0124・シクラメン/いとが、くびにからむのです。




「好奇心は猫を殺す、という諺があるわ」
 いい山城、お聞きなさい、という例のあの言葉を今回もきっちりと前に置いて、扶桑はゆっくりと語りはじめた。
 かしましいのがやたらと多い鎮守府の中で、扶桑の話し方はなかば退屈と揶揄されるほどには物静かであり、山城にとってはそれがとても心地よいのだが、ものには必ず限度という物が存在する。端的にいって、こうまで一言一言かみしめるように語られると、単語の端々に威圧を感じてしまうのだ。だから、いい山城お聞きなさい、という定型文から始まる扶桑のお言葉を聞くときに、山城は特にそう言いつけられたわけでなくとも、つい縮こまった正座の姿勢を取ってしまうのだった。両手はぴしっと揃えて腿のあいだに、背筋はぴんと伸ばしても、目線は上げずに。
 それにしてもことわざとは、またぞろ鎮守府の誰一人として追随をゆるさない(なぜだか日向あたりが生意気にも喰らいついていっているようだが、それでも桁が違う)膨大なる読書量から蓄えられた知識の一端だろうか―と思っていたら、直後に金剛さんから聞いたのだけれどね、と付け加えられたのでどうやら違ったらしい。英国のことわざだそうだ。
 かしましさでいえば艦型随一を誇る金剛型の、しかもいっとう煩そうなのとでも、姉はきちんと会話を成立させている。どころかそこから知識を得さえする。姉のことは心から尊敬しているが、それでも自分が姉のように在りたいと一念発起し努力することがなかなかできずにいるのは、こんなふうに絶対に真似できそうにない部分が多々あるからなのだろう。
 あなたはあなたなのだから扶桑にならなくともよいのではないか、と言ったのは、読書になかなか没頭できない自分を哂ってもくれなかった、そういうところもやっぱり生意気な日向だけれど。いや日向なぜあなたはさっきからそう出張ってくるの、私よりほんの少し活字耐性が高いからといって生意気な、もういいからあっちいってあっち、
「……山城、大丈夫? 聞いている?」
「へっ!? あっは、はい、聞いています!」
 個人的には妹と呼んでやるのもしゃくな妹について考えていたら心配されたので、今度みかけたらなにか嫌がらせでもしてやろうかと思う。そんな上の理不尽がまかりとおることこそ姉妹の証ともいえそうなのだが、それには気が付かなかったことにして。
 山城の焦った反応にすこし首を傾いではいたが、とりあえず話を続けてくれるらしい扶桑が、とにかくね、とあらためて口を開く。
「とにかくね、諺の話だけれど。かの英国では、猫というのは九つの命をもつと呼ばれるほど、生命力の強い、したたかな生き物であるとされているの」
「はい……」
「けれどそんな猫ですら、みずからの好奇心に身を任せ過ぎては、命を落とすこともあるわ。転じて、過剰な好奇心は身を滅ぼす、と言い含めるためのものね」
 もはや乾いた声で返事をするほかない山城の、主に頭頂部あたりに向かって、扶桑はどこか笑ったようにもきこえるようなため息を、浅く吐いた。
「まあ。今のあなたにぴったりね、山城」
 とうとう名前を呼ばれてしまった山城は、痩せた肩にいっそう骨を浮かせるほど縮こまって、はい、とまたかすかすな声で返事をする。ずいぶんみっともないことはわかりきっていたけれど、返事をしないわけにもゆかない。なにしろ相手は扶桑姉様なのだから。
 扶桑姉様、なのだけれど。
「でもなんというか、この場合は……そう、そうね」
「な、なんですか?」
「この場合、身から出た錆というか、身から出た赤ね?」
 ―ちょっと、そろそろ、勘弁願いたいところだ。
 ついにはころころと笑ってしまいながらそんなことを言う姉に、しかしやっぱり頭の上がらない、妹・山城だった。

 だが、たとえことここに至るまでの原因が自分にあったのだとしても、すべて自分が悪いと断じられることには、山城としてはかなり待ったをかけたい気分なのだ。というのも、そう思うに至るまでだって、つまりは原因の原因が存在するはずである。そこまでを丁重に辿ってもらえれば、少なからず自分だけが十悪い、ということにはならないはずなのだ。五とはいわずとも、せめて二か三は。
 そう、せめて二か三くらいなら、あの子にだって責任があるといってもよいのではないだろうかと、山城には思えてならないのだ。
「邪魔だったら、退くから」
 その子、時雨は、いつものように深い青の瞳をどこまでも凪がせ、口もとはゆるやかに笑んだかたちを崩さぬまま、山城の背中でそう言った。扶桑からお叱りともいえないなにかを受ける、その数刻ほど前のことである。
