「じゃんけんをすると、なぜだかいつもあいこなの」                     

    

「じゃんけんをすると、なぜだかいつもあいこなの」




 閉塞や停滞というのは、覚悟していたよりもずっとさわやかで快い手ざわりをしていて、だからこそ絶望的に思える。

 帰り道に雨が降った。
 天気雨だった。
「……ことり、傘、とかって」
「ごめん、もってない」
「そうですよね、私もです……通り雨でしょうから、しばらくすれば止むと思うのですが」
 ことりたちがそれにぶち当たったのは帰りの電車を降りて改札をくぐったちょうどそのときのことで、まだ屋外に出てはいなかったという点では幸運だったけれど、さまざまなひとびとの行きかう休日昼間の駅構内にゆるく閉じこめられてしまったという点では、大いに不幸だった。なぜって、海未と一緒にいるとき――もっといえば、彼女とふたりでいるとき、たとえばこんなふうにぶつかりそうなほどたくさんひとのいるところにいるのが、ことりはとても苦手だった。
 ずっとひとごみが苦手だったなんてことはないのに、どうも、そういうふうに作り変えられてしまったらしい。彼女が、海未が隣にいる、わたしのとなりにいる。たったそれだけで、目にうつる、あるいはぶよぶよとした体温の膜のようなものをへだてて感じる、他人という物体が、いっぺんに醜悪でおそろしいものにでも変わってしまったかのよう。
「雨足が、強まってきましたね」
 降り注ぐ陽射しからは考えられないほど大粒の雫がひっきりなりにアスファルトを叩き散らし、けぶる外を見つめながら海未がぽつりとつぶやく。ことりはちいさく頷いたけれど、海未に見えたかどうかは、よくわからない。
 同じ背の高さであるはずなのに、並び立っている海未の目線は、自分よりもずっと高い位置にあるようだった。そしてそれは自分がうつむいているせいだと、ことりはよくわかっている。
 でもそういうふうにしかいられないのだ。わたしは、そういうふうに、できてしまったから。意を決したかのように鞄を頭にかぶって走り出したサラリーマンの足が、ことりが右手に提げている紙袋をかるくけとばしていく。たったそれだけでも、すこしよろめきそうになる。こういったときの他人との接触に、ことりはあまりにも弱い。
「ことり」
 なまえをよばれた。だからほかの音なんてもういらない。
 かたをだかれた。だからほかの感触なんてもういらない。
 もうみんなみんないなくなってしまえばよいのだ、かれらのすべてが砂のようにあっけなく崩れて消えてしまって、たしかなものが彼女とわたしだけになってしまえばよい。少なくとも今のわたしにとってはそうとしか感じられないしそうとしか感じたくもないのだ、あなた以外たしかなものなどどうして必要なことがあるだろう。わたしにはちっともわからない。
 そういうことを、そういう、通り過ぎてみれば残酷さに自分でも辟易してしまうようなことを、どうしようもなく、いくらだって考えてしまう。
 だから、ことりは海未とふたりでいるとき、ひとごみがとても、とても、苦手になる。
「大丈夫ですか?」
「うん、へいきだよ、海未ちゃん」
 とはいえ海未の声の静穏さは行為の自然さばかりをありありと示していて、だからことりは、すこしやりきれなくなる。
 女の子にたいしてその形容がただしいのかどうかはわからないが、たいいへんに紳士的である海未にとっては、あぶなっかしい自分のことを支えてくれるなどとはこれといった意識を必要としないことなのだろう。それはつまり隣に並び立っているのが同じく危なっかしい子、たとえばどうもふらふらするくせのある穂乃果なんかだろうか、そういった子であれば、海未は迷いなく同じことをするということにほかならない。
 無遠慮なざわめきが耳に引っかかる。これからどうしようかということにばかり真剣になっているのか、海未の口数はいつもよりずっと少ない。ただ右肩におかれた、ことりのそれよりも少しく長い指を持つ手だけがしんしんとあたたかい。
「疲れてしまいましたか? それ、持ちますよ」
「大丈夫だってば。女の子に荷物持ちなんてさせられないよ」
「でも」
「いいの。お買い物、したいって誘ったのもわたしだし」
 海未ちゃんはとてもやさしい。わたしを、いつか殺してしまいそうなくらいに。
