるはずなのに、グラウンドのずうっとすみっこのほうで、二人きりで、きみのいつもらしくきちんと前で合わせられていた両の手のひらが、かすかにふるえていたこともしっていたのに、あたしはあたしたちのあいだにあった約束ごとを無惨なまでに破り捨ててしまった。
 シンプルな裏切りだ。友だちのままでいたかったのなら、最高にわかりあえるすてきな幼なじみのままでいたかったのなら、お腹のなかではあんなに大声で叫んでいたはずの言葉を、のどをかすかすに弱くふるわせてしぼり出すことすらも、あたしはしてはいけなかった。だけどこわいくらいにうれしくて、泣きたいくらいにさいわいなことに、あたしと同じかそれ以上に息をつまらせたれいかは、裏切りの共犯者の道をえらんだのだ。
「すき、」
「うん」
「……すき。すき、だいすき、」
「うん。だいすき」
 まるでそのほかの言葉を忘れてしまったみたいに、あたしたちはさびついた倉庫の影にかくれて、ぎゅうっとおたがいの背中をひっつかむように引きよせたまま、ぽつぽつとそんなことばかりをくり返していた。あたしたちの声がどんなにか細く消えそうでも、あんなに近くにいたら聞き逃したくたって聞き逃せない。だからいまのうちに、たくさん言っておかなくちゃ。
 そう、きっとそれだからあたしたちはあのときいつまででもくっついていたんだろう。たくさん、言って、おかなくちゃ。たくさん、聞いて、おかなくちゃ。きっとすぐにでも、わからなくなってしまうから。あたしが、ああれいかとおんなじ気持ちだってはっきりわかったのは、それが最後のことだった。きみの、ことを、ほんとうにほんとうに、好きになってしまったそのときからだ。あたしは、きみのことが、一気に、わからなくなった。
 だってそれから一年がたとうとしていた今日だって、考えても考えてもちっともわからなかったのだ。あたしが単純が服を着て歩いている人間だとするなら、きまじめが服を着て歩いているようなれいかが、よりによって睡眠不足などという彼女にとってゆるしがたいであろう理由で、四時間目の終わりに倒れてしまった、そのわけが。

 まだまだ冬が元気な二月で、くもりの日で、十四日だった。それがありがたいかうらみがましいかはひとによってべつべつだろうけれど、ともかくその日は平日で、ちゃんと学校の校門をくぐる日だときめられていたから、とくべつな理由がなくともめあてのひとと同じ場所に向かうわけで、そうなると世の恋するひとびとが勇気をだすチャンスは、ちゃんと用意されていたということだ。
 あんまり女の子らしくするのはにがてなんだけど、とてれくさそうに頭をかいて笑うところが、たぶんいちばん女の子らしくてかわいいような気のするまゆみなんかは、たしか三日前だかからみかに教えを乞うてチョコレートづくりにいそしんでいたと聞く。いつもののんびりした口調でまゆちゃんすごくがんばったねえとみかが真っ赤になったまゆみの頭を撫でていたのは、ちょうど今朝あたしが教室についたときの光景だ。
 そんな彼女からラッピングつきをもらえるのはきっとたったひとりなのだろうけれど、わが二年二組にはいわゆる「クラスの全員に配るタイプの子」がまゆにひろこにじゅんこにと三人もいるので、うちのクラスの男子諸君は、どちらかといえばめぐまれたほうだといえるだろう。(と口に出そうものなら緑川にだけはそんなことを言われたくないと総スカンを喰らうということが去年の経験でわかっているので、それについては黙っていようと学んだあたしである。でもあたしと同じくらいもらっているであろう入江会長に君には男子諸君の切実な気持ちがわからないんだよと言われたのは、未だに解せないのだけれど。)
 ともあれそんなふうに、イベントごとにわきたつなかでもみんなが微妙に気にしていたのは、生徒手帳にしっかりと記載されている「学習に関係ないものを学校に持ち込まない」という記述と、そしてわがクラス自慢の新生徒会長さんのこと、だったわけだが。
 その心配については、たぶん誰も予想していなかったかたちで、杞憂であったことが証明される。
「もーっ、いいから会長はほら、戻っててください! ほら始業までまだあとちょっとありますから、少しでも座ってっ」
「で、でも、寺田さん……」
