学びを与えてくれた尊敬すべきひとに対し報いるにあたり最も良い形は、それを自分も同じように下に続く者へ与えることだ、と大鳳は思っている。
 そういう意味で大鳳が報いたい相手はというと、やはり瑞鶴と翔鶴の二人だった。遠く過ぎ去りし水底より呼び覚まされ、からだの形は大きく変わってしまったけれど、それでも彼女たちの手から放たれる艦載機が悠々と飛びゆくさまこそ大鳳の最も愛する空の姿であることは今以て変わりない。明朗な笑顔を浮かべ皆の中心に自然と在りながらも影の努力を決して忘れない妹の方だって、その横に粛々と寄り添い柔和な気風をときに押し隠すほどの凛とした強さを見せてくれる姉の方だって、大鳳からすれば永遠の憧憬の対象だった。
 無論、その鶴の名を持つ姉妹とて、大鳳にとってはここでのものが初の邂逅となったかの「栄光の一航戦」、赤城と加賀の二人に対し、おそらく同じ思いを抱いているのだろう。ヒトとはそうして継いでゆくものなのだと、提督も仰っていただろうか。限りある時のみしか与えられぬ存在であるがゆえに、個々の時間は途切れず連なりあう。そういうふうにできているのだと大鳳は一度聞いたことがある。
 共に海に出、肩を並べて敵を屠ることのできる今、憧れは多分かつてよりも強まっているように思う。ヒトのかたちを模した身体に確かに宿っている心は、日ごとに変化をしていく。或いは芽生え、或いは膨らみ、また或いはより強く燃えていく。私も瑞鶴さんのように、翔鶴さんのようになれたら。弓を引くことのできない自分にとって、それはいささか過ぎた願いなのかもしれない。けれど、それがたとえ星をつかむようなことであっても、手を伸ばし続けることだけはやめたくないのだ。
 その思いを胸に、毎日切磋琢磨してきたつもりだった。瑞鶴が直接指導から外れてからというもの、大鳳と同じ方法で艦載機を運用している空母型がいないこともありトレーニングのほとんどは一人で行うようになったが、他者の目がないからといって手を抜くような真似は一切していない(どころか、大鳳の部屋を訪れた際壁に貼っておいた一日の訓練予定表を見て、もう少し休憩や自由時間を多く挟むよう先輩方からお叱りを受けたくらいだ)。
 導きを与えてくれた大切なひとびとに、正しく報いることのできる自分になれるように。誇れるかと言われればまだまだだと首を振るが、しかし大鳳なりの努力は毎日欠かさず重ねてきたつもりだった。いずれまた新たに空母が着任するとなれば、この鎮守府のシステム上、基礎指導を担当するのは自分になる。もしその日が来たときには、瑞鶴たちに正しく報いるためにも、立派な導き手となれるように。
 しかし――そんな大鳳が今現在送っているのは、己の未熟さばかりを思い知る日々であった。
「そんなに気にすることないっていうか、難しく考えることないと思うけどねえ」
 とうとう零してしまった情けない不安を聞いても、優しい先輩、瑞鶴は変わらずそう励ましてくれる。が、どちらかというと今はその懐の深さを見せられるほうが、今はやや辛い心地になってしまう大鳳だった。そんな顔をするなと肩を叩いてくれる瑞鶴の横で、大鳳はどうしても暗い表情を消せずにいる。
「いえ、気にしますし考えます……というより、そうしなければならないのだと思います」
「大鳳は真面目な子ね」そんな瑞鶴の傍らに立っていた翔鶴は、どこか慈しむように少し眉を垂らして、優しく微笑みかけてくれた。「それがあなたの、とてもいいところではあるのだけれど」
 指導担当を外れた今になっても自分をあれこれと気にかけてくれ、時にはこうして話も聞いてくれる先輩方は、それを不自由なくできる程度には、自分のことを理解してくれているのだと思う。理解などというと少し大げさかもしれないが、例えば朝食の時間開始とほぼ同時に現れる大鳳が、その時間になっても食堂に来られないほど過度なランニングに熱中してしまっているときは、なにか考え事をしているときなのだと瑞鶴たちはわかっている。そうでなければ、軽やかに地を蹴って追いついてきた妹の方が背中から抱きついて大鳳の足を止めさせ、そっと歩み寄ってきた姉がなにかあったの、なんて尋ねる綺麗なコンビネーションを見せたりなんかはしなかっただろう。
