「どうかしていたのって、結局だれだったんだろうね?」




「みにくいあひるの子がほんとうはとびきりうつくしい白鳥であることを、白鳥の群れのみんなよりも先にみつけていただれかがひとりだけいたとしたら、物語の結末は変わっていたと思う?」

 頭のいい子ってこういうところがずるいよなあと、凛はほっぺたがひしゃげるくらいだらっと頬杖をつきながら、ぼうっと考えていた。机をたったひとつきりはさんで向かいに座っている彼女は、けれども凛のそんな不服そうな目線を、ちっとも気にしていないらしいようすしかみせてくれない。たとえ気にしていたとしてもだ。真姫ちゃんって、とにかくそういう子なんだもん。
 こちらは問三の(2)で完全に手が止まってしまったというのに、彼女のペンはおおむね順調にノートの上を走ってばかりいて、ほんのりと赤味がかった前髪のすきまからのぞく静かに伏せられた睫は、長くてなんだかきれいだった。ちょっとしゃくにさわるくらいには。そういうふうに、からだのできだって頭のできだって最初っからぜんぶ決まっているっていうんだから、絶望的ではないにしても、たまにやりきれないとは思う。
 ゆきどころのない不服さをぶつけてしまうように、適当になげだしていた足をちょっと空へ放るように蹴ると、室内履きのつま先のゴムが向かいの彼女のひざこぞうとつんっとかすめて、ついに彼女は顔を上げた。してやったり。いくぶん満足した凛はにやりと真姫を見上げて口もとをゆがめたけれども、その瞬間に報復の一撃が狙いすましたかのごとく正確に向こうずねをとらえてきたので、結局悲鳴をあげることになったのは凛のほうだった。
「うううう、真姫ちゃん痛いにゃあ! お医者さんの知識をこういうところで使うのは、凛よくないと思うっ」
「うるさいわね、先にちょっかい出してきたのはそっちでしょ」
 言うが早いかまさかの二発めが飛んできたので、今度こそ椅子ごと身を引いて、なんとか回避する。いくら不器用であるにしたって、加減ってものをしらないんだから。そんな気持ちでいっぱいだったけれど、不器用だなんて言ったら次はどんな弱点をつかって痛めつけられるかしれないので、なんとか努力して、言葉をのどで踏みとどまらせる。
 けれどもそれが不満のすべてであったわけではないから、凛は口を完全につぐんでしまったというわけではなかった。
「でも、先によくわかんないこと言ってきたのは真姫ちゃんのほうだよ」
 こんなに真向かいで話している人間に、返答に窮するような質問をなげかけられてしまっては、ちょっかいをだしてごまかすくらいしかやれることなどないではないか。凛としては至極まっとうな反論をしたつもりなのだけれど、もともととんがりぎみの瞳をきゅっとすがめた秀才の彼女としては、ちっとも納得できるものではなかったらしい。
「なによあんた、小さい頃に絵本も読まなかったの? そんなんだからこんな簡単な文法もわからないんじゃない」
「絵本くらいなら読んでたもん! っていうか、絵本は英語で書かれてません! 過去完了も不定詞もでてきてまーせーんー!」
「私はたいていの絵本なら英語でも読んだことがあるけどね」
「真姫ちゃんのぶるじょわじいな常識を凛たちみたいな一般庶民に当てはめないでほしいにゃ……」
「ともかく」
 たいへん強引に、しかし有無をいわさず話を切り上げた彼女は、なんということか凛を完全に差し置いて課題がすべて終了したらしいノートの上に持っていたペンをぽんと転がしてから、やっぱり「ぶるじょわじい」なしぐさで足を組む。教室備え付けの木造椅子が軋む音なんかは実に庶民的であるはずなのに、それよりも斜陽に照らされた横顔のひやりとしたととのいかたばかり映えるあたり、人間って不公平だった。そして私たちはいつも、そんな「ぶるじょわじい」に従わなければならないのだ。
 つまりそうして、もう完全に話をしなければならない体勢を作った彼女が口を開いた以上、凛だって、話をしなければいけなかった。
「読んだことあるでしょ、みにくいあひるの子」
「そりゃあ、まあ」
 あの子って。かよちんって、昔から、外で遊ぶよりもなかで本を読んだりお絵かきをしたりするのが好きな子だったし。
