0125・水底の獏





「君は、まるで死にたがっているみたいだったよね」
〈彼女〉なのか〈彼〉なのか、もっといえば〈その人〉なのか〈それ〉なのかもよくわからない。けれども確かに〈なにか〉が、間違いなく僕が世界で一番よく知っているなにかが、そう囁いていた。風の鳴る音や水の落ちる音とよく似た、手触りのない、けれどもはっとするほどすぐそばで聞こえる音。
「萬栄丸護衛のときもそう。雲龍を護衛していたときもそう。ああ、ヒ87船団にいたときだってそうだね」
「そうかな」
 答えることもできるのだということに、僕はいくらか驚いた。でもどうして答えられないだなんて思ったんだろうって、すぐにそちらが気にかかる。話すことのできる身体なら、とっくのとうに手に入れていたはずなのに。話の出来ない状態にあるわけでもないのに。そもそも話のできない状態ってなんだろう。のどが絞められているとか、口がふさがれているとか、空気のないところにいるとか? なんだかそれって、まるで水の中みたいだ。
 じゃあここは水の中なんだろうか。そう、そうなのかもしれない。でも空の中だっていわれたら、僕は同じように答えるんだと思う。水の中かもしれないし、空の中かもしれない。もしかしたらもっとぜんぜん違う、たとえば不思議となんの匂いもしない、そういう生々しさの感じられない原っぱが茫々と広がった、へんに明るい場所なんかにいたのかもしれない。
 そこだって決めてしまったら、きっとそういうふうに目に見える景色すら塗り替えられてしまいそうな気がする。なぜだかここは、そういう場所に思えた。
「どこだかわからないのは、君がここをどこだっていいって思っているからだよ」
 話してはいなかったはずなのに、〈なにか〉はすかさずそう言ってきた。そのあとになんだかきしきしともののこすれ合うような音が聞こえたのは、あれは、もしかして笑い声だったんだろうか。〈なにか〉は軋みを上げるように、笑い声をたてる。なんだかやけに耳ざわりな。かたちばっかり取り繕って、中身はうまくできていないような。
「それを、君には言われたくないんだけど……まあ、いいや。それより、続けようか」
「続けるって、なにを」
「君が死にたがっているみたいだったって話さ」
 僕は口を開かなかった。けれど、僕とこの〈なにか〉のあいだで話をする、という言い方もなにかおかしい。だいたいさっきは僕が声を出さなくたって、僕らはやり取りをしていたのだ。きっと僕らのあいだでは、互いに声を出さなければならないという約束事のある、話をするって行為自体が必要ない。そんなめんどうなことは必要ない。僕と、この〈なにか〉のあいだでは。
「駆逐艦退治人。グロウラーの噂くらいはちゃんと聞いてたはずだろう? よくもまああんな恐ろしいやつ相手に、単身突っ込んでいったものだね」
「それが護衛艦の任務だよ」
「じゃあ、空母雲龍の時は? いや、空母というより大型輸送艦か。特攻用の桜花をたくさん乗せたあの子はもう沈んでしまったのにさ、どうして君はあんなにしつこくレッドフィッシュを追いかけたの?」
「あいつを爆雷で追い払ったのは、僕じゃなくて駆逐艦檜だ」
「でもその檜が止めなかったら、君はあいつを追いかけるのをやめなかったんじゃないのかい」
「さあ。……さあ、どうだろうね」
「……なら、一九四四年一月の話をしようか。門司から高雄までやってきて、高雄から香港へ出発した時点で、ヒ87A船団にいた駆逐艦はもう君だけだったね」
「そうだよ。天栄丸、さらわく丸、松島丸、光島丸、橋立丸、それから神威の護衛が、僕の役目だった」
「ああ、そうだね。で、それ。その、今も大事そうにつけている22号電探だよ。そいつで君は、ベスゴと……それから、あのブラックフィンの姿を見つけたんだろう」
「………」
「君は、ひとりで戦った」
「……朝だった。マルナナ、マルヨン。晴れてたかな、……晴れてたな。たぶん、よく晴れてた。雨雲を探したような気がするから、なんとなく、覚えているんだ」
「正確にいうと、君が――駆逐艦時雨が沈没したのは、魚雷直撃から十分後のことだから、マルナナヒトヨンだけれどね」
 ねえ、君は。君はまるで死にたがっていたみたいだったね。
 もう何度目なんだろう。本当に何度目なんだろう。どうしてそれが、数え上げるのもばかばかしくなるくらいの数だって、僕は知っているんだろう。君はまるで死にたがっているみたいだった、と、〈なにか〉は言う。「あのとき、いくらかほっとしているみたいに見えたのは、ひょっとするとそのせいなのかい?」
 砕ける波のように耳を打つ声を聞きながら、僕はなんとなしに思い出していた。ついさっき聞いたばかりのことを思いだすというのも、なんだかおかしな話だけれど。でもあれって本当はもっと昔から親しんできた言葉のような気もするんだ、どうなのかな、わからないな。ただ思い出していた、どこだっていいって思っているからだっていう、あの話。そうだね、どこだってよかったのかもしれない。
 僕はどこかに行きたかったわけじゃなくて、ただ、あそこにいたくなかったんだ。ただ、あそこに、いられなかったんだ。だから、海でも空でも原っぱでも、もっと真っ白ななんにもないところでも、なんでもいい。ここがどこだって、僕はかまいやしない。
 そこが。――そこが、僕の行ってもいい場所なら。
 ここにはもういられない、いてはいけない僕が行ってもいいなら、僕はどこだって、どんなに寒いとこだって、
「それなら、どうしても不思議なことがひとつあるんだけれど、いいかな」
 きし、とまたおかしそうにおかしそうに笑った、〈なにか〉が言う。
「あんなにほっとしていたみたいだったのに。いったいぜんたいどうして君は、まだこんなところにいるんだい?」
「……そうなんだ。そいつが僕にも、ちっともわからない」
 僕も笑った。
 同じ音がした。
 軋むような、錆びつくような、同じ音が。