 廊下からそんなやりとりが聞こえてきたのは、ちょうど藤川さんあたりが、でも青木さんは注意するんじゃないかなと話して、みんななんとなく校門での挨拶に徹しているため空っぽだったれいかの席に、目をやったそのときのことだった。彼女からはなぜか低められた声で首だけ下げた挨拶をもらうことの多いあたしは若干判断に迷ったが、聞こえてきた内容からして、れいかと一緒にいるのはどうやら会計、もとい副会長の寺田さんだろう。
 と、予想するが早いか、いちおう彼女なりにかすかな抵抗をこころみていたらしいれいかのことを大切に突き飛ばすという器用なことをやってのけながら、二年二組教室入口に、寺田さんは姿を現わしたのだ。なんとも、いきおいよく。
「心配しなくても私がお腹に一発入れてでも倉田くんに会長のぶんまででかい声出して挨拶させますから! いいですね会長、ちゃんと休んでくださいね!」
「倉田くんは線が細いほうなので、寺田さんがそうしてしまうと、おそらく声以前に出てはいけないなにかが口から出てしまうと思うのですが……あ、で、ではなく、ええと寺田さん、私の話を、」
「聞いて熟慮したうえでの結論です! それではっ」
 が、それも一瞬の話である。なんというか、拍手でもしたい気分になるほどすがすがしいやり取りを見せてくれた寺田さんは、上級生の教室ということで敬意を払ったのかぺこっと綺麗な六十五度の礼をみせてくれてから、ぴしゃりと扉を閉めてしまった。放り込まれた時のまま、ぼうっと立ち尽くしているれいかの、ほとんど鼻先にみえるところで。
「え……と、青木、さん?」
「なんていうか、その……大丈夫?」
 すっかり展開についていけず、おまけにいうと今まさに交換せんとしていた友チョコをうっかり手に持ったままで、あやとかおりがれいかにおずおずと話しかける。
 まだ入り口のドアをぼうっとみていたままだったれいかは、はっとしたように振り返った。
「あ……お騒がせしてしまってすみません、本田さん、若槻さん」
 たっぷり三拍分は、間をおいて。

 ぼーっとしていたのだ、というのが、そのときやそのあとのれいかについて話すなら、いちばんぴったりな言葉になるだろう。
 ほんとはダメってわかってるんだけどせっかくだから青木さんも受け取って、罰があるならちゃんと受けるからさ、とまゆたちから手渡されたチョコにも、彼女はふにゃりとした笑みを返してどうも拍のおそいお礼を言うばかり。いつもだったら、いったんちゃんと注意はするけれど、相手の好意にたいする感謝の気持ちはまたべつで忘れない、っていうのが、れいかのスタイルであるはずなのに。
 授業であてられて答えられないってことはなかったけど、あたしに教えてくれるときよろしくつらつらとそれに即した豆知識までなんとなくぽやっとした口調でつらつらと喋り出してしまって、そこ先生が今から説明しようとしていたところだったんだがと国語の土田先生が五十代後半男性とは思えないあわれっぽい目をしたところで、やっと気がついたみたいにあわてていた。体育の時間に、あかねが放ったトスをもののみごとに顔面でうけて、ひどく心配するみんなにごめんなさい顔面レシーブはみゆきさんの特権なのに、ととんちんかんな答えを返していた。(ちなみにみゆきちゃんは傷ついていいのか喜んでいいのかよくわからない顔をしていた。)お昼ご飯の時、ごちそうさまでしたと手を合わせてきちんとお弁当を閉じてから、しばらく空を見つめていたのにあたしが話しかけたら、ああごめんなさいとあわてて、なぜかまたお弁当を開いて、からっぽなのにいただきますなんて言っていた。
「れ、れいかちゃん、ほんとにどうしちゃったの?」
「具合悪いの? 熱はないみたいだけど……保健室、行く?」
「いえ、あの、大丈夫ですから……ほんとに病気とかでは、ないんです」
 ほかにも、ちいさいことまで数えればきりがないってくらい。とにかく今日のれいかは、すぐそうだってわかってしまうほど、ものすごくぼーっとしていて。朝寺田さんが言っていた休んでくださいのなんのという話も気になっていたし、なによりれいかの様子がきになってしようがなくて、やよいちゃんやみゆきちゃん、それにあかねは、授業外だとほとんどれいかにつきっきりだった。
 それはもちろん、れいかのこのぽやあっとした瞳の感じにはどうにも見覚えがあるような、と思っていたあたしも――と、言いたいところなのだが。
「みーどーりーかーわーぁ」
「な、なに……そのド厳しい視線やめてよ井上」