 ひとごみとふたりのあいだでゆらぐ思考の帰結点としてはありふれている、なんだか破滅的な気分のなかに、ことりはゆっくり沈んでいく。青く薄暗い視界、指先がひどくつめたい。
 わたしには、あなたしかいないけれど。あなたには、わたしでなくてもよいのでしょう。わたしにとっていくらそうでも、あなたにとってたしかなものは、きっとわたしではない。世の中にありふれたすれ違いのひとつで、それがこんなにむなしいのだ。
 雨足はいまだ強いままだった。
「海未ちゃん、」
 そのとき、なにを話そうとして口を開いたのか、ことりはもう思い出せない。
 海未のほうがふらっとよろめいた。彼女はひとことも声を上げなかったけれど、そのほうがずっとできごとが目についてしまうことだってある。しらない制服の女の子たち。揃いの肩掛け鞄を、だけどめいめい違ったやりかたで持っていた。それでも彼女たちがばらばらに見えなかったのは、肩紐のところにとりつけていた揃いのクマのキーホルダーが、同じかわいらしさをしているからだろう。
 ぶつかったのはその子だったのかはよくわからないが、ごめんなさーい、と間延びした謝罪が海未にむかって一応発せられていた。くっついたりはなれたりとふらふら歩いてゆき、そうして、三人組だった彼女たちのなかでも、いっとう元気そうなクマをつけた子が外を見て、うひゃあとすこし大仰に声を上げる。雨になってるじゃん。晴れてるのに。
「なにあんた、しらないの? 天気雨ってゆーんだよ、こういうの」
「げー、なにそれ、きもちわるっ」
 かしましくそんなやりとりを交わしていった彼女たちは、陽の照りながら雨の降るなかをたっと駆けていった。元気そうな子のふみつけた水たまりが、ぱしゃっと水を散らす。それはおどろくほど澄んでみえた。
「……ことり?」
 海未と出かけた帰り道に、雨が降った。
 天気雨だった。
「かえろう」
「えっ? ちょっと、ことり」
「帰ろう、海未ちゃん!」
「ちょ、待ってください、ことりっ!」
 空が平等に世界の色を作るものなのだとしたら、こんなに気持ち悪い天気の下では、きっともうなにもかも間違っている。そのせいでわたしたち、ああ、またやってしまったんだ。
 迷子になるにも、間違ってしまうにも、ひどくぴったりな空のした。雨が止むのを待つことなく、ことりは海未の手を引いて走り出した。さっきまでの破壊的な気持ちがうそみたいに、笑いだしてしまいそうなほどすがすがしい気分だった。
 つめたい雫が腕をひっきりなしに伝っていく。繋いだ手のあいだにぺったりとしみこんで、隙間をなくしてゆく。
 もっと濡れてしまえば、わたしたち、ひとつになれるだろうか。救いようのない考えが水たまりにうつって、軽やかにふみつけたら、ぱしゃんとさわやかな音が跳ねた。

 通り雨にしては止むのが遅かったから、海未のくちびるはつめたくしめっていた。
「っ、こと、り」
「おかあさんはね」
「は……? っん、」
「きょう、遅くなるんだって」
 でもそれがちいさくふるえているのは、からだの寒さのせいではないのだろう。きっと。濡れた髪を額と額のあいだでざらつかせるほどくっついて、ことりはそんなことを考えている。足もとですっかりほったらかしになったびしょ濡れの紙袋がついには破れて、中身が見慣れたカーペットのうえに倒れた。
 ことりの部屋は、ほかでもない持ち主の手によって、甘い匂いでいつも満たされている。無邪気な子犬のように鼻をひくひくさせていた穂乃果がたのしそうにそれを指摘したのは、もう数週間ほど前のことになるのだが、いまもそれは連綿と続いていた。チェストのうえにちょこんと置かれたポプリは、みずからの役割をとても勤勉にはたしてくれている。
「海未ちゃん」
 ならんでベッドに腰掛けたまま、やわらかい実をそうっとつぶすときのように口づけをくりかえして、位置をゆっくりとずらしていく。唇のはし。冷えた頬。整いきった線を描く、細いおとがいに沿って。
 ことりの肩のあたりでずっとさまよっていた海未の両こぶしが、そうしているあいだにだんだんとほどかれていく。意識的になのか偶然になのかはわからないが、彼女の指先がことりの鎖骨をしずかに撫でて、それはことりがあと半歩の勢いでもって海未に密着してしまうのに、十二分な昂ぶりをあたえた。
