明石と大淀 風雲明石城



 最初に断っておくと、駆逐艦の子たちがちょっとだけうらやましかっただなんてことはちっともない。

 そもそもとして、明石が大淀をドック内にあまり立ち入らせてくれないのは、今に始まった話ではないのだ。母港がずいぶん賑やかになるよりももっと前、両手の指で数えて十分足りるほどにしかここにひとがおらず、今ではいつでもどこかしらからは響いてくる駆逐艦の子たちの元気な笑い声がほとんど聞こえなかったころから、明石はそうだった。
 なにか話しかけたい用事があるとき大淀に与えられた待機場所は、いつもドック入口に置いてある椅子(どうやらこのためだけに明石みずから作ったと見えるのだから筋金入りだ)の上だった。それでもしょっちゅう明石は話しかけられたことも忘れて作業に没頭し始めるので、しかたなく椅子から立ち上がり話しかけにいこうとすると、遅くとも三歩めで気づかれてしまう。「わわわわ大淀っ、だめですだめです! すぐ行きますから、そのままお待ちくださいっ」
 理由はわからないのだが、とにかく明石はずっとそうだった。駆逐艦だけでなく、ほかの戦艦だとか空母だとか、もっといえば大淀と同じ軽巡洋艦の立ち入りだってゆるしているのに、なぜか自分だけがそれをなかなか許可してもらえない。大淀の考え込んでしまう大抵のことにはびっくりするほど簡単な答えを笑いながらくれる頼りの足柄も、この件については軽く笑って首をすくめるだけで、さりとてなにも教えてくれなかった。
「私、そんなに作業の邪魔になってしまうのでしょうか?」
「あー、うーん……まあ、ある意味そうっていうのかしらねぇ」大淀にとっては割合大問題なことをあっさり肯定してしまった足柄は、半分くらいお酒の入った盃をからんと優雅に揺らして、軽い笑い声だけを立てていた。「まあ、どっちにしろこれは大淀じゃなくて、あっちのハチマキわんこの問題だから。そんなに気にした顔しなさんな」
 現状大淀がもっとも信頼を置いているところの友人がそう言うのだから、これは本当に自分が気にしたってしようのないことなのだろう。だから、明石がどうしてだか自分にだけやたらとドックへの立ち入りをゆるしてくれないことについて、大淀はあれこれと考えを巡らせるのをやめた。自分が知らなければならないことならいつか明石本人の口から教えてくれるはずなのだし、自分ひとりで邪推ばかりしていることは生産的とはいえない。大淀は、そこのところを重々承知しているつもりだ。
 しているつもり、なのであって。
「し、失礼いたしまー、す……」
 つまり、だから。
 べつに「明石ぃー!」なんて片足で器用にドック入り口の扉を蹴り開けては、お菓子だのラムネだのを持ち込んだまま延々帰ってこない涼風のような駆逐艦の子たちがうらやましかった、だなんてことは、とにかくちっとも、ないのである。
「わ、お布団……はともかくとしましても、小型冷蔵庫? いつのまにそんなもの持ち込んで……と、こちらは、なんでしょうこれ……小さな……車の模型? 余った部品で作ったんでしょうか……本当に器用なのね」
 母港の子たちはみな、その場所のことを、口をそろえて《風雲明石城》と呼ぶ。
 なにが風雲なのかとかどうしてそんな変わった名前なのかあたりの事情は大淀にはちっともわからないが、ドックにある明石専用作業台の裏手、資材や工作機械の積んである影に設けられたその場所が、そういうふうに呼ばれていることだけはとても良く知っていた。
 なにしろ任務担当艦として、大淀はとにかく毎日たくさんの子たちと話をする。母港もすっかり広く賑やかになり、中でひしめく艦娘たちはとうに百をこしたけれど、それでも艦種や艦型を問わずほとんど全員と毎日言葉を交わすのは、大淀の特権であり義務であり続けているのだ。そうなると、さながら年頃の娘たちのようにあれこれと囁かれる噂の数々だって、それなりに耳にしたりもする。
 朝一番に山城にぶつかると一日ろくなことがやってこないとか、いやいやそれは午前中の間にもう一度時雨か雪風とぶつかれば回避できるとか、ここなら絶対に見つからないと思った場所にはなぜかいつも涼風が先に隠れているとか、比叡の作ったカレーを最後まで食べ切れたなら駆逐艦でも戦艦娘になれるとか、そのだいたいは暇つぶしの眉唾ものだ。しかし中には信憑性があるというか、そもそも実在しているものについてを語っている噂だって存在しており、くだんの《風雲明石城》こそがそのうちのひとつであった。
「まあ、芳ばしい香りがすると思ったら、コーヒーの粉がこんなに……なんでしたっけ、そう、ええと……いんすたんと? 明石はいつもこれですね……あら、ココアが混ざってる。……駆逐艦の子たち用でしょうか?」
 大淀としてはそんなこと彼女の仕事場がこのドックになったときから許した覚えはないのだけれど、ともあれ朝方まで作業に没頭してしまうことの多い彼女は、いつも戦場さながら散らかっている自室に帰ることなく、作業場たるドックで夜を明かすことも少なくはない。そんな工作艦娘・明石の手によって、それこそこの鎮守府の歴史と同じだけの長い時間をかけ作られた城こそ、ただいま大淀が足を踏み入れている、《風雲明石城》なのだった。
 誤解を招いてはいけないから何度でも申し上げさせていただくけれども、大淀はけっして、木製のコースや街路樹の小型模型までちゃんと作られているちいさな車で遊んでいそうな子たちや、信じがたい苦さのインスタントコーヒーに混ざってきちんと置いてある甘いココアを手渡されるであろう子たちがちょっぴりうらやましかったなんて理由で、ここを訪れたわけではない。そうではなくて、この鎮守府発足の時より任務担当艦を任されてきた身としては、無知のままでいるのはよくないと思っただけなのである。
