「こんぺいとうにもなれなかったね。」




 どしゃぶりの光にわあっとうちのめされてしまったような、そんな気持ちになったのだ。絵里の言った、あの一言で。
 そのことを、希はよく、とてもよく覚えている。
「よかったわ」
「うん?」
 だからあとのことについては、ほとんど余計な、おまけみたいなものだったといってもいいのだろう。きっと希の心がそう決めてかかるよりも早く、それを覚えておいているどこかが、もう取り扱い方をそういうふうに、ざっくばらんにしてしまったのだ。
 今の希からすればもうその日はずいぶん遠くに過ぎ去って、背中の、見えないくらい後ろのほうに飛ばされてしまったから。だから整合性なんてまったくもって取れてなんかないだろうし、それがほんとうかどうかの確認すらもできないといった状態だ。
 あのとき。絵里のこと以外でほかに覚えていることについて、きっと正確なことなんてひとつもない。ひょっとすると廊下からはもっと無関係な、たとえばここの雰囲気なんてぶち壊しにしてしまいそうな大声の会話が響いてきていたかもしれない。生徒会室の机だって、あんなにもきれいに日を反射したりなんてしてなかったのかもしれない。世界はもっといつもみたいに無味無臭で、劇的なことなんてほんとうはなにひとつ起きていなくて。
「いきなりどうしたん、えりち。よかったって、なにが?」でも、それだってこれだって、きっとどれだって、希にとってはただの添え物にすぎなかった。あの一言からすれば、ただの脇役にすぎない。そして脇役に与えられた最も重要な、決して欠かしてはならないたったひとつの役目は、主役の邪魔をしないこと。それから、主役を引き立てることだ。
 だから希の記憶の中ではどれもぜんぶ、そういうことになっている。ただひとつ、絵里の発した言葉を最大限に引き立てるためにそこにあった、無数の脇役たち。ほかでもない希にとっては、そういうふうにしか映すことができなかったのだ。
 だから廊下はクライマックスを待ち望む客席のようにしんと静まりかえっていた。「ううん、」なんでもないの、と続けそうになっていたのをなんとか押し殺したような。そういうどこかはにかんだような笑みを浮かべる絵里の横顔を、天板でみごとに跳ね返った夕暮れの日差しがじんわりと照らしていた。この世でもっともささやかで、そして最高にきれいなスポットライトみたいに。
 ほんとうがどうだったかなんて昔のことだからもうわかりやしないけれど、少なくともそのときの希にとっては、すべて、すべてが、そうだった。
「希がいてくれて、よかったなぁって」
 すべてが。
 机にぺたんと突っ伏した、もっといえばとてもではないがほかの役員たちにはみせられないであろう格好のままで、ゆるりと笑んだ絵里が口にした。
 その言葉、それ以外すべてが、ただの脇役で。
 燦然と輝く主役に喝采を送るように、どくんと鳴った胸が、ひどく苦しかった。どこからきたのだからいっそふしぎなほど膨大な熱量が押し寄せてくる。そして同時に、一瞬にしてその場に立ち尽くしてしまうような、ぞっとする心細さも。
 だってなんでもないのだ。その考えはもちろんすぐさま浮かんで、手で暴れまわる胸のあたりをぐっと抑えるのと同じようにして、どうにかからだの内のさわがしいのを押しとどめようとする。なんでもない、なんでもないのだ、この一言は。頭の中で、何度だって繰り返した。なんでもない、きっとなんでもない、こんなのは、なんでもないんだ。「そうじゃなきゃ絶対終わらなかったわ、こんなの」ほら、絵里だってそう言ってる。机の上で突っ伏したまま両腕でうんと伸びをして、その腕のあいだにすっぽり入れた頭を、ぐりぐりと天板、というか書類の上に押し付けている。
「……おおげさやなぁ、えりち」
「そんなことないわよ。本気で思ってるのよ、あなたがいてくれてよかったって」
 なんでもない、のに。
 とんでもない量の仕事だった。二年生への進級を目前に控えた、春休みのことだ。生徒会の運用にあたり、引き継ぐ前のひとたちが一年間散らしに散らした拾い残しをみんな片付け、そのうえ新年度の準備を土台からみんな固めなおさなければならなかったあの日。私たちはたった二人で、窓辺で塵の橙色にちらちら光る頃にやっと、とんでもない量の仕事を片付け終えたところだった。
 まだ一年にも満たない付き合いといえばそうだったが、きっとこの子は「ゆるせない」子なんだという印象を、希は絵里に対して持っていた。一応一年間稼働しきってはいたがあちこちにボロが出たのを放っておいてしまっている現状がゆるせない。そもそも運用システム自体に明確な問題があるのに、それを放っておくのがゆるせない。そしてこの子がもっともゆるせないのは、それをゆるしてしまう自分、なのだろう。
 めんどうな子やなぁ、というのがもちろんのこと第一印象で、まるでそこまできっちりしていないとゆるせないかのようにきっちり予想に応えてくれる絵里が、なんとなく面白かった。部活すらほとんど休みになっている祝日にわざわざ出てきてまで、しかも夕暮れになるまで書類の細かい修正だの新しいフォーマット作成だのに付き合ったのは、だから一言でいってしまえば、そんな絵里をみているのが面白かったから、に尽きてしまう。
 尽きてしまう、はずだった。
「はー、背中とか、あっちこっち痛いわ……あ、そうだ、希」
「な、……なに?」
 それなのにどうしてこんなことになっているのだろう。
 ずいぶん疲れてしまったらしい絵里が、今以て突っ伏したままくぐもった声で話しているこの状態が、おどろくほど今の希にとって救いになっていることなど、ほんの数分前の自分ですら想像もしていなかった。もしも今、顔を合わせていたら。きっとそうしていたら、ただでさえ今言葉を詰まらせてしまった希は、絵里の呼びかけにうまく応えられたかどうかすらわからない。そのためのたったひと息すら、この、ひっきりなしに脈打っては酸素不足を爆発的に加速させてゆく胸のすきまに、どうにか埋めこめたかもわからない。
 希がいてくれてよかった。膨大な作業をたった二人で、手も背中もおまけに頭も痛くしながら、どうにかこうにか終えることができた。希がいてくれてよかった。絵里の一言は、要するにそれについてのねぎらいとか感謝とか、そういった意味合いのものなのだ。だからなんでもない、これはそういうなんでもないものなのだと、――自分に言い聞かせようとする声はすでに、振り絞る絶叫に似ている。
 のぞみが、いてくれて、よかった。
 なんでもなかった、はずなのに。
 そのたった一言で、わあっと光が、ひかりが、さしてきて。
「そうね……パフェ!」
「ぱふぇ、」
「食べに行かない? ほら、私たちきっと今、甘いものがだいぶ必要だと思うの」
 これでもおいしいお店くらいなら一応知ってるのよ、と、べつに疑ってもいないのに、どこかあわてたように付け加える彼女のことが、自分はそんなに生真面目でつまらない人間ではないはずだとかわいらしく主張したがる彼女のことが、もうまるごとまぶしくて、まぶしくて、たまらなかった。
 それを、そのことばかりを、希はこんなにも覚えている。
 あのときはわけなんてちっともわからなかったけど、ただ、ただ、どうしようもなくうれしかったのだと思う。
 だって絵里が自分に言った。
 いてくれてよかったって、言った。

