由良より





「夢をみるんだって」
 夕立は、ソファに座って足をぶらぶらさせながら、ぽつりとこぼすようにそう言った。
 今のところ軽巡宿舎の談話室にいるのは自分とそれから夕立だけで、たまに通りかがる子はいても、長居を決めこむようなのはほかにひとりもいない。暖炉がぱちぱちと爆ぜている音や、夕立が足をぶらつかせるたびわずかにソファの軋む音やなんかが、昼すぎの談話室にみちみちている。
「ゆめ?」そんな中で夕立のぽつんと落とした言葉はことのほかはっきりとした響きをもち、由良は思わず目線をそちらにやった。ついさっきまでびっしり並んだ細かい印字をうつしていた視界が、とたんにぱちんとてでも叩かれたみたいに色を持つ。金色。緑。緑。夕立のもっている色は、いつもなんとなく由良のことをぱちんと叩く。「夢って、どんな?」
 きっとそうだから、由良はこうして夕立と二人きりでいるとき、彼女の隣には座らずに、いつもそばにある机で書類を眺めていたりなんかするのだ。これは自分にとって必要不可欠なことなんだと、由良には思えている。ぱちんと叩かれてしまわないために。びくりとしてしまわないために。
 自衛と呼ぶのかどうかは、ちょっとわからない。怖がっているわけでもないのに、夕立の目を見ないことが? なんて考えると、ちょっとおかしい。でもそれはわたしにとって、そしてきっと夕立にとってだって必要なことなのだと、由良には思えているのだ。わたしたちは、正面から向かい合ってばかりいるようだと、ちょっとよくないの。ぴったり寄り添って座るようなのだって、きっとおんなじね。
 夕立だっていくらかそれをわかっているはずだから、いまだひとりでソファをきしきしいわせるままでいる。由良は書類を抱えてはいるけれど、それはとっくに抱えているだけになっていて、仕事なんてはじめっから進んでないって気づいていてもだ。進める気だってほんとはないって、気づいていてもだ。
 ひとさし指をあごのところにつんとあてて、夕立は座ったまま目線を空へと放っていた。
「んーとね。夕立だったら、なんか、赤くて……とにかくすごい赤くて。それからすごく暗いんだけど、向こうからばーっと眩しい光が射してて。ずん、ずんって重たい音がね、お腹の下あたりで響いてるの」
「ああ……そういうの、ね」
 紙に向き直るのを頷く代わりにして、由良は相槌をうった。ゆめ、夢か。夕立の話したようなのを、完全に夢だと、つくりごとの世界の話だと呼んでよいのかはわからないものだが。
「由良にも、ある?」
「まあ、それなりにね。多分それ、わたしたちだと全然ないっていう子を探すほうが難しいんじゃないかしら」
 なにしろそれは、わたしたちにとって「あったこと」だ。
 わたしたち自身が経験したわけではない。わたしたち自身が体感したわけでもない。けれどもたしかに、わたしたちのどこかにとって、それはかつてたとえようもなく現実にあったことだ。
 由良だって、眠っているときにその記憶のようなものに放り込まれることはままある。ひどく断片的だし、忘れるときは目を開けたとたんすっかり忘れてしまうようだけれど。
 由良にとって、というよりはかつて行われた数々の戦においてその前線を駆け続けた長良型軽巡洋艦・四番艦由良にとって、それはたいていが海での記憶だ。真冬の揚子江の冷たさのこと、チョイセル島沖の海を走ってきた、あの黒い爆弾のこと。そして、ガダルカナル島へ向かう途中の海に濃く影を落としていた、ドーントレス爆撃機のこと。
 新しい身体を得てしまったからなのか、あのときの感覚のようなものを正しく思い出すことはもうできない。実際そういうふうに感じていたわけではないのだろうと思う。でもいまの由良が思い出すとしたら、夢に見るとしたら、あちこちの骨が一本たりとも動かせないほど重く軋んでいて、皮膚は次々に水を吸っていって。逃れようのない冷徹さと、しんと静まり返った孤独に呑まれてゆくような、あの感覚が、
「ゆーらっ」
「え?」
 ふっと振り返ったとき、由良の視界には一瞬だけだれも映っていなかった。ぶらぶら揺れていた元気な足だとか、あの金色の長い髪だとかがさっきあったところには見つからなかったのだ。忽然と消えてしまった、だなんてほんのいっときでも考えてしまったのは、きっとばけばかしいことなのだろうけれど。
 でもたったすこしのあいだだけそんな思いがしていた由良は、目に見えないほどすぐそばで、ちょうど目線の真下、由良の懐あたりで、夕立がぷくっと頬を膨らませるまで息を吸ったことに、ちょっとだけ気づくのが遅れた。
 すうっと肺をいっぱいにした夕立は、それから。
「ふぅううううっ!」
「きゃあっ!?」
 身体いっぱいに吸い込んだそれを、すぐそばの由良にむかって、それはもう思いっきり吹きかけてきた。
 艦娘はふつうの人間とは違う、身体能力がかなり底上げされているって話は聞いたことがあるけれど。そういえば、肺活量という点に絞って話をしているのは聞いたことがない。だとしたらいい研究結果だ、髪がぶわりと舞い上がって、ぎょっと見開いた目がからからに乾いてしまうくらい、それはとんでもないみたい!
「なっ、あ、な、夕立っ! あなたね、いきなりなにするのよ!」
 いきおいけほけほっと咳き込みながらもなぜだか満足そうにしている夕立に、若干髪を乱したままの由良は声を上げた。
 さっきまでゆるやかな音しかなかった中で、それはわりあいきっぱりとした響きをもっていたはずなのに、すぐそこの夕立はにこにこしてばかりいる。
「えへ。あのねぇ、白露が言ってたんだよ」
「白露が……?」
「そう。いたいのいたいの、とんでけー! って」
 にこにこ笑う、夕立は、そういえばもう、由良の目と鼻の先にいた。
 ぱちんとする。まぬけなくらいに手遅れなタイミングになっても、それはなぜだかきっちりやってくる。由良はぱちんと鼻先を弾かれた。あかかった。さっき、あまりにもいっぺんにたくさんの息を吹きすぎた夕立のほっぺたは、とっても赤くて。
 そして由良は、そんな色にぱちんと弾かれ、びくりとする。縮み上がっているのとはすこしちがう、驚いているというのともすこしちがう。
「由良、痛そうな顔したから」
 さっきやなこときいたかな、ごめんね、なんて、言って。
 にっこりしたり、すぐにしょんぼりしたり、でもまたさっきより短くふうっと息を吹きかけてくれたり。由良の目の前、それこそ視界も世界もいっぱいいっぱいにしてしまうようなすぐそばで、夕立がくるくるとたくさんうごいてみせる。
 うごいてみせられる、と。
「……夕立。あのね」
「んー?」
 ぱちんと弾かれ、びくりとしてしまった由良は、とうとう細く細く息を吐き出すくらいしか、しようがなくなってしまうのだ。そうやって、ぎりぎり守ってきた距離を飛び越えられ、心臓ごとわしづかみにされてしまうと。あなたに、あなたで、ずきずきさせられてしまうと。
 夕立はそんなところまでわかってるんだろうか、どうだろうか。ただ由良がそんなふうに息をつくと、下から必ずといってよいほどあのいたずらっぽい、そしてすこしだけ獰猛な笑みがのぞきこんでくる。わずかに光を強める瞳が、次のできごとを待ちわびている。だから、だからね、と、今さらながらあきらめ悪く考えてしまう。
 だから、そういうの、わたしたち二人にとってよくないわって、いつも思っているのにね。
「それ、やり方がぜんぜん違うわ」
「あれ? えー、こうやって飛ばしちゃうんじゃないの?」
「じゃないのよ」
「そっかぁ。じゃ、あとで由良が教えて!」
「はいはい……」
 だってこういうときに抱きしめてあげたってたぶんあなたは苦しいばっかりで、だというのにうまく離してあげられるやりかただってわたしはまだ知らないのだからって、いつも思っているのに。
 ただでさえぎゅうっとされているのに、そのうえ自分から由良のあちこちに鼻先を擦りつけてまで、夕立はなんだかやっぱり、にこにこ笑ってばかりいる。
 とはいえこれに流されてばかりではいけないわ、いけないのよ、由良。でもあと一回頭を撫でてからにしようって決め込んで、さっきまでよりずっとゆっくり長い髪を撫でてやってから、ようやく由良は口を開いた。
「と、いうかね。そもそも、わたしの夢の話をしていたわけではなかったわよね?」
「んっ? あ、そうそう。そうなんだけどね」
 力が抜けそうなほどあっさりと夕立は答える。そうだ、夢をみるんだって、と夕立は話したのだ。
 彼女の妹の五月雨が、ここのところそういう夢ばかりみるんだって、と。
「ちょっと前まで、眠そうにしてることも多かったものね。よく眠れていないんじゃないの?」
 本人がそう言ったから由良も遠慮なく言葉を借りるけれど、夕立よりもずっと繊細なところのある子だから。
 ようするに物事に対する取り組みかたの違いだ。あの子は多分、ひとつひとつにあまりにも懸命になりすぎる。雑務の片付けかたなんかを教えてやることの多い由良には、そういうふうに見えている。力の配りかたを、夕立みたいに好きなように、そして大胆に決めてしまえる子もいるけれど、うまく切り分けられないまま全力ばかり注いでしまうような子だっているのだ。いいも悪いもない、それがわたしたちのしっている五月雨ちゃん。
 みんながみんな夢をみているように、過去に思うところがない子なんてここにはいないのだろうけれど、それに蹴躓いてしまうかどうかはまたべつの問題だ。だれもがだれかにしかわからない苦労をしてそれを乗り越えてゆくのだろうけれど、いつまでたっても足を取られてしまう子だって、やっぱりいる。
 頑張りますってあの子はよく言うから、言い過ぎるから。頑張れなかったいつかの自分をあの子が振り払うまでは、多分とても長い時間が必要なのだろうと由良は思っている。
 そんなあの子にとって、例の夢はとても重いだろう。
「うーん。うん、そう、しばらくは、そうだったみたいなんだけど」
 けれども夕立は、すこし考えたようにしていたが、すぐに首を振ってしまった。
「けどね、もうだいじょぶっぽい」由良の腕の中で、強情に跳ねているわりに案外とやわらかい髪がしゅるしゅる擦れる。
「だいじょぶに、なったっぽい」
「なった?」
「うん。なんか、そう……なんかね、」
 夕立の額が、由良よりすこし高い体温が、首のあたりにぺたっと吸い付く。
「歌がね、きこえるんだって」
 やさしいやさしい、うたが。