 瑞鶴さんたちは、私を導くにあたり必要ないくつかのことを、きちんとわかって下さっている。しかしそれを思い知ることが、今の大鳳にとっては少し心苦しいのだった。
 なぜなら。
「うーん……いや、でもさ、大鳳」
「なんでしょう」
「雲龍の考えてることって、ぶっちゃけ私たちにも全ッ然わかんないよ?」
 とうとう現れた大鳳にとって初めての「後輩」となる存在――雲龍に対し、大鳳は、瑞鶴たちがそうしてくれたようなことを同じように返す、ということを、今以てちっともできていないようなのだから。
「こ、こら、瑞鶴」
 たしなめるように翔鶴が口を開いたが、口さがない言葉をやんわりと注意するに留まり、その内容に関してはさほどの突っ込みもなかった。つまり翔鶴自身、同じことを感じてはいるのだろう。
 大鳳よりあと、今のところ大型空母の中では最も遅い着任となった正規空母娘〈雲龍〉は、現在大鳳が基礎指導を任されている相手でもある。要するに翔鶴にとっての赤城であり、瑞鶴にとっての加賀であり、そして大鳳にとっての瑞鶴翔鶴姉妹にあたる子だ。ついでに言うと、原則二人部屋となっているが長いあいだ大鳳一人が使っていた空母寮の部屋にとうとうやってきた、新しいルームメイトでもある。
 そんな彼女との指導生活及び共同生活を初めて一か月、大鳳の頭をいたく悩ませることとなったのは、その雲龍という少女のあまりといえばあまりな変わり者ぶりだった。
「まあ……その、確かに少しだけ変わった子ではあるわね。足並みが独特、というか……返事をするまでに三呼吸くらいの間がある、というか」
「反応自体もちょっと薄いよね。言ったことは全部理解してくれてるみたいだし、動きとかも大鳳が注意したとこはすごく綺麗に直してくるから、話はちゃんと聞いてくれてるんだろうけど」
「口数が少ないのは、お話をするのが苦手だからなのかしら? それとも億劫なのかしら」
「いえ、人の話を聞くのが好き……みたいです。その、雲龍自身がはっきりとそう言ったというわけではないんですが、よくよく解釈してみるとそれに近いことを口にしていたような気がするといいますかなんといいますかその」
「……苦労してるのね、大鳳」
 非常に情けないながらも、瑞鶴の言葉に大鳳は力なく頷くほかない。
 新たに同室の徒となった雲龍は、有り体に言って、恐ろしく理解の難しい子であった。テンポが独特。反応が薄い。口数も少ない。瑞鶴と翔鶴の二人が言っていたことにこれまでのひと月で大鳳が弾きだした結論を添えると、雲龍という少女はとかく、意思表示が少ない子だったのである。
 素直に名前を付けてしまうなら「無」というのがずいぶんしっくりきてしまいそうな表情をゆったりと浮かべたまま、そこから大きく動かすようなことはめったに(というか少なくとも今までの一か月では一度も)ない。緩やかな口調で発せられる言葉はかなり少なめに数を絞ったもので、首肯のみの返事のほうが使用される頻度としてはかなり高いだろう。薄い金色にも近い不思議な色をした瞳に灯る光ですらわずかばかりも揺れることはなく、見つめているこっちのほうが先にぐらつくような、あのじっと光る中に飲み込まれてしまいそうな思いになる。なったことがある。しかも複数回。
 おかげで、残念ながらそれほど物事の機微に聡い方とは言い難い、どちらかというと素直に直球勝負の方が身の丈に合っている大鳳には、せっかくできた後輩のことをうまく慮ってやることが、どうしてもできずにいるのだった。
「このままではいけません……瑞鶴さんや翔鶴さんがそうしてくれたように、私も雲龍のこと、ちゃんと導いてあげたいのに」
「いや大鳳は正直すごいわかりやすい子だったからそういう意味では苦労しなかったんだけどね私たち?」