 ただ今でも、あの絵里の言葉以外主役ではなかったはずなのにどうしても忘れられないほど後悔していることが、ほかにひとつある。それはもちろん、あのあとすぐに一度生徒会室を出てしまっことだ。絵里とそれ以上会話を続けるのは完全に得策でないと思い、生徒会室から出た。とりあえずお手洗いまで歩いて、そのままUターンでもして戻ってこようと思っていた、あの自分の判断だ。
 いや、生徒会室に居続けることだってもちろん最良なんかではなかったし、ひょっとするとあの場における最良なんてものは存在していなかったのかもしれないけれど、たとえそうであるにしたって、わざわざ最悪を選ばなくったっていいじゃあないかと、今になってもなお思う。
「なにあんた、めっずらしい」
 なにしろそのときから希の知り合いには、矢澤にこがいた。学校が休みだろうが部活が休みだろうが、ついでに言うと雨が降ろうが槍が降ろうが学校にやってきて、肩書き上はまだ一年生だというのに早くも私物で埋め尽くされつつあった部室に陣取る少女がひとり、いたのだ。
 自分はどうあってもそれを忘れてしまうべきでなかったと、今になっても希は思い返してしまうのだ。
「……にこっち」
「うわ。見間違いかと思ったけどやっぱり希だったわ。なに、あんた、ほんとめずらしいわね」
 運悪くこんなときにばったりと廊下で行き会ってしまった、(これからそうなる予定の)稀代の友人・矢澤にこは、希の顔をまっすぐ指さす。そうして口の片端だけをにいっと吊り上げる彼女特有の笑みを、惜しげもなくみせてくれる。ほんとめずらしいわねとまたくり返しながら、のどの奥をくくっと震わせて。
「めずらしいって、」
「その顔」
「顔?」
「そーよ」
 そういえば。
 その顔が気に入らない、とにこに言われたのは、ほとんど初めて交わされた会話のあいだではなかっただろうかと、ふと思い出す。
 あんたの顔、気に入らないわ。ちゃんと開けばくりんと丸くかわいい、いわば彼女の大好きなアイドルという名にぴったりな瞳をわざわざ鋭く眇めてまで、にこは希にそう言った。
「めっっっずらしく、わっかりやすい顔してんじゃない」
 ちょっとだけ気に入ったわ、と、にこはいう。
「で?」
「……で?」
 このときのことは、希にとってほんとうに後悔だ。まったく、いくら居づらかったからといって、あのとき自分は生徒会室を飛び出すべきでなかった。それか廊下を曲がるとき、あの見つけやすいツインテールが揺れていないかどうかくらい、一度確認しておくべきだったのだ。でもちっこいから見つけにくいんやもん、というのは、決して口にはできない仕返しの文句として、とっておいているけれど。
 で、それで。にっと笑ったまま、にこが、こっちに向けた指先を、くるくるとたのしそうに回す。
「わっかりやすくにやにやしちゃってさ。希、あんた、なんかいいことあったわけ?」
 ほんとうに、自分はこのときもうなにがなんだって、にこと行き会うべきではなかった。
 あんな、あんなふうにひとの気分を遠慮会釈なくずばり言い当ててしまうような、めんどうくさくなさすぎる子になんて。
「ほら、聞いたげるから、聞かせなさいよ。なんかうれしいことでも、あったわけ?」

 *

 車室どうしを切りわけている扉の、くすんだ硝子の向こうでは、ひとつ前の番号をもっているはずの空間が、ひっきりなしにゆらめいていました。
 自分がいる車室はこんなにも静かにすべって動いているというのに、どうしてあちらばかりあんなにゆさゆさとゆれているのでしょう。と、そこにいるぶんにはそう思うのに、いざ隣の車室に行き振り向いてみると、今度はつい先ほどまで自分のいた車室のほうが、今にもゆさぶり落とされてしまいそうなほどうごめいて見えるのでした。
 ははあ、これは自分のいる場所ばかりがゆれずにいてくれるのだな。そう思うひともいるでしょう。いや、ひょっとするとべつの車室にいるひとから見れば、私はあのぐらぐらした空間にまっすぐ立っている、ひどく奇妙なものに映るのかもしれない。そう思うひともいるでしょう。では「 」はどうなのかといえば、どちらかというと後者でありました。
 ゆさり、ゆさりと揺れる車室は延々と続き、終わりはいっこうに見えてきません。この列車がどこまで長いのだか「 」はしりませんでした。それはつまり、どこまでも長いのだ、ということならしっている、ということでもありました。
「切符を拝見」
 いつのまにか背後に立っていた車掌が、曇天のような色をした声でふがふがといいます。濃紺の袖口から、ふとい指が二本のぞきました。
 切符、そうです、切符です。隣の車室に行くために椅子からえいやっと飛び降りたときも、重たい扉の隙間に薄い肩をさしこんでどうにかこじ開けたときも、両手に握ってけして放さなかった、まあたらしい切符です。四隅はふれれば傷つきそうなほどきちんきちんととがっていて、くっきりと黒く印字された不可解な文字は、乗車の権利を示しています。
 おおいなる権利がみとめられるときは、だれだって胸がふくらみそうなほど誇らしい気持ちになるものです。「 」もちょうどそんな気持ちで切符をさしだして、車掌のきゅうりみたいに太い指のあいだにそっとはさんであげました。
 車掌はすかさずそれを持ち上げ、顔を埋め尽くすほど生えそろったひげのあいだからちいさく光る瞳の前に掲げます。そうしてふがふがとなにか満足そうにうなったのち、切符を「 」に返してくれました。きゅうりがぼんぼんぼんととびでたような車掌の浅黒い手が、切符ごと包むように、「 」の手のうえに重ねられます。くすんだ石炭を思わせる彼の手は、やはりとてもあたたかいのでした。
「これは善い切符だ」それから、すこしだけ晴れ間ののぞいたような調子で、車掌は何度かそういってくれました。これはとても、とてもいい切符だ。「きちんきちんととがって、くっきりしているね」いっそうほこらしい気持ちになって、「 」は車掌の言葉に何べんもうなずきます。あんまりたくさんうなずいたので、お尻の下で、椅子のクッションがきいきいと文句をたれます。
「善い切符だ。君は、本当に善い切符を持っているね」
 しかし「 」は車掌がほかのお客さんのところに行かねばならないことや、切符の確認を待ち望んでいるひとがいることもしっていましたから、けして引き留めようとはしませんでした。ここからすればおそろしいほどぐらついて見える車室への扉をくぐり、無数に続く列車の向こうのほうへと、車掌の大きな背中は消えてゆきます。
「切符を拝見。切符を拝見」また曇天の色に戻った声が、「 」のいる車室の中で、いつまでもか細く残っていました。「お客様、切符を拝見」
 長く、長く連なる列車の無数の窓からは、一面に散りばめられた星空が、煌々と広がっております。
「切符を拝見、切符を拝見。当列車は、サウザンクロスまで参ります」