 そういうふうに続けさせたかったのだろう。現在完了も間接疑問文もよくわからない凛にだってそれくらいはわかる。わかるから、努力してまでそれきりじっと黙っている。真姫もきっとそれに気がついていて、だから彼女のきっぱりとした瞳の奥の灯りは、凛のことをわしづかみにしたままだ。
 頭のいい子はずるい。だれの話をしているのか自分でははっきりと口にしないまま、それをこっちにわからせる話しかたができる。そしてきっと、そのほうがよけいにはっきりものごとを突きつけられるってことまで知っていて、わざとそうしているのだ。自分で気がついたことは、だって自分で気がついてしまったことだから、どうがんばっても逃げられないもの。ごまかせないもの。
 そうやって真姫ちゃんはわからせようとしているのだ。これが、だれの、なんの話をしているのかってことを。
「童話って無粋なくらい書き替えられるから、ディティールは違うかもしれないけど」
「でぃてぃーる?」
 疑問符をうかべる凛をひとにらみで切り捨てた真姫は、腕を組みながらさらさらと話し始める。
「あるあひるの母親が卵を温めて孵したら、白い毛並みのほかのきょうだいたちとはまったく違う、灰色のみにくい子どもが一匹生まれました。みにくさをさんざんからかわれて家族を追われたその子は、ほうぼうで酷い目に遭いながら冬を迎えて、とある湖で白鳥の群れと出会いました。するとかれらはその子のことを新しい仲間として迎え入れ、おどろいたその子が湖で自分の姿をみてみると、美しい白鳥に成長していました。自分に自信を持てるようになったその子は、群れの仲間に囲まれ幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……って、だいたいこんな感じかしら」
「うーん、たぶん。そうだった気がするにゃ」
「だから、これで」
 もしもその子がうつくしい白鳥であることを、だれよりも先に、たったひとり、見抜いたものがいたとしたら。
 真姫ちゃんはくりかえす。腕と足をそれこそ羽をたたんだ鳥みたいに優雅に組みあわせて、じいっとこっちをみたままで、真姫ちゃんは話し続ける。
「どうだったと思う?」
「どうって?」
「その終わりは、もとのお話みたいにめでたしめでたしだったのかしらね、ってことよ」
「……んー」
 彼女はこっちを見ている。凛の課題はさっきからずっと進んでいない。試験はもう目前といってもさしつかえなく、試験にまるごと出しますよときんきん声で話していた先生の忠告をありがたく受け取るならこの進み具合には危機感を持つべきで、μ'sとしての活動を支障なく続けたいなら、赤点回避のためにもいますぐペンを取るべきだった。それなのに。
 それなのにあたまのいい子はずるい。そういう話しかたはずるい。もしも、いちばんがいたら。もしも、とくべつなだれかがいたら。この子はほんとうはほかのだれよりもなによりもとびっきり魅力的なんだってことに、最初に気がついただれかっていうのが、たったひとりだけいたとしたら。
 そんな質問は、ずるい。ずるい、
「そんなこと、凛に聞かれても、よくわからないにゃあ」
 ほんとうにずるいのはだれかってことくらい私がいちばんわかってるのに、それにも気づいているくせして、こういう話をしてくるのは、ずるい、ずるい、ずるい。

 いちばんとかとくべつとかいう言葉には、呪いがかかっているらしい。しかもすごくやっかいなたちの、どっちが呪いをかけられたほうで、どっちが呪いをかけたほうだったのかが、すぐにわからなくなるようなやつ。それがもうわからなくなってしまったと気がついたそのときにはもう、呪いは手遅れなくらいに、自分のなかのすごく深いところまで、しっかりとからみついてしまっている。
「はい、それじゃあみなさん、お歌を歌いましょうね」
 きょうはなんのうたがいいかな。「ふじさんのうた!」「えーっ、きょうはちょうちょがいいよぉ」「あたしみつばち!」「ねーねー、ゴレンジャーのはー?」「それはみんなのおうたじゃないからだめなんだって」「ちぇー」足踏みオルガンの前に座った先生に向かって、みんなが口々に声を上げる。
