「手紙とレッテルとハイヒールと、午前三時のペペロンチーノと」





 拝啓、私へ。

 二分の一成人式。休憩室でお弁当を広げていた子どもたちの会話に出てきたその言葉に、海未はひどくなつかしい気持ちになった。今どきの小学四年生にもその文化はきちんと残っていたのか、とみょうにほっとして、ほっとしてしまうようになってしまった自分に、すこしため息をつきたくなる。二十一歳は年齢について悩むにはまだ早い、と年上のひとびとからはどこか恨みがましく言われるけれど、それでもなにかが着実に積み重なっていることを感じずにはいられない。
 ヒールに疲れた足を組み替えたときの、パイプいすの低い軋みにすらも、ノスタルジアは隠れている。そのくせもうあれが十一年前の話だなどとは信じがたいことだが、海未たちが小学四年生のときにも、二分の一成人式と呼ばれるその行事はたしかにあった。小学四年生、十歳を迎えるこの年に、大人になった自分について考えてみようというわけだ。
 担任の先生は、将来の夢というのとはちょっと違いますよと言っていた、と、思う。先生の顔もろとも授業中の記憶が多少おぼつかないのは、隣で道徳の教科書を逆さまに持ったまま、夢の世界へと気持ち良く舵を切ってしまったらしい穂乃果を起こすのに必死になっていたからだろう。おかげで担任の先生の顔は後で出会ったよく似た誰かに塗りつぶされてしまったし、そのあと先生がしてくれた大人というものについてのありがたい話も、残念ながらちっとも思い出せなかった。
 ただとにかく手紙、そう、手紙を書いたのだ、私たちは。そこまでやっと思い出したころには、休憩室の子どもたちはみんなお弁当を片付けてしまっていて、揃いの塾のロゴが入ったとても重たそうな鞄を、慣れたしぐさでいっせいに持ちあげたところだった。
「園田せんせー、こんばんはっ」
「こんばんはー」
「はい、こんばんは。あとすこしで五分前ですから、すぐ準備して下さいね」
 はぁい、と口々に元気よく言いながら、子どもたちは七限目へと向かっていった。からあげとウインナーと卵焼きとブロッコリー、小さな背中の残り香は、お弁当特有のぬるくて甘い匂いだった。
 舘本君と羽賀君、榎本さんは中教室Bで模試の続き、吉岡さんは十二番ブースで佐渡先生の授業。休憩室入り口に下げられた割り当て表のマグネットを付け替えてから、傍らに準備しておいた布巾を持って立ち上がる。机を拭いて、空いている一番から七番ブースまでの掃除をして、九番ブースのマーカーペンの交換。塾講師のアルバイトを初めて二年、いい加減生徒の前で緊張して話せなくなるということはないが、それでも海未はこういった事務作業のほうがずっと気楽でよかった。
 洗剤を霧吹きで吹き付けてから、机の隅にぴったり沿うように布巾をすべらせていく。月間優秀講師賞だけでなく、掃除賞というものがもしあったらぜひ園田先生に進呈したいものだと塾長から先日言われたが、あれは今にして思えば、単なる厭味だったのかもしれない。おおかた海未の担当している生徒たちの教材レベルが上がらないことを気にしているのだろう。
 とはいえ、現時点で半分もできていないというのにさらにレベルを上げるようなまねなど、海未にはとうていできそうになかった。書いて間違えているならともかく、空欄はいただけない。それはたとえば、机の上に残った黒っぽい汚れがどうしても気になってしまうか否かというのとよく似ているかもしれないし、全然違うのかもしれないし。授業開始のチャイムをなんとなく遠くに聞きながら、布巾のはじをつかってごしごしと強くこする。
 鉛筆の粉か何かが擦れた跡らしいそれが完全に綺麗になるまでは五分とすこしかかって、ふっと息を吐きながら身体を起こすと、背骨がぽきんと軽い音を立てた。
 ひとの近づいてくる気配を感じなければ、伸びのひとつもしていたかもしれない。
「あ、いたいた、園田先生。お疲れ様です」
「伊瀬先生……お疲れ様です。どうかなさいましたか?」