 二人して身体はこんなに冷えているのに、ぴったりくっつくと生ぬるい温度がはっきりとあたたかいのは、まったくもって救われないことだと思った。どうでもいいけれど。ほんとうにどうでもいいけれど。雨のようにあちこちキスをしながら、それこそ犬みたいに、ことりは海未の首筋に鼻先をこすりつける。からだの形が変わってしまうほど、息を。
 息を。
「海未ちゃん、」
「っ、あの、ことり?」
「なあに?」
「すこし……その、くすぐったい、です」
「でも、いい匂いなの」
「いい匂い?」
「うん」
 たとえ結果がわかっていたとしても、行われるべき勝負というのがあるのだ。それはどこか儀式に似ていて、そしてとても必要なことだった。たとえばことりにとっては、甘い匂いで部屋をいっぱいにしておくというのがそうだ。
「海未ちゃん、とってもいい匂い。あまくて、ほっとする」
 なにもかもすべてあなたのもつものには敵いやしないのだということを、もっと確かなものにするために、わたしたちにはそういうくだらない儀式が、いつだって必要なのだ。
「……それ、は」
「んー?」
「ことりのほうが、いい匂い、ですよ。その、甘くて」
「ほんと? うれしい」
 くすくす笑ってこたえると、むずがった海未がわずかに身体をぴくりとさせたのがわかった。ほんとうにそうだったらいいのにと思う。彼女にとってのわたしが砂糖菓子のようであれば。見るからにかわいらしく、とっても甘い匂いがして、繊細に取り扱われるべきもので。――そして最後には、ほったらかしになるんでしょう?
 あどけなくつかまえるように、或いはそっと縋りつくように、ことりは海未の長細い首に腕をくるりと回した。こんなにお互いびしょ濡れだと、服がその役割をすっかり放棄してしまっているようにも思えるのだけれど、そうであるにしても直接触れ合う肌のぬめりは格別だった。
 目が合う。くふっと笑う。そうすると、彼女のうちですっかり義務化してしまっているのだろうか、大人びた憂いか戸惑いかを目もとや口もとに滲ませながらも、海未は淡く笑んでくれる。それがとてもすてきだと思う。くふふ、と、笑いがとまらなくなる。
 細い両肩をふるわせて、ことりはわらっている。
「ねえ、海未ちゃん」
「……はい?」
「今日は、ちゃんと痛くしてくれる?」
 とめて。ねえお願い。
 わたしのふるえを、とめて。
 それはあなたにしかできないの、と、ちゃんと言えたならよかったのにって、たまにだけれど、考える。

 まるでいつものように海未は何も答えなかったけれど、まるでいつものように今度は海未のほうからキスをくれた。はじめは。とても彼女らしいと思える律義な回数を重ねたのち、ゆっくりと中へ押し入ってくる温度を感じながら、ことりはぼんやり思い出していた。はじめは、そうしてわたしがどうしようもなくふるえる指先で襟のボタンに手をかけたときですら、どうしたらいいか迷っていたようであったのに。
 慣れるにはじゅうぶんすぎる機会を彼女にあたえてしまっているほうとしては、そういう言いかたはずるいのかもしれなかった。いや、そもそも、思い出しかたの時点からずるいのかもしれない。だってあのときは、わたしが先に泣いてしまったから。だから海未ちゃんはキスをする以外になかったのだ、それだけでしかなかったのに。
「っふ、ん」
 とろりとろりとゆるやかに舌先をこねあわせて、飴でもつくっているみたいだ。それだけでなかったにしても、最初のときからずっと、酸素が足りなくなるのはことりのほうが早い。単純に普段の運動量のちがいなのかもしれないが、最初のときからずっと、それは少しくことりのことを安心させる。いのちに関わることをしぼりとられるまで行為をあたえられるというのは、とても心地の良いことなのだ。少なくとも、ことりにとっては。
 それでもたまらなくなってことりがふ、とくるしい息を漏らすと、海未ははっと気がついてあわてたように身を引く。
「っご、ごめんなさい、ことり」
「いいよ。へいきだよ」
 海未ちゃんはやっぱり、やさしい。
 だから。ことりはねえそれよりも、と、熱に熟れた舌先をちょこっとだけのぞかせる。
「もっと、しよ、海未ちゃん」
