「こんばんは、私は不死身の歌姫です」




 悲劇のヒロインになんて、たのまれたってなるものか。

 それはまるで星ひとつうかんでいない夜空のようなのだ。
 ステージ上は天井いっぱいに敷き詰められた無数のスポットライトで照らされている。そしてそれだからこそ、その上に立った人間は、あまりにも明確なくらやみを感じずにはいられないのだろう。
 いつだってそこから見下ろす観客席は、果てがないとすら思えてしまいそうなほど黒々とひろがり、波うっている。あかるければかあかるいほど、目に映るくらやみは濃く、深くなる。そうして役割を演じなければならないものたちは、割れんばかりの拍手と反響のひどいアナウンス、見えやしないがどうやらそこにあるらしい無数の視線に呼びつけられ、しるべもないなかにぽんとひとりきり、放り出されるのだ。
 ピアノの、何回目の発表会だったかはもう忘れてしまった。でもとにかくちいさいころのことだ。なんとなしに思い出す。そうだ、三つ前の順の子が演奏しているのをステージの袖で流し聞きながら、真姫は、そんなことを考えていた。
「うううっ、き、緊張するねえ」
「たかこちゃん、やっぱり上手……あー、あの子のあと、やだなぁ」
 たしかそう。何歳のいつだったかはどうにも思い出せないし、思い出せなくともべつにどうだっていいとすら真姫は思っているけれども、気がつけば視線がうつむきがちに落っこちていくものだから、それをやっきになって何度も持ち上げたことは、とてもよく覚えている。まぶたがひくつきそうなほど疲れても、それだけはやめるわけにはいかなかった。なぜっていちばんみじめなのは、自分をみじめだと思ってしまうことなのだから。それをちゃんとわかっていたから。
 そうでなくたって、私はみじめなんかじゃないもの。ふわふわ紫色に広がったスカートの裾をきゅっと握って、息を吸って、きっちり顔を上げて、真姫は出番を待っている。あそこがどうしようもなくまっくらなことなんて、とっくのとうにしっていたことだ。あのころからそれを諒解できる程度には、真姫の頭はたとえ幼くともそれなりに上等にできていた。
 拍手は唐突に響きはじめる。さっきまでの子の演奏が終わったのだ。次、真姫からすれば二つ前の順番にあたる子が、がちがちにかたまった表情をうかべたまま、順番待ちのパイプいすをぎっと遠慮がちに鳴らす。ひどく緊張しているようすだ。
「お、おわ、終わっちゃった……次、あたしだ……!」
「うわわ、がんばってっ、さきちゃん! ほら、あそこ!」
 真姫の隣に座っていた子が、これからあのひとりきりの場所へ出てゆこうとする友だちの背をそっと叩く。かっくりと下を向いたまま、自分の頭の重みにすらたえきれなくなっていた友だちに向かって、彼女が指してみせたのは、前方すこし上。ステージ袖になにやらごちゃごちゃと備えつけてある機材のうちのひとつ、観客席のようすを映しているちいさなモニターだった。
 むろん、発表会小学生の部、プログラム二十三番から二十四番へ粛々と移行してゆくだけのそこは、当然のように照明が落ちっぱなしなので、やっぱりただのくらやみだけが広がっている。ものが見えるというのはようするにただの光の反射だ。だから真姫にくらやみが見えるのだったら、ほかの子にだっておなじように見えるというのが理屈のうえでは正しいはずだった。
 それだのに、
「ね、あのへん! お父さんもお母さんも、みにきてるんでしょ! だいじょうぶだよ、がんばろうよ!」
 それだのにたった一点をまっすぐ指したその子の言葉に、さっきまでうつむいていた彼女は、顔を上げた。
「うん……、うん。あ、たし、がんばる」
「うん。がんばって!」
 袖幕の際に立っている先生が、化粧のせいかいつもよりもすこしまばゆく見える微笑みで、次の子に向かって手招きをする。あとはもう、あのあかるいところで、もしくはあのとてもくらいところで吹き曝しになるまで、あっというまだ。ちいさな背中はステージ上のうねりにすぐさま飲みこまれていって、見えなくなる。真姫が同じ場所へ出てゆくまでは、あとひとり。
「あのね。さきちゃんのお母さんたちと、わたしのお母さん、いっしょに来てるんだ。あっちの、あそこんとこ」
 演奏が始まってすこししてから、真姫の隣でパイプいすをわずかに軋らせたその子は、はにかんだように笑いながらそう言った。音はすでにあったのだから、沈黙の重みに耐え切れず、というわけでもなかったと思う。いわばそれは彼女にとっての確認だったのだろう。指をさして、見えないものが、見えなくたってちゃんとそこにあるという、どう考えてもやさしすぎるようなことについての確認。
 真姫は何も答えずだまっていた。舞台袖では静かにしていなければなりませんよという先生の言いつけにたいして、誠実であろうとしていたというわけでもないけれど。
