0704・欲を言えばの話



 わからないひとにとってのわからないものというのは、いってみれば、そんなものはどこにもない、というのと同じなのだ。
「たとえばね。私たちも同じようにもってる人間の眼球って、二つ合わせたら約200度の範囲を見渡すことができるんですって」
 思っていたより視野が広いでしょう、と夕張はきちんと笑顔で付け加えてみせたのだが、由良はへえともふんともいわず、黙ってこちらを見ていた。
 見つめられていた、というよりも見下ろされていた、というほうが正しい状態であるだけに、その無感動な反応にはわずかばかりひやりとする。由良がそうやって目を眇めるしぐさは、夕張の姿をみるやいなやなぜかくどくどとお説教をしたがる五十鈴のそれとそっくりで、なんだかすごみがあるように感じられてしまうのだ。便宜上そうよばれているだけだなんて言い方すらできてしまう、彼女たちのあいだにある姉妹という関係性についていうなら、二番艦五十鈴と四番艦由良のあいだにつながりのように似通った点が見いだせるというのは、純粋に興味深く、そしてなんとなく喜ばしいことであるようには思うのだけれど。
 いやしかし、そうであるにしても眉根すらうごかされないのは、さすがにちょっとつらいわ、由良。せっかく私たち、自由に動かせる身体を得たんだから。それならこう、お互い反応ってものをやり取りしていこうじゃない。そう言ってやってもよかったのだが、もうすこし口の端を持ち上げるだけに留めた夕張を、由良はやっぱり黙ったまま見下ろしていた。目をそらされないだけ、話の続きを聞いてくれるつもりはあるらしい、と受け取ってもよいのだろうか。まあどちらにしたって話してしまうけれど。
「でも、そんなに広い視野を持っていたとしても、目に映っているものがみんな見えているのかっていうと、それは違うじゃない。感得することと知覚することはまったく別物なんだし。で、そうやって目に映して、判別して、そこにある、って思うことができないなら、そこにないのと同じでしょ?」
「……そういうものかしらね」
「そういうものよ。だって、あの道具箱は絶対由良の目に映る範囲にはあったけど、あなた、あれにはちっとも気づかないでけつまずいちゃったでしょ」
「それは目がどうこうじゃなくて、単にあなたの部屋が散らかりすぎてるって話だと思うのだけれど?」
「う、うわぁ由良、もう五十鈴さんもあっさり凌駕できそうな迫力の目つきよ……?」
「だいたいね、これだけ目に映る障害が多くちゃ、ひとつひとつ判別してる暇もないわよ!」
 あっわかりました、それはたいへんよくわかりましたので、周辺に散っている紙をそうやってみんなまとめて捨てようとするのはやめてください。嘆息もいよいよ乱暴になりはじめた由良の悲鳴じみた声をしみじみ聞きながらも、ついそう茶々をいれたくなってしまう。
 いやしかし、部屋を片付けてもらっている立場でなにが言えたものかというのは重々承知しているのだが、それでも由良がたくましいことにその細腕で一抱えにしてしまった大量の紙束の中には、もしかしたら一昨日あたりひらめいた画期的な単装砲の改装案がメモされているやもしれないのだ。机の上で半分意識を飛ばしながら書いたものだから、普段から私の字を汚い汚いと言ってはばからないあなたにとってはもう本当にただの落書きにしか見えなかったかもしれないけれど、それでも私にとってそれは燦然と輝くアイディアであるはずなのだ。まったくもって、理解しえないものに対して、人はなかなかその存在を認めてくれないものである。「だからそうじゃなくて、そんなに大事なメモなら床じゃなくて机の上とか、せめて椅子の上とかに置いておくようにしなさいっていつもいつもいつも言っているでしょう!?」
 仰る通りですとしか返せない情けない夕張だが、これがいつもどおりであるなら、なんとか頼み込んで由良の片付けの手をいったん止めてもらい、紙束の中からどうしても捨ててほしくないものだけをえり分ける猶予くらいなら与えてもらえる。そういうところが由良は甘いんだそんなだからコイツの悪い癖が治りやしねぇんだと言ってはばからないのは、意外なほどの几帳面さで夕張の部屋をぴかぴかにしてくれた、だが夕張がいくら泣きついてもがらくたは捨てるの一点張りで聞き入れてくれなかった天龍だが、一部始終を見ていた(そして見ていただけの)大井から「片付けてあげるっていう時点からして甘いといえば甘いんじゃないかしら」に誰も言い返せなかったので、とりあえず忘れておくとして。
