きょうはなんの日




「ふぁ……あぁ、んッ!」

 少女は華奢な背が壁にぶつかるのも構わずに、ただ激しく身を捩っていた。喉の奥から絞り出される、切なく掠れた声。どうにかしてこの場から逃げ出そうと少女はもがくが、しかし少女の手はネクタイによってしっかりと拘束されていた。身動きすればするほど、それは手首にぎりりと食い込んでいく。けれどその痛みすらも、今は、どこか、も、だめ。消えてしまいそうな、なにかがぷっつりと途絶える一瞬前のような声で少女は呟く。

「だめなんてこと、ないでしょ……ほら、」
「やぁっ……! あ、あァあ……っだめ、も、むり、です……っ、くぅ!!」

 悲しいのではない涙をぽろぽろと零している少女を壁に追いつめた一つ結びの少女が、嗜虐的な笑みを浮かべる。もっと泣いて。泣いて、泣いて、そして鳴いて。あなたの乱れた顔が見たい。いつも涼やかに凛と澄んだあなたの顔が、生真面目にぴんと伸びた背が、静かに風に揺れる髪が、甘い甘い痛みに包まれてなお溢れ出しそうな快楽に、溺れて乱れた姿がもっと見たい。だから。一つ結びの少女は、長い髪の少女の乱れた着衣をさらに強引にたくし上げ、肌に直接触れていく。一つ結びの少女の吐息が白く滑らかな首筋に熱くぶつかって、長い髪の少女はいっそう身をくねらせるのだった。仕草のひとつひとつにどこか艶めいたものが混じってきていることに、彼女はきっと、気づいていない。
 身体の中を電流のようにあばれまわる熱と、お腹の奥をしくしくと揺らす疼痛。遠く向こうでチャイムの音が聞こえる。それがいっそう熱を痛みを加速させていく。グラウンドでは今も友人たちが何事もなかったかのように部活をしているだろうか。教室では残った生徒たちがちょっとしたおしゃべりに興じているだろうか。廊下ではそれを咎めたり、顧問の仕事に勤しむ教師が闊歩しているだろうか。考えてはいけないようなことばかりが、考えたら頭の中がめちゃくちゃに溶けてしまいそうなことばかりが、少女の頭を過る。
 だって私、学校で、こんな、こと。旧校舎四階奥の女子トイレにどれほどの生徒が立ち寄るのだかはもはや少女たちの想像には及ばないことであった。しっかり締められた鍵。床のタイルの肌色だけが妙にはっきりとしている個室の中は、およそそぐわないような淫靡な音と、濃く少女たちの脳と思考を毒していく匂いとで充満している。感覚に酔って動けば動くほど、引きちぎるように前を開けられた制服のシャツが肩からずり落ちて、自分の肌があらわになっていくというのに。長い髪の少女は、動きをとめることが、できない。

「ふふ、あんた、さ」
「っひ……う、んンッ」
「ここにください、って、一生懸命、おねだりしてるみたいだよ?」
「え……っ、あ!!」
「なに、気づいてなかったの?」

 くすくす、と、とても楽しそうで、そしてとてもざんこくな響きの微笑みが、少女の耳朶を掠めて。彼女は、気がつくのだ。彼女の性格の通りに真っ直ぐに整えられたプリーツスカートに包まれた自らの腰が、まるで"そこ"を向かいの彼女に向けて押し付けるかのように、淫らにくねってい



「ああっ、もう、読むの遅いわあんたは!! ええからはよめくれや!!」
「うわああああびっくりした!? えっ、あっ、あか、あかね!? なん、なにしてるの、こんなとこで!!」
「そりゃこっちの台詞や。なんやグラウンドの隅っこで見覚えのある尻尾が見える思たら」
「誰の頭が尻尾だよっ! ていうか、尻尾っていうんだったらあかねの方がずっとそれっぽいじゃないか!!」
「あぁ!? っさいわ馬!」
「ポニーテール馬鹿にすんな、ネズミの尻尾!」
「ええんですー、ネズミやったら世界的な人気もあるしな」 
 