「真姫ちゃんは? お母さんたち、どのへんにいるの?」
「どのへんにもいないわ」
 顔を上げたまま、視線だけかすかに動かして、ちいさいモニタをまばたきもせずに数秒間見つめ続ける。
 彼女にとって指をさすことが確認なのだとしたら、真姫にとっては、それこそが確認だった。
「そもそも呼んでいないもの」
 まるで星のない夜空のように。
 そこはとても、とても、くらい。

 音楽をぶち壊しにするには、おそらくそれほどたいしたものは必要ない。たとえばたったひとつのちいさなえづきだって、じゅうぶんな兵器になりうる。
「あの……真姫、ちゃん?」
 4分33秒よりはおそらく短かったと思うが、それでも存分に、ひどいくらいに長かった沈黙が、かたわらに立っていた花陽によってやっとのことでおそるおそる破られた。
 直後、真姫の中指がかくんとふるえをおさえきれなかったように落っこちて、まだ真下にあった黒鍵をおかしな強さで叩く。鍵盤に手をのせたかっこうのままぎしりとかたまっていた真姫のからだが、ようやっとぴくりとかすかに動くことができたのは、そのおかしくつぶれた音が真姫自身の鼓膜をふるわせきってからのことだ。つまり、ありえないくらいに手遅れだった。
 からだが動くようになったというだけで、力の分配までじょうずにできるほど回復していたというわけではちっともない。かたまりもほどけ、そしてすっかり脱力してしまっていた真姫の足先はペダルを踏み続けていることがとうとうできなくなって、なんの音符ももたない静かな音が、ピアノの中で重く低く、ごとりと鳴る。それで、先刻、このひどい沈黙にいたるまで音楽室に流れていたはずの曲は、もう二度と再開できなくなった。そんな死刑宣告みたいな音だった。
「ま、まま、まきっ、真姫ちゃん、だ、だいじょうぶ!?」
「あー……」
 とはいえそれに対して真姫がこれといった反応を表に出さずにいられたのは、そばにいた人間が、この場合は花陽が、たいへんすなおに動揺してくれたからにちがいない。
 揺らぎやすい人間は、きっといつもこんなふうにひとを救っているのだと思う。花陽を見ていると、真姫はそう考えることが多くなった。おかげで、いつもなんとなくふんわりしている眉をぎゅうっとひそめたまま、おろおろと両こぶしを握りしめてしまっていた花陽に向かって、真姫は浅いため息をつくように話しはじめることができる。
「大丈夫よ。ちょっと乾燥してるのかしらね、引っかかっただけ」
「で、でも!」
 花陽が焦ったぶんだけ冷静に真姫が言っても、まだ花陽は、いつもなら考えられないくらいの大きな声を上げてくる。彼女がμ’sに入るにあたって背を押してやったとき、真姫は花陽の歌声についての可能性を推して、というふうにたしか話したはずなのだけれど。ここにくるとそれはすこし読みが足りていなかったかなとも反省する。だって花陽ってば、歌っていなくたって、じゅうぶん声が出せるようになったみたいなんだもの。
「でも、でも真姫ちゃん、さっき、咳……咳っ、だ、だめだよ、風邪引いてるんだったら無理しちゃ!!」
 もっともその声を、この花陽ときたらなかなか自分自身のためにつかってやれないというのが最後にして最大の課題で、それについてはさすがにこの私がいくら考えたところで、うまく直してやれる気がしないんだけど。
 動揺なんて、必死にこっちを見つめてくる花陽の瞳のなかに吸い込まれてしまったような気分で、真姫はこんどこそきちんとため息をついた。
「あのねぇ、咳一回したくらいで風邪を疑われてちゃたまったものじゃないわ。ほら、いいから花陽、Cメロのところからもう一回いくわよ」
「ま、真姫ちゃん、でも」
「なによ。歌の練習付き合ってって言ったのは花陽じゃない、もうやる気失くしちゃったの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃ、とっとと続けましょ。ライブも近いんだから、早く仕上げなきゃ」
 そして花陽のことをそういうふうにすこしずつわかりはじめていたということは、その彼女をいかにして押し切れるかということだって、同じようにわかりつつあったということだ。もっともそれに関しては、非常に身近にロールモデルがいたからというのもあるのだろうけれど。なんて言ったらあの子は怒るかな。凛はかよちんにそんなゴーインなことしないにゃあ! なんて。
 それこそ猫よろしくしゃあっと牙をむく、あのやっかいでにぎやかな子の顔をなんとなく思い浮かべる。花陽はまだなにか言いたそうだったけれど、真姫の手もとにもきちんと注目しつつある。大丈夫、目は開いている、頭も冴えている。正常だ。
「いくわよ、2サビラストから」