 *

 さわられているな、というのが、はじめにわかったことだった。目を開ける前、からだが目覚める前、僕がまだほとんど眠っているような状態のときだ。人間のからだは、いろいろなことの境目がはっきりしていない。長いこと動かしていないとどこまでが腕でどこまでが足かもときどきわからなくなるでしょう、と、またぞろなにかの本で読んだらしい扶桑が教えてくれたこともあるけれど。眠っているというのと、起きているというのとも、思うにそうだ。どっちがどっちって、あまりはっきりと決まっているわけではない。
 なんとなくあいまいにゆらゆらした気分でいた僕が、ゆらゆら漂ったまま水面の向こうに霞んだ光をみるように、ふわりと感じとったのが、つまるところそれだった。さわられているな、というより、くすぐられているな、というほうが正しいかな。それをどんなふうに呼ぶかはきっとひとの自由だけれど、僕がむずがゆいからそう呼んでしまう。くすぐったい。頬のあたりだ。指先、いや、たぶん丸く曲げられた指が、くすんって擦るみたいに、頬か目元かのあたりをうろうろしている。ちょっとひんやりしている、だれかの手。
 寝覚めがやたらと穏やかなのは、そのひとがちょうど僕の右側にいるからなんだろう。もっとほかに(たとえばこの手が誰のものかってことだとか)考えるべきことがあったはずだけれど、まだ断片的でしかない僕の頭が次にぽんと浮かべたのはそれだった。
 白露型部屋の窓は、布団を横一列に並べて敷いている僕らにとってちょうど右手側、一番お姉さんの白露がいるすぐそばにある。もちろん窓がそこにあったというよりも僕らがそういうふうに布団を並べたのであって、一番に目を覚まして一番にみんなを起こしてあげるからね、というのが白露の言だったけれど、今のところあの窓はそういうふうにははたらいていない。寒い朝に結露の雫をきらきらさせる窓が起こしてくれるのは残念ながらたいてい僕のほうが先で、もっというと次に目を覚ますのすら三番目に寝ている村雨だ。秋の終わりごろからこっち、朝はずっと夕立から抱き枕にされている村雨を解放してあげるところから、僕らの冬の朝ははじまる。
 さて、そうなると、どうして僕は誰かに頬をくすぐられているんだろう。我ながら随分時間がかかったものだけれど、僕はようやくそこにたどり着いた。村雨が先に起きたにしても、彼女は身動きが取れないだろうし。じゃあ珍しく夕立が目を覚まして、いや、あの子はこんなふうに控えめな起こし方はしないだろう。同じ意味で、涼風や白露もきっと違う。やりかたでいうなら五月雨が一番近いように思えるけれど、どうしてかな、その予想も外れている気がする。
 どうしてかな。僕は少しずつ繋がりはじめた思考を回しながら、いわばなんの前触れもなく、ぱちんと目を開けた。「あ、」
 ――不都合な話。
 ここではきっと不都合な話、僕は、寝覚めの悪い方ではなかった。
「っ!!」
「いてっ」
 もし、ものごとや人間のからだというものがもうすこし都合よくできていたら、そう、たとえばもしも僕がそれこそ予想外だった手の持ち主みたいに、午前中はほとんどずっとまともに目を開けられずごしごしこすっているようだったら。もしそうだったら、僕は寝起き早々上からまぶたをぎゅっと押さえられる、なんてひどい目には、うん、遭わなかったんじゃないのかな。
 なんて、後からだけれど、ちょっと考えてしまうのだ。
「痛いよ、山城」
 扶桑や最上がたまに(やけににやにやしながら)こっそり教えてくれるんだけれど、山城は、どうしてだろう、僕が眠っているときにしか、僕に触らない。そして触っている最中に僕が目を覚ますことを、ものすごくきらうのだ。
「う、……るさい、わね」
 口をついて出てくるのはそういう言葉のほう、でもゆっくりゆっくり手をどけたあと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、わるかったわよ、と言ってくれる。おかしな話、ああ山城だと思えたのは、身を起こしながらそれを聞いたときだった。要するに遅くって、遅いなぁとひとりおかしくなってしまった僕を見て、もちろんそこに至るまでの経緯を知らない山城は、怒って僕の寝癖をひっぱった。「いてて、痛い、痛いってば、山城」「今度は痛くしているのよ!」
 どちらかというとそんなことのほうが生きていればたくさんあるのに、思い浮かべたどれとも実際が違ったとき、僕らはなんだかまぬけなくらいにそれを飲み込むのが遅い。ほとんど意味もないのに笑えてきてしまうことが多いのは、きっとそのせいもあると思う。
 実際が違うといえば、それは白露型部屋の中についても同じで、五月雨どころか部屋の中には他の姉妹の姿が、布団も含めて影も形もなかった。それだけでもけっこう驚きだったのに、時計を見たら正午といっても差支えないくらいの時間だったのだからさらに驚きだ。提督の意向で今日みたいな土曜日や日曜日は全員出撃無しの非番だから、いわば休みといってもいいのだけれど。それにしたって、ここまで寝坊したことなんて鎮守府に来て以来なかったはずだ。五月雨とここで二人きりだったころから僕は目を覚ますのが早かったし、そうでなくたってあの子のほうが書類を出し忘れたかなにかして悲鳴を上げて、
「……あ、もしかして」
「時雨警戒任務、とか言っていたわね」
「ああ、なるほど」
 そういうことか、と、また随分遅れて気が付いた僕は、もう一度くすりと綻んでしまう。なるほどそれは、けっこうランクの高い任務だったんじゃないだろうか。どうしてだか僕がやけによく眠ってしまっていたにしても、僕のよく知っている姉妹たちを思い浮かべるに、それをまったく害さず静かに部屋から出ていくなんて、随分難度が高そうだ。
 夕立は一挙一動がもうみんな危うかっただろうし、涼風は咎めようとして大きな声を上げそうだし、外から声がかかったりしようものなら白露が一番先に任務を忘れて元気にはーいっ、なんて返事をしそうだ。そしてきっとよりによってってタイミングで、五月雨がくしゃみをしそうになる。さすがの村雨も、ひとりでどうにかするには胃の痛い任務だったはずだ。
「その子だったら、さっき食堂で突っ伏していたのを見たけれど」
「あ、やっぱり?」
 くすくす笑ってばかりになってしまう僕の頭を、撫でつけるというか、やはりどちらかというとひっぱるみたいに山城が整えてくる。二回目の改造を受けてからというもの、随分自由に跳ね回ってしまった僕の髪が、山城はすごく気になるみたいだ。
 あんまり躍起になって押さえつけようとするから、わりとしょっちゅう痛いのだけれど。でも僕がまともに目を開けているとき山城が触れてくるのはそこぐらいだから、がんばって整えようとしてくれているとみえる山城にはちょっと申し訳ない話なのだけれど、僕は思った以上に僕の髪が気に入っている。自分のもののはずなのに、ひとのことで好きか嫌いかを決めてしまえるのは、なんだかすこし不思議だと思う。
 しばらく手櫛で梳いてみたり、わざわざ袂から取り出した結紐でゆるく結んでみたりとあれこれ試していた山城だけれど、結局諦めたように息をついてしまった。いつものように三つ編み一本だけ、前でちゃっちゃっと結ってくれる。任せきりにしていたのはだいぶ前の話で、僕はとっくに自分で結び方を覚えていたけれど、どうしてだかずっと、山城と同じように結べる日がくる気はしていない。そんな日はこなくてもいいのよと笑っていたのは、扶桑だっただろうか。
「まあ、しかたがないわね、これで」結び終えた山城は、おしまいの合図みたいにぽん、と僕の頭のてっぺんあたりに触れた。
 そうして立ち上がる。いつものように山城の髪のあいだで揺れていた赤い髪飾りが、ほんのわずかにすれ合って音を立てる。それをもう一度だけしゃらりと揺らして、山城が出口のほうを向いてしまうまでは、とても早かった。
「さ、それじゃ、行くわよ」
「え? 行くって、どこへ?」
 なぜだか急いている山城を追おうにも、まだ僕は布団を畳まなければならなかった。ばたばたいうのも構わず、あわててそれを押し入れにしまう僕のほうを、山城が振り返ってくれたのは一度だけ。
「……泳ぎによ」
 あなた、泳ぐの、好きでしょう。
 わかるのが遅かったこと、あとひとつ。作戦名はともかくとしても、それをかつての連合艦隊旗艦ばりに僕の姉妹たちに発令したのは、多分彼女だった。