 保育園でクラスのみんなが一緒にやることはだいたい四つあって、お外で遊ぶこと、お歌を歌うこと、先生のお話を聞くこと、絵を描くことの順に好きな子がだいたい多かったと思う。どちらかというと活動的な子が集まったクラスだったのだろうし、凛だってそこにふくまれていた。月のなかで時間の過ごしかたがどんなふうに決められていたのかまではしらなかったけれど、お隣のクラスでみよちゃんから聞いていたよりも前二つが多かった気がするのは、きっとそういうわけだったんだろう。みんなはお外で元気に遊ぶのが好きですよね。みんなはお歌を歌うのが好きですよね。先生のそんな言葉に、凛はいつも頷いてきた。
 だから、そのみんなって言葉には、いつだってそこにはふくまれないだれかがいるのだということをしったときは、けっこうびっくりしたのだ。みんながみんなになるためには、数えとばさなくちゃいけないだれかが必ずいる。そして凛たちの星組さん二十二人のなかでいつも数えとばされていたのが、好きな曲名をざわざわと話しているすみっこでじいっとちいさくなっている花陽だった。
 凛も今日はチューリップの唄がいいな、と思っていてたった今までそれを挙げようとしていたはずなのだけれど、花陽のほうをちらっと見たとたんあっというまにそんなこと忘れてしまう。先生のところに押し寄せているみんなの下を四つんばいで器用にくぐりぬけて、ばあっと花陽の下からのぞきこんでやると、しりもちをつきそうなくらいびっくりされた。
「り、りんちゃん、おどかさないでよぅ……」
「あは、ごめーん」
 ずいぶんどっきりしてしまったらしい花陽は、胸の上に手をあてて、深く息をついた。けれども今度はそっぽを向いてしまおうとしたので、ひょいと立ちあがった凛は、先回りして花陽としっかり目を合わせてしまう。ついに根負けしたらしい花陽が、なあに、とぼそぼそ言った。
「んっと。ねえ、かよちんさぁ」
「う、うん」
「かよちん、おうたうたうの、きらいなのー?」
 ぱちん、とひとつまばたきをした花陽が、そのあとちっちゃな手をなんとなくもぞもぞさせていたのをみつけて、凛はぴたりと黙った。こういうときに口を開いてはいけないのだ。こういうときだれかが先回りしてなにか言ってしまうと、花陽はたとえそうでなくたって、そういうことにしてしまうから。そんなとき花陽はいつも、指をきゅうきゅうあわせている。まるでほんとのことを握りつぶしてしまうみたいに。だから凛はだまって、花陽の答えを待っている。
「……きらい、じゃ、ないよ」
「きらいじゃない?」
「……す、き」
「すき」
「うん。おうた、うたうの、すき」
「そっか!」

 かよちんって呼ぶようになったときも、たしかそうだった。あんなに昔のことなのに、意外と覚えているものだ。それも呪いの功罪なのかもしれない。もうよくわからない。
 まだ星組さんではなくりす組さんで、凛も花陽も四歳だった。クラス分けが発表されて、教室まで新しい先生にくっついていったそのあとは、初めて顔を合わせたみんなのために、先生がひとりずつ名前を呼んでいくことになっている。呼ばれたら元気に返事をしなくてはならないから、真新しい椅子に座った凛は、声をお腹にためるようにぐっと力をこめていたところだった。
「それじゃあ、次ね。こいずみ、かよちゃん」
 が、先生の言葉をきいて、せっかくためていた力が、一気に抜けてしまったのだ。
「あれ? かよちゃん、いないの、かよちゃん?」
 先生がくりかえした三回目で、ぷっとだれかが吹きだした。去年も凛と花陽と同じクラスだった、ゆうじくんだ。仲良しのひでかずくんのことを肘でつついて、花陽のほうをみて笑っている。その視線がひとりまたひとりと増えたころには、クラスじゅうがくすくすといじわるくふるえていた。広がった波紋の真ん中でぽつんと座っている花陽は、ふるえをぜんぶ受け止めたように肩をちぢこまらせて、指をぎゅうぎゅう握りあわせて、耳まで真っ赤になっている。
 どうやらクラスのみんながだれを見ているかってことくらいはさすがに気がついた先生は、教壇から降りて、花陽の席まで寄っていった。でもちがうのに。みんなが笑っているのは、花陽が返事をしないからじゃ、ないのに。