 真面目な大淀にとってはこれも大事な仕事の一環であり、最近夕張や天龍たちがのめりこんでいる怪物の「じー」がなんとかかんとかいうゲームを、明石を誘って夕張の部屋でやるようそれとなくすすめたのも、滞りなく仕事を片付けるためには仕方のないことだったのだ。夕張と明石は開発担当と修理担当で切っても切れない仲であるし、もともと明石はああいった類のゲームが大好きだ。今頃夕張の部屋で存分に楽しんでいることだろう。ともかくドックには近づけないよう、という変わった突然任務を言い渡された夕張は首をひねりひねり五歩ほど歩いていったあと、何かを思いついた顔でばっとこちらを振り返り、そしてなんだか微笑ましい顔をされたような気もするのだけれど、きっと気のせいであったことにしておく。
 概ねそういった手順を踏んで、カーテンのように垂れ下がった布――おそらく破れて使われなくなったシーツを持ってきたと思われる――をくぐってとうとう足を踏み入れた《風雲明石城》の中は、その噂にたがわぬ混沌ぶりを見せていた。
 配管や機材の隙間を縫って布団一式や着替え、マグカップやインスタントコーヒーのもとと小型湯沸かし器などちょっとした一服セットが置いてあるくらいなら、まだ予想の範囲内だ。問題はさらにその狭い隙間を縫ってなぜかお手製のコースを森から街(「ビルディング」の模型まで並べてあってやたら本格的なもの)まで走っている小さな車の模型があることや、配管と配管のあいだをくぐるとピアノ線が引っ張られ、上から白い粉(多分小麦粉と思われる)が降ってくるちょっとした罠まで用意されていることであり、よくはわからないが確かにここは城だった。
「よくまあ、ここまで作りあげてしまったものです……」
 おっかなびっくり布団の上に座りこみながら、大淀は思わずそう呟いてしまう。広さとしては本当に、ちょうどきっかりこの布団一枚分くらいであるというのに、いったいいくつのものたちがここには詰まっているのだろう。こんなに狭いところで寝泊まりなんてして、と叱るような気持ちであったはずが、あきれ返りすぎて一周回って笑えてきてしまった。ナットとネジを上手に組み合わせて作られたロボットのような人形が、+ネジでできた小さな目で、こっちをぼけっと見ている。
 ちょっと楽しい遊び心から温かい飲み物、そうかと思えばいたずらをかましてくるしかけまで。すっかり窮屈になってしまった首をゆっくり回して見渡せば、本当にいろいろなものたちが布団の上にぺたんと腰かけた大淀を見下ろしていて、それはなんだかころころとよく表情の変わる明石そのものを思わせた。なるほど、風雲のところはやっぱりわからないけれど、これは確かに、明石の城だ。あのひとの、なんでも上手に作り出してしまう手の温度があちらこちらに残っている、彼女のお城だ。
 中を知ったのは今日が初めてでも、たくさんの子たちがここを訪れていることを大淀は知っている。時折やる気が暴走しすぎて問題になることもあるとはいえ、基本的にはいつでも明るく鼻唄交じりに艦娘たちの艤装を修理してくれる明石は、いろんな子たちから慕われている。気さくで人懐っこい彼女は、俯きがちな駆逐艦の子ほど上手に肩車をしてしまえるような、ちょっとふしぎな魅力の持ち主なのだ。多分この《風雲明石城》も彼女の持っているちょっと不思議で、そしてとびきり魅力的なもののひとつで、明石とそれからちいさな子なら二人ほど入るのがやっとなこの秘密の場所は、おそらくたくさんの子たちを考えつかないような方法で楽しませてしまったことだろう。
「明石らしい、ですね」
 ここに入ったのは初めてだけれど、それでももうひとつ、大淀は知っている。遊びにやってくる子がもちろん大半だけれど、それだけでなくて。思うように戦果が残せなかったり、会いたいひとになかなか会えなかったり、もっと無形の、もっとなんの手のほどこしようもないような、そのくせそこらじゅうに落っこちているようなことで追い詰められてしまった子たちが、目の前のことから逃げ出したいときに訪れることもあるのだということ。なにしろどんな子たちでも傍らで見守ってきた大淀だから、よく知っている。ふらっとどこかに行ってしまったまま、姉妹たちが探しても見つからなかったような子が、夕飯どきになると明石に手を引かれて帰ってくるときがあることだって、もちろん。
 みんな知っている。知っているけれど。
 大淀はいつも、「知っている」だけだ。
「……あら?」
 見回していた目線が、ふと縫いとめられた。
 おそらくそこも手製なのであろう、壁に据え付けられた棚に設置されている小型冷蔵庫の扉には、磁石でいくつかの走り書きのようなメモが留められていた。『夕張に部品 37番』『作業用クレーン5番 油』『由良に連絡 明後日の件』『榛名・霧島主砲 調整』――どうやら明石の作業メモかなにからしい。やや薄く鋭角な筆致で書きつけられたメモたちを、なんとなく順繰りに眺めていってしまう。目に留まったのは、きっといくらか見覚えのあるものだったからなのだろう。任務担当艦と修理担当艦として書類をやり取りすることも非常に多いので、大淀は明石の筆跡をそれなりには知っている。
 ただ、わたしは字が汚くて、といつもばつの悪そうに笑って言う明石はどうやらずいぶん気を使ってあれらの書類を書いているらしい。それこそは、ここにきて初めてわかったことだった。もちろん大淀が見る分だけでなく本部に提出しなければならないものもいくつかあるので、気を配ってくれている明石の行動は実に正しい。とても正しいし、自分はそれにいつも助けられているはず、なのだけれど。私はそれを、とてもよく知っているはずなのだけれど。
 そんな、自分でも何を考えようとしているのかよくわからないことをふつふつ浮かべながら、大淀はしわがあちこちに残った布団の上をくしゃりと進んで、若干高い場所に置かれている冷蔵庫に向かって身を乗り出した。扉の正面だけでなく、横のほうにもメモが貼りつけてある。『増設バルジ開発 10・23』『資材担当官に連絡 燃料計画の件』――。
「あ、」
 扉の横側、上から三番め、右から二番め。
 ぴたり、と目が留まる、ついでにまばたきも止まる。『格納庫増築 大淀に相談』。
「ああ、……そういえば、そんな提案が、このあいだの本部会議で、」
 ありましたね、なんてことは、とうとう言葉にならなかった。