 泳ぎにとはいってもまさか真冬の海じゃあないだろうし、しおいが来てやっと建設されることになった潜水艦宿舎には併設の水練場があるけれど、あちらに山城と行くというのもなんだか想像しづらい。とすると、僕らはいったいこれからどこへ行くんだろうか。饒舌なほうではない僕と、扶桑以外に饒舌ではない山城とだと会話が少なめなのはいつものことだけれど、いつも以上に静かな道中で、僕は考えばかりあれこれ巡らせていた。
 おかげで、自分自身の足が鎮守府中央施設、〈母港〉の外へと向かっていたのだと僕が気が付いたのは、入口に当たる大きな門のそばにたどり着いてからだ。もちろん僕がびっくりしている間に、いつもそばで控えている守衛さんに会釈をした山城は、てきぱきと門を開けてしまう。〈母港〉を出た先、丘を降りる道の下に広がるのは、僕らにとってなつかしい姿をしている、〈鎮守府の街〉だ。
「外へ出るの?」
 しっかりした足取りで道を降りて入ってしまう山城を追いかけながら尋ねると、山城は振り返らないままで「ええ」とだけ答えた。畳まなければならない布団はもうなかったのに、虚を突かれた僕はまた、追いかけるのが遅れてしまう。
 一応あの〈街〉だって、高くそびえるコンクリートの壁と、なだらかな山々で守られるように囲まれた〈鎮守府〉の中ではあるから、そこを歩き回ること自体は自由だ。噂では深海棲艦の被害を受けた家族の生き残りだとか、艦娘に「なりそこなった」子たちだとかばかりが暮らしているその〈街〉は、あの壁の外よりずっと僕らに優しい。人も、きっと空気も。
 鎮守府正面海域という戦場と呼んでも差支えない場所が目の前にあるせいも多分に含んで、ここで暮らしている人たちは、僕らが毎日どんなことをしているかということを、過たずよく受け止めてくれている。括り上げれば何かを害するためのものである兵器を背負う僕らの手を、かれらはまったく恐れない。皐月型や暁型の子たちはちょくちょく街に住む子たちと遊んでいるそうだし、長門さんや赤城さんが買い物なんかで外に出ると、だいたいいつも歓迎と憧憬の人だかりができる。
 だけど山城は、それでもあまり外に出ないひとだったから。「あの子はね。周りがどんなに優しくても、優しくされること自体が苦手だから」苦笑しながらそう零していた扶桑と二人、彼女たちは必要に駆られない限り、けして表に出てゆくことはなかった。良く晴れた陽のあかりは、山城の髪飾りが揺れるのを随分きれいに光らせているけれど、その美しさはなんだか目に馴染まない。後ろからでも、髪のあいだから山城の頬や細い首なんかがたまにちらちらと見えて、でも背の高い草のぼうぼうと生えた道で見るには、その肌はすこし白すぎるように思えた。
 そうだというのに山城は、行き先まで全部わかっているときだけのあの確固たる足取りを、止める気配がちっともない。
「温水ぷーる、というのがあるんですって」
「温水プール?」
「なんか……まあ、要するに、冬でも泳げる場所なんでしょう」
 僕らが耳慣れないものを僕らに、特に山城に教えられそうなのは、きっと提督だけだ。だからその温水プールについても山城は提督から聞いたのだろうけれど、そうなると彼女の説明がとてもざっくばらんなのも理解できる。不仲なわけじゃきっとないと思うけれど、山城は提督とあまりまともに話をしない。いや、提督とまともに話をする子のほうが、うちでは少ないのかもしれないけれど。
 温水プールは母港から真南にまっすぐ十五分ほど歩いたところにあって、なるほどうちで噂になるにはすこし遠い場所のように思えた。まあ、そうでなくたって、任務でいやというほど海水には触れるのだから、非番の日にわざわざ街に出てまで泳ごうとする子はいないのだろうか。
 そして街に住む人たちでも、一月下旬の息も凍るさなか泳ぎに来ようと考えるひとはいないようで、有り体にいってプールにはほかの誰もお客さんがいなかった。機能しているのかどうかも危うかったけれど、受付には一応船を漕いでいる女性が座っていたので、一応やってはくれているらしい。
「良かったわ。機材の故障につき休業か、しらないうちに変わっていた定休日か、受付急病のため不在のどれかを予想していたのだけれど」
「……君たちは、出かけるのもひと苦労なんだね」
 どうも、好かれるのが苦手とかそういうのとはまた別な話で、山城が外へ出かける壁は高いらしい。そうよ、と大儀そうに頷いたあと、山城はなぜだかしばらく僕の方を黙って見下ろしていた。けれど、それについて僕がなにか言う前に、ふいっと受付の方へ歩いて行ってしまう。
