1017・二八.九六メートルの救済




「いい名前ね」
 ゆるやかにきれいな微笑みをうかべた扶桑は、僕に向かってよくそう言った。
 第一遊撃部隊第三部隊、通称西村艦隊として初めて顔を合わせた、その直後のことが、たしか一度めだったとは思う。名前を告げたばかりのことだった。僕なんかにはとてもではないけれど想像もつかないような、長くて、そしてきっとすごく重たい歴史を背負っているのだろう扶桑型戦艦二隻の前で、僕は自己紹介をしなくてはいけなかった。彼女たちの護衛艦として命の限りせいいっぱい戦わせていただきますと、ちゃんと立派に胸を張って言わなければならなかった。
 とにかくそのことだけでも僕はちょっとくらくらしそうなくらい緊張していて、だから、時雨、という名前について最初にそう言われたときは、そういうふうに思われることもあるのかな、くらいにしか気に留めていなかったことを覚えている。
 でもそれから、そう長いあいだ一緒にいたわけではなかったのに、僕は彼女の口から何度もその言葉を聞くことになった。「とても、いい名前。」
 しかもその一度のうちだって、一回だけではなくて、扶桑は何回もそう繰り返すのだ。とても、とても、いいなまえ。
 しっとりと長い黒髪をやさしく揺らすように首をかしげた彼女が、あまりにそればかり言うので。結局僕はそのうちとうとう顔を上げていることができなくなって、僕らが背負う国の旗よりももっともっと痛切な赤を湛える彼女の瞳を、見ていることができなくなるのだ。(もしかしたら扶桑は僕がそうするまで繰り返し続けると決めていたのかもしれないなんて、そう思ったことも正直幾度かある。)
「しぐれ。時雨。ね、私、あなたの名前がとても好きよ」
 僕がそうやってむずがゆさに俯いてしまうと、扶桑は戦いを思い出させない真っ白な手を口もとにあてがって、ころころと笑う。
 扶桑からそうされる回数が片手では数えきれなくなるころには、僕のなかに初め色濃く渦巻いていた彼女たちへの畏怖のようなものもすこしずつ晴れていて、だからちょっとうらみがましげに、目だけ上げるくらいのことはできた。それは一応、僕なりのせいいっぱいの抗議行動だったのだ。
 でも、もう両手ですら足りなくなるぶん同じことを言われて、そのたび僕は扶桑のことをねめつけてやったのだけれど、結局それが効果をしめしたことなんて、一度だってありはしなかった。僕はよく覚えている。
「秋の終わりから、冬のはじめにかけて降る雨、よね。それから、ちょうどよいときに降る雨、という意味もあるのだって」
 僕は、とてもよく覚えている。
「時雨。あなたはたしかに、よいとき、よいところにちゃんといてくれる、そういう子だから」
 扶桑は僕に、何度もそう言った。
「あなたの名前は、とても、いい名前だと思うわ」

「や、時雨。こんなところに居たんだ」
「うわ!」
 なんの前触れもなくひょいと顔を覗きこまれて、文字通り飛び上がってしまった。
 海岸に突っ立っていた僕は、結局そのままごつごつした岩の上で尻もちをつき、声にならない悲鳴をかなり必死に噛み殺すはめになってしまう。いくら幸運艦なんて呼ばれていたって、こういうときの打ちどころまでまるきりいいってわけじゃない。痛い。そのあいだ、一応悲劇といっても差支えないようなこのできごとの原因である最上はずっとくすくす肩を震わせていたのだから、まったくひどい話だった。
「い、いや、ごめんごめん。まさかそんなにびっくりするとは思ってなかったからさ」目元を拭いながら謝られたってなんの説得力もないけれど、そもそも最上に対して謝罪の説得力なんてものを求めるほうが間違っていた、かもしれない。心のうちだけでもしかえししてやろうとばかりに、意地の悪いことを考えてみる。でも尻もちをついたままの格好である僕の隣にあっさりと腰を下ろしてきた横顔の、その悪びれなさからして、あながち穿った見方というわけでもなさそうだった。
「ひどいな。一応ボクは、君のことを探しに来てあげたっていうのに」