「かよちゃん、あなたよね? お返事、できるかな?」
 ちがうのに、ちがうって、言えないんだ、あのこ。
 まだみんなでなにかをする時間がなかったころ、いつも隅っこでお絵かきしている子としか花陽のことをおぼえていなかった凛は、けれどもどうしてだろう、ふっとそうわかってしまった。花陽のふくふくとやわらかそうな指先は、力がこもって真っ白になってしまっている。それがやけにはっきりと目についたことを、今でも鮮明に覚えている。
「……はい」
 花陽の返事はすごくすごくちいさかったのに、あんなにふるえていたのに、クラスじゅうのみんなが聞いてしまった。それが、先生や凛、そしてクラスのみんなが思っていたよりもずっとひどいことだったと、花陽だけは気がついていたのだろうか。たまに、そんなことを考える。
「かよ、かよだって、へんなの!」
「うそのなまえっていけないんだぞ、おまえ、わるいやつだなぁ」
「うそつきのかよ、ゴーゴーレッドがたいじしてやる!」
 あたりまえみたいにみんなが花陽のことをからかいはじめた。ほんとはかよじゃなくてはなよだってしらない子たちまで一緒になって。そうやって数えとばされていることを無視してまでもみんなでいたいのは、どうしてなんだろう。新しいクラスで、仲良しばかりがいるというわけではない教室の区切りのなかで、みんなっていう一色にぬりつぶされた子たちが、一斉に花陽のことをつついていた。
 たとえばそのとき、どうやってまさたかくんが花陽のことを突き飛ばしたかってことまで覚えているのに、どういうわけだかひとつだけが、ちっとも思い出せない。
「なんで? かよっていうの、りんはかわいいとおもう」
「……は?」
 それじゃあなんの解決にもなっていないだとか、そもそも論点がまったくずれてしまっているだとかいうことに気がつけない程度には、ことの重大さや対策のたてかたなんかちっともわかっていなかったのに。
 それなのにどうして、あのとき私は、あんなことを言ったのだろう。
「ね、んーっと……かよちん! そう、かよちんってよんでいい?」
「え? ……えっ、え?」
 それだけが、もうどうやっても、ぜったいに思い出せない。
「かわいいでしょ、かよちん。かよちんにぴったりだよ!」

 わらわない、わらわないっていったい何回聞かれただろうか。おうたの時間のあと、自由時間でのことだった。石橋を叩いているうちに自分の指を叩いて泣いてしまうような花陽だから、聞いているうちにどんどん不安が膨れてきたらしく、わらうもんりんちゃんぜったいわらうもんっていじけはじめたのをなだめなければならなかったというのだから、きっと相当だった。
「あのね、わたし。わたし、ね」
「うん」
「アイドルに、なりたいの」
 でもともかくそんなふうにしてどうにか聞けたのが、それだった。おとなしくて、からだも声もちいさくて、ちょっととろくさくて。それでもあのときからずっと、ずっとかわらない花陽の夢の話。
「アイドル? って、あの、かわいいふくきて、うたったりおどったりするひと?」
「……うん」
 聞いて、ぱっと顔を輝かせた凛が花陽の両肩を掴むのがあとちょっとでも遅かったら、凛が花陽のことを嗤ったんじゃないかって、思ってしまっていたかもしれない。
「すごい!」
「え、っ」
 だけど凛の行動は早かった。落ち着きはちっともなかったけれど、瞬発力はあのころから一級品だった。脳みそをちゃんと経由しているのかどうかわれながらちょっと心配になるくらい、心で思ったことが、そのまま身体に出てくる。
 だからそのときもそうだった。凛は花陽が不安になってしまうよりもずっと早く、花陽の両手を取っていた。
「すごい。すごいよ、いいとおもう! りん、かよちんがアイドルって、いいとおもう!」
「そ、そう、かな」
「そうだよー!」
 そうかな。そうだよ。同じやりとりを、次はとてもちいさな声でもう一度交わした。
 それだからたしかめられたのだろうか、わからない、けれど、凛が握っていた花陽の手は、いつのまにかすごくすごくあったまっていて、指先のあたりがほんのり桜色に染まっていた。ひだまりの温度、はなびらの指先。凛がぎゅうっと力を込めると、花陽もちょっとだけ、握り返してくれた。
