明石と大淀



 工廠にいりびたりたがるたちの人間は、どうしてこう太陽と足並みを揃えた生活ができないのでしょうねと、今度絶対に五月雨か由良あたりに愚痴ってしまおうと思った。
「あー、それならなるべく五月雨ちゃんにお願いしたいですね」
「どうしてですか」
「いえほら、五月雨ちゃんってそうは言ってもどんな夕張を見たところで最終的にはゆるせてしまうという稀有な子なので……というか由良の場合はその、罰が怖ぁイタッ」
「……私もね、バインダーの使い方にはいくらか定評があるんですよ」
「うぅっ……さ、さすが大淀、あくの強すぎる子たちに言うことを聞かせてきただけはありますね……!」
 角の、しかも金具で補強してあるところが骨にしっかりぶち当たるよう振り下ろしたので、大いに痛むだろう。笑っているのだか泣いているのだかは判然としないが、ともあれ顔をくしゃくしゃにしてはいる明石が、艦娘の子たちいうところのバインダー砲撃を喰らった額を押さえて、足をじたばたさせている。そしてそのたびごとに、彼女が今身体を預けている執務室の黒く上等なソファは、スプリングをきしきしと控えめに鳴らしていた。
 さすが執務室据え置きといおうか、一応上質な家具であったからよいものの、これがくだんの夕張の部屋のソファだったら、だいぶうるさかったかもしれない。その程度、膝を曲げなければ脹脛以降はばっちりソファからはみ出すくらいには明石は大柄であったし、また暴れ方が大げさでもあった。「こら、明石、あまり暴れないでください……ほら、タオルケットが落ちちゃったじゃないですか」
「へっ? あ、すいません。えへへ」
「……なにがえへへ、なんですか」
床に滑り落ちてしまった薄い布をため息交じりに拾い上げて、ぱん、と一度はたいてから、ソファで横になっている明石の上に戻してやる。これだと明石にはちょっと小さい、のはわかっているのだけれど、大淀が自由に貸し出せるものといえばこれ一枚だ。それはまあ、私よりも彼女はいくらか背が高いのだから、足りなくなるのも道理ではあるが。
「いえ、まあ」はて、足のほうをちゃんと覆ってやるべきか、それとも肩を冷やさないほうがいいものかと悩んでいた大淀の手からタオルケットを受け取った明石が、それを肩どころか顔の半分くらいまでかぶってしまってから、すこしくぐもった声で言う。「なんでもないです、ありがとうございます」
 そういいながら、胸のあたりをしっかりと大きく上下させてからゆるみきった顔を満面に浮かべてしまう彼女は、なんでもないなんて言葉をつかうのがひどくへたくそだ。
 きっとそのくらいには、明石は、ひとつひとつの反応がとても大きいひとのように見える。みずから海に出ることこそ今までなかったものの、大淀はこれまで母港に来たすべての艦娘たちを出迎え、そして看てきた。よく笑う子、あまり泣かない子。足がちょっと遅い子、頭の回転が早い子。犬っぽい子、猫っぽい子。艦の魂が受肉するという現象を最初から今まで見つめてきた大淀は、彼女たちがどういうふうにみずからを成していくのかを、とても多くの例として見てきた。もちろんその中には、喜怒哀楽がきっぱり顔に出る子だって、心と体があまりにも上手に連結され過ぎている子だってたくさんいた。そういう姿は、とても微笑ましいものとして大淀の記憶にたくさん残っている。
 けれど目の前の彼女の反応ぶりというのは、どうもなにかが違うように思えてしまうのだ。なにが、と説明しきれないところがこのヒトの身体の厄介さであるとは重々承知しているけれど、それでもつい考えこんでしまう、そういう絶対的な、そしてさらに厄介なことに恒常的ななにかが。いつもあって、いつも変わらないおおきな衝撃を、彼女はいつだって隠し持っている。
「ところで大淀、どうして執務室にあなたのタオルケットなんて置いてあるんですか?」
「それは……布団だと、さすがに今の季節では暑いですから」
「……ん? まさか大淀、あなたまだ仕事が終わらないからって執務室で寝たりしているんですか!? それ、やめなさいって言ったじゃないですか! もうっ、いったいなんのためにわたしが掛け布団取り上げたと思ってるんです!」
 そして、たとえばこういうとき、さっきまで寝そべっていたのがうそのように跳ね起きたかと思えば、きりっと怒った顔をびっくりするほど素早くつくれてしまうことなんかで、ひとにその隠し持っていた衝撃をじつに惜しみなくぶつけてくるのが、この明石という艦娘なのであった。
 おかげで彼女ときたら大淀史上もっとも厄介な艦娘として不動の一位の座を築いているのだが、それをちょっと匂わせるようなことを言ったら驚くべきというかそれなりの年齢感をもって象られた顔にはあるまじきしょんぼり顔をみせてくれたので、こちらの反撃すら許されていないというひどい状況である。
「っ、……あなたが言いますか、それを!!」
「ぁいたァッ!?」
 ひどい状況である、が、ここでは反撃できるだけのカードが別にあるので、大淀は迷いなくそれを切らせてもらうことにした。
「い、痛いです、二発目は痛いです、同じところは本当に痛いです、狙いが的確すぎます大淀……!」