 口のわりにはちっとも傷ついていなさそうな顔で、最上がひょいと肩を竦める。雲みたいにつかみどころのない笑顔のうえで短く切り揃えられた髪が潮風にさらさら揺れていて、それはとてもかっこうのいい姿だったとは思うのだけれど。むしろそれがしゃくにさわるのだ、と普段めったにそんなことないくせ、ぴったり口を揃えて言っていた山城と満潮の気持ちが、そのときばかりはすこしわかったような気がした。
「それにしても、朝食も食べずにどこへ行ったのかと思ったら、こんな岩陰でかくれんぼだなんてね。そんなに遊びたかったのかい? 時雨はまだまだ子どもだなぁ」
「ち、違うよ。どうしてそんなことになるのさ」
「あれ、そう? きっとそうだと思って、時雨はまだ遊びたい盛りだから許してやってくれって、扶桑には言っておいたんだけど」
「……最上!」
「あははっ! 冗談、冗談だよ。そんなに怒るなって」
 気難しいひとだったりつんけんしてばかりいるひとだったり、そのひと自身は穏やかだけれどうっかり近づくと別のほうから視線で射られるひとだったりと、やたらくせのある艦たちばかりが集まったこの艦隊で、姉というよりは兄貴分のように気さくに接してくれるのは、とてもありがたいと思うのだけれど。
 この複雑な気分をしっているのかしらないのか、しっているくせにしらないふりをしているのか、とりあえずたちだけは悪そうな笑みを浮かべたままの最上は、すこし首が沈むくらいの強さで、ぽんと僕の頭に手をのせた。
 髪が、
「まあ、冗談はここまでにしておくとして。……本当に君を探してたんだよ、時雨」
 すこし長めに垂れたままの髪が、最上のすこし丸っこい指のあいだで、くしゃくしゃになっていくのがわかる。
「正確に言うと、君のことを探しているのは、ボクじゃなくて山城だけれどね」
 きっとそうなんじゃないかなって、考えるのは、なんだかおこがましいような気がしていたんだ。
 ひとしきり僕の頭をかきまぜた最上は、ふっと手を止めたかと思うと、それまでとはくらべものにならないくらい優しい手つきで、すこしからまってしまったのだろうそれを、ゆっくりと梳きはじめる。その手から僕が逃れられるすべといったら、抱えた膝のあいだにどんどん頭を落としこんでしまうことぐらいで、けれども飄々と笑う最上は僕のその抵抗をひどくあっさりと押し退け、手を触れさせ続けた。
 最上はいつもそうなのだと、やっぱりそういうときだけは普段ぎすぎすな足並みをぴったり揃えてしまえる山城と満潮は言っていた。最上はいつもそうだ。こちらにつかみどころなんてちっとも与えてくれないくせに、まるでいつのまにか雲のなかへと飲みこまれてしまうみたいにして、気がつけばこちらのすぐそばまできてしまっている。
 そういうところがずるくてとにかくしゃくにさわるのだ、とあの二人から噛みつくように言われた最上は、両手を頭の後ろで組んで、からから笑っていた。
「いつも結んでもらってたんだろ?」
 しいて言うのなら、なにを、とか、だれに、とか、そういうのを最上のほうではひとつたりとも口にしないのがずるい、と思う。
 でもどっちもどっちでひどく気の強い二人がそうしても無駄だったのだから、僕がこんなところでそれを糾弾したって、最上にはきっとすこしも堪えないのだろう。そのわりには信じられないくらい丁重に髪を梳いてくれた最上は、僕の耳のあたり、ようするにあたたかさがたしかに伝わるあたりに指先をあてたまま、じっとこっちを見ている。
 どうしてだろう、自分についてのことはなにも明らかにしてくれないひとに限って、こっちのことを白状させることばかり、やたらと手馴れている。
「……そもそも、練習だったんだ」
「うん?」
「山城が、僕の髪を結ってくれたのは。そもそも、練習だったんだよ」
 二人ともついはっとするほどきれいな髪をしているのは同じだと思うけれど、扶桑のそれは山城のよりもずっとずっと長かった。
 そのときのためにしかないような極上の笑みで、姉さま、姉さま、と繰り返しながら扶桑のあとをついていく山城は、僕なんかよりもずっとそのうつくしさを見てきたのだろう。読書家らしい扶桑に比べて山城はあまり本を読まず、でもたとえ扶桑が文字に熱中しているときだってそばを離れない山城は、扶桑の背によくもたれかかったまま目を閉じていたのだ。
