1103・右手に弾丸 左手にチェリーパイ




 水から出てしまった魚は、どんなかたちをしてると思う?
 鎮守府広しといえど、夕立がよくする突拍子もない(本人は特にそうは思っていないのだが、周りからはよくそう言われる)問いにたいして、まともに取り合ってくれる子は実のところかなり少ない。夕立さんはとっても天真爛漫な子なのね、などとくすくす笑ってくれる鳳翔あたりの反応なんかはまだいいほうで、北上あたりに振ってみようものなら無言でひどいしかめ面を見せられるのがおちだ。
 姉の白露や村雨は話を最後まで聞いて熟考してくれるという点ではありがたいのだけれど、熟考といっても長くて五秒だし、後に続く返答はいつも同じだ。「ごめんっ、よくわかんないや!」そういう意味では妹である五月雨と涼風の考える時間はさらに長いのでより誠実といえるのかもしれないが、彼女たちの場合は考えすぎて煙を吹きはじめることがままあるので、どちらかというと問うこちらのほうがためらわれる。
 だから、夕立が頭にうかんだそういったものたちを安心して投げかけられるのは、だいたいいつも二人きりだ。
「そもそも水から出てしまった生きもののことを、魚と呼んでもいいものなのかしら」
「……えー? どこに棲んでても、魚は魚なんじゃないの?」
「そう? 棲んでいる場所が変わったら、名前も勝手に変わるものだと思うけど」
 だってはじめの名づけからして勝手なものじゃない。わずかに目を伏せたままで、由良は答える。
 二度にわたる改造をすませた夕立の背は、少なくとも肩より下から頭ひとつぶん程度には由良に追いつくことができていた。だけど程度がどうかということよりも差のあるなしというほうが夕立にとってはずっとずっと重要なことで、追い越すどころか追いつくこともできなかったのだということだけが、いつだってはっきりしている。おかげでこうして出撃前に髪を整えてもらうときにわかるのは、ずっと変わらず、由良の睫は長くてきれいだってことばかり。
 ものの名前は呼ぶひとによっていくらだって変わってしまうものだから、と由良は言う。「誰かが最初にわたしたちを艦娘なんて名前で呼び始めなかったら、きっとわたしたちにはまったくべつの名前がついていて、それを今と同じようなかたちで受け入れていたと思うもの」そのときはもうすこしましな名前だったらいいのにね、とかるい声で言いながら、由良はおしまいに、夕立の額にぽんと手をあてた。「はい、できた」
 燃料に弾薬、主砲副砲その他の装備、艦載機といったものなら勢揃いしているが、さすがに出撃の準備を整えるための場所に鏡はない。なので夕立自身だって、自分が頭に結んでいるリボンがよれているかどうかわからない。しかたなさそうに笑った由良から、こっちへいらっしゃい、と言われて初めて、それがあまり整ったかたちをしていなかったことに気がつく。出撃の朝は早く、由良は早起きが苦手だ。そして母港の廊下を走りながら美しくリボンを結べるほど、夕立の手は器用にできてはいない。
「ありがとー、由良!」
 そうっと頭のてっぺんあたりをさわってみる。ほんとうのところそれはリボンの結び目をたしかめているというよりも、由良がさっきまでさわっていたところをなぞっているのだけれど、由良がそれに気づいているかどうか、夕立にはわからない。
「今日は、キス島撤退作戦よね。駆逐艦ばかりの編成だから、提督さんはとても心配していたらしいけど」
「そなの?」
「あのあたりでは、戦艦ル級の棲息も確認されているみたいだしね」
 淡々と言いながらも、由良の手はさっきからずっと夕立の髪を梳いてばかりいる。自分のよりもすこし繊細な指先が、跳ねた耳かなにかみたいについてしまったへんなくせのあるあたりを、するするとすべっていく。由良は提督さんが心配していた、という話しかしない。たぶんいつもそうだ。
 五月雨がうしろのほうでまた空の燃料缶かなにかをひっくり返してしまったようで、盛大な音が響く。あれの片付けもふくめて、出撃まで時間の猶予はもうすこしだけあるようだった。北方海域、キス島沖撤退作戦。駆逐艦隊旗艦・時雨の護衛をつとめ、火力の要を一手に引き受けることとなっている夕立は、くしゃりと肩をすくめる。
 頭の上にもっていっていた手をそのまますこしおろすと、由良の手はまだちゃんとそこにあった。ニンゲンのからだをもっているあたしたちにはみんなみんな体温っていうのがあって、由良の体温はきっとちょっとつめたい。みんなそう言う。なのにこうしてさわると、あったかい、っていうふうにばかり思えてしまうのが、あたしにはちょっとふしぎで、ちょっとうれしい。ひとりひとりが勝手につける名前。あたしはみんながつめたいって呼ぶのと同じようには、由良のことを呼ばないんだ。
「ね、ね、由良。今日は遠征、なにするの?」
 せっかく整えてくれた髪をあやうくくしゃくしゃにしそうになりながら、手をふわふわ握る夕立に、由良はすこしだけ眉をひそめていた。けれども漏れたのはため息ひとつきりで、特に振り払うこともしないままでいてくれる。
 それこそ夕立がここにくるよりも前から鎮守府にいるのだという由良は、ずっと第二遠征部隊の長をつとめ、ほかの軽巡や駆逐艦を率いて毎日遠征に向かってくれている。夕立ももともとそこにいたのだが、来るキス島沖撤退作戦のため、出撃部隊のほうへと回された。由良のあとをついておつかいに向かう日々から、深海棲艦と戦う日々に変わったわけだ。
 正直なところ初めは由良とべつの艦隊に配属されたことがかなり不満で、それを告げられた日など執務室で一日中ほっぺをふくらませていたため提督がすっかり縮こまってしまい、秘書艦の時雨になだめられたりなどもしたのだが。いまではまあ、うん、けっこう、これも悪くないなって思ってるよ、あたし。
 だってね、ただいまって一緒に言うのも好きだったけど、おかえりって言ってもらうのも、それと同じか、もしかしたらそれよりももっと、好きだもの。
「今日は艦隊決戦援護作戦だけれど……どうして?」
「ええー、あの半日もかかるやつ!? やだ、じゃああたしが帰っても、由良母港にいないじゃん!」
「やだって夕立、あなたねえ」
「だぁってぇ……」
 あきれたように由良がちいさく首を振る。そのとき握っていた手がすこし動いてふれられたから、自分のほほがぷうっとまた丸くなっているのに気がついた。やっぱり姉妹だね、そういうところは涼風とそっくりだなんて、いつか時雨から笑われたっけ。
「……あ、わかった。夕立、あなた帰ってきたときのお菓子がないから不満なのね?」
「へ?」
 言われてみればたしかに、由良はいつも、夕立が出撃から帰ってくるたび、なにかしらお菓子を持って出迎えてくれていた。好きだっていうのならただいまってお腹がからっぽになるくらい言ったあと、やさしくて落ち着いたおかえりなさい、のあとにいつも口に放りこまれることになる甘いものだって、そりゃ同じだけど。からっぽになったお腹に、ビスコだのミニドーナツだのマーブルチョコだのは、それはもうよく沁みわたってくれたものだけど。