「そ、そうね……その素直なところも、大鳳のいいところよね」
「とにかくっ、私もっと頑張ります! 愚痴などこぼしてしまいすみませんでした。この大鳳、先輩方のご指導に報いるためにも精一杯努力いたします!!」
「あー、うーん……そう……まあ、そうだね。大鳳なりに、もうちょっと頑張ってみるといいんじゃないかな」
「あまり肩に力を入れ過ぎないようにね、大鳳」
 二人に優しく背を叩かれ、大鳳は気合も新たに自室へと足を踏み出した。こうして励ましてもらったのだ、後輩のことがわからないなどと情けない弱音を吐いている場合ではない。「よしっ……!!」
 千里の道も一歩から。まずはこの休息日に、食堂に誘ってみるとしよう。共に訓練に励む相手なのでその後の朝食や出撃後の夕食等はほとんど一緒に食べているが、休日に誘うのは恐らくこれが初めてだ。なんならその後間宮あたりにでも行って甘味をつついてみるのもいい。ご飯を食べながらだと話も弾むかもしれないしね、と期待に胸を膨らませ、大鳳は元気よく廊下を歩いて行った。

 しかし、そんな大鳳の期待が彼女自身の胸部装甲通りに薄くしぼんでしまったのは、残念ながらそれからたった三十分後のことである。
「えーっと……あの、雲龍?」
 恐る恐る口を開くと、卓の向かい側にて腰掛けている雲龍が、ことりと首を傾げた。うん、これが雲龍なりの返事であり、先を促す合図であることくらいなら、私にもいい加減わかっている。だから私と彼女の間で、会話はきちんと成立しているのだ。それはいい。それはいいのだけれど。
「も、もう食べないの?」
「もう、たくさんいただいたから」
 残念ながら意思疎通、とか認識の共有、とかいう点では、まるきり失敗してしまっているらしい。
 わかりやすく言うと食堂メニューの中でも間食程度にしかとらえられていないおにぎり(小)と沢庵二枚のどこをどう解釈すれば「たくさんいただいた」ことになるのか大鳳にはどうしてもわからなかったし、だというのにどうしてこの食堂も賑やかなお昼時に、それっぽっちを腹に詰めた彼女がA定食のおろしハンバーグやB定食の鯖の塩焼きやC定食のかに玉焼飯に囲まれて平然としていられるのかはもっとわからなかった。こっちなんて米と味噌汁は常識の範囲内でお代わり自由とあるのに遠慮なく甘えさせていただき、そろそろ四杯目に突入しようかというところなのに。
 無論それっぽっちの食事であれば、量はともかく早食いを好むほうでもない大鳳が腹三分目にようやく届くかという、端的に言って食事の時間はこれからだという段についたあたりで、向かいの雲龍は手を合わせて「ご馳走様でした」なんて口にしてしまう。しかも当然のことながら、続きになにか頼む意志はまったくといっていいほど見られなかった。
「あ……そ、そう、間宮! 間宮でなにか買ってきたらどう? 券なら私の分を使っていいから。たまには奢らせて?」
「いえ、大丈夫」
「でも」間宮券を取り出しながら言葉を続けようとした大鳳を遮るように、雲龍がふらりと手を持ち上げる。落ち着きがあるというか、それを通り越して眠ってでもいるのではないかというほど動きの少ない彼女は、おそらくそれだからこそ起こした行動が妙に目を奪ってくる。大鳳が思わず持ち上げられた雲龍の手を目で追うと、その形はゆっくりとなにかを指し示す形に変わった。どこかひと離れしているようにすら見える白さの指先がさす方を追えば、そこには食堂の柱が――正確に言えば、柱の張り紙があった。
 そこに記されているのはみずみずしく艶やかな苺の赤色が目にも眩しい写真と共に躍る文字、〈期間限定・苺ぱふぇ大盛り無料サービス〉。
「うっ……!?」
 しまった、と思ってももう遅い。先輩方も仰っていた通り、感情と身体がかなり綺麗なパイプで直結されてしまっているのが大鳳の持つ否が応でも消せない特徴だ。そしてことここにおいてはなんと不都合なことか、大食漢が多いと言われる鎮守府内でも指折りの健啖ぶりを発揮してしまえるのが、装甲空母娘〈大鳳〉である。食べるのは、残念ながら、好きだ。すごく好きだ。ごめんなさい、大好きです。苺ぱふぇ。