 ほんとにそのまま眠っていたときというのもきっとあると思うのだけれど、僕が思うに山城はだいたいいつも起きていて、時折長い睫のあいだからうっすらと姉と同じ色の瞳を覗かせては、ひっそりと、ひっそりと、指先を動かしていた。扶桑のきれいなきれいな髪の先をそっと摘んだ指先を、動かしていた。
 そのわずかな音ですら忍びこむことをゆるさないようなしぐさのなかに、いったいどれくらいの想いがこめられていたのだか、僕にはきっと、ずっと、わかることなんてできないだろう。だというのに不躾なほどそばで僕がそれを目にしてしまったのは、つまりちょうど通りがかった僕をみとめた扶桑が手招きをしたあげく、僕の席を彼女の膝の上と決めたままゆずらなかったからだ。
「うわあ、それはひどい。扶桑が時雨のことをかわいがりたがっているのはしってるけど、そいつはあんまりだ。針どころか魚雷のむしろじゃないか」
「まあ……その、うん。偶然を装って主砲で五回はぶたれた」
 その罪滅ぼし、というわけでも、べつになかったのだけれど。
 よりによってその状況で扶桑が提督に呼ばれ席を外してしまうという非常事態のさなか、山城と二人で残されてしまった僕は、扶桑の髪についてを話に出したのだ。あの選択が正しかったのかといえばたぶん微妙なところなのだけれど、好きなひとの好きなところを話して、それほどひどいことになるとは思えなかった。事実、むすっとした顔は崩さないままだったけれど、山城は一応僕とのやりとりを成立させてくれたのだし。「そうよ。お姉さまよりきれいな髪をもっている子なんて、どこにもいないわ。いるわけがないわ」「うん、そうだね。……あ、でも、姉妹なんだし、山城は扶桑と同じくらいには、きれいだと思うな」「……はぁ?」「い、いたた! ご、ごめん、あの、ごめん、だから主砲をぶつけないで、山城」
 そうやってぎこちなく言葉を交わしているうちに、山城がぽつりとこぼしたのだ。どうしてだったのかはわからない、ただの気まぐれだったのかもしれない。でも胸のうちの、すこし深いところにあるものほど、そういうふうに顔を出すものなのだろう。
 ほんの一瞬、いつも厳しく光ってばかりいる瞳をふわりとゆらめかせて、山城は言った。
「いつか、扶桑の髪を結ってあげたいって。そう、言ってたんだ」
 でもうまくできる自信がないの、だってお姉さまの髪は、ほんとうに、ほんとうに、きれいなんだもの。
 そう消え入りそうな声で彼女が続けてたというところまでは、最上には教えなかった。たぶん最上の方はそこまで見通してしまっていたと思うけれど、最上が見通していないわけがないと思うけれど、それでも僕は黙っていた。そもそも山城は、きっとその場にいた僕にですら、それを聞かせる気はなかったのだろうと思うから。
 おかげで、よかったら僕のをつかって、と山城に伝えるまでには、ちょっと苦労したものだ。もっとも山城はほんとうのところきっととても素直でまっすぐなひとだから、わかってくれてからは、それはもうがんばって練習にはげんでくれたのだけれど。
「山城は、もともと寝起きがそんなにいいほうじゃないから」
「あれはそんなにって言葉じゃたりないと思うけどなぁ。いくら速力があっても、ボクだったら寝起きの目つきをしている山城の前に立とうとは思わないね」
「うん……でも、そんな目つきのまま、毎朝鏡の前で僕を待っててくれたよ」
「そして髪を結い終えるが早いか、君のことをすっかり押し潰して枕にしたまま寝こけてしまうってわけだ。それが毎朝」
「……最上、見てたのかい?」
「あんまり面白い景色なものだから、扶桑を呼んできたこともあるよ」
 それじゃあ秘密の練習の意味がないじゃないかと言ってやろうかとも思ったが、たぶん扶桑は、時雨と山城は仲が良いのね、くらいしか言わなかっただろうから、やめてしまった。そんな扶桑なら山城が不器用だろうがなんだろうがにこにこと笑って済ませてしまうと思うのだけれど、たぶんそれだからこそ、山城の練習は毎日きちんと続いたのだろう。