 休憩室の入り口に立っていたのは二週間ほど前から新しく入ってきた伊瀬先生だった。ほかの女性講師のみなさんがたによれば、月曜九時からやっているあたらしいドラマの主人公にそっくりだという彼は、ミントのガムとまではいかなくともフルーツガムのCMにくらいだったらつかってもよさそうな笑みをふにゃりと浮かべている。ドラマの主人公ほど強気な性格は持ち合わせていないらしいものの、歳はひとつ下で大学のランクは三つ上の彼の授業はたいへん評判が良く、くだんの月間優秀講師賞に次選ばれるのはたぶん彼なのだろう。
 それにしても彼の受け持ちの生徒はたしか休憩前に帰っていたはずだが、どうしてまだこんなところにいるのだろう。まさか日報を書くのに彼がこんな時間まで手間取っていたというわけでもないだろうし。そんなことを考えているうちに、海未と伊瀬先生の距離はだいたい三歩半ほど縮まっていた。おおむね一足一刀の間合いだ。そして彼の打ちこみはとても素早かった。
「事務作業、よかったらお手伝いしますよ」
「あ、いえ、そんなたいした量ではありませんので……」
 後手に回ってしまった防御はたいていのところ無意味だ。そのときだってそうで、俺のほうはもう終わったのでとグレープフルーツガムみたいな笑みのままの彼は、海未がそれ以上なにか言うひまも与えず布巾と霧吹きを構えていた。きっちりしているということだけが十分に伝わる、細かいところに拘り過ぎない、きっと適切な調子で伊瀬先生は次々と机を拭き終えていく。
「園田先生は、あとは事務で終わりですか?」
「はい。そう、ですが」
「じゃあ、俺、手伝いますから」
 もうきっと明日から、グレープフルーツのガムは噛めなくなる。
 べつに噛んだことがそんなにあるわけじゃないし、そんなに愛していたわけでもないけれど、それがほんの一瞬、むしょうに悲しくなった。
「早く上がって、ちょっと夕飯でもいかがですか、園田先生」

 何と言って断ったかは正直よく思い出せないのだけれど、適切な言葉は選べなかっただろうということだけはとてもたしかに理解できていた。そういうものは重たく身体にはりついたまま、なかなか剥がれてはくれないものだ。それはしつこく貼りついたまま、たとえば脱いで玄関先に転がってしまった靴を揃え直す力なんかを、軒並み奪ってゆく。
 四分の一だけ振り向いて、ヒールの薄汚れた底がむき出しになっているのを見はしたけれど、結局踵を返すことはないまま、ふらふらとダイニングのほうへ海未は歩みを進めてしまった。腕が覚えているのに任せて蛍光灯のスイッチを叩くと、ばちんという音が思っていたより厳しく響いて、またすこし身体が重たくなる。完全につき崩れるまではほど遠いのだろうけど、日々の澱はしつこいほど着実に溜まってしまうものだった。
 ちゃんと把握しているだけのものしか入れていないのにやたらと肩に食い込む鞄を降ろして、脱いだスーツのジャケットを壁際のハンガーにかけ、カッターシャツのボタンを上から二つ、一度手を止めて結局三つ外す。さっき入れた冷房が効きはじめるには、まだもうすこしかかりそうだったから。ほとんど両親が手配してくれたマンションは一人暮らしだというの七畳二間の2DKで、そのだだっ広さにはエアコンの冷気も一人分の生活感も十分には追いつけていない。
 ダイニングの椅子に腰かけて、とにかくなるたけ長く深く息を吐いた。夏休みを謳歌する学生たちが揃って休みを取るばかりに、今日のバイトは朝も早くから臨時授業の目白押しで、立ちっぱなしのふくらはぎはぱんぱんに張りつめている。そうだというのに電車はばかみたいに混んでいて、これでもかというほど身体を押し付けられた出入口の硝子には、べたべたと手あかが残っていた。あれもだれかがごしごし拭き取るのだろうか。布巾と霧吹きで。
 そんなことを考えていたら、テーブル脇の棚に置いている電話機のランプがぴかぴか点滅しているのがふと視界に映った。留守録が残っていることを示す表示だ。保存されたメッセージは一件です・九月・九日・午後・二十二時・十三分。発信音。
『もしもし、海未さん? とても遅くなっているのね、すこし心配です。聞いたら、折り返し掛けてくださいね。それから帰る予定が決まったら、連絡してください』