 軽巡宿舎の廊下の角を曲がったそのとき、由良は一瞬にして回れ右をしてしまいたい思いでいっぱいになってしまった。
「ちょっと待って、待ちなさいよ由良! 見るからに困ってるでしょ、どうして躊躇なく置いていこうとするの!」
「なんとなくだけれど、ろくなことにならない気がしたから」
「真顔で言わないでよ! 由良だと冗談に聞こえないんだってば!」
「それほど冗談なつもりもないもの」
「あなたってほんと……」
 はあ、と肩を落とす夕張は、しかしそれなりに付き合いも長いせいか、立て直すまでも早かった。しぶといものだと感心する。こっちは、廊下でひとり緑のリボンに青い顔をして自室前でおろおろしていた姿をみた時点で、関わることをあきらめようとしていたのに。
「由良なんか今日ほんとひどくない!? 夕立ちゃんに言いつけていい!?」
「いいけれど、たぶん噛まれるのあなたのほうよ」
「随分とまあしつけの行き届いていることで」
「それはどうも」
「褒めてない!」
「知ってる。……で? どうしたのよ、そんなに慌てて」
「……なんだかんだ話聞いてくれるのは嬉しいけど、もうすこしストレートな優しさもあっていいと思うわ、由良」
 夕立ちゃんも大変よね、とどうも余計なことを付け加えるこの昔なじみは、しかし由良がむっとした顔をする前に行動してしまえるあたりがすこしずるい。
 夕張はまず、はじめから今まで彼女が背にしていた夕張型個室、というより彼女一人の私室になっている部屋の扉をやたらにそうっと開け、中を素早く覗き込んだ。素早くなにかを確認したとみえる彼女は、またこれ以上ないというほど静かに扉を閉めて、それから由良の両肩をがっしりと掴んでくる。しまった、退路を絶たれた。
 付き合いは長いが、さすがにはっとしてしまいそうなほど真剣な目をして、夕張は口を開く。
「あのね由良。悪いんだけれど、リネン室から毛布を一枚借りてきてくれない?」
「……毛布?」
 もっとも出てきた言葉は、はっとしたのがすこし癪に障るくらいにはなんでもないものだったが。
「毛布って、一枚ずつ支給されてるのがあるじゃない」そのせいか若干ため息まじりに答える由良だが、夕張は結い上げた髪が揺れるくらいにきっぱりと首を振った。「あるんだけど、ついさっき艦装の整備中に油こぼしちゃったのよ」
 どうしてそんなちょっぴり情けない話を、ぎくりとするほど真剣な調子で言ってしまうのだろう。まあだいたい見当はつきつつあるけれど、それにしても夕張ったらね。しぶとさに関しては、もしかすると由良も人のことは言えないのかもしれない。
 だいたい整備なんていって、またなんやかんやといらぬ実験をして、どこで使うのかもわからないような細かいデータ集めでもしていただけでしょうに。あれはもう公共の利益のためというより、夕張の趣味だ。純粋なる趣味だ。夕張さんは研究熱心なかっこいい人なんです! と駆逐艦の子たちのあいだでは(それを言ってはばからないひとりを筆頭にして)有名だそうだが、真実とは往々にしてそんなものである。
 未だ掴まれたままである両肩をすくめて、由良は夕張から目をそらした。真っ正面から受け切るべき子はほかにいるのだし、あんまり見ているようなのもこちらが不利益をこうむるから。
「寒いんなら自分で取りに行きなさいよ、それくらい」
「違うの、私が使うんじゃないのよ!」
「え?」ああもうだから夕張、あなたまでわたしを覗き込んでくるのはやめなさいったら、
「中でね、その、寝てるから」
 だれが、というのは、聞かなくてもわかる。
 だいたいはじめっから、わかっている。
「五月雨ちゃんが。中で、寝てるから」
 由良の昔なじみのことを、即座に踵を返したくなるほどおろおろとかっこ悪くさせるのも。
 かと思えば、こっちまでぎくりとするほどかっこよくさせてしまうのも、いつだって、あの子ひとりだけなのだ。
「私がすぐ取りに行きたいんだけど、でも、……その」
「……一枚でいいのね?」
 この場合、しつけが行き届いているというのだってきっとお互いさまだ。五月雨ちゃんは、多分に知らずうちに、ほんとうによく夕張のことをしつけてしまったものだと思う。
 ぱあっと顔を輝かせてしまった故い友人をみながら、由良は笑ったようなため息をつく。
「わかったから、あなたはそばにいてあげなさいな」