「あっ、じゃあじゃあ、うたとかダンスとか、もうれんしゅうしてるの?」
「えっ? あ、う、うん……あの、ち、ちょっとだけ、ちょっとだけだよ」
「みたい!」
「ぇえ!?」
「みたいみたいみたいっ、ね、おねがい、かよちん!」
 ここでは無理だというから園舎の裏のすみっこまで移動して、まともに見られたらはずかしいというから隣でしゃがんでいることにして、待ちきれないみたいに手拍子をして、それでやっと花陽はその気になってくれた。じっと座っているのなんて一分ももたないくせに、われながら現金な我慢強さを発揮したものだと思う。
 だけど二つめのお願いは、そんなに長いこと聞いてあげられなかったな。たぶんそれこそ、一分ももたなかったと思う。花陽が、凛もよく聞いたことのある有名なアイドルグループの歌を歌い始めてから、もうあっというまのことだった。
 あっというまに、隣にしゃがんで横目で見ていたはずの凛は、からだごと花陽のほうを向いて、まばたきもほとんど忘れて、やけに必死になって、ぱちぱち手拍子をしていた。
 あの日は天気だってよくなかったし(その後雨になってお外で遊べなくなり、ひどくつまらなかったからよく覚えている)、なにより園舎の裏はいつも日陰で薄暗かったし、背の高い雑草やら苔むした石やらがごろごろしていて、お世辞にもきれいなステージとはいいがたかった。それなのにどうしてだろう、ちょっとだけ姿がぼんやりしてしまうくらい、まばたきを忘れてぬれた瞳が風にひんやりしてしまうくらい、かよちん、きらきらしてた。
「…………」
 私のテンポにあわない、そのくせやたらでっかい手拍子と、かよちんのか細い、だけどとても、とてもきれいにすきとおった歌声と。あまりじょうずでないダンスのたびに、ふわりとゆれるやわらかな色の髪。私じゃとっても着られなかったレースもようのスカート、かよちんのまっかでふっくらなほっぺた。いつもとはぜんぜんちがう、とびっきりの笑顔。
 ぜんぶぜんぶうそみたいにきらきらしていて、そのきらきらは世界じゅうのここだけにしかなくって、それを全身にあびて、呼吸のたびに胸いっぱいに吸いこんでいたのが、まちがいなくあのときの凛だった。だれもしらないすみっこで、凛だけがいちばんにみつけた、花陽のとくべつ。
 歌はそんなに長くなかったはずで、それなのに凛の胸はすっかりどきどきしていた。保育園のちいさなからだにはそれなりに広いグラウンドを思いっきり走ったときよりも、ずっとどきどきしていた。
「すごい、すごいかよちん、すごーい!!」
「そ、そう、かな……んと、ありがとう、りんちゃん」
 ああそうか、そうだったんだ。みんなが決めたのではないあたりまえを、凛はひとりでかみしめる。そうか、かよちんって、歌もじょうずで、それからおまけに、すっごくかわいい子だったんだ。でも、ちがうって言えないのと同じように、それがじょうずにできないだけ。じょうずってこととじょうずにできるってことはどうやら違うらしいと、なんだか難しいことを、意外と素直にあのときの凛は飲みこんでいた。
 でもじょうずだし、それになにより、好きなんだから。そのときにはもう凛のからだじゅうをいっぱいにしてしまっていたきらきらの正体がはっきりなにとわかっていたわけではないけれど、そのなかには花陽のこめた好きが詰まっていることくらいはどうにかわかったから、凛は決めていた。そのときからずっと、決めていた。
「それじゃあ、今日はちょうちょの歌を歌いましょう。さあみんな、並んで並んで」
「はーいっ。りんは、かよちんのとーなりっ」
「わ、ぁ、えっ」
 花陽がじょうずにできないことは、でも大好きなことは、じょうずにできるように、手伝ってあげるって決めていた。
「いっしょにうたおー、かよちんっ!」

 それが呪いだっていうのよと真姫は言い放った。花陽とはまたすこし違う、聞いただれもを魅了させる、尖るほどにうつくしい声は、怒鳴りつけられたわけでもないのに、凛にまっすぐ突き刺さった。