「うっせ。いーからとっとと行け、このオージサマが」
「なぁんだよまた緑川かよ……ちくしょー、右側の子可愛かったのに」
「つかあの一年三人組、全員緑川なわけ? 少子高齢化も促進するよそりゃ!」
「良かったなけんじ、それちゃんと覚えたって堀毛先生が知ったら喜ぶぞ」
 とにかく、日がわるかったとしかいいようがない。
 小学校のなかごろあたりから毎年だいたいこんなふうだから、今年も覚悟はしていたのだけれど、手作りにたいする敷居が低くなる中学生ということと、そしてエースをもらって二年という時間が生み出した影響は、思っていたよりずっと大きかった。登校してきたときの靴箱から始まって、朝の机の中、部室のロッカーの中、はては体育に行って戻ってきたただけで鞄の中にまでチョコが詰まっていたりするのだから、ちょっとすごい。
 そして極めつけは、この呼び出しっぷりだ。休み時間なのに休みなく声がかかってくるとはどういうことなのだろうと思いつつ、いったい何度目なのだか知れない呼び出しに応えて、あたしは渡り廊下で一年生の子たち三人の前で、どうにか笑っていた。行為は受け取れても、好意は受け取れない不義理さをせめてやわらげられるように、笑えていた、なら、いいなあって感じだけど。
 ひどいことだっていうのをすべて抜きにしてものすごく正直なところを言わせてもらえば、好意も行為もはなから断ってしまって、ただ、れいかに、いったい今日はどうしちゃったのってちゃんと気にかけて、話してはもらえないにしてもそばにいるってことを、あたしはしていたかった。していたかったし、そうしてってたった一言言って貰えたなら、うれしいんだけどな、なんて、思ってもいたりした。どっかで、うん、期待していたのだ。たぶん。
 それはどこか、子どもっぽいからって卒業したはずの、まだあたしの気持ちに名前がついていなかったころにあたしの頭のなかをぐるぐるさせていた、れいかはあたしがチョコもらっても平気なのかなあ、っていうのと、似ているようで、もうすこしややこしいようで。
「どうしたの、なお? あの子、廊下で待っていますよ。早く行ってあげないと」
「ん、うん……」
 でも、いつもとちょっとなにかが違うはずのきみは、それでもいつもと変わらないような笑みをうかべて、あたしを送り出すばかりだったのだ。
 それはたとえば、いつかれいか自身がにこにこと言ってくれた、なおはみんなから好かれる素敵な人だものという言葉がはっきりと透けて見えるほどには、透明なうつくしさを保っていて。そうなるとあたしには、きみの様子が明らかにおかしいってことは確かにわかっても、その透明さのしたになにかが隠れているかどうかということを考える余地さえも、残されなくなってしまうのだ。
 こうしてくれたらいいのにな、とか、こうだったらいいのにな、とか、あたしがそんなふうに思うことは、きっときみについてのことが、いちばん多いに違いないのに。そのほとんどは、叶っているのだか叶っていないのだかもわからないまま、どっかに溶けて、どろどろ溜まる。

「……でも、さすがに、あたしがいないときに、倒れちゃうなんて」
 ひどいや、と呟いても、きみは眠り続けている。
 きまりからすれば寝不足での休養はみとめられないはずなのだけれど、それが青木さんならねえとみょうに納得のできる(しかしどう考えても教師の言葉ではない)ことをのんびり言った保健の先生は、あたしに起こさないようにと言いつけたっきり、席をはずしてしまった。れいかがほそくほそくくり返す寝息がやたらとはっきり聞こえだしたのはきっとそれからで、あたしが先生にすすめられるがままに腰を下ろしたベッド脇の丸椅子から立ち上がったのも、ちょうどそのあたりだった。保健室のなかは、グラウンドからそこまで離れていないはずなのに、ぶあついカーテンのせいだろうか、やけに静かだった。
 重度の寝不足。焦ってるのがばれてみっともなくないように、なんてとてもではないが考えられないままなさけない声で、カーテンの向こうで横になっている彼女の病状を尋ねたあたしに告げられたのは、じつに単純なその一言だった。先生が聞き出したところによると、れいかは三日ほどまともに眠っていなかったらしい。テスト前の徹夜慣れもしてないような子がそんなことをしたらねえ、とおそろしく呑気なところのある先生はどこかずれているようにも思えることを言っていたが、ともかくそういうこと。朝からずっとぼーっとしていたのも、そういうこと、だ。
