あおいひまわりの日




 私が消えてなくなってしまうとしたら、きっとそれは、燃えるような夕焼け空の下。

 どうしてそんなことを思ったのかしらというのは、目線を廊下の窓から教室の中へ移したときにふいと消えてしまった。消してよかったものだったかどうかは、よく、わからない。まだ残っていたらしい男子生徒が五人でじゃれ合いながら廊下を駆けていく。われながらそういうときの道の空け方は病的にうまいと思う。これといった接触もないまま、室内履きの音が遠ざかっていく。仄かに赤い空の下で聞くそういう音は、不思議なくらいに耳に残る。
 教室の中に入って見ると、おおよそ予想通りの光景が広がりすぎていて、口元がはんぶんだけゆるんでしまった。苦笑か微笑かははっきりしない。先に帰っていてもいいと言ったのに、そう思うところまでが演技なのかどうかも、はっきりしないのと同じように。ただ、こう思わなければいけないのだろう、ということだけはちゃんとわかっていた。
 そう、きっと、間違っているのでしょう。部活でたくさん汗を流したあとのあなたを、堅くて冷たい机の上で眠らせてしまうことは。他でもないあなた自身がそれを言ってくれたのだとしても、私はもっと、あなたの優しさに敏感になるべきなのだ。敏感に、謙虚になるべきなのだ。

「お疲れさま、なお」

 ちゃんと本人が起きている時に言わなければなんの意味もない言葉。そういうものはいつだって、本当に言いたいとき以外にだけ、するりとこぼれる。言葉が空気に染みてゆくものだとしたら、穏やかな寝息を立てるあなたの口から飛び込んで、ほんの少しでもいい夢を見させたりしてくれればいいのに。もっとも、柔らかにゆるんだ寝顔がどうやら悪夢を見ているわけではないらしいということを教えてくれて、私はそんなことにほっとしてしまうのだけれど。
 だいたいにして、空気に染みた残響に救われているのは、いつだって私の方なのだ。早く帰らなければならないことはわかっていながら、起こす気になんてもちろんなれなくて、隣にある自分の席にそうっと腰掛けたら、ほら、まだ聞こえてくる。長く伸びた影の隙間から教室の喧噪がよみがえる。荷物をまとめる生徒たち。寄り道の相談をする友達どうし、部活に急ぐあかねさんが、また明日なって、私の背中をぽんと叩く。
 その後をすぐ追うはずだったなおは、けれど、教室の入り口にさしかかった瞬間、すっきりとまとまったポニーテールを揺らして、さあっと振り返る。

"今日はさ、少し遅くなってもいいんだ! だから、一緒に帰ろう、れいか! 教室で待ってるねっ"

 でも、残響はそこで終わり。
 私はそれにちゃんと答えたという覚えがないから、その後耳にしんしんと残るのは、グラウンドでまだ高らかに鳴っているホイッスルの音の、端っこだけ。
 ああきっと、私はいつもそうなのだ。夕焼けが呼ぶ追憶が、なんとなく組み合わせた、いつも絶望的なくらいに冷たい私の手のひらの隙間から、溢れてくる。



「なおちゃん、いい? 自分のものにはちゃんとお名前を、自分で書けるようになっておかないといけないの。他の子のものと混ざってわからなくなってしまったら、困るでしょう?」
「えー……いいよそんなの、あたしちゃんと、あたしのだってわかるもん」
「なおちゃん……またそんなこと言って」

 困ったわねえと先生が頭を抱えるのは、そのころといえばほぼ日常茶飯事の光景だった。幼い頃から外で遊ぶのが大好きだったなおにとって文字の練習というのはとんでもなく退屈なものらしくて、かるたに絵本にクイズにゲームと、保育園の先生が様々な手を尽くしても、つまらなそうに唇をとがらせていた覚えがある。
 私はそのころからお爺様にお習字を習っていたし、そもそも五十音は教えてもらう前の段階から教育されていたので、そんななおの隣でぽうっとおとなしくしていた。し、別にそのままでいいと思ってもいたのだ、恐らくは。自分のものには名前を書いておくようにというのは、私だけが覚えていればいいなんてことを、きっと、思っていたのだ。