 南向きの窓から明かりをたっぷり取り込んだ音楽室はやたらと暑くて、こめかみから流れ落ちた汗があごまでつたってくるのがよくわかった。はあっと荒い呼吸を吐き出した瞬間に、どうにかひっかかっていたそれが、古びた板張りの床に丸い染みをつくる。走ってきたところだった。だってかよちんの。
 かよちんの声が、した、から。
「そうやっていつまででもこの子の手を引いているつもりでいるわけ?」
「……真姫ちゃんには、かんけーないよ」
「それって都合のいい思考停止の言葉よね」
 視界が一瞬赤く染まるほどかあっとなったのがわかったけれど、すんでのところで飲みこむ。大きな声を上げてはいけない。互いに噛みつくような視線を交わしてはいても、その約束事だけは凛と真姫のあいだに確実にあった。なぜって、ピアノの前の長椅子の上で寝息を立てている子をむりに起こしたくないというところに関しては、無言のうちにいやになるほど意見の一致をみていたから。
 しかし凛の頭に昇った血がゆっくり下がっていくのを最後まで待ってくれるほど真姫はやさしくなくて、ただそういうところがだれよりもやさしいという、やりきれないタイプだった。
「危ないから放したらダメよ、なんて言って、手を放せなくなってるのは、いったいどっちなんだか」
 たとえばそういう。わかっているのに認めたくないことを、わざわざもう一度、わからせてくれるところなんか。
 涼しい顔をして去って行く背中に、このおせっかいって叫んでやろうとどれだけ思ったかしれないけれど、かっとなっていたのがまだ治っていなかったばっかりに、凛は何を言うこともできなかった。
 順調に最低だったテスト返却のあと。花陽が放課後、真姫と二人だけで音楽室に行くようになって、四日目のことだった。
「ん……あ、れ? えっ、あれ、り、凛ちゃん!?」
「かよちん、おはよ。こんなところで寝てたらだめだよ、風邪ひくよ?」
「ご、ごめん」
「もー。かよちんはしょうがないんだからにゃあ」
 わかってる、言われなくたってわかってる、しょうがないのは、もうかよちんじゃない。じょうずなかよちんは、もうじょうずにできるようにもなった。好きなことを、好きなように、じょうずにできるようになった。ボイトレ中にメンバーが舌を巻いていることにくらいとうに気づいている。気づかないわけがない。それを花陽の次か、もしかしたら花陽よりも喜べる立場にいたのが、ほかでもない自分なのだから。
 喜んだよ、たしかに嬉しかった、それは嘘じゃない。ただすごくやっかいなのは、そのまったく反対のことも、また同じように嘘じゃないということだった。まったく矛盾していたり相反していたりする二つは、意外とあっさり同時に成立する。
 かよちんが大好きなことでみんなに拍手をもらえるようになった、みんながかよちんのきれいな歌声ややわらかい笑顔を好きになった、それってとってもすてきなことだとたしかに思っているはずなのに、そうだったらいいねってずっと話してきたはずなのに、どうしてそれだけじゃいけないんだろう。
 ほんとうは真っ白できれいだった羽を大きく広げて、ずっと高く、どこまでも高く飛んでゆけるようになったいちばんたいせつな子のことを、どうしてちゃんと見送ってあげられないんだろう。
「ねー、かよちんさ、最近真姫ちゃんとなにしてるの? 気になるにゃーあ」
「えっ?」
 帰り道で手を繋がなくなったのなんて、もうわざわざ思い出すほど近い記憶じゃない。たとえばそれはランドセルが手提げかばんになるみたいに、自然なことなのだと思う。友だちがゆっくりと増えてゆくように、ありふれたことなのだと思う。花陽が凛以外のひとと時間を過ごすようになったことだって、きっと。
「あ、そ、それは……えっと、ひみつ」
「えええええーっ、かーよちーん、教えてにゃー!!」
「ひゃ、ぁっ!? く、くすぐったいよ凛ちゃん、ちょっとっ」
「ほれほれー、ここがええのんかー」
「り、凛ちゃ、ふっ、ぁ、あはははっ、もー!」
 かよちん、かよちんごめんね、でももうちょっと笑ってて、かよちんの笑い声きいてたら、凛もきっと笑えるから。笑おうとしないと笑えなくなっているっていうだけでほんとは決定的だったのに、凛は二つめのほんとうと、まだ向き合うことができない。だって言えないよ、言えるわけ、ないよ。