 うみちゃん。くりかえし名前を呼ぶと、それがなにかの命令になったみたいに、海未はまたことりのなかへともぐりこむ。それなのに息ができなくなって溺れていくのはことりのほうだった。彼女の名前には敵わない。しおからい水なんかよりもずっと深く深く浸してくるそれらを、けれどもみずからの意思で以て必死になったように舐めとって、ことりはどんどん溺れていく。
 同じ音をしているのに、雨とはまったくちがう淫猥なねばりを持った水が、湿った唇と唇のあいだ、おどろくほどのんびりとこぼれて落ちてゆく。人差し指で掬いとる。なんてつめたいのだろう。あんなに熱かったのに。
 なんだかものさびしくなって、浅い呼吸をしながら、海未のほうを見上げた。彼女は既に立ち上がって、ベッドに腰掛けたままのことりと向かい合っていた。流れ落ちている艶やかな黒髪の毛先が、ことりの身体をちょっとだけくすぐっている。そのうち跪きそうな姿勢だな、と思った。それってとっても見てみたいな、とも。
 服がひどく濡れてしまっているせいで、彼女はことりの着ているシャツを脱がせるのにおおいに手間取っているらしい。ことりと目が合ったとたん、ばつが悪そうに視線を叩き落したのがいい証拠だった。
「ちょっと待ってね」
 くすりと笑ってそう言うと、海未の肩が大仰に跳ねる。そんなにびっくりしなくてもいいのに。しかしどんなときでも顔をのぞかせる、彼女のそういうはにかみかたは、掛け値なしに愛らしいと思えた。わたしが彼女に対して持っている感情のうちで純粋とよべるものがあるとしたら、ぎりぎりそれひとつが残るくらいには。
 そんなことを考えながら、ことりは海未がしていたよりもだいぶ乱暴にひっぱって、シャツの袖から腕を抜いた。ベッドの隅に放り投げるところまできちんと雑に取り繕ってやったら、案の定海未が目をぱちくりさせていた。おかしかった。
「ひ、くしゅっ」
「あ、だ、大丈夫ですか? 寒い?」
「うーん……ねえ、海未ちゃんがロマンチストなのは、わたしもうなんとなくしってるんだけど」
「はい?」
「そういうことまで言わせるっていうのは、あんまり感心しないなぁ」
「……は?」
「こういうときはね。人肌であっためるのがいちばんいいって、いうでしょう?」
 なにもかも忘れてしまえそうなほどばかばかしいやり取りに、ことりは爽快な笑い声をころころと立てる。困惑しているようでも頬をかあっと染める彼女のことがほんとうに愛らしいと思う。ただ、そろそろ純粋だなんて呼べなくなってきたのだけれど。
 下着姿を惜しげなく晒したことりは、そこからするとちょっと不似合いに下半身を包んでいるフレアスカートが、ふわっと舞い上がるほど元気に足をばたつかせる。そのままの幼さで、向かいに突っ立ってしまっていた海未へと両手を広げた。さあ、あっためてみせて。
 拗ねたようにかるく唇をとがらせて、それをそのまま押し付けるように、キスからもう一度始める彼女のきまじめさが、やっぱりとても愛おしかった。純粋という言葉からはほど遠そうなものが、また頭を浸していく。
「んっ、ぁ」
 愛を以て撫でるだなんて、欲情を示す行為に対して、どうしてそんなどろどろにやさしい名前がついているのだろう。それはなんだか理屈にあわないと思ってはいても、身体を這う海未の手が然るべきところに触れると、お腹の底でうねる熱に、すごくくらくらしてしまう。たっぷりと練られたそれらが皮下を好き勝手に走り回って、泡立たせていく。
 下着はシャツよりかはずっと簡単にうまくいった。「海未ちゃん、キスして」つんと起ったそこを外気に撫でられて、もどかしくて、われながら堪えがたい声だとわかっていながら、ことりは絞り出すようにいう。「ここに、キス、して」だまって一度ことりを見つめた海未は、はっとするほど綺麗な睫を静かに伏せて、熱でぱんぱんに張りつめたことりの肌のうえに、ゆっくりと唇をすべらせた。
 海未の触れかたのくせは、初めのときから変わっていない。とにかく丁寧、もどかしいほどに丁寧。かたちを確かめるように、もしくは全部をやさしく包むように、たっぷりと撫でる。そうしているうちに「いいところ」をみつけると、ことりの反応を執拗なくらい伺いながら、そこに触れてゆく。
「う、みちゃ……んっ、あ、ぁ」
 彼女はいつもそうして、ことりのことを満足させようとしている。わたしが、そういうふうに求めたから。海未ちゃん、やさしい海未ちゃん、わたしにきもちいいことをしてください、たくさんたくさんしてくださいって、いったから。