 初めはとりあえず結んでみるだけだったり、二つにすると高さが違ったりしていたのが、だんだんと良くなっていったのを僕は鏡越しに見ていた。思い通りにいかなくてやっきになると、山城はすぐ超弩級戦艦なりの力をいかんなく発揮し僕の髪を引っ張ってしまうので、涙が滲んでしまったことも一度や二度や十度ではなかったけれど。でも、もどかしさは懸命さの裏返しだ。彼女の上達はとても早かった。
 きっともう、練習なんて必要ない。
「……山城が、」
「うん」
「山城が扶桑の髪を結ってあげるのなら、きっと今日がぴったりだ」
 口にはしなかったけれど、今日しかないんだって思っていた、だって今日は。今日、僕らは。
 どこにいても、いつ聞いても、変わらない波の音が足もとの岩で砕けて散る。しおからくてすこしぬるい風が鼻先をくすぐる。海はいつだって同じ顔をしてくれているのだ――それがたとえ、これから戦いへと向かう日の朝であっても。
 もうずっと前から考えていたことだから、今朝は狂いなくいちばんに起きることができた。きゅっと丸まって眠る満潮を起こさないように布団から抜け出して、いつものように寄り添って眠っている扶桑と山城の脇をすりぬけて、布団を足先にだけ引っかけたままのんびりと寝息をたてる最上の頭をそおっと乗り越えた。
 だって今日は、今日、僕らは。
 今日僕らは、出撃しにいくのだから。
 きっともう練習なんて必要ない、ねえ、山城、君はもう、すごくうまくやれると思うんだ。
「そうだね。それは、時雨の言うとおりだと思うよ」
「うん。……だから、」
「でも、だからなんだっていうのさ?」
 ――いともなんでもないことのように言った最上は、軽やかな身体をぐんっとはずませて、岩の上に立ち上がった。
 僕はまだつめたい岩の上に座り込んだままだったのに、両手を勢いよく振り上げて伸びをした最上を見ていると、僕まですこし目の前が開けてしまったような気分になる。うすく曇った空に飛び立つように、最上は手を広げて、僕のほうをくるりと振り向いた。「ねえ。だからなんだっていうのさ、時雨!」
「……時雨、そこにいるのね?」
「え、」
 後ろから聞こえた、なんだかひどく低められてはいるが聞き覚えのある声に、すぐ振り返ることができなかったのは、どうしてだったんだろう。
 顔が見られなかったからだろうか、でもどうして? 僕はそうあるべきことのためにそうしただけで、善いと思ってそうしただけで、後ろめたいことなんてなんにもないはずなのに。なのにどうして、僕はぎくりとしてしまったんだろう。
 背中で、ざり、と砂が擦れるおっくうそうな足音がして、頭の後ろに固いものがぶっつけられた。
 痛い。そして僕は、その痛みにひどく、ひどくひどく、馴染みがあった。
「い、痛いよ、山城……」
「うるさい。昏倒されたくなかったら、とにかくそこに座りなさい」
「は、はい」
 僕はまだ振り返れないし、結局そのまま、振り返ることはゆるされなかった。たとえそこに鏡がなくとも、彼女の前に座ることが決められてしまっているみたいに。
「ほら、言ったじゃないか。山城は確かに今日こそ挑戦すべきだけれど、だからなんだっていうのさ?」
「……最上」
「朝一番の眠たーい山城の前っていうのは、君の指定席なんだよ、時雨」
 繰り返すけれどボクはとてもじゃないがごめんだものと、ひとの顔をひょっこりのぞきこんだまま、最上はいじわるく笑った。
 そのとき山城の顔を見る必要がなかったことは、或いは救いだったのかもしれない。だって背中を包むなんとなくの雰囲気だけですら、僕はなんだか頭とか胸とかそのあたりがよくわからないものでいっぱいいっぱいになってしまって、よくわからない、ふわふわとあたたかいものでいっぱいになってしまって、つい下を向いてしまっては山城に怒られたのだから。「ああもう、やりづらいでしょ!」容赦なく両頬にそえられた手でぐいっと顔を上げさせられて、首筋が変な音を立てる。そのあたりがかっと熱くなった、のは、うん、たぶんこのくすぐったい気持ちからじゃない。普通に痛い。
「こらこら、山城。だめよ、あんまり乱暴にしては」