 現状四人組の中ではもっとも夕張の部屋の私物と戦ってくれる頻度の高い、「優しくて大人っぽくて頼りになる軽巡洋艦のお姉さん」由良は、それでもほかのみんなより、夕張のことやそのもちものについてをわかってくれているのだ。夕張がちゃんと頼み込めば、あきれ顔で特徴的な髪形が揺れるほど頭を振り振り、どうにか聞き入れてくれるくらいには。
「ああもう、いいから無駄口たたいてないで寝てしまいなさい、あなたは」
 しかし今日は、今日ばっかりは、懇願すらさせてもらえそうにもなかった。
 食堂や大広間といったようなかなり多くの人が集まる場所のゴミ箱に設置されているものと同じ、お徳サイズのゴミ箱にばさっと紙束を放り込んでくれた由良は、今度こそどんな姉の追随をも許さないきびしい一瞥を夕張にくれる。さらば私の改装メモ、今週末の私の楽しい兵装いじり計画。由良の単装砲、私はこんなに、週末返上の予定を嬉々として立ててしまうくらいには大好きなのに。だからいつもだったら。いつもだったら、そんな由良の手にすがってでも、ミミズののたくったような字のメモをすくい上げにかかるのだが。
「いつまでもそんなふうだったら、治るものも治らないわよ、ほんと」
 そんなことは、こうして、上のほうから降り注ぐ由良のきびしいお言葉とさらにきびしい目線を布団の中で聞いているようでは、どうにもかないそうにない話だった。週末の改装計画だかなんだかしらないが、風邪っぴきがなにをいっても、という話である。
「ほんと、風邪とかの体調不良って、なんでか完全予測は無理よねえ、あはは」
「笑いごとじゃありません」
「ハイスミマセン……」
 いらない、と彼女によって判別されてしまったものをどうにかつめこみ、おしましに袋の口を慣れた手つきできゅっとしばった由良が、部屋に備え付けられている水道の蛇口をひねる。流れだした水がシンクの底をばちばちと叩く音を聞くのが若干久しいのは、由良が片付けてくれるまで、そこには所狭しと置き場所のなくなった部品たちが積み上げられていたからだ。
「せめて食器とか、そういう洗い物がたまっているっていうんだったらまだいいのに」そう、あんまりよくなさそうな口調で由良は言ったっけ。夕張が風邪を引いた、という話をおそらくは〈任務さん〉から聞いてやってきて、こんな部屋じゃ休めるものも休めないでしょ、と深いため息をついてくれた、そのすぐあとのことである。もし夕張が元気だったならすぐにでも飛びついてメジャーを取り出し、肉の付き方から曲げ伸ばしのちょっとしたくせにいたるまでデータを取りたくなるほど惜しみなく袖を捲って腕をむき出しにした由良は、そんな愚痴を水よりずっと勢いよくざあざあこぼしながら、それでもしっかりあたりを片付けてくれた。今朝からすっかり寝込んでしまっている、夕張の代わりに。(自分だとやるつもりがちっとも起きないので、代わりに、というのは変かもしれないが。)
 きれいになったシンクで手を洗い、戻ってきた由良が、夕張の額の布を取り換えてくれる。うっすら湿った彼女の手のひらが額に触れたのはほんの一瞬のことだったが、温度差だけはそれなりに顕著に伝わってしまったらしい。「熱は測ったの?」先ほどまでとはまったく別種のしかめっつらを浮かべた由良が、氷水にひたした布をようくしぼりながら、ほんのすこし優しい響きになった声で訊ねてくる。彼女のじわりと赤くなってしまった指先を映す夕張の視界は、朝からこっち、ずうっとへんに滲んだままだった。
「んー、朝測ったっきりだけど。体感だと対して変わってないかな」
「何度だったのよ」
「八度七分。とりあえず、私の免疫活性食細胞はとっても元気ね」
「なによそれ……とにかく、そこそこ高いんじゃないの。ほんと、口を動かす体力があったら治すほうに使いなさいよ」
「由良のその温度の低い心配、結構好きよ、私。冷たさが熱にしみる感じがして」
「そういう無駄口を叩くのをやめなさいっていってるの」
 どちらかというとそっちが熱をもってしまったかのような顔を一瞬だけ見ただろうか、びたんと音でもしそうないきおいでつめたい布を押し当てられてしまったので、わからなくなってしまった。たとえ温度が低かろうが心配をしてくれるところも含めて、由良のそういうところって律儀だ、なんて思うひまも与えられない。ただただ、関節やなんかに重く響く熱を放つ身体には、由良のくれた布のつめたさがひどくよくしみた。