 指さした手は静止させたままで、雲龍は何も言わず、こちらをじっと見つめてくる。静穏に光る金色がじっと注がれているのは、彼女に向けて差し出そうと大鳳が取り出しかけた間宮券だ。覚えられている、のかもしれない。嫌な予感、というかほぼ確信に近いものが頭をよぎり、大鳳はそれ以上動けなくなってしまう。
 よく組んで出撃もする彼女は、帰ってきた後私が苺ぱふぇに舌鼓を打つところも見ていた。その時のことがふと思い出される。特に食事時というわけでもなかったあの時なんて、雲龍はおにぎりすら頼むこともなくて。戦果最優秀で初めていただいた間宮券を使ってみたくてしようがなかった私のことは、どうやらすっかり見透かされていたのだろう。というかまたいつものようにわかりやすかったのだろう、そうでなければ雲龍は食堂まで私の腕を引っ張るなんて真似はしなかったろうから。
 あの時も雲龍の突飛な行動には驚かされてばかりで、彼女が何を考えてくれていたのかなんて、私が知ったのは後になってからで。ただ、瑞鶴さんや翔鶴さんに分けてもらうのでもない、初めて自分のぶんというかたちで口にしたぱふぇは勝手に頬がゆるゆるになっていくくらいおいしかった。でもじっと向かいで眺めてばかりいる雲龍に一口くらいは、と匙を渡そうとしても彼女は首を振るばかりで、私はてっきり甘味の類が苦手な子なのだろうかと思っていたけれど、もしかしたらそうじゃなくて、あれは、ただ。
「それは、あなたが使って」
「……ごめんなさい、そうさせていただきます」
 ただ自分があの苺ぱふぇにすっかりやられてしまっていることをわかられてしまっているからなのではないか、ととうとう理解した大鳳は、おとなしく間宮券をしまいこんだ。期間限定っていつまでなんだろう、あとで間宮さんか伊良湖ちゃんに聞いておかなければ。なんてことをちゃっかり考えてしまうあたり、現金な胃袋に辟易する。
 さて、追加で注文をしてくれないとなると問題は当初のものに戻ってくるわけで。
「大鳳?」
「はっ、はい!?」
「……お味噌汁、冷めてしまうわ」
「あっ、ああ、そう……そう……ええと、そうね。そうね、いただくわ……」
 おとなしく箸を取った大鳳の向かいで、雲龍はじっとしているばかりだった。
 食事をしながらだと話しやすいだろうから、と先刻は考えたけれど、あれは甘かったと言わざるをえない。それはどちらもが食事をしている、という対等な間柄でこそ成立するのだ。なにしろ口にものを詰め込んだまま喋るわけにはいかないのであって、必然的にどちらかが食べずの話し手、どちらかが食べながらの聞き手という役割分担が成立しなければならないのが、食事中の会話というものである。
 しかしこの場合、その分担が成り立たない。なにしろ当然ながら雲龍は自分から話を振ってくるほうではないのだから、話し手も食べるのも両方大鳳が務めねばならなくなってしまう。不可能である。しかも、雲龍の方は食事を終えているため、彼女に振られる役割など現在白紙だ。――ひどい状況である。
「………」
 雲龍は、こっちを見ている。
「………」
 薄揚げとかぶ、かぶの葉が入った味噌汁を手に取って少し啜る。まだじわりじわりと対流するほど温かだったそれは唇から舌先、喉の奥、そうして胸の中まで順々に温めていく。寒さのすっかり厳しくなってしまった最近、身体の芯まで染みわたる温度は掛け値なしにありがたい。箸でつまんではふ、はふ、と二度ほど息を吹きかけたのち口に入れた、よく煮込まれたかぶは噛むというでもなく柔らかくほどけて、ゆるやかな味が頬や奥歯をじんとさせた。おいしい。
「…………」
 雲龍は、じっとこっちを見ている。
「…………」