 みじかく息を吸って、鍵盤を叩きはじめる。先刻のおかしな音も死刑宣告の音も押し流すように、いっせいに無数の音符があたりに流れだす。間奏区切りの三連符、弦をなめらかに弾いた音を受け取って、花陽の歌が始まる。
 μ’sの次のライブで初披露する新曲にて、Cメロの頭からソロを飾るのは花陽の役目だ。メンバーのなかでも高い歌唱力を持ちながらも、なかなか主だった見せ場をもてずにいた花陽が、初めてみんなの先頭に立つパート。歌詞担当の海未がそれを提案したとき、花陽はもちろんひどく戸惑っていた。正直すっかりうつむいてしまった花陽の頭のてっぺんを見たときは、わたしなんかじゃ、とまた口にして、凛がむきになって言い返すいつもの展開が待っているかと思ったのだけれど。
「まきちゃん、」次に花陽が口にする言葉としてはまったく予想していなかったものだった。それなのに名前というのはふしぎだ。たいていどんなときに口にされたものでも、自分のものだとぴしゃりとわかるように、その音は響く。「真姫ちゃんも、一緒に、歌ってくれる?」
 そして友情・協力・笑顔、とかだいたいそんな少年漫画にもよく似た成分でからだの九割がた占められていそうな我らがリーダーは、そんな言葉をまず絶対に聞き逃しはしない。ようし! と「ほ」の字Tシャツもひらめく勢いで、目をらんらんと輝かせて立ちあがってしまったが最後、花陽のあとのパートにでかでかと丸まで付けて自分の名前が記されるということを、残念ながら真姫はよく理解してしまっていた。頭がよく回るというのも、いいことばかりではない。
 徐々にアップテンポになる曲に合わせて、花陽の声がぐんぐんとのびていく。高音域の澄みかたがとてもすなおなのは、たぶん彼女の性格のせいだ。ちらっと目が合う。真姫ちゃん。真姫ちゃんと一緒だったら、できる気がするの。花陽は照れたように笑っていた。どうして彼女が突然そんなことを言い出したかはさすがにわからなかったが、断る理由もみつからなかった。
 だから。メロディラインにアレンジの加わった右手、左手でパートの切れ目に当たる和音を叩く、息を吸って、声を、
「――ッ、こほっ」
 こえを。
 ださなくちゃ、いけないのに。
「こほっ、ごほ、」
「ま、真姫ちゃん!」
 のどが、いうことを、きかない。

 七回だ。同じことを、七回繰り返した。うち三回は花陽と一緒に、うち四回はなんとかなだめすかして彼女を帰らせたのち一人で、お腹を叩いて、胸をしぼって、のどをせいいっぱい広げて、真姫はなんとか歌ってみせようと挑戦し続けた。
 そしてその七回ともすべてで失敗して、最後の一回では、とうとう全員で歌うパートすら、声が出せなくなった。
 文字通り引っかかっている、なにかに引っ張られているような咳が、のどに張り付いて、剥がれなくて、剥がれなくて。
「……っ」
 振り上げた手を、思いきりピアノに振り下ろしてやろうとして、やめた。運命のノックみたいなばかでかい衝撃に耐えきれる気がしなかった、というのが正直なところだった。力の入っていない、わずかに残った重力だけで指は鍵盤をゆるく叩いて、ソの音がへなへなと空気に消えていく。
 音が中途半端なら、しかしはっきり言って自分の中にある絶望も中途半端だった。絶望というのもすこしおこがましいくらいのものしか、胸のうちでは渦巻いていない。それはいっそどこか冴え冴えとしていて、潔くすらある。
 予期していた絶望、というのは、おそらくそういうふうに降りかかってくるのだろう。
 自分が考えていることから逃げ切るのは結局のところ不可能だ。無心に身体を動かして、ステップを踏んでターンを決めて汗を流して、そうして忘れたように思っても、それはいつでもそこにある。自分のことだから、完全には忘れようがないのだ。わかっている。私はほっとしていた。私は、練習の初めに絵里が告げてくれた、今日は徹底してダンスの練習をしましょうというのに、これ以上なく安堵していた。あのときゆるく絡みついてきたそれは、いまもべったりと胸の底に残っている。
 歌わなくていいのだとほっとしたのだ。そこから導かれる結論はひとつ。
 今日は私、歌えないかもしれないって、わかっていた。
「……ばかね」
 それをわかっていて、わかっていて、わかりたくなくて、わかりたくないままに花陽の頼みを聞きいれたのが間違いだった。しっている、人間は間違う生き物なのだ。しかもよりによってこんなときに、というときばかり狙いすまして。
 でもきっと、間違いのスタートはもっと早かったのだ。
 昨日、お風呂から上がったあと、すぐに自室の机へと戻ればよかったのに、なんだかんだで穂乃果を笑えない絵里の熱血指導と、多少身体が疲れていたのと、煩雑ではないにしてもやたらと計算量ばかりが多いという真姫の一番嫌いなタイプの課題が出されていたのとで、うっかりリビングに立ち寄ってしまった。それからお茶の一杯でも飲んでいこうと思いついたのが、そもそもの間違いだった。