 たくさん見てきたつもりだし、たくさん知ってきたつもりだ。自分に与えられた役目を、問題なく果たしてきたつもりでいる。引率する立場として全員を見て、知っておく役割を、大淀は順当に果たしてきた。
 けれど、それだってもちろん知っていたことだけれど。
 たくさんのものたちをきちんと見渡しておくには、そのものたちから、いくらか離れておかなければならないのだ。
 なるべく手の届かないところから、なるべく声の届かないところから、離れて、見ていなければならないのだ。
 たとえばそれは、部屋の入り口のすぐそばの椅子と、ずっとずうっと奥にあるちいさなお城みたいに、距離を残したままで。
「……明石」
 そうしてたくさんのことを知ってきて。
 だけどきっとそれだから、大淀は知らなかった。
「あなたは、私の名前を、こんなふうに書くこともあるんですね」
 ぽつんとこぼした言葉が思っていたよりずっとぽつんとしていて、自分でもちょっとびっくりしてしまう。もうそろそろ出ていかなければ、と急に思えてきたのは、それでばつが悪くなったからだったのだろうか。
 しかし、そこであわてて立ち上がろうとしたのがよくなかった。
「きゃ、ッ……!?」
 いったい下に何が敷かれているのだか、沈み込むというよりは飲み込むようにもっふもっふと柔らかすぎる敷布団の上で、大淀はすっかりバランスを崩してしまった。立てようとした膝がシーツの上を無様に滑ってしまい、身体が大きく傾いてしまう。
 それがこの《風雲明石城》内でいかに危険なことであるかは、たとえ初めて足を踏み入れた身であっても十二分に予想がついた。崩れ落ちていないのが不思議なほど絶妙な均衡を保っているところに大きな衝撃を与えてしまえば、ひょっとすると崩壊もありうるかもしれない。考える猶予はほんの一瞬であったけれど、たくさんの駆逐艦の子たちとそれから明石の顔がいっぺんに脳裏を駆け抜けていった大淀は、最小限の衝撃で体勢を立て直そうとなんとか頭を回した。旗艦大淀、ここが高い計算能力の発揮どころである。多分違うけれど。
 そんな大淀が考え出したのは、反射的に出た手をどこにもつかずに必死に我慢し、倒れかけた身体のみの方向を変え、布団の上に着陸をすることだった。
「っと……あっ、で、電気が!? えっ……!?」
 その作戦自体は、全体がややみしみしいっただけでうまくいったのだが。達成する過程で、どこかしらに存在する電気のスイッチを切ってしまったらしい。城内を照らしていたのは上から吊るされていた裸電球二つきりであったため、あっという間に何も見えなくなってしまう。
 しまった、暗闇の中であれこれ動くのは、倒れこむのと同じかそれ以上にまずい。先ほどの罠もそうだが、ここにはおそらく自分が触ってはいけないものがたくさんあるのだ。ただでさえ布団の上に寝そべった状態になってしまっていて、このまま素直に身体を起こしてよいものかどうかも怪しいくらい城内は入り組んでいるというのに、どうしたものか。
 どうしたものか、――そう思ってぼうっと見上げた布の天井に、大淀は思わずぽかんとしてしまった。
「あれは、」
 埋め尽くされていた。
 緑がかったちいさな光の粒が、白い布が張られているばかりであったはずの天井を、埋め尽くしてしまっていた。大きさも間隔もまばらで、ただただ降り注ぐようにやさしく光っているそれらは、そうだ、たしか。
「……星?」
 であるはずはないのだ、もちろん。
 なにしろここは《風雲明石城》、ドックの中に明石が勝手に作った居住スペースである。この布の天井のさらに上は、鉄の梁によって組み上げられた高い天井と、分厚い金属の屋根で覆われているはずだった。
 それにだ。
「あれ、は……酸素魚雷? あっちは……ええと……ああ、九九式艦爆、でしょうか」
 それに、ほんとうの星空には、あんなに奇妙な形の星座など、たしか存在しないはずである。
 三式弾、九四式爆雷投射機、それとドラム缶まで。どうやら夜光塗料を布の裏に塗って作られたらしい星空には、ご丁寧に線までうっすら引いて、そんなものたちが浮かんでいた。これも、明石がこのお城に施したしかけのうちの一つであるらしい。
 九一式徹甲弾、十三号対空探、あっちは改のほうだろうか。細かい。起きなければならなかったはずであるということも覚えているけれど忘れて、布団の上に寝転がったまま、ここにしかない星座をひとつずつ数えてしまう。ふんわり香ってくるのは鉄と機械油と、それからうちの倉庫にあるうちだと最も安くて人気のないシャンプーの匂い。たぶん、この布団にしみついている匂いだ。
 どんなにたくさんのことを知っていても、遠くからでは、けっしてわからないものたちだ。
「……あかし」
 ねえ、明石。
 ゆっくり、ゆっくりと深く息を吸って、すごくそばにあるようなのに、なんだかとても遠くも思える匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、胸の内側のすみずみまで沁みわたらせるように、またゆっくりと吐き出す。沁み渡った表面からはあたたかいものがそうっと染みだしてきて、うすい体はあっという間にいっぱいになる。きっとそれほどたやすく、満たされてしまうようにできている。彼女は、明石は、そういうひとだから。走り書きで記された大淀、の文字が、もう瞼の裏に焼き付いたまま離れてくれそうにないみたいに。
 目を開ければ満天に広がっている星空が、それでもぐんぐん遠ざかっていくかのようだった。満たされた身体はこの柔らかすぎる布団にどんどん沈みこんでいって、もがこうと手を伸ばそうにも手が重たくてそれもできない。あなたの作った星空が、どんどん遠くなっていく。私はそれがなんの形をしているか知っているけれど、知っているだけなのだ、いつも。
 明石、ねえ、でも、明石。
「いけません、か」
 言葉はやっぱり、驚くほどぽつんと落っこちる。
 明石、明石、いけませんか。私は、そこまで、いけませんか。
 あなたが私にいてほしいのは、それでもやはり、入り口にひとつきり置かれた、その椅子のうえですか。
 そこから動いてしまっては、いけませんか、明石。
「明石。……そばまでいっては、いけませんか」 