 *

「凛から聞いたんだけどね」
「うん?」
「希って、一番好きな星っていうのがあるの?」
 そういえば、なんて話の始め方としてはもっとも便利で、そして相手にとっては厄介なやりかたを口にした絵里が続けたのは、やはり希にとって、虚を突かれるのにじゅうぶん足りうる内容だった。
 ぱちんとひとつ大きく目をしばたくほかなかった自分の間抜けな表情を、きっと絵里は、ずいぶんまともに見てしまったことだろう。せめてブルーベリーヨーグルトのパフェが、もうすこし残っていたならよかったのに。なにしろその日を狙って行ったのだから、サービスデイで全メニューにのったアイスクリームの大きさが一・五倍になるのはちゃんとしっていた。だが希たちが思っていたよりも一・五倍というのは常識の破壊力を持っていて、しばらくは食べるのに一生懸命にならなければ端から垂れてしまいそうなほど、ででんとのったアイスクリームは大きかったのだ。
 けれどもそれ食べ終えたのも、お腹いっぱいになっちゃった、亜里沙にずるいって怒られちゃうかしらねと絵里が笑ったのも、なんだかのどが渇いてしまって二人して水を二杯ももらったのも、ちょっとだけ前の話になってしまっている。通り過ぎてきたことは多い。汗すらももうかかなくなった、室内の空気に少しくあたたまったガラスの容器の底で、濃い藍色と乳白色の混ざりきらないマーブルが、てろりと溶けていた。
「合宿のときにそう聞いた、って言ってたから」マンゴーフルーツとソフトクリームのマーブルを、長い銀のスプーンの先でどうにかあとひとすくいしながら、絵里が続ける。甘いものがまだ足りていないらしい。満足する日なんて、この先ずっとありえないものなのかもしれないが。女の子って、もしかしたらそういう生きものだ。「それってなあに?」
「……そこまで凛ちゃんに聞かんかったの?」
「ええ。聞いても教えてくれなかったと思うけどね」
 教えてくれるつもりがあったら、最初から、一番好きな星なんて言い方しないで名前をいうでしょう。たしかにそうかもしれないことをさらりと口にした絵里は、放課後もすぎてずいぶん後れ毛の増えた髪をさっと払ってから、ほんのわずかに玉子色を端にくっつけたスプーンを口に運ぶ。
 猛烈に忙しかったあの日初めて連れて行ってもらって、それからずっと御用達になっている喫茶店の食器は、みなきちんと装飾の入った銀製だ。持ち手のところに刻まれた複雑な花模様が、絵里の白い指の間で、落ち着いた照明のもとしんみりと光っていた。
「星が好きだっていうのは、私もしってたけどね」
「言うた……ああ、言うたね。冬やったっけ」
「そうそう、去年……違うか、一昨年の。すごくよく星が見えて、希がそれこそ全部言い切れそうなぐらいあれは何座、こっちはなんていう星って教えてくれて。びっくりしたわ」
「うちもびっくりやったよ? えりち、あんまり勢いよくあっちもこっちも指して聞いてくるんやもん」
「おばあさまに少しだけ教えてもらったことはあったけど、神話まで含めて聞いたのなんて初めてだったんだもの」
 要するにね、ちょっとはしゃいでたのよ。唇をとがらせてそう言ったあと、ちらりと横目でこちらを見やった絵里が、肩をすくめてすこし笑う。そうだ、星が好きだという話をしたのはあのときだった。正確には、どうやらはしゃいでいたらしい絵里が希って星がすごく好きなのね、というのに答えて、ほんの少しうなずいただけだったけれど。
 たとえ日付がただしくなくたって、あんなにちょっとしたことも分けあって話せてしまうのが、素直に驚きだった。自分のことは、自分のことだから、それほど驚いたりはしない。でも絵里が覚えていたというのは素直に意外だった。相手が自分をどんなふうに瞳に移しているかを見ることは、けっしてできない。絵里があの日どういうふうに自分を映してくれていたのだか、希はいままでしらなかったのだ。そしてそういうことは、たとえばこんな些細なやり取りの中で、ふっと顔をのぞかせることがある。
 絵里は、希がしたこと座の話を覚えてくれていた。希が星を好きだといったことを、覚えてくれていた。瞳というみずうみに映したものたちは、水底に音もなく降り積もっていく。たまに、それこそあぶくみたいに気まぐれに面へと顔を出して、きらりきらりと光りもする。
 これまでいったい、どのくらいのものを沈めてきたのだろう。さいきんよく、そんなことがふと気にかかるようになった。
「あはは、えりちがあんなに寒い寒いっていうてるのは、なんやめずらしかったなあ。いつも平気な顔しとって、さすがロシアの血統、なんてクラスの子やらよう言うとったみたいやけど」
「我慢できるっていうのと、平気っていうのとは違うわよ。私だって北風が吹けば人並みに寒いと思うし、女子高生はどうして両足を晒して歩かなきゃいけないのかしらって疑問が尽きない朝もあるわ。それにね」
「それに?」
「もう希の前で意地張ったってしかたないって、あのときから私、ちゃんとわかってたのよ」
 まああのときそれをわかってたんだってことは、今わかったわけだけど。照れ隠しみたいな早口でそう言い切った絵里はウェイトレスを呼び止めて、三杯めの水を注文していた。のどが渇いたからというわけではないかもしれない、もしかしたら絵里はほんとうに照れくさくって、あちらを向きたかっただけかもしれないなんて、お角違いの予想が浮かんでは沈んで消えていく。
 ひとのことなのに、まるきりわかったようなつもりになるのは絶対によくないし、危険なことだ。おそらくひとよりもひとのことをわかることができるらしい希だからこそ、それをようくわかっていた。だのにいつまで経ってもあきらめきれずそれが湧いてきたのは、いったいどういうわけなのだろう。きっと、きっと危ういほど都合よく意味づけてしまっている記憶が、連鎖していくつもよみがえってくる。
 幼いころから習っていたバレエのおかげで、きっとしみついているのであろうぴんと伸びた背筋を丸めてしまって、たとえば今みたいに照れたような顔を絵里がはじめて見せてくれたのは、いつのことだっただろう。お互い忙しくてそんなにしょっちゅう通いつめていたわけではなかったけれど、いつのまにか喫茶店にあるそれなりに多いはずのパフェのメニューを食べつくしてしまったのはどんな空の日だったろう。寒くないのと尋ねられれば私は平気と答える彼女が、三センチかそれ以上のぶんだけくしゅっとちいさく体を縮めてくっついてきて。そうして、だってそっちから風が吹いてきてるんだもの、なんておどけて言ったのは、あれは、どんないったい大きさの氷の粒たちが、空からおりてきたときだったろう。それらすべてを懐かしいと呼ぶことが、希には今以てできていない。なつかしいという言葉はだめだ。あれは、なにかをいとおしむには、あまりにもさびしい響きをもちすぎているから。
 自分はこれまでいったいどれほど、そんなものたちを、そんなものたちばかりを瞳にうつして、この水底に降り積もらせてきたのだろう。
 ばかみたいに忙しかった、あのどうしようもなくうれしい言葉をもらってしまった日から、いったい、どれほど。
「で、それで。結局どの星なの?」
「ん……それ、そんなに気になるん?」
「悪いけど、なるわね。なあに、凛や海未には教えたのに、私には教えてくれないの?」
 それってずるいわ。拗ねたような声音を、わざとなのか自然なのか、そっちだってずるいくらいに滲ませて、絵里がいう。
 こんなものたちを、私はどれほど。――どれほど、と、さいきん、よく考えるようになって。
「……日本やと、沖縄とか、そういう南半球に近いほうでしかほとんど見えない星なんよ。おまけに、ぜーんぶの星座の中でいっちばん小さい星座やから、聞いてもそんな、おもしろくはないんやないかなぁ」
 それと同時にもうひとつ、思ってしまうことがある。
 どれほど、と数え上げて、それがあまりにも多いことにふと、ぞっとするのだ。どれほど、どれほど、あといったい、どれくらい?
「おもしろいかどうかって聞いてるわけじゃないのよ、希」
「……うーん。えりち、強情」
「ええ。あなたはそれ、よくしってるでしょ」
 どれくらい?
「ねえ、教えてよ、希。いいわ、沖縄で見られるっていうんなら、いつか一緒に見に行けばいいじゃない」
 私たちもうすぐきっと、そういうとこまで行けるようになるんだから。はればれとした顔で、絵里はいう。
「そのとき私もあなたと一緒になって探すんだから。小さい星座なんでしょう? それならよけいよ。ほら、早く、希」
 のぞみ、と、そんな声で呼ばれたら、また。
 また降り積もって、