「べつに、」ああもうほんとうにこの子のこういうところが厄介だと頭を抱えたくなりながら、そうするわけにもゆかない山城はぷいと前に向き直り、せめて聞こえなければいいと不親切なほどの小声で答える。「邪魔ではないけれど」
「そっか。うん、よかった」
 よかった、と、尋ねるときには不安そうな様子など一抹もみせないくせに、こんなときばかりほっとしたように繰り返すのだってそう。もうみんなみんな含めて、まったくなんて子だろう、と山城は悲鳴を上げたくなるのだ。
 そのくせ、膝を抱えるように座っている自分の背中に、かなり控えめにとんと頭を寄せてくる仕草が、いやになるほどいじらしい。三つ編みが流れでもしたのか、そのあたりにぶら下がっている髪飾りがしゃらりと揺れて音を立て、それは間違いなく山城自身が時雨に贈ったものであるはずなのに、思わず肩を跳ねさせそうになった。戦艦山城としてあらん限りの力を振りしぼり、どうにか堪えたが。
 だいたい、とことこと傍に寄ってきたとたん、ああいうことを先回りして尋ねてくるだなんて。ひとたび口を開けば恨み言しか出てこないと評判の山城だが、その恨み言を先回りして口にしてしまうようなのは、本当にずるい。こちらが距離を保とうとする前に、初めからその内側でにっこり微笑んでしまうようなのは。いったん内側に来てきちんと話をしてから、出てゆくかどうか決めて、などと尋ねてくるようなのは。
 時雨のそんなところは、本当にずるいと思う。
「山城? 何か言った?」
「……何も言わないわ」
 しかもこの子ときたら、どうやらそれをほとんど無意識でやってのけているらしいというのだから、よけいたちが悪い。それがこの子自身の指揮下に置かれているものならばまだ文句の言いようもあるけれど、ねえどうしてそうなのってなかば悲鳴のように尋ねたところで、きょとんと首を傾げられるばかりでは、あまりに詮無いことだ。おかげで山城は、今のところ優しく振り回されるというじつに頭の痛い事態に陥ってばかりいる。
「それ」
「うん?」
「書類。床だと書きづらくないわけ?」
「ああ、いや、平気だよ。白露型部屋の机は、たいていお菓子か誰かの荷物でいっぱいだからね。慣れてるんだ」
「……そう」
 今日だってそうだ。
 慣れているというにしたって、秘書艦としての仕事があるのなら、食堂とか談話室とか、なんなら最上型の部屋なんかでもいい、とにかくまだやりやすい、机のある場所がいくらだってあるはずだ。それだのに時雨はわざわざ、この戦艦宿舎の扶桑型部屋にまでやってきて、なんとなしに座って窓の外を眺めているばかりだった山城の後ろという場所を選び取ってしまう。扶桑がいないせいかすこしばかり気が抜け、だらんと折った両膝を抱えるように座っていたのが(とっくに尽きていたかもしれないが)運の尽きだろうか。丸まった背中は、寄り添いやすい場所を与えてしまったらしい。
 どうせここで机を使いなさいよと私が言ったって、でも僕はここがいいんだなんて、あなたはいつもの顔で、こともなげに返すんでしょうよ。そこまで思い至れる自分にも、まったくもって腹が立つ。
 腹が立つ、実際言った通りにさらさらと淀みなく手を動かせているらしいのにも腹が立つ。普段なら意地でも振り返らないところだが、そのとき山城が半身を捻りきるほどまっとうにそちらを向いてやったのに、せめて邪魔でもしてやろうかという意図があったことは否めない。
「……あら?」
「えっ?」
 だが、その直後、今度は半身でなく全身まるごと向きを変え、時雨の肩ごしに身を乗り出したとき、山城の頭からその考えはすっかりと霧散していた。
 ではなにが残っていた、もしくは新たに生まれ出ていたのかといえば、それはやはり、純粋なる好奇心であった、というほかない。
「どうかしたの、山城?」
 もちろんのことすぐ横で顔を並べることになった時雨が、おそらくはこちらを向いてそう尋ねてくる。が、山城はそちらを見もしないままで、ぼそっと答えた。
「綺麗なのね、意外と」
「……う、ん?」
「字よ」
 あなたの字。と、みずからの言葉をなぞり、それに合わせるように、書類に記されたばかりとみえる時雨の字を、山城は指先ですうっとなぞった。扶桑の洗練されたそれを日常的に見ている身ではあるし、さすがにそれには遠く及ばないが。妙に筆圧の薄いところのなんだかおもしろい時雨のそれは、ともあれ整えられるところは丁重に整えられた、良い字であると思えた。
「前は、もう少し汚かったわよね?」
 どうやら、出撃報告書を片付けていたところらしい。艦隊構成の記された部分、扶桑、の字が以前よりずっとバランスよく書かれている部分を満足な気分でなぞりながら、山城はすぐ横の時雨に尋ねる。艦としての魂を受ける器との身体が幼いせいか、駆逐艦娘は総じて字が汚い。時雨も以前はその例に漏れなかったはずだが。