 知っている、ただ知っている、のではなくて。
 たとえば星座の名前を数え上げるように、隣どうし、ひとつずつ指をさしながら、あなたの口から教えてもらいたいなんて。
 そんなことを思っては、いけませんか、明石。

 *

「つまりですね、その、夢を見たんですよ」
「へえ、いったいどんな夢かしら? 聞きたいわぁ」
「ええまあ、夕張たちとほどよく生態系を揺るがす程度にモンスターをハントしましたところ、わたしすっかり眠気に負けてしまいまして。夕張の部屋からですと自室よりちょっとばかり近かった明石城に、しらないあいだに足が向いていたんですよね。いやなにも覚えてないんですけどね」
「まあ起きた場所が例のあの胡散臭い城だったんだからそりゃ寝たのもそこってことになるでしょうね」
「ですね。そして偶然電気も消えておりましたし、布団にしっかり潜り込みましたところ、わたし夢を見たんですよ。いえその、有り体に言ってすごくいい夢でした。なんだか温かくてとてもやわらかいものを、ものというかひとを、ひとというか、……いえその明言は明石のぷらいばしぃと羞恥心とふりかけ程度の独占欲保護のために避けさせていただきますけれども、その、ですから、温かくてとてもやわらかくて、そして最高の抱き心地であったことは確かでした」
「へーぇ、なるほどねえ」
「……あの、足柄さん」
「なにかしら」
「いえその、いい夢がみられたなぁなんてるんるん気分で今日の作業を片付けようとしていましたところ、こうしてあなたに引っ張り出され板張りがずれて妙に出っ張って痛い部分があるところをピンポイントで選んで正座させられているあたりからして、わたしもいい加減嫌な予感が確信に変わりつつあるのですが」
「ふんふん」
「あの、……もしかしなくてもあれ、夢じゃないですね?」

「なるほど。――ひとの親友一晩中抱き枕にしたあげく髪も制服もくっしゃくしゃのまま三十分遅れで艦隊会議に出撃させちゃった罪に関しての弁明と遺言はそれだけかしら、明石?」
「あっだめですいけません足柄さんいけません明石の首は通常そういった方向には曲がらない構造になっておりまォフッ」