 由良が毛布を抱えて戻ってくると、夕張は廊下におらず、ただ入りやすいようにか彼女の部屋の扉は細く開かれたままだった。べつに毛布くらい小脇に抱えることもできるのだけれど。そういうところが夕張だな、とひとりでちいさく笑ってしまう。
 ただノブに手を掛けたところで、由良は思わず足を止めた。
「……?」
 なにか聞こえる。
 部屋の中からだ。
 五月雨が眠っているともなれば、たとえどんなに実験好きの彼女でも、工具を机に置く音にすら気を配るであろうことは容易に想像がつく。もしかしたら呼吸だってひそめてしまうかもしれない。由良のようくしっている夕張は、まずそういう人だ。
 でもこれは夕張の声みたいだ、いや、声、というよりも。
 これは。
「……うた、」
 うたがね、きこえるんだって、と、夕立は言っていた。
 それがなんの歌なのか、由良にはわからなかった。ここに住まうたくさんの子達のなかでだって、わかる子はきっと少ないだろう。わたしたちはそういう存在だから、そういう存在、だったから。
 食べること、眠ること、けがをしたら休むこと。人間の身体をつかって生きるために必要なことを、由良たち艦娘はぎこちなくだが、すこしずつ身につけてゆく。歩くこと、走ること、目を配ること、頭をつかって考えること。その次に身につけるのは、きっと戦うために必要なことがらだ。わたしたちは、もともと戦うために生み出された新しいいのちだから。
 でもそれだけじゃあなくて、それだけじゃあないから、それはいのちと呼ばれるんだそうだ。まだ由良にもわからないことがたくさんある。まさかこんなにあるだなんて思ってもみなかったくらい、たくさん、たくさん。
 笑うこと、泣くこと。話すこと、触れること、胸の鼓動をそうっと大きくしてゆくこと。すきなひとを、すきだと思うこと。そういう、要不要とは関係のないところにある、でもいのちのあるところには必ずあるものを、わたしたちはいちばんゆっくりと、でもいちばんたくさん、見つけていっている。
 生きるためや、戦うためには、きっといらなかったものたち。けれどもそこには、なぜだかひどく痛切な温度の通っているものたちを。
「夕張って、歌えるのね」
 そう、わたしたち、歌うこともできるのね。
 あんな、そう、たとえばいま抱えているこの毛布みたいに、やわらかな声で。
 わたしたちは歌うこともできるのだ、教えられちゃったな、ちょっとくやしい。夕張、いいな、ずるいな。わたし、それは知らなかったわ。
 でも、と、そろそろ由良は気がついてしまう。さっきからずっと鳴っている音の並びを聞いて、由良はさすがにそろそろ、わずかに眉根を寄せてしまう。
「……うん?」
 ねえ、そう、だって夕張、わたしちょっと思うのだけれど。
 その音って、そこでいいの?
 夕張がなんの曲を歌っているのかだとかは、もちろん由良にはわからないままだ。でもどうやら歌というのはいくつか同じような音の並びが出てくるものらしくて、だから、繰り返しのかたちがあることくらいなら由良にももうわかった。
 でもなんだか、なんだかそう、さっきから聞こえてくる夕張の声は、その繰り返されるはずのかたちから、あっちがはみでたり、こっちが飛び出したり、かと思うとつまずくように落っこちたりしていて。
「………。」
 ふむ、と思いながら、由良は滑り込むように夕張の部屋へと入っていった。
 さすがに聞かせるつもりはなかったみたいで、こっちに気づいた夕張があわてて口をつぐむ。目をやると、ありがと、と口だけ動かしてお礼をいってきた。毛布を手渡すことで、返事に代える。
 五月雨が眠っていたのは、夕張の部屋のソファの上でだった。薄いグリーンのクッションを枕に、そこから長い髪をするすると床に垂らして、五月雨は静かに寝息を立てている。たらんと落ちた手の先にはなにやら艦装の設計図かなにかが広がっていて、あちこちに夕張の書き込みがしてあるのがかろうじて見える。なるほど彼女は今日も、研究をがんばるかっこいい夕張さん、のお手伝いに勤しんでいたようだ。
 そしてそのまま、彼女は眠ってしまった。昔の夢をみるのだと、姉に話して聞かせたらしい彼女は。その姉と似てよく膨らみそうなほっぺたを穏やかに赤くして、すう、すう、とゆっくり寝息を立てている。
 痛いことも、かなしいこともいまはない、幸いそうな顔をして。
「それじゃね」
 ほとんど囁くようにして言った由良は、早々にこの場を立ち去ることにした。夕張はえっというような顔をしていたが無視をしてしまう。だって歌は、聞こえていなければならないから。
 この子にとってのやさしい歌は、聞こえていなければならないから。
 由良は、なるたけよく気を配って、扉をそっと閉める。閉める、ほんのちょっと前、ごくごく細い隙間だけ開けて、ちょっとだけ待ってみる。
「……あ」
 歌が聞こえてくる。
 そこでぴったりと閉めてしまって、結った髪も揺れるくらいすたんっと軽やかな足取りで廊下を歩き出した由良は、とうとうくすっと吹き出した。