 しかも、視界のはしには長い長い髪をさらさらと海風にさらすひとがいたのだから、もうたまったものではなかった。
「え、あ、あれ、え、扶桑?」
「……私、なんでこんなところにいるのかしら」
「み、満潮まで」
「だからやりづらい! 動かないでったら、時雨!」
「いたたた!」
 一つにまとめて握られた髪を綱よろしく引っ張られて、涙が滲んだ、というか零れた。ひょっとすると今までで一番痛かった、と、思う。
 丁寧とか優しいとか、そういう言葉とはかなり無縁なやりかたで僕の髪をぎゅっぎゅと結った山城は、それでもやっぱり初めよりずっとずっとうまくなった三つ編みを、最後にぴんと前へ弾いた。瞳の色と同じ、赤い結紐が目の前でふわっと揺れる。ああ、ああそうか、僕はこの色が、けっこう好きだったのかもしれない。どうしてだかそのときになって、そんなことをじわりと考える。
 いつもだったらこのあと眠気の限界が来る山城は、糸が切れたように意識を手放してしまって、いろんなところで体格に残念なほど差のある僕は、彼女の下じきになってしまうのが常だったのだけれど。まるでそのいつもをなぞるみたいに、山城は僕の頭の上にどっかりと顎をのせてきた。頭のてっぺんをふっと掠めたのは、不満そうなのか満足そうなのかもよくわからない、とにかく短くて強い吐息だった。
「あ……あの、やま、しろ? えっと、扶桑の髪、は……」
「……結ぶつもりだったわよ。でも時雨のせいで、時間がなくなったの」
「そうなのよねえ。残念だけれど、もうそろそろ出撃の準備をしなくてはいけないから」
「朝っぱらから山城がうるさいし、ご飯は食べ損ねるし、最悪だわ……」
「あー、そいつはだめだねえ。もう全部時雨が悪い」
 僕が朝、そこにいなかったのが全部悪いんだと、みんなが言う。
 そこは、たしかに僕のための場所だったのにと、扶桑が、山城が、最上が、満潮が言う。
「ねえ、山城。いつかはちゃんと、私の髪を結ってね。時雨とお揃いがいいわ」
「あ、は、はい、扶桑お姉さま! ぜひ、ぜひ……!」
「あはは、いいなあ。じゃ、ボクは満潮ちゃんの髪を結おうか」
「ちょっとでも触ったら酸素魚雷ぶち込むわよ」
 ――僕は。
「……そのときは、勝手にどこか行ったりするんじゃないわよ、時雨」
 僕は、
「うん。……うん、わかったよ。 」
 そうか、僕は、ここに、

 *

 あかい、あかい、あかい、
 だいきらいな、あかいいろ。
『戦艦扶桑、魚雷被弾! 炎上の為航行不能……ッいかん、弾薬庫に!! 誘爆するぞ、消すんだ、誰かを火を消せ、火を――!!』
 まっくらな、まっくろな、うみのそこから、やってくる。
 まっすぐと、まっすぐと、しずかなきばを、かくして。
 ぶつかって、はじけて、あかが、のみこんで、のみこんで。
『っ、戦艦山城、魚雷攻撃を受けました! 各艦は構わず前進してください、敵を、敵を攻撃してください、お願い――!!』
 ぼくらのうえに、あめがふる。
 あかい、くろい、あめがふる。
『敵軍一斉射撃により、最上炎上、大破!! 満潮、満潮は……っ、撃沈……!!』
 あめが、
 あめが、
 もえる、はぜる、あめが、
「しぐれ」
「やま、しろ、」
「時雨。もう、いいから」
「でも……っ、でも、山城! 僕、ぼくは、」
「……ありがとね、時雨」
「っ、ぁ、」
「ずっといてくれて、ありがと。ごめん、ね」
 
 あめが、ふって、いた。

 *

「そういえば、袖時雨、という言葉もあるわね」
「うん? ……扶桑、なんだいそれは?」
「あら、源氏物語は読んだことない? ふふ、時雨にはまだすこし難しかったかしら」
「……扶桑も最上も、どうして僕のことをそう子どもあつかいするのかな」
「あらあら、拗ねないの、よけい子どもっぽくなるわよ? ……服の袖を濡らして、涙を落として泣くことを、袖の時雨、というの。山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて――ね。時雨は、もしかしたら意外と泣き虫な子なのかしら」
「そんなことは、ない……と、思うよ」