「……先々週帰ったばかりです、お母様」
 本人に直接は言えそうにない返事をわれながらひどい声でぼそりと零して、海未は、ずるずると沈むようにテーブルの上に突っ伏した。
 化粧を落としていないから服を汚してしまっただろうし、天板だってかなり念入りに拭かなければならないだろう。即座に頭を掠めるのはそういったことばかりで、それを笑えたり笑えなかったりしながら生活は続くのだろう。今日はちょっと笑えない日だった、それだけといえば、それだけだ。
 大学に上がったら一人暮らしをしてみてはどうかと海未に提案してきたのは両親のほうだった。弓道部や勉学、そしてもちろん日舞の稽古がありながらもμ’sとしてアイドル活動を行うことをも容認してくれた両親は、要するに自らの足で立てるようになることを、自分に望んでくれているのだろう。(正直生まれたときからそういうものだと思ってきたから考えたことは一度もないのだが、日舞の家元たる園田家の後継ぎという道を選ばずに歩く、ともし自分が言ったら、両親は、それはそれで応援してくれたかもしれない。)
 しかしさすがに親なだけはあるというか、両親のやりかたは海未自身の性格をみればこれ以上ないというほど適切だった。それはもういやというほど穂乃果あたりから聞かされているのでいい加減自覚しているが、自分はとにかく四角四面な生きかたしかできない。海未ちゃんそんなだとそのうち頭が立方体になっちゃうよ、っていや穂乃果、それはさすがにちょっと意味がわかりませんけれども。
 とにかくそういうふうだと、いっそ放任されているときのほうが、あれこれ指示されているときよりも、よけい神経質になってしまうものなのだ。
「他人の決めた規則に従うのが得意だと、自分でルールを決めるときの加減は案外わからなくて、気がついたら首を絞めてたりするわよね」
 どこか真に迫った呟きを漏らしていたのは絵里で、その隣でもう含みしかない笑みを浮かべていたのは希だった。一人暮らしの初日、広いからといってまさかの八人全員で押しかけてきた鍋パーティののち、わりと惨状を呈していたリビングを背中に並んで後片付けをしていたときのことだった。
「ラベルがよう見えとる、っていうんかなぁ」
 冷たくて気持ちいいのか(春にしてはなぜかやたらと暑い夜だった、人口密度のせいもあるのだろうが)、床に転がって寝ていた穂乃果や凛やにこの頬をぴしゃぴしゃ叩いて、ほらせっかく海未が準備してくれたんだから布団に寝なさい布団に、と絵里が言う。タオルケットを両手いっぱいに抱えた花陽を、きちんと九枚綺麗に詰められる敷き方を導き出したらしい真姫があれこれ手伝っている。
 冷蔵庫に寄りかかった希はそちらを見つめながら、けれどもとてもたしかに、海未に向かって話をしていた。そうとしか思えなかったし、思わせてもらえなかった。
「真面目な子って、そんな感じやんな。自分が真面目な子って周りから思われとるいうんも、ちゃんと真面目に受け止めるから」
 それほど高い期待値を示されたわけでもないのに、それほど重いものを持つよう言われたわけでもないのに、みずからが決めてしまったラベルにそぐわないことを、なによりも自分自身が善しとできない。
 だというのに、或いは玄関先で見送る両親の前で手を振ったあのとき、或いは穂乃果の涎を躍起になって拭き取っていた十歳のあのとき、また或いは今朝起きてアルバイトに出かけていったあのとき考えていたよりも、私はずっとただの私だ。真面目で善いと評価されることどころか、あたりまえに行き過ぎていかなければならないことにだって、いくつも躓いてしまっている。ヒールの高い靴を履くのはもう初めてなんかではないのに、歩きかたばかりがいつまで経ってもおぼつかない。
 二十歳になった私に宛てて私はどんな手紙を書いたのだろう。私は、どんな私を期待していたのだろう。気がつけば一年も通り過ぎてしまったなんてのんびり思うくらいには、大人とか成人とかいう言葉は、私自身にとってそれほどたいした意味がなかった。愕然とするひまもない。そうして、他人からのそれを勝手に憶測した、私自身が私に向ける期待値ばかりがどんどんどんどん高くなっていって、できないことばかりが積み上がる。積み上がる。