「しようのない子ね。ちょっと待ってなさい、たしか……」でもこれってべつに、そういうわけじゃなくて。そういうわけじゃ、なかったんだけど。夕立が言い返す前に、もう由良はセーラー服のポケットをまさぐっていた。いくらもしないうちに、かろんかろんと歌うような音が彼女の左手の中で鳴る。ひどくよく見かける、緑色の缶。「ほら、夕立」
 くち、あけて。
 そのあとぽんと舌の上にのっけられたものよりも、言葉のほうがずっとずっと砂糖菓子だったよって言ったら、由良はどんな顔をするだろう。
 けれども夕立の舌はもういちごのドロップを味わうのにすっかり忙しくなってしまって、話をしている余裕なんてすこしものこっていやしなかった。それすら由良の計算だったとしたらおそろしいけれども、たぶんそんなことはない。この場合そんなことはないというのが、ある意味一番の問題であり病理だった。
「とりあえず、それでがまんしてね」
「んん……」
 由良はいよいよ夕立のことを見送ろうとしている。手が離れてしまった。向こうで時雨がそろそろ行くよと呼んでいる。さすが同じ白露型の姉妹たちというべきか、五月雨がドミノばりに倒してしまたったドラム缶も、いまやすっかり元通りになっていた。慣れているのだ。
 夕立は急いで、内頬に押し付けるようにまだ大きいドロップをもごもごと押し退ける。
「っ、由良!」
「なあに、もう。夕立、いい加減にしないとみんなに迷惑でしょう」
「待ってるからね!」
 それだけ言った夕立は踵を返すと、こちらに向かって手を振っていた時雨の隣まで走った。目だけで振り向くと、由良はすこしぽかんとしている。
「みんな、大丈夫? 白露に五月雨、忘れ物はしてない? 村雨に涼風、ちゃんと起きてる? 夕立、もういいかな? ……うん、よし。じゃあ、行こうか」
 旗艦・時雨がゆっくりと掲げた手を、素早く降ろす。それを合図に艦隊六名全員が地を蹴り、母港から伸びる埠頭を駆けてゆく。最後にちょっとだけ笑いかけてみたけど、由良、わかんなかったかな。思いっきり走っているせいで身体が揺れて、ドロップが歯にぶつかってかちかち音を立てている。さっき押し付けていたせいで、内頬がすこしざらついていた。
 埠頭の端を蹴って高く高く跳びあがり、着水する。膝の上あたりまでいったんは沈むが、足もとのエンジンがすぐに稼動しはじめ、水を切って進み始める。跳ねあがる飛沫が頬を叩き、鼻の奥でくすぶっていたいちごの匂いが、いっぺんに襲い掛かってきた潮の香りに塗りつぶされた。雲は多いが天気がいい。うすい灰色のあいだからのぞく光が、梯子みたいに伸びている。
 一二.七cm連装砲B型改二を抱えなおし、すこしだけ右足に体重をのせる。直線だった進路がわずかに右に逸れたのを確認したのち、身体をかがめて速度を上げる。両足で水の上を滑るように進む航行方法に戸惑っていたのは初めだけで、今ではすっかりお手のものだ。なにより駆逐艦は快速であることが肝要で、お手のものというか戦艦や重巡洋艦たちと出撃するときなどちょろちょろ彼女たちの周りを飛び回るので、山城だの那智だのから一喝をくらうのが常でもあった。
 でも今日は同じ白露型駆逐艦の面々ばかりだから、遠慮なく飛ばすことができる――とはいえ若干調子に乗りすぎたか、単横陣からひとり先頭にはみ出してしまって、隣をゆく時雨からすこし笑われた。
「どうしたの、夕立。なんだか元気だね。さっき由良と話していたから?」
「んー? んー……」
 無線越しに穏やかに尋ねられたそれに対して、あまりはっきりとした答えを返さなかったのは、まだ口の中に残っていたドロップが大きかったから、というのが半分。あとの半分は、ふふっと勝手にゆるんでしまった口もとのむこうなんかに隠れてしまって、夕立にもよくわからない。
 それでも時雨は首をすこし傾げたきり、いらだったようすなんかはちっともみせないでいてくれた。
「ん、あ。ねえ、時雨」
「うん?」
「水から出ちゃった魚って、どんなかたちしてると思う?」
 この姉がいつもそんなふうであるから、由良と時雨、その二人にだけ、夕立はいつもそんな質問をぽろりとこぼす。
 白く海水を波立たせて進みながら、時雨はすこしだけ考えるように視線を空へと放った。
「さあ……どうだろう。わからないけど」
「うん」
 夕立よりもすこし早く二度目の改造を受けた姉の、左耳の上あたりでは、赤い髪飾りがちりちりとゆれている。
「でもきっと、僕たちと同じように、二本の足で歩くようになるんだろうね」
 きっとそうしたいって思ったから、わざわざ水から上がってきたんじゃないのかな。
 おしゃべりはそこまでだった。時雨の表情が一瞬にして変わる。海の底に、波のあいだにひそむ敵の姿をもっとも素早く、そして正確に感知できるのはこの中だと時雨だ。
「……敵艦発見」
 通信が発せられ、全員が戦闘態勢に入る。さいわいと近くにある渦潮にはさらわれずに済んだようだ。このあいだはそれでひどい目に遭った。
 砲戦、用意。同じく敵影を感知した夕立の身体じゅうが、ざわりと波立つ。隅々まで張り巡らされた血管をめぐる液の温度が跳ねあがって、さっきまでとはまったくべつの生き物のように、心臓がずぐりずぐりと高らかに脈打ちはじめる。鈍い赤に染まった視界は、それだのにさっきよりもずっと見えやすい。飛沫も陽光もいらないものはすべて排除して、敵が蠢いているのだけがくっきりと捉えられる。とても見えやすい。
「夕立っ!! 危な、」
「へーきっ!」
 時雨に叫び返すが早いか、すぐ真横で敵の放った砲弾が爆発し、水柱が上がる。広がる波紋と衝撃に吹っ飛ばされる、が、空に放り出されたまま、夕立は足もとの太陽を蹴り飛ばすように爪先を振って、ぐるんと身体を回転させた。高々と飛沫を上げながら着水する。
 そうして舞い上がった水滴が海面を叩くよりも早く、夕立が敵へと向けた砲口が爆発する。少女の腕で耐えきれているのが不思議なくらいの衝撃がびりっと走って、それでも夕立は連射の手をゆるめない。
 柱というよりはカーテンかなにかみたいに跳ね上がった水飛沫に交じって、禍々しく黒い深海棲艦たちの破片が、ぱらぱらと飛び散る。
「す、すご……こんなあっという間に、どひゃー」
「よっしゃ村雨、あたいらも負けてられっか! そら、どんどん行くよ!」
「よーしっ! 戦果いちばんは、この白露なんだからっ」
「さ、五月雨だって、もっと頑張ちゃいますっ」
 黒い油と火薬の混ざりあった、独特の臭い――と、いちごの匂い。
 重々しい音を立て、砲弾が装填される。両足に装着していた艦装のレバーを引くと、強化魚雷がいっせいに水中へと沈み、敵へとまっすぐ向かっていった。さあ。
「最高に素敵なパーティ、しましょう?」
 そんで終わったら、由良が帰ってくるまでずっと待ってて、ほめてもらうんだ。
 口の中に残っていたドロップを奥歯でかみ砕く。がりり、という音が頭のなかをわずかにひっかいて、ざらつく砂糖の破片は、あっというまに溶けて消えた。