 ――もうこれいじょう、は。

 *

 ふと気がつくと、手のなかにあったはずの切符がなくなっていました。あくまでも、あくまでも自然に。
「なあに、あなた」
 「 」が切符をもっていないことを伝えると、ついさっき車室にやってきた少女は、まぶたにぎろぎろとしわの寄るほどおおきくおおきく目を見開きました。彼女がエフィと名乗った、そのたったすこしあとのことです。
 おどろいているのではなく、あきれかえっているのです。「 」にもそれがすぐにわかりました。相手のいだく気分というのは、残念ながらいつでも名札をつけていないものですが、そのときの名前ばかりはどうあっても勘違いしてはならないものでした。いえ、勘違いをゆるさないものだった、というべきでしょうか。表情というのは、名前をわかりにくくさせるはたらきをもっているのと同じように、そのまた反対のはたらきも、時には示せるものなのです。エフィはそのときけっして、けっして、「 」に勘違いをさせることをゆるしてなどいませんでした。
 そのうえ切符をもっていませんでしたから、つごうよく「 」の両手はからっぽです。つまるところ、エフィの気分をひとつかみにしてしまうには、ちょうどよいぐあいなのでした。
「もっていない。もっていない、ですって?」
 エフィは歯噛みをするように、そうくり返します。
 うつくしい声でした。とてもうつくしい声でした。エフィの声は、いつでも天上の響きをおびているかのように、光がその道を迷わぬのと同じように、しいんと空気をとおってくるのです。
 彼女はひどく、それはもうひどくいらついていましたし、おまけに列車はついさっきへびのように長くうねったトンネルにもぐったばかりでした。したがって車室の中は金属のひくい咆哮や、車体によって裂かれる生ぬるい空気の悲鳴なんかでごった返していましたが、それでもエフィの声はうつくしく響いて聞こえました。
 闇をとおるひと筋の青さのようにまっすぐと、そして手触りのひやりとするほどのうつくしさで以て、彼女の声は「 」の耳まで届きます。
 顔を上げておかねばならないのだと、なぜだか思えていました。しかしいらいらと光るひとの瞳ほど胸をぎくりと刺すものもありませんから、まともにエフィの顔を見返していたというわけではありません。そのとき「 」が見ていたのは、ごうごうと見えないうちに過ぎ去ってゆくトンネルを向こう側にした、ぴかぴかの硝子にうつる自分の顔なのでした。
 あの顔はしょんぼりしているようにも見えますし、笑っているようにも見えます。ついさっきまでは泣いていたような気もするし、そうかと思えばこれから怒り出しそうだともいえそうです。まるで、混ざり合わないマーブル模様をいつまでも飽きずに見つめているような心地です。
 そうしていたところ、同じく硝子に映ったエフィのやせた背中が、ぐうんとしなりました。
「あきれちゃった!」彼女は麦の色をしたうすい麻のシャツを着ていましたから、骨がしなやかに軋る音まで聞こえてきそうなほど、それらのかたちは明瞭に浮かんでみえます。たいくつやあきれを吹き飛ばすようにのびをした彼女の背をみていると、あの少々ロマンチックのすぎる呼び名も、案外捨てたものではないかもしれぬと思えてくるからふしぎです。彼女にだったら、かつては天使の羽ぐらいついていたやもしれません。「ああ、ほんとにあきれちゃった。あなた、なんにもわかっていやしないのね!」
 なんにも、と「 」がくり返すと、エフィはすこしだけなだらかになった声で、そうよ、と答えてくれました。ばかは嫌われてしまいますが、無知はあわれにみえます。大人はたやすく害されても、子どもはきちんと守られるのと同じように。どちらかがましかはわかりませんが、ともあれそのときのエフィにとって「 」は、まるでまっさらな赤子のように見えたのかもしれません。すこし手を捻られれば、すぐにでも泣き出してしまいそうな子に。
「そうよ。だってねえ、あなたまさか、切符が必要なのは列車に乗るためだ、なんて思っているんじゃあないの?」
 エフィの諭すような甘い声は、鼻先をこしょこしょとくすぐるむずがゆさを持っています。「 」はひどく居心地の悪い気になって、あまり思ったようには体を包んでくれない車室の椅子の上で、お尻をちょっと浮かしたり、奥へとずり下がったりしていました。
 けれど、切符がなければ、列車には乗れないはずです。切符はどこだと尋ねられた時、「 」がいのいちばんに心配したこともそれでした。ふわふわのカーディガンのポケットにも、夜の色をしたズボンのポケットにも、絶対にあるはずの切符は入っていませんでした。それでも、自分はたしかにそれを車掌さんにみせてから、列車に乗ったはずなのです。あれはそういう権利のはずでした。
 あれはそういう権利で、そうでありますから、あれがなければすぐにでも自分は、この列車から放り出されなければならないのです。おそろしいほど震えひとつ起こさない、どうやらひどく頑丈らしい窓の向こうには、伸ばした手のひらすら見えなさそうな闇が、こんこんと広がっています。無数の車輪がレールの上を擦って、ぎりぎりと甲高く笑います。切符をもっていなければ、あの笑い声が指をさすのは、きっと自分になるのです。切符とは、そういうもののはずでした。
「ちがうわよ」
 それなのにちがうの、と、尋ねるよりも先に、エフィは答えを言ってしまいました。「切符は列車に乗るために必要なものなんかじゃあないわ、けっしてね」
 けっして、いい、けっしてよ。天上の響きをもつ声が、輪唱のようにくり返します。