「へたくそ。」








両片思い





「まだ残ってる」

 とんとんとん、と素早く三回。少し間をあけて、とん、あと一回。あわせて4回のノックが、夕張さんの作ってくれた合言葉でした。
 とんとんとん、とん。おはようございます、こんにちは、こんばんは、いらっしゃいますか。いそがしくないですか、だいじょぶですか、ねてらっしゃいませんか、はいっても、いいですか。ごめんなさい、私です、五月雨、です。
 ノックをしてからの数秒は、私にとってすごく過ごしづらい時間です。好きというわけでもなく、かといって嫌いにもなれず。はやくはやくはやく、と頭の中ではいつもそんな言葉ばかりがぐるぐるしていて、扉の前に突っ立った私は両手を背中で強く強く握り合わせ、爪先に重みをかけて、そわそわとかかとを持ち上げたり、おろしたりしてしまいます。
 それを一度が二度、繰り返したときでしょうか。たまに三度か四度までかかるときもありますが、たいていはそのくらいです。あまり待たせることなく、けれど焦るでもない、ちょうどよく落ち着いた分だけの間をあけて、扉がかちゃりと音を立てます。「あっ、」
「はぁい。どうぞ五月雨ちゃん、入って入って」
「ぉ、お邪魔します、夕張さん」
 内開きの扉を開き、中で微笑みかけてくれるひとの顔を、私がきちんと見られることはなかなかありません。その前に私は急いで頭を下げて、提督にもしないくらいの深い深い礼をしてしまいますし、にこにこと迎え入れてくれる夕張さんの脇を通るときなんかは、お腹の前で握り合わせた自分の手ばかり見てしまいます。
 いつでも見られるものと、いつでもは見られないものが、そこには確かに一つずつあって。私だってなるべく後者を見つめていたいと願いもするのですが、叶えられる自分であるかどうかというのは、多分まったく別の問題なのです。そういう意味では、残念ながらかなしいほどに、私は私に期待できません。
 部屋の主の顔を一度もまともには見ないという、よくよく考えてみるととっても失礼なことをする私にも、夕張さんは快く椅子をすすめて、しかもお茶まで淹れてくれます。どう考えても夕張さんのためにはない、とっても甘いミルクココア。
「どうしたの、五月雨ちゃん? 何か困りごと?」
「あっ、え、ええと……そのっ、さ、寒くなったので! 宿舎の、暖房器具の点検をするように、言われてて。あの、それで、夕張さんのお部屋も、って……」
 私は自分でも呆れそうなほどしどろもどろになって、そのくせ、昨日白露にとがめられるまで夜更かしし、一晩じゅうかけて考えた言い訳を並べたてます。
「あら、そうだったの? わざわざありがとうね、五月雨ちゃん」
 そういう意味では、夕張さんがなんでもないことのようにそれを受け止めてくれたのは、ラッキーなことだったのでしょう。「五月雨ちゃんは働き者ね。本当にえらいと思うわ」おつかれさまって、夕張さんが、湯気のふわふわ浮いているカップを手渡してくれます。爪を立ててしまいそうなくらい強く、握り合わせてばかりいた両手に、そのあたたかさがじんわりとしみました。
 室内も廊下も含め、いよいよ真冬を迎えた鎮守府がとても寒くなってきていたことは本当です。
 今朝だって手が冷えて冷えてしようがないとぼやいていた村雨が、それを突然ぴたっと涼風の首にあてがって、ずいぶん賑やかな悲鳴を上げさせていました。だいたいそういう遊びは姉妹のあいだで一瞬にして流行るので、私も涙目な涼風に頬をやられました。ぺたっと触れられたあとでもすぐ真っ赤になってしまうほど、ここはとても寒いです。
 けれど、あとはみんな、ちょっと調べようとすればすぐにばれてしまう、なさけないくらいつたないうそでした。
「じゃあ、お願いしちゃおうかしら。そこのストーブなんだけど」
「はっ、はい!」
「助かるわ。もし壊れちゃってたら、兵装整備のとき寒くてしようがないもの」
 ただ夕張さんは、そういうふうに私を疑ったりしません。おどけたように言いはしても、手も身体も金属で冷え切るくらい整備と研究に勤しむ夕張さんは、私のうそを調べようとしたりはしません。
 けれどもそれだから、当然といえば当然の報いで、私のどこかは冷たく乾いた風に吹き付けられたみたいに、ちくんと痛んでしまいます。
「それじゃあ、ええと……つ、つけてみます、ね」
「ええ。ありがとね、五月雨ちゃん」
「いえ……」
 さっきぽろぽろうそをこぼしたばかりのくちびるが、ふるっと震えてしまいます。私は急いでストーブの前にかがみこんで、夕張さんに背を向けて。ちがうんです、とごめんなさい、とほんとは、を、太ももを押し付けるようにしたお腹のあたりで、どうにかこうにかつぶします。
 ここに来たかっただけなんですって、ストーブを見に来たんじゃなくて、夕張さんの顔を見に来たんですって、どんな顔をして言えばよかったのか、私にはもう、わからないから。
「もうすっかり冬ねぇ。海水も凍りそうなくらいだから、出撃が辛くなってきたわ……」
「そう、えっと、そう、ですね」
「あ、でもね、間宮さんが今度また、あったかいぜんざいを作ってくれるんですって。またみんなで器を持って、お鍋の前に列を作らなきゃね。五月雨ちゃん、今度はひっくり返しちゃだめよ?」
「う、は、はい……」
「まあ。そのときはまた私のを半分あげるから、いつでもおいで」
「あっ、い、いえそれは……その……」
 話しながらやっているから、というにはあんまりです。ダイヤルを回して出した、点火用の芯に火を付けるまで、私はなんと全部で六本ものマッチを無駄にしました。
 少し前までは、いろいろなことを、もうちょっと上手にできていたように思います。
 こんにちはってあいさつして、夕張さんの顔をちゃんと見ることも。お部屋に遊びに行ってもいいですかとお願いするのだって、いわば無邪気なほど簡単にできていました。ミルクココアの甘いのにも、夕張さんの声が優しいのにも、私の胸はそれほどぎゅうっとせずに済んでいたと思います。
 だから私はときどきあのころ、やっともらったぜんざいを見事にひっくり返したあと、夕張さんと長く長く伸びるお餅を引っ張りあっては笑えていたころの私を、すこしだけ、うらやましく思ってしまうのです。やさしくてくるしくていたくて、あまくて。
 そんな話をしたのは、姉のなかでも口数の少ない、時雨にだけだったけれど。そうしたらなんと言ってくれたのだっけ、思い出すより早く、ごうっと低い音を立てて、ストーブに火が灯りました。
 やっと、もしくは、とってもいけない言い方をすれば、もう。つたなくも場をつないでくれていたうそは、これで効き目のおしまいです。
「あー、あったかいわぁ」
「えっと。……問題、ないみたいですね」
「みたいね。お疲れ様、五月雨ちゃん。それ、ココア、飲み終わるまで休憩していったら?」
「……いいんですか?」
「もちろんよ。むしろ、出撃のない日まで休憩もしないで働きっぱなしなんて、夕張さんが許しません!」
 いたく憤慨してみせた夕張さんは、しかしすぐに肩をすくめて、いたずらっぽい顔で笑いかけてくれます。
 その夕張さんの笑顔がやさしくて、それから、それから、何の言い訳のしようもなく、きれいで。私はもうたったそれだけで、顔のあたりがぽっと燃えて、酸素も足りないのに息もできなくなって、ぎゅうっと苦しく、なるのです。
「五月雨ちゃん?」
 だから私はあなたがほんの、それこそ影よりも体温のほうが先にやってきてしまうほどほんのすぐそばまで来ていたことに、気がつくのが、遅くて。あまりにも、手遅れで。「どうしたの、まさか本当に疲れてる?」顔が赤いわ、と心配そうに伸ばされた、手のひらが、ひたり、頬に。
 かちんとぶつかった、私の目線は、あっという間に固結びされます。もっとゆるやかに繋ぎ合うこともできるはずなのに、それはぎりりと締め付けられるほど強くて、でもたぶんそれを強く強く結んでしまっているのは、ほかでもない私自身なのです。私だけ、私、ばかりが。
 それならいっそ道連れで身体まで固まっていればよかったのに、そううまくはいきませんでした。自分で動かしたつもりはありません。誓ってありません。でもそれがないということすらも、思うにひとつの罪です。私は。
 私は気がつけば、ふっと持ち上げていた自分の手を、頬に触れる夕張さんのそれにおそるおそる重ねていました。そのときにはもう私の暴れる心臓はあちこちに散らばっていて、思うに手のひらの皮膚だってとくんとくんと脈打ってしまっていたようでした。「……さ、」
「ゆうばり、さん」
 ごめんなさいごめんなさい、さえぎってしまってごめんなさい、でも五月雨ちゃんって、いま、呼ばれてしまったら、きっと。きっとなにかもっと、取り返しのつかないことに、なってしまいそうだったから。
 でももうそんな応急処置は、とうに無駄だったのかもしれません。心臓を、つまるところ動かすためのものをあっちこっちに得てしまった私の身体は、意思とは関係なしに勝手に動きます。私は首をほんのわずかに傾いで、外側から包んだままの夕張さんの手に、自分の頬を押し付けてしまいました。なかなかすっきりとはしてくれない私の頬に、夕張さんの指のかたちが、そっとしみこみます。
 覚えておこうとするのは、なんだかまるで、それがなくなってしまうときのための準備を、しているかのようで。「ゆうばりさん、」でもちがうんです、なんでだろう、どうしよう。ずっとずっとこうしてたいだけなんですって、どくどくいってるあちこちが、一斉に、悲鳴を上げる。
 ああ、どうしてこんなに、上手にできなくなってしまったのでしょう。
「……っごめんなさい、失礼します!」
 やさしいんです、くるしいんです、いたいんです、あまいんです。それで、私はもうみんなみんな、どうしていいか、わからないんです。
「そうだね、きっとそうなんだろうね、五月雨」石ころみたいに身体を丸く小さくして、扉から転がり出たとき、あのときの時雨の言葉が殊の外大きく頭に響きました。背中を追いかけてきた夕張さんの声を、耳に入れるまいとした、それは最後の抵抗だったのかもしれません。「五月雨。多分、それが、」
 多分それが、ひとを恋う、ということだ。
 私は走り去りながら、涙の落ちてしまうすんでのところで、頬をそうっと覆ってしまいます。
 どうしよう、
「まだ残ってる」


