1116・贅沢な庭




 誤算は三つあった。
 ほんとうはもっとたくさんあったのかもしれないが、たったそのとき熊野が理解することのできたぶんだけを数えるとしたら、そういうことになるのだろう。誤算は、ぜんぶで三つあった。
 まずひとつは、鎮守府の台所にある鍋の種類が思っていたよりもずっとたくさんあったことだ。だいたいにして熊野は、ほぼまったくといっていいほど台所に出入りしたことがない。だから鍋の数どころか、そもそも鍋がどの棚に置いてあるのかだって、いざこうして足を踏み入れるまで知りもしなかったのだ。
 文字通りにからだが資本であり、本人たちのやる気という意味では心にだってじゅうぶん気を配らねばならない出撃という任務を、鎮守府にいる娘たちは毎日たくさんこなしている。そんな彼女たちにとって、日々の食事はたいへんに重要だ。端的に言って、おいしくないと元気が出ない。
 栄養が補給ができればなんでもいいなどと一航戦の無愛想なほうはよく口にするが、そんなことを言いながらあのひとだって人一倍食べるのだ。ここに暮らす数十人の艦娘たちで、毎日の食事を楽しみにしていない子なんているわけがない。もちろん熊野だってそのうちのひとりだった。そんなところに半端な食事なんて出してしまえば、どんな悲惨なことになるかは容易に想像がつくというものである。もはやそれは世界の平和に関わる重要事項なのだ。
 鎮守府における掃除や洗濯、買い出しといった雑事はほぼ当番制であるが、料理当番だけは固定メンバーの持ち回りで行われているのはつまりそういうわけだった。ちなみに今日は鳳翔さんの作ってくれたかれいの煮付けだった。おいしかった。とても。
 いつもなぜかやたらとお腹の空いている娘たちのなかには、勝手に出入りをしてちょこちょことつまみを作っていくなどという(たとえば隼鷹のような)もの好きもいるそうだが、あいにく熊野にそういう趣味はない。ないし、あまりもてるような気もしていなかった。だから今日、夕食もみな食べ終えて、夜食を作る組もあらかた満足していなくなったとみえたあと、台所の入り口にかけられたのれんをそうっとくぐるとき、熊野はなんだかひどくきまりが悪かったのだ。
 そして鍋、というよりも調理器具全体の多さに圧倒された。多人数の食事を毎日作るからなのだろうが、それに加えて勝手に買ってきたものをぽんぽん置いていく自由な方々が多いせいもきっとあって、もはや熊野がみるだけでは用途のまったくわからないものまで多々転がっていた。中でもいっとう種類の多かった鍋はごしゃごしゃとものすごい量固めて置いてあったので、見つけられないという問題は回避できたものの、その中から熊野が必要としているぶんを探し出すのにはなかなかの手間がかかった。これがひとつめの誤算だ。
 そしてふたつめは、ひとつめとかなり直結しているのだが、ようやく見つけられた小さな片手鍋がよりによって熊野には若干手の届きづらい場所にあったということだ。しかも隣接する食堂から椅子を取ってきてもぎりぎり手が届かない高さという、かなりやっかいな位置である。
 とはいえ、まさかこんなところで諦めるわけにもゆかない。一度自分でやると決めたことは、たとえ泥をかぶることになったとしても必ず果たしてみせるというのが熊野の生きかただ。諦めの悪さなら数多くいる艦娘たちのなかでも一級品だと自負している。もうすこし誇りかたを考えたほうがいいんじゃないかと苦笑ぎみに最上はいう。
 椅子に乗っても届かないのなら、あとは自分の足を信用するしかあるまい。おおむねそういった経緯で熊野は決死の大ジャンプ(約七センチ)をきめ、結果目標の鍋を手にすることはできたのだが、正確には手にしたというよりはたき落としたのだし、そのついでに一緒にしまいこんであったらしいばかでかい中華鍋だの圧力鍋だのまでいっぺんについてきたのだからたまらない。