「ちがうのよ。そうじゃあなくて、切符はね、列車を降りるためにこそ、絶対に必要なものなのよ」
 彼女はひどくあきれました。「 」はどうしてだかぼんやりと、ついさっきのことにしてはやけにぼんやりと、そう思い出します。
 切符をもっていない、というと、エフィは目を剥いてあきれました。
「そうね、まずあなたはそもそも、列車ってものを勘違いしているわ。これは乗ることじゃあなくて、どこで降りるかってことのほうが、いつだってずっとずうっと大事なんだから!」
 ふんとかわいらしい鼻をならしてみせたエフィは、「 」の隣に腰掛けます。ぎ、ぎ、と二回軋んだ椅子は、きっちり二人分だけ沈み込み、さっきよりもすわりがよくなったように感じられました。ただの勘違いかもしれませんでしたが。
 からっぽの両の手を、エフィは隣からしげしげとのぞきこんでまで見つめます。あきれ、あわれに思った最後に残るのは、彼女だけによる欲に基づく好奇心です。銀か白か、もしくはもうすこし川に似た色をした髪が、「 」の目の前でゆらゆらと流れていました。
「それであなた、どうするのよ?」
 手に、ほんのわずかにエフィの吐息がかかります。
「だって。切符を持っていないんじゃあ、あなた、このまま終点まで運ばれちまうしかないじゃない」
 笑ったなあ、と思ったのは、つまりそのときでした。
 窓の向こうの、自分の顔です。あの複雑にゆらめいてばかりいたマーブルが、いったいなにをどうやって塗り替えられたのか、それとも剥がしとられたのかわかりませんが、ともあれそれはまるでなかったかのように消え去っていました。跡を残して消える、わがままなもののほうが、よのなかにはいつだって多いはずなのに。
 からっぽの手を、「 」はゆっくりと持ち上げました。それこそ目か鼻かをぶっつけそうなほど近くまで覗きこんでいたエフィの顔も、自然とそちらを追って動きます。
「終点がいい」
 列車が、トンネルを抜けました。
「終点がいい。切符は、もうなくていいの。私は、終点にいくから」
 幾憶千万に輝く星々のなかを、切符のない「 」を乗せて、列車はまた、ゆうゆうと泳いでゆきます。

 *

 そんなものが数えるほど起きるというのもおかしな話だが、ありえないことが同時に三つ、そのときの希には降りかかっていた。
 ひとつは、いったいどうやってここまで歩いてきたのだかがどうやっても思い出せないということだ。赤ん坊だってしっていることだけれど、体というものは概ね自分の意思がなければ歩いたり走ったりはしないはずのものだ。転んで立ち止まってしまっていたというのならまだしも、歩いてきたことが思い出せないなんて。自分で歩いてきたはずの廊下のことも、自分で二つぶん下ってきたはずの階段のことも、自分で開けた立てつけのあまりよくない(どこかの新会長さんが元気よく開け閉めしすぎたせいでどうやらそうなった)扉のことも、みんなみんな覚えていないだなんて。
 気が付けば、おそらく海未が書いたらしいかくかくに整った文字や、その横にいくつか並ぶことり特有のセンスで描かれたイラスト、そして明らかに関係ない穂乃果のらくがきの跡がのこったホワイトボードをじっと見つめていた。幾本もまっすぐ伸びる板張りの床にぽつんと影を落としてやっと、それでどうしてこんなところに立っているんだっけ、と考えてしまっただなんて、これはどう考えてもおかしい。ありえない。これでひとつ。
 そしてふたつめは、声を聴いたということだ。消し残しと未完成の書類、過去の決算データが入っているファイルなんかのみをこの場に残し、部屋の主たちは三人揃って出払ってしまっている。多分に、そろそろ音ノ木坂学院の新しい名物のひとつとして数えてもよさそうな、仕事をいやがる新会長と新役員たちの追いかけっこの真っ最中なのだろう。そんな賑やかな声が窓の外から飛び込んできていた、のだったら、ずっとよかったのに。ありえないことだけれど、ほんとうにありえないことだけれど、希が聞いたのは違う声だった。違う声で、そして、聴き間違えることの絶対にない声だった。
『希』
 振り向いて、しまったのだ。
 ありえない、ありえないありえないありえないって、わかっていたのに。
「……ぁ、」
 それなのに希は振り向いてしまった。
 ホワイトボードの目の前、端のすこし削れた、でも天板はぴかぴかな長机の真ん中、いつだってそこにある青い椅子。窓辺からさしこむ光が、よく届くところ。
 希は絵里の席を振り向いてしまった。
 絵里の席だった場所を、振り向いてしまった。
『のぞみがいてくれてよかった』
「ッ、……っぅ、あ」
 あ、あ、あ、あ、あ。
 ありえないこと、最後のひとつ。
 手を伸ばした。自分でもばかみたいだと思うくらいにふるえていた指先で、つるんと光る机の上を、一度だけ。たった一度だけ、そっと撫でた。
「あ、――っ!」
 たったそれだけで。
 もう、まともに目を開けていることが、まともに世界を映し続けていることが、希にはできなくなった。
 きっとあまりにも多くのものを沈めすぎたせいで、瞳のなかにあるみずうみが、限界になってしまったのだ。それであふれてしまったのだって、そんなあほらしいことすら、じんとしびれゆく頭で、考えてしまうくらい。もうこれ以上はむりだった。もうこれ以上はだめだった。もうこれ以上容れてはいけないと、かあっと巡りだした全身の熱が、いっせいに悲鳴を上げていた。
 もうこれ以上は。
 もうこれ以上は。
 もう、ほんとうに、これ以上は!