 どことなくぎくしゃくした感じで短いやりとりを交わした彼女が持ち帰ってきたのは小さな切符で、建物の入り口すぐのところに設置されている木箱に切符を入れたら、その先の更衣室やプールを利用していいということになるらしい。となると切符に名前をつけるなら入場券というのが正しいのだろうけど、なんだかあまりそう呼ぶ気になれなかったのは、間違いなくそれがなくたってかなり簡単に入場できそうだったからだ。実際、ああやって船を漕いでいる受付の目を盗む子どもたちは多いのかもしれない。
「そんな……じゃあ私の六百円はなんだったのよ……入場券二枚って言うだけで三回噛んだ恥はなんだったのよ……かき捨て……?」
「や、山城、そこまで緊張しなくても」
 更衣室は入る前からカルキの匂いでいっぱいで、切符のときからもちょっとそうだった山城のしかめっ面は、多分にそのせいでかなりひどくなってしまった。カルキの匂い、潮の匂い、夏の朝の空気の匂い。ほかにも蒸し暑い部屋の中とか、耳にきんとくるようなひとの声とか、山城には嫌いなものがたくさんある。なんとなくだけれど、別のひとたちよりもきっとたくさん。
 だから山城は目に半分かかってしまうくらい前髪を長く伸ばしていて、これも扶桑がこっそり教えてくれたことには、目つきが悪くて駆逐艦の子たちなんかを怖がらせすぎるのを、彼女なりに避けようとしているらしい。山城らしいといえばらしい話なのだけれど、それはなんだかすこしもったいないな、と、僕はよく思う。
「山城。泳ぐのに髪、邪魔じゃないの?」
「別に、いつもこうだし平気よ」
「あ、僕水泳帽持ってるけど」
「あのね。それこそ水練でもないのに、どうしてあの浮標みたいな帽子を私が被らなくちゃいけないのよ」
「すごく似合ってなかったって、伊勢が笑ってたよね」
「……いつか沈めてやろうかしら、あの失礼な姉妹」
「あれ、日向は関係ないよ?」
「ついでよ」
「ついで……」
 たとえば、いや、これはたとえとしてはちょっと悪いかもしれないけれど、とにかくたとえば、伊勢にからかわれてしまうぶん、日向のことを突くのが山城はけっこう好きだ。だから今だって、まあすこし意地の悪そうな色が見えないでもないけれど、それなりに楽しそうに笑っている。
 嫌いなものがとてもたくさん、そしてとてもはっきりしている山城は、そのぶんあんまり多くない好きなものを、ひとよりたくさん好きになっていると思う。扶桑のことが大好きなのは、きっとそのてっぺんにあるうちのひとつだ。しかめっ面しか知らないような子たちでも、山城が扶桑のことをとても大切に思っていることならよく知っている。でも髪に隠されたままだから、山城が扶桑の話をするとき、とびきり優しく目元を緩めていることを、その子たちは知らずにいる。
 見せたくない顔がたくさんあるのもわかるけれど。それはきっと、山城の中でどうやって出ていったらよいやらわからなくなっているらしい、でも本当はとても温かい優しさの、ぎこちない現れ方なのだと思うけれど。でもそうやってはじめからみんな隠してしまうと、みんな山城がほんとうはもっといろんな顔をするんだってことも、わからないままになってしまう。僕には、それがもったいなく思えるのだ。
「何をぐずぐずしてるの、時雨。着替えたのなら早く行くわよ」
「ああ、うん。ごめんごめん」
「どうせまた、よけいなことを考えていたんでしょう」
 だけど山城は、さすがに隠れていようが僕や最上や満潮なんかはいいかげん見慣れているしかめっ面で、いつもそんなことを言う。
 よけいなこと、考えなくてもいいこと。ほかにもいくつかある、僕が山城に対してもったいないなって思うことのたいていを、山城はそんなふうに切り捨ててしまうのだ。
「うーん、そう……そうかな」
「そうよ。あなたがそうやって考え込むようなのは、だいたいよけいなことだわ」
「はは、そういえば山城にはいつもそう言われるね」
 こっちはこっちですこしは隠したほうがいいように思える意地の悪い笑みを浮かべちっちっと指を振った最上が、時雨、そういうのは言い方ひとつだよ、と教えてくれるのは、残念ながらこれから三日ほど後になってからの話だ。「言葉の扱い方っていうかさぁ。うーん、山城はいつも下手だからまだ単純な感じで救いようがあるけれど、時雨は普段うまくやってみせるだけに厄介だなぁ……いいかい、あの山城の言葉をね、よけいなお世話だから放っとけっていう形のままに受け取るなんて、バカなことをしちゃダメだよ」
「時雨! 泳ぐ前に日が暮れるわよ!」
「うわっ! わ、わかった、行く行く!」
 みんながどうかは知ったことじゃないとか、これ以上わかってもらわなくたっていいとか、そういうことを言いたいんじゃなくて。
 そうじゃなくて、ただ、わかっていてほしいひとがわかってくれているから、もういいんだって、じゅうぶんなんだって、そう伝えようとしてくれているだけなんだよ。と、さすがに癪に障る仕草でぴんと鼻先を弾かれながら僕が教えてもらえるのは、これから三日後のことで、残念ながらそうでしかない。