 全身にまとわりつく熱と、のどの奥のへばりつくような渇きと、つらつら無駄口を叩くぐらいが限度な鈍い頭の回転と。今朝がた気づいた身体的不調は、いよいよ以て順調に、夕張の全身を浸しつつあった。かつては徹頭徹尾戦うためにつくられたからだを持っていた夕張からすれば信じがたいことだが、あたらしく手に入れた肉体というやつには、どうやらそういう機能が備わっているらしいのだ。なんて非効率的な話かとすくめた肩をしわだらけの手でぽんと叩いてきた提督は、しようがないわ、戦うためにつくられたものではないのだからなんて、にこにこ笑っていたけれど。
「まあでも、熱にしたってなんにしたって、正常稼働のために自然治癒能力が働いてるってことではあるわけだしね……ちょっとした故障みたいなものだと考えれば、確かに必要なのは適切な修理と休息だわ。頭冷やして、おとなしく寝ておくのが一番ね」
 そう考えれば、非効率的だと言わざるを得ない全身の怠さによる安静状態も、思考をばっちり妨げてくる熱っぽさにも、どうにか納得がゆくだろう。由良の押し当ててくれた布の位置を緩慢なしぐさでなおしながら、ぼうっとつぶやく。求められる結果と、それに向かうにあたり必要なことがらが判明しているのは大切なことだ。
 夕張は、つまりそういう話をしているつもりだったのだが。
「……どうにかならないものかしらね、そういう言葉の使い方って」
「うん?」
「なんでもないわよ」
 なんでもなくなさそうなところがしっかり滲み出るあたり、私の幼なじみときたらほんとうに律儀だ。
 そう思うんならおとなしく寝ておきなさいね、とだけ言い残した、その一言の三倍くらいは言いたいことのありそうな由良を、夕張は布団の中からのんびり見送った。軽い音を立てて扉が閉められるのまで見たあと、もそもそと首もとあたりまでかぶった布団には、機械油と図面を引くときに使う鉛筆の粉の匂いが、なんとなくしみついていた。

 風邪を引いているときに日がな一日おとなしく寝ていることが要求されるのは、休むということそれ自体すら満足にできない状態だからなのだろう。熱で体力は徐々に削られてゆくし、もちろん全身は休息を求めているのだが、ほかでもない自分がそれを許してくれないのだ。熱があるときに眠ると、浅い眠りばかり繰り返すはめになって、ちっとも休まらないというのもつまりそのうちのひとつなのだ。ただただ時間を空費して、夢ばかり大量に見る。なかなかなれない怠さを引きずったまま時々寝返りをうって、目を閉じているのか開けているのかもだんだんわからなくなってくるような気分になって。そうして、すべてが通り過ぎて、気分がよくなるのをひたすら待つのだ。
 こういうときの睡眠はとにかくそんな感じなのだとすくなくとも夕張はしっているつもりだったが、それにしたって今日のはなんだかおかしかった。夢をたくさんみてしまうのは別にいい。いいのだが。
 それがみんな同じような夢ばかりであるというのは、いったいどういうわけなのだろう。
「だぁから、おとなしく寝てろっていったじゃねえか」
 瞳を閉じたのは何度目だろう、瞳を開けたのは何度目だろう。瞳を開けたと思ったら、どうやらそうではないらしい、なんてことになったのは、これで何度目なのだろう。
 また夢を見ていた。夢がどうやって作られるのか、夕張がしっているのはいくつか唱えられている説だけだが、寝る前にあったことが関係しているのかもしれない。だって夢の中で聞こえた声は、まるでさっきの由良と同じようなことを言っていたから。「だぁってぇ……」
 おんなじ色だね、と言われたことがある。やり取りした言葉の最初は夕張の記憶が正しければそれのはずだ。あの子は――白露ちゃんは、頭にのっかっているカチューシャと、私の制服のリボンを交互に指さして、そんなことを言ったっけ。いつものように元気な微笑みをにかっと浮かべて、突然そんな話をぶっつけられた私の戸惑いなんて、多分に知りもしないで。
「あー……だぁって、五月雨がぁ……」
 しかし夢に出てきた白露は、そのときの元気そうな様子が嘘のように、すっかりしぼんでしまっていた。いや、どちらかというとそっちが嘘だといわれたほうが、夕張としても信じやすいのだが。
 ともあれ、それが嘘でないことを夕張は覚えている。そういう夢もあるのだろうか、これは私がかつて見たことのある風景だ。ぼやけているが思い出せる。思い出したそばから、風景は徐々にはっきりしていく。なにしろこれは夢なのだ、私の頭の中の風景だ。灰色の床、鉄骨で組み上げられた天井、深い緑の燃料缶。火薬と鋼鉄、濃い潮の香り。海へと延びる桟橋に向かって大きく開かれた出口から、射し込んでくる真昼の光。出撃前の艦娘たちがそろって訪れる、艤装をつけて水上駆動機に燃料を補給するための第一倉庫は、いつも光でいっぱいだ。私たちが海へ出かけてゆく前に必ず来る場所は、なぜなのだろう、日差しをとてもよく浴びる場所に作られているから。