 凛の必死のくすぐりにあって、どうしてだかちっともわからないまま涙が出るまで笑わせられた花陽は、そのときはっとしたように足を止めた。そのときつられて動きを止めなければよかったんだろうか。無視してくすぐり続けていればよかったんだろうか。両腕で花陽の肩に抱き着いたまま、ふとそんなことを考えて、すこし笑う。それは、無理だにゃあ。だってかよちんのことだもん、かよちんのことなら凛はわかるよって、ずっと思ってきて。それなのに気がつかないふりなんて、できないよ。
「………っ」
「ん、どうしたの?」
 でもね、そうやっていつもかよちんのこと、みつけてきたつもりでいたから。いちばんにかよちんのとくべつなきらきらをみつけて、これってとってもすてきなんだって、かよちんってほんとはとびっきりかわいい子なんだぞって誇らしく知ってきたから、だから言えないよ、言えるわけないよ、でも言わずには、いられないよ。
「あ、」
 するっと、思っていたよりもずうっとあっけなく、腕が離れる。
 背中だ。あんまり見たことないなって、こんなに長いこと一緒にいたのに、ありありと思ってしまった。だっていつも、いつもかよちんの前にいたんだもん。それで、手を引いて、ねえこの子きらきらしてるんだよって、みんなに教えてあげなくちゃいけなかったから。ずっと、そうだった、はずで。
 たん。たん。すごく軽くて快い音がする。かよちんのローファーが、地面を蹴る音。たん。髪が揺れる。特で揺れる。きらきらしてるなって、泣きたいくらいに心の底から思った。かよちんはやっぱり、きらきらしてるんだよ。凛、しってるよ。いちばんに、しってたよ、だから、
「っ、おいてかない、で、」
 そのきらきらがもうとなりにないなんてこと、たとえ手をむりやりに強くつかみっぱなしになっていたのだとしても、ぜったいに、ぜったいに、認めるわけにはゆかなかった、

「りんちゃぁーーーーんっ!!」

 前から飛んできたなにかが、立ちつくしていた凛のからだじゅうにぶつかってくるみたいに、ぶわっと駆けぬけていった。
 一瞬なにがなんだかわからなかったけれど、凛はその名前も、その光りかたも、すごくよくしっていた。
 なぜってそれは、そのきらきらは、世界じゅうのだれよりいちばん早く、凛がみつけたものだったから。

「かよ、ちん?」
 うそ。かばんの肩ひもが一本ずるりと二の腕あたりまで落ちたのがわかったけれど、直す気にはちっともなれない。というよりもなにをする気にもちっともなれなかった。ぼうっと立っているだけで、せいいっぱいだった。あんまりびっくりなことに出会うともうそれしかできなくなって、人間ってそういうところがかなりまぬけに、そしてぽんこつにできていると思う。
 銀杏の葉っぱが敷き詰められたみたいにぱらぱら落ちている道の向こう、ポールの近く。遠いってことがはっきりわかるくらいにちゃんと距離を空けたそこで、花陽はこっちを振り向いていた。あれ、真姫ちゃんもる。街路樹にもたれていた彼女の姿を見つけたのは、けれどもずいぶん遅いことだっただろう。
 そうしてぼうっとしていたら、ここからでもわかるくらい肩をおおきく上下させていた花陽が、伸びあがるくらいすうっと息を吸ったのが、わかった。二度目だ。さっきも一回見た。
「りーーーんちゃぁーーーーーんっ!!」
「……っ、」
 それなのにもう一度ぶわっとやってきたそれに備えておくなんてできなかった、できるわけがなかった。おっきな声。ちょっとふるえてて、どっかかすれてて、でもぜったいここまで届くくらい、おっきな、呼び声。
 かよちん。かよちん、かよちん、かよちん。そして相変わらず、考えるよりも走り出すほうが、ずっとずっと早い凛だった。まったく対立していたりとか、そもそもうまく整理がついていなかったりとか、とにかくごちゃごちゃ胸をいためつけていたりとか、そういううまく名前のつかない気持ちでぱんぱんになったからだを、心が勝手に送り出すエネルギーでぐんぐん前へ押してゆく。足もとで銀杏の葉っぱが舞い上がる。あまりの速さに真姫ちゃんが目をまんまるにしている。かよちん、かよちん、かよちん!