瑞鶴竣工日おめでとう



 いくらなんでもこれはあんまりなんじゃないかって、そろそろ声を上げてやろうかと思っていた。
「駄目ね。もう一度」
「……はぁい」
 もう叱られても構うものかと、わざと間延びした返事をしてやる。そのくせ加賀さんはきっと目つきを鋭くした以外の反応を返さなくて、なんだか拍子抜けだ。向こうから突っかかってきてくれたらこっちだって言い返す準備は十二分というかもう二十分くらいはできていたというのに、加賀さんがいつものようにむすっと唇を引き結んでしまったせいで、そういうわけにもいかない。
 加賀さんが駄目といったらそれは駄目にしかならないし、もう一度といわれたら黙って弓を引くほかない。それが、加賀さんに教えを乞う上でのわりと大切な決まり事だ。加賀さんがはっきりそうと言っているわけではないのだけれど、なにが駄目なんですか、とかどうして今のじゃいけないんですか、なんて言おうものなら絶対零度もかくやといった目線が投げつけられるだけなのだ。最悪わからないのなら一人で考えなさい、と弓道場まで出て行かれてしまうのだから、そうなるとどうしようもない。(しかも本当に投げ出してくれるのならまだしも、そういうとき加賀さんは、たとえ時間になろうがあの赤城さんが呼びに来ようが道場のすぐそばで私のことを待っている。そして出てくるが早いか「答えは出たかしら」なんて尋ねてくるんだから、非常に厄介なのだ。)
 もちろん初めにそのルールとぶち当たった時はなんて横暴なことだろうと憤りもしたけれど、これでも数か月加賀さんのもとで訓練を受けてきた身だ、いい加減、それがまったくの無駄じゃないことくらいなら私にもわかる。加賀さんが駄目だというときは必ず、たとえびっくりするほど小さくたって必ずどこかに綻びがあるときだし、もう一度が数十回続けば見えてくることも確かにある。鍛錬を終えた私がへとへとになって座り込んでいると、よく飛龍さんか蒼龍さんがお水を持ってきてくれるのだけれど、彼女たちがしょっちゅう口にする「また加賀さんにたっぷり甘やかされてきたんだね」の意味だって、最近はまあ、少しずつだけどわかってきた。
 ――と、いっても、今日ばっかりは話が違う。
 昨日やけに強く降った雨のせいで、弓道場内の空気はどことなくじめりと重たい。その湿気の中を鋭く切り裂くように、放った矢は真っ直ぐ飛んでいく。矢は、もう的のほぼ中心といっても差し支えない位置に突き立った。加賀さんの大好きな残心だってしつこいくらいきっちり取ってから、姿勢を元に戻す。変動が激しすぎると言っては大破の頭にさらなる拳骨をもらう私だけれど、逆に言うと調子のいい時は本当にやすやすと大戦果を掴み取って帰れるくらいにはいいのだ。
 そしてその日の私の調子はというと、最高潮によかった。
「……駄目ね」
「……はぁ、そうですか」
 だというのに、これである。
 もうこれでいったい何度目になったのだか、加賀さんだって飽き飽きしてきたのではないだろうか。向こうへ矢取りに出てくれている祥鳳も、なんだか焦った顔になってしまっている。
 さっきも言ったけれど加賀さんの下についてそろそろ数か月だ、どんなに生意気な口の減らない弟子だって、師匠の正しさくらいはそろそろ身に染みてわかっている。けれど、それだからこそ、今日の加賀さんはわからなかった。だって何度やっても、駄目の理由が見えてこない。しかも、ぼそりとそれを口にする加賀さんですらいつもの確固たる感じがないっていうのが、とにかくわからない。私から目を逸らして言うなんて、そもそもおかしい。
「もう一度ですか」
「……ええ」
 しかも、とうとう私に先回りされるだなんて。
 別に加賀さんの様子がおかしいことくらい、またどうせ赤城さん関連でなにかやらかしたんでしょうよ、で話を済ませればいいかとも思う。だけどさすがに――さすがに私だって、なにもこんな日に、と思ってしまうときだってある。
 いや、この人だって本当に、そりゃひと月にいっぺんあるかないかやっぱりないかくらいの頻度だけど、さらに仮にあったとしても雀の声にすら負けそうなレベルの声でしか発せられないけれど、それでもやっぱり、褒めてくれることだってちゃんとあるんだ。そしてたいへん正直なところを申し上げさせてもらえば、ぶっちゃけ今日、それ、期待してました。
 変動の激しい自分の調子については、私が一番よく知っている。今朝がばっと布団から起き上がって、冷たい水で顔を洗って食堂でぶりの照り焼きとお麩の味噌汁とごはんと漬物三枚を食べ終えたその瞬間、私は確信したのだ。今日の私は、最高に調子がいいって。だから朝も早くから唐突に言いつけられた加賀さんとの訓練だっていつもの三割増し元気な声で返事をしてやったし(うるさいって言われたけど)、ちゃんとランニングをして身体を温めて、五分どころか十分前から弓道場で加賀さんを待ったりもした。