 白露はそこにいた。みすぼらしいマントみたいに両肩にかけたタオルケットを引っ張って、いつもぴんしゃんしている背をすっかり丸めてはいたが、それでもどうにかそこにいた。真っ赤な顔色で鼻をぐずぐずいわせ、しかたねぇなぁ、なんて末っ子のはずの涼風に支えられてはいたが、それでもちゃんと、そこにいた。「ほんっと、しょうがねえなぁ、白露は」
 ほかにもいる。「どうして連れてきちゃったのよ。寝かせておきなさいって、私言ったわよね?」「ゆ、夕立をにらまないでほしいっぽい! 行く行くって聞かないし、ほっといたら勝手に部屋でてっちゃうんだからしょーがないもん!」涼風がいるのとは反対から、今度は夕立が白露を支えていて。その傍らで、いつもの人を食ったような笑みはどこへやら、すっかり眉間にしわを寄せてしまっている村雨が、組んだ腕の指先を、いらいらと動かしていた。「村雨、夕立、その辺にしてあげて。あんまり大きな声は、白露の頭に響いちゃうよ」その四人ともを見つめる時雨は、魚雷装填用のベルトを足にぱちんと留めながら苦笑している。
 そしてその時雨と共に出撃の準備を整えていた子が、もうひとり。
「もう、白露ったら……私は大丈夫だからって、あんなに言ったのに」
 五月雨ちゃんの手は、きっとつめたいんだ。
 触れていないのに、夢なのにそんなことを思ったのは、頬を撫でられた白露の苦しそうな表情が、たしかに和らいだことまでをもこんなに覚えていたからだ。
「……せんすいかん」
「うん?」
「五月雨。潜水艦のいるとこ、初めてでしょ」
 たとえそれが母港に着任した最初の艦娘であっても、最高練度の第一艦隊旗艦であっても、大戦果を持ち帰らないことのない怪物であっても、白露にとってはみんな変わらない、かわいがるべき妹なのだ。艦隊にいる誰もがそれをしっているのは、どんなときでも必ず姉妹の先頭を走る彼女の姿を、そしてなるたけ妹が出撃するときは見送りと出迎えを欠かさない彼女の姿を見ているからで、私も、それは同じだった。
 私もそれを見ていた。鎮守府近海で新たに敵潜水艦隊が捕捉されたと聞いたときのことだった。潜水艦撃退用に組まれた特殊艦隊のうち、軽巡洋艦枠のひとりとして、出撃準備を整えながら、私もそのやりとりを見ていた。だってそのあとすぐ、時雨と五月雨ちゃんと一緒に「潜水艦のいるとこ」に出て行ったのは、ほかでもない私だ。
「だめだよー、油断したら……あいつら、最初にどーんって……あと、夜はどーんって……うぅ」
「……開幕雷撃と夜戦時の魚雷攻撃に気をつけなさいってさ」
「あ、あはは、ありがと、村雨……うん、ちゃんと気を付けるよ」
「うー、ぐらぐらする……うぁー、時雨ぇー……」
「ん、わかってる。ちゃんと無事に連れて帰るさ。だから白露、もういいから、君は寝てなよ」
「そうそう、もっと言ってやっとくれ、時雨。うちのねーちゃんは、あたいたちの言うことなんて聞きゃーしねーんだから」
「時雨の言うことならちょこっとだけ聞くっぽい。もうあたしが代わりに出撃するから、白露のお守交代しない?」
「こらぁ、ねーちゃんに向かってお守とかゆーなぁ……」
 ほんとはしってる。同じ艦隊だったから、作戦会議も一緒に受けたから、任務さんの口にした潜水艦、という言葉を聞いたとき、五月雨ちゃんの表情がはっきりとこわばっていたことを、私はしっている。潜水艦を怖いと思わない子なんて、艦娘の中だとめずらしいくらいだ。青い底から忍び寄ってくるそれの姿は、彼女たちの魂の、もっともむき出しで痛いところを乱暴に揺する。誰だって痛いのは怖い。五月雨ちゃんだって、きっと、怖かった。どうしようもないくらい、どうにもしてあげられないくらい。
 だけどそのこわばりがはっきりとほどけたところだって、私は見たのだ。ふらふらになって、どう考えても自分が心配されるほうなのに、心配してこんなところまでやってきてしまった姉の頬を撫でた、あのときだ。あのとき、あの子のとても触れがたいところをがんじがらめにしていたはずのなにかは、嘘みたいにほどけてしまった。
「うぅ、だめだ本格的にやばいかも……あーでも、うー、五月雨」
「なあに、白露」
「いってらっしゃい」
 どういう理論でそうなったのか、もしくは、どういう魔法でそんなことができたのか。
 あの子たちの交わしていた当たり前みたいなやりとりには、いったいどんな不思議な力が隠されていたのか。
 それが私には、ちっともわからなかった。