「うん、そうだったんだけど。ほら、僕はこうして書類を書く機会がどうしても多くなるから、そのままだといけないと思って……実はこっそり、扶桑に習ってたんだ」
「ああ、なるほどね」みょうに自分の気に入る字体だと思ったら、そういうことか。
 そうだ、この子の字を書くときの気の払い方は、自分の姉とよく似ているのだ。合点のいったことに山城自身ふしぎなくらい満足しながら、もうすこしだけ身を乗り出して、なぞる指を進めてゆく。旗艦、時雨。うん、旗という字は姉様にいわせても調和の取りづらい文字だそうだが、まあまあよく書けていると言ってあげてもよいだろう。
「そっか、山城がそう言ってくれるくらいなら、だいぶましになったみたいだね。よかった」「そりゃあね。姉様に教えて頂いたんだから、上手くならなきゃ嘘だわ」「ああ、うん、それもそうだ」ああ、このあたりの留め払いが、なんとなく姉様に似ているみたい。それにしてもどうしてこんなに字が薄いのかしら。
 いつのまにか時雨の背のそばに片手をついて、山城は時雨越しに字を眺め、なぞっていた。もたれかかるお腹の下あたりで、そういうときばかりはっとするほどちいさい時雨の身体が、くにゃっと曲がってしまっている。―あら、いえ、そういえば私、ずいぶんこの子にくっついて、
「山城、っていうのも、綺麗に書けたかな?」
「……そうね。綺麗だと、思うわ」
 とくん、と。
 思わず息を止めてしまいそうな音が、した。


「字っていえば、夕立もこの間、とうとう由良に習っていたみたいだね。ほら、例の掛け軸を書かないとだったから」
 とくん。とくん。
「ああ、あれ。あの子にしてはよく書けていると思ったら」
「思ったら?」
 とくん、とくん、とくん。
「それってつまり、由良がほとんど手を貸してあげたってことでしょう。文字通りに、手を」
「あはは。ご名答だ」
 とく、とく、とく、とく。
 さすがやましろ。身体を通じて、響く、声のすみっこに混ざって。とく、とく、音が、していた。 のどがからからに渇いてしまいそうなほど速くて、ひりっといたいほどに強い、音が。
 ―時雨の、音が。
「でもあれはおかしかったな。ほら、ぽい、っていうあれ。あれ、由良は付け足すつもりなんて最初からなかったのに、いつのまにかあれまで一緒になって書いていて」
 続きを書きたいから離れて、とか、そんなに圧し掛かられると重たいよ、とか。そういったことを露ほども口にせず、態度にすらあらわさず、時雨はいつものように、いつものように、話し続けている。ひたすらに、という言葉すら似合わぬほど、自然に。
 そうだ、この子はいつもそうだった。いつも、私がどんな気でいるかしらずに、ゆるりとそばへ寄ってきて。そうしてこともなげに、にこにこ笑ってばかりいる。いつもそうだった。いつも。
「……山城?」
 でも、とく、とく、音が、しているのだ。
 時雨の身体をとおって、それこそひたりと触れあっている山城の胸まで揺らしそうなほど、切実な音が。
 音が、しているのだ、とてもたしかに。
「ねえ、時雨」
「うん?」
 素直に、めずらしいと思ったのだ、はじめはそう、絶対そう。
 なにしろ、耳のごくごく近くで、それこそ唇がふちに触れそうなほど近くで、しかもなるたけしっとり囁きかけるように名前を呼んでやったところで、こともなげに返事をするような子だ。
 そんな子が、たとえば私の言った綺麗だなんていう言葉で、なんでもないといえばなんでもないような言葉ひとつきりで、こんな音を鳴らすようになるなんて。こんなにとくとくいっているだなんて、めずらしく思わないほうがおかしい。
 だから、最初はそう。めずらしかったから、ちょっとおもしろかたから。この子もこんな反応をするのだと、笑いそうになったから。
「でも、字くらいなら、私が教えてあげたってよかったのよ」
「……そうかい?」
「ええ」
 だからあと少しだけ、くっついてやろうかとたくらんだ。
「由良みたいに。……こんなふうに、ね」
 たくらんで、拙速を尊び、すぐ実行に移した。いつまでもこつのつかめない子のめんどうをみてやるときみたいに、後ろから回した手を、時雨の手に重ねて。まだペンを握ったままの手を、指のかたちがわかるくらい、きゅうっと包んでやったのだ。
「あ……いや、うん、さすがに、これは」
「恥ずかしい?」
「ん、まあ、そうだね」
「だから、」本当なのです、最初はそうだったのですお姉様。
