私には姉がいた。

 たとえば橙色の靄が等しくかかってみえるような、それはどこかありふれた過去の風景である。
 朝になると雀の賑やかな茅葺屋根の家。台所で薪の爆ぜる音、まな板の上で野菜の刻まれる音、湯を煮立たせる鍋の蓋が、持ちあがっては縁にぶつかる音。
 ふっくらとした米の炊ける匂い。なだらかに広がる田園風景。背の高いすすき、枝から下がるからすうりの鮮やかな色、赤とんぼ。時折山を下りてきてはまた去ってゆく、狸だの鹿だのの動物たち。
 これは、私の昔の話だ。
 道を歩いていた。昨日雨が降ったばかりで、まだ少しぬかるんだ道は、日暮れの色にじりじりと照らされている。
 その上に、くっきりと長い影が残っている。背の高いものがひとつ、中くらいのがひとつ、そしていっとう低いのが、相中に挟まれて、ひとつ。
 あるいは鼻緒の切れた下駄を引きずり、またあるいは膝の擦りむいた足を引きずり、私たちは道を歩いている。
 声が聞こえていた。子どもの、女の子の泣き声だ。しかももし種類で分けたとしたら、きっと対極の位置に置かれてしまうであろうものが、なぜだかやけに近いところで、二つ。
 一つは私の右側、最も背の高い影から聞こえている。これはどちらかというと洟を啜る音の方が大きく、泣き語へ自体はひどく噛みしめられた、抑え込まれたものである。しかし時折やりきれなくなったように、ひ、ひ、としゃくり上げるのも聞こえてくる。
 そしてもう一つは、私の左側、中くらいの影から聞こえている。こちらは先ほどのものと比べて、なんと言おうか、とても潔い。たとえば甲高く繰り返し打たれる鐘のように、わぁんわぁんとあたり一面に響き渡っている。無論頬を伝う雫とてひどく大粒で、既に泥だらけに汚れていた顔を、さらに悲惨なものにしていた。
 三人並んで、道を歩いていた。右手の先、二番目の姉にあたる「やましろ」と、左手の先、三番目の姉にあたる「いせ」と、そして末の妹にあたる私の三人で。いせは大泣きし、やましろは鼻を啜り、そして私は、両目に溜めた涙をぎりぎり零さぬまま、擦り傷と泥に汚れた両手に、びりびりに破られ骨の曲げられた凧を抱えて。
 このままもうなにもかもうまくゆかないで終わってしまうのだ、などとひどく途方に暮れたまま、私たちは家路を辿っていた。
「ああ……ああ、やましろ、いせ、ひゅうが!」
 道の先から、声が聞こえてきたのはそのときだ。
 草履の足音が、あっというまに近づいてくる。私たちは三人揃って顔を上げ、そして、思うに顔を上げていられないほどの顔をした。そのくせ、今の今まで引きずりのろのろと歩いていた足を途端に蹴りだし、躍起になって声と足音のほうへと駆けて行った。
 華奢な両手をしっかと広げ、心配をいたくあたたかなほど露わにした顔でこちらまで駆けて来てくれていた、一番上の姉、「ふそう」のもとへと。
「あなたたち、いったいどこへ行っていたの!? しかも、こんなぼろぼろになって……!! ああひどい、みんな傷だらけじゃないの!」
 四人姉妹の中ではもっとも大きいが、しかしまだ小さくか細かったはずの身体で、私たちを三人まとめてきちんと受け止めてくれたふそう。さっきよりずっとひどくしゃくり上げるやましろの肩や、喉も嗄らさんばかりに泣き声を上げるいせの背、そして私の頭を、髪や着物がくしゃくしゃになるほど撫でてくれる。
「ね、泣いていてはわからないわ。何があったのか、姉に教えてくれる?」
 ふそうはとても優しい声で、私たちに語りかけてくれた。それでいくらか気が落ちついたのかといえば、しかし残念ながらそうではない。心細さは安心感で決壊し、結局のところ私たちは、もうめちゃくちゃな順序で話をした。さほど長い間のことでもなかったのに、日暮れの空がすっかりほの暗くなってしまうまでかかってしまったのは、そういうわけである。
 鼻水と涙交じりの話を纏めると、事の顛末はこうだ。
 三人で少しずつ小遣いを貯めていた瓶が、昨日いっぱいになったから。性格もてんでばらばらな三人ともが、たったひとつ共通して大好きな姉に、なにか贈り物を買いに行こうと言い合って。昼過ぎ、姉上が本を読んでいるうちに家を抜け出して。越えてはいけないと言われている垣根を乗り越えた、けっして行ってはいけないと言われている町に行った。たくさんの寄り道の誘惑をなんとか振り切り、駄菓子屋の軒先に売られている、絵の綺麗な凧を買った。
 帰り道、手に手に石や木の棒を持った、町の子どもたちに取り囲まれた。
「さいしょに、やましろがいしをなげられた」
 そうふそうに告げたのは私だった。覚えている。というのも、ほかの二人はとうとう泣くだけになってしまって、あとふそうに話ができるのは私しか残っていなかったのだ。だから。
 だから私は、時折奥歯をぎりぎりいうほど強く噛みしめては、またふるえる唇を開いて話し続けた。その間ずっと、ふそうは、――姉上は、白い着物が汚れるのも構わずずっと両膝を地面につき、私の顔を正面から覗きこんでくれたままだった。
「そしたら、いせが、うしろからきたやつにあたまをはたかれて。やりかえそうとしたら、みんながうでをおさえてきて。……ばけものだって、たいじしてやれって、それで」
「ひゅうが……」
「たこ、ずっと、はなさなかったのに、とりあげられて。やぶいてやれって、でっかいやつが、いって。でも、これは姉上のだから、まもろうと、したのに。……した、のに」