「うん。五月雨、いってきます!」――気が付いたら、匂いも風景も、海や空とはすこしだけ違う真っ青な色もみんな消え失せて、夕張は見慣れた天井を見上げていた。ゆめだった、さっきまでは夢だったのだ。夢を見ているあいだもそれには気が付いていたはずなのに、目覚めたときにだけもっとも痛切にそうかみしめたくなるのはなぜなのだろう。
 寝返りをうつ。布団の匂いは変わらない。部屋の中に満ちる静けさも、変わらない。由良のことを少しだけ思い出した。大井と天龍のことも、少しだけ。午後の出撃組はとうに出かけ、ほかの子たちは演習や訓練に励んでいるころだろうか。喧騒は遠い。扉一つしか隔てていない、廊下を誰かが駆けてゆく足音であっても、熱にうかされながら布団の中で聞く喧騒は、いつだって遠い。
 それからまた少し眠って、夢を見て、夢を見て、夢を見た。みんながみんな、まるでそうと決められてしまったかのように雨の名前の姉妹たちの夢で、そして風邪の夢だった。時雨が風邪を引いたときは、下の子三人組の五月雨と夕立と涼風が、村雨にしっかり言いくるめられて、戦艦のお姉さんを引っ張りにいく任務に就く。その村雨が崩れると、常に付き添うのを許されるのはなぜか時雨だけで、でも村雨が眠っているときにはきまって白露がひょっこり様子を見に来る。夕立が体調を崩そうものなら気が気でないくせにお見舞いに行けないのは夕張のよく知る幼馴染だが、夕立本人の看病だけでなくその軽巡洋艦のちょっとめんどくさいお姉さんのところにまで、五月雨という世話役(主に夕立の様子を伝える役)を遣わすのは、白露の采配のうまいところだ。いつもしっかりしている涼風は風邪を引いても元気でいようとするから、時雨と村雨のかしこい二人に挟まれて、最終的には布団に戻るように丸め込まれてしまう。寝かしつけられている、といったら、末っ子は怒るだろうか。
 それから、あの子が風邪を引いたときは。
「時雨、それなにそれなに? うさぎっぽい?」
「よくわかったね、夕立」
「それも扶桑さんに教えてもらったのかい? 器用なもんだなー」
「で、白露のそれはなんなの? もぐら?」
「ひっどい! 村雨ひっどい!」
 五月雨ちゃんが風邪を引いたとき、あの子たちは、なるたけ姉妹そろってそばにいるようにしている、みたいに見える。わいわいしながらりんごをむいて、いつもみたいにふざけてみせて。五月雨ちゃんのときは、そうだ、ひとりにしない、というのを、特に心がけているように見えた。それは意識していることなのだろうか、それとも気にもしないでできていることなのだろうか。なんとなくあの子たちなら、後者であるように思える。ほしいものを、ほしいだれかに、ほしいときに与えることというのは、多分いつだってそんなメカニズムをしているのだろう。
 もっとも、ほんとうのところはわからない。そうでなくともあの子たちのいた場所には、夕張の見た夢の中には、わからないことばかりがたくさん出てきた。私にはけしてわからないことが、見えないことが、あの中にはたくさんあった。
 風邪という現象について夕張がわかっているのは、それがウイルスによって引き起こされた炎症反応であることとか、それらのウィルスは摂氏三十八・五度で死滅するため発熱それ自体は体に良いことであるとか、要するに、由良がしかめっつらを浮かべそうなことばかりだ。体内で起こる免疫反応により体力は自動的に消費されていくから、その回復のためにもきちんと寝ておかなければならないこともわかっているが、ほかに必要なものがあるかどうかなんて、夕張にはわからない。
 わからないひとにとってのわからないことは、ないものと同じだ。私はきっといろんなことがわかっていなくて、だから、いろんなことがないものになってしまっている。いろんなことが、見えていない。もやがかかったみたいな夢の中の景色。
 だから私には、伝染の危険性とか、静養の必要性とかをまるっきり無視してしまっているあの子たちが、互いに与え合っているようにみえた特効薬の姿が、ただのすこしも見えないのだ。それがいったいなんなのか、私には、ちっともわからないのだ。
「うぅっ、五月雨! 五月雨ならあたしのりんごちゃんと食べてくれるよね、もぐらとか言わないで食べてくれるよね!?」
「え、ええっと……うん、じゃあ、時雨のと、一緒に食べるね」
「ちょっと五月雨、大丈夫? 別に無理しなくていいのよ、私たちで処理するから」
「処理とかいーうーなー! もうっ、ほんとひどい!」
「あはは……私は平気だよ、村雨。なんだか、だんだん食欲出てきたから」