「痛くしたんです! まったく……今あなたがこのソファで横になっている顛末を、忘れたとは言わせませんよ……?」
「ひいいい、こ、今度は目線が痛いです大淀……!! ううっ、わ、わかってますわかってます、大丈夫です!」
 さっきまでタオルケットの端を引っ張り上げていた、甲に絆創膏の貼られている左手を、明石は急にきまりが悪くなったかのようにさっと隠してしまう。あなたはいたずらの見つかった子どもですかともう一喝してやりたいのはやまやまだったが、しかしすすんで目にしていたくはないものであったのも確かなので、ぐっとこらえて口をつぐんだ。
「本当にもう……何をやっているんですか、あなたは」
「あ、あはは……やけどはさすがにちょっとないですよね、はい」
 艤装の整備は慣れたものだと思って油断していたのだと思います、なさけないです。そう言ってしぼんでしまった明石には、彼女のそれのごとく同じ衝撃を自分がぶつけられたことなどきっと一度もないのだと、こんなときに痛感してしまう。とはいえ、叱るだけでは彼女の思考をそういう方向にしか向けられないのだというのは大淀だってよくよくわかっていて、それだのに「そうではなくて、」の続きになんと口に出せばいいのだかがわからないのだから厄介だ。彼女も厄介なら、彼女を前にした自分だって、手のつけようがないほど厄介なのだった。
 彼女の困った工廠仲間の夕張が、明石の様子がさすがにちょっとまずい、というめずらしい報告を持ってやってきたのは、つい先ほどのことだった。困った徹夜仲間、と言い換えてもいいほどではある二人の片割れがそんなことを言う時点で相当のものであることは明白で、よほど小柄であるはずの夕張に引っ張られてやってきた明石がひどく申し訳なさそうに縮こまっており、その片手がやけどを負っていた時点で、大淀の下すべき命令は決まっていた。
 私がいくら言ったところで、夕張さんと一晩中語り明かせるほど艤装に関してはこだわりのあるあなたともあろう人が、その艤装の整備中にやけどを負うだなんて。提督に代わって日々の艦隊運用を一手に任されている大淀としては、無論工作艦明石に対して休息を取るよう緊急命令を下すに躊躇いなどなかった。
 そして、その結果が、執務室ソファ上(装備・大淀のタオルケット)にて強制休養中の明石、という現在の状況であるというわけだ。
「し、しかしですね、大淀」
「なんですか」
「うぅっ、そ、その異論に対して数百手は反論考えてくれそうな目、やめてください……いえあの、休養命令は重々承知いたしましたので、わたし、部屋に戻ってはいけませんか?」
「いけません」
「鮮やか過ぎる即答ッ!! ……えっ、な、なんでですか!?」
「理由は三つあります。ひとつ、あなたの部屋には先日あなたが注文していた艤装情報関連の冊子がつい先ほど届けられています。あなたが部屋に戻ってからそれを開かないとは思えません」
「えっあれもう届いてるんですか! やだすぐチェックしな……あっ。」
「二つ。シーツ交換の際鳳翔さんが見かけたとおっしゃっていましたが、あなたの枕元には常に艤装に関するアイディアをメモするためのノートと鉛筆が置いてあります。そんな状態で十分な休養を取ると言われても、説得力がありません」
「いえ違うんですよほらアイディアって基本的に目を閉じて横になったときが一番活発になるというかですね、あっでもそれから飛び起きて設計図引き出すなんて夕張みたいなことはわたし三回に一回くらいしかやらないのであの、……すいませんなんでもありません!」
「三つ。休眠を取るよう私はこれまであなたに再三再四言い聞かせてきましたが、まともに聞き入れていただけた記憶がついぞありません。よってこの話題に関する私のあなたへの信用度はほぼ無いに等しく、残念ながら監視という措置を取らざるを得ません」
「……すごいです大淀! この明石、何一つ言い返せません!」
「胸を張って言うことですかそれがっ!!」
 の、わりには大声でやりとりをしてしまっているので、寝かせる気があるのかといわれれば、大淀だって言い返せなくはなるのだが。
 いえごめんなさい、だけどやっぱり大淀のそういうところは素直にすごいって思うんです、などということをどこかふにゃりとした笑顔で言ってしまう彼女はどういうわけか、けっしてそういう切り込み方をしてくれないひとなのだった。
 数百を超える艤装を一つ一つ管理し、艦種だけでなくその子の特長に合った装備を的確に選び、かつより良い運用のために改装をも施してくれる彼女は、頭ならひょっとすると自分よりもよほどよく回るのではないかと思えるわりに、こういうときひどく鈍いように思えてしまう。明石はけして、大淀の気を付けておいているところには切り込んできてくれない。
「まったく……大規模作戦中とはいえ、ほどほどにしてください、明石。張り切って整備したいのもわかりますが、作戦は長いんです。途中で倒れてしまっては、元も子もないんですよ」
「えっ? あ、いえ、昨日は整備じゃなくて……あっ」
「……なんですって?」