「まだ残ってる」
 開け放たれた扉を閉めようともせずに、夕張はぽつりと呟いた。
 とんとんとん、とん、と、四回叩かれるのだ。あの扉は。合言葉のノック。あの子のための音のふりをした、本当のところ醜いほどに、私のための音でしかないもの。私が、覚悟を決めるための音。
 もはや準備が必要になっていた。なんでもないように笑かけてやるのにも、かわいいうそを見抜かずにいてやるのにも、もう少しここにいてと、和やかなふりをして引き止めるのにも。
 頬に、手で、優しく触れるだけに、留めるのにも。
 もはや私にはその全てに準備が必要で、そうでなければ、もう、なにをしてしまうか、どんなひどいことになってしまうか、わからなくて、

「……まだ、残ってる」

 あの子の頬はあまりにもやわらかだ。







終戦後パロ




 一年前の夏のことを、五月雨はとてもよく覚えている。
 暑い暑い日だった。朝から照りつけていた太陽は、昼になるといよいよ殺人的な光線をあたり一面に撒き散らし、その光を受けて光る波が視界にひどくまばゆかっただろう。だがそのとき五月雨が視界いっぱいに映していたのは、真っ白な入道雲の膨らむ空である。私は、そうだ、波打ちぎわで、大の字になって寝転がっていた。
 空の青さと海の青さはこんなにも違うのだと、そんなことをぼんやり考えながら、五月雨は耳元でちゃぷり、ちゃぷりと波の打ち寄せるのを聞いていた。あたりに重たい武器を放り出し、艦装をつけたまま両腕を広げ、足を放り出して砂浜に寝転がっていた、あの夏の日の私。強い光に皮膚をじりじり焼いていた。ざあっと大きく寄せてきた波が好き好きに広がった髪を濡らし、むき出しの足を撫でていったのが、やけにくすぐったかった。
 そのとき、ふっと視界に影が落ちて。
「終わったよ」
 上から五月雨のことを覗き込んできたその人は言って、逆光で暗く隠れていたにもかかわらず笑った、とわかったのは、五月雨自身がこれまでにその人の笑顔をあまりにもよく見ていたからだった。
 だって私の覚えている限りだと、私たちの一番上の姉は、白露は、私たちの前ではいつだって快活に笑っていたもの。だからすぐに思い描ける、にっとのぞく歯のいたずらっぽい白さまで、まるで見えているみたいに思い描ける。
「みんな終わったんだよ、五月雨」
「うん」
 いっそう笑みをふかくした白露は、そうして、五月雨に向かってまだすこし硝煙の匂いのする手をのべてきた。
「五月雨、ほら、行こう」
 白露が、今にも空を駆けてゆきそうなほどあかるく弾んだ声でいう。
 飛沫を上げて弾けた波間で、みんなの声がこだましている。おかえり。だいじょうぶ。いきてる。おわったんだ。おわったんだ、もう、みんな。
「ね、行こう! 五月雨、これから私たちね、どこにでも行けるし、なんにだってなれるんだよ!」
 戦いが終わった。
 一年前の夏、とても、とても暑い日のことだった。