 こんなふうに、風邪の夢ばかりみるのは、私が今同じ状態にあるからなのだろうか。
 それすらも、私にはわからないのだ。

 意識の境界がいよいよ曖昧になりはじめたころ、夕張が見たのは九十度傾いた景色だった。
 これもまた夢か。景色にはぼんやりもやがかかっている。見えないせいなのかもしれないし、単純に視界がおかしくなっているだけなのかもしれない。重い、頭が重い、あまりものを考えたくない。思考は趣味の一環である自分からすればずいぶん珍しいことだと笑おうとしたが、渇ききったのどがはりついていて叶わなかった。
 乳白色のもやがかかった景色の中で、青い髪が揺れている。ああ、やっぱり夢だと、そう思った。なにしろこれまで何度同じものを見てきたことか。もう何度目か数えるのすらばかばかしくなってしまった。風邪の夢も、あの子たちの夢も、それから、五月雨ちゃんの夢も。
 宿舎内の各部屋には、シンクと一口コンロ、それにまな板と包丁が準備されている。簡単な料理なら作れないこともないので、酒好きで手先も器用な隼鷹や、いろいろな意味で逆らえない姉たちに囲まれている日向なんかは、あれを使ってちょっとしたつまみぐらい上手に作ってしまえるらしい。もっとも、テーブルやソファの使用用途すら物置一択になっている夕張の部屋で、それらのものたちが正しい役割をはたしていようはずもない。だからやっぱり、これは夢だ。慎重にひそめられた足音を時折ぴたりと鳴らして、空の色をさらさら揺らす彼女は、シンクの前に立っていた。
 涼しい音。聞いたことのある音。りんごをむいているときの音だと、すぐにわかった。姉妹たちみんなに囲まれて、具合の悪そうな、ちょっぴり申し訳なさそうな、けれど十二分に嬉しそうな顔をしていたあの子の周りで、優しく鳴っていたあの音。音の記憶は目に見えないから侮りやすいが、意外と深く根付くものだ。しゃりしゃり、しゃり、しゃりしゃり。途切れ途切れに音を鳴らしながら、ナイフを丁寧に持ち替えて、りんごをゆっくりむいていく手のこと。私はそれを見たことがあるから、思い出すことはできる。でもきっと、それだけ。しゃりしゃり、しゃり。
 これは夢だ、きっとまた夢。五月雨ちゃん、今度はだれの看病をしているんだろう――。
「あ……ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」
「え、」
 夢が現実へと変わる瞬間は、さほど劇的というわけでもなく、しかしいっぺんに降りかかってくるものだ。
「私、午後いちの演習だけで任務は終わりだったので。具合、どうですか?」ぼうっと聞いていたはずの足音は一気に鮮明になり、とたた、と弾んだ響きでもってこっちへと近づいてくる。あんなに重たかったはずの、そのまま溶けてくっついてしまいそうですらあったまぶたは勝手にかっと見開かれて、ただ目の前の光景を映すのに、びっくりするほど必死になっていた、
「んっと……まだ、ちょっと熱、高いですね」
 あまい。
「……さ、」
 あまい、――りんご。
 りんごの、匂いがした。
「……さみだれ、ちゃん?」
「はい?」
 きょとんと首を傾げたその子、制服の上にグリーンのエプロン、ゆるくまとめ上げた髪、青い瞳。
 あまい、あまい、りんごの匂い。
 ほかのなにもかもがもやに包まれていたようだったさっきからすれば、信じられないくらいいろいろなものが唐突に夕張の目の前まで押し寄せてきて、夕張はぱちっと大きくひとつ、子どもみたいなまばたきをした。そうして何度も繰り返した。ぱち。ぱちぱちぱち、ぱち。
 たくさん繰り返してしまったのは、そうしなければならなかったのは、目を閉じてはいられなかったからで、だけど目を開けてもいられなかったからだ。
「……っ、」
 胸の奥かのどの奥か、とにかくそのあたりから夕張の瞳に向かって突然に押し寄せてきたものを抑え込んでくれそうなのは、今のところ、その頼りなく薄いまぶたの皮膚ぐらいしか、なかったから。
 とてもとても信じられないことだが、どうやらたった今自分がやっきになって飲み込んだのは、例のあの涙ってやつらしい。ただでさえ渇ききっているはずののどの奥がかっと熱くなってしまったのも、鼻の中がぐずぐず湿るいっぽうなのも、それから肺のあたりがやたらめったら押しつぶされるのも、みんな覚えのある現象だ。証拠がきっちり取り揃えられた、筋道だった結果に私はどうやらとても弱い。うわあ、もう、なにそれ。
 こんなにわけがわからないこと認めたくなんかないのに。そもそもなにひとつ、わかっていることなんてないのに。
 それでも私はなぜか。