「きゃあ大淀、眼鏡、眼鏡が逆光で光ってとても迫力がありますなんですかその角度、研究したんですか」
「無駄口はいいですから、この私に報告なさい、工作艦明石」
「は、ハイッ!?」
「あなたは、昨日、工廠で、一晩中! いったい、何をしていたんですか!」
「うぅっ……あの……ですから……つ、つまり……磨いたりとか?」
「報告ははっきりと、正確に!」
「ひいぃ! け、軽巡洋艦大淀の艤装を磨いておりましたァッ!!」
「……は?」
 明石はたとえば自分のように、どう言い返したものか悩むようなところに切り込む真似は、なぜだかけっしてしない。
 そのくせ、まったく予想だにしないところから、予想だにしない一撃を振り下ろしてくるのが、いやになるほどうまいときがある。
「いえあの、つ、つまりですね……ほら、あなたももう艦娘の一員、ですので。そうなると、大本営に行って、艤装を付けた記録写真を撮る必要があるでしょう? あなたが艤装を付けた姿で皆さんの前に出るのは、それが初めてですから」
「……は、」
「ええと、ですから……つまりですね。ぴっかぴっかに! 綺麗に、してあげたかったのであります!」
 あなたはきっととても、きれいなふねになると思ったから。
 そんなあなたにわたしがもっとも良くしてあげられることがあるとすれば、それだったから。
「……、ね、なさい」
「もがっ……お、大淀、大淀!? あのっ、がっ、眼球を押してます、それ目をふさいでくださっているというより眼球をつぶしてます! なんでしょう、この新しい感じの痛み!」
「うるさいうるさいうるさいです、命令です、今すぐ寝なさい工作艦明石!!」
「いえあのですから、わ、わたし正直あなたが同じ部屋にいますとちょっと非常にこう、心拍数的な意味で寝づらぁいたァッ!!」

「っだから! あなたはどうして、そういうことを言うんですか!!」





由良と夕立



 この世にあるものは、やっぱりこの世の内側にあるものだから、そこから完全に切り離したりはしてくれないのだ。ぶちまけられたミルクが繊維の隙間から染みだしてくるときみたいに、遮光カーテンの向こうからほんのり忍びこんでくる日差しを見つめながら、ぼんやりとそんなことを考える。今日はやたらと天気がいい。きっととてもよく晴れている。すこしだけ、ほんのすこしだけ、いやになってしまうくらいには。
「由良」
「ん、なに……、っ」
「ほかのこと?」
 しょんぼりしてしまったかのような声を出すのに、歯を立ててくる力はしっかり強いところが、ほんとうに凶悪な子だと思う。
 鎖骨のあたりに押し当てられた夕立の歯が、ういた骨の表面をがりりとひっかく。肩肉のところに食い込んでいる前歯が、そのままうすい膜も皮膚もみんな突き破ってしまいそう。表層を覆っているものをみな食い破って、彼女のからだが、わたしの内側になるのだ。想像したら、すこしぞくりとした。恐怖ととてもよく似ていて、だけどその奥底に、たしかな悦びをかくしている。おかしいだろうか、――きっとおかしい。
 両手を由良の顔の横につき覆いかぶさってくる夕立の背中で、片手が勝手にきゅっと握られる。唾液の擦れる音を立てながら夕立が一度離れると、は、と吐き出された短い吐息に、濡れた皮膚が冷やされた。おかげでいっそう噛みつかれた箇所が熱を増したように思えたのは、単なる思い込みだったのだろうか。もうどうだっていいことだけれど。
「ほかのこと、やだよ、由良」
「そう、……そうね」
 もう、もうほんとうに、どうだっていいことだけれど。
 ごめんなさいねと囁きかけて、少し身体を起こした由良が頬から髪の中までするりと指をすべらせてやると、夕立はくすぐったそうに笑った。鮮烈に赤い瞳が細まったまぶたに隠れて、くふっとこぼれた無邪気な吐息が、由良の手首のあたりをくすぐる。頬に触れた手を離さないまま、指先で夕立のちいさな耳のかたちをなぞって、親指で鼻先をちょこっとだけ押してやる。きゃあ、と満面の笑みでたわむれの悲鳴を上げた夕立が、むずがるように肩をすくめた。「ふふっ、えへへ、くすぐったいよぅ、由良」
「いや?」
「んーん!」
 悲鳴がたわむれなら、このやりとりだって、心底ばかばかしいくらいのたわむれなのだ。由良が手の動きを少し止めると、クリーム色の髪がくしゃりとつぶれるほどていねいに、夕立が頬を寄せてくる。手のひらにぺたぺた吸い付くあどけない肌の感触が、どうしようもなくかわいらしかった。
 夕立はとてもうれしそうにしている。それ以上にうれしいことなんてなんにもないみたいに、せいいっぱいうれしそうな顔をしてくれている。はげしく甘えるようにこすり付けられるつめたい鼻先、閉じられた瞳の長いまつげが手のひらをさらさら撫でて、すこしくすぐったい、笑ってしまいそう。だからきっと、それこそ笑ってしまいそうにばかばかしいことばかり、考えてしまうのだろう。たとえばそう、たぶんわたしが撫でているといったら、この子はいつまでも撫でさせてくれるのだろう、とか。きっと眠たくなっても、きっとのどが渇いても、きっと、お腹が空いても?