 熊野の頭上に落ちてきたのは蓋だけであったし、土鍋のように落ちたら割れてしまうようなものもなかったというのは不幸中の幸いだったのかもしれないが、そんなことより音だ。中心にいた熊野はというとむろん耳も頭もキンキンする甚大な被害をうけたが、そうでなくとも鎮守府じゅうに響きわたってしまったのではないかというものすごい音がした。 熊野としてはかなり隠密に行動していたつもりだったのだが、もうこれで台無しだった。つまりこれが、ふたつめの誤算ということになる。
 そして、最後のみっつめだが。
「……なーにやってんの、熊野?」
「鈴谷……」
 これはもう今というか、いつもいつも、思っているのだけれど。
 彼女は、鈴谷はどうしてこんなに、わたくしを見つけるのが、とほうもなく上手なのでしょう。
「ほら。だいじょぶかー」
 へらっとゆるく笑いながら鈴谷は手をさしのべる。推し量っても推し量っても、彼女の華奢な手がのびることのできる距離のおおきさは、いつだって熊野の予想をはるばる超えてしまう。鈴谷、鈴谷はいつも、そうだ。
 なにやってんの、熊野。
 どうしたの、熊野。
 こっちおいで。
 だいじょーぶだよ。
 ほら、もう、かえろう。
「くーまの」
「……はい。」
 そうやっていつでも熊野のことをきちんと見つけては、鈴谷はゆるりと笑んで、その手を、のばしてくれるのだ。

「で、で、なになに、夜食でも作んの?」
「いえ、そういうわけでは……」
 とてもとても正直なことを白状すると今すぐここから出ていってほしかったのだが、まさかそんなことを言うわけにもいかない。などと考えていたら、鈴谷は出ていくどころか興味しんしんといった顔つきでてってっとこちらにやってきて、ほとんど後ろから抱きすくめるようにくっついてくる。
 そういう性格なのだといってしまえばそれまでだが、とかく鈴谷は、ひととの距離のつめかたがうまい。ふっと振り向いたら目と鼻の先に顔があったなんて日常茶飯事だ。それは熊野がにぶいんだよなんて失礼なことに彼女はいうのだが、しかも悔しいことに真っ向から否定もできないのだが、絶対にそれだけではないと思う。
 肩の上あたりにそうっとあごをのっけてくる鈴谷のほうを振り返らないようがまんして、熊野は水を浅く入れた片手鍋を火にかけた。
「……煮物にしては水、少なすぎない?」
「だから、料理をしに来たわけではありませんの」
「ええ? んじゃなにしに来たのさ」
「いえ、それは……」
 よりによってそれをいちばん聞いてほしくない人間がまっさきに尋ねてくるなど、世の中ときたらうまくできていないものだ。他の子たちに見つかってしまったときの言い訳なら熊野もいちおう用意しておいたのだが、誤算に次ぐ誤算の結果鈴谷に見つかってしまった場合の対処など考えていなかった。
 というか考えれば考えるほど対処以前に今夜の目的自体をべつにずらせばよかったような気がしてきて、諦めが悪いというのも考えものである。
 浅く注いだだけの水はあっというまに湯に変わる。それほどの深さを必要としたわけでもなく、また沸騰するほどの熱さもいらないので、顔にうっすらと熱気を感じた時点で、熊野はぎこちない手つきで火を消す。火をつけるときもそうだったのだが、背中の鈴谷が微妙に身体をこわばらせているのがとてもよくわかってしまった。この程度で火傷なんて、しませんて。「うっそだぁ、熊野ならするって」
「鈴谷はわたくしのことをなんだと思ってますの……」
「熊野。もしくはくまのん」
「わかってるんじゃありませんの。あと三隈のような呼び方はやめてくださる?」
「わかってるから心配してんじゃーん」
「……とにかく、大丈夫ですから」
 ぼそぼそ答える声に、ほんのすこし離れてほしいという気持ちをにじませてみるが、もちろんうまくいかなかった。 いまだ、鈴谷の瞳が頬の真横あたりでこっちとお鍋とをちらちら行き交っているのがとてもよくわかる。もっというとむずがゆい。どちらかというとものをきっぱりいうタイプの熊野は、言外でものを伝えるなどという器用なやりかたをまったくといっていいほどしらない。
 とうとう観念した熊野は、鈴谷の目線を感じつつも、ポケットに入れてきた小さな容器を取り出し、蓋を開けた。すかさず鈴谷がふんっと鼻をひくつかせたのがわかる、こら鈴谷、レディがそんなことしてははしたなくてよ!