「あら、真姫ちゃん。休憩中?」
 ソファに腰を沈めたのとほぼ同時に、声がかかった。
 母親だった。出かけてきたばかりとすぐにわかる、きちんと化粧された顔のうえに、とてもではないがもっとも近い血縁とは信じがたい笑みがうかべられている。
「帰ってたの」
「ええ、ついさっきね」
 今日も父が働いているはずの病院へ、すこし顔を出してくると告げて出て行ったのが、たしか十九時過ぎのことだ。そういえばなんの用事があったのだろう。詮索されるのも苦手だが、その反対も同程度に不得手な真姫は特に尋ねられず、にこにこと向かいに腰を下ろす母親に目線だけやっていた。
「ライブ、」
「え?」
 美しくルージュの引かれた唇が開きはじめるところまでしっかり見ていたのに、唐突にしゃべり出されたように思われたのが、すこし妙だった。
「近々ライブをするんでしょう? あなたたち。μ’s、よね」
「……知ってたんだ」
 ふいっと目をそらして、ひとりごとのように答えると、聞いたのよと母親はころころ笑った。(教えてくれたらいいのに、とは言わなかった。)大人とか、親とかの笑いかただ。たぶん同じようなものをみんなして浮かべながら、高坂さんと南さんあたりとで話していたのだろう。μ’sはどういうわけかOG同士の旧交を温め直す契機になったようだが、現状真姫にとってはあまり耳触りの良い話ではなかった。母親ネットワークの筒抜けぶりはなかなか恐ろしいものがあるのだ。
 近くのショッピングモールにできた特設ステージを借りて行う次のライブについても、真姫としては母親の耳に入れるつもりはさほどなかった。というより、話しておくという発想自体がなかったといってもいい。しかしどうやら和菓子屋の一家も理事長の一家も西木野家よりかは多少母娘の距離が近かったらしく、母親はライブの日時も場所も衣装のコンセプトもすべて押さえてしまっていた。
 そこで立ち去っておけばよかったのにと、今になって思う。
「お父さんね。ちょうどその日、お仕事お休みなんですって」
 目を逸らしていることすらできなくなって、気がつけば視界のど真ん中で、母親は穏やかに笑んでいた。その穏やかさが冗談に思えるくらい、心臓がぐっと膨らんだのがわかる。
 おしごとがおやすみ。おとうさんが。ちょうどそのひ。
 ママの、くちびるが、うごく。うごく。
 ライブ、
「見に行くわね、お父さんと」
 破裂しそうなくらいに膨らんで、それからぎゅうっと痛むほど縮んだ心臓が送り出した血液は、やたらとつめたく真姫の全身にめぐった。
 そしてそれはきっと今も、脳天から爪先に至るまで、真姫の身体をくまなく浸しているのだろう。
 でもそんなことが歌えなくなった理由だとは限らない、その程度のことなにが引っかかるのだかわからない、講堂いっぱいの人間の前でも歌えたのにたったひとりが原因で歌えなくなるだなんて理屈に合わない、七回やってだめでも八回やってみれば、できるかも、しれない。真姫は両手を持ち上げる。その時点で既に唇が震えていたことになんて気がつきたくもない、ぜったいにぜったいに。
 両手はよどみなく音楽を奏で出す。ずいぶん小さいころから、くらやみの空に浮かぶステージで、いつだってそうしてきたように。花陽の歌はもう聞こえない。彼女の鞄も靴ももうここにはない。だけど今頃凛あたりと電話でもしているだろうか。その話題に私の名前はついているだろうか。そんなことあまりに優しすぎるから考えたくないのに、その優しすぎることをあの子ならばやってしまうのだろう。ティ、タ、タ、16分休符、息を吸って、
「っふ、げほっ!」
 だめだ、のどが、ああ、のどが。
 身体がこわばる。行き場を失くした片手が鍵盤の上に落ちる。

「ああっ、もう! なぁーにやってんのよ、あんたは!」

 ――思うに運命なんてものは、ノックもせずにずかずか入り込んでくるほうが、どちらかというとしっくりくるものだ。
 あんなにかたまって石像みたいになりそうだった首が、うそみたいに簡単に、声のほうへと引っ張られる。持ち上げていたか落っこちようとしていたか自分でもちょっとわからない両手は、足のあいだにすっぽりとはまってしまっていた。そうやってぼんやりと、真姫は音楽室の入り口を見ていた。
 廊下の窓から射しこむ陽射しに照らされて、埃がちらちらとまぶしく煌めいている、つまりはとってもお粗末なステージの上で、だけどもありえないくらいに胸を張って立っている、ちいさくて、そしてとても大きなその子のことを、見ていた。
「あ・の・ねえ! 間違いを百回やっても正しいやりかたにはならないのっ、もー今日はダメダメって思ったら休みなさいよ、真姫ちゃんてほんっとそういうのヘタよね!」
 キャラづくりのためだと豪語するだけはあって、彼女の高く括った二つ結びは、それが彼女だということをとてもすなおに伝えすぎる。