「ううん……れいかちゃん、ごめんね、少しだけ他のお友達と、お外で遊んできてくれる? なおちゃんちょっと、先生と一緒に特訓するから」
「ええー!? なんでっ、れいかが外にいくならあたしもいく!」
「だーめ、なおちゃんはひらがなを覚えたら行ってもいいです」

 だって私たちはそのときもう二人でいるのが当たり前みたいに二人でいて、二人だけでいて、だから、区別をつける必要なんて、それが「私」のものなのか「なお」のものなのかがわかればいいって、それだけだったはずなのに。
 ぶうぶう悲鳴を上げていたのはなおのほう、心配そうな目でちらちら私を見やってくれたのもなおのほう。けれど一番に悲鳴を上げるべきだったのは私で、一番不安になってしまっていたのは私なのだ。それなのに私はなにをしただろう。あまり思い出したくないことだ。自分のことは、できるだけ、思い出したくない。それはいつでもなんだかいびつで、からっぽだから。あまり思い出したくない。

「がんばってね、なお」

 でもきっとそう、私はだいたいそのようなことを言って、微笑みなど浮かべてみせて、引っ張られていくあなたに小さく手を、振ったのだろう。

 そこに居られる、というのと、そこに居て良い、というのの間には、埋めようもない決定的な差がある。といったことを当時の私がまるきり理解していたかといえばそんなことはないのだろうけれど、幼さゆえに私の頭の中にゆっくりとわだかまっていた実感のようなものは、危険信号だけをただうるさく叫んでいた。私はここに居て良いなんてこと、べつに誰に言われたわけでもないのだ、ということだけが、鋭い感覚としてあったのだ。
 私がそれでも「そこに居られる」ための、例えば笑顔、例えば人当たり、例えば丁寧さ、そういった「生きていく上で凡そ必要なことの全て」といったようなものを手と同じくらい冷たく整っている頭に刻み込んだのはそれからもう少し先の話で、だから、あの頃の私は実際のところ今よりももう少し素直な存在だったのかもしれない。いびつなことに変わりはないので、だからといってどう、というわけでもないけれど。

「ねえ、れいかちゃん」
「………?」
「どうしてれいかちゃんはいつも、なおちゃんを独り占めするの?」

 つまり、率直に言って、あの頃の私はなおが居なければ、「そこに居て良い」人間ではなかったのだ。
 だから誰かが間違っていたわけではない。あのとき保育園の遊び場でタイヤの上から私を見下ろしていた、毎日のようになおをサッカーに誘いにきたたかしくんも。子供らしく純粋な悪意のこもった、なおのことをいつも王子様みたいだと言っていたえみさんも。誰も、だれも、間違っていなかった。
 
「ごめんなさい」
「……あやまってほしいんじゃなくてぇ、れいかちゃん」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめん、なさい」
「なんだよ、なんか、こっちがわるいみたいじゃん」

 違います、あなたたちはなにも、なにも悪くないの。
 間違っているのはどう考えても、AtoZ、私でした。なおがいないとそこに立っていられる気もしないような、私でした。

「こらーっ! なにれいかのことなかせてるんだ、このーっ!!」

 だから私は拳を振り上げながらあなたが来てくれたことを、もう少し申し訳ない気持ちで思い出さなければならないはずなのに、記憶を紡ぐ指先はほんのりあたたかくなってしまうのだから、どうしようもないなあ、と、思う。
 
 もちろんその後はちょっとした騒動になってしまって、その中心にいたたかしくんやえみさん、そしてなおは先生から叱られてしまったのだけれど、どういうわけだか叱られもせずにやっぱりふらふら突っ立っていた私のところに戻ってきたなおが浮かべたのは、弾けるような笑顔だった。何か、とびきりいいことを思いついたときに浮かべるような、笑顔だった。
 