 泳ぎに行こうっていったのは山城のほうだったけれど、見たところ山城のほうには泳ぐ気がちっともないみたいだった。彼女の言ってくれた通り、水練が好きな僕がさっそく飛びこんだのを縁に座って眺めているばかりで、いっこうに入ってくる気配がない。座ったまま、ほっそりとした足をたまに指先までくんと伸ばして、ときどき水をかき混ぜるくらいだ。山城の水泳帽姿をブイみたいだって笑った伊勢が、でもそのあとであの子ってすごく細いけどちゃんと食べてるのって神妙な顔で僕に尋ねてきたことを、彼女は知っているだろうか。
「ねえ」
「なに?」
「山城は泳がないの?」
 僕らは反響するほど大きな声で話をしていたわけではなかったけれど、囲われた箱の中で音を出しているのがそれだけだと、なんとなくそういうふうに響くのかもしれない。第二レーンのあたりでぷかぷかしていた僕と、ふちに腰かけていた山城とのあいだにはそれなりの距離があったはずなのに、すぐそばで水がゆらりと揺れるのと同じように耳まで彼女の声が届いてきて、すこしどきりとする。山城の声は、扶桑よりすこし低くて、ちょっとだけ幼くて、それからとても清んでいる。
 両手を身体の横について、伏し目がちのまま足でちゃぷっと水を跳ねあげた山城は、それがいくつも波紋をつくるのをじっくり眺めてから、ようやっとこっちを見た。
「私は見ているだけでいいわ」
「でも、せっかく来たのに」
「いいの」
 いいのよ。繰り返された二度目のそれは、ことのほかしんと透きとおって響いてきて、僕はとうとう何も言えなくなった。ただでさえすこしからだの圧迫される水のなかにいるのに、顔まで俯かせて喉をつぶしてしまったら、それはまあ、声も出なくなるだろうけど。海では考えられないほど静かに凪いだ水面で、山城の足がゆるりと水を掻いているのだけがゆらゆら見えていた。
 それきり僕はもう一度山城をこっちに誘おうという気にもなれず、なんだかそうするには勇気というのもへんだけれどとにかくそういうなにかが足らず、それっきり僕はひとりでプールの端から端までをひたすら往復することになった。
 することといえばつまり泳ぐことだから、随分いろんな泳ぎかたをしてみたように思う。訓練で教わっていない泳ぎ方すらみんなためした。このあいだまるゆに習った、変わった泳ぎ方も。秘書艦を務めることの多い僕は新しくやってきた子を迎え入れる機会が多い。まだあまり馴染めていないらしいまるゆと、なぜだか木曾さんと潜水艦寮の水練場で泳ぐ羽目になったのは、さすがにびっくりだったけれど。ただそのときの水の冷たさと比べれば、温水プールという名前なだけあってここの水は泳ぐのにちょうどよいくらいに温かい。しかも海と違って波がないから、それこそ拍子抜けなくらいに泳ぎやすかった。
 山城は足元でときどき水をぱちゃぱちゃさせたり、頬杖をつくかっこうに変わったり、戯れに手で水をすくったりしながら、でもずっとこっちを眺めていた。「それってなんだか犬みたいな泳ぎ方ね」とか、「ねえ、時雨ってあっちまで行ってどのくらいで戻って来られるのかしら? けっこう速いんじゃないの。やってみてよ、はい、ドン」とか、そんなことをちらほら口にしながら。僕らはそんなにたくさん話をしないけれど、ちっともしないってことも、そういえばないみたいだ。
 ときどきそうやって話をして、でもほとんどは水の音だけ響かせて。僕はその日とてもたくさん泳いで、山城はそれをずっと見ていた。いるかいないかでいうと、いる、というのが、なんとかわかるくらいにはそばで。
「泳ぐのが好きって、でも、変な趣味よね。艤装での水上機動ならともかく、水練なんかは嫌う子の方が多いのに」
「そうだね。水の中に入るのが、あんまり好きじゃないんだろうね」
 無理もないことだと思う。そこは僕らにとって、あまりにも親しみすぎている場所だ。蒼くて暗くて、そしてどこまでも深いところ。僕ら全員の魂の底に、同じ光景はとてもくっきりとこびりついている。もしあれに、旧い友のように語りかけてこられたら。もし、応えてしまったら。きっとあっというまに戻れなくなる。あっというまに、沈められて、鎮められて、還されてしまう。恐怖というにもあまりに切実な、それはまるであたりまえにそこにある言葉のような、僕らにとってのつめたい事実だ。
 泳がなくていいの、と山城は言ったし、あまりしかめっ面はしないけれど、もしかしたら山城だって、泳ぐのが嫌いだからああして座ってばかりいるのかもしれない。
「時雨はどうして泳ぐのが好きなの?」
「うーん……」
 今度は足を組んで、その上で頬杖をついている山城のほうを振り向いて、僕はぷかりと浮く。扶桑の前だとあまりそういうかっこうをしないというか、いつも上品な仕草しか見せない山城は、でもたまに整いきってないところがこうやって顔をのぞかせることがある。扶桑はまるで染みついてしまったみたいに隙がないから、そういうところが姉妹だなと思う。
 そして扶桑は、自分だって山城の気の抜けたところが見てみたいのに、なんていって、最上あたりにゆるんだ仕草の指導という変わったことをお願いしている。最上は扶桑のあまりの勢いになかなか断りあぐねているけれど、負けたら負けたで扶桑のことを本当はとても気にかけているらしい日向あたりから拳骨どころでは済まされないとわかっているから、受け入れられもしない板挟み状態だ。いつもひとのことをからかってくるから助け舟は出してあげないけれど、かわいそうだと思わなくもない。
 山城は純粋に不思議そうな瞳をして、僕の答えを待っている。その赤い瞳が今みたいにあどけないところを、扶桑はいつか見られる日がくるのだろうか。ふつりと浮いた泡みたいに、そんなことを考える。
「どうしてかな。水の中の色が、好きだからかな」
「色? 水中で目を開けたって、今の私たちじゃほとんどなにも見えないじゃない。なのに色?」
「うん。うーん、あまりうまくは言えないんだけどね」
 いくら好きでも、ずっと泳いでいたらさすがに疲れてきたみたいだ。真ん中あたりの一番底が深い、僕だとぎりぎり足の届かないようなところまでゆっくり立ち泳ぎでいって、とうとう僕はかなり重たくなっていた両手足を投げ出す。プールの天井には、誰かが打ち上げたまましぼんでしまったらしいボールがぎりぎりのところでひっかかっていた。
「なんだかね、落ちつくんだ。あの色をみていると」
 そういえば、人間のからだは力さえ抜けば勝手にぷかぷか浮くみたいだけれど、思い切り息を吐いてしまったら、ちゃんと沈むこともできるらしい。
 扶桑だったか最上だったか満潮だったか、それともまるゆや木曾さんだったか、もう思い出せない誰かから聞いた話が頭をふとよぎって、僕はほとんど吟味することなくその思いつきを決行した。じゃぶっと水音を立てながら頭を起こして、それから今度は水中で丸くなって。僕はごぼりと、大きく息を吐き出した。
 髪が水にゆらゆらしているのがなんとなくわかる。濡れたらさすがに少しは大人しくなるから、山城の手間は省けるだろうか。思いつきにしては懸命になってからだじゅうからかき集めた空気が、ごぷんと最後に大きな泡を立てて、僕の見えない水面で弾ける。からだが、ゆっくりと、沈みはじめる。
 山城の言ったとおり、目を開けても景色はたいがいぼやけていて、ほとんど何も見えないといったほうが正しい。それは僕だってよく知っているはずなのに、さっき山城の質問に答えようとしたとき、色がきれいだからとしか答えられなかったのはなぜなんだろう。おかしな話、僕が一番それを疑問に思っているような気さえした。温水プールの底は思った以上に深い。僕はどんどん沈んでいく。まだどこかに残っていたらしいちいさな泡が、こぽこぽと弱々しく立ち昇っていく。
 どうして僕はあんなふうに言ったんだろう。なんにもみえないものに対して。
 