「わわ、ゆ、夕張さん、顔真っ赤ですよ……!! あっ、ちょっと待っててくださいね」
 なぜか、泣きそうだった。
 ぱっとなにかを思いついたような顔をした五月雨が、急いでまな板のほうへと戻っていく。途端、あっちを向いてくれてよかったというのと、あっちを向かないでほしかったというのと、相反する二つが夕張の頭の中で同時にぼんっと膨らんで、もうわけがわからない。
 そもそもこんなにみっともないところ、できれば一番見てほしくない相手だったはずなのに。弱っているところなんて、故障して寝込んでいるところなんてとてもではないが見せてよい相手ではないのに、私はいったい何をしているのだろう。
「はい、どうぞ。りんご、むいたんです」
 戻ってきた五月雨は手に小皿を抱えていて、その上に並べられていたうさぎは、一匹の耳が折れていて、もう一匹の耳は二つのサイズがずいぶん違って、最後の一匹だけがようやくうまくいっていた。「あの、時雨にちゃんと教えてもらったんですけど……む、むずかしいですね、これ」
 ありがとう、と、うまく呟けたかどうかわからない。その一つにだけたくさん期待のこもった視線が注がれていたから、夕張はうまくいっていたひとつだけを手にとって、さくりと噛んだ。
「……おいしい。」
 夕張の寝ていた布団の脇にはペットボトルがあって、適度に塩分を含んだドリンクが、中には半分ほど詰まっている。摂るべきものは摂っていた。正しく必要なことは、みんなひとりでも済ませられていたはずだ。
 だけどりんごがおいしかった。
「うん、すごく……すごく、おいしいわ。もうひとつ、もらってもいい?」
「あ、はい! えっと、もう半分もむいちゃいますから。夕張さんが食べられるだけ、食べてください!」
 だけど、五月雨のむいてくれたりんごが、とてもおいしかったのだ。
 さくりさくりと食べているうちに、気が付いたら五月雨のむいてくれたりんごはなくなってしまっていた。傑作だったのは、あまりといえばあまりな食べっぷりにびっくりしてしまったらしい五月雨に大丈夫ですか、と言われて初めてさすがにちょっと苦しいと気づいたことで、あわてて寝かしつけられてしまった。あんまり必死になっていたらしい五月雨は夕張の両肩をがっしり掴んで抑え込んできてしまったので、なんだか押し倒されでもしたかのようなかっこうになって、流れ落ちてきた前髪がさらりと額をくすぐったのが、やたらとくすぐったかった。
 特別に、なにかをしていたわけじゃない。五月雨はもちろん医者というわけではぜんぜんないし、ものすごい薬を持ってきたりなんかもしていなかった。ただそのとき私たちがしたことといえば、ぽつりぽつりと、なんとなく呼吸みたいに、話をしていたくらい。今日の演習では潜水艦相手に活躍できたから、比叡さんにほめられましたと笑う五月雨ちゃんを見て、私もすこし笑ったぐらい。額のタオルを取り換えてくれるとき、髪を下ろしてるとこ、ちょっと貴重ですね、なんていうのに、そうかしら、とぼそぼそ答えたぐらいだ。「あ、夕張さん。髪……ここのところ、」「うん?」「ちょっと跳ねてるんですね。ほら、ひょんって」「あー……たまに朝起きてから、直すのが大変なとこなのよ、そこ」「そうなんですか? ふふ、夕張さんにもそういうの、あるんですね」「五月雨ちゃんにもあるの?」「ありますよ。えっと、このへんとか、こっちとか」
 なにをするでもなく、私たちは話をしていた。話をしていて、でも、そればっかりで。
 言わなければならないことはたしかにあったはずなのに、私はいつまで経っても、それを口にしなかった。
「ねえ、五月雨ちゃん」
「はい?」
 ねえ、ただのちょっとした、故障みたいなものだから。
 ねえ、しばらく大人しくしていれば、すぐに治っちゃうものなんだから。
 ねえ、それにこのままここにいると、感染の危険性もあるんだから。
 ねえ、だから、来てくれてありがとう、でも、
「……五月雨ちゃん、」
「はい」
 でも、もうここには、いなくても。
「ここにいるの?」
 私が、びっくりするほどなさけない声で、そういうと。
 すこし、すこしだけ目を見開いた五月雨ちゃんは、ふわりと笑って、そばのテーブルに置いてあったものを、私に見せてきた。
「……文庫本?」
 目のさめるような真っ白なカバー、ちょっと分厚い。「時雨に借りてきたんです」五月雨ちゃんが、笑って頷く。
「時雨、扶桑さんと一緒に、よく本を読んでるから。だから時雨の読んだ中で、一番おもしろくって、それからなるべく簡単な本を貸してって」