 *

「ソロモンの悪夢それ自体は、言ってみればたった三十分強のできごとでしかなかったんですよ。
 もっともものごとに付随する負の感情は、それが起きているたったそのときに生じる直接的で単純で膨大なものと、それが起きてから後にずるずるとしがみついてくる歪曲的で至極厄介なものとの二つに分かれると、私は思いますけれどね。そして私たちに与えられた人間の心というのは、これまためんどうな話ですが、どちらかというと後者のほうに負けてしまう傾向にあるようです。一撃必殺から起死回生を果たすことはできても、ごくごく小さな針を毎日刺される痛みには、耐えることができない。あなたもそうなのではないですか?
 ああ、いえ、すこし話が逸れましたね。悪夢の話です、たった三十分の。
 日付はご存知ですか? ええ――ええ、そう、十一月十三日です。しかも金曜日。実によくできていますよね、奇跡的な巡り合わせといってよいのでしょう。かなり起こらなくて良いほうの奇跡。……なんのことだかわかりませんか? いえ、私もこの身体になってからお姉さまに教えて頂いたのですが、十三というのはかの国ではそもそも不吉な数だそうでして。ましてそれが金曜日ともなると、殊更に忌避されるそうですよ。理由は諸説あるそうですが、あまり詳しくは聞きませんでした……いえあの、比叡は……そのぅ、怖い映画はですね、ちょっと苦手です。
 けれど、そのときかの国の前に突如姿を現したのは、マチェットを構えた殺人鬼なんかじゃありませんでした。それが恐怖の体現であったことには、変わりがないのでしょうが。
 大混戦でしたよ。あの場にいた私だって、こうして話ができているのは、後になって記録を読み漁ったからにすぎません。しかもそれらがすべて正しいとも限らない。歴史を正しく目撃したものなんて、私たちの中にはいないんです。あのときなにが起きて、なにが失われて、なにが破壊されてしまったのか、正しく理解している子なんて、誰一人として。
 互いの索敵の遅れが、あの混乱の主な原因だったのでしょう。比叡には、そう言うことしかできません。こちらの姿は既に敵方から捕捉されていたのですが、敵影と見るや否や突っ込んでいき相手方の度肝を抜いたのは、あの子――夕立のほうでした。
 警報が放たれた時点で、あの子が確認していた敵影は全部で七隻です。本当はもっと多かったのですが、たとえ残らず敵を発見していたとしても、あの子は進撃していったのでしょうね。そうです、たとえあの子の妹の春雨が、隣に居なくたって。事実夕立は、魚雷再装填のために春雨が戦線を離脱してからも、今度はたった一隻で、敵艦隊に向かって突撃をしたとの記録が残っています。
 関係なかったんですよ。相手が何十隻だろうが、何百隻だろうが。自分に味方するものが、いようがいなかろうが。あの子にはなにひとつ関係がなくて、ただひとつ重要だったのは、倒すべき、壊すべき敵が目の前にいること。それだけだったのだと思います。
 あの状況下で、誉れある大日本帝国海軍の金剛型高速戦艦・二番艦比叡として、私がすべきことはひとつでした。大混乱のさなかにあって、敵兵はどうやら夕立の存在をきちんとは確認できていなかったようですからね。あの暗い海で探照灯を高々と掲げ、私は灯台になりました。導として――また或いは、標として。ええ、喜んで砲撃の目標となりましょう。自軍の勝利を導くためならば。それが、かつての戦艦としての私の矜持だったのです。
 そうして私が彼女に押し被せた仲間としての信頼に、駆逐艦夕立は十二分という言葉ですらもはや足りないほど、しっかり応えてくれたといえるでしょう。アトランタ、バートン、アーロン・ウォード、カッシング、ジュノー。轟沈撃沈大破炎上、記録に残っているだけでも、あの子はこれだけの戦果を挙げました。もちろん夕立自身も砲弾を浴びて、航行不能に陥りましたよ。とはいえあの大混乱では、はたしてその砲撃が味方のものだったのか敵のものだったのかもわからなかったそうですが、もうどうだっていいことなのかもしれませんね。他でもない、あの子にとってすら。
 で、それで、炎上大破の航行不能に陥った夕立は、帆を張ったんだそうです。ほら、艦内には船員たちが寝るためのハンモックがあるでしょう、あれですよ、あれ。あれをつかって帆を張ったんです。どうしてって、船が帆を張るのに、進む以外の理由があるんですか? 私たち軍艦が進むのに、戦うため以外の理由が必要ですか? そもそも全身ほぼ余すところなく被害だらけで、ただの浮き船というのがまったく正しかったあの子が、まさか帰港することを考えていたとはあなたも思わないでしょうに。
 もちろん帆を張って三たび突撃、とまではいきませんでしたよ。現実は喜劇ではあっても痛快ではないものですね。ハンモック製の帆をマストにぶら下げ、身体じゅうに傷を負った小さな阿修羅は、重巡ポートランドの砲撃を受け沈んでいきました。三十二分の悪夢の終わりです。
 ――あなたの逝ってしまった、たった十九日あとのことですよ、由良さん」
 お茶をどうぞと、比叡は微笑んでいる。
 彼女がそうしてカップに揺蕩う琥珀色を示すのは、もう何度目のことなのだろう。白地に金の上品な装飾を施したテーブルの上で、薄く景色をにごらせる湯気が、さっきからずっと立ちのぼり続けている。「比叡はお姉さまほど詳しくはありませんが、このお茶はなんだかいい香りがして、気に入っているんです。どうぞ、由良さん」彼女の笑みかたはとても優雅だ。遠い国の芳ばしい香りをゆらめかせるように。
「艦娘の身体は夢の身体だ、という話。由良さんは、聞いたことがありますか? 私たちはみんな、かつての魂をヒトの身体と心の器にして蘇り、そして戦いを続けていますが。それはかつて海底深くに没してしまった夢を、今叶えているようなものだという話です」
「……耳にした、という程度なら」
「なるほど。ちなみにあなたの意見は?」
「どうでしょう、私は……まだ、よくわからないというのが本音です」
「私はあれ、それなりに賛成できると思うんです」
 花模様の描かれたカップを手に取った比叡は、ごく自然な仕草として両手を添えようとしていたが、慌てたように片手を引っ込め、すこしはにかんで笑っていた。取り繕うような咳払いの後、きちんと片手で取っ手を握り、ふちを唇にあてる。湯気に湿った目は閉じられて、大海よりもなお広い、空と似た色の瞳が一瞬まぶたに隠れた。そうして湯気の向こうで、それはまたきらりと光る。
「ただし、賛成するからといって、そのやり方までもが期待されたとおりというわけではないのでしょう」
「それは、どういう?」
「私たちの身体は夢の身体です、それはきっと間違いない」
 カップの置かれる、陶器がぶつかり合う音が、ことのほかつめたく響く。
「でもね、由良さん。夢が、私たちがみているのだというその夢が、ひとつたりとも悪夢でない保障なんて、どこにもないじゃないですか」
 そうは思いませんか、由良さん。
 お茶をどうぞ、と、比叡は言う。