「あかねが頑張って受け止めた、って聞いたけど……あかね、まだれいかより背ちっちゃいんだから、あんまり無理させちゃだめだよ」
 わずかに青白い頬をしたまますうすうと眠り続けるきみと、薬品の匂いをたっぷり吸いこんだシーツくらいしか聞いているものはないとわかっているのに、ちゃんとした言葉としてはうそばかりがこぼれおちるのが、自分でもすこし不思議だった。ごめんいまのうそ、無理しちゃだめだよって言いたかっただけ、かな。それもちょっと違うかな。倒れるまでがんばらないでよ? それもちょっと違うかも。あ、そうか、わかった。うわ、わかっちゃったか。ばかみたい、だけど。
「……倒れかかるなら、あたしにしてよ」
 どこにも行けない期待をかきまぜるように、あたしはれいかにむかって手を伸ばした。先生が掛け直してくれたのか、肩まですっぽりシーツに埋もれたれいかは、蛍光灯のあかりを遮ってあたしの手が影を落としても、わずかに睫を震わせるだけ。順調に続く寝息が、あたしの手のひらをゆるくくすぐる。
 れいかの鼻先、ひんやりしてるな。親指の皮膚のむこうをつつむ見えない膜のようなものでそれを感じ取ったあたしは、もっと気の利いたことが思いつけばとぼやきながらも中庭の自販機に寄って買ってきた鞄の中の差し入れが、そこそこ役に立ちそうだということにすこしほっとして。
「ん……な、ぉ?」
「……れいか、」
 そして、あたしの手がちょうどひたりとつめたい頬をつつんだあたりで目を開けてくれたことに、あたしはほんとに、ほっとして。
「れいか、ばか」
「え……あ、な、なお、え、」
「ばか……ばか、ばか、ばか……っ」
 でも、ほっとしたら、人間というものは涙をこぼしやすくなってしまうのだということを、あたしはもっと重く受け止めておくべきだったのだろう。

 言い訳させてもらうと、子どもみたいにわんわん泣いてたってわけではない。でもあたしがじわじわこぼした数滴は、半身を起こしたれいかにことの重大さを伝えるにはわりとじゅうぶんすぎたようで、昔よりかはだいぶおそるおそるになってしまったようにも思える手つきで髪を撫でてくれていたれいかは、そっちこそ幼い子どもみたいな声でごめんなさい、と言った。
「……なんで、寝てなかったの?」
「え、と」
 そのくせ、あたしがそう尋ねたとき、思わずといったふうにぴたりと黙り込んでしまうのは、なんだかやっぱりあたしやみんなの知ってるきまじめさんとは、違うような感じだった。
 だってれいかは、なんの理由もなくとりあえず頭を下げるような子じゃないのだ。たとえれいかが悪いんでなくても、まるで周囲を納得させてしまうようなわけをちゃんと考えて、言葉にして、反省するのがいつものれいか、のはずなのに。
「……あの」
「うん」
 それなのにれいかは、腰までかかった布団の上で指を組み組み、言わなきゃだめかしらってそうっとうかがうようにこっちを見上げてきた。めずらしいことだ、あとついでに言うと眠たい瞳をそういうふうに上に寄せるのはあまりあたしの心臓によろしくない、が、やっとのことでこらえて、あたしは黙って目で続きを促す。
 それで三つくらい呼吸するあいだがあっただろうか、ついに観念したようにれいかは口を開いた。
「……っ、わ、」
「ん?」
「笑わないで、ね……?」
 じっさいのところ、ほんとにすっかり、観念していたのだろう。
 まっすぐきれいな前髪をくしゃりと持ち上げるように、両手で目を覆って、ベッドの上、すこし背を丸めた彼女は、そのとき。
「私、なんだか、その。……わがままに、なって、しまって」
「えぇ?」
 あごめん、なんか間抜けな声出た。しかしれいかのほうはそれを気にする余裕がないのか、目に押し当てていた手をずるずる口元までおろしたあたりで、かなりくぐもった声で続ける。どんどん、わがままに、なっていくみたいで。
「だから、今日……あのね、今日も」
「う、うん」
「なにか……とくべつ、を、あげたくて」
「とくべつ?」
 あたしがよくわからないままくり返したのに頷いたれいかは、気がつけば指のすきまからのぞく頬やら耳やらがやたらと真っ赤になっていて、だから、ええと、つまりその、どういうことかちゃんとあたしから聞くことは、ちょっと無理そうだった。かなり無理だった。なんかもうちょうかわいかった。指が澄むほど白いっていうのは、こういうときにいけないんだなあと、頭のどこかでひとごとみたいにのんびりした声が言う。