「れいか、こっち!」
「え、あ……えっ、ちょっと、なお」

 お気に入りの緑色のクレヨンをなぜか手に握ったなおは、およそそれが必要になるとは思えない外へ私の手を引っ張っていった。そのときなおが私の目の前、小さな背中で巻き起こした風は、後ろから追いかけてきたなおと遊びたい他の友達のたくさんの声をあっさりと吹き飛ばしてしまう。
 なおが私を引っ張ってきたのは保育園の遊び場にあるぞうさんの滑り台の中。それは滑り台として楽しむには少々小さすぎる上に、ちょっと錆び付いていたので、えらく人気がなく、それをいいことにいつも私たちはそこで二人小さくなって肩を並べていたのだ。そのいつもの場所まで私の右手を握ったままだったなおは、首筋にきらきらひかる汗の玉を浮かべながら振り返って、今度は両手を一緒に、ぎゅ、と握り合わせた。
 グーになっていた私のそれはなおの、砂とサッカーボールのゴムと太陽の匂いがするふくふくした幼い指先で、ゆっくりと開かれる。そのままにしててね。最高の秘密を打ち明けるときみたいにわくわくした顔で、なおが囁く。

「あ……」
「はいっ!」

 きっと、なおは、例えば私の抱えていたたくさんのことをわかって、そんなことをしたわけではないのだ。だって私は、あなたになにも言ってない。
 でも、だから。それだからこそなおは――覚え立てのひらがなで、私の右手と左手、それぞれに、へたくそであたたかな字でなお、と書いてみせるようなあなたは。
 いつも、すごく、かっこいいのだと思う。

「……っ、う」
「えっ!? うわ、ご、ごめん、やだった!? ごめっ、け、消す、消すから!」
「だ、だめ……っだめ、けさないで、おねがい、おねがい、なお」

 おねがいだから。だったらどうして泣くのさとなおの情けない声が聞こえたのだけれど、私の瞳からぼろぼろこぼれてきたたくさんの言えなかった何かたちは関係なしに止まらず、あのとき私はどのくらいあなたを困らせてしまったのでしょう、今思い出すだけで、少し、恥ずかしくなります。
 せっかくなおが書いてくれた名前が消えてしまうのが怖くて、涙を拭うこともできなかった私は両手をだらんとさげた変な格好のままぼたぼた泣いて、泣いて、泣いた。きっとそのとき、若しくはなおが笑いかけてくれるたびに私が言わなければならなかったたくさんのことを、私はそのとき全部、汚れたコンクリートの上に、何色でもない染みにして、そうっとひそませてしまったのでしょう。



 もちろんそんなときのものが今残っているわけもない。しろい手。緑色が鮮やかな線を描いていたことを、だらしないくらい覚えている、だけどしろい手。
 私は、あれから私はたくさんの、私にとっては覚える必要のあったことをたくさん、たくさん、覚えてきて。今では模範生という名前だって与えてもらえるような、そういう人間になれて。ただそれがいいことだったのかどうかはわからないのです、あなたに寄りかかりすぎないように、あなたがくれる色がなくても、私はちゃんと立っていられますよと、あなたの前で一番、胸を張って笑えるようになったはずなのに。
 なんだか、そういうふうにしてたくさんのことで塗りつぶしてきたら、私はほんとに真っ白になってしまったようで。あのときから言えなかったこと、最初から今までずっと言いたかったことを、すっかりひた隠しに隠してしまったようで。「生きていく上で凡そ必要なことの全て」のうち、例えば常識といったものが、それは告げない方がいいだろうと静かに蓋をしてから随分長いこと経ってしまったので、縁はもう、錆び付いて固まってしまったようで。