 *

 北方海域を制覇、西方海域へと針路をとってから数週間、夕立ら鎮守府第一艦隊は、とうとう最深部・カスガダマ沖にて進撃を開始していた。
 その日も第一艦隊には、同海域への出撃任務が課せられていた。
「それでは、出撃前の最終確認を行わせて頂きます」
 出撃から演習、遠征まで艦娘たちに日々与えられる任務の管理を一手に担う通称「任務さん」は、トレードマークにもなっている眼鏡のふちにそっと手を当て、よく通る声を響かせる。
「本作戦の目的は、カスガダマ沖にて敵深海棲艦隊を撃滅することです。ただし同海域への出撃は今回が初となるため、決して無理な進撃はしない。少しでも危険と判断した場合は、即座に帰還させるとのことです……と、まあそれは、時雨さん、あなたならいつも提督から言い聞かせられていることでしょうが……よろしいですね?」
「はい。旗艦時雨、必ずみんな揃って、無事に戻ります」
 時雨の答えかたはいつも静穏だ。みずからの放つその静穏さこそがもっともひとを安心させるということを、きっとこの姉はしっている。数多く名を連ねる駆逐艦たちの中でも頭一つ抜けていた時雨は、ずっとそうやってこの第一艦隊の旗艦を務めてきたのだろう。第一艦隊に所属してからしばらく、夕立はもうそんなことを思えるくらいには、この場所が板につきはじめていた。
 良いお返事です、と時雨に向かって笑んだ任務さんは、手に持ったファイルにちらと視線を落とす。昨日夜に行われた作戦会議では全員に配られた、本日の作戦の概要が記されている資料だ。夕立もたしかに貰ったし説明も昨夜のうちにきっちり受けたはずなのだが、若干記憶がぼんやりしている。
 第一艦隊が板についてきた、とはいえ、いまだに小難しい雰囲気の(聞く前からそうと決めてかかってしまうので、実際小難しいかどうかすらしらない)話を聞くのは苦手で、苦笑をうかべた時雨に肩を揺り動かされるのが会議中の定例行事だ。
「それでは、詳細の確認に入ります。この海域では戦艦ル級、雷巡チ級、重巡リ級といった大型の深海棲艦たちが多数目撃されています。翔鶴さん、赤城さん、まずは索敵を確実に成功させてください。また空母型の深海棲艦も目撃されてはいますが、今のあなたたちの練度で、航空戦にて後れを取ることはまずないでしょう。砲撃戦のためにも、ぜひ的確かつ強力な爆撃をお願いします」
「了解です。一航戦の名に恥じぬ戦果を約束いたします。一緒にがんばりましょう、翔鶴さん!」
「はい。五航戦翔鶴、赤城さんと共に、精一杯頑張ります」
「よろしくお願いします。それから比叡さん、青葉さん、あなたたちには砲撃戦の要としてしっかり働いて頂きます。元気いっぱい、敵を蹴散らしちゃってください!」
「比叡にお任せください!! お休みしているお姉さまの分まで、ばっちり敵を沈めて参ります!」
「取材、あ、いえ、砲撃なら青葉にお任せです。がんばっちゃいますよー!」
「そして、夕立さん」
 今回は、旗艦に時雨を置き、正規空母赤城、正規空母翔鶴、戦艦比叡、重巡青葉、そして駆逐艦夕立という編成になっている。
 海域各所に散らばる敵深海棲艦についての情報はすでにある程度集まっており、その型に合わせ編成が組まれた。旗艦として全体を見渡しつつ戦況を判断する時雨、索敵および航空戦を担当する赤城と翔鶴、大火力にて砲撃戦を担当する比叡と青葉。
 そして今回の出撃において夕立に与えられた役割は、海域中央部にて目撃されている敵潜水艦への爆雷投射、及び夜戦における攻撃の要だ。
「二度目の改造から、演習に日々の出撃にとずいぶん頑張って練度を上げたようですね。艦装の改修もばっちりみたいですし。提督も、あなたの成長ぶりには驚いておられましたよ」
「ふっふーん、でしょでしょ? 夕立、かーなーり強くなったっぽい!」
 二度目の改造を受ける前の話をすれば、夕立は正直なところ演習があまり好きではなかった。いつも高練度の戦艦や重巡、正規空母たちに囲まれて、初めは弾を当てることすら難しかったし、そもそも当てたところで相手の装甲が厚すぎてたいした意味もないなんてことばかりだったのだ。
 それでも負け続けなければ勝つためのいつかにもたどり着けないよ、と真面目な時雨はいつも言ってくれたし、すでに長いこと第一艦隊で活躍していた姉が、わざわざ負け越してまで自分の演習に付き合ってくれていることはよくわかっていた。でもいくら火薬の入っていない練習弾だからといって、当たれば痛いものは痛い。つまりそういうあたりまえのことなのに、とぶーたれながら痣の残る身体にため息をついていた。
 けれどそれが今や、演習に参加させてくれなければ拗ねてやる、と言っては提督のことを困らせ、わかった、僕が一緒に行くから、と秘書艦もつとめる時雨に仲介に入ってもらっている。付き合わせているという点は変わらないのだが、もう負けてばかりではない。駆逐艦の常識を無視した大火力で、昼間の砲撃戦だって立派に活躍できている。夜戦ともなれば、文字通り夕立が主役のパーティだ。業火絢爛一撃必沈、メインディッシュに酸素魚雷はいかが。
「どうぞ今回も、存分に暴れてきてくださいね」
「りょーかいっ! えへへ、そういうわかりやすい作戦なら好きだなー、あたし」
「に、任務さん、あまり夕立を調子づかせすぎないでやってくれませんか……止める僕のほうがそろそろもたない」
「おや。時雨さんがもたなくなってしまったら、私たちにも止める術はありませんねぇ、比叡さん」
「んー、そうねぇ。まあ夕立のことだから、お腹が空いたらきっと大人しくなりますって!」
「ちょぉっと、比叡は夕立のことなんだと思ってるの!!」
「お? お? やりますか? いいですよー、この比叡、全力でお相手……あいたっ」
 ぱこんぱこん、と非常にいい音が、夕立の頭上と比叡の頭上、計二回鳴る。もとより戦いの使命を負って生まれた魂だから――というよりも単純に血の気が多いだけのような気もする艦娘たちが多い鎮守府にて、常日頃からよく鳴り響いている音だ。任務さんのファイル砲撃(角)である。
「はい、そこまで。それとも無駄にした弾薬の分だけ、今日中に遠征して稼いでくださるんですか?」
「疲れてるのに!? ……あっ、はい、すみません、比叡、大人しく出撃します」
「うぅぅぅ、これ小破くらいにはなってるっぽい……!?」
 任務さんはきっと、戦艦をもしのぐ「任務さん」っていう艦型だ。本人に言おうものならファイルの角では済まされなさそうなことを考えつつ、痛む頭を押さえたまま、夕立ら第一艦隊六隻は西方海域・カスガダマ沖海戦へと臨んでいった。