 どうしてもっと。きちんと生活すべきなのに。男の人とはいえ、食事に誘われたくらいで。そういえば明後日は大学の課題の提出日で。ここ一週間料理をしていない。忙しい。でももっと、もっとちゃんと。お母様は、なんと言われるだろう。「――そういえばあなたも懇意にしていた、ほら覚えていないかしら、卓郎君。彼ね、とっても逞しい男性になっていて、」
「……ん、ぅ」
 まっさかさまに落っこちる夢でも見たのか、自分でも驚くほどびくんと激しく身体を震わせた海未は、それでやっと、自分が机の上で眠っていたことに気がついた。それから化粧を落として着替えて、ふらふらとシャワールームへ向かったのは、午前二時を回ったころのことだ。

 考えておきたいと思ったことを考えすぎないようにできているとでもいうのか、いちどきに考えられる量をはるかに超えたものが生きるということにおいては常に降りかかってくるものだ。それはわかっている。でも、これはいくらなんだって、あんまりなのではなかろうか。
「……あんまりだと思います」
 だれも答えてくれないので自分で答えるしかない。そろそろ片手で抱えきれなくなった服をばさりと床に叩きつけたい衝動をどうにか堪えた海未は、とにかく息を吸った。脳に酸素がほしかったというか、休息が欲しかったというか、有り体に言えば落ち着きたかった。
 落ちつくのです園田海未、木鶏たれ。こういうときはとにかく時系列をたどっていくに限る。とにかくシャワーを浴びた。気持ち良かった。はいよし次。頭を拭きながら外に出た、ら、なにかに躓いた。そうです悲鳴を上げなかったのが幸いです。躓いたものをなにかとよく見てみたら、レースのブラジャーだった。しかもどう見ても自分のものではない、身もふたもない言い方をすればおよそCカップ以上の人に合わせてつくられたもの。もう本当によく悲鳴上げませんでしたね私。ついでによく泣きませんでしたね私。
 そしてブラジャーに引き続きジャケット二枚、マキシスカート、キャミソール、二―ソックスと玄関からリビングに至るまで点々と服の足跡は続き、いい加減それだけのヒントを与えられればいったいなにがどうなってそうなったのか海未にもほとんど予想ができていて、ただそれがあまりにもひどい内容だったからできれば的外れであってほしかったのだが。
 良く言えば片付いている、遠慮なく言えば単純に物が少ないリビングの真ん中にでんと置かれた、みょうに目立つクリーム色の大きなソファの上、人影一人。その傍らに、蓋の半分開いた大きなトランクひとつ、鍔広の白い帽子がひとつ。
 あゝ人生とは、かくも悪い予感でできている。
「あ、海未ちゃんだぁ。えへへ、久しぶりー」
「ことり……」
 叩きつけたいという願望を実行に移したわけでもないのに、結果的に海未の拾い集めてきたことりの服の行き先は床になってしまった。というのも、うっかり脱力しきった海未の膝は風呂上りの身体と衣類十数枚を支えることができず、気がつけばフローリングの上にぺたんと座り込んでいたからだ。
 手から次々とすべり落ちていったふわふわと飾り立てられた布の数々からは、あまりなじみのない匂いと、ひどくなつかしい匂いの両方が香っている。濃く感じられるのはどちらかなどと、そんなことまで考えているキャパシティなんて、とうに残っていないけれど。
「はーもう、びっくりだよ。日本の気候、いったいどうなっちゃってるの? 飛行機、もう見るたび変わってるんじゃないかっていうくらいに出発時間が遅れに遅れてね、CAさんもかなりうんざりしてたんだから。到着予定ってほんとは二十一時だったんだよ、信じられる?」
「いえ、まあ……あの、それは、災難でしたね」
「もー、せっかく久々に取れたお休みなのに。災難どころじゃないよぅ」