 しかしそれがどうして、こんなことになっているのだろう。いや別になんていうか、そういう文字通りの甘やかしって絶対しない人だしいいんだけど、別に私だって弟子としてはいはいどうせうちの師匠はそうですよって感じなんだけど、でも、でもなんていうか、今日ってあの、加賀さん、なんの日か、とかって、まあどうせ――。
「はぁっ……はあ、瑞鶴、瑞鶴ー!!」
「へ? あれ、」
「瑞鳳!」
「瑞鳳っ!!」
 呼ばれたのは私だったのに、私でない人たちのほうがよっぽど元気に返事をした。
 これはいったいどういうことだろう。母港中央棟へと続く道を、息を切らせて走ってきた瑞鳳。小柄な彼女が手をいっぱいに大きく振りながら呼んだのは確かに私の名前だったというのに、加賀さんと、それから矢取りの場所にいた祥鳳のほうが、まるで心待ちにしていたみたいにそっちを向いている。というか加賀さん、あの、もう一度って言われたから私弓引こうとしてたんですけど、無視ですかそうですか。ちぇっ。
「あー、瑞鳳? ごめんね、悪いけど今居残り中だから後に……」
「いえ、訓練はもう終了します」
「は!?」
 あ、思わずはって言っちゃった怒られるこれ絶対怒られる。
 しかしそんな私の動揺などつゆ知らず、なんということか加賀さんは私の手から丁寧に弓矢と籠手を取り去り、後片付けまでしてくれる構えだ。どうしよう、豪雨は昨日だったはずなのに、今日は槍でも降ってくるんだろうか。
「そういうことだから! さ、瑞鶴はこっちこっち!」どうやら状況に全くついていけていないのは私だけみたいで、ありがとね、ううん、なんて祥鳳との謎の目配せを終えた瑞鳳は、とうとう私の手を引っ張りにかかってしまう。加賀さんがなにか言いたそうにこっちを見ていたような気もするのだけれど、とっとと弓立てのほうに向きなおり、背中しか見せてくれなくなったので、結局本当のところはわからなかった。
 何を聞くひまもなく、私は瑞鳳に手を引っ張られるがまま、弓道場から坂道を抜けて訓練場の外へ、そして母港中央棟の前を横切り空母宿舎のほうへととことこ走ってきてしまっていた。いや、何かを聞こうと一度は口も開いたのだけれど、なにしろ瑞鳳は私と比べてなかなかに小柄だ。そのせいで彼女が私の手を引こうとしようもなら私は否が応でも思い切り前かがみになった状態で走らなければならないわけで、具体的に言うと舌を噛んだ。どうしよう、血の味がする。今夜は腕によりをかけて、なんでも瑞鶴の好きなもの作ってくれるって、せっかく鳳翔さんが言ってくれたのに。
「……なんか今日ろくなことがない」
「え、なにか言った、瑞鶴?」
「ううん、なにも……っていうかなに、いきなりどうしたの、瑞鳳?」
「んー……まあまあ。」
 訊ねる私に、瑞鳳は答えらしい答えを返さなかった。
 二段前を歩いてようやく私と同じ頭の高さになるちっちゃい彼女は、黙ってとことこ空母寮の階段を上っていってしまう。となると、私だって黙ってとことこついていくしかない。なにしろ振り返ってくれもしなかったからわからないけれど、なんだか瑞鳳がやけににこにこしているように思えたのは、あれは、気のせいだったのだろうか。
 みんな出払っているのか空母寮の中はやけに森閑としていて、足の下で階段が軋る音ばかり、いっとううるさく聞こえていた。いつもはここに隼鷹を叱りつける飛鷹の声か、千歳を探す千代田の声か、赤城さんとかみ合わない言い合いをする龍驤あたりの声が響いているから、それほど目立ちもしないのだけれど。
 でもとにかく、ここの階段は古臭いつくりなせいか、相当ゆっくりか相当丁寧に上らないと、こんなふうに軋みを上げてしまうのだ。隼鷹に蒼龍さん、そして私なんてうるさく鳴らしちゃう中でもかなりの上位にいて、加賀さんが三階の自室にいようものなら絶対に叱られるのだけれど、その加賀さんですらちょこっと鳴らして上ってしまうことを私たちは知っている。
 この小難しい階段の機嫌を取りながら上れる人なんて、私は今のところ二人しか知らない。そのうちの一人は我らが鳳翔さん、そしてもう一人は。
 私の一歩前で、さらりとごくごくわずかに銀色をゆらす、ほっそりとした背中のもちぬし。
「はい、瑞鶴」
 そんなことを考えていた、私の方をくるりと向きなおって、瑞鳳はようやく足を止めた。その彼女の立つ廊下の風景は、もちろん見覚えがあるなんてものじゃない。だってここは、
「え、なに? ……私の部屋?」
「そう、瑞鶴の部屋! だから、入って入って」
 いやいや私の部屋だから入ってって瑞鳳が言っちゃうのはなんだか変だし、そもそもそんなににこにこしているのはほんとにわけがわからないし、だいたい今日はもうなんだか加賀さんも瑞鳳も祥鳳も、あとよくよく考えたらこんなに静かな空母寮っていうのもなんだかへんだし、