 だから海未ちゃんはわたしに、きもちいいことをする。きもちいいことだけをする。舌のやわらかなざらつきが、いやらしい神経の寄り集まった先っぽをちろちろとくすぐる。とても丁重に切り揃えられた爪が、ひっかくというにはあまりにも甘やかな刺激をあたえてくる。
「ふ、んぁっ……うみちゃ、んっ、うみちゃん、うみちゃ、ぁっ」
「ことり……」
「ん、っ……!」
 海未ちゃんの声はずるい。さざ波のように静穏なのに、芯まで響かせる強さも誠実に持ち合わせているから、ほんとうにずるい。声っていうだけでもずるいのに、距離がこんなにも近いと、吐息までもがあちこちの神経をざわめかせるようにゆさぶってくるから、まったくもってずるいとしかいいようがない。「うみちゃん、うみちゃん、うみちゃん」もっと強く吸っていいのに。応えてはもらえないまま、彼女の手が、下へ、下へ、のびていく。お腹の下あたりが、きゅうっと切なく啼いた。
 頭のなかがくしゃくしゃとだらしないスポンジにでもなってしまったみたい。浸されて浸されてもう吸いきれないくらいで、とうとうこぼれだす。それはたとえば目の端から勝手に流れていった滴で、うわごとに近いものを奏で続ける唇から落ちた唾液で、そして、どうしようもなく擦り合わせた腿のあたりをねばつかせる液体だった。
「っ、みちゃ、もっ……! ぁ、はやく、っ」
 しかしいくらばか丁寧にしたってそれはやりすぎなんじゃあないかと、いつまで経っても焦がれたところに触れてくれない海未にことりがしびれを切らして声を上げると、彼女の手はふと止まった。まったく真逆の海未の行動に真意をはかりかねていると、海未は非常にもごもごと口を開く。
「ええ、と、ことり」
「な、なに……?」
「ちょっと、あの……立って、もらえませんか?」
 ――そういえば、脱がせ辛いんだっけ。
 それにしたって彼女は、向かい合っている人間は感情が伝播しやすく、同じ表情をしがちなのだということをしらないのだろうか。先月のテストでも理事長の娘である自分よりずっと誇るべき点数を叩き出していたくせに。
「ことり、真っ赤ですね?」
「…………」
「ごめんなさい、あの……ちょっと、かわいい、です」
「海未ちゃんうるさいです」
「ご、ごめんなさい」
 などと悪態をつきたい気分なのは、どう考えてもことりが海未と同じくばつが悪い気持ちでいっぱいだったからで、そのくせ海未はこうなのだった。
 それにしても、ある程度まぬけなやり取りを交わしたとはいえ、ひりひりと燃えていた熱はちっとも収まってなどいなくて、だというのにこの状態で立てというのはなかなか酷な願いだった。「海未ちゃん、もっとこっち」手招きをして、ぼさっとしていた海未を呼ぶ。膝で歩いてきた彼女の肩につかまって、なんとか身体を持ち上げる。
 思いっきり泳ぎ疲れでもしたみたいに、だいぶあちこち接続がおかしくなっている身体は、ぶよぶよと重たくて、膝立ちくらいがやっとだった。
「っ……」
「ことり? ……やっぱり、つらいですか?」
「……そりゃ、そだよ」
 ばか、とおまけに付け加えてやると、海未は一瞬思案顔になる。もっとも、やっぱり頭の回転は速いのか、そうしていたのはほんのわずかなあいだのことだった。
「わかりました、それじゃあ」
 ただ、だからといって彼女の出した答えが十全であったかといえば、どうなのだろう、わからないが。
「私も、支えますから。ちょっと待ってくださいね」
「へ? え、でも……あ、」
 やけに耳にこびりつく音を残して、海未がスカートのチャックを手早く下ろした。濡れて重たくなった生地ごと重力にひっぱられて、淡いグレーのフレアスカートがあっけなくシーツの上に落下する。ベッドに軽く沈みこんでいる膝のあたりに、スカートに残ったぬるい温度が触れて、腰から下は一気に寒くなった。ショーツをはりつかせている雨でない湿りは、つめたさの感じかたも、なんとなしにねっとりしている。
 そして海未は、言葉どおりに両手をことりの身体にそえてくれた。脇の下あたりに手を置いて、しっかり支えてくれている、のだろうけれども、それならこれからどうするのだろう。彼女の両手は塞がってしまったのに。