 だいたいいつも笑っているようなひとの笑顔は、だいたいいつも笑っているから、たった今のいま、どうして笑っているのかがとても見抜きづらい。そういう点で、いくらか凶悪であるように思える。
 もうしばらく前のことになってしまうけれど、夕立も二度目の改造を受けたんだね、と時雨が言ってきたときもそうだった。姿や身体のつくりまですこしずつ変わってしまうのだというそれを、夕立よりも先に受けていた時雨。たしかに文字通り人が変わったかのような活躍ぶりで、こと艦隊の全員を守る、無事に帰すということにかけては右に出るもののなくなった、そのくせ相変わらず戦いには向いていなさそうな微笑みばかりみせる姉。
 そのときもそうだった。そのときも、ただただやわらかで穏やかであるそれを見ながら、夕立はやっぱり、時雨がどうして笑っているのか、ほとんどわかりはしなかったのだ。「おめでとう、夕立。きっと、君がなりたかった君になれるよ」
「時雨っ!」
 短く呼んだのは、向かってきていた敵空母の艦載機に気付かせるためというわけではなかった。それでは遅すぎる。ただ回避性能ならばまだ時雨の艦装のほうが高いので、身体を上手く引き寄せるための隙を一瞬作れればよかったのだ。
「え、」時雨がはっとしたようにこっちを振り向く。しめた、思い通りだ。「ぅわ、っ!」夕立は時雨の手を思いっきり引いて、半ば投げ飛ばすようにその場から離れさせる。背中の方で水面を叩くような音がしていたが、まあ多少海に溺れるくらいはがまんしてほしいものだ。旗艦なのに攻撃を正面からくらうより、よっぽどまし。
 そしていくら「かばう」からって、あたしだっておとなしく攻撃されてやるつもりはない。
 天気ばかりがやたらといい空をきつと見据える。赤い赤い視界の中で、低く唸るような音を立てながらこちらへと向かってくる敵艦載機たち。あれってそう、なんだか、子どものおもちゃみたいな形してるよね。ばらばらと、青い空には似つかわしくない、黒い爆撃の雨が降りそそぐ。
 といっても、まあ、空が青いかどうかなんてもうわかんないあたしには、関係のないことだけど。
「よ・い・しょーっ!!」
 頭上より投下された爆弾が水面を叩き、爆発する。重い重い衝撃が水と空気と肌と、揺らせる限りのものを力いっぱい叩いてくる。あっちと、あのへんと、こっちかな。ぐっと姿勢を低くした夕立は、そうして半ば林のように立ち昇る水柱のあいだを、素早くすり抜けていく。
 どぉん。どぉん。どん、どん、どん。爆発音はね、お腹の底んところに響くんだ。だからあたしはそれを聞いているとなんだかお腹が空いちゃって、母港に戻るたび由良のくれるお菓子がすっごくおいしいのは、きっとそういうわけなの。ほんの鼻先に投下された爆弾の衝撃に、爪先がヂリリと擦られる。でも、これで終わりだ。もう終わり。
「ソロモンの悪夢、見せてあげる……!」
 飛沫が落ちきるより早く、夕立の一二.七cm連装砲が轟いた。
 コンマ数秒後、一隻のみ残っていた敵旗艦、深海棲艦空母ヲ級に直撃。深海棲艦すべてがいつもそうであるように、粉々に砕け散った空母ヲ級の破片は、すべて海へと溶けて消えていく。
 深海棲艦。戦争を続けることしかしらない、とても単純でわかりやすいひとつで蠢く命。彼女たちは海へと還っていく。怨嗟と悲嘆と後悔を、それこそここにいる艦娘たちの魂のぶんまですべて飲みこんできた、この世で最も大きな青のかたまりへ。還ってゆけるということはまた産まれ出づることもできるということなのだから、もしかすると海がある限り戦いはずっと終わらないのかもしれないと、そんなこともぼんやりと考える。
 考える、けれど、それについての答えはひどくシンプルなのだ。夕立には、もうそれがわかっていた。
「ええ、と……状況確認します。赤城さん、翔鶴さん、被害状況は?」
「はい、赤城さんもわたしも、おかげさまで無傷です」
「飛行甲板も綺麗なものです! 問題なく進撃できますよ、時雨さん。多少お腹が空いているくらいです」
「それは……帰ってからが大問題かもしれませんが、了解です。青葉さんと比叡さんは、どうですか?」
「はーいっ、青葉は無傷です! ええ、青葉は!」
「ぐっ……比叡、多少被弾……で、でもかすり傷程度よ! 進めます。進めますからね!?」
「わ、わかりました、わかりましたから砲塔を近づけすぎないでください。砲塔でぶたれるのは間に合ってます……ええと、じゃあ」
 ひとりひとり、本人たちの話を聞きながらも素早く目を走らせて、時雨が状態の確認を済ませていく。
 索敵に対空に命中に爆発的な運にと、時雨は二度目の改装以来たしかに様々なステイタスによって艦隊を安全な帰港まで導けているけれど、やはり艦娘は艦娘だ。強さを作り出すのはいつだってその魂の在り様で、慎重すぎるほど慎重な姉にこそ、その身体はとてもふさわしい。
 ほかの先輩艦にはそうするわけもいかないのだろう、夕立の頭にだけそっと手をのせた時雨が、静かな真剣さを滲ませた声で尋ねてくる。
「夕立。さっきはありがとう、でもあまり無茶をしないで」
「へーきへーき。ほら、いっこも被弾してないよ? ていうか、さっきのあたし、ちょっとがんばってなかった?」
「うーん……まあ、いいか。うん、すごくがんばってた。びっくりしたよ」
 なにか一言言いたそうにしていた時雨だが、今回は諦めてしまったらしい。時雨は夕立に甘いんですよ、と比叡がつついてくるが、しれっと無視する。
「すごいね、夕立。君は本当に強くなったと思う」
「えへへー、もっとほめてほめて! 夕立ね、まだまだ強くなれるっぽい!」
 その魂の在り様で、いくらでも夢の身体が手に入るのだというのなら。
 軽巡も重巡ももう恐くない、戦艦だって空母だって、提督がよく怖がっている強化型深海棲艦だって、夜戦にさえ持ちこめば一撃で沈める自信がある。「そうだね、練度はまだ追いつかれていないけど、単純に強さの話をすれば、夕立はもうとっくに僕を追い越しているんだろうね」そう、だって時雨ってば、もともと戦いなんて向いてるタイプじゃないんだもの。
 きっとはじめはみんなまっさらだったはずの魂が、すこしずつべつべつのかたちに織り上げられていくには、生きていくうちに与えられた役割のようなものが大いに関わってくるのだろう。みんなみんな、次こそ無事に、揃って帰るために、自分の手ではたしたいこと。根っこのところはみんな同じでも、やりかたはきっとそれぞれ違う。
 だからそう、空も海も広々と見渡して、みんなが危ない目に遭わないように、みんなをちゃんと危険から守れるようにできているのが時雨なら。
 それなら、あたしはきっと。
「……とにかく、怪我はしてないんだね? いいかい夕立、この海域では次がきっと最後の戦いになるけれど、ここから先についての情報は、正直ほとんどないんだ。ただ、なにか得体の知れないものが……たぶん、僕たちの誰も見たことがないようなものがいるらしい、ということくらいしか」
「新型の深海棲艦、ですよね? 海域最深部のみに棲息し、非常に強力、かつ凶暴であると」
「青葉さん、ご存知なんですか?」
「ええ、まあ。演習の時に、提督同士の会話を小耳にはさんだ程度ですが」
 青葉と赤城がやりとりしていたほうをちらっと見ていた時雨が、視線を戻し、また真っ直ぐ夕立のことを見据えてくる。頭に手はのせられたままだが、お揃いでもある衝撃緩和のための手袋ごしに伝わってくる感触は、ずいぶんと重くなっているように思えた。
「……青葉さんの言う通りです。だから、夕立、」
「だいじょーぶだよ、時雨。」
 だってそれがきっと、あたしの役割なんだ。
「大丈夫。どんなのが来るかなんて、問題じゃないんだもん」
 今度こそ守れるように、今度こそ、一緒に帰れるように。
 あたしの役目は、目の前にいるやつらみんなみんな、とにかく真っ先に沈めちゃうこと。
 傷つかないように味方を守るのも、やり方のひとつなら――傷つけられないよう先に敵をやっつけちゃうのだって、アリだよね。
「みんなみんな、みーんな。夕立と素敵なパーティして、終わらせちゃいましょ」
 それはとってもとっても、シンプルな話。
 たとえこの海すべてが敵だったとしたら、いっそもう、海ごと沈めちゃえばいいんじゃない?