「あら、そう?」

「うん。僕は泣かないよ。」

 *

 悪いことには底がないだなんて、そんなことはもう生まれ変わる前からとっくのとうにしっていた。
 なにせ、なんの自慢にもならないが、時代遅れの旧型欠陥戦艦という謗りだの、改修に次ぐ改修で艦隊にいるほうが珍しいという揶揄だの、ようやく前線に出たかと思えば敵の最新技術にあっさりしてやられたもはや喜劇に近い悲劇だのと、こちとら不幸な話の種には事欠かないのだ。
 だからもうそんじょそこらに転がっている程度の不幸ではちっとも驚かないつもりでいたし、実際いつも入渠部屋に行くたび正規空母のみなさんがたがそれはもう長々と浸かっていらっしゃることや、そもそもとしてお粗末な補給のストックがだいたい私の目の前で切れてしまうことや、装備開発を手伝うたびにしょうもないダンボール箱ばかり増やしていくことなんかには、もはやいちいち傷ついたり驚いたりしなかった。
 ――そうだというのに、
「……不幸だわ」
 そうだというのに、この救いようもない現実というやつは、ひとがそれこそ数十年かけて培ってきた覚悟をゆうゆうと飛び越すようなできごとを降って寄越してくるものだから、まったくもって腹立たしい。
 いったい私のなにがそこまでまずかったというのだろう。普段提督とはまともに顔を合わせもしないというか、話しかけられれば目つきを悪くしてばかりいたくせに、気まぐれで出撃の報告書を持っていく役目をお姉さまと代わったせいだろうか。そのわりに、すれ違った最上から提督は執務室に居ないと聞いたので、いやむしろその方が都合がいい、とりあえず机の上にでも置いておけばいいんだしなんて適当な気持ちで部屋まで訪れたのがいけなかったのだろうか。それとも。
「あれ……山城? あ、ごめん、提督は席を外してて……何か用?」
 それとも、たとえ提督が席を外していたとて、執務室には秘書艦をつとめているこの子が、時雨がいるのだということを、きちんと予想しておかなかったことが、だめだったんだろうか。
「……時雨」
「うん? あっ、報告書を持ってきてくれたのかな。じゃあ、僕が預かっておくから……」
「時雨。ちょっと、こっちに来なさい」
「え? なん……っ、ひ、ひてててて!」
 たぶんそのどれでもあるのだろうが、どれでもないともいえるのだろう。そんなものだ、ようするに巡りあわせだ。私はいつもそうなのだ、いつもいつも、巡りあわせばかりが悪すぎる。
 ああ、それにしたって、もうそれにしたって、どうして。
「や、ぅ、やま、やまひ、やまひろ、いひゃい」
「……ひとの名前はちゃんと発音しなさいな、時雨」
「で、でひるなら、ひてるよ……」
 どうして私がいま、こんな気分にならなきゃ、いけないの。
 ぐいぐい引っ張った頬をじんわり赤く染めてしまいながら、時雨はきょとんとした目をしている。どうして突然こんな痛い目をみなければならないのか、ちっともわかっていない顔をしている。
 ああ、ああ、扉が細く開いていたからってこっそり覗きこんだりしなきゃよかった、窓辺の、カーテンの揺れる傍でぼうっと突っ立っていたこの子の、覚えているよりはどうしてだか小さく見えた背中に、ついとらわれてしまったりしなければよかった。そうしたらきっと。そうしたらきっと。
 いくつも、いくつも、いろいろな後悔が、したところでなにがどうなるわけでもないという、残念ながらかなり馴染みのありすぎる例のやつが、次々とあふれ出してくる。何か言ったと思って耳を澄ましたりしなければよかった、名前には似合わないけれど性格にはよく似合っている、晴れた空の瞳が、どうしようもなく遠くを見つめていることになんて、気がつかなければよかった。
 ちいさく、ちいさくこぼされた、けれどもだからこそとてもとても深いところからこぼれおちた言葉を、耳にして、しまわなければ。『僕は、』ああしなければよかった、こうしなければよかった、
『――僕はまだ、ここにいても、大丈夫なのかな』
 この子の、ことを。
 ひとりになんて、しなきゃよかった。
「……ばかじゃないの」