 いつもいつも時雨ときたら強引でないのにだからこそ強引より強引だという非常にやりづらいやりかたで私を振り回してくるから、それだったら今が好機、すこしくらいやり返してやろうとか、そんなことを思っていただけで、ああ。
「だから、こんなに鼓動が速いの?」
「………」
 十じゃないのに、二か三くらい、いやせめて一くらいは、いつも飄々と笑ってばかりいるこの子だって、悪いはずなのに。そのはずなのに扶桑は、それではあんまりかわいそうよ、と言った。
 それではあんまり、時雨がかわいそうよ。
「……っ、」
 だって、いつも平気な顔をしている子が、いつもそうでない子よりも平気だなんて、決まっているわけでもないでしょうに。
 ―すとん。
「へ、」すとん、と、あまりにあっさりしていたせいで、できごとが現実味を帯びるまで、かなりの時間を要してしまった。
 できごと、つまり、山城の目に映っていたのが、先ほどまでの綺麗な字でなく、はたまたそこにあるはずの見慣れた蛍光灯でなく、
「きみ、は」
 時雨の、見たこともないような表情であったことについてだ。
 とはいえ逆光になってまともには見えやしないはずなのに、山城はあろうことか、ぱちんとするほどの衝撃を受けてしまった。きみは。零したあとで、ぎゅっと引き結ばれた唇。強すぎるほどに噛み合わせられた歯が、ふるえたようにかちっとちいさく鳴っていた。あんなに凪いでいた瞳が、大雨みたいに揺れて、濡れている。
「きみは。なんにも、」
「ぇ、……え」
「なんにも、わかって、いないんだね」
 わらった、いや、わらった、と、思えなかった。
 だってそんな呼び方、していいわけがない。そうとしか思えない。たしかに口の端は持ち上げられていたけれど、両のまぶたのあたりは、ゆるく細まっていたけれど。
 でも、あんな、あんなにひっしな顔、いつも笑っているこの子のそんな顔、みたことなくて、だから。
「教えてあげようか?」
「し、……ぐ、れ?」
 僕の鼓動が速い理由を、教えてあげようか。
 できの悪い子には、たとえば手を、たとえば身体を、たとえば、
「っ、ふ、……ッ!」
 たとえば唇なんかを、つかってね。

「それはね山城、あなたのほうが身体も大きいし、力も強いはずだし、なにより戦艦なのだから、駆逐艦のあの子よりずっと優位に立てるはずだと考えてしまうのも、まあわからなくはないわ」
 姉はいまだころころとあかるい笑い声を立てながら、これ以上ないというほど俯いた山城の頭を撫でる。揃えた指先で、ぽん、と叩くようにかあやすようにか、とにかくしようのない子にそうするように、何度も撫でてくれる。
 以前はそうでなく、普通に髪を梳くように撫でてくれていたと思うのだけれど。そういえば時雨のことになると私はこんなのばかりだと、気が付きたくないところまで気が付いてしまう。
「でもね。今回ばかりは、やっぱりあなたが悪いわ。さすがの姉も、かばってやることはできません」
「……そもそも、時雨のことで庇って頂いたことはあまりないような気がするのですが」
「あら、そう? ふふ、末っ子びいきなのかしら、私も」
 それだのに扶桑は、しらなかったわ、などとまたころころ笑っている。きっと自分ではしっかりしっていたはずのことでも、そういうふうに笑えてしまうひとがいて、だが山城のように、これ以上下げられないにも関わらず頭の重くなる人種もいる。そういうのはどうやら初めから決められているようなのだから、困った話だ。
「そう、そうねえ。あなたはそうやって、とても自分に正直なところがある代わりに、ほかの子があなたを想う心なんかは、なかなか素直に受け取ってやれないみたいだから」
「は、はぁ……」
「でもね。それだったら、わからないぶんわかるくらい愛されてみればいいんじゃなかしらって、私は思うのよ」
「は、……は?」
 目を数えはじめてやろうかと思うほど畳ばかり映していた視界が、ぶわりと音のしそうなほど明るくなった。肌の白。髪の黒。扶桑姉様が、笑っていた。首の付け根に、ぽつんと赤い痕の残っているのをそっと隠すように、私の着物の襟を整えて。
 しかしなぜだろう、笑顔の優しさにも、整える手つきの優しさにも、なんだか背筋がぞわりとしてしまった、のは。
「さ、いってらっしゃい、山城」
 ほらもう見えなくなったし、などと、扶桑は笑っていう。
 きょとんとしている、やはりできの悪いらしい山城に向かって、手を取るように、いや背を蹴るように、続けてさえくれる。
 今日は、部屋に帰らないでおいてあげるから。

「いってらっしゃいな。それで、存分に猫になっておいでなさい」

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