 *

「おや、そちらは……由良さんですか?」
「えっ? あ、ああ……比叡さん。こんにちは」
「こんにちは。珍しいですね、第二遠征部隊の旗艦さんをこんな時間にお見かけするのは。今日は非番なのですか?」
「ええと、そうですね。もともとそんな予定ではなかったというか、今朝がた任務さんが遠征出発確認にいらっしゃるまで、非番でもなんでもなかったんですが」
「……うん? あっ、思い出した!! そうか、今朝の騒ぎですね? あの、夕立が提督のところまで直談判しにいったっていう」
「ああ……比叡さんまでご存知なんですね、今朝のこと……」
「あははっ、第一艦隊でもおなじみになってきた元気な声が、廊下じゅういっぱいに響いてましたからね。なるほど、あの子は由良さんを休ませるよう提督に願い出たわけですか。いや、願い出たというか、ほとんど脅迫のような雰囲気でしたけど」
「うぅ、もう、あの子ったら……ほんと、夕立ってどうしてああなのかしら」
「いいじゃないですか、懐いてくる子犬みたいで。微笑ましいですよ、由良さんと夕立さん」
「……変な子なんですよ、昔から」
「昔から?」
「ええ、昔から。……ショートランド泊地に、いたころから」
「ああ――なるほど。なるほどね、昔から。」
「第二戦隊、第四水雷戦隊で一緒だったんです、あの子とは。あのころのわたしにとって、最後の地で」
「存じ上げていますよ。長良型軽巡洋艦、四番艦の由良さん。数々の水雷戦隊、潜水戦隊で旗艦を務めていらっしゃいましたよね。その最前線での活躍ぶりは枚挙に暇がない。並み居る軽巡洋艦の中でも、あなたほど多くの部隊を率いた艦はそうそう居ないでしょう」
「ええ、まあ、でしょうね。とても多くの場所を巡って、とても多くの子たちと出会って、とてもたくさんの任務を果たしたことを覚えています。……はい、たくさんだったことは、覚えてるんです。でも、たくさんだったことしか思い出せない。見た景色も、声を掛け合った子たちも、目の前で爆発した爆弾の数も、たくさん、たくさん、たくさん。たくさんって、数じゃないですよね。ひとつ、ふたつ、とかいうのとはちっとも似ていません。もっと――雑で、不義理な呼び方です」
「不義理、ですか。それはまた、厳しい言葉だ」
「そうですね、厳しく取り扱われるべきことだと思っていますから。悪はやっぱり悪です。……でも、しようのないことだと思いませんか、比叡さん。あれはそういう時代だったんですよ。いつ時計が止まってしまうかわからないからって、いつまででも一秒一秒を大切にできると思いますか? わたしは、それ、無理だと思います。そしてそれができないなら、まったく逆の方向に傾くしかないんです」
「逆、というと?」
「それを一秒と呼ぶのをやめるんです。短いあいだ、でも長いあいだ、でも、しばらくでもちょっとでもなんでもいい。いつかそれが意味を成さなくなるものだとわかっているのなら、ひとつひとつに意味を与えるのを、いっそやめてしまうんです。わたしは、それをやってしまった。たくさん、で、まとめてしまったんです。ほんとうはひとつひとつ、名前を持って呼ばれるべきだったのに」
「まあ、あのころは、時代そのものが悪みたいなものですからね。だからといって私たちのしたことが悪でなかったことにはなりませんが、それが悪であるかどうかを見分けることのできない罠には、国ごと落しこまれていたのだと思いますよ」
「……そう、かもしれませんが。そうやって、見分けもつかない目で、たくさん、たくさん、とばかりものを見て……ただ、ひとつ見ていたもののことを、いまでも思い出すんです」
「ほう。――ああ、それが夕立ですか? あなたのいう、へんなこ。」
「はい。そう、なんですよね。ほんとうに、変な子でした、昔から。いまも。……だって、由良がいいって、言うんですよ、あの子」
「…………。」
「由良がいいって、言うんです。
 ほら、あの子すぐ、誰にでも褒めて褒めてっていうでしょう? あなたの言ったとおり、ひとにすぐ懐く子犬みたいなところ、ありますから。お姉さんの白露ですとか時雨ですとかあのあたりにはもちろん、あなたにだってよく言っていますよね、比叡さん。とにかくそういう子でしょう?
 なのにね、由良が褒めて、って言うんです。わたしの名前を呼んで、わたしのことを見て、わたしがいいって言うんです、あの子。今もですけど、昔もなんですよ。あの時代です、夕立だってあちこち連れ回されたんでしょうし、旗艦なんてほかにもたくさんいたんでしょうに、わざわざわたしのところまで来て、言うんです。褒めて褒めてーって、すごくまっさらな、なんというか、その言葉以上のことなんてなんにものっかっていないような、そういう無邪気な声で。
 ねえ比叡さん、さっき、国ごと罠に落ちていたと言いましたよね。たぶんそうなんだと思います。わたしだって、誰かの呼ぶたくさん、のうちの、意味をとりはがされたひとつでした。それについて文句を言う権利はわたしにはありません。すこし角度を変えれば加害者になるのに、まるで被害者であるかのような言い方をするつもりはないんです。昔からそう思っていて、今もそう。だから、それでよかったんですよ。由良という名前に、唯一無二の意味なんてなくてよかった。
 なのにね、あの子、夕立は、そればかり口にするんです。わたしの名前。かけがえのないものなんてないはずなんです、どんなことでもだいたいは取り換えが可能です、人間の身体だってそのようなものだとあなたは思いませんか? それなのになんで、あの子はわたしを呼ぶんでしょう。たかだか摂氏三十六度五分の体温なんて、そこらじゅうどこにだってあるのに。夕立は、どうしてわたしの手に触れて、あったかいっていうんでしょう。
 ――変な子。ほんとに、変な子です」
 くっくっと喉が震えたような音を耳にして初めて、由良は自分が笑っていたことに気がついた。
 自分の身体のことなのに、どういうふうに動いているのかわからない。ひとの身体を与えられてからもうしばらくが経過しているけれども、そういうところには未だにすこし慣れなかった。隣に腰かけている比叡がだまって目を伏せ、テーブルを見下ろしたままでいてくれるのがせめてもの救いだ。
 由良はへんなこ、とそれがひとりごとであったと云うように繰り返して、膝のあたりにのせていた手をぱたんと鳴らした。
「まあ。結局あの子も、わかってはいると思うんですけどね。いくら名前を呼んだってしようがないんだって。あの子も、というか、あの子がいちばん」
「……雷撃処分、ですか?」
 うすい笑みがたたえられたままの、わずかに細まった比叡の瞳が、ちらっとこちらを見上げてくる。口にした言葉とは裏腹に、表情ばかりがいつまでもやわらかい。
「そう、ですね。どんなにあちこち連れ回されようが、どんなに多くの子たちと共に戦おうが、それでも止まる時は一瞬です。あっけないです。だから、そういうものだって、あの子がいちばん、理解できたんじゃないかと思います」
「代替可能な、という意味では、そうですねえ。共に戦ってきた仲間の手にかけられる、というとまるでずいぶんな悲劇のようですが、あの時代はそれが当たり前でしたからね。実際この鎮守府にだって、あちこちそういう子、いますし。夕立自らの手で沈めるというあの機会は、軽巡洋艦由良ですらたくさんのうちのひとつである、ということを理解するのに、とても都合のいい機会だったのでしょう」
「ええ、だから――」
「でもあなたはこうも言った」
「っ、」
「昔から変な子で、"今"も、それは変わらない。あなたは、そう言いましたね?」
 あなたを、それこそたくさんのうちのひとつであるとして、特別な意味なんてひとつもないものとして、沈めてしまったそのあとも。あの子はあなたの名前を呼ぶのだと、そう、言いましたね。
 比叡は表情を変えなかった。目に見えていること、耳で聞いていること、この人間の身体で感じ取れることばかりが、真実とはかぎらない。それをきちんと見定めるための方法はどういうわけかいつまで経ってもわからないのに、ほんとうのこと、というのがとても見つけにくいものであるというこばかり、日に日にはっきりしていく。
 続けようとしていた言葉をすっかり飲みこんでしまった。由良がそうしているあいだに、にこりとうつくしく目元をゆるめた比叡は、ふしぎなくらいに音の立たない所作で、腰掛けていた由良の隣から立ち上がる。「お茶を淹れましょう。金剛お姉様ほどではありませんが、これでも私、それなりに上手く淹れられるんですよ」
「あ……の、比叡、さん?」
「それから、今度は私にお話しさせてくださいな、由良さん」
「え……?」