「あ。シアバター?」
「……あなた犬でしたの?」
「ちがうよー。鈴谷だよーん」
「存じ上げておりますけども」
「じゃなくて、ハンドクリームに使ったことあるんだよ。高いから乾燥キツい冬だけだけど」
 あまり匂いのしないものを選んだつもりだったが、それもまた無駄に終わったらしい。これはこれで誤算だ。
 蓋を開けたのち、水が入ってしまわないようシアバターを容器ごとそっと湯につける。白く固まっていた中身が、ふちからさっそく湯に溶かされてゆく。均等に溶けるよう、爪楊枝で中身をとろりとろりとゆっくりかき混ぜる。
 容器自体も浅いので湯が混ざらないようなかなかに神経を使う作業だったのだが、とてもおとなしくしていてくれたので、鈴谷を肩にのせたままでもなんとかできた。自分もある意味慣れたものだ。
「溶かして、そんでどうすんの?」
「……練り香水、ってご存知ですか」
 ほんとうはしっていたら困るのだけれど。そう思うとずいぶんずるい質問をして、乳白色の液体となったシアバターを湯から上げる。もうひとつ、ポケットから取り出したちいさなちいさなガラス瓶に、鈴谷がふうっと目を奪われているのがわかった。
 いっそ鼻先で蓋を開けてやろうかとも思ったが、さすがに実行しなかった。きりりとガラスの擦れ合う音をかすかに立てながら、蓋を開ける。離しておいてもそうとわかる上品な香りが、ふうわりとあたりにふくらむ。花の中の花とよばれるもののそれを、きゅっと詰め込んだ瓶。
 乳白色にとろける容器の中へ、ぽつりと一滴。
「こうしてね。溶かしたシアバターを基剤にして、精油を加えて作るのです」
 気持ちだけ、すこしだけ多めにくわえて、ていねいに混ぜる。鼻腔をくすぐる薫香が、胸からふかくふかく拡がって、できれば彼女の心まで、届いてしまえるように。いまだ背中にぴったりくっついたままでいる、しいていえば服くらいしか隔てているもののないひとに伝えないための言葉を、白くとろけるなかにそっと混ぜ込む。
 ぽつんと最後にわずかな波紋を広げ、ようきから爪楊枝をあげた熊野が、小瓶の蓋をきゅっと閉める。そのときになってやっとはっとしたように、鈴谷がぱちぱちとまばたきを繰り返していた。
「あとは、固まったら蓋をして完成です。液状のものより穏やかに香りますので、人気も高まっているんですのよ」
「へええぇ……塗ってつけられる香水、みたいな感じかぁ」
 そこで、振り向いたときにみた彼女の瞳がきゅうっと広がったことに、なかの灯りがいっぺんにいたずらっぽい色をおびたことに、もっと注意深くなっておけばよかったのだ。
「ねー、熊野」たいていそんなものだが、気が付いたときにはもう遅い。ずっと首だかのあたりにゆるくからまっていた鈴谷の腕が、今度こそきっちりとつかまえてしまうための意思を以てきゅっとしがみついてくる。「な、んですか、鈴谷?」振り向くことはもうできなかった、かわりに、右耳がふちからぼっと熱くなるのがわかった。
 ちゃんとそうされたわけでもないのに、たぶんそれだからこそ、ゆるくゆるく触れる吐息がとてもむずがゆい。しかも、端からじんじんしていく例のむずがゆさだ、あの、あれです、鈴谷といっしょだと、よくなるやつ、です。
「いーこと聞いちゃったから、あたしも熊野に、いーこと教えてあげるねぇ」
「はい……?」
「あのねぇ。香水っていうのはね、熊野」
 ――好きなひとに、キスしてほしいところにつけるんだってさ。
 そんなことを言うときだけ声に音をのせないのはずるい、あなたの唇からこぼれたものがもっともたしかに私のあちこちをくすぐるやりかたを選ぶのはずるい、そうやって必殺みたいに囁いて、振り向けない私の背中で、くくっとじつにたのしそうに笑うのは、ほんとに、ずるい、ずるい、ずるい、「あはっ、熊野まっか! かわいー、」
「す、っ……すず、やは」
「んー?」
「鈴谷は、ずるいですわ!」
 ああ、やっぱり、あれこれ隠しておくよりも、きっぱり言ってしまうほうが、私の性には合っている。
 でもこれって、ひとりであれこれ材料を揃えたりこそこそのれんをくぐったり決死の七センチ大ジャンプに挑戦したり鍋の襲撃にあったりしてきたいままでの苦労を、端からぶち壊しにしているんじゃあないかと、たしかにすこしくらいは考えもしたのだが。