 それならこれがいい、といって、彼女の姉は迷いなくその一冊を取り出したそうだ。「山城にも同じ要求をされたことがあるんだ。その時は山城、まあまあね、って言って返してくれたから……つまり、概ね要求を満たしている本だと思うよ」
「それでも私、本を読むのってすっごく遅いので」
 両手に持った文庫本を顔の前までちょっと持ち上げて、五月雨はいたずらっぽく目を細めた。表紙の向こうに七割がた隠れてしまってはいても、文庫本はちいさい。五月雨の小ぶりの耳のあたりが、照れたようにほんのり赤いことまでは、隠してくれない。
「読み終わるまで、ずっとここにいますよ。夕張さんが眠るまで、……それからたぶん、夕張さんが起きたときも。」
「そっか」
 そっか、と意味もなく繰り返しながら、夕張は布団を鼻先のあたりまでずるずる引っ張り上げた。文庫本と違って、布団は夕張の顔をちゃんと、まるごと隠してくれる。それになにより自分は今風邪を引いているのだから、少しばかり顔が赤くたって、少しばかり声がおかしくたって、それほど目立ったりはしないはずだ。「夕張さん? あの、そんなにすっぽりお布団かぶったら、息がくるしくなっちゃいますよ?」きっと、しないはず。
 もうそんな免罪符でもなければ、やっていられないような気持だったのだ。
「うん、……うん、あのね、五月雨ちゃん」
「はい?」
 だって、――だって、わかってしまった。
 なんてことかと頭を抱えたくなるけれど、わかってしまったのだ。なにが、といえば、それはまあとてもたくさんのことだけれど。たとえばひとつ挙げるとしたら、ずっと同じような夢ばかり見ていたその理由、とかだろうか。
 わかってしまったのだ。私は、ただ。
「ありがと、ね」
 ようするに、ただ、ただなんとなく、さびしくて。
 それからただ、この子に、五月雨ちゃんに、会いたかっただけなのだ。

 実に実になさけないことだが、とてもよく眠れてしまった。それこそ夢もみないほど、ぐっすりと。
 いや、夢、ひとつだけ見ただろうか。よくは覚えていない、どんな光景だったかももう全然思い出せないが、由良、そう、由良が出てきた気がする。笑っていた、というか、笑われていた気がする。なにか言っていた気もする、なんだっけーー「あまえんぼ」? うるさいよ、そこ。
 半身を起こして初めて、身体を起こせるほど快復していることに気が付いた。まだ少し怠さが残ってはいるが、概ね治ったと考えてよいだろう。外は青い夜明けに染まりゆくころで、今度こそ部屋だけでなくあたりまるごとが、しいんと静まりかえっていた。
 そんなふうに静かだったから、すう、すう、とすぐそばでたてられていたすこやかな寝息を、私はたっぷり聞くことができて。ベッドのそばにぺたんと座り込んだその子は、言っていた通りあんまり進んでいないように見える文庫本に手を挟んだまま、薄い肩をゆっくり上下させていて。その身体にちゃんと、夕張の部屋のものではない、ちゃんと清潔なタオルケットがかけられているのは、さあ、誰のしわざか。そりゃああなた、夢にも出てくるわけよねなんて、少しだけ笑ってしまう。
 起こしてはいない、いなかったと思うが、「ん、……んん」ふにゃふにゃ、と動かされた口もとは、なんだか笑っていたみたいに、笑い返してくれたみたいに、見えてしまった。
「あー……どうしよ」
 いやだめだ、まだ声がすこしかすれている。すこしでも菌が体内に残っているのなら、せめてここでくらいは危険性というやつをちゃんと考慮すべきだ。そう、今更かもしれないけど、すべきことを、ちゃんとすべき。ぎりぎりどうにかそう言い聞かせて、夕張は布団をかぶり直した。ダメよそんなこと、ほんとにうつしちゃったらどうするの、まったく。
 ああでも、どうしよ。
「いますっごい、五月雨ちゃんにキスしたい……」
 わからなかった、だからどこにもいなかったはずの、どうしようもないわがままなあまえんぼうが、とうとうしっかり、顔を出す。
 だけど魔法みたいな力をもった「特効薬」は、私にももうあるわけだし。つまりこの風邪は、もうじき、絶対に、完治してしまうはずなのだ。そんなばかみたいなことを考えて、夕張はまたすこし眠った。
 今度は由良の夢をみないといい、あまえんぼ、だなんて、あんなことわざわざ夢でいわれなくたって、目が覚めてからの現実で、たっぷり言われることが目に見えている。


「ぃ、……いいです、よ?」
「へ?」
「ちゃんと治したら! あのっ、治したら……し、して、いいですよ?」

「……へ?」

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