 半分強ほど食べ進めていた鯖の塩焼きに再度手を付ける。加賀や翔鶴がそうであるように、魚の骨を取るのが大鳳はかなり得意な方だ。ちまちまと取り除いたものを皿の隅にそっと積み上げていく。脂の艶やかに光る身を一口分つまんで、醤油をかけた大根おろしと共に頂く。もちろんよそってもらったばかりのお代わりご飯も一緒に。大鳳の食事速度がさほど早くないのは、噛むのが好きだからなのだと思う。あごをようく使って、きちんと噛んでから飲み込む。少しからめに味の付けられた塩焼きとほっかり炊けたご飯、全体をまろやかにする大根おろしが綺麗に絡み合って胃に沁みる。とてもおいしい。
「………。」
 雲龍は、まだじっとこっちを見ている。
「………。」
 おいしい、とてもおいしい、のだけれど。
 雲龍はじっとこっちを見ていて、さっきからずっと、それだけだ。
 いやでも、自分はひとり食事を楽しむためにここに座っていたわけではなかった気がする。というかなかった。なかったはずだ。待ちなさい、しっかりするのよ大鳳。ここで負けてはだめ。それだといつものパターンよ。
「ええと、雲龍」
 ほぼ先ほどと寸分違わぬ動きで首を傾げる雲龍に笑いかけながら、大鳳は必死に予測する。
 とにかく理解だ。理解理解。わかりづらかろうが意思疎通がうまくいっていなかろうが、私は彼女を導くほうの立場であるのだ。上に見られたいわけではないから敬語での会話も辞退したし友人のように接してくれていいと言い聞かせてあるが、それもこれも彼女と正しく距離を縮め、ちゃんとわかってあげられるような、頼りがほしいときそこに在ることのできるような存在になるための方法としてとったことなのだ。全部空振りしていては意味がない。もう少しだけでいいから、彼女の傍に行けるようでなくては。理解だ。理解理解。
「そう……そう、もしかしてあなた、気を遣ってくれてるの?」
「え?」
「私が食べ終わるのを、気を遣って待っててくれてるの? ……もしかして、ずっと退屈だったんじゃない?」
 口に出してから、そういえばどうして今までそれを想像できなかったのだろうと、大鳳は自分の浅慮を悔いた。
 じっとしているのも黙っているのも確かに雲龍の基本姿勢ではあるが、だからといっていつまでも彼女を付き合わせていい道理はないはずだ。訓練後の食事にしたって、そして今だってそうである。まあ今はどちらかというと話がしたくてこうして誘ったわけだが、そもそもその考えこそが本末転倒であったことはさっき証明されてしまったし。
 雲龍は黙って大鳳のことを見つめ返していた。特に否定する様子は見えなかった、ので、もしかしたらこれは正しい方向性なのかもしれない。俄然勢いに乗ってきた大鳳は、言葉を次いでいく。
「ごめんね、気づいてあげられなくて。気にしなくてよかったのに。あなたはあなたでやりたいこともほしい時間もあるんでしょうから、食べ終えたなら私を置いていってもよかったのよ」
 多分これで、間違っていないはずだ。瑞鶴さん翔鶴さん、私、少しはこの子のこと、思いやってあげられたのでしょうか。それでもまだまだだろうなと思いつつ、黙ったまままだ席を立たない雲龍に、背を押すつもりでもう一声。
「それにほら、私も一人でずうっと食べてるの眺められると、ちょっと食べづらいというか……なんてね、あはは」
「……そう」
 席を立つ前までに雲龍が発したのは、そのたった一言であった。

 それからというもの雲龍は、自分の短い食事を終えたらすぐに席を立つようになった。もちろん、訓練や出撃後の食事でも例外ではない。今日は食欲がないから、といってまったく食べない時には、大鳳一人で食堂へ向かうこともあった。
 結局今まで彼女が大鳳の食事を終えるまで向かいの席にじっといた理由が、自分への遠慮や配慮が理由だったのかはわからないが、ともあれこれでその必要もなくなったわけだ。別にそうしなければならないこともないのだから、私の向かいで無為に時間を過ごすことはない。
 雲龍に与えられた限りある時間の無駄遣いを、少しでも防げいであげられただろうか。そう思うと大鳳としても少し誇らしいところだった。
「……いただきます」