「……のぞ、み?」
 その日そのとき、希の身に起きたありえないことは全部で三つで、どう数えても、三つきりだった。
 四つでは、なかった。
「希、あなた、……あなた、どうして泣いてるの」
 最後に、ぽとりとこぼされたそれすらも、その場においてありえない声だったら。
 そうだったら、どれほどよかっただろう。

 *

「終点まで行きたい。切符なんてもうないの、なくしてしまったから。いいえ、いつかなくなるって、本当は最初からわかっていたんだけれど。切符がないから、降りることができないの。それはきちんとわかってる。大丈夫、きちんとわかってるわ。だけど降りられないということは、そのままどこまでも行けるということなんでしょう? そのまま、終点まで行くことができるということなんでしょう? 車掌さんが言っていたの、終点はサウザンクロスだって。天の川のなぎさをわたって、あのきちんときれいな場所へ、サウザンクロスまで行くんでしょう。私はそこまで行きます。そこまでずっと、行ってしまいます。そうするのが、きっといちばん善いから」

 *

「どうしたのよ希、まだ卒業まではしばらくあるっていうのに。そのときの分、とっておかなくていいの?」
 これ、と自分の目元を指さしてみせながら、絵里はすこし笑ってくれた。感情をあらわにしている人間にたいして打てる方策はいくつかあるが、大ざっぱに種類をわけるなら、同じような顔をするか、それともまったく真逆の顔をするかの二つにわかれると思う。つまりそのとき絵里がとったのは、後者の方法だったということになる。絵里は希に向かってきちんと笑ってみせてくれて、どうか同じ顔をしてくれるようにと、そっと促してくれたのだ。涙を使い果たしてしまうなんてもったいない、と、冗談めかしてまでくれながら。
「ああ、……ああ、うん、ごめんごめん。なんや、なんやろな、ちょっと」
 後者の方法でほんとうによかった。絵里がそこまで理解したうえで方法を選び取ってくれたのかはわからないが、少なくとも希にとっては、さらに泣くよういわれるより、笑うようにすすめられるほうがずっと気楽だった。二つ並べられれば、どちらかというとこっちのほうが得意、というものが、たいていはあるものだ。希は泣くよりも笑うほうがずっと得意だった。ただそれだけのことだ。
 にこは希の笑顔が気に入らないといったけれど、もうあれは、ずいぶん前のことになってしまったから。
「ちょっと、な。えりちとここで、いっぱいいろんなことしたなぁ、って思って」
 あとはもういくつか笑って、それから、とりあえず鞄でも取りに教室へ戻ろう。いやその前に、濡れてしまった頬を適当に拭いておかなければ。絵里はきっと自分がここから出てきてくれるのを待っている。もう出ていかなければならない。
「遅くまで居残ったり、どうしようかなあ、どうしようもないなあって延々言い合ったり。なんも話さんと、実はじっと座ってるだけだったりして、な」
 そうだ、私はここから、もう出ていかなければならないのだ。
 いてよかった、――いたところだった、ここから。
「待って。待ってよ、希」
「……うん?」
「それじゃあまるで、なにもかも終わりって感じじゃない。もう、いくら気落ちしてるからって、そんな言い方ってないわ」
 絵里はすこしばかり困ったように笑っていた。それが、さっきまでと同じ、希を笑わせるための笑みでないことくらいはこっちにだってわかる。でもどうして。希は自分でもすこしびっくりするほどまじまじと、絵里の顔を見つめていた。まばたきをしないままでものを見続けると、輪郭がへんにぶれて、はっきりしないことがある。そのときの絵里も、そんなふうに見えていた。じわり、じわりとぶれて、よく見えない。かたちがうまくとれない。
 さすがにちょっとやめてよね、と、言う絵里の声が、ほんのわずかにぶれて、ふるえて聞こえたのは、そのせいだったのだろうか。
「ねえ、確かに私たちはもう生徒会でもなくなったし、きっとこれからμ’sでも、高校生でもなくなるわ。そりゃあ、なにかでなくなるっていうのは、私だって怖いわよ。これからのことなんて、ちっとも見えないもの。……でもね、希」
 ゆっくりと、絵里がこちらへ歩いてきていた。
 眉尻の心細そうに下がった、わずかにふるえた声で話しながら、それでも確固とした足取りで、絵里は希の前に立とうとする。希の瞳に、それが映る。
「一緒に働くことがなくなったって、一緒に踊ることがなくなったってね。多分、今の私たちが考えているほど、先の私たちって、打ちひしがれてなんていないと思うの。今、あなたも、もちろん私だって考えちゃうほどのとんでもない距離って、多分ね、空かないんじゃないかなって思うのよ」
 もうこれ以上は、だめだ。
「うん。……うん、えりち、わかった、もうええから」
「希、そんな顔してるのにもういいなんて言っちゃだめよ。そうね……そうね、じゃあ、約束でもしましょうか。ほら、前に喫茶店でした話、覚えてる? 希の一番好きな星座、探しに行きましょうって言ったじゃない。あれと同じの」
「えりち、うち、ほんまにええから。大丈夫、大丈夫やから」
 降り積もる。
「だーめ。あなた、すぐそうやって笑うのよくないって、にこにもよく言われてなかった? ええと、なんにしましょうか……あの喫茶店よりおいしいパフェのお店を探す、とかはどう? あそこ相当レベルが高いらしいから、きっとすごく時間がかかっちゃうと思うけど。むしろそういうもののほうがいいわよね」
「えりち、……えり、ち、うちほんまに、もう、……もう、ええから、」
 降り積もる。
 降り積もる、降り積もる、降り積もる、
 ――あふ、れる。
「ね、希もなにかない? なんでもいいわよ、好きなこと。どうでもいいこととか、小さいこととか、なんでもいいから、今のうちに約束しちゃいましょ。なんならこれから先、五年分くらいしておいたって」
 ああ、
 だめだ。
「もういいって言ってるの!!」