 その台詞をリボンで括って砲丸投げスタイルで投げ返してやりたいのはやまやまだし、そもそも二十一時にこちらに着くという予定すら、まず聞かされていないのだけれど。でもそんなのは、ソファの上でつーかーれーたーとあたたまったチーズみたいな声で叫びながら足をじたばたさせていることりにはただの大暴投ですらなくて、きっとなんの関わりもないことになってしまうのだろう。
 どんなに信じがたいことでも、二年続けばただの現実だ。慣れてはいけないことなのだとどんなに戒めてみても、世界を飛び回っているはずのことりがこうして突然ふらりと現れるのはもう何回目だか数えるのもばかばかしくなっている。ふだんはちぐはぐでどこか居心地の悪そうな大きいソファも、ことりの指定席という役目をはたしている今は、ふしぎと部屋になじんでみえた。生活の色を帯びて見えた。
「まったく。ミセス・エマーソンには? ちゃんと話してきたのですか?」
「んん……海未ちゃんは、私のお母さんなの?」
「違います!」
 だったらそんなこと言わないでよなどとこしゃくにも頬をふくらませつつ手足のじたばたをやめないことりだが、このあいだはたしかそれでちょっとした騒動になったのだ。
 高校時代にイギリス留学の機会は逸したものの、二年間の専門学校での勉強ののち、母親のつてもあってめでたくミセス・タニア・エマーソンという師を得たことりは、世界で活躍する彼女の元で服飾について学ぶ日々を過ごしている。たいへん着実に才能を開花させつつある彼女にミセス・エマーソンは非常に期待しているようで、かの有名ブランドに彼女の名前が挙がるのもそう遠くはないことなのかもしれない。
 と、ここまでなら非常に順調で優秀といってもいいのかもしれないが、問題はそれとはまたべつのところにある。
「そうではなくて、また心配させてしまうでしょう」
「だぁってタニアさんたら、帰るっていったら日本にまできっとついてきちゃうよ」
「そのくらいことりのことを大切に思っているんですよ」
 そう、ミセス・エマーソンはとにかくことりのことを可愛がっている。年齢もぴったりそのくらいだからなのか、もはやあれは第二の母親といっても過言ではない。そうだというのに彼女ときたら、休暇のたびにこうしてトランクひとつきり持ってはふらりと日本に発ってしまうというのだから驚きだ。まあ一応休暇なのだから自由といえば自由なのだろうが、いくら才能があるとはいえ、そのそっけなさで破門にならないのがかなりふしぎだった。
 といって、このあいだなんとわざわざ日本にまで迎えに来てしまったミセス・エマーソンは、ことりの顔をみるなりそれまでのことがどうでもよくなってしまっていたみたいだけれど。なんというか、事件の中心であることりがあまりにもいつもどおりなので、いつしか事件は事件でなくなってしまうのだ。ことりの平穏さに巻き込まれてしまう。彼女にはどこか、そういうところがあると思う。
「下手に細切れに連絡取っちゃうからよけい不安にさせちゃうのかなと思って、今回は携帯を書置きの文鎮にしてきました」
「意味がわかりませんよ!? それにことり、あなた、こちらでの他の連絡なんかはどうするんです!」
「それはぁ、ほら、海未ちゃんがいるじゃない?」
「私はあなたの携帯電話なんですか!?」
「違うよー。海未ちゃんたら、こんな時間に怒鳴らないの」
 非常識なことをしながら常識的なことを口にされることがこんなに頭にくるとは思わなかった。たしかに言われた通り、午前二時四十五分、言い争いにはまったく向かない時間である。しかしここで引いてはいけない、責め続けなければいけないのだ。なぜなら。
「ちゃんとわかってるよ、海未ちゃんはお母さんでも携帯電話でもありません」
「……いえ、というかそもそもそういう話ではなくて、」
「海未ちゃんは、私のこいびとです」
 なぜならこういうことになるから。
 そう言ってまったく必殺に微笑む彼女の放ったものものは、どんなにあばれたところで無意味なのだと一瞬で諭らされる無敵のやわらかさを以て、こっちをまるごと包み込んでくる。往生際わるくぱくりと口を動かしてみるも、零れたのはかなしいことにのどがひりつくほど熱い、ひとつかみほどの吐息ばかりだった。そんなのでは絶対ないのに、ないはずなのに、まるで睦言を交わしたあとみたいに。