「す、すみませんっ……すみません、降りまぁす!」
 われながらなんともなさけない声を上げた五月雨は、人のぎゅうぎゅうに押し込まれてゆく電車からぺっと吐き出されるみたいに、ようやく降りることができた。
 背中のすぐ近くで扉が音を立てて閉まる。髪の毛の一本でも巻き込まれてしまったか、ぷつっと短い痛みが走る。だがそんなことを気にかけている暇もなく、五月雨は背中を丸めて重いため息をついた。
 午後六時過ぎの都心から来る電車は、あまりにも地獄だ。ぎりぎりでも降りられたのは、ほとんど奇跡に近い。肩にかけなおしたスクールバックも、今日はしわが寄るくらいですんでいる。ひどいときは気に入っていたキーホルダーを引きちぎられてしまうので、今日は本当に、これでもましなほう。
 はあっともう一度息をついてから、またどこかで電車の到着したらしいサインの音を聞きつつ、五月雨はようやく改札へ向かう階段に足をかけた。今のうちに覚悟を決めておかなければ。ここを上がったらまた人でごった返していることだろう。立ち止まることは許されない。
 ええと、定期の残額は足りていたっけ。通学路からは外れていても、ここまでの電車賃はしっかり頭に入っている。あそこまでが170円、乗り換えで210円、よし、だいじょうぶ。制服の上から羽織っている、ダッフルコートのポケットの中できゅっと手を握って気合を入れる。後ろの疲れた顔のサラリーマンから鞄で膝を突つかれたけど、なんとか改札は問題なく抜けられた。
 五月雨が本当の意味で一息つけるのは、駅の北口を出て階段を下り、細い通りを二つ曲がったその後、小さな商店街でのことだ。
「ふあぁぁ……」
「おっ、五月雨ちゃん、おかえりぃ!」
「あ、おばさん、こんにちはぁ……」
「あっはっは、今日もたっぷり揉まれてきたみたいだねぇ」
「はいぃ、今日もひどかったです、ほんと」
 とたんに、アーケード入口にある八百屋のおばさんが接客をしながらでも声をかけてくれる。その程度には、このあたりの人々と五月雨はすっかり顔なじみだ。
「はい320円ちょうど、毎度あり! ……で? 今日はなんか買って行くかい?」先ほどまでのお客さんにトマトを手渡し終えたおばさんは、ふっくらした顔にふっくらした笑みを浮かべて、こっちまで駆け寄って来てくれる。両肩にずっしりのっていた満員電車疲れが、ほんのすこしだけ軽くなった。人によって与えられたものは、同じく人によって癒されることが多いのだ。
「うーん……それじゃあ、白菜とお葱をください」
「あいよ! いいねぇ、身体のあたたまる野菜だね。たくさん食べさせてやんな」
 おばさんが袋に野菜を詰めてくれているあいだに、バックから財布を取り出す。あ、30円出せそう。顔をゆがめながらもウインクしてくれたおばさんが、おまけに大根半分を一つ入れてくれた。
「すみません、いつもおまけしてもらっちゃって」「いいよいいよ、五月雨ちゃんだからね。なぁ父ちゃん、かわいいからおまけしたげてもいいよねー!?」店の奥にいるらしいおじさんが、おーう、と間延びした返事をする。
 おばさんと元気にやり取りをするのも好きだけれど、店先の椅子でうつらうつらしてばかりいるおじさんとのんびり話すのも、五月雨はそれなりに好きだ。きまってそのあとポケットから取り出した飴玉をもらってしまうのは、高校生なのになんだか子供みたいかなって少し恥ずかしいけど。
「ほい、おつり700円ね! どーせまたろくなもん食ってないんだろうからね、しっかり力つけさせてやんなよ」
「はいっ。ありがとうございます、おばさん」
 野菜の袋を片手に、大きく手を振ってくれるおばさんと別れた五月雨は、アーケード商店街の中を少しゆっくりめに歩いていく。
 なんとなく色のついたタイルを選んで踏みながら考える、あと何を買って行こう。あと、ひき肉が安かったから細かく刻んだネギと、あとしょうがとにんにくでお団子を作って、白菜と煮てお鍋にしようかな。「おー、五月雨ちゃん! 今日は夕張んとこかい」「こんばんは! えっと、はい、そんな感じです」なじみのお店を通りがかると、笑顔まじりの声がかかる。
 一年前の夏に戦いが終わって、母港という家を無くすことになった艦娘たちは、みんなそれぞれに「生活」をはじめることになった。彼女たちの魂が受け入れやすいようにと、先の大戦の頃のような町並みを模し、艦娘のために作られていた鎮守府の街もなくなり、特別指定区画として区切っていた高いコンクリートの塀もみな取り払われて、止まっていた時計が急速に動き出したのだ。街はあっという間に近代化され、高層ビルが立ち並び、電車が走るようになり、あちこちに新しい校舎の学校ができた。
 いまの五月雨たちは、そのうちのひとつ、かつて艦娘だった子達の多くが通っている全寮制の学校で、姉妹揃って勉強している。今年の春に中学から高校へとエスカレーター式に上がり、それから冬になった今となっては、あとひとつ季節を越えればもう高校二年生だ。もちろん他にも、街のあちこちで、いろんなやり方で、武器を捨てた子たちは毎日を生きている。
「どこにでも行けるし、なんにだってなれる」と、あの夏の日に白露は言った。みんなその通りになっているのかなと、片手に重く食い込む買い物袋をぶら下げながら、高架をごうっと走ってゆく赤い塗装の電車を見ながら、五月雨は思う。金剛たち四姉妹は、お金を貯めていつかみんなでイギリスへと行くんだそうだ。バイトバイトで毎日駆けずり回っているらしい比叡が、このあいだ誤字だらけのメールで教えてくれた。携帯電話の使い方は、まだちょっと慣れていないみたいだけれど。
 そういえばこのあいだ、村雨が雑誌を持ち帰ってきて、そこのコラムに青葉の名前が載っていた。鎮守府だよりを書いてくれていたときと同じ、その場で出来事をみているみたいなわくわくする文章で、旅をした先でのことが記してあった。コラムは全部で十四回、全国各地を巡るらしい。きっとそんな青葉の隣では、古鷹がカメラを抱えているのだろう。
 学校に通っている五月雨の姉妹たちだって、なんとなくそういうものをそれぞれ見つけているように思う。成績はあんまりふるわなくたって、なにかしら行事ごとになると白露は一番先頭、リーダーだ。ここぞというときみんなが頼るのは、いつもうちの一番上の姉。時雨はたまに学校をふらりと休むことがあるけれど、図書館で働いているのだという扶桑たちのところに通っているそうだから、きっと他の子たちよりずっとものを知っている。村雨はとにかく頭が切れる。高校に上がっても先生の度肝を抜くような点数を叩き出し、いったいどこまでいくんだろうねなんて本人が口にするくらいだ。
 部活動をすごくがんばっているのは夕立と涼風で、去年始めたばかりのバスケットボールで、夕立は一年生でのレギュラー入りをきめた。来年にはきっと全国大会まで行くんじゃないかしらって、応援席でなんだかちょっと興奮したみたいに赤い顔をした由良が言っていたのを覚えている。涼風はそんなふうに爆発的な才能があるわけじゃないけど、毎朝早くに起きて走り、夜グラウンドが暗くなるまでまた走り、少しずつ少しずつ短距離走のタイムを縮めて、このあいだやっと大会のメンバーに選ばれた。五月雨とずっとお揃いくらいに長かった髪を、そろそろ切ろうかなって最近良く口にする。
 だから、みんなすごいな、と、ここのところ五月雨は、しょっちゅう考えるようになった。
 だって私には、そういうものがまだないみたいなのだ。満員電車からもうまく降りられないから、遠くへ行くことなんてなかなか考えられない。特別得意なことがあるわけじゃなし、やりたいこともあるわけじゃなし。勉強も村雨に頼りつつがんばってがんばってようやく中の上くらいで、吹奏楽部は楽しいけれど、オーボエの腕前は一年生三人のうちでちょうど真ん中くらいだ。
 どこにでも行ける、なんにだってなれる。そうなのだとして、私はどこに行きたいんだろう。なにになりたいんだろう。可能性の広さばかりがわかっても、自分の足元がまだよく見えていないから、私はすぐにつまずいてしまう。そう思うと五月雨は、いつもじゃないけど、たまに、立ち尽くすほどはっとしてしまうのだ。
「……さむいなぁ」
 鎮守府の冬も、たしか寒かったはずなのだけれど。雑居ビルのあいなかをすり抜けながらつぶやくと、握り合わせた手のひらの中にすら、それはきりっとさしこんでくるようだった。