 といったような言い合いをあっさり初めてしまうのが思うにあたしとあかねの間に蔓延しているほんとうに良くない雰囲気だと思うのだが、多分この時点であたしもあかねもわかっていたのだ、お互いに触れたくない話題があると。
 しかしあたしたちの手にその恐らくは雨やら風やらでがっびがびになった本がある限り、そういうわけにもいかない。なぜって、ぽんぽんと言い合える言葉が一瞬でもなくなってしまったその時には、もうあたしたちの目はその本に、さっきまであたしと、そして気がつかなかったがあかねも一緒になって食い入るように覗き込んでいた本に、向いてしまっているからだ。

「いや、ちゅーか、あんた、これ……」
「ひ、拾った! 拾っただけなんだってば、ほんとに!」
「そりゃわかるわ、誰も買ったなんて思うかボケェ! あんた頭沸いとんと違うか、そない顔赤ぅして!」
「あっ、あか、赤いのはあかねだろ!!」
「さむっ! なおさむっ、今のはないわー……」
「いや、シャレじゃないし! なんなら鏡あげようか!?」

 といって、はい、また、沈黙。どっちもどっちな言い合いほど不毛なものはないし、あたしが自分の耳がかっかしてるのがしっかりわかってるように、あかねだって自分の頬からユニフォームから覗く首元辺りまで、それこそ名前の通りになっちゃってることをわかっているに違いないのだ。(しかしそれにも関わらず、さっき後ろから掴みかかってきたときのままにあたしとあかねは仲よく問題の本を片方ずつ担当して持って、そして離さないでいたのだから、どうしようもない話である。)
 でも間違ったことは言ってない。必要のない嘘も必要のある嘘もつけないタイプ、良くも悪くもあたしは多分そうなのだ。だから本当にこの本はただ、なんというか、部活のみんなが帰った後に自主練習をしていて、少し目測を誤ってしまったボールを拾いに行った草むらで、ほんとに、拾っただけなのだ。いやでも理由を述べるとしたら(と自分で言っている時点でかなりダメな気もするが)なんていうか、本が落ちてたら、拾うだろ。誰かの大切な本、例えば教科書とかっていう可能性の方が学校内のグラウンドだったら大いにあり得るわけで。

「……内容的には真逆やな」
「……誰が上手い事言えと」

 そう、開いてみたら教科書どころの話ではない。たぶん、これはその、なんというか、いわゆるひとつの、

「エロ本やな」
「うわああああやめてよ!! 誰が聞いてるかわかんないでしょ!?」
「誰もおるかいな、こないな時間まで! あんた見てるとじれったくてしゃーないんやって!」

 なんだかものすごく「お前にだけは言われたくない」「人のふり見てわがふり直せ」等々の言葉が頭をぐるぐるしているが、とりあえずそれを押し殺して降参。あかねの言うとおりであることだけは、とにかく、確かなことだからだ。はい、とてもとてもあたしたちが見ていいような内容ではありませんでした、文章内容にしろ、挿絵にしろ。
 しかし、そんなこと言って食い入るように見つめとったくせに、とまでは、あかねは言わなかった。それこそ、お前にだけは、言われたくない。なにせあたしの後ろで食い入るように、しかもあたしよりもおそらくは格段に早いスピードで読み進めていたのが、このあかねなのだから。
 まあ、そうはいってもどっちにしたっておあいこ、という時点であたしが強く出られるはずもなく、あとは沈黙に耐え切れなくなった二人して、気まずそうに赤い顔を見合わせるしか、なかったのだが。

「……ちゅうか、なあ」
「なによ」
「あんた、いつまで離さん気なん、その手ぇ」
「……そんなの、あかねだって離してないじゃん」
「そりゃ、うちは……うちはええんや、うちは」
「なにそれ意味わかんないし……そんなこと言って、こっそり持って帰ったりとかして読む気でしょ」
「は、は、はぁ!? すっ、するかいな、そないなこと!」
「そーかなーぁ、あかねならやるでしょ、絶対。さっきだって超一生懸命読んでたし!」
「あ、あ、あんたかて! ああいうのうち知っとんで、かぶりつきっちゅうんや!」
「それはっ、し、しょうがないだろ!」
「しゃーないやろ!」