 抱き着いてきていた鈴谷の腕を振りほどき、振り向いてうっかり指までつきつけて、肩で息をしながら言い放ってしまった熊野としては、正直そんなこと考えたくないくらい、なんか、もう、いっぱいいっぱいだった。
「……鈴谷は、ずるいです」
「お、おぉ、二回言われた」
 でも、嘘もまちがったことも、ひとつだって言ったつもりはない。だいたいいつもいつも鈴谷はずるいのだ。自分があまりにもものをしらなさすぎることだとか、それでたまに周囲を驚かせてしまっていることだとかにはいいかげん熊野自身だって気が付いている。それはいい。それはべつにいい。問題は、そういうふうにどうもひとより見えるものの少ない熊野の手を、前述のとおりいつでも上手に引っ張っていってしまう鈴谷のことだ。
 熊野よりもずっとずっと広くて、たぶんずっとずっとうつくしい世界がいつも見えているらしい、鈴谷のことだ。
「あ、あなたは、いつもそうです」
「……うぅん?」
「あなたはいつもそうやって、わたくしの、しらないことばかり、教えてしまって」
 しかもどうやら、それらのすべては鈴谷にとってしごくあたりまえで、ことさらとりあげるほどでもないものばかりらしいのだ。
「こんびに」に売っているサンドイッチはパンが弱々しくてしんなりしているけどなんだかおいしいことだとか、「ぽっきぃ」というお菓子を端と端とで食べすすんでいくゲームをしなければならない日が年に一度訪れることだとか、レディたるもの「おーるないと」でお話することにも慣れておいたっていいということだとか。さっきだってそうだ。鈴谷はたのしそうに笑っては、熊野にそういうことばかり教えてくれる。
 そういう、鈴谷にとってはきっとあたりまえのことばかりなのに、熊野にみえているものをちょっとだけ、すてきに拡げてしまうものばかり教えてくれる。それで、まるでのがれられないときめきに私が胸をぐっとつかまれていると、あなたは、あなたはきまって、笑いながら、かわいい、って、言うから。
 だからずるい、鈴谷はずるい、――私だってそれ、やりたいです!
「は、はあ。いや、えっと、わかるよーな、なんかぜんぜんわからんよーな……」
「私だってそれ、やって、鈴谷にかわいいって、言いたいですわ!」
「おおヤバい、たった今ぜんぜんわかんなくなった」
 鈴谷がなにかぶつぶつ言っているが、もはやそんなこと熊野にとってはわりとどうでもよかった(酷い話ではあるが)。とにかくいつもいつも自分だけ目の前を塗り替えられてばかりはいやなのだ、熊野だって鈴谷に同じことをしてみたいのだ、それでできれば鈴谷ばりににやにや笑って、鈴谷かわいいって言ってやりたかったのだ。
 だってなんだか、そうでなければ。
 そうでなければ、まるで、わたくしばかり、鈴谷に、鈴谷のみせてくれるものに、おっこちていっている、みたいで、
「……だから、練り香水?」
 身もふたもない言い方をすればまったくもってそのとおりだった。そうですけどなにか、とでも言い返してやりたいところだったがさすがに身もふたもなさすぎるのでやめておいた。ぐっと黙り込んだままの熊野の反応をどうとったかしらないが、向かい合ったまま鈴谷はかりっと頬をかいて、なんとなく天井の方に目線を放っている。
 熊野としてはべつにそれほどたいした企みをしたつもりはなかった。それはまあ私だって鈴谷みたいにうまくできればいいですけど、やはりものごとには段階というものが必要ですから。だからこれは、ちょっとしたワンステップだったのだ。きっときっと彼女を魅了するうつくしいターンにつなげるための第一歩。
 あ、熊野いーにおい、なんて、いつもの調子でもしもあなたが言ってくれたなら。
 そうでしょう、あなたのために作りましたから、とか、さらりと応えてみたりして、それでもし、いつものわたくしみたいになんていわないから、ちょっとでもいいから、ときめいてくれたら、なんて。
「……大失敗もいいところですわ!」
「あー、いや、はいはい、わからんけどわかったから、こんな夜中に叫ばないで」