「かよちんっ!!」
「わひゃあ!」
 真姫があわてて支えてくれなかったら、たぶん、大惨事になっていたんじゃないだろうか。
 もしそうだったら銀杏まみれ大事件ってことにして、面白おかしくμ'sのみんなに話してあげよう。いきおい飛びついたまま、鼻先をぐりぐり花陽の首もとにおしつけながら、凛はそんなことを考えていた。抱きついたり飛びついたりってはじめてじゃなかったのに、どういうわけかそうせずにはいられないくらいには、なんだかはずかしかった。
 だから、そっと短い髪に触れられたとき、思わずびくっとしてしまったのだ。
「あの、ね。まずそれから、はじめてみようかなって、思って」
「それ?」
「うん」
 凛ちゃんはいつも、ずっと、わたしの名前、おっきな声で呼んでくれたでしょう。
 背中を押されて、自分で決めて、μ'sのメンバーになって。ずいぶん大きな声も出せるようになったんだって、花陽はすごく嬉しそうにしていた。凛だってすごく嬉しかった。それはどうしてなんていちいち気にするようなことじゃないはずだったのに、今になってやっと、そういえば、と思った。そういえばあのときかよちんが言っていた、これでやっと、の先は、なんだったんだろう。
 凛の髪をふわ、ふわ、とおそるおそる撫でていた手が、すこしだけ強く抱きしめてくれた。どっちも走ったからなんだろうか、からだが奥のほうまでぜんぶ、あったかくてしょうがない。
「凛ちゃんが、ずっとずっと手伝ってくれて、わたし、ゆっくりだけど、ちょっとずつだけど、できること、増えてきたから」
「……うん」
「だから、ゆっくり、ちょっとずつ、凛ちゃんにもね、なにかしてあげられたらいいなって、思って」
 それで、最初に思いついたのが、大きな声で名前を呼んでみたい、だったらしい。ボイトレと発声はちがうんだけどねと言い添えるのも忘れない真姫は、それがしっかり手伝ってくれたことの証明になるって、ひょっとしてわかっていないんだろうか。真姫ちゃんはすごく頭がいいけど、たまにおばかちんだ。
「どう、だった?」
「うん?」
「その……じょうずに、できてた?」
 ああでも、真姫ちゃんの言いたかったこと、やっとちゃんとわかった私は、もっとおばかちんなんだろう。手を引いているつもりで、手を放せなかったのは私のほう。だって放してしまったら、せっかくみつけたきらきらが、いちばん、とくべつ大事なそれが、どこかへ消えていってしまうんじゃないかって、思ってて。
 そんなこと、ないのにね。
 先に走ってったかよちんは、だって、ちゃんとこっちを振り向いて、私のこと、呼んでくれたのにね。

「んー……なーなじゅうさんてんっ!!」
「なな、えっ、び、微妙!?」
「凛、ちょっと、あんたねぇ……」

「ね、だから、もっかい呼んで!」

 前から手を引いてあげることは、もうできないかな。
 じゃあその次は、ねえかよちん、いっしょにならんで、手をつなごうか。

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