「お腹が空いたら、たべられちゃうかしら」
「ん?」
「なんでもないわ。」手を放して、さっき夕立に押し倒された時のままのかっこうに戻ると、夕立はちょっと残念そうな顔をした。上からじいっと見下ろす赤が、ジリジリ不満そうに燃えている。一度ぱったりと降ろした両手がベッドのシーツに触れて、そのとき初めて、身体がとても熱いことに気がついた。冷えたシーツの温度は、深い海とどこか似ている。だから、つかまっていないのも、つかまえられていないのも、ひどく不満に思えるのだろう。「ねえ、夕立」
「なあに?」
「なんでもないの。……なんでもいいから、キスしてちょうだい」
 わたしの天使みたいにかわいい狂犬は、ぜったいに待てができない。言い終えるが早いかかぷっと唇がたべられたのを見て、由良は心底そう思った。ああもういけない子、――なんてかわいいの。
 ぜったいに待てができない夕立は、最初からみんなたべてしまう気でいっぱいだったのだ、きっと。由良の唇も歯も、頬の内側の柔肉も、いいように蹂躙される舌も。あっというまにどちらがどちらだかわからなくなった唾液も、そして、吐き出されようとする呼吸も、みんな。「っふ、……ん、…ん、っ」ひとかけらも残さず、みんな。夕立は、だって、きれいにたべてしまう子だから。
 あっというまに酸素不足に陥った頭がくらくらして、部屋の中はたしかぼんやりと明るかったはずなのに、由良の視界ではちかちかと暗闇が瞬いた。いつのまにか夕立の背中にぎゅうっと回していた両手が、自分でも信じられないほど強く握りしめられていた。たしか服をつかんでいたはずなのに、布をはさんでいる自分の爪が手のひらの皮膚にささって、おそろしく痛いくらい。
「ッは、ゅ、だち……っ!」
 限界が近くなって、投げ出していた足がびくんと勝手に跳ねる。でも夕立がしたのは覆いかぶさる身体でそれを抑え込んでしまうことで、夕立の力はちゃんと強かった。ちゃんと、とても、強かった。いき、息が足りない。そう思って口を開くと、夕立の舌がやってくる。由良のをさぐりあてて、ふちをなぞるようにゆるく舐めあげたかと思うと、痛むぎりぎりの強さで歯を立ててくる。くらくらする。息が足りない。した、夕立の、舌が。味わって、噛みちぎって、たべつくされる。くらくらする。くらくらする。「ん、ンッ、…っく、ふ……!」
 溺れることが、こわくてこわくてたまらない。わたしたちはたしか、そういういきものだったはずなのに。息が足りない。きっともうみんな飲み込まれてしまった。くらくらする。もう、おぼれて、しんじゃいそう。しんじゃいそう、なの、ゆうだち、「っゅ、だ、……ち」
「ゆら、」
 薄く開かれたまぶたのすきま、赤い瞳がぎらりと光っていたのを見た。
 じんじんと黒が脈打つ中で、それが、それだけが、はっきりとうつくしかった。
「は、……はぁ、」なんだかやけに情けない音がすると思ったら、その音の出どころはどうやら自分ののどだった。ひゅう、ひゅうと細い空気がすべっていく音だけがする。それを呼吸と呼ぶんだったら、こんなに弱々しいものなんてほかにはないんじゃないだろうか。いっそ笑ってやりたかったけれど、さすがにそんな余裕は残されていなかった。握りしめすぎた指先と、つっぱった足先がびりびりする。少しずつしか酸素を取り込むことができそうにない頭も、もうずっとくらくらしているばかりだ。しばらくは使いものになんて、ならないかもしれない。
 ならないけど、べつに、それでもいいと思ってしまった。
「由良、だいじょぶ?」
 細くていまにもとだえそうな息を繰り返している由良を見下ろして、夕立が小声で尋ねてくる。髪を撫でつけてくる手はたしかにやさしくて、親愛でいっぱいだ。もうどっちのだかちっともわからない唾液で唇の端をぬるりと光らせている、わたしのかわいいかわいい子。その手がするするすべっていくおかげで、由良は額にびっしり汗が浮いていたらしいことを、やっとのことで知ったのだった。「だ……ぃ、じょうぶ、だから」 
 大丈夫だから。
 たとえどんなにかすれた声でも、夕立にとっては、由良が口にすることが世界のすべてだ。
「ゆう、だち」
 溺れることがこわくてこわくてたまらない、わたしたちはたしかそういういきものだった。そういういきものだったはずなのだけれど、もう、忘れてしまった。
 回復なんてちっともしていない、ふるえる指先を伸ばして、夕立の唇に触れた。かわいい舌をすこしだけ引っ張り出して、爪の先でくすりとこすってやる。夕立の肩がぴくんと跳ねて、由良の上に馬乗りになったままの身体がもどかしそうに動いたのが、とてもよくわかった。
 でもそんなふうにぽかんとしていないで、ねえ、だってあまり声が出せないのよ、わたし。目で呼ぶ、ということができてしまったのはどうしてなのだろう。夕立はまるで恭しく差し出すみたいに、由良のもとまで頭を垂れた。わたしは何も言わなかったのに。ひとは言葉を使ってでないと、意識をつなぎあうことができないのではなかったか。それならわたしたち、とうにひとでもないのかもね。そんなことを考えて、心の中ですこしだけ笑った。「ゆうだち」
 いやらしく掠れた声が、夕立のかわいらしい耳のふちをくすぐっていく。ねえ、くらくらしたのよ、おぼれそうだったの、それからしんじゃいそうだったわ。ねえ、――だから。
「もっと、して」

 かわいいかわいい子。
 あなたは、わたしの言うことを、聞くのでしょう?