 もうほとんど子どもをなだめる図になってしまっているような気がするが、どうどうと鈴谷に肩を叩かれ、しかたなく熊野はうなだれる。
 台所にふわふわ残ったとてもいい香りだけが、なんだかすこし滑稽だ。背伸びをしても届かないものは、七センチのジャンプをしても届かないんだろうか。それならあとなにがあれば届くのだろう。熊野には、もうよくわからない。
「うーん、熊野の言うことはぶっちゃけよくわかんないんだけど……でも、熊野に教えてほしいことならあたし、けっこーあるよ?」
「え……なに、なんですの!」
「思った以上の食いつきだー……いやほら、さっき言ったじゃん?」
 鈴谷はひととの距離のつめかたが上手だ。それはもう、絶妙にといってもいいのかもしれない。そのときだって、そうだった。
 たん、と一歩ぶん、ひと房肩から流れた髪がわずかに揺れるくらい、花の香りにみちたなかでも、鈴谷のやわらかい匂いがふうわりと弾けるくらい。瞳と瞳が適切に結ばれるくらい、けれども表情を十全につかめるくらいの距離は、きちんと残しておいたまま。そういう一歩をなんのためらいもなく踏み出してみせた鈴谷は、それから、指先だけで熊野の頬をついっと撫ぜる。
「いま、熊野って、どこにキスしてほしいんかなー、とかね」
 たとえば一瞬うちふるえた唇に、たとえばさっきからずっと熱の抜けない耳のところに、たとえばたった今かっと熱をもった頬のうえに、たとえば、たとえば。
 いっせいに、頭のなかというかからだのてっぺんからつま先までぶわりとなにかがふくらんだようで、くらりとする。どこ、どこって。どうして思考というのはへんなところできまじめなのだろう、考えれば考えるほどくらくらすることなんてわかりきっているはずなのに、びっくりするほど真剣に考えこんでしまう。
「お? 黙りこんじゃった? 教えてくんないの?」
「っ、あ、ぇ、いえ、あの」
「なになに。それとも、言えないくらいえっちなとこなのかなー?」
 ずっくずっく、のどもとあたりで脈打っているそれを飲みこむことも無理そうだし、だとうのにたのしそうに笑ってばかりいる鈴谷はそんなことを言うし。
 もうなんだか熊野はすっかりわけがわからなくなってしまって、とりあえずこの熱が多すぎる頭を冷やしたくてすうっと息を吸いこんだら、まだ台所に残っていたものと鈴谷のものとがすごく適切に混ざり合ったものが、すうっと胸いっぱいに甘く広がって、
「……鈴谷が、」
「んー?」
「鈴谷が、してくれる、なら……たぶん、どこでも」
 そうしたらどういうわけか、自分でも思いもしなかったようなところから、だからこそもっともほんとうの気持ちとか心とかに近いところから、ぽろっと言葉が出てしまった。
「…………」
「……鈴谷?」
「っ、へ、」
 熊野が、なんだかとってもめずらしい表情の鈴谷を視界いっぱいに見てしまったのは、つまりそのときだ。
 手をのばしたいと思ってしまった。手をのばして、鈴谷の頬に触れてみたい。きっと――きっと、とってもあったかいと思う、いまなら。
「あー……あー、いやー、うわぁ、その、なんだ、なんてゆーか、さぁ、もう」
「は、はい?」
 けれどもそれは思うばかりで、結局熊野ができたのは、ぼうっと眺めていたことだけだ。それは、がっしと熊野の両肩をつかんだ鈴谷が力を抜いてしまったように頭を垂らすまで、残念ながら同じだった。
 でもぼうっと眺めているばかりだったからといって、悪いことばかりだった、というわけでもない。ときめいてほしかったとか、ゆうけどさあ。声をのせなかったというよりはうっかりのらなかったかのように、床とお話している鈴谷がこぼしている。たぶんそれを、じっと眺めてばかりいたおかげだ。
「あたしが熊野にキュンキュンきてない日とか、ないんじゃないかなー、マジで」
 きっとそれだから、そう言って真っ赤になりながら、いつもより多少乱暴に唇をくっとおしつけてくる鈴谷のことを、そう、かわいい、と、思えたのだ。

 見たい見たいと思っていたものは、思っていたよりもずっとそばにあったりもする。
 つまりそれが、熊野の犯した最後の誤算ということになる。

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