 ただ、これは気付きなのだけれど、本当にふと気づいた、というだけのことなのだけれど。私は思った以上に、彼女との長い食事の時間を過ごしていたみたいだ。
 空母娘というくくりではもちろんのこと、残念ながら軽巡洋艦娘や駆逐艦娘なども含めた鎮守府所属の艦娘全体で見ても小柄なほうである大鳳と比べ、雲龍はなかなかに上背があり、加えて主に胸部あたりがなかなかの迫力を持っているひとだった。だから向かいに座っていて存在感があった、ということなのだろうか。彼女のいない向かいの席が、やけにがらんどうに見えてしまうのは。もくもくと順当なペースで白飯の山を切り崩しながら考えても、その答えはわからない。
 自分は自分でなんら変わらず食事を続けている、はずなのに、最近やけに向かいを見つめたまま箸が止まってしまうようになった理由も、なんとなくお代わり四回から三回半に減らしたくなってしまった理由も、大鳳には、まだ。
「うん?」
 そうしてまた気づかぬうちにぼんやり箸を止めていた大鳳は、向かいの席めがけてふらりふらりと頼りなく飛んできた白く小さな物体を、しっかりと見留めることができてしまった。
「……紙?」
 少女たちの賑やかなざわめきに包まれている食堂で、そんな小さなものに目を留めているのはたった一人しかいなかった。だから大鳳の発した問いに、答えてくれるひとは誰もいない。となれば憶測にしても結論にしても、出すことができるのは大鳳一人だ。紙、だと思う、多分。手のひらにのせるのも憚られるほどに小さい、親指でつまむくらいがちょうどよさそうな紙の切れ端。誰かの捨てていったものだろうか? いやでも、それにしては。
「なんだか、変な形……、あ」
 そうだ。
 つまんだ紙切れに、頭の中のどこか、知らずうちに残っていたらしい記憶がふっと呼び覚まされる。そうだ、私はこれとよく似た形を見たことがある。海で。
 あの子と、雲龍と共に出かけていった、あの海で。私はこれを、よく見ていた。
「そうだ、これ……雲龍の式神、かしら?」
 雲龍は正規空母の中でも現在は唯一である、召喚型の艦載機運用能力を持っている。
 赤城や加賀、蒼龍や飛龍、そして言わずもがな瑞鶴と翔鶴などの正規空母娘たちは、基本的に特殊な霊力を宿した弓を引き、放った矢を艦載機へと変化させる変化型だ。軽空母娘でも鳳翔や祥鳳、瑞鳳、龍鳳などがそれに該当する。だからこそ彼女たちは基礎訓練に加えて弓の鍛錬を欠かさず行っており、弓道場のあたりを早朝のランニングで通りがかると、加賀と瑞鶴が弓を引いている光景が毎日のように見られるのだ。あんなふうに弓が引けたら、と思わないでもないが、艦型や装備可能な武装が異なるのと同じように決して変えられぬ事実として、大鳳にその艦載機運用方法は使用できない。自分のそれはいわば千歳や千代田などに該当する特殊型で、艦載機の種類を制御するスロットを装着したボウガンで発着艦を行うのが大鳳なりのやり方だ。
 また、それとは別に艦載機運用の方法としてあるのが、飛鷹や隼鷹、龍驤、そして雲龍も使用している召喚型である。彼女達は弓矢の代わりに式神を利用し、紙人形を憑代に艦載機を召喚する。水底より引き揚げられた魂をその身に宿す艦娘は、霊的存在ともいえる特徴を既にいくつか備えている。それをうまく用いた結果が彼女たちなのだろう、と大鳳は結論付けている。
 指導担当を任された場合、出撃や演習も基本的には二人一組でこなすのが我が鎮守府における規則だ。だから、大鳳がその召喚型の艦載機運用をあれほど間近で目にしたのは、雲龍のそれを見たのが最初だった。
 格好良い、と思ったことを覚えている。口にしたかもしれない、いや、したっけ。うっかりそのままをこぼしてしまって、しかもそれを雲龍に聞かれた。もっとも、並んで航行していることを考えれば当然の帰結ではある。それでも、ありがとう、とやけに早口で答えられたのには驚いてしまったし、自分の馬鹿正直ぶりにやや辟易もしたのだけれど、平素であれば静穏すぎるともとれる雰囲気を神秘的、或いは超自然的なそれに塗り替えた彼女の姿が、どうしても目を奪うものであったことだけは間違いない。馬鹿正直で素直な私自身が、それを何より証明している。錫杖に備えた巻物から式神を次々と撃ち出し、淡々と敵を屠る彼女はただ、ほかになんの言いようもなく格好良かった。