由良と夕立、終戦パロ



「んー……んー」
 ひどくくぐもった声が、それでもぎくりとするほどきちんと響いてくるのは、たぶん音というのがもともとふるえであるからだ。
 きっとそんな場合でもないんだというときにかぎって、考えはつらつら続いていく。あたしってばよくそんなこと覚えてるなんて感心したのも、そのうちに入るものなのだろう。
 でも確かに、夕立の記憶という点においてそれは確かに感心すべき点ではあった。なにしろ生物の授業に関して夕立が覚えていることといえば、小太りの先生がしょっちゅう締めなおしているネクタイのローテーションは紺色草色臙脂色のきっちり決まったローテーションであることとか、落書きをするなら資料集よりも教科書のほうがつかわれている紙の関係でやりやすいが、へんな図のたくさん載っている資料集のほうがずっとずっと面白いっていうことぐらいだ。
 あの場で先生がふがふがと眠気を誘う声でしゃべっている内容については、べつに夕立が頭に留めておかなくたって、定期試験前になればおそろしく賢い双子の姉が五十分の内容をだいたい二十分かそこらでまとめて話してくれるから、とりあえずそれまではほったらかしにしておいてよいものなのである。少なくとも夕立、と、同じく姉妹の中では勉強が苦手で、そして覚える気も正直はなっからない涼風の中では。(時雨と村雨は言わずもがなだとしても、五月雨は要領が悪いだけでやる気にはあふれているし、白露だってなんだかんだ、やることはやるのだ。白露って、そういうところがお姉ちゃんだ。)
 それでも音の鳴るしくみを夕立がなんとなく覚えていたのは、バスケットボール部の合宿で授業を三日ほど休んだ結果受けるはめになった補習のプリントを、ちょうど今日の放課後に解いてきたばかりだからなのだった。残念ながらそのプリントに関しては、いつものように村雨の手を借りるというわけにはいかなかった。「そりゃあ試験だったら私も同じところを勉強するんだしとは思うけどね、そのプリントって本当に、夕立に対してだけ出された課題じゃない」とあっさり手など振りながら姉は言い残していったし、その言葉にはまったくもって反論などできようはずもない。本当に助けてほしいときになったら絶対に助けてくれる村雨だが、本当に助けてほしいときにならなければ絶対に助けてくれないのも、また村雨ではあった。「村雨は姉妹みーんな同じ学年っていうのが、すっごく気に入ってんだもんね! だから試験なら助けてあげるんでしょ?」「白露うるさいすごくうるさい」「いったい! えっ、えっ今あたしなんでぶたれたの!? なんであたし村雨にぶたれたの、あたしお姉ちゃんなのに!」「うるさい!!」
 かくして、同じく陸上部合宿の結果同じ補習プリントと向き合うこととなった涼風と二人、今日の夕立はとにかくがんばったのだ。落書きだらけの教科書をひとつの机に広げ、濃く靄のかかった記憶を必死になってつなぎ合わせ、たぶん村雨や時雨だったら十五分もかからなそうな、あとこういうことになるとちょっと気味が悪いくらい(といったらこのあいだいたく落ち込んでいた)夕張だったら三分とかからなそうなプリントの空欄を、ひとつずつ埋めていった。A3用紙の真ん中にさしかかったあたりで空腹をおぼえ、売店までちょっとしたお菓子を買いに行き、大いに会話が脱線してしまった一時間と眠気に襲われまくったもう一時間を過ごしたりなどもしたが、それでも夕立は涼風と二人で最後までがんばった。気が付いたらとっぷり夜が更けてはいたが、たどたどしく最後まで埋められたプリントを見て、担任の先生は涙ぐみそうなほど喜んでくれた。「夕立、お前、おまえがなぁ、おまえ、そうかぁ、部活以外の話を十分以上続けてくれたのか、先生は、先生はうれしいぞぉ……!」
 それで、だから。だから、あたしがんばったんだよって、いおうと、思ってて。
 ずっと合宿で、そんで次の日補習で、ちょっぴり長いこと会ってない由良んとこ、走ってってもいい理由できたかなって、思ってて。
 先生喜んでたから、ついでにその場でマルつけてもらって。先生ってばはしゃいで、マルじゃないとこまでマルにしちゃって、百点みたいな見た目になったから、もうぜったいぜったい見せなくちゃって、そう思ったんだ、あたし。だからぐちゃぐちゃしてるかばんの中のほうじゃなくって、外側のポケットのとこにちゃんと折って入れといたし、こんどぜったいもってって、ほめてもらおうって、
「んん……」
 背中。
 声が、ふるえが、肌にくっついて、もっと奥まで、届いてくる。
「ん、」あまい、「ゆう、だち」あまい。