 したってなんの意味もない後悔と、もう口にすることのできない、いいに決まっているじゃない、という遅すぎた言葉と。
 できるっていうのなら今すぐにでもその方法を教えてほしい、私がもう絶対に知ることのできない時間の海の底に、たったひとりで沈んでいったこの子に、届く手があるというのなら、なんでもいいから伸ばしてほしい。この子に与えられるべきだったものを、はるかはるか遠く行き過ぎてしまったそのときに与えられる手段があるのなら、とにかくすぐに、教えてほしい。
 守れなかったなんて、居場所をくれたのに、ごめんねなんて笑ってしまうこの子が、この子を、許すことができなくなるその前に。なにもかもすべてひっくり返すことが、できるっていうのなら。
「ばかじゃないの。時雨、あなた、あなたね、ほんとに、ばかじゃないの」
「やまひ……いてっ、……山城?」
「ばかじゃ、ないの」
 ああそうよできるわけないのよ、しってるわよそんなこと。
 どいつもこいつもとにかく全部、ここにあるものはうまくできてないんだから。
 でも、でも、でもそれで。
「ほんと……っ、時雨、あなた、ばっかじゃないの!」
 それで、だから、なんだっていうの。
 そうよ、こちとら生まれついての不幸艦で――どんな程度でも不幸なんて、私にとってはいい加減、腐れ縁の友人よ!
「や、やまし……わあっ!?」
 だからこんなものにだって負けてなんてやるものか。いつかひとりだったあなたに届かなくたって、今のあなたを、あきらめてなんてやるものか。
 頬をひっぱっていた手をなるたけ乱暴に離してやってから、時雨が呆然としているのをいいことに、髪をぐしゃっと思い切りかきあげるようにつっこんでやった。それから、ぱちくりと丸くなった目があっというまにぎゅっと閉じられてしまうくらい、ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜてやる。ぐしゃぐしゃと、それはもう、ぐっしゃぐっしゃと。三つ編みが解けてしまったってかまうものか、だってそもそもそれは私が結んでやったものだ。
 あっちこっちへんに髪を跳ねさせた時雨が、わけもわからず小さく悲鳴を上げている。
「わ、わ、や、山城っ、あぶ、危ないよ!」
「ばかじゃないの。ばかじゃないの、ばかじゃないの!」
 ありがたいことに改造も近代化改修も最大限までしてある扶桑型戦艦山城の力をそれはもう最大限に発揮して、もはや髪をまぜるというよりは頭をゆさぶるような勢いで、とにかくめちゃくちゃにしてやる。時雨の身体は駆逐艦らしく小柄だから、私が本気でそうすると、身体のバランスなんてあっというまに失ってしまうのだ。
「っ、うわ!」
 そうやって、とうとうふらついてしまった時雨のことを、すかさず広げた両手で、つかまえる。
 かなりおもしろい髪型になってしまった頭も、細っこい肩も、なにがなんだかわかっていない瞳も。
 そのちいさな身体に、ひどく剥がれがたいほどしみついてしまった孤独もひっくるめて、全部、ぜんぶ、ぎゅうぎゅう抱きしめてやる。「ばか、っ……時雨、の、ばか、」
「山城……どうしたの、泣かないで、山城……?」
 さっきまでぼうっとしてばかりだったくせに、時雨はそんなときばかりすぐ動く。こんなに強く抱きしめてやっているにもかかわらず、どうにか隙間から引っこ抜いた手で、私の頬を拭おうとする。ああもう、ほんとばか、この子。しってたけど。
 よいときに、よいところにいてくれる、あなたのこと。きっと私が、たぶんお姉さまよりも、いちばんよくしっているけれど。
「……ばか。」
 でもだから、そんなこといいから、とにかくぎゅって、されてなさい。
 苦しいよって、もういいから、苦しいくらいぎゅって、させなさい。
 それで、それから。
「ねえ。……ねえ、私言ったでしょ、時雨」
「え?」
 たとえばこの手と手が囲む場所ばっかりは、あなたの居場所であると、今だけでいいから、信じてしまいなさい。
 うっかり、心から、信じてしまいなさい。

「勝手にどこか行ったりなんて、しちゃだめ。絶対、絶対にね」

inserted by FC2 system