「お茶でも飲みながら。――ある悪夢について、あなたに、お話しましょう。」

 *

「敵艦発見!」
 戻ってきた偵察機の姿を見るやいなや、赤城が鋭く言い放つ。彼女自身が番えた矢を憑代に喚ばれた艦載機は、それこそ赤城にとっては目のようなものだ。みずからの手足のようにそれらをつかって、彼女たち航空母艦娘は戦う。
「全六隻! 戦艦タ級、軽母ヌ級、補給ワ級、駆逐ロ級が二隻! それと……こ、れは……?」
「どうしましたか、赤城さん!」
 戦闘中における赤城の安定感は、鎮守府内でも群を抜いている。常に先頭を走るのが好きな夕立にはよくわからないが、旗艦の仕事もこなさなければならない時雨がよく口にしている、大局を見る目、というのが備わっているのだろう。目の前の小さな出来事なんかで、彼女は動揺したりなんかしなかった。
 そうだというのに、そのとき赤城は時雨の問いかけに対して、一瞬言葉を詰まらせたのだ。戦況は待ってはくれない。赤城が言葉を選んでいる間にも、同じものを見たはずの翔鶴が言葉を失っている間にも、着実に展開していく。
「赤城さん!」
 報告はできなかったものの、翔鶴の呼びかけに応え、航空戦に参加できたのは救いだった。比叡の一二.七cm連装高角砲が、青葉の二五mm三連装機銃が敵艦載機を撃ち落とす。航空優勢。第一艦隊の中でも最上級に練度の高い赤城と翔鶴の組み合わせで制空権を取れなかったのは、この海域ではこれが初めてのことだった。
 辺りで鳴る射撃音を真っ直ぐと切り裂くように、赤城の声が響きわたる。
「新型! 例の、新型深海棲艦! それが敵の旗艦です!」
「……わかりました」
 歯噛みするような時雨の返事を聞くことができたのは、おそらく、隣を往く自分だけだっただろう。ほんとうにうちの姉は心配性だ、とつくづく思う。
 新型だかなんだかしらないけど、それがなんだっていうの。そりゃあ時雨はみんなに攻撃が当たらないようにしなくちゃいけないって考えなんだろうから、相手がどんな奴か、どんな攻撃をしてくるのか、いろいろ考えなくちゃならないんだろうけど。夕立にとってことは常にシンプルだ。相手がどんなやつであろうと、どれだけいようと、沈めてしまえば変わりはない。
 赤銅色の影が、ほら、あっちこっちゆらめいてる。あいつらみんなに弾を当てれば、ようするにそれで終わりなんでしょう?
「あ……夕立っ! 待って、まだ相手の――」
「そーゆーの、関係ないんだってば!」
 水面を叩くように蹴って、一気に前進する。西方海域の深海棲艦を鎮めたいのだったら、それを率いている、この最奥の旗艦を叩かなければ意味がない。でもあいつさえおとなしくさせちゃえば、西方海域はあたしたちのものなんだ。
 そうして先頭に躍り出た夕立は、急停止の衝撃に跳ね上がる波をものともせず、すっかり相棒の一二.七cm連装砲を構える。なんだかやたら影が大きいけど、まあそれもどうだっていい。そんなことどうだっていい、とにかくあいつ、あいつさえ、
「……え?」
 見ているって、なんで、思ってしまったんだろう。
 見ている。こっちを。
「え」
 あのこのあかいめ。
 こっちをみている。
 あのこの?
 ――あたし、の?
「え、え、……え、」
 くすんだ色の髪が、ふぅわりとゆれる、ゆれる、その下で。ふたつ輝く、赤い瞳。
 温度の感じられない、真っ白な頬のうえに、くすりとうかんだ、つめたい微笑み。
 どくん、どくんと、いっぺんにうるさくなった心臓の音とともに、その姿は揺れていた。海の上で揺れていた。鮮血と劫火をどろどろに混ぜた瞳を、爛々と輝かせて。"彼女"はそこに立っている。戦うために立っている。沈めるために立っている。自分の目の前にあるものすべてを、壊してしまうために立っている。
 そして"彼女"は、それが楽しくて楽しくてしようのないことだって、ようくしっているのだ。
 "彼女"は。
 "彼女"は?
 ――あたし、は?
「ちが……っ、あ、たし、は、」
 ちがうあたしは、そんなんじゃ、あいつらみたいなかいぶつなんかじゃ、なくって。
 ただ、ただそう、みんなと一緒に帰りたかったから。みんなと、由良と一緒に、帰りたかったから。
 だいすきとかあいしてるとかしあわせにするよとかそういうことはよくわかんないけど、よくわかんなかったんだけど、いつもそれをね、考えてたんだよ、由良。
 ねえ由良、難しいことはわかんない、由良の言ってたわたしでなくてもいいじゃないってことも、それに対するうまい答えかたも、あたしにはちっともわかんないよ。でもね、いっこだけちゃんとわかることがあたしにもあって、それはね由良、あたし、由良と一緒に帰りたかったんだ。
 うまい気持ちの伝えかたなんてわからないの、どうしてわたしなのって聞かれてもわかんない、でも由良、あたしはね、ただ、おかえりとかただいまとか、おはようとかおやすみとか、これおいしいねとか、そういうの、なるたけ毎日、由良と一緒に言えたらいいなあって。そんなことなら、ずっとずっと、考えてたんだ。それがだいすきってことなら、たぶんそう。あたし、由良のこと、だいすきだったよ。
「ちがう、ちがう、ちがう、あたしは」
 それなのにどうしてあたしが由良に砲口を向けなくちゃならないの。
 どうして魚雷を当てなくちゃならないの、どうしてああまだ沈まないなんて言葉を聞かなきゃならないの、「駆逐艦夕立」どうして、どうして、「軽巡洋艦由良ノ砲撃処分ヲ命ズル」どうして。「いいのよ。やって、夕立」どうして!
 あのときずうんと放たれた砲撃は午後七時の海を深く深く揺らして、言ってみればたったそれだけのことだったのに、それと同じかそれ以上の衝撃もいくらだって受けてきたはずなのに、夕立の身体中にしみついたふるえは、どういうわけだか剥がれない。身体が変わっても剥がれない。心なのか魂なのか、それとももっと深くなのか、そんなところにしがみついたまま、いつまででも離れてくれない。
 そしてそれは時折、ずうんずうんと暴れだす。薄い膜でどうにか守られている、けっして触れてはいけないほどやわらかいところを、容赦なく叩きのめす。びりびりに破られてしまった柘榴のように、その実を潰してあふれ出したものの、色は瞳に、滴は頬に。ずうんずうんと暴れている心臓、あたしは、そんなことのために、いきてきたんじゃ、ない。
「あたしは、ただ、」
 あの戦いは良かった。
 良かった、そう、どこでのだっけ? もう忘れちゃったけど。比叡のおかげで敵の姿はよく見えたなあ、みんなみんなおろおろしてて、砲撃はおもしろいくらいに当たって。そう、おもしろかったの。敵をいくら撃ったって、あたしの中のどこも潰れはしなかった、痛くもなかった。どころかみんなが言うの、すごいぞ夕立、もっとやっちまえ。もっともっとやっちまえ。あいつらみんな、やっちまえ。
 そうなの、あたしの身体もいのちもきっとそのためにあるの、けっしてあんな、あんなつらいことのためじゃなくて。あいつらみんな沈めちゃえば。また、由良と、いっしょに。
 そのためだったらみんなみんなあたしが沈めてやる、一隻たりとも残さない、ああ、やつらの身体を壊すのは、なんてなんてたのしいこと!!
「ちがう、のに……っ!!」
 柘榴色をした瞳が、こっちを見ている。微笑みながら、こっちを見ている。
 同じ目をして、同じ姿で、同じく心を躍らせながら戦う夕立のことを、見つめている。
 ねえあなたとわたしは、ちょっとにているわねなんて、まるで親しげに話しかけるかの、よう、に、
「――夕立っ!!」

 ヒトマルマルニ、西方海域・カスガダマ沖海戦、状況終了。
 第一艦隊、駆逐艦時雨、駆逐艦夕立、空母赤城、空母翔鶴、重巡青葉、戦艦比叡、以上六隻。
 進撃シ最深部ヘ到達スルモ、敵旗艦・新型深海棲艦(ノチニ装甲空母・鬼ト判明)ノ猛攻ニヨリ、旗艦大破。
 コレ以上ノ戦闘ハ困難ト判断、夜戦ヘノ突入ヲ断念シ、撤退スル。

「夕立! 夕立、大丈夫なの!?」
「……ゆ、ら」
「時雨が大破して撤退してきたって聞いて……あなたのほうは、怪我してないの? 新型深海棲艦も出て、大変だったんでしょう? ほら、みてあげるから、こっちに来なさい」
「やっ、だ、だめ、あたし、まだ、」
「あら? あなた……え? なに、血? じゃ、ないわね、目……それ、赤いの、どうしたの……?」
「……、ぃで」
「なに……? ゆう、だち? あなた、」

「っ、見ないでぇっ!!」

 自分よりも背の高いひとの身体でも、こんな簡単に倒してしまえることができるのか。
 そんなことしりたくなかったし気がつきたくもなかったのに、そういうことばかり、なによりもありありと鮮明に突きつけられてくるものだ。
 そういう、ひどいことばかりが。