 一度目のチャイムに返事がないのは、もはや慣れたことである。問題は二度目以降で、ここから先は五月雨自身の判断が重要になってくるのだ。スクールバックと買い物袋をいったん置き、ちょっと考える。
 悲鳴みたいなチャイムはもう四回鳴らしたけれど、返事らしい返事はない。どころか、中からは物音一つ聞こえてこない。メールのやりとりは三日前を最後に成立しておらず、明日伺いますからねと電話した昨日の夜も、会話したのは留守番電話サービスとだった。残念ながら材料は揃ってしまっている。五月雨はおそるおそる、アパート302号室のドアノブに手を掛ける。
「あー……」
 鍵は空いていた。いくつか予想できたうちの、どうやら今日は最悪のパターンだ。五月雨はしかたなしに短く息をつき、荷物を抱えて、わざと大きめの音を立てながら扉を開ける。
 いのいちばんに目に飛び込んできたのは、リビングの床にてひょこんと揺れる、緑のリボンだ。ああ、もう。入ってすぐの台所に荷物を置き、ずんずんとそっちに近づいていく五月雨の背中で、重たい金属音を立て扉が閉まる。それでもぴくりとも動かない、床に突っ伏している人に向かって、五月雨はすうっと息を吸ったのち叫びかけた。
「ゆーうーばーりーさんっ!!」
「わひゃあっ!?」
 やっと起きた、夕張の頬には、寝たあとがばっちり残ってしまっている。少し長くなりつつあるようにみえる銀髪も、みっともないくらいくしゃくしゃだ。
「ぅえ、あ、あれ?」どのくらい寝ていたのか知らないが、まだすこし隈の残る目をぼやっと開けた夕張は、半身だけ起こしてあたりをきょときょと見回した。こんなに近くに立っていたというのに、五月雨を見つけるまでは随分かかったと思う。認識するまでともなれば、もうこっちがしびれを切らしそうなくらい。「あれっ、さ、五月雨ちゃん! わ、い、いつ、えっ!?」
 今さらあちこち跳ね回っている髪だの白いあとの残る頬だのを拭いだす夕張に、五月雨はすこしの頭痛を覚えつつ、まっすぐバスルームを指差した。
「とにかく。シャワー、浴びてきてください」
「……ハイ」
 頭ひとつ以上は体格差があるはずなのに、随分縮こまってそういう夕張に、五月雨は遠慮なく嘆息してしまう。
 どうせまた三日徹夜明けとかなんでしょう、夕張さん。そしてふらふらと部屋まで戻ってきて、そのまま力尽きてしまったに違いない。その恩恵を受けている身ながら、鍵のひとつくらいきちんと閉めてくれないものだろうか。くくりとしては一応のところ学生と社会人、という段差があるはずなのに、しかも夕張の方が一般的にいって高い位置にいるはずなのに、小言の尽きない五月雨である。勝手知ったる脱衣所の、洗濯済みのタオルが重なるうちからバスタオルを引っ張り出して、しょんぼりしている夕張の手にしっかり押し付ける。
「上がったら、すぐご飯にしちゃいますから。お鍋でもいいですか? お米、まだあります?」
「えーっと、まだあった、と思う……? あれ? いや、あったはず、棚の……あいや、どの棚だったかしら、ええと、」
「……夕張さん、明日はお休みなんですか?」
「へ? あ、うん。今日でだいたい急ぎの分は片付いたから」
「なら、明日は一緒にスーパーに行きましょう。お米もですけど、日持ちするおかずも作っちゃいますから……荷物、いっぱい持ってくださいね!」
「はいぃ……」
 かなり情けない声での返事を残した夕張が、とぼとぼとバスルームへ向かっていく。脱衣所の引き戸が閉められるまでそれを見送った五月雨は、何が入っているのだか(持ち主であるはずの夕張本人ですら)判然としないダンボールを避けつつ米びつを発掘するところから始めた。本人の記憶も危ういだけあって、ぎりぎり一合半だけしか残っていなかったが、とりあえず今夜くらいは食べられるか。
 お鍋は材料を切って煮ておくだけだし、ひと段落したらすこし部屋も片付けないと。二人座る場所の確保すら危うい惨状を見て、五月雨は素早く作業工程を組み立てていく。一週間前に見たときとは比べ物にならないほど散らかってはいるが、エプロンはかろうじて馴染みの場所にぶら下げてあった。持ち主であるはずの夕張より、よっぽど多く身に着けているモスグリーンのエプロン。背中で紐をきゅっと結び、セーラー服の袖を肘まで捲る。バスルームから、シャワーの水滴が弾ける音が微かに響いてきていた。
 ほかの艦娘たちだってそう、五月雨の姉妹たちだってそうだけれど、行きたいところへ行って、やりたいことをやっている人といえば、やっぱりこの人なのではないかと五月雨には思えている。
 艦装を持ち出しては夜遅くまであちこち弄り回して、工廠にいる妖精たちや任務さんに叱られてばかりいた夕張は、けれどもその知識と技術を見込まれ、今は鎮守府あとに設立された特殊産業技術研究所の研究員として活躍していた。自分にはまだ難しい話がかなり多くて、十全には理解できないことばかりなのがすこしもどかしいけれど、その働きぶりはというと目を見張るものらしい。
「そうね。まあ噛み砕いていうと、今も昔も変わらず、あの子が子どもみたいに目を輝かせてやってることが、なんだかうっかり、わたしたちを守ってくれているみたいって。たぶん、そういうことよ」鎮守府を出てからも夕張とは懇意にしていて、自分のこともちょくちょく気にかけてくれる由良は、微笑みながらそう言った。初めて奢ってもらったコーヒーショップのエスプレッソがまだすこし苦かったことだとか、からかうような口調でも静かな瞳に確かな尊敬を浮かべていた彼女のことだとかを、五月雨はとてもよく記憶している。
 夕張さんの作ったものや、見つけたことが、世界のどこかで、だれかの役に立っている。それを実感することはなかなかない。けれど、日々暮らしているだけではわからないというところまで含めて、それはとても、とても尊いことであるように思えていた。
 ただ。
「すごい……調味料の配置、私が先週来たときそのまんまだ……」
 ただとにかく、鎮守府にいたときからその兆候は見え隠れ見え見えしていたのだけれど、とにかく夕張はその一点にばかり集中してしまい、健康に生活する、ということに対してあまりにも気を配ってくれないものだから。
 しっかり練った肉団子のたねをひとつずつ丸めて、キッチンペーパーを敷いたお皿の上に並べていく。寮では朝食も夕食も出るのだけれど、こうして定期的に夕張の部屋を尋ね料理をしているあいだに、我ながら随分腕も上がったし、レパートリーも増えたと思う。掃除や洗濯、整理整頓に至るまで、そういえば家事という家事なら姉妹たちが舌を巻くほど手際よくできるようになった。もちろん昔と同じくドジをすることがないではないというか、かなり頻繁にあるのだけれど、その対処法までしっかり身に着けられてきたので、前ほど困り果てることはなくなっている。
 だって夕張さんは、すごいひとなのに。肉と野菜をくつくつ煮込んで、湯気を立ち昇らせるお鍋から、ていねいにあくをとっていく。今夜じゅうに洗い物を片付けて、明日の朝はお洗濯から。お日さまをたっぷり浴びたシーツとお布団なら、毎晩デスクでばかり眠っているひとの疲れも、すこしは多くとれるだろうか。行きたいところも、やりたいこともあって、たくさんたくさんがんばっている、すごいひとなのに。
 なのにいつも痩せてくたくたな顔をしているのがなんだかひどくもどかしくて、五月雨はいまやほとんど毎週、こうして一人暮らしの夕張の部屋を訪れていた。散らかった部屋を片付け、その先三日くらいなら食べていけそうなぶんの食事をつくる。今の私がなにかひとつ、ほかのみんなと違ってやっていることがあるとしたら、これひとつだけなのだろう。
 でももちろんそれは、今朝見送ってくれた白露と時雨が言ってくれたように、商店街のおじさんおばさんが言ってくれたように、同じクラスで一番仲良しの藤崎美代ちゃんが言ってくれたように、えらいねって褒められたり、感心されたりするべきことではない。だってなんだかもどかしいっていうのは、ようするに私の勝手なのだ。羨ましいのかもしれないな、と、たまに考える。行きたいところややりたいことのわからない私には、今の夕張さんがまぶしくて。その光のようなものを少しでもわけてもらいたくて、私はいつもここにきているのかもしれない。
 本当にそうなのだとしたら――とても、悪辣なことだけれど。
「わぁ、いい匂い!」
「っひゃあ!?」
 なんて、湯気にじんわり視界をくもらせていたら、後ろからひょいと覗きこんでくるのだから、このひとときたらたまらない。
「ゆっ、ゆ、ゆ、ゆう、」ばりさん、がおそろしく出て来なくて自分でもびっくりする。だって背中、せなか、すぐそばで。そのあたりがほんわりとあったかいのは間違いなくこのひとがシャワーを浴びてきたばかりであるからで、制服におおわれているところならまだしも、むき出しである項のあたりをくすぐってくるもの柔らかな温度は、残念ながら殺人的だった。
「……五月雨ちゃん? えっと、お鍋ふいてるけど、いいの?」しかも右肩の上あたりからきょとんと覗きこんできて、鼻先すぐそばでまだ濡れた髪の匂いまではじけさせるのだから、ほんとうにたまらない。
「っ、……っ、ゆ、夕張さん!」
「はいっ!?」
「かみ!」
「か、かみ?」
「髪っ、ちゃんと、乾かしてきてくださいっ!!」
「は、はい!!」
 お願いだから、おねがいだからいきなりそんなそばにこないでください、肌に髪がはりついてるのとかみせないでください、あんまり、いっぺんに、どきどきさせないでください。
 ほかに言うべきことをみんなみんなぎゅっと抑え込むために、不必要なほど大きな声を出さねばならなかった。あわててドライヤーのある鏡台まで戻って行った夕張さんは、きっとそんなこと、しらないんだろうけれど。