 多分その雲龍の姿を私は、自分で思っている以上によく覚えているのだろう。だって彼女が普段用いている紙人形は、今大鳳がつまんでいるものなんかよりずっと大きかったはずだ。なのに私、結構すぐ見分けられてしまった。なんだかそう考えると少し面映ゆいような気もしてくるが、ともあれどうしてこれがこんなところに、というのが最優先で考えるべき事項ではある。
「……んん?」
 食堂から見える窓の外に目をやったのは、正直な話、ただの偶然だった。
 しかし、隅の方にある茂みからちょこっとだけ見えていた、なにか、白い、白くてもふもふしてそうな、そんなものを見つけてしまい、それが何か即座にわかってしまったのは、今まで大鳳が見てきたもの、今まで大鳳が感じてきたことが作り上げてくれた、必然的な理解である。だって。
「えっと……どうしてあんなところにいるのかしら」
 だってあなたの長い長い、本当に長い三つ編みなら、私、何度か結ってあげたこともあるから、ようく知っているんだもの。よく縫い物や料理をしながら鳳翔さんが鼻唄で歌う童謡を、なんとなく思い出してしまう。ひよこがね。お庭でぴょこぴょこかくれんぼ。どんなに上手にかくれても――見えているのはあんよじゃなくておさげだけど。あと雲龍はひよこっていうより、ひよこに懐かれそうなタイプだ。頭を巣にされてしまいそう、という意味で。
 いや私は何を考えているんだろう、あわてて気を取り直し、飛んできた式神を両手で潰さないようそっと握って、大鳳は食堂の外へと出て行った。

 めっかってしまった雲龍は彼女からすれば珍しいくらいに金色の目をちょっとだけ丸く見開いていたから、ひょっとすると綺麗に隠れきれていたつもりだったのかもしれない。
「……大鳳」
 いつもとは少し違うふうにぽけっと呟いた雲龍に、彼女さながら後ろに長く垂れてしまっていた三つ編みを指さしてやる。すると彼女は一呼吸置いたのち、もそもそと三つ編みを手繰り寄せてしまった。いや、多分その行動はちょっと遅いわ、雲龍。
「これ、あなたのよね?」
 手に包んでいた紙人形を差し出してやると、雲龍は黙って頷き、それを受け取った。
 艦載機、というのは、空母娘たちにとっての武器であり、盾であり、そして目である。たとえ小さかったとしても、その意味は変わらないだろう。では彼女は、なぜそれを私の向かいまで届けたのか。大鳳には、その答えがまだわからない。大鳳には、雲龍のことはまだわからずにいる。ずっとそうだった。
 しばしの沈黙が流れる。聞きたいことはある。少なくとも大鳳のほうは、即座にいくつか思いつく。ひとつ、どうしてこんなところに隠れていたの。ひとつ、その小さな式神はいったいどんな意味があって飛ばしたの。雲龍にしておきたい質問はそういうふうにいくつかあった、のだが。
「ねえ、雲龍」
 そのどれもが、本当に自分が聞きたいと思っていることではない、ような気がした。
 茂みの影で三角座りをしていた雲龍の向かいに、大鳳はそっと膝をついた。正座である。わいわいと楽しそうな食事の喧騒が聞こえる中、脇の茂みの影でするには随分と畏まった向き合い方であるような気もするけれど。その馬鹿正直さも残念ながら私の特徴であり、先輩方がいうには特長であるそうなのだから、しようがない。
「あのね。話を、させてくれないかしら」
「……話?」
「そう。話がしたいの、雲龍と」
「わたしと」
「あなたと。」
 持たざるものがいつまでも持てるものを羨んでいたところで、それはどうしようもない話なのだ。