 わからないことだらけだというのもなかなかにめんどうなものだけれど、わかりあってしまうことだって十全に便利かというと、案外とそうでもない。
 姉妹とか付き合いの長い友だちどうしとかによくある、くせを見抜いてしまうことなんて特にそうだ。べつにわからなくたっていいのにっていうところをわかられてしまうと、とてもやっかい。「だって夕立は、落ちこむとすぐこの三番倉庫の隅っこに座ってるからね」、だなんて。
 そんな気持ちでいっぱいになりながら、夕立は抱えた膝に額を押し付けていたというのに。だというのに時雨ときたら。
「それじゃあ、由良。僕の役目はここまでだから、あとはよろしく頼むね」
 だというのに時雨ときたら、よりによって隣に連れていた誰かにそんなことを言って、とっとと立ち去ろうとしてしまうものだから。「……大破してたくせに、入渠は」「少食と早風呂も、駆逐艦のとりえだろう?」不似合いなくせにからかうような笑みで姉はそんなことを言う、ああまったく、なんてことだろう。
「夕立」
 そうして時雨の連れてきたそのだれかは、いわゆるひとつの最悪のタイミングで訪れてしまった最悪の人物は、身体の触れあわない距離まで、夕立を追い詰めすぎない距離まできちんとはかって隣に腰を下ろしてしまう。
 どうしてこんな、なんて悲劇的に呟くこともできず、倉庫内のかび臭い空気にわずかに混ざったひとの匂いに鼻先をくすぐられながら、夕立はただ、ぼそりと言った。
「痛かった?」
「いいえ、ちっとも」
 さっきの、と夕立が続けるよりも早く、由良はそう答えてしまう。
「うそ。痛かったよ、ぜったい。由良ってば、やせがまんっぽい」
 ちょっとやりすぎなほど悪辣さを滲ませた声で返してやると、対照的にあかるい声で由良がくすくすと笑った。うっかり目を上げてしまったのは、しいんとしていた空気をふるわせたそれが、あまりにもやさしかったから。「そんなことないわよ、夕立――」
 けれども、由良と目が合ったその瞬間にぱしんと鳴り響いてしまった音は、とても乾いていて、そしてひどく厳しく鼓膜を突き刺した。
「……いきなりは、ひどいわね」
「っ、みない、でって、ゆった」
 もちろんそれを痛いなんていう権利は、夕立にはない。目が合ったその瞬間、真っ赤に染め上げてしまうほど容赦なく由良の頬を張ってしまった、夕立には。
 それでも見ているこちらの目のほうがひりつくほどあっというまに腫れた頬に、由良は手をあてがおうとすらしなかった。彼女にとって今ただひとつ重要なことは、夕立から目をそらさないこと。そんなばかばかしい、あるはずもないことを、由良はどういうわけか全身をつかって体現してしまう。
 どうしてそんな力があるのだろう。ひとの目というものについてしるたびに、夕立はしんと考えるのだ。目線には、こちらとあちらでむすばれるだけではなく、こちらのことをすこしずつ突き崩して、ほんとうのことを引き出してしまう、力のようなものがかくされている。
 特に、由良のはそう。由良のは、なんていうか、必殺なんだ。たぶん、あたしにとって。
「ようすがおかしかったって、時雨に聞いたわ。新型の深海棲艦を見たときから」
「由良も、見ればわかるよ」
 だからそんなことを言ってしまった。言ってはいけないはずのことを、口にしてしまった。一度喉をすべってしまった言葉は、もう二度ととりかえしがつかない。後になってからいくら拾い集めて取り繕っても、なんの意味もありはしない。
 胸の中は、そんなどうしようもないことでだって、ぎゅうぎゅう痛むけれど。
「今回ので、そのうち敵の情報も来るだろうし。そのとき見てみてよ、そしたら、由良もぜったいわかるから」
「わかるって、なにが?」
「そっくりなの」
 そっくりなの、あたしとあのこ。
 あのこ、あんなかいぶつに対して、よりによってあの子だって。笑ってやったつもりだったけれど、喉のふるわせかたがおそろしく足りていなかった。おかげでなんだか、泣いてしまったみたいな音が鳴る。「っ、ねえ、由良」
 ゆら。ゆら、ゆら、由良って、もっといっぱい呼びたかった、それだけ、なのに。
 それだけ、だったんだよ、ほんと、だよ、ねえ由良、あたし。
「あたしいつのまに、かいぶつなんかに、なっちゃってたの、かな」
 強く強く強くなりたかった、どいつもこいつも一撃で沈めてしまえるくらい、とにかく強くなりたかった。そうしたらきっとみんな傷つかないって、そうしたらきっと、由良に砲口を向けるやつなんて、だれもいなくなるからって。
 なのにそうやって最前線で戦って、振り向いてみたら――みんなに砲口を向けていたのがあたしだった、なんて、いくらパーティの出し物でも、笑えない。砥ぎに砥いだ自慢の爪は敵を残らずずたずたに引き裂いて、そうして、迎え入れてくれたみんなの握手の手も、ぜんぶ血まみれにしてしまいました。なんて。いくら、なんでも。「っ、やだ、よう」
 ねえどこから間違ってたのかな、強くなりたいって思ったのがいけなかったのかな。由良にまた会えてすごくすごく嬉しいなって思ったのがだめだったのかな、今度こそ絶対あたしが守ってみせるんだって決めたことかな、それとも、それとも。「やだ……やだ、やだよ、由良、やだ、こわがらないで」
 それともひょっとして、はじめからぜんぶ、なにもかも。
「由良、ゆら、あたしのこと、きらわない、で」
 ごめんなさい、ごめんなさい、もうぜったい攻撃したりなんてしないから、ぜったいぜったい、しないから。
 もしそんなかいぶつになっちゃうようだったら、そのときはあたし、ちゃんと、自分で、じぶんのこと、
「……こら、夕立。わたしがいつあなたのこと、怖がったり、嫌ったりしたの」
 ばかね、って、由良が言う。
 あたしがいつまででもいつまででも夜更かしをして、由良が遠征から帰ってくるまで待ってたのを見つけたときみたいに。
 今日のおやつはどら焼きとおまんじゅうとラムネがあるけどどれがいいって問いかけに、ぜんぶ! って答えたら、目を丸くしていたときみたいに。
「ばかね。わたしなんかのために、かいぶつになってくれた子のこと、そんなふうに思うわけ、ないじゃない」
 由良が、言って、まだ真っ赤なままである両の瞳のその真ん中、額のところを、こつん、と叩く。
 とてもつよくてさびしいかいぶつに、それはいつでも一撃必殺だ。
「ゆ、ら」
「ねえ、夕立。あなたのせいよ?」
「……へ?」
 くすっと笑った、由良は、ちょっといたずらっぽくて、なんだか子どもみたいだ。いつもはあんなにお姉さんなのに、お姉さんなのよっていう顔してるのに。今の由良は、いつもの夕立と同じか、もしかしたらそれ以上に、あどけない顔でふふふと笑う。
「あなたがそうやって、かいぶつみたいになってまで、がんばっちゃうから」
 ゆっくりと伸びてきた由良の手が、夕立の前髪をそっと撫ぜた。額、こめかみ、耳。あなたの赤い瞳は、なんだかきれいね。
 ねえ夕立、あなたがそうやって、かいぶつみたいになってまで、わたしのこと、大切にしちゃうから。
「わたしまで、なんだかわたしのこと、特別みたいに思えてきちゃうじゃない」
 もしかして、この子とわたし、たったふたり、世界じゅうどこにもない、かけがえのないふたりなのかも、なんて。
 そんなふうに、思えてしまうじゃない。
「……っ、ゆら、ぁ、」
「しってる? 夕立、ひとにそういうことをしたらね、責任ってものを取らなくちゃいけないのよ」
「せ、せきにん……?」
「そう、責任。」
 唐突につくったとりすましたような顔で言って、それからまたくすっと幼く笑った由良は、そのまま、いっぱいに広げた両手で夕立のことを抱きこんだ。
 赤く染まってしまった瞳も、そこからどんどんあふれてくる透明な滴も、強くて強い身体も、やわらかくて弱い胸とその奥も。かいぶつみたいなところも、ばかみたいなところも、まるごとぜんぶ、ひっくるめて。由良は夕立のことを抱きしめてしまう。
「あなたは、特別。わたしの、特別。あなたがわたしのことをそう思ってくれるように、わたしもあなたのことをそう思うの」
「……うん」
「だから。わたしもそうするから、あなたもちゃんと、あなたのこと、大切にしなさい、夕立」

 こっちにおいで、わたしのかわいいちいさなかいぶつ。
 あっちで一緒に、あまいあまいお菓子を食べましょう。

「それから。いくらあなたが強くなったからって、勝手に人のこと、弱い子みたいに心配しないこと」
「……えー。でも、もう、絶対夕立のほうが由良より強いもん」
「あら、それはどうかしら。なんならカスガダマ沖にもう一度行くときは、提督さんを脅してでも第一艦隊に加わってあげるわよ」
 今から提督の身が案じられるような調子で、由良はふふんと胸を張ってみせる。

「そのときは、由良のいいとこ、しっかり見せちゃうんだから」

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