「あっ、……えっと、……お、おめでとうっ、瑞鶴!」
「へっ」

 ――つるだ。
 視界いっぱい、満天の鶴が、私めがけて降ってきた。

「おめでとうございます、瑞鶴」
「おめでとー」
「おめでとうっ、瑞鶴!」
「おめでとう、ございます…」
「おめでとうございます、先輩!」
「おめでとう、瑞鶴さん」
「よ、おめっとさん」
「おめでとう、瑞鶴」
「おっめでとーぅっ!」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます!」

 つる、つる、色とりどりの折り鶴が、へたくそなのじょうずなのていねいなのこきたないの、ぜんぶ、ぱらぱらと、ぱらぱらと。
 たくさんの声と一緒になって、私の頭に、肩に、手のひらに、降り注ぐ。
 おめでとう。
 おめでとう。
 おめでとう、瑞鶴。
 背中からまで追いついてきた声が、――ああもう、加賀さん、顔、真っ赤ですけど。走り込み、足りてないんじゃないですか。

 もともと二人しか入れるために作られていなかったはずの部屋はとにかくぎゅうぎゅう詰めのいっぱいいっぱいで、なのに私のための場所だけが、驚くほどきっちりとまあるく作られていた。扉を開けたまま立ち尽くしていた私は瑞鳳から背中に最後の一押しをとんともらって、とうとうその輪の真ん中まで足を踏み出してしまう。
 赤城さんに飛龍さん、蒼龍さん、雲龍に大鳳。鳳翔さんに龍驤さん、飛鷹、隼鷹、千歳と千代田。そして背中に瑞鳳、追いついてきたら祥鳳と瑞鳳まで加わって、まるい輪の中、私にはまったく逃げ場がない。
 だから。
「瑞鶴」
「……っ、」
 だから、真正面で、なぜだか座布団を七枚も重ねた上に乗って、すこしはにかんだようにしているひとと、向き合うしかなかったのだ。
「瑞鶴、おめでとう」
 ああ、きっと、このひとの手のなかから全部、羽ばたいていったんだ。
 さいご、掬い取るやさしい形をした両手からすっと放たれた一羽の折り鶴が、私の頭にこつんとあたって手の上に落っこちる。数百、いや、これは多分もっと。そんな数の折り鶴を一斉に放ってくれたのは、この、鳳翔さんや赤城さんや戦艦の人たちが大好きな日曜一七三〇からのテレビみたいな状態になっちゃってる、私のだいじなだいじな、姉だった。
「待たせて悪かったわね、瑞鶴。昨日の夜までには準備をしておいたんだけど……あなたに見つからないよう翔鶴が外に吊るしておいたら、ほら、昨日の夜はひどい雨だったでしょう? みんなくちゃくちゃになっちゃって」
「でもこの人数いたらなんとかなるんだね、千羽!」
「蒼龍が折ったのは全部汚くてわかっちゃうけどねー。あ、加賀さん、時間稼ぎお疲れ様でした」
「……構わないわ」
 みんな、みんなでつくってくれたお祈りを、ぜんぶ、翔鶴姉が届けてくれた。
 おかげで私は、――なんてことだろう、幸せのどしゃ降りだ。
「瑞鶴?」
「あ、……う、うん、なあに、翔鶴姉」
 座布団の上でちょこんと膝を曲げて、翔鶴姉はなんとか私と目線を合わせてくれようとしていた。肩の上とかこめかみのあたりとか、降り注いできた幸福のかけらをくっつけたままの私の顔をそっと見つめて、翔鶴姉はふんわり笑う。すこしだけ、ほんのすこしだけだけど、泣きそうにもみえる瞳で笑う。
「いつもね、あなたがくれるから」
「……え?」
 屈んだ翔鶴姉の手が、髪に引っかかった青い折り鶴のぶつかってる、私の頬のあたりを、さらりと撫でた。
「瑞鶴、あなたはいつも、私のこと、あふれるくらい幸せにしてくれるから。……だからね、こんな日くらい、同じことをしてあげられないかしら、と思っていたの」
 みなさんの力を借りなければいけなかったし、それでも危うく間に合わないところだったけれど。
 ちょっとはにかむように肩を竦めた翔鶴姉は、七枚も重なってさぞかしバランスの悪かったことだろう座布団の上から、ほとんど滑り落ちるようにして、私に向かって飛び込んできた。ううん、そうでなきゃ、こんなふうに飛びついて抱きしめてくれるなんてこと、なかったかもしれない。だって翔鶴姉、ほんとはいつもみたいに、ちょっとだけ額を寄せるくらいのつもりでいたんでしょ。「ひゃ、……あ、え、えっと、ずい、かく」ほら、だって焦った声になった。もちろんこんな時でもしっかり私たちの周りを囲ってくれている中から、わりと余計な歓声が上がる。ええい、こんな日ですからね、ちょっとくらい見せつけさせてくださいな。
 ああ、だってもうほんとに、幸せだ。
 びしょ濡れになるくらい、幸せだ。
「……瑞鶴」
「うん」
「おめでとう、瑞鶴。生まれてきてくれて、ありがとう」
「うん、……こっちこそ、ありがとうだよ、翔鶴姉」
 ありがとう、翔鶴姉。
 私の生まれた世界は、あなたの手から羽ばたいた幸せで、こんなにこんなに、いっぱいです。


「……あ、そういえばね、瑞鶴」
 さあさあそれじゃあ広間にいって宴会だ、ともう表で騒ぎ出した、相変わらず酒と宴会の大好きな空母たちの背中を見つめながら、瑞鳳がそっと囁きかけてきた。
「ん? どしたの、瑞鳳」
「これ、翔鶴さんは多分言うつもりないみたいだから、秘密ってことにしておきたいんだけど……翔鶴さんね、鶴を折ってるとき、一羽だけなんか、お手紙みたいなの書いてたよ。って言ってもほんとに千羽あるから、探すの大変だろうけど……っていうか、だからこそのお手紙なのかもしれないけど」
「なぁに言ってるのよ、瑞鳳。――私を誰だと思ってるの?」
 手の中にさっきから、というか最初から残っていた一羽を、私は多分自分でもちょっと恥ずかしくなるくらいの一世一代のドヤ顔で、見せびらかしてやる。
「えっ……うそ、それ、えっ!? うそっ、すごい瑞鶴!! なになに、なんて書いてあったの?」
「あはは! 言うわけないでしょ、そんなの」