 ことりはふんわりとまろく笑んだまま、外国の匂いと残り香のなかにぺたんと座ったままの海未に向けて、ひらりと手を伸ばす。海未ちゃん、髪、濡れてる、きれい。彼女が私をたたきのめしてしまうのに、必要な言葉はあまりにもすくない。叫びだしたいほど不公平なことだが。
「悪いとは思うんだけど。でも、邪魔されたくないんだもん、だれにも」
 特にこういうとき最低のタイミングで鳴る着信音なんかには、絶対に。いっそ邪悪なほどかわいらしくくすくすと綻んだことりがおとがいを持ち上げると、あんなに重たくなっていたはずの膝は、おそろしく素直に立ち上がった。
 そして立ち上がったままソファに座る彼女とキスをしてしまえば、もうどちらが唇を寄せてしまったのだかすら、すぐにわからなくなる。
「あ。ねえ、海未ちゃん、そういえば私、まだ言われてないなー」
 先にキスしちゃったねとくすくす笑う彼女には、ともかく、そういうところがあって。
 そうだ私学校卒業したら弟子入りして世界を巡るんだと話をされたのは、指がふやけるほど愛し合った朝のシーツの上でだった。実は合鍵を作っておいたのですと言われたのは、さすがに我慢できず悲鳴を上げて隣人から壁を叩かれた彼女の帰省一回目のことだった。ねえうみちゃんあいしてるよと囁かれるのは、きまってまったく別の事で海未があれこれ頭を悩ましているときだった。
「……おかえりなさい、ことり」
「うん。ただいま、海未ちゃん」
 それらすべてを、やわらかなやわらかな笑みで包んでしまって、だれかがみたら目を丸くするどころではないであろう日々が、まるであたりまえみたいに続いていってしまう。
 どんなにうまくいっていないことでも、どんなにいびつなことでも、どんなにきちんとしていないことでも、全部ひっくるめて、とりあえず転がしてしまう。
 彼女には――そういう、力がある。
「海未ちゃん、明日の予定は?」
「明後日提出しなければいけない課題をやる予定が、一日中びっしりですね」
「ええ、そんなぁ。十二時間半かけて帰ってきたことりのために裂ける時間は?」
「おおむね二時間といったところでしょうか」
「……なんか時間設定が生々しい。海未ちゃんのエッチ」
「そっ、そ、そういう意味で言ったのではありません!」
「そういうのって焦るとよけいに墓穴だよ? 真姫ちゃんから習わなかったの?」
「真姫が聞いたら怒りますよ!?」
 べつになにひとつうまくいっているわけではないし、できないことは山積みだし、しなければならないことも山積みだ。お母様には明日になったら電話を入れておかなければならないだろう、バイト先で伊瀬先生と顔を合わせたときの応対も考えなければならないだろう、どうも順調にやらせてもらえそうにない課題を片付ける方法も、考えなければならないだろう。それらすべてをうまく片付けられるということも、きっとない。
 それらすべて、うまく歩けもしないまま、いびつな形のまま、ただがたがたと日々を転がってゆく。
「っていうか、そう、そうだよ海未ちゃん。実は私、たいへんお腹が空いています」
「……は?」
「だってほら、今午前三時でしょ? 私がいたフランス時間だと十九時だよ。ぴったりお夕飯時間だよ」
 おやつの時間も通り過ぎて! などと悲劇的に言ってみせることりに、海未は思わず笑ってしまった。笑ってしまってから、ああやってしまったなと思う。ことりに対するとき、笑ってしまったらもうそれはただの私の惨敗なのだ。
「そうですね……と言いましても、ちょっと食材を切らしているんですよね」
「あ、それは冷蔵庫見て思った。海未ちゃん、ちゃんとご飯食べてるの? そういえば少し痩せた? 私夢みたいにおいしいシュークリーム貰ってきて冷やしてるから、食べる?」
「……またショーンからの贈り物ですか?」
「ううん、今回はダミアン……あれ、レオナール? んん、とにかくおいしいよ! あのねえ、パイ生地を混ぜ込んで作ってあるから、さくさくーっとしててもう食感がさいっこーなの」