 まさか脱がせないままでっていうんじゃないかな、などといったおよそ考えうる悪い展開を、ことりは一応いくつか思い浮かべておいたのだけれど、海未がそれからしたことはそのどれとも違っていて、ある意味でそのどれをもおおいに凌駕していた。
「や、う、うみちゃん、っ……!」
 ず、とぎこちない感触が、お尻のあたりにひっかかる。咥えられていた。ショーツを。咥えて、たどたどしくひっぱって、下ろされていた。両手がつかえない。でもこのまま下着をよごしてしまうのは善くないことだ。彼女らしいたいへん生真面目な思考の軌跡のみてとれるそれが弾き出した答えは、それだった。
 キスをされた、と勘違いしたへその下が、多幸感にふるえる。なさけない話ではあるが、たしかに支えられなければもう立っていられなかっただろう。けれどもこの状況をつくりだしたのが、ほかでもない海未に両手を使って支えられているということなのだから、わけがわからなかった。する、する、と断続的にゴムがひっかかって、痴態を忘れさせてくれない。見下ろしているせいかへんに幼く見える海未の瞳だけが、場違いにかわいらしかった。
 する。する。する。もどかしいくらいかすかに、ひくつくそこを外気が撫ぜる。けれども突然海未の吐息にふっとくすぐられると、自分でもびっくりするくらい昂ぶった声が漏れた。
「んぅ、ゃ、ぁっ……!」
「っ、ことり……」
「ふぁ……うみ、ちゃ、……っ、んんっ!」
 もう、だめ。
 支えられていたとしたって身体を起こしていられなくなって、跪いている海未の頭に覆いかぶさるような格好で、ことりは体重を思いっきり彼女にあずけた。それだのにちっとも体幹が揺らがないというのは、きっととてもすごいことなのだろう。すごくやさしいことなのだろう。
 ことりがそうして全身で海未につかまったことによって、結果的に海未の手はいくらか自由になった。彼女の手はためらいがちに伸びてきたのに、聞こえた音は、目を覆いたくなるほど欲とか焦れとか懇願とかにぐちゃぐちゃにまみれていた。しかしどうであれ、ことりの身体はもうどうしようもなく、海未のことを咥えこむ準備ができている。
「ことり、」
「うん……っ、ぅん、きて、うみちゃん」
 入り口のあたりでとろとろと手間取っている時間がいつもよりずっと短かったのは、頭におしつけられている自分の身体から、この爆発しそうな心臓の音が聞こえてしまったからだろうか。「っん、あ、ぁ、あぁ、」ゆっくりともぐりこんできたまったく違う温度をずぶずぶ飲みこみながら、ことりはぼうっとそんなことを考えていた。
 触れかたの癖は、いつもと同じ。ゆったりと煮こむように丹念にかきまわす。親指のはらが粒をころころあやす。さみしがる隙もない。よがる丁寧さだけがある。スポンジはもう使い物にならなくて、すっかり行き場をなくしたものがびくびくふるえる腕やらにいって、海未の綺麗な髪が、ことりの指のあいだでぐしゃぐしゃになっていた。
「んんっ、ぁ、っ、みちゃ、うみちゃん、うみちゃん、うみ、っ、――!」
「ことり。」
 くぐもった声なのに、どうしてそんなに確かなんだろう。砂糖菓子よりももっと脆くて甘い、綿菓子で頭をいっぱいいっぱいにされて、もうその先が考えられない。
 わたしはそれが欲しかったのだ。きもちいいことが、確かに欲しかった。
「っ、は……ぁ、あ」
「ことり、大丈夫ですか……? ええと、風邪を引いてしまいます、少し休んだらシャワーを」
「だめ……」
「……ことり?」
「だめ、うみちゃん。うみちゃん、だめ、おねがい……っ、」
 全身をすみずみまで振り絞って、絞りかすでもいいから力をかき集める。ふやけた背骨を叱り付けて、無理やりに海未から身体をひっぺがす。海未ちゃん、やさしいから。なぜだか口もとがふっとゆるんで、もしかしたら自分は今しあわせそうに笑っているのかもしれないなあと思った。海未ちゃん、やさしいから、ばか丁寧だから、抜くのが遅いんだもの。
 ことりはぎゅうっと目をつぶって、自分にできるかぎりの乱暴さでもって、腰を落とした。こわばった海未の指先が、ずぶりと、
「こ、ことり」
「っやだ、んっ、ぁ、あ、やめ、っやめないで、うみちゃ、っ、い……!!」
 きもちいいことが欲しかった、欲しくて欲しくてたまらなかった。
 だからいまは、いたいことが欲しい。