 言えるわけないでしょ、恥ずかしくって。




明石と大淀 さわれないことについて




 嫌いなところなんて、絶対に探せない。探したって、見つかるわけがない。
「はい」
「ぅ、」
「どうぞ。」
 ない、のに。
 それなのに、それなのにそれなのに、それとひょっとするととても近い感情を、わたしはあなたに対して、とうとう抱いてしまったのです。
「どうぞ、明石」
 あなたは微笑む。
 どこかぎりぎりのところで必死に浮かべているような、でも圧倒的なほどの確かさを以て、あなたは微笑む。
 あなたのひとに笑いかけるときの表情が、好きだった。名前をつけるなら慈しみ、そういったものを満天に詰め込んで、だけど決してそれを押し出したりはしない。むしろ最大限に押し隠した、控えめな微笑み。作戦を終えて帰ってきた子たちや、本日の報告を持ち帰ってきた子たちに対してふと向けられるその微笑みが、わたしはとても好きだった。わたしはそれを向けられる立場には決して立てないのだろうな、ということが、自ら望んだ立場ながら、ほんの少しだけさみしくなるほどに。
 ええ、あなたは気づいていないでしょうけれど、これまでもこれからだってきっとずっと気がつかないのでしょうけれど、わたしはあの子たちがうらやましかったのです。わたしの仕事は直すこと、わたしの誇りは直すこと。あの子たちはあの子たちで、決して手放してはならない、大切なものを守るための武器があるように、わたしにとってのそれは武器でした。大切なものがあるのなら、守りたいものがあるのなら、きちんと両手で握っておかねばならない武器でした。
 けれどわたしはうらやましくて、ただの一度だけでも同じ景色がみられたのなら、と思って、けして傷つくことはない演習でしたけれど、たとえばあなたの周りをよく囲む子たちが身につけているような黒金の、武器らしい形をした武器たちを身につけてみたこともあります。きっと滑稽だったのでしょう、きっと不似合いだったのでしょう。へっぴり腰で放たれる砲弾は的を射抜くことなど一度としてなく、わたしはただただ醜態をさらしました。
 それでも、たとえそうであっても、わたしはほんの少しだけ、たった一度だけでいいから、あなたに笑いかけて欲しかったのでしょう。おかえりなさい、お疲れさまです、と、あの子たちみたいに。それがわたしには得られないものなのだと、分不相応なものだと、どんなにわかっていたのだとしても。
 結局あのとき、あなたは笑ってくれませんでした。わたしが見られたのは、みっともないことをしでかしたわたしを正しく叱りつける、あなたの怒った顔だけ。あなたは一体なにを考えてるんですかと、形のいい眉をきゅっと吊り上げてしまった表情だけ。まあ、もちろんあなたの浮かべるものなのですから、それだって十分かわいかったのですけれど、十分見どころたっぷりのものだったのですけれど。
 あれ、でもあなたはそのあとに、なんと、言ったのだっけか、
「明石。」
「っ、……おお、よど」
 ああ、そうだ。
 心配したんですよって、小さな小さな声で、続けて、くれたのだっけ。
 そしていまあなたは、わたしの前で微笑んでいる。任務を達成した子らを讃えるのでもない、働きに対し報いるのでない、もっと別の、一度もみたことのないような顔で、微笑んでいる。
 わたしに向かって、両手を広げて。
 さあどうぞ、と、みたことのないような顔で、微笑んでいる。
「どうしたのですか、明石」
「あ、……っだ、だって」
「どうぞ、と、言いましたよ」
 ねえ。
 ねえ、どこでも、どうぞ、好きにさわってください、と、あなたはずっと、微笑みかけてくれている。
 わたしがあなたに触れられないこと、あなたはいったい、いつから気づいていたのだろう。触れられないと思うほど、触れてはいけないのだと思ってしまうほど、あなたのことがとても、とてもきれいに見えてしまっていること、あなたはどのくらい気づいているのだろう。どのくらい、気づかれてしまっているのだろう。
 あなたのことを。すらりと流れる黒髪が振り向きざまに靡くたび、書き物の途中でペンを握った手が耳元をさらりと撫でるたび。あなたの手を、横顔を、背中を、からだを、すべてを、どうしようもなく実感してしまうたび。
 わたしのこんな手でどうしてあなたに触れられるものかと、わたしが思っていたこと。
 それほどまでに、あなたがきれいで、きれいで、たまらなかったこと、あなたはどれくらい気づいていたのだろう。
 ちっとも気づいていなかったらいいのに、と思う。なにも知らなかったらいいのに、あなたがなんにも知らないあなたのままで、いつも通りに笑ってくれていたらそれだけでもう全部いいのに、と、思う。
「明石。ね、どうぞ」
「だって、……っだ、って、大淀、わたしは」
 あなたがなにも知らないならそれでいいのに。
 いつも通りに笑っていてくれたならそれで十分なのに。
 それで時々、そのぴんと伸びた姿勢からすればなんだかくりっとまあるくてかわいらしい、あなたはちょっとだけ気にしているらしい声で、でもあなたに似合って似合ってしようのない声で、わたしを、呼んでくれたら。
 明石、と、呼んでくれたら。
「どうぞ、お好きに」
「……っ!」
 それだけでいいのだと。
 ずっと、そう思っていたかった。

「あなたの、お好きになさってください、明石」

 ほっそりとした背中は無遠慮に押し付けた手のひらの中でいやというほど形が変わって、耳元でほんのわずかに苦しそうな吐息がふ、と吐き出されたのがわかって、胸のつぶれる思いがした。
 痛みではない。
 悲しみではない。
 そうであったらいっそよかったのに、そうではないのだ。
「おおよど、……っ大淀、大淀、おおよど……!」
 きれいなきれいなあなたをこの手で壊してしまいそうなほどつよく抱きしめられてしまったこと。
 それがうれしくて、ただただ悪辣なほどうれしくてうれしくて、はち切れそうになって、わたしの胸は、つぶれていた。
「大淀、……っ、ごめんなさい、ごめん、なさい」

 あなたのことがだいすきで、ごめんなさい。

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