 あの子がその優しい揺らぎでひとを救うのだとしたら。できごとにうちひしがれたひとがよくそうしてしまうように、そのときの真姫も、きっとこの場においてはちっとも関係ないように思えることを、やけにしみじみと考えてしまっていた。そう花陽が、あのゆらゆらした優しさで、ひとを救うのだとしたら。彼女は。
 にこちゃん、は。
「そうよ、だいたい真姫ちゃんは休むのがヘタすぎるのよ! 今日の練習のときだってねえ、休憩中ちゃんと汗拭いてたの、水分は摂ってたの!? ずーっとサイッテーの顔色しちゃってさあ、でもやるやるっていうから絵里ちゃんまでなにも言えなくなってたし! あーもうほんっと……ってちょっと、聞いてんの!?」
「……にこちゃん」
「なによ!」
 きっとにこちゃんは、その揺らぎのなさで。
 そのばかみたいな、そしてきっとほかの誰にも真似できやしないまっすぐさで、私を、わたしを、救ってしまう、のだ。
「にこちゃん、うるさい。」
「はぁ!?」
 ねえどうしていつもちゃんと私のこと見ていてくれるのって、だって、聞くのもばかばかしくなってしまうんだもの。

 どうしたの、とか、心配したんだよ、とか、そういう言葉を交わせる間柄では残念ながらちっともない。いくらピアノの椅子がひとりには大きいようにできているといっても、そして彼女が一般的な高校三年生女子からすれば小柄なほうであるとはいっても、そこに二人並んで座るにはなかなかに無理があるから、それに関してもうすこしあっちに行けだの肩がぶつかって暑苦しいだのぶつくさ言い合うくらいが、自分とにこのあいだで交わせる言葉としては関の山だった。
 ただ、だったらわざわざ並んで座らなくたっていいじゃないかという言葉は、都合よく二人して、どこかに置いてきぼりにできていたのだ。
「病院に行ってもいい日っていうのを、決めてたのよ」
「行ってもいい日?」
「そう。けっこう小さい頃の話だけどね、あまり頻繁に行ったら、パパの仕事の邪魔になるって思ってたから」
 並んで座ったまま、さっきのことについて一切聞いてこようとしないにこに向かって、なんの関係もないことのように真姫はぽつりと話し始めた。そう、これは、ほとんど雑談なのだ。うそつきが二人並ぶと、たまにへたな正直者よりも素直に話をすることができる。そして自分が今とても素直になっているということをけっして認めたくない程度には、真姫はうそつきで。
「……どんな日?」
 なんの関係もないわけがない話の続きを、なんの関係もないように促せる程度には、にこだってきっと、うそつきだった。
 せまいせまいと文句を重ねた結果、どこか背中合わせにも似た姿勢でピアノの椅子に腰かけたまま、真姫はふっとすこし目を上げる。開けっ放しの音楽室の扉。天国みたいにまぶしい廊下はだれもいないがらんどうだ。背に触れているのは、にこの身体のすこしちいさいかたち。床につかない足を彼女はどうやらぶらつかせているようで、時折へんなふうにとんとん背中がぶつかった。
 自分の家が人のそれよりもやけに大きくて立派なこと、ほかのみんなは休日にパパやママと遊びに出ているようだけれど自分にはそれができないこと。それらのありふれたことがらと同じもののひとつとして、真姫が受け止めていた、或いは自分で決めていたこと。
 パパはおしごとがいそがしいのだから、まい日あまえたりなんか、してはいけない。わたしがあまえていいのは。
「テストが、全部満点だった日」
 後ろでにこがげえっと声を上げる。まあお世辞にもお勉強と仲良くしているとは言い難い彼女にとっては、そうするに値する嫌味のようなものだったのかもしれないが。でもねにこちゃん、これって私、小学生くらいのときの話なのよ。
 といっても簡単だったというわけではもちろんなくて、たぶん穂乃果や凛あたりに教科書を見せたらそれだけで悲鳴を上げて逃げ出しそうなくらいの内容はあのころから学習していた。だから平均点を割ったり他教科の足を引っ張ったりというほどではないにしても、当時から根っからの理数系だった真姫が社会や国語でも常に満点を取り続けるというのは、それなりに難しいことだったのだ。
「真姫ちゃんに苦手教科とかあったんだ」、三年生なのになぜか一年生の自分とよく試験勉強をしている彼女は、頭を傾けるようにこちらを振り向いて、わずかに目を見開いていた。勉強の頼りなさっぷりもさることながら、そうしているとほんとうに二つ上とは思えない。
 苦手くらいあったわよひとをなんだと思ってるの、とぎりぎり笑えたような声をくすくすこぼしてから、真姫は組んだ手を右ひざにひっかけて、ぐうっと背を伸ばした。背中合わせで座っているのだから、そうしたら当然にこが真姫の背でつぶされることになる。「ちょっ、重い、ちょっと!」あたりまえの権利としてにこが抗議の声を上げる、真姫は目を閉じて、それを聞いている。