 私は、瑞鶴さんや翔鶴さんのように、器用に雲龍のことをわかってやれないかもしれない。けれど、たとえ器用さを持っていなかったとしても、あきらめられないのなら、ほかに自分が持っているものでどうにかするしかない。持てなかったことを悔いるよりも、今自分の手に何があるかを考えなければ、ひとは前には進めない。武器は違っても、私は、私のやり方で。
 なんて大げさな言い方をしてみたところで、馬鹿正直な私にできるやり方なんて、一つしかないのだけれど。
「あのね、雲龍のことが知りたいの。全部じゃなくていいけれど、少しずつでいいけれど……あなたがどんなことを考えていて、どんな思いでいるのかを、ちょっとずつでいいから知りたいの、私」
「……大鳳」
「だからね、聞かせて?」
 私にできるやり方なんて、一つしかない。
 まっすぐ、飾らず、偽らず。
 あなたの不思議な、だけれどとても綺麗な色の目を見て、あなたに、そのままを尋ねること。
「ゆっくりでいいから。全部聞くから、雲龍の考えていること、聞かせてほしいの」

 どこか頷くかのように俯いた雲龍は、しばらく黙ってから、ようやく口を開いてくれた。それほど続いた沈黙でもなかったのに、とても長かったような気がする。それこそ、一か月と少しの間くらいには。
「退屈では、ないの」
「え?」
「食事を終えても、大鳳の向かいにいること。退屈では、ないの」
「……そうなの?」
 雲龍がふらりと目線を持ち上げる。言葉を探している、ように見えたのは、気のせいだったのだろうか。それはわからないけれど。
「……おいしそうに食べるから」
「おいしそうに……って、えっ、あ、わ、私?」
「そう。大鳳は、とても、おいしそうに食べるから。……だから」
 なんだか恥ずかしいことを言われてしまっている。そうかそんなにわかりやすいのか私、というかそろそろ雲龍もだけれど私もこの伝わりやすさ、なんとかしたほうがいいような気がしてきた。さすがに熱くなってきた顔を覆ってしまう大鳳だけれど、どうやらその行動は、雲龍が次の言葉を選ぶに十分なだけの猶予を与えてくれたらしい。
「好きなの」
「すき、……っ、へっ!?」
「大鳳がご飯を食べているところ。……眺めるの、好きなの」
 ほぼ完全に止まってしまった思考に、雲龍の、調子が変わらない穏やかな声だけがしんと響く。
 調子が変わらない、穏やかな――いや、そうだろうか?
 そう、だっただろうか? わからない、わからないわからない、まだわからない、が。
「でも、わたしが傍にいると食べづらいのなら、と思って」
「そ、それは嘘!」
 わからないが、即座にそう口にできたのは、やっぱり、うん。
 わからないけど、わからないなりに、さっきの雲龍の声が少しだけ、ほんの少しだけ、沈んでいるように聞こえたから、だった。
「……うそ?」
「あ、う、嘘というか言葉のあやというか……と、とにかく食べづらいってことは、ええと、まあ、その、ないわ。ないから」
 ああなるほどそれで式神なのか、なんて、余計なところにばかり理解の及ぶ頭が今はかなり憎らしい。雲龍が少しずつでも教えてくれたことがなんだか綺麗に繋がってしまって、不都合なほど顔の熱くなる事実が見えてくる。
 なるほど、雲龍のことをわかってあげなくちゃって焦った私が口を滑らせた結果、彼女は食事中の私の傍にいることを迷惑なのではないかと思い。けれどこうして式神を飛ばしてくる程度には、そうして彼女だけの方法でこっそり見つめようとしてくる程度には、彼女は、どうやら、私の、ええと、わ、私のご飯を食べているところが、
「……じゃあ、いいの?」
「うん!?」
「見ていても、いいの?」
 すきだから。
 じいっとこっちを見つめる、彼女の瞳に。
 こんなにも溺れそうだと思ったのは、多分、初めてだ。
「ッい、……あ、いえ、……その、……ど、どう、ぞ?」
「……そう。」

 わかったこと、まずは、ひとつだけ。
 この「そう」は、いつか聞いた「そう」よりかは、とりあえずずっと、ずっと、うれしそうだ。

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