「………、」

 それが軋みを上げてしまったりなどしたのは、なおがまだ目覚めるようすをちっとも見せないまま眠り続けているから、なのだろう。ねえ、なお。唇がほんの少しだけ動く。錆び付いた想いが、みしみしと悲鳴を上げる。ねえ、なお、私は。
 私は、あんなふうに迷惑を掛けたくなかったから、そのために必要なことを、できるだけ、してきたつもりだけれど。私は結局、それでなにがしたかったのか、わからないの。わからなく、なってしまったの。白い手のひらを見つめていると、見つめているとね、なお、私はなんだか、どうしようもない気持ちに、なってしまって。どうしようもなく、さびしいきもちに、なってしまって。

 ほんとはもっと。
 慣れきった笑顔じゃなくて、覚えたてのへたくそな言葉で、言わなくちゃいけないことが、伝えたいことが、あって、あった、はずだけれど、

「ん……れい、か?」
「あ……」

 ゆっくりと体を起こしたなおが、あまり隠す気のなさそうな手を口元に当てて、ふあ、とあくびをする。勢いの良い音なんてしなかったのに、なおがたった一度、少し濡れた瞳で私をちらっと見ただけで、錆び付いた蓋は隙間なく閉まる。そうだとわかる。だってのどが詰まったもの。

「ごめん、寝てた……起こしてくれて良かったのに。れいかはやさしいなー」
「……っ、あ、の」
「うん?」
「あ……ぁ、」

 わたしは、

「……おはよう、なお。」

 ほんとに、いえなくて、なにもいえなくていえなくて、もう、どうしようも、ない、のに。

「うん、おはよ、れいか。さ、もうかえろう」

 それなのに、じいっと見つめていた白い手の上に、甘い汗と、焼けた土と、涼しい風の匂いがするあなたの手は優しく、かさねられてしまうのだ。
 あ、と言う間もなかった、いつだって真っ直ぐすぎるほどに真っ直ぐななおの手は、ぴくりとふるえたきりなにもできなくなるような私の手を、指のいっぽんいっぽんまですうと撫でるように、丁寧なのに力強いしぐさで、握ってしまって。握り返すこともできずに居たら、くすっと笑って声を掛けるように、ぎゅ、ぎゅ、と二度握られた。あたたかな指先が手の甲にそのたび沈んで、わけがわからないくらい温かな鼓動が鳴った。
 白かったはずの手のひらに、鮮やかな色が戻ってくる。れいかの手はつめたいなあ。言っていることとは裏腹に、甘すぎるくらいいとおしそうな囁きが、耳元で鳴る。なおはきっとちょっとくらいは知っているのだと思う。あなたにそういうふうに話しかけられると、私はとても、弱ってしまうということを。

「えっ……わ、ど、どうしたの、れいか?」
「っ……うん、ごめん、なさい、なお」
「え、ええ?」

 それで蓋がゆるんでしまったのかなあ、そうなのかなあ、わからないけれど。あの日みたいに両目からぼたぼたとではないにしても、うっかりこぼれてしまった一粒。あの日からなにも言えなくて、今日までなにも言えずにいる私の、きたなかったり、こわかったり、くるしかったり、それなのにいとおしかったりする、あなたに伝えたい言葉の一粒。
 白く白くなっていく中で消えてしまいそうなのに、ふとした瞬間、あなたがその眩しい色で照らしてくれるから。だからきっと、私はそれを消せずにいる。消えてしまいそうな追憶の溢れる夕焼けの中でも、作り上げてきた私ではない私へと完全になることができず、あの頃と同じ気持ちをこぼす。

「……れいかの涙は、」
「んっ……え……?」
「すごくきれい、だよね」

 こぼしてしまうのもったいないよ。
 今度は堅い机の上で何色でもなくなるはずだった一粒は、けれどなおの唇に触れて、舌先に飲み込まれて。くすぐったさよりもはずかしさよりも先に、私はやっぱり、しあわせになる。なにもわかっていない、なにも言ってあげられていないあなたによって、勝手に、しあわせになる。

「なんか」
「うん」

「あまい、ね。」

 願わくば、その一粒が、あなたの好きな味でありますように。

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