「ゆ、……ゅ、ら?」
 あまい、あまいので、のどが渇いて、ざらついて。声が、うまく出せなくなった。
 このひとの名前がこんなに呼びにくかったことって、きっといままで、なかったんじゃないだろうか。

 頼むから迎えに来てくれってメールじゃなくて電話がやってきたのは、補習を終えた夕立がやっとの思いで寮に戻ってきて、夕飯のあいだに村雨にもちょこっとだけほめてもらって、それからお風呂に行って戻ってきた、だいたいそのくらいのころのことだった。大部屋のテレビでドラマを見ていた女の子たちのざわめきも聞こえなくなって久しかったから、けっこう遅い時間だったんじゃあないだろうか。『おう、夕立か! えお前、このケータイだとすんげショートカットで呼び出せんのな……っていや、それどころじゃねえんだよこっちは!』
 あわてているわりに、夕立がぽけっと口にしたてんりゅーさんだ、にはおう元気にしてっか、ちゃんとメシくってっか、おめーフロ入ったらちゃんと髪乾かしてんのか風邪ひくぞ、なんて言い添えてくれるところが、まさに夕立のよくしる天龍そのひとにほかならなかった。そのとき夕立の背中では、ちょうどブラシとドライヤーをかまえた村雨が夜分の電話に驚ききょとんとこっちを見下ろしていたから、いろんな意味で筋金入りだ。意外ときれいに整った字で近況を尋ねる手紙を出してくれるあたりも含めて、変わっていないなぁと思う。
 さてその天龍が、なんだか本当にあわてふためきながら早口で話してくれたことを夕立なりにまとめると、こうだ。ゆーばりさんがさいきんしゅらば。でもなんか由良のきげんがわるそうだった。てんりゅーさんとおーいさんはいたから、てんりゅーさんとおーいさんと由良の三人でお酒を飲みにいったら、由良がたいへんなことになった。なのになんでか由良がお部屋のカギをぎゅって握ったままわたしてくんなくて、でもかえるってきかなくって、合いカギをもってるのは、あたしとゆーばりさんの二人だけ。だから、ちょっと今から、迎えにきてほしい。
『いやマジわけわかんねぇし、ていうか俺も俺が何言ってんだかって感じだし、お前コーコーセーなのに悪ぃって思うんだけどよ!』
『しょうがないでしょう、由良ってこういう子だもの』
『大井は落ち着いてねぇでちったぁ一緒に悩めよなぁ!?』
『あら、効果てきめんの解決法がばっちりわかってるのに悩むのなんてばかばかしいでしょう? ……と、いうわけで夕立ちゃん。待ってるわねー』
 電話をかけてきたのは天龍のはずなのに最後に聞いたのは大井の声、という不思議な状態のまま電話は切れてしまった。それから夜中に寮の部屋を抜け出す手助けを得られたのは、夕立が噛みくだいて説明した内容について、時雨がなんとなく理解を示してくれたおかげであるのだろう。生物くらいはお手の物な村雨ですらよくわからないような顔をしていたが、とりあえず時雨がわかることなら私にはわかりそうにもないわ、とこぼしていたのならなんとなく聞いていた。本当に頭のいいひとは、自分が知らないということをしっているものらしい。だからきっと村雨は、本当に頭のいいひとなのだろう、と、思う。よくはわからないが。
「だって、そんなんならしようがないわ。私、めんどくさいひとの専門家なんかじゃないもの」
「ええと、村雨? あの、僕もさすがに、そんなものにはなった覚えがないんだけど」
「あら。無知って罪よ、時雨」
「うーん……君が言うと重いなぁ」
 しょっちゅうつかっている茂みに隠れたフェンスの穴から寮をこっそり抜け出して、薄手のパーカーと短パンで、あとはお財布と携帯だけが入るポーチを下げて走っていった夕立が、初夏の湿った匂いのするアスファルトをぺたぺた走りながら、あるいはよく冷えた電車の遅いゆらめきにもてあそばれながら考えていたのは、ちょっとだけラッキー、ということぐらいだった。
 夕張と由良がしょっちゅう一緒にお酒を飲みに行っていることはしっている。いつか夕立や五月雨が大人になったらその場に呼んでくれると、夕張から約束してもらったことだってある。けれど、どうしてだか今のところは、お酒を飲んだあとの由良についてを夕立はちっとも知らずにいるのだ。だいたい二人がお酒を飲むとき、ひどく酔っ払ってしまうのはいつも夕張のほうであるらしい。二日酔い、というものの看病にもすっかり手馴れつつある五月雨がそうこぼしていたから、きっと間違いない。夕張のことについて話す五月雨の言葉は、夕張が夕張について話す言葉よりも、実のところずっと信用できる。だからまちがいないのだ、飲みに行くのは二人でなのに、酔っ払ったりくだを巻いたり、なんだかちょっと情けないところをみせているのは、いっつも夕張だけのはずだ。