 大きな音のあとのびりびりふるえる空気のほうが、ときには音そのものよりもよけいうるさく、耳をつんざいてくるものだ。
 そして希はそれに耐え切ることができなかった。ふるえる空気に曝されたまま、だまって立っていることができなかった。それでよけいことを悪くしてしまうとわかっていたって、今の希にできたのは、口を開くことだけだ。だってほかにどうしたらよかったっていうの、教えてもらえるものなら、すぐにでも教えてほしかった。
「えりち、わかってないよ」
「……希」
「わかってない。ううん、覚えてもないんやろうな、きっと」
 あれは、あんなにも降り注いできた光は、しかしきっと、光のもとにいた彼女にとっては、明るくもなんともなかったはずのものだから。そもそも覚えているこっちのほうがおかしい、あれはなんでもないものだった。そういうふうに与えられたものだった、それはわかっている。
 わかっているから、わかってもらえないということだって、わかっている。
「わかってないよ、えりちは」
 ふしぎだ、得意なことと苦手なことを、同時にやってしまっている。
 笑いながら泣いていると、この場合、私はこれが得意なんだろうか、苦手なんだろうか。ぼんやりと、そんなことを考えながら。
「うちがいてよかったって、いうてくれて。それでうちが、……うちが、どのくらい、うれしかったか。えりち、わかってないよ」
 絵里がわずかに目を見開く。見開いた、と思う。正直な話、よく見えていなかった。この顔が、自分ははたして得意なのか苦手なのかはわからないが、とりあえず都合がいい、とだけは思った。
 だってこれなら瞳は細まって、おまけに視界がずうっと滲みっぱなしだから。もうこれ以上なにも映すことができない自分には、とりあえず、ちょうどよい。
「希、でも」
「それから、うちが!」
「っ、……」
「……それからうちが、どれくらいずるいやりかたで、うれしいの、ずうっと続けとったか。えりち、わかってないやろ?」 
 私の気持はだれにもわからない。私もあなたを、或いはあなたたちをわかってあげたかったけれど、できなかった。ぜんぜんできなかった、なんにもできなかった、それと同じようなことだ。私はあなたがわからない。あなたも、私がわからない。私たちは永遠に、わかりあえるということがない。わかりあって、つながりあって隣にいるなんて、たいていはどちらかが必死につき続けている嘘だ。そして今回うそをついていたのは、――なんて、もうなぞなぞにもならないけれど。
 だっていてくれてよかった、という言葉を旗みたいに掲げて。まるで隣に寄り添うかのような、まるで支えてあげるかのような、いつもそばに置いておくとよい、使いやすいものであるかのような顔をして、ずっとあなたのそばにいた。理由はひとつだ。笑ってしまいそうだし泣いてしまいそうな話だが、ひとつだけだ。
 希がいてくれてよかったって、えりちがいうてくれたんが、ほんとに、ほんとにうれしかった。それだけ。たったそれだけ。
 そしてたったそれだけが手放せなくて、ほんとうはそんなことできやしないのに、ほんとうはなんにもしてあげられやしないのに。結局あなたのことをまっすぐ救ってくれたのは、今あなたとまったく同じ席に座り、あなたと同じ場所に立ち、同じ景色を見られている、かみさまみたいなあの子だったのに。それなのにうち、ずっと。
 ずっと、ずっと、ずるくって。
「だから、ちゃんと終わりにしようって。ちゃんと、ちゃんと、思ってるんやから」
 だから言わないで、邪魔せんといて、もう勘弁して。これでなにもできなくなったんだってちゃんとわかる日が、わかってもらえそうな日がやっときたのに。ただしく間違いが正される日がやってきたのに。
 それなのにこれまでの懐かしさの話をしないで、わかりあってきた日々のことなんて口にしないで、これから先たくさんの約束なんて、お願いだから、させないで。我ながらさっきの絵里みたいに、困ったように笑って、言い返した。
 もうこれ以上は、やめて。
 だいたい、「これ以上」だなんてもの、そもそも初めから、なかったはずなんだから。
 だからもう、このままどこまででも行こう。どこまででも、行ってしまおう。切符はなくしてしまった。降りて居られる場所が、もう、ないから。
「……じゃあ、希は?」
「え?」
 絵里が飛び込んできた。
 視界いっぱいに、それこそほかに映すものなんてひとつもないほど。見間違えることも、目をそらすことも、一秒だってできないほど。希のなかのみずうみに、勢いよく潜り込むかのように。
 それほど近くまで、少しくなめらかになってしまった制服の布がこすれあうほど近くまで、真っ赤な顔をした絵里が、飛び込んできた。
「希、あなたはどうなの」
「は、……え、なに、が」
「あなただって、わからなかったでしょう」
 絵里、えり、えりち。
 ああ、だから、もうこれ以上そんな顔をしないで、そんな目でみないでって、いってる、のに、
「あなただって! 私が、どんな気持ちであなたにいてほしいって言い続けてきたか、わからなかったでしょう!?」
 聞き間違いでなければ、と一瞬思ったが、そもそもそういう距離ではない。
 では聞き間違いではないのだ、絵里は確かにそういったのだ。
 絵里は、言い続けてきたか、といった。
「っ、」希は思い出せない。「えり、ち……?」
 希はあの、とてもよく覚えている最初の一回以外に、絵里がそう口にしてくれたことを、ちっとも思い出すことができない。
「ええそうでしょうね、わからないでしょうね。いいえ、その前に覚えてだってないんでしょうね。だってそういうふうに言ったもの。すごくなんでもないときとか、あなたが心底眠そうにしてるときとか、穂乃果たちときゃあきゃあ賑やかにふざけあってるときとかね、そんなときばっかりしか私、言わなかったもの。あなたはきっとわかってくれないって、そもそもわかってなんかもらえるものじゃないって、そう思ってたから」
 でも、私だって、ずるかったのよ。
 逃げられない、見誤ることのできないほどすぐそばで、鼻先に吐息のふるえをひりひり感じるほどのところで、絵里の表情が、ほろりと崩れる。
「わたし、だって。あなたがいてくれるのがうれしくて、……うれしくて、うれしくて。だから、ずっといてねって、ずっといなくちゃだめよって、そんなことをずうっと、こっそり言い続けるくらいには、ずるかったわよ」
 ねえ、わからなかった、でしょう。
 だから危ういのだと、しっていたはずなのに、こういうことはしってもしってもきりがないものだ。ひとのことをまるきりわかったような気になるのは、ほんとうに危ないし、勝手なひどいことだ。希はそれをひとよりよくしっているつもりで、だけど、しらなかった。絵里をたすけられるか否か以外のところで、自分にかかわるものが彼女の中にあるだなんて、希は今まで一度だって、思いもしなかったのだ。
 わからなかった、わかって、いなかった。ねえ、わからなかったでしょう。もうほとんど体を押し付けるようにして、あるいはどこかほんのちょっとだけ支えを求めるようにして、絵里は希の肩に頭を押し付けて、服にしみこませるようにそう言っている。しみこんだ言葉が、みずうみの奥の奥深くまで届いて、あんなにたくさん降り積もっていたものたちが、ぶありといっぺんに、浮かび上がってしまったような気がした。
 ずるい、ずるいことが、その奥底深くから、とうとう、顔をのぞかせてしまう。
「おんなじ、よ。私はあなたがどのくらいずるかったかなんて、わからないわ」
 だからもうこれ以上はって言ったのに、絵里は、
 えりちが、
「わからないけど、わからなくたって! わかる前からみんなみんな、べつにいいって、かまいやしないっていうわよ!」
 いわないわけ、ないじゃない。
 希のことなのに、希のことだから。
 私がそういわないわけ、ないじゃない。
「希のことだから! わからなくたって、なんにもわからなくたって、はじめっからぜんぶいいに決まってるって、いうわよ!!」
 うれしいならそれでいいって、それだけが大切で、それだけがいちばんだって。
 ほかのだれが指をさして、それはまちがっていると声高にいったって、そんなのなんて関係ないの。
 ほかのだれでもないの、ほかのだれでもない私だから。