「この子、れいかに似てるんだから!」
「この子、れいかにちょぉ似とるから!」

 ――ところで今日の夕月はほんとうに綺麗な三日月で、つまりそうやって、二人してグラウンドであほらしいことを叫んでいるあたしたちを、にんまり見下ろしていた、のだが。
 ちくしょう、やっぱり同じ理由だったか。多分そう思ったところまで揃っていた、間違いない。気が合うっていうのも考えものというか、こんなところまで足並み揃えなくていいっていうか、せめて好きなひとくらいは、ずらしてくれよ、っていうか。ともかくあたしたちはむっと勢い良く相手のことをにらみつけて、そして、ものの数秒で脱力した。ああもう、なんてばからしいんだ。
 でも、俯くはずであったあたしたちの目線は、もはや大事そうにといっても差支えないように二人でしっかり持ったままの問題の本に落とされる。挿絵に描かれた、その、じ、女子トイレの壁に追いつめられて、なんていうか大変なことになってる女の子。その女の子は、あまりにも、あまりにも。

「これ……これは……なんちゅうか、その、反則やろ。あかんやろ。だめっだめやろ」
「……言ってる意味はわからないけど、言わんとしてることはわかるって、なんかやだな」

 あまりにも、れいかに、よく似ていたのだ。
 あたしたちの顔が二人揃ってどうしようもない色をしているのは、本の内容ももちろんだけど、なによりあたしたちくらいの歳の(そっち方向の)想像力ってやつは恐ろしい。あかねが何を考えているのかってことすら手に取るようにわかるのだから嫌だ。や、手に取るようにどころかさ、それってどうせ、あたしの頭の中そのまんまなんだろ、わかってるよ。
 だけどあんたはまだいい方だよって言いたくて仕方がないのをぐっとこらえる。言ってしまったら余計に馬鹿馬鹿しいというか、本格的に脳が爆発しそうだ。いやでもいい方だよあかね、あんたは知らないでしょ、その、れいかの服の下、とか。

「お、同じクラスなんやから着替えくらい見たことあるわ……」
「て口に出してた! しまった嘘がつけないってさっき自分で言ってたのに! ていうか見るなよ、勝手に!」
「なんであんたに許可とらなあかんの!? 別にあんたのもんとちゃうやろ、公共の場で着替えてるんやから見るも見られるも勝手や!」
「公共の場とかなんかそんなあけっぴろげみたいな言い方すんなっ、あ、ああそーだよ、れいかの着替えはあたしだけが見ていいの! だってちっちゃいころから」

「はい、呼びました?」

 ――ぎ、ぎ、ぎ、と振り返る。それは、そう、油を指し忘れたブリキのおもちゃ、ふたつ、っていうか。
 そして視認する。夕月の下、綺麗な青髪を靡かせて。ランニングにでも行っていたのか、頬をかすかに火照らせて、こめかみのあたり汗の玉を滲ませた、体操服姿の。つまり、白さの眩しい腕やら足やらを、しっかりと覗かせてくれちゃっている、

「……あかねさん? なお? あの、どう、」

「「………ッ!!!!」」

 断言しよう。
 まだ短い十四年の生涯だが、あたしはこの直後以上におかしな声ってやつを、出したことは、なかった。
 ついでに、どんなに大ピンチの試合でのコートでも、こんなダッシュをかましたことはなかったというところまで、あたしとあかね、共通の意見である。



「っ、ぜえ、はあ……はあ、お、追ってきて、へんか……?」
「さ、さすがに……はあっ、それは、ない、でしょ……」

 いくら弓道部も運動部とはいえ、バレー部とサッカー部とでは身体の鍛え方が違う。そもそもれいかはそこまで躍起になってあたしたちのことを追う理由なんてないわけだし、あたしとあかねのまさに脱兎というのが正しい全力疾走に、最後まで付き合う義理はない。

「……なあ、ところで、なお」
「うん……?」 
「この本な」
「なんで持ってきてるわけ!?」
「あそこに置いていけるわけないやろ!? いや、せやなくて、この本の!!」
「え、う、うん」
「もう一人でてきとるやん……その、なんちゅうか……れいかじゃないほう」
「れいかっていうな!! やめて、走ってちょっと紛れてたのに!!」
「う、うう、うっさいわ、ええから最後まで聞きぃ!」
「ああもうっ、なに!!」
「や、一つ結びの少女、って、あるやん。これ、その……うちっぽくない?」
「え? 何言ってんの、一つ結びっていったら、あたしじゃん」
「は? いやいやいやいやうちやろ」
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいやいや!!!」
「いやいやいやいやいやいや!!!!」

「なんや、やるんか!?」
「あー、やるならやってやるね、直球勝負だ!!」

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