 ――なんだか落ちつくんだ、あの色を、見ていると。

 *

「でも、そうだな。君が最も死にかけていたのは、萬栄丸のときでも雲龍のときでも、それからヒ87船団のときでもなくてさ。そのどれでもなくて、きっと、スリガオ海峡戦のときだったよね」
〈なにか〉はきしりとあと一度だけ笑って、そう言った。
 そんなものがあったかどうかもわからないのに、不思議だ、そのとき僕は、あたりの景色がたしかに変わったように思えたのだ。赤と黒。いつもそうだ。赤と黒。僕が、よく覚えているものだ。赤と、黒。
「本当にね、どうして生きていたのかが不思議なくらいだよ。どういうわけか君に向かって発射された魚雷だけ、深度調整に問題があったなんていうおかしな幸運に恵まれていたのだとしてもだ。海がのたくるくらいの砲弾の雨で、船体を何度も何度もふっとばされては叩きつけられてさ。敵の位置観測を操舵で避けられたのだって、あれもほとんど運だよね。計器類の針なんて、端からみんなへし折られていたじゃないか」
「……でも、僕は生き残った」
「そうだ、君は生き残った」赤と黒。赤と黒が、消されない。どこでもないどこかに戻れない。そのくせ〈なにか〉は、もう笑いもしないけれど、また同じ言葉だけを繰り返す。「君はその後からずっと、まるで死にたがっているみたいだね」
 赤と黒が、消されない。
 どこでもないどこかに、行けない。
「そのくせ、一番死にそうだったくせにね、あのときの君は死にたがっていなかった」
「……山城が、」
「うん?」
「山城が言ったんだ。戦えって、僕に、言ったんだ」
 我魚雷ヲ受ク、各艦ハ我ヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ撃滅セヨ。
 通信の途絶えてしまった扶桑が無事であったかどうかを山城が確かめる術はなかったから、彼女自身は理解していなかったかもしれない。けれどそれは、唯一の自慢だった主砲のほとんども使用不能となった彼女が僚艦の僕らに下した、最期にして渾身の願いだった。みんなは嗤ったかもしれないけれど、僕にとっては最初から今までずっと美しかった姿を原型も留めないほどぶち壊しにされながらも、山城の主砲は火を吹き続けることをやめなかた。山城は最期まで敵に立ち向かうことを望んでいた、誇り高き扶桑型戦艦の二番艦。だから僕は。
 だから、ぼくは、
「そうだね、山城の言った通りに君は戦った」
 だから僕は、最後の魚雷が二本、にほん、山城の身体を撃ち抜いて。
 それから、弾薬庫で大きな大きな爆発が起きて、残っていた艦橋もとうとう崩れ落ちて。
 あっというまに、ほんとうにあっというまに、海の底へ、そこへ、沈んでゆくのを、ずっとみて、
「君は戦った。山城のそばで、扶桑型戦艦山城の最期を見届けるまで、ずっとそばで」
「……そう、だ、」
「ずっとそばで。山城のことを、ひとりにしないために。――でも、それは無理だったね、時雨。」
 赤と黒、が、ぷつんと消えた。
 あっけなく、消えた。
「時雨、君は確かに、君に出来る限りのことをやったよ。自分が沈んでしまったときよりずっとぼろぼろになったあの凄惨な戦場で、それでも君は山城のために、文字通り最後の瞬間まで喰らいついた」
「……めろ」
「君は死にたかったわけじゃない、そこじゃないところに行きたかったわけでもない。君は、あのときたしかに、あそこにいたかったんだ。山城のそばにいたかった。彼女を、ひとりにしたくなかったんだ」
「やめろ、」
「でも、それは無理だったね。ねえ佐世保の時雨、稀代の幸運艦。君はよく知っているだろうけれど、沈んでしまったらおしまいなんだよ。ただのおしまいだ。軍艦という憑代を失えば、もう魂を触れ合せることはできない。もう、どうやってもみんなには届かない。誰のことだってそうだけれど、君はあのとき、山城のことも、ひとりにしてしまったんだよ」
「やめろ!!」
 耳を塞いだって意味がない。目を閉じたって意味がない。走って逃げたって意味がない。僕らは対話を必要としないのだ。僕らはほかのだれかとそうするみたいに、向かい合って、言葉を探して、どうにか喉をふるわせるような、めんどうな手順を踏む必要がない。
 僕と〈僕〉のあいだには、そんな手順は必要ない。避ける方法なんて一つも残っていない、僕にできるのは、それを真正面から受け止めることだけだ。
「だから君は探してるんだ。まるで死にたがっているみたいなことをして。今でも、水底の色ばかり見つめて。時雨、君はあまりにも他のみんなをひとりにしすぎたんだ。だから今度は、今度こそ、自分がひとりぼっちになれる場所をずうっと探してる。きっとそここそが、君に許された場所であるはずだから」
「やめて、くれ、」
「でもそんなの、見つかるわけないだろ?」
 それでもか細く声が漏れてしまうのは、いったいどうしてなのだろう。どうしようもないことなのに、どうしようもなさに負けてしまう。
 人間のからだは、なんだか、そういうことが多いと思う。
「見つかるわけないだろ、時雨。一生探したって無理だよ、君がそうやって目を凝らしていることに、意味なんてひとつもない」
 きしり、きしりと、僕でない僕が笑う。
「そんな、ひとりぼっちの君のための居場所なんてさ。いくら探したって、見つかるわけないだろ?」
 ぼくが、