「正直全教科満点っていうのは三回に一回くらいだったけど、そのぶんばかみたいにテストも大量にあったから」
「まーきーちゃーん、ひとの話聞いてるぅ!? ちょっ、ぐえ、つ、つぶれるってば!」
「ランドセルの中百点でいっぱいにして、院長室の扉を開けるの。パパは綺麗好きだからそこはいつも片付いててね、薬品とインクと洗濯のりの匂いがするわけ。それから最初に、壁の真ん中で額に入れてある作文が目に入るのよ。一年生の時の、しょうらいのゆめはおいしゃさんになることですって、目も当てられないくらいヘタクソな字で書いてあるのが」
 ああにこちゃんのこと、つぶしちゃった。
 ついに声が上がらなくなってしまったのを、聞いていたのか、聞いていないのか、真姫にはもうわからない。自分のことなのに、自分のことだから、いちばんよくわからない。音乃木坂学園の、とても長いのだという歴史を吸い込んでくすんだ色の天井だけが、視界いっぱいに広がっている。
 院長室の天井は、こことは似ても似つかない、それはそれは磨き上げられた白だったけれど。
「パパはね、私が来たことに気付いたら、大事そうな書類を必ず引き出しにしまってから、近寄って来てくれるの。夜勤明けだったら頭を撫でて、そうじゃなかったら頭が天井にくっつきそうなくらい抱き上げてくれた。それから、よくやったねって言ってくれるわけ」
 おめでとう真姫、さすがだね。やっぱりきみの将来は楽しみだなぁ。すこし重たくなったかな。母とは似ても似つかないのだとしたら真姫の性格のルーツはまず間違いなく父親のほうにあって、そのせいか褒め言葉のバリエーションはひどくすくなかった。しかし真姫のほうだってなんでもないわ、いつもどおりよ、と胸をそらしてやるくらいしか褒め言葉にたいする態度のバリエーションなんて持ちあわせていなかったのだから、お互い様というか、むしろもっとひどい。
 だけどそうやって不器用に言葉を交わしたあと、パパは、おそらくそれはちっとも私に遺伝子なかった垂れぎみの目をもっと垂らして、このうえなくうれしそうに、笑うのだ。願いごとがなにもかもぜんぶ叶ってしまったみたいな、それこそ幸福としか名前のつけられないようなものをいっぱいに浮かべて、パパは、わらうのだ。
「それで、……それで、よかったのよ」
 それでよかったし、それがここにあるのだったら、それだけでよくて。
 それだけがここにありさえすれば、ランドセルの奥深くにきっとくしゃくしゃになってしまったチケットが一枚きり眠っていたことなんて、その週の土曜日にとても大きなピアノのコンサートを控えていたことなんて、ほんとうにほんとうに、どうだっていいことで。
「それだけで、よかったのに」
 パパ、私の将来の夢は、パパみたいに立派な脳外科医になって、家の病院を継ぐことです。
 パパ、私はその夢を叶えるために、パパもとても喜んでくれたそれを実現するために、毎日勉強を頑張っています。
 パパ、私、わたしは、――ほかに、好きなことも、あるけれど。
 でも、それは、パパにとっては、きっと、どうだっていい、ことで。
 でも、わたしにとっては。
 わたしに、とっては、
「……ねえ、にこちゃん」
「なによ」
 にこちゃんの声、すごくひしゃげてる。
 それがおかしくて、笑ってしまいたくて、笑ってしまいたくて、でももう笑えなくて、真姫は、ふるえるくちびるを、曲線などもう描ききれなくなったそれを、動かし続けるしかやりきれない。
「にこちゃん。ママと、パパがね、次のライブ、一緒に見に来るんだって」
「そう。」
 ぐっと、背中が押し返されたのがわかった。
 べつに対抗して躍起に抑え込もうとしたなんてことはない。ただ、ほんとうに自分でもしらない間に、全身がひどく重たくなってしまっていた。力が入らなかったのか、それとも力が入ったまま抜けなくなってしまったのか、どちらかはわからないが、自由でないことだけはたしかだった。
 にこはその真姫の背を、ほとんど折りたたまれるほど身体がつぶれた状態から、ぐいぐい押し返してくる。
 とはいえちょっとでも持ちあがりさえすれば、にこの小柄な体躯だったら横から滑り出て椅子から降りれば状況からの脱却は計れたはずなのに、にこはそれをしなかった。自分でもぞっとするほど重たい重たい真姫の身体を、持ち上げて、ずり落ちそうになったら支えて、押し上げて、押し上げてくる。たまにふうっときつそうな息をつきながら、ひと一人分という、ようするに絶望的なほど重たいそれを、にこはそうして、最後まで、持ち上げた。
 彼女が椅子から立ち上がったのは、そのときだ。室内履きのゴムをきゅ、とかすかに鳴らしながら振り向いたにこは、椅子に座ったままの真姫と、向い合せに立った。