 ふわふわの幸福感に鋭いなにかが混ざる。海未は動けなかった。たぶん、わたしが泣いているからだ。海未ちゃんはやさしいね。
「やだ、やだぁっ……ぉ、ねがい、やめないで、やめないで、うみちゃん」
「……ことり、泣かないで、ください」
 泣いていることりと同じく悲痛な声で、ねだっていることりよりと同じく懇願するような声で、海未は静かに言った。必死に腰をくねらせているのに片手を飲みこまれてしまったまま、けれどももう片方の手ではきちんとことりの頬を撫でてあげていた。海未ちゃんはやさしいね。ほんとうに、やさしいね。
 やさしくて、やさしい彼女に、ひどい期待を押し付けた。相手がそれを受け入れるであろうことをわかっているという、最悪なタイプのやつだ。
「ふ、んぁっ、うみちゃん、うみちゃ、ぁんっ……!」
 また頭がふわふわでいっぱいになる。わたしはそれが欲しかった。考えなければならないことが、たくさんある。たとえば彼女にきちんと伝えるべき言葉だとか、このままでいいわけがないってことだとか、なにもかも間違っているし同じところを巡りっぱなしなことだとか、それでも、抜け出せる希望は残酷なくらい常にあることだとか。
 それらを考えなければならなくて、でも考えたくなくて、ほかのことで塗りつぶしてしまいたかった。もうこのままでいいから、なにもかもこのままでいいから。本当に欲しいものは絶対に手に入らない。彼女の心なんてもう貰えない。みだらに腰を振って汗と唾液と濃い匂いのする液体を撒き散らして、それと同じ身体と声と顔をして、いったいどういうふうに、どんな表情で、あなたのことが好きですだなんて言えばいいの。
 ことりにはもうすっかりわからなくなってしまって、わからないということにすら気がつきたくなくて、なにもかも真っ白にしてしまえることを求めた。初めのうちは、けっこううまくいっていたと思う。たとえそれが十全にやさしさからくるものだったとしても、海未ちゃんの声が、海未ちゃんの体温が、そのどこかしらに愛と名前のついている海未ちゃんからの行為があれば、それだけで救われるような気がしていた。
「はぁっ……は、あ、はぁ」
「ことり……ことり、もう、」
「や……いや、やだぁ、うみ、ちゃん」
 だけどそれって、きりがないことだったんだよ。ほんの一滴でも水を飲んでしまうと、自分がひどく渇いていたことを思い出す。そして、渇きはいつだって無尽蔵なものなのだ。
 懺悔します、ほんとだよ、最初は触れてくれればそれでよかったの、とにかく考えたくないことを考えずにいられたら、おまけにあなたがそばにいてくれたのなら、もうそれだけでいいはずだったの。なのにそれだけはあったから、それだけがあったから、わたしはそれ以上がどんどん欲しくなった。どんどんどんどん欲しくなって、もうとまらない。
「おねがい、いたく、いたくして、海未ちゃん!」
 きもちいいのはなくてもいいから、わたしのことを伺わないで、わたしのことを考えないで、わたしが求めたからということだけで、やさしさだけで、満たしてしまわないで。痛くして、自分勝手にめちゃくちゃにして、ねえ海未ちゃん。
 きっとないってわかってるけど、ないってわかっていたから、こんなことになっているんだけど。
 ねえ海未ちゃん、こっちを向いて、キスをして、わたしに触れて、わたしを、どうか、もっと、求めて。
 ねえ、海未ちゃん、だいすきだよ。
「ことり……」
 海未は泣きそうな顔で、だからこそ絶対に涙を流さないのであろうと思える顔で、ことりの頬を撫で続ける。
 そうできるわけがないとわかっているから、そうできないのなら、いっそ困らせる自分に愛想を尽かせてほしいのに、そしたら目の前にいつもある残酷な希望というやつに無理やりにでも向き合える気がするのに、それすらしてくれない。
 海未ちゃんはやさしい。そのやさしさが、わたしの頸を、締める。
「……めん」
「え?」
「ごめん、ね、うみちゃん」
 なんて、ひどいことばっかり言っているから。懺悔します、どうか、かみさま。
 そんなわたしから、このひとを、どうぞ救ってあげてください。


 私たちはものごとを、あまりにも正しい手順で間違えてしまったのだ。奇妙な話だが、海未にはそうとしか思えない。