「だっていまさらもう、君がひとりでいることを許してくれる子なんて、君の周りには誰もいないんだよ、時雨。」

 *

「時雨!」
 はげしい水の打たれる音が脳天で勢いよく弾けて、僕はいっぺんに打ちひしがれてしまった。
 おかげでしばらくのあいだはぼけっとしたまままばたきばかり繰り返す羽目になり、プールのど真ん中で山城から抱き上げられているという現在の状態に気付くまでは、やっぱりまぬけなくらいに時間がかかってしまう。僕がぱちぱちまぶたを上げたり下ろしたりしているあいだに、山城は僕の顔じゅうにはりついていた髪を端からみんな整えて、おまけにぷかぷか浮くばかりの僕のからだを抱え直しまでしたというのにだ。
 水中だからというのにしたって、片手で軽々と僕の身体を抱え上げてしまっている山城が、あいた手でぺちんと頬を叩いてきても、僕はああ山城の背だとここは足が届くんだなんてことを考えていたから、きっと相当だった。
「ちょっと、もう、沈んだと思ったらいつまでも浮いてこないから! どうして一人で溺れるなんて器用な真似ができるのよ、信じられないわ!」
「あ、ああ、うん、ごめん」
 答えた声が掠れていたから、僕は自分がそれなりに水を飲んでいたということに気が付いた。僕と一緒になってからだも思い出したみたいに、ごほんと咳が出てくる。そういえば、なんてポンと手でもたたくみたいに。水を吐いたと思ったらしい山城がもっと出せって僕の背中をばしばしというかばちゃばちゃ叩いて、もちろんそれはけっこう痛かった。
「泳ぐのが好きだっていうから連れてきたのに、泳ぐどころか沈んでるじゃない! あの新人に妙なことでも教わったっていうの?」
「まるゆはちゃんと泳いでた、と、思うけど」
「ああそう。でも今はあなたの話をしているの!」
 たしか僕は息をしっかりしなければならない状況だったはずなのだけれど、山城はよりによってそこでの罰に僕の鼻をつまむことを選んだ。さすがに苦しい。山城の手は、日向や伊勢が言うには手のひらもとても薄いし、指もほっそりとしている、けれど。それでも、僕の鼻をひりひりするほどつまみ上げるくらいの力はちゃんとあるのだ。それはたとえば、彼女が今ほとんど自分で支えるための努力がなにひとつできていないからだを、まるごと抱え上げてくれているのと同じように。
 ここは温水プールなのに、水を冷たいと思ったことは一度もなかったのに、僕は、水の中で触れている山城のからだがとてもあたたかいことを、はっとするほど思い知る。
「もう……で、なにか見えたわけ」
「えっ?」
「え、じゃないわ! 水の中の色が好きなんだって、あなたさっき言ったじゃない! わざわざ溺れるまで、それを見にいったんじゃないの?」
 頼りないカラダしかしてないけど、あの子って私のお姉ちゃんだったかもしれないのよね。そんなことを、伊勢は最後にこぼしていた。お姉ちゃん、だからだろうか。山城は僕を叱り付けるのにあんまり躍起になっていて、普段からじゃ考えられないくらいからだがぴたりとくっついていることに、ちっとも気が付いていないんだ。
 水は不思議だ。足とかおなかとか腕とか、抱き寄せられている背中とか。そこにぴったりと触れているのが肌だと、温度のある肌だとこれ以上ないくらい思い知って、僕は実感する。水は不思議だ、僕らをどこまでもひとりぼっちにすることができるのに、同じく、どこまでもひとりぼっちにしないことだってできてしまう。
 しかめっ面を通り越した、長めの前髪の下からですらすぐわかる怒った顔をした山城の、瞳の赤いのが、まぶしい。
「……いや、」
「は?」
「いや。なんにも、みえなかったよ」
 なんにも、と、水が流れて雫が落ちるみたいに、それこそさっきの山城みたいに繰り返そうとして、でも、だめだった。「なんにも、っ、みえ、なかった」「え、ちょ……っ、し、時雨? な、なによ、そんなに痛くしなかったわよ、ちょっと、」
「みえなかったんだ」
 僕はそれからすこしだけ、――いや、恥ずかしながら真実を言えばけっこう長いあいだ涙が止まらなくなってしまって、ばかみたいな話、プールがすこし塩からくなってしまったのではないかと心配すらした。
 山城はとってもあわてていたみたいで、抱え上げるときはかなり適切にあてがわれていた背中の手が、とたんにぱしゃぱしゃと戸惑っては僕を沈めかけ、急いで元の位置に戻ってくるというのをきっとなんべんも繰り返した。これがもし扶桑や、それこそ伊勢だったら上手に撫でてくれたのかもしれないが、山城はやっぱり姉じゃないから、それをうまくはやってくれない。山城のことをお姉ちゃんって呼ぶのはちょっとねえ、と伊勢もからから笑っていたし。
「も、もう……なんなのよ、ほんと」
 だけど山城は、山城なりのやりかたで、ときどきためらうようにきゅっと握ったり、かなりばらばらなリズムでやさしく叩いてくれたりしながら、僕に触れてくれていた。