「……ライブの前日とか、当日の朝にさ」
「うん?」
「うまくいかないかも、とか、すっごい大失敗しちゃうかも、とか、歌詞頭から全部ブッ飛ぶかも、とか、まあ、考えなくもないわけよ」
 ぼそぼそ言ったのとは大違いな早口の大声で、たまによたまに! とすぐに彼女は付け加えたけれど、響きが大きければ大きいほど、うそっぽいかどうかはすぐわかるものだ。なにより私たちは二人ともうそつきなのだから。それがうそかどうかなら、きっとお互いが、いちばんよくわかっている。
 真姫が黙っていると、まるであきらめたように細く息をついたにこが、けれどもきっと顔を上げて、言った。
 椅子に座ったままだと、にこの目線は真姫よりも高い。ふしぎにしんとした思いで、真姫はそれを受け止める。
「で。……で、だから、おまじないを、するの」
「おまじない」
「そう」
 いつもと違う目の高さだったから、いつもよりもたくさんのことがわかったのかもしれない。
 にこのちっちゃな胸に、信じられないくらいたくさんの息が、すうっとつめこまれるのも。
 彼女の両手が、そのたっぷりふくらんだ胸の前で、ぎゅっと握りあわせられるのも。
 ぎゅっと閉じて、それからぱっちりと開いた彼女の瞳が、くらくらするくらいきれいに光っていたのも。
 ぜんぶ。
「かわいい、かわいい、かわいいっ!!」
「……っ、」
 そのぜんぶが、稲妻みたいに、全身をびりびり叩いたような気がした。
 それはにこの声がきっちり腹式呼吸を身に着けている人間らしくばかでかいのもあったのだろうけれど。
 そうではなくて、そんなものではなくて、もっと。
「かわいい、かわいい、私はっ、さいっっっっこうにかわいい!! いつもどおり、完璧よ!!」
 もっと、なんか――すっごいの、だ、これは。
「そいでっ、」
「わ、え、」
 しかもそれが、そのまま両肩をわしづかみにして、こっちまでまるごとぶっ飛んできたのだから、たまらない。
 真姫がすっかりしびれてしまったようにばちばち目を瞬いているのなんて気にもしていないみたいに、にこはもう一度、なんだかさっきよりもさらに多いように思える息を、お腹いっぱいにためこむ。
「真姫ちゃんだって! かわいい、いつもどおり、さいっっっこうよ、かわいいっ!!」
 すっごいのが、やってくる。
 頭のてっぺんから、足の爪のもっと先まで。全身くまなく走りぬけて、びりびりいって、熱くなる。
 お腹の底とか胸の奥とか、そういう、心にたぶんとても近いところが、かあっと、熱くなる。
「にこ、ちゃん」
 って、いや、なんか、にこちゃんのほっぺも、おんなじくらい熱そうにみえるんだけど。
「かわいいっ、真姫ちゃん、かわいい!!」
「も、もういい、もういいってば!」
 あわててにこの身体を押し返そうとして、そういえば私は身体が動かせなくなっていたのではと気づいて、むろん手遅れだった。
 持ちあがった膝があっけなく折れるまではたった一瞬で、お互いがお互いの両肩を鷲掴みにしたままというひどくおかしなかっこうのまま、見事に板張りの床の上にがたがた崩れた。右のくるぶしと左膝の皿をしたたかに打ちつけて、痛くて痛くて熱かった。
 でもどちらかというと被害はにこのほうが大きかっただろう。なにしろ押し返そうとした勢いのままに倒れたのだから、にこが今度は正面から押しつぶされる形になることは明白で、やはり背中を強く打ったとみえるにこは、形のいい眉をきゅっとひそめていた。
「あ……そ、その、ごめん、」
「ねえ、真姫ちゃん」
 それが、ふんわりゆるむのを見たとき、痛かったからではなくて、転んだからではなくて、うっかり泣きそうになる。
 でもゆっくりゆっくり頬に触れたにこの手が、涙よりも熱かったから。だからきっと私は、泣かずにいられたのだと思う。
「真姫ちゃん、しってる? かわいいって、無敵なのよ」
 悲しいとか、嬉しいとか。楽しいとか幸せとか苦しいとか死にたいとか、人間の中にあるそういうぜんぶぜんぶの気持ちを、まるごとひっくり返すことができる。
 それは、無敵の魔法なのよ。
「……にこちゃん、」
「真姫ちゃんのその無敵のかわいさで、振り向かない人なんて、笑顔にできない人なんて、いるわけないじゃない」
 それがどんなひとでも、ほら、たとえばこんなふうにね。
 頬をほんのりと赤く染めて、細い肩をちょっぴりすくめて。ゆらゆらゆれる瞳を、細めたまぶたの向こうにそっと隠して、にこちゃんがわらっている。
 にこちゃんが、私のとてもよくしっている顔で、わらっている。
「真姫ちゃんかわいいって、すごいって、さいっこーだって、思わない人なんて、いるわけないじゃない」
 パパ、ねえ、パパ。
 脳外科医になることが夢で、家の病院を継ぐことが目標で、勉強を頑張らなければならない、私は。