 そこから抜け出さずにいるのは自分のほうなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろうなんて考えるのは変だし無意味だ。けれども生きていくことにおいては変だし無意味なことのほうがずっとずっと多いから、ちょっとやりきれないなと思う。疲れではないなにかが重たく絡み付いている身体をみしみしと起こしてから、海未はすこし嘆息した。
 外を見るとよく晴れていたから、カーテンをしめた。
「ん……」
「あ、」
 起こした? ――そう思ったのはほんの一瞬のことで、ちょっと寝返りをうっただけのことりがまだ寝息を立てていることに、ひどくほっとする。それが正しいことかどうかというのを全部抜きにして、彼女は眠っているほうが幸せのように思えてしまう。衣服を身に着けていなくても、布団が包んでくれている。目を開けていなくても、穏やかな表情でいられる。あたたかいことは大切なことだし、彼女に与えられるべきものだ。特にここのところは、よくそう考える。
 三ヶ月ほど前からはじまってしまったこの異様な関係は、ことのほか順調に続いてしまっていた。おどろかなかったかと言えばうそになる。ただおどろきっぱなしなのかといえば、それも大うそだ。
 ふと気がつけば、また手を見ていた。手。なにかあるの、とよく聞かれるほどの頻度で、海未はよく手を見つめていた。爪が気になるの、と先日部室にておずおず花陽に尋ねられたときなんかは、言い訳が思いつかなかったばっかりに、そのとおりですちょっと爪が伸びているなと思って、なんて爪切りを手に取るはめになった。おかげで最近はちょっと深爪ぎみだ。手。
 手にはまだ、ことりの湿気と温度がからみついている。
「……どう、して」
 どうして受け入れてしまったんだろうって、はじめは思っていた。
 どうしてやめられないんだろうって、いまは思っている。
 もちろん穂乃果についてもそうだけれど、特にことりについての記憶は、たどるという作業をあまり必要としない。いつだってそこにあるものというのが、感覚としては近いくらいだ。
 いつも綺麗な服を着て、にっこりと笑うのがよく似合って。彼女の好きなふわふわしたもの、かわいいものという言葉が、そのままぴったりだったことり。誕生日に欲しいものを尋ねたら案の定その答えが返ってきたから、悩んだ末に手鏡を贈ってみたところ、このカエルみたいなかたちすごくかわいい、と的外れなことを言っていた、やっぱりふわふわかわいかったことり。
 ことり、あなたにはそういう、甘いもの、やわらかいもの、あたたかいものやさしいもの、そういうものを、私はあげたくて。ずっと、そうで。
 ずっとそうだったのに、初め彼女に求められたとき、どうして頷いてしまったのだろう。どうして、そんなふうに大切だったことりのことを吸い尽くしたりひっかいたりつねったり咥えこませたりするようなことをしてしまったのだろう。
 そして、それ以上に。
「ことり……」
 どうして、それが、こんなにもやめられないのだろう。
 そんなふうに大切だったのに、そんなふうに大切に思えば思うほど、ふとしたときにのぞく真っ白な肌から、一気に目が離せなくなるときがあるのだろう。
 聞いたときはあんなにおどろいたはずの彼女の言葉を、ぐらぐらに揺らいだ瞳で紡がれる熱っぽいそれを、どこかで、待っているときがあるのだろう。海未にはそれが、ちっともわからない。
 それは、どんなに不誠実なことなのだろう。どんなにひどいことなのだろう。想像もつかないことだった。
「……ごめんなさい、ことり」
 想像もつかないことだから。海未は、あらんかぎりの丁重さをこめて伸ばした手で、眠ることりの頭をそっと撫でる。重たく落ちる自分のそれとは違って、やわらかい手触りがとてもいいと、素直に思った。
 不誠実なことをしているから。ひどいことをしているから。だからせめて、と海未は心をかためる。
 だから、せめて、あなたには、ずっとやさしくしますから。触れることがやめられなくても、応えてしまうことがやめられなくても、痛くなんてしませんから、やさしくやさしくしますから。ことり。私の、だいじなことり。
 かみさま、誓ってそうします。だから、どうか、この子のことを、

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