 それがやっぱりどうしようもないくらい温かくて、止めなきゃ止めなきゃってあんなに思っていたのに、僕は結局一滴たりとも流れる雫を飲みこめなかったのだ。だからきっと溺れていたときに飲んだぶんなんて、みんな吐き出してしまったに違いない。
 おかげで、ようやっと落ちついたとみえるころには、僕は鼻も目もなんだかつんとして、ちょっと痛かった。
「ん……、ごめんね、山城。もう、大丈夫だから」
「べつに。珍しいから、いいけれど」
「珍しい?」
「いや、だから……あ、あなた、ほら、こういう、その……甘える、っていうのかしら。そういうの、しないから」
「……えっと」
「だっ、だから! そう、物珍しいし! つ、付き合ってあげても、いいわよ、べつに」
「そう、……そっか。ありがとう、山城」
「あと少しなら、いいわよ」
「ん? あ、いや、もう僕は、」
「……あと少しならいいって、言ってるの」
「……うん。じゃあ、あと、すこしだけ」
 プールからあがったとき、もちろん僕らのからだはだいぶんふやけてしまっていた。着替えて帰り支度を整えても、まだしわが残ってしまうくらい。
 自分だってそうなのに、僕のしわしわになった手がなぜだかやけに面白く見えたらしい山城は、まだ濡れた髪を揺らしながら、お腹を抱えるくらい笑っていた。帰り道を辿っているあいだも、僕の手を見ては思い出したように吹き出して。僕らは山城のいろんな顔を、それこそ他の子たちよりかはけっこうたくさん見てきているはずだけれど、それでも一日だけでこんなに笑っているところを見たのは、さすがに初めてだったかもしれない。
 ただ、笑っていたら山城のお腹がくぅっと元気よく鳴ったので、僕だって存分に笑わせてもらったし、そのぶん存分に怒られてもしまったけれど。
「ごめん、ごめんってば、もう笑わないよ! それより早く帰ろう、今日の夕飯はなにかな」
「……今日は、扶桑姉様がお部屋で餃子を焼いてくれるわ」
「えっ、扶桑が?」
「ええ。今ごろ……というか、あなたがひとりで沈んでいたあたりからじゃないかしら、満潮と最上がきてたねを包むのを手伝っているはずよ」
「そっか。そう、なんだ」
 笑ってしまった手前、鳴りそうなのはどうにか我慢したいところだけれど、僕も気が付くとかなりお腹が空いていた。帰り道のからだはとても重たい。行きよりは、山城の足取りもずっとゆっくりだ。だからか、僕と山城は、ほとんどぴったり並んで歩いていた。だいたいいつも、僕は山城のすこし後をついていくようになってしまうのに。
「そっか、なら、僕らも早く帰って手伝わないとね」
「そうね。最上が変な形で包みだす前に」
「満潮がいらいらしてくる前に?」
「姉さまが最上の真似をして、満潮に油を注ぐ前に。」
「あははっ、うん! ――ねえ、山城」
「なによ」
 振り向いた、山城の赤い瞳は、夕日の中でみるといっそうきれいだ。
 あまりたくさんは付き合ってくれないだろうけれど、たまに、たまにでいいから、こうやってまた影の長く長く伸びる道を歩いてみたい。まだ口には出せないこと、そんなことを考える。
「楽しかったよ。今日、本当に楽しかった。ありがとう」
「……まだ、終わってないわ」
 うん、そうだけど、と僕がいうと、山城はなんだかいらいらしたように首を振った。もちろん、いらいらしているってわけじゃない。それを僕は知っている、でも最上が言うには、僕は肝心なときにばかり、山城のことをわかってあげられていないらしい。「そうじゃなくって、」
 だから、そのときだってそうだった。

「そうじゃなくて。今日だけじゃなくて、明日とか、明後日とか、もっと、……もっと、あるでしょ」

 *

「たとえばね、君がその一生見つかりそうにもないどこかに行こうとしたって、君のそのからだにはたった今、酔っぱらったまま寝てしまった山城の腕が、絶対振り解けそうにないくらい強く絡み付いてるだろ」
「うん。おまけに、最上がなんでだか僕のお腹を枕にしてるんだ」
「そうそう。右手が痺れてるのは、満潮がそっちを抱き枕にしてるからだね」
「で、全体的に苦しいのは、扶桑がみんなまとめて抱きしめてるからだ」
「うん、そうだ、そのとおり!」
 ぱちん、という満足げな音がしたのは、手でも打ったか、指でも鳴らしたか。
 僕だったら後者かな、でもこの〈僕〉がそれをするというのも、なんだかおかしな話だけど。
「ね、時雨。そんなからだでさ、どこでもないどこかになんて、行けるわけがないだろ」
「……そうだね。そう、みたいだ」
「ああ。それをわかってくれたなら、なによりだよ」
 だって、君は生きているんだからね。君はこんなふうに、温かいんだからね。とても、とても冷たい手触りがあったような気がしたのは、気のせいだろうか。
「なによりだ。……さて、僕はもう行くね。さよなら、時雨」
「うん、さよなら……ああ、いや。待って、」
「うん?」

「おやすみ、〈時雨〉。」

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