「はー、いい匂いー……あったかそう……いやされる……」
「……あの、夕張さん? 冷めちゃうので、早く食べましょうよ」
「うんうん、わかってるけど。なんだかね、眺めてるだけ胸いっぱいになるなぁって」
「もう……」
 そんなことを言ってしまう、このひとは、きっとしらないでいることばかりなのだ。
 どちらかというと勝手に押しかけて、余計な世話を焼いているような私に向かって、あったかそうに笑って、ありがとね、なんてゆるんだ声で言ってしまうこのひとは。私が洗濯物を干している横でお昼近くまで寝坊して、うすく目を開けたかと思ったら手招きをしてきて。なにごとかと寄っていったら、やさしく頭を撫でて、おはよう五月雨ちゃん、ああ、なんかしあわせねえって、そんなことを言ってしまうこのひとは。たいして上手でもなかったころから、何を食べてもおいしいおいしいって褒めてくれて、いただきますもごちそうさまもにっこり笑って言ってしまうこのひとは。
 このひとは、私がどんな想いでいるのか、どんな自己満足な想いでいるのか、きっとなんにもしらなくて。
「ん、おいしい! うー、しあわせ……いつもいつもありがとうね、五月雨ちゃん」
「……いえ、そんな」
 だって、――だって、私きっと、夕張さんに、ありがとうって言われるようなこと、そんなこと、ほんとは、ひとつも、

「ほんと。五月雨ちゃんのこと、お嫁さんにしちゃいたいわ」

 それは、お箸とご飯茶碗を片手に、あまりにもあっさりと口にされた言葉だった。
 多分にまともに寝ていない夕張はとろんとした瞳をしていて、だから間違いなくそれほど真剣に考えて口にされた言葉ではないはずで、わかって、わかっているのに、五月雨の手はぴたりと止まる。肉団子と白菜と大根をとりわけていた手が、ぴたりと止まって、しまう。夕張さんは気付いていない、まだなんにも気付いていない、あと一秒以内に動けばきっと変には思われない、動け、動いて、どうか!
「……っ、」でも、だめだった。頭の中で、同じ言葉ばかりが反芻される。お嫁さん。お嫁さんって、なんだろう。頭の中の、いつだっていやになるくらい呑気なところが、固まって軋む身体もよそに勝手に考えだしてしまう。時雨がたまに貸してくれる本や、寮の大部屋のテレビで見ただけの知識が、それだのにやたらと鮮やかな色を以て頭の中を流れていく。たとえば、おかえりなさいって。またたくさんたくさんがんばってきた夕張さんに、おかえりなさいって、一番に、言えたら。
「あ。さ、五月雨、ちゃん?」
 とうとう夕張に、怪訝な顔をさせてしまった。目がうまくはたらいてくれないからよく見えないけれど、お茶碗の上にあわてて箸を置いたような、かちゃんと甲高い音がした。「ごっ、ごめんね? あの私、変なこと、言って――」
「……がっこう、」
「へ?」
「学校、ちゃんと出たら。……そのとき、には」
 いったい、今までどこにしまっておいたんだろう。
「そのときには、私のこと……夕張さんの、お嫁さん、に。して、くれますか?」
 そんなふうに五月雨自身びっくりしてしまうほど、その言葉は、あまりにもぽとりと出てきてしまって。
 どたんだかばたんだかがたんだか、とにかくやたらにまぬけで大きな音がした。もちろん、向かいの夕張からだ。
 いきおい低いテーブルの、カセットコンロの上で湯気を立てていたお鍋の中身が揺れて、煮汁が数滴飛び散ってしまう。だがそうだったからといって、すぐにティッシュを手に取れるほど余裕を残している人間が、残念ながらここにはいない。だってよりによってこんなときにそばを通っていった電車の音にも、二人、両肩を跳ねさせてばかりいたのだから。
 直後の夕張の様子については、なんだかすごくおもしろかった、というのが忌憚のない本音である。脚をばたばたさせるみたいに立ち上がって、なぜか身体の前でぽん、ぽん、と両手を叩くように合わせていた。視線は一度たりともまともにこっちを見ることはなくて、棒立ちになったかと思えばあっちにこっちに足を一歩踏み出しては戻し、ようするにほんのわずかなあいだだってじっとしていることはなかった。それから。
 それから、顔が、下ろした銀髪の隙間からのぞく耳の先っぽが、すごく、赤かった。
「あっ、……ああ、ええ、と」
 どこに行くかをまったく決めあぐねていたようであったそのひとが、やっとのことで明確な一歩を踏み出したのは、もごもごと言葉らしくない言葉をこぼしてからのことだ。
 一人のために作られた、一人のためにだって少し狭いように思える部屋の中で、必要な歩数はそれほどない。二歩も歩けば部屋の隅っこで、彼女の行き先はその隅にある机の横の棚だった。上に乗せられていた書類だのペンだのをばさばさ落っことして、二番目の引き出しを開き、手というか腕というか肩までつっこんで、中を探っている。
 もう何も言えそうにないし、どころかもうほかには何もできそうにない気分だった五月雨は、それでも顔だけはしっかり動かして、夕張のことを見ていた。明日じゅうかかっても終わらないかもしれないくらいあたり一面散らかして、なにかを懸命に引っ張り出そうとしている、彼女のことを、見ていた。「えっと、……えっと、うん」
 ああ、ゆうばりさん、さがしもの、みつかったみたい。
 さっきからずっとせわしなかった夕張が、今度はそれがうそみたいにぴたりと動かなくなったのを見て、五月雨はぼんやりと、ぼんやりと、それだけを考える。
「ほんとは、……っほんとは、なんかもっと、なんていうか、ちゃんと、……そう、ちゃんと、言おうと、……だけど、でも、ごめん、ごめんね、五月雨ちゃん」
「ゆうばり、さん」
「ごめんね。」
 いろいろ考えてたのにな、と、両手をぎゅうっと身体の前で握り合わせたまま、背中をひどく丸め込んでしまったままそばに立った夕張は、かすれた声でこぼしていた。「いろいろ、かんがえてたのよ。どうしようって、どうしてあげようって。いつ、言おうかって」
 多分これは大きすぎる、そして距離の近すぎる独り言なのだろうと、五月雨はどうにか理解する。きっともうそんな判断すらうまくゆかないほど、しっちゃかめっちゃかになっているのだ。夕張さんにしたって、――私に、したって。
 跪くというよりは、どちらかというと崩れ落ちるように、夕張がすぐそばに座り込む。
 目が、
「五月雨ちゃん」
 目が合う。
 ちゃんと言ったのにまだなんとなく濡れたままでいる前髪の下、こっちをゆさぶってきそうなくらいぐらぐら揺れて、濡れている瞳が、それでもぎりぎりのところで喰らいつくみたいに、じっとこっちを見る。
 飛び込めそうだって、なんでだろう、私、すごく、思ったんです、そのとき。
「しあわせに、」
 いまなら夕張さんに、飛びこめそうだって。
 なぜだかそのとき、わたし、私は。
「幸せに、するから。」
 その一言で、どうしようもないくらいじわじわ滲んでぼやけてしまう視界の中で、薄暗い蛍光灯を反射する、銀の光が見えた。ちりんと鳴った鈴の音。キーホルダー。夕張さんの好きな、火曜日二十五時三十分から始まるアニメのキャラクター。それから。
 それから、私とこの場を繋ぐ、とてもたしかに繋いでしまう、銀の。
「ぜったい、……ぜったい、するから、ね」
「ゆうばりさん」
 ああ。手に、ゆっくりと握りしめる。ああ、ああ、私。
 ああ、私きっと、この鍵があれば、そうだ、どこにでも行ける、なんにだってなれる!

「ふつつかもの、ですが。っ、よろしく、おねがい、します」

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