「ああ……まあ、夕張はそういうの、ある意味器用なのよね。天然でやってるっていうか、ただの性格の部分もあるんでしょうけど……そうねえ、しっかりしたい子には、ちゃんと上手に頼ってあげちゃうっていうか」
「あ? 大井、何の話してんだお前」
「夕張はペース配分うまいわよねって話よ」
「はぁ? どこがだよ。あいつ飲んでりゃすーぐぶっ潰れんじゃねえか」
「夕張自身じゃなくて、由良のペース配分よ」
「……んだそりゃ? よっくわかんねぇなぁ」
「そりゃあ天龍にはねぇ。だってこれ、乙女心の話だもの」
「大井は俺のことほんっと流れるようにバカにするよなぁ!?」
 だから、由良と一緒にお酒を飲むってどういうことなんだろう、由良ってそういうときどんな話をするんだろう、なんてことは、多分みんなのいう「大人」に自分がもう少しだけ近づかなければ見えないものなのだろうと、夕立がわかっていることはいつもそれぐらいだった。となれば今日は、その夕立の知らない、もうすこし「大人」のところにある由良がちょっとだけ見られるかもしれない、またとない機会だったともいえるのだ。だから、ちょっとだけラッキー。
「まあ、とにかく、そういうわけだから。あとはよろしくね、夕立ちゃん」
「へっ、あ、えっ、は、はい……っとと!」
「おわ、大丈夫か夕立! わりぃな、こいつマジで泥酔しちまってるみたいで」
「う、ううん、だいじょぶ……だ、だいじょぶ、うん」
 ――と、確か、大井から由良を「受け取る」手前ぐらいまで、思っていたような気がする。
 受け取るというのはつまり文字通り由良を受け取ったのであって、国語の成績がとびぬけている時雨には言葉のつかいかたを怒られてしまうかもしれないが、残念ながらそのときの夕立には、それが正しい用法であるとしか思えなかった。部屋の前までは運ぶのを手伝ってくれた、というかほとんど運びきってくれた天龍が心配そうな顔をして、その隣で対照的ににこにこ笑っていた大井ががちゃんと由良の部屋の扉を閉めて。それから、くてんと力をみんなぬいて寄りかかってきたからだを受け取ったあげく、あろうことか玄関入ってすぐの廊下に座りこむこととなった夕立には。
 とにかく、そうというほか、なかったのだ。
「ほらほら天龍、いい加減行きましょ。いくら乙女心がわからないからって、ここで長いするのはあんまりだわ」「いや普通心配すんだろここは!? ちょ、お、押すなって、いいのかよこれ、せめてソファとかに運ぶぐらい……」「いいのいいの、もうここからはテリトリーってやつだから。それじゃあね」なんて言って去って行ってしまった、二人の、ひんやりしたコンクリートをスニーカーとヒールのかかとが打っていた足音も、ずいぶん前に聞こえなくなった。閉められた扉を正面に、リビングへとまっすぐ続く短い廊下は、しんと静まり返っている。時折由良が身じろぎするのに、すでに斜めになってしまった玄関マットがさらに変な形へ引っ張られて、わずかな音を立てるぐらいか。そうなると、ちいさく開かれたままの由良の唇から、くうくう吐息が漏れる音がこんなに聞こえてしまうのは、きっとしようのないことなのだけれど。でもしようがないからって、しようがないなんていってしまえるものかと、夕立はなんだかそんなことばかり考えていた。
 ゆるいゆるいこぶしの形ですらとりきれなかったような手がくたりとフローリングの床に放り出されているところだとか、いつもはしゃんと伸びている背が今はぐんにゃりこっちに倒れこんでしまっているところだとかをみれば、なんだか由良、おにんぎょうさんみたいだっていうこともできたかもしれないけれど。「ふ、」すこしみだれた速さでくりかえされる吐息だとか、くっついてくるというよりはもうぎゅうっと押し付けられているかのような温度があまりにも痛切すぎて、おにんぎょうさんみたいだって思いこむことすらも、どうやらできそうにない。
「……んん」
 由良からこぼれて、ふるえる音は、そんなに大きな振動じゃないのに、どうしてだか耳の奥のほうを、びりびりしびれさせてくる。
「夕立」
「ひゃい!?」
 そんなだった声がいきなり自分の名前を呼んできたのだから、さすがにたまらない。「あ、えっ、な、なに、由良?」
 どっどっどっどっどっ、なんて、今のどに手をつっこんだらすごく簡単にごろっと丸いのに触れられそうなほど脈打っていた胸を押さえて、夕立はなんとかそう尋ねた。ゆら、由良が、こっちを見ていた。どちらかというとまっすぐ見つめるのはいつも夕立の仕事で、ばつが悪そうにそらすのはいつも由良のほうだ。