 でももちろんのんびりしてる場合なんかじゃなかったんだ、だってあたしの考えるれいかについての期待は、おおむね裏切られるためにそこにある。
「……して、ほしかったの」
「へっ、あ、え? な、なに?」
「どきどき、して、ほしかったの」
 そうあたしの、きみにたいして抱く、こうだったらいいのに、とか、そういう期待はいつも、裏切られる。
 たいていは、とんでもない上方向にかっとばして。
「三日前から、いっぱい、考えたんですけど。でもなにも思いつかなくて、なんだか眠れなくなってしまって、でも」
「………っ、れい、か」
「でも、とくべつを、あげたかったの。それで……どきどきして、ほしかった、です」
 だからひどいわがままなのって今度は布団の下で立てたひざまで使って顔のぜんぶを覆ってしまった、この、天下無敵の裏切りものに、それはもうたくさんあるのだけれど、とりあえず、まず、言いたいことが、ひとつ。
 たぶんこの時間にも思いを込めた甘いお菓子を持つ女の子達に探されているのであろう、不本意ながら学園の王子さまなんて呼ばれているあたしは、今日はもうとてもではないけれどきりっとした顔なんてとりつくろえそうにないんだけど、いったいどうしてくれるの。

 彼女にとってのとくべつっていうのはつまり、あたしが普段他の子たちから、或いは今までのれいかからもらってきたようなものとは一線を画すもの、なのかなあとなんとなく予想はついた。ついたあたりであたしは、なんだかすっかりちっちゃくなってしまっていたれいかの肩を指でとんとん、とたたいて、やっとのことで顔を上げさせる。だってたぶんこういうときは、口でどうこう言うよりは、じっさいにやってもらったほうがわかりやすいはずなのだ。ごめんなさいね、単純が服着て歩いてる人間で。
 いやもうなんかそれにしたってまっかなほっぺでぬれた瞳をおそるおそるこっちに向けてくるとかってれいかたまにあたしのこと本気でぶっころそうとしてくるよなあとか、愚なことをぽつぽつ考えながら、ちょっとできるだけそっちを見ないように身体ごと後ろの棚に置いといた鞄に向き直って、あたしはめあてのものを取り出した。
「……な、お? あの、それは」
「ん。ちょっと待ってね、れいか」
 差し入れにこれを選んだのはほんとうにただの偶然だったのだけれど、今にして思えばなかなかにいい選択だったのかもしれない。濃い茶色の缶にまだしっかり残っていたあたたかさが、手のひらにじわりとしみる。だってたしかココアって、ホットチョコレート、っていうのと、よく似てるんじゃなかったっけ。
 プルタブに指を引っかけて、かしゅん。
「はい」
「あっ、え? あ、ありがとうございます」
 熱いから気をつけてね、と言い添えながら、れいかがそれをそっとふうふうしてから(かわいい)一口飲み込んだのと、そしてもう一口めをふくんだのをみて、あたしははい、ともう一度言う。
 きみの、甘酸っぱいくだものみたいになってしまった顔に、すこし鼻先を近づけながら。
「くれるなら、それ、ちょうだい」
 ふ、と息の止まったことがわかる、あたしが置いた手の下で、れいかの華奢な肩に力がこもる。そのまま飛び込んでしまえそうなくらい、みずうみの色をした瞳をぐっとのぞきこむ。耳鳴りがするくらいここは静かで、静かだから、かすかな呼吸のくすぐりあいを、あたしたちはやめられない。
 あまいあまい、めまいにも似た、匂いがする。つめたい鼻先とあたしのがちょんとぶつかって、きみは逃げるように身体を引いた、けど、ちゃんともとのとこまで、戻ってきた。
「……っ、」
 それから、そんなに力込めなくてもってちょっと笑えそうなくらいに、れいかがぎゅうっと目を閉じるまで、二秒。あまかったりつめたかったりするものでうっすらぬれたくちびるが、触れて、てろん、とぬるいものが合わせたむこうから流し込まれるまで、あともうすこし。
 きみのナカでたっぷりあまくなったであろうこれだって、立派な手作りなのかもしれないなって、そんなことを考えながら、飲み込んだ。
「ん、っ……」
「ねえ、れいか。くれるついでに、もういっこ」
「え……な、なに……?」