 私には、ほかにも、好きなことがあります。柄にもなく必死になって、汗だくになって、やりたいことが、あります。
 ほんとはずっと、たぶん自分でも思い出せないくらい昔からずっとそうで、ずっとそうだったということを、たくさんのひとから思い出させてもらって。
 パパ。
「真姫ちゃん、歌ってよ」
「……うん」
 ねえ、パパ。
 あなたは、哂わないで、きいて、くれますか。
「ねえ」
「うん?」
「歌ったら、また、かわいいって言ってくれる?」
 にこちゃんはうっと黙って、それから肩をいからせるようにずかずかこっちに歩いてきて、さっきよりかだいぶんこっちに近い、つまりは私がおそろしく狭くなるようなところまで、ぎゅっと詰めて、座った。
「ちょーしにのるな、ばかっ」
 そのあまりにもきっぱりとした、うそつきでとても正直な言葉にくすくす笑っていると、さあピアノを弾こうと持ち上げた手が、ちょっとだけ引っ張られて。ブレザーの袖のところが、ちょっぴりつままれていて。
「……あといっかい、なら。まあ、考えて、あげなくも、」
 じゃあ私は歌い終わったあとがんばってあと二回、かわいいって言ってあげよう。
 そんなことを考えていたら、笑い声と同じくらい自然に、のどがふるえた。
 とてものびやかに、たのしくふるえた。

「……パパ」
「うん?」
「え……と。あの、これ、なんだけど」
「ああ……真姫。残念だけどそれは、受け取れないんだ」
「え、あ……そ、そう。そうよね、あの、うん、ごめんなさい、」
「すまないね。それはもう、買ってあるんだよ」


 それはまるで星いっぱいの夜空のようで。
 サイリウムでぴかぴか光る観客席のほうに向かって、スポットライトを身体じゅうに浴びた花陽が、まっすぐとした足取りで前に出る。いつもゆらいでばかりいる彼女のそういう姿は、ほかのだれがそうするよりも、勇気を体現しているように見える。実際花陽は勇気のない子だというわけでは、きっと全然ないのだ。だって彼女の歌声は、こんなにも力強い。
 そして、その花陽の傍らに立つように、真姫も前へと進み出る。あ、ちょっと右足引っかかった、ばれていないだろうか。胸がどきどきしている、のは、でも最初からそうだ。ラストソングなので、身体じゅうがふらふらなのもあたりまえといえばあたりまえ。それを表に出してはいけないけれど。
 額に浮かんだ汗で前髪をはりつかせた花陽が、ちょっぴりこっちを振り向く。目が合う。後ろを向いちゃだめよって言い聞かせたのに、この子ったら。そう思ったのが笑いかえしたのとちょうどよく似ていたみたいで、花陽はほっとしたように前を向いて、最後の高音をとてもきれいに歌い上げた。
 そして、真姫も歌う。
 最後の大サビに入って、サイリウムがひときわ激しく揺れる。ダンスの大詰め、真ん中に集まって、ポーズ!
「っ、はあ……」
 爆音みたいな拍手と歓声に包まれて、真姫は大きく肩で息をする。
 こんなときでも元気いっぱいな凛と穂乃果が、ついでに花陽も引っ張ってステージ前方へたっと走っていき、観客席に向かってぶんぶん手を振っている。すこしふらついていることりをやさしく支える海未が、たぶん上手に乗せられて二人で投げキッスをしている。一段高いところでポーズを決めていた絵里と希が、そのまま両手を繋いで、くるくる回っている。
 にこちゃんは、
「真姫ちゃんっ」
「いたっ! ち、ちょっとにこちゃん、なによ!」
 ばしんっとかなり強めに真姫の肩を叩いてくれたにこは、いつもどおり九人全員の中で最も疲れたようすを見せながら、だけど、笑っていた。かわいいと思った。九人の中で一番疲れている彼女は、だけどライブが始まってから今までで、いちばんかわいいと思った。
 そんなかわいい彼女が、にっと笑って、言う。
「真姫ちゃん。――いってらっしゃい!」
「は、」
 気がつくと、ついさっきまでてんでばらばらに動いていたはずのみんなが、まるで真姫へと道を拓いているかのように並んでいた。よりによってすぐに単語が閃く。これは花道だ。そう、祝福をするときのやつ。
 にこちゃんだな、と即座に気がつく。隠しておきたいってうそをついたことを素直に言ってしまったのがにこちゃんなら、こんなことを提案したのは誰だ、希か、それとも絵里か、はたまた穂乃果か。いやもう、μ’s全員が疑わしい。彼女たちはいつもそうだ。
「さいっこうにかわいい真姫ちゃんのこと、もっと、みせてよ!」
 彼女たちはいつもそうで、いつも、そんなところが、――あとはやめておこう。
 だって、曲が始まってしまうもの。

「――"Daring! You'll be wild"!!」

 あのまっくらだった夜空の中で。
 私は、星になれただろうか。

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