 でもそういうのって、夕立が思っていたよりずうっと簡単に、ひっくり返ってしまうものらしい。ひどくゆらゆらしているような、でもやたらめったら力を持っているような瞳にぐらりと見つめられて、夕立は思わず目をそらしそうになった。
「みて」
「っへ、」
 そらす、ことは、できなかったが。
「こっち。由良のほう、見て」
「……あ、う、うん。うん、えっと、みる」
 自慢ではないけれど、由良に叱られたことなら夕立はけっこうあるほうだと思っている。もちろん強く言われるということはめったになくって、どちらかというとしかたなしに注意されている、みたいなものばかりだが。(だからしつけがなってないっていうんだよ、なんて大井の横で舌を出すひとには、しょっちゅう言われたものだ。)
 でも、いや、しょっちゅうそうだったからこそ、これはなんだか違うって、夕立には直感的にわかってしまった。ちゃんと見なさいって怒られるのとは、これ、ななんか違う。きっと違う。そうじゃなくて。
 そうじゃなくてこれ、なんていうか、こっちむいてっていうのと、むいてなきゃやだっていうのと、ちょっと似てるって、いうか。
「……こなかった」
「え?」
「夕立、こなかった」
 それにしても今日の由良は、どうしてこんなに単語で話すのだろう。今日はあまりにもたくさんのことがあべこべだと、いっそ混乱してしまいそうになりながら、夕立は不思議に思っていた。だってもっときちんといろんなことを、ちゃんと言葉をつかって伝えなさいって言われるのは、やっぱりいつもあたしのほうのはずだ。鎮守府にいたころだったら書類のたぐいはお手の物だった由良だ、きっと頭の中を言葉にまとめるのはすごくうまいはずだった。
 それなのにいったいこれは、どうしたことだろう。
「こなかった。きょう」
 じいいっとこっちを見たあと、拗ねたみたいに視線を落として。おまけにちょこんと唇をとがらせ、またぽつ、ぽつと口にしたいことだけしてしまったようなひと、という目の前の光景が、夕立にはいよいよ信じられない。
「え、えと……あたし今日、んと、補習あって」
「きのうも」
「きのう、は、合宿で」
「おとといも」
「そ、それも合宿なんだけど」
「そのまえも。そのまえのまえも、まえのまえのまえも」
「うぅ……ぜ、ぜんぶ合宿だよぅ、由良……」
 ほんの数メートルほど行ったところにある冷蔵庫に貼ってあるカレンダーにだって、ねえ、ちゃんとそう書いてあるし、日付のとこにもマルしてあるよ、由良。いや、そもそも先週の金曜日に、これから一週間も合宿なのにちゃんと準備はしたのって言って、お買い物にまで連れて行ってくれたのは確か由良のほうだった。ついついお菓子に目がいきがちな夕立のことを押しとどめて、あんまり夜更かしをしたらだめよって六回くらいは言って聞かせてくれ、おまけに練習に集中しないとなんだから、LINEぐらいならいいけど電話はだめよって添えたのも、確かに由良のほうだった。そのLINEだって、もう寝る時間よ、とか休憩なんだからちゃんと休憩しなさい、とかって話を切ってしまったのだって、みんなみんな由良のほうだったはずなのに!
「お菓子……だって、ゆうだち……夕立は、お菓子、好きだし」
「う、うん? うん、好きだよ」
「……ばすけっとぼーる、も、好きだし」
「んん……? 好きだけど」
「ゆらは?」
「……へ?」
 あの、あのね、由良。
 由良、あの、お願いだから、じっと見てくるの、やめて。
 なんだかそれ、あたしってば由良にいっぱい言われたことある気がするって、考えて、考えられたのは、それくらいだ。
「由良は?」
「ゆ、由良も、好きだよ」
「……も?」
「あぅ、……ゆ、由良が! ……すき、だよ?」
「しってるわ」
「ぅ」
 ――ああ、もう、なんだろう、これは。
 時分では飲んだことなんて一度もないのに、匂いを嗅いだことと、あとはこっそり、ちょびっとだけ舐めさせてもらって苦かったってことくらいしかしらないのに、夕立はなぜだかそのとき、大人がそれについてしょっちゅう口にすることを、ずいぶんはっきりと思い浮かべていた。
「すきって、しってるわ。夕立だもの。でも」
「……でも?」
 いわく。
 お酒って、なんか、すごいこわい。

「もっと。」


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由良:しにたい
夕張:なにいきなり!?

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