「あなたはずるくてもいいって、うれしくていいって、言うにきまってるじゃない!」

 *

「ほんとうに、あなたなんかがあのうつくしい十字架まで行けると思っていたのね」
 とうとうくすくすと笑いだしたエフィは、それからぱっと両手を顔の横で広げて見せました。どこかむっとしてしまうほど、おどけたしぐさです。しかし、むっとしてしまいそうなことをされたとき、ほんとうにむっとしてしまうのの、なんとむなしいことでしょう。それを「 」はなんだかようくしっているような気がしましたから、きちんとがまんしておきました。
 しかし「 」が黙っているのをいいことに、エフィはよけいに目をひらいたおどけ顔をつくって、けらりと笑っていうのです。
「それはまあ、なんてばかなことを!」
 そんなときでも天上の響きを失わないエフィの声でしたが、しかしそこに、さっと曇天が忍びよってきました。
 はじかれたように振り返ったエフィに合わせて、「 」もその重たい声のほうを見てみます。すると車掌のむっくりとした歩き姿が、三つ向こうの車室で、やっぱりひどくゆさゆさと揺れながら見え隠れしていました。
 どうやら車掌と折り合いのあまりよくないとみえるエフィが、短く舌打ちをします。それでも「 」と話をする気を失わずにいてくれたのは、ひょっとするとひどく、ひどくひどく、幸運なことだったのでしょう。なにしろエフィは気まぐれな子です。
「そうね、あの星は確かに、とてもうつくしいわ。あなたみたいなんでも行きたいって思ってしまうのが、一応わかってあげられるくらいにはね」
 切符を拝見、切符を拝見。
 車掌の声が、二つ向こうの車室から聞こえてきます。
「だけどあなたはやっぱり、なんにもわかっていやしないのね」
「なんにも、」
「そうよ。いい? あのね、うつくしいものはね。うつくしいものになるよりも、それをうつくしいと口に出せることのほうが、ときにはずうっと、価値があるものなのよ」
 それからエフィが唐突に立ってというので、「 」はしぶしぶ立ち上がり、おまけに身体検査のときのように両手をまっすぐ広げさせられました。かっこうの悪いものです。おまけに、生物としてこういう無防備なかっこうはよくないのだと体がしっているので、ひどくむずむずします。しかもエフィが体のあちこちを遠慮会釈なくまさぐるので、よけいむずむずするのでした。
「切符を拝見」
 車掌はもう、ひとつ前の車室まで来ていました。
「ああほら。ほうらやっぱり、あったじゃない」
 エフィが切符を取り出したのは、ちょうどぴったり、そのときのことでした。
「やっぱり、やっぱりね、あなたなんかがあんなところまで行けるはずないって、私は最初っから知っていたのよ」最初からよ、とくり返すエフィは、とても誇らしそうにして、「 」の手に切符を握らせます。
 いったいどこにしまわれていたのでしょうか、それはわかりませんが、ひどくよくないとりあつかいを受けていたことだけは違いがないようでありました。というのもそれはちょっと端が欠けていて、折れている部分すらあり、おまけに印字された行き先は、あちこちインクが剥げてしまっているのです。乗ってきたときに持っていたものとは大違いに見えるのですが、エフィはまるで真理がごとき確信で以て、それを「 」の手に握らせてくるのでした。
「切符を拝見」
「はぁい、はい、うるさいわね。さ、あなた、早くそれをお見せなさいな」
 ほんの少しのためらいは当然のようにありました。しかしそうしているうちに、黒いきゅうりの指先が、「 」の手から切符を取り上げてしまいます。車掌はそれを見つめ、ふが、と一度うなってから、すぐに返そうとしてくれました。が、それを白い指が、ちゃくっと奪い去ってしまいます。エフィの手です。「降りていいそうよ、すぐにでもね」おそらくは車掌がこれから口にしようとしていたのであろうことを、組んだ足の上で満足そうに頬杖をついたエフィが、にやりと口にしました。なるほどこれでは、折り合いが悪いわけです。
「さあもうそれを持って、早くお行きなさいな。あなたがサウザンクロスまでなんて、はじめっから行けるわけなかったんだから」
 降りた、降りた。最後にやっとほんとうに歌うような声を聞かせてくれたエフィは、ちらりと切符を見つめてから、それを「 」の手に戻してくれました。
「さようなら、のぞみ。あなたはもう二度と、あすこへは行けないくなるわ」
 あとは降りて、自分の足で、どこかへいっておいで。

 *

「なんでも、って」
「……ん?」
「約束。うちの好きなこと、なんでもって、いうたよね」
「ええ、言ったわ。……なあに?」

「南十字星。探して、見つけるまでちゃんと、付き合うて、な?」

 見つけて、遠い遠いそれを、ならんで見上げて。
 ああうつくしいねえって、ひとごとみたいに笑って、いおう。


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