 多分に食べたときのことを思い返しているのであろうことりの表情がとろとろになる。これを直視してはいけないのだと、海未は即座にキッチンへ向かうことにする。彼女のあれの魅力に参る男性は世界各地にいるようだし、正直いつ自分がその仲間入りを果たしてしまうかおそろしいのだけれど、正直彼女のお菓子への欲求の無尽蔵さのほうが怖い。ことりのおやつは破滅の呪文だということを、μ’sの一員なら全員が知っている。もう四年前のことになるとはいえ、ケーキバイキングの悪夢事件は、未だ鮮烈な記憶なのだ。
 だからあれにほだされてあれこれ買ってくると、まず間違いなくこちらの財布が先にやられる。うむ、とひとり頷き決意を新たにした海未だが、お腹が空いたと鳴く彼女を背にしてキッチンに向かっているというのは、もしやたいして変わらない状況なのだろうか。いやそんなことはありませんこれはごはんであっておやつでは、
「あ。そだ海未ちゃん、パスタ麺はある?」
「はい!? あ、ああ、一応それなら……」
 言い訳じみていると気がつく前にことりが声をかけてくれて、実のところすこし助かった海未だった。
 たたっと隣に寄ってきたことりは、パスタ麺をゆでるための鍋を棚から下ろしている海未を横目で見上げて、さらに尋ねてくる。
「よーし。それじゃ、オリーブオイルは?」
「それも。調味料は揃っています」
「なるほどなるほど。じゃあチューブにんにくなんかも?」
「よくわかりましたね、あります」
「あとちょっと! 唐辛子粉末は……!」
「それはさすがに……あ、いえ、そういえば希がこのあいだ買いすぎたから置いていくなんておかしなことを言って置いていったのが、棚に……?」
「……希ちゃんってあいかわらずなんだかすごい」
 あのひとはアイドルでなかったらその道の有名人になれたのではなかろうか。そんな共通認識をうっかり確認してしまいつつも、ことりは海未の肩をぽんと満足げに叩いた。
「まあ、とにかくっ! 海未ちゃんやったね、それだけあれば、ペペロンチーノが作れるよ!」
「……あ。そういえば、そうですね」
 作れと、という疑問を浮かべるべきところであると気がついたのは、ことりはすごいですねと褒めてしまったあとのことだ。即座に叱らなければなぜ叱られたのかわからなくなってしまいますと、ペットの躾けかた読本にも書いてあったというのに。
「海未ちゃん、なんか失礼なこと考えてない……?」
「いえいえ、そんなことは。」
 鍋にたっぷり水を入れて、コンロに火をつける。そういえば久しく元栓すら開けていなかったコンロだが、ありがたいことに調子を悪くはしていなかったようで、チチチと三度の音ののち、きちんと青い火が灯ってくれた。すこし迷ったが仕方ない、そこまでの騒音ではないことを祈りつつ、換気扇のスイッチを入れる。
 ふぅんまあいいけど、と言ったことりは、まあよくなかったらしく、おそらくは報復のつもりで首にくるりと腕を回してきた。そのまま背中にぺったりとくっつくようにぶら下がってくる。ことり苦しいですよというとりあえず口に出してみたみたいな言葉と、うみちゃんのじゃまー、というすこしも悪びれていない、微笑みのついでの一言と。きっとこのまま、もとより振り解くべきだということを、私は、忘れてしまうのだ。
「そういえばね、タニアさんから聞いたんだけど」
「はい?」
「ペペロンチーノって、絶望のパスタっていうんだって。なんだっけ、こういうふうにぜんぜん食材の無い絶望的状況でも、とりあえず作って食べられるから、みたいな」
 うまくいかなくても、いびつでも、ちっとも歩いてゆけなくても。
 毎日がたがた転がって、私はこの彼女と、どうやらどうにか、生きて、ゆくのだ。

 拝啓、私へ。
 そっちはうまくやっていますか。
 こっちはちっともうまくいきません。
 そっちはどうですか。
 きっとそっちも、そうでしょうね。
 それも、案外悪くないものですが。

「ねえ、海未ちゃん」
「はい?」
「食べたら、歯磨いてうがいして、それからたくさんキスしようね」

 深夜にオリーブオイルの弾ける音は、ことのほかやさしくて、またすこし笑えた。

inserted by FC2 system