「ぎゅってして?」
 もっと、ちゃんといろんなことが、わかるくらい。
 もしかしたらぎゅーって抱きつくのがれいかは苦手なんじゃないかと思っていたこともあったのだけれど、その期待はもう前に裏切られているからしないことにしている。ねえちょっと前のあたし、れいかだっていろんなものが吹っ切れてくれたら、ぴったりくっついてきてくることだって、あるんだよ。
 ただまああんなふうに世界が壊れそうなときではなくて、もっと平和な状況でそれがわかりたかったなあっていうのはあるし、どっちにしろれいかがそうしたらあたしがその何倍かってくらいのいきおいで抱きしめ返しちゃうから、結果的にはいつもと変わんないんじゃないの、って言われたら、そうなのかもしれないんだけど。
 でも今は、タテマエでもなんでもいいから、きみがあたしにくれたんだ、っていうのが、大事なことで。
「……わかる?」
 頷かないしなにも言わない、ということが、なによりもはっきりした肯定であるようだった。きっとずいぶんびっくりしてるんじゃないかなって思うもの。
 そうたぶん、きみだっていつも、あたしに裏切られてる。
 それはたとえば、ベストと制服二枚ぶんとうすい皮膚を隔ててもしっかりきみの左胸をぶっ叩いているのであろう、あたしの心音とかで。
「いっぱい、もらっちゃったからね」
「なお……」
「れいかがくれるので、とくべつじゃないものなんて、ないよ」
 わからない、わからないことだらけだから、あたしたちはたまに、びっくりするほどわかるときが、あるんだ。
 あたしたちふたりとも、あたしたちが思っているよりもずっと、ずっと、ずうっと、お互いのことが、大好きなんだなあってこと。
「れいかにもらって、どきどきしないものなんて、ないよ。」

 そうだせっかくだからあたしもきみになにかあげよう、っていうのがタテマエ、ところでかわいいのでそろそろ本番を食べちゃってもいいですか、っていうのがホンネ。長く垂れた髪のあいだからちょこんとのぞいているまっかな耳に、あたしがかぷりとかみついたのは、だいたいそういうわけだ。
「ひゃっ!? あ、な、なお……っ、んッ」
「ん……れいか、目、閉じないで」
「ぁ……え……?」
「閉じないで。」
 ふちをぺろっと舐めるとれいかは子猫みたいに肩を跳ねさせたけれど、あたしの言うことにはたいてい従順でいてくれるこの子猫さんは、睫をふるふるさせながら、それでもなんとか目を開けてくれた。よしよし、いいこ。頭のかわりに耳たぶを舌先で撫でたら、今度は子犬みたいななきごえがきこえた。
「な、ぉ……っあ、」
「閉じないで、こっちみててね、れいか」
 でもどっかぎゅってしてたい? じゃああたしの手にして。まるごとくわえてゆるゆる食みながら、首のあたりにかかるれいかの吐息がひりつくほどに熱を帯びはじめたのを感じながら、あたしはシーツをしわになるほど握りしめていたきみの手を上から包む。
「ふ、んん、っ……」
 穴の入口ちかくをくすぐる、小さく握られていたこぶしが一瞬ほどけて、つめたくて白い指先が、あたしの指の間にもぐりこんできた。そう、そう、そいで、あと片方の手が、空いてるよね。
「あとね、れいか」
「や、ぁっ……! ん、な、なに……?」
「あたしの頭、撫でてて」
 だいじょうぶ、ちょっとくらいくしゃくしゃにしちゃっても、あたしの髪は頑固だから、ちょっと結び直せばいつも通りだよ。熱が頭をとろかせているのか、あまり意味の飲み込めてないらしいれいかはまだ動けずにいて、だけどあたしが急かすようにすっかりぬれたちっちゃな耳をいじめたら、わけもわからずといったふうに、どうにか手を伸ばしてきた。
「れいか……れいかも、どきどきしてる、ね」
「ん、っ……! あ、な、なお……なお、っ」
「れいか」
 ずっとこっち、みてて。
 あたしの頭撫でてて、あたしの声を聞いていて。あたしでいっぱいになって、あたしでずっと、どきどきしてて、れいか。
 そうしていれば、れいかのことでわからないことはたくさんあるけど、でも、今、たった今だけは、あたしがきみのことを考えているように、きみもあたしのことを考えてくれているのだってことを、ばかみたいに、信じられるような気がして。

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