「ひゅうが、わかった。もういい、もういいわ」
 少しだけ笑った姉上に、おいで、と言われた。耳にしんとしみる、普段どおりの声で。耳というのでなく、胸や心で覚えている、透明に優しいあの声で。
 あれを聞くともう駄目なのだ。私が涙を堪えられていたのも、確かそれまでのことだった。
「さあ、寒くなってきたわ、みんな家に入りましょうね。あったかいお味噌汁も、炊き立てのご飯もあるわ。お腹がいっぱいになったら、お風呂に入って、たくさん眠りましょう。……それから、凧、ありがとうね」
 ふそうのそんな言葉を聞きながら、私たちは三人そろって、わんわん泣いていた。


 茅葺屋根の少し広い家で、私たち姉妹は四人暮らしをしていた。
「ひゅうが、ひゅうが! ほらみてみて、このわっかの中をとぶあそびがあるんだって! わたしがいーっぱいかいてあげるから、ひゅうがはとびなさいな!」
 三番目の姉のいせは、私とひどく良く似た顔立ちの、明るい姉だった。性格が明るい、というのはつまるところ喜怒哀楽の振れ幅がわかりやすくはっきりしている、という意味で、思い出せる限りでもいせはよく泣いたし、それ以上によく笑った。楽しいことを探し出す天才で、新しい遊びを考え出すのは大抵いせだった。必ずその遊びに最初に付き合わされ、さんざ実験台めいたことをさせられるのは私だったので、よく覚えている。そして、気に入らないことがあると、なぜか仁王立ちになって憤慨するという癖があった。
「外でなんか遊ばないわ、わたしは姉さまのおそばにいるの……ひゅうがもここにいるの? べ、べつに……姉さまとわたしのじゃまをしないのなら、どっちだっていいわ……」
 そんないせの憤慨とよくぶつかり合っていたのが、二番目の姉のやましろである。いせが喜怒哀楽の間を飛び回っているとしたら、やましろは怒と哀の間をふらふらと歩いているような姉だった。とにかくいつも機嫌が悪く、口を開けば卑屈なことばかりをぶつぶつ言う。憎まれ口も叩くが喧嘩は弱く、いつもいせに負けては部屋の隅でまたぶつぶつ言う。ただ時たま無言で菓子を半分わけてくれたりと、ぎこちない施しをしてくれるので、心根の優しい人ではあったように思う。
 そして、いせや私とはあまり普段から仲良くしないやましろもべったり懐いていたのが、他でもない長姉のふそうだった。
「ひゅうが。ひゅうが、こっちにおいで」
「はい。なんですか、姉上?」
「ほら。この絵を見てごらんなさいな」
「……たいよう、ですか?」
「ああ、いえいえ、その下。ほら、太陽の光が当たって、ぽっかり明るくなっているところがあるでしょう?」
「はい、あります」
「これはね、ひなた、というの」
「ひなた?」
「そう。お日さまの当たる、とても温かい場所のこと。ひゅうが、あなたの名前のことよ」
 読書家で、物知りで、いつも私たち皆のことを優しく導いてくれる。どんなときにも笑顔を絶やさない、私たち姉妹の大好きな姉だった。だからこの話を聞いたとき、もしかすると「ひゅうが」という名を与えられるべきは姉上だったのではないかと、少し心配になったものだ。そう言うと、姉上はおかしそうにしていたけれど。
 やましろと揃いの紅の瞳に、やましろよりもずっと長い黒髪。それから私やいせとはなぜだかまったく異なるように見えた白磁の肌を持つ姉は、幼い私ですらそうとわかるほど、美しいひとだった。
 いや、正確に言うと、それは少し違ったのかもしれない。というのも、四つか五つかの頃、私はふそうのよくいる、どこかしらから運び込まれてきた古本がたくさん積み重ねられた狭い部屋に、こっそり足を運ぶのが楽しみだった。もちろんふそうにべったりなやましろの居ないときを狙わねばならなかったし、なによりふそうの読んでいた本はまだ私には難しすぎたのだが、あの乾いた匂いに満ちた部屋にいるだけで、なぜだか心が躍ったのだ。
 それでも少しだけ読んでみようかと、最も手近にあった分厚い一冊を手に取ったのは、確か三度目に忍びこんだときのことだった。外ではいせとやましろがまた喧嘩をしていて、軒先で水を撒いていたふそうがそろそろ止めに入る頃合いだった。私はやたらと重い本を難儀しながら開き、ひらがなだけを広い集めるように読んでいった。それが国語辞典であったことに気が付いたのは、だいぶ後になってからである。
「う。うつくしい。きよらかであること。こころをうつ、かんどうをよびおこすもの。こと。ひと」
 指でなぞりながら、ゆっくり読んでいく。美しい、という言葉をしったのは、つまりあのときのことで、
「……姉上のことだろうか」
 幼かった私は何の疑問もなく、すとんとそう思い当たってしまった。そこに並ぶ文字のすべてがあの姉上にぴったりだと、私は理解していた。言葉の意味を言葉でとらえるより、もっと真摯に、もっと深く。
 だから私はその意味を後になって言葉で理解してからも、美しい、という言葉を耳にするたび思い浮かぶのは、いつもふそうのことだった。
「あ、姉上! あの。ええと」
「あら、ひゅうが? どうしたの、恥ずかしそうにして。ふふ、いせと遊んでいたのではなくて? さっき探していたみたいだけれど」
「いえ、そう、なのですが。えっと、でも、姉上!」
「なあに、ひゅうが」
「あ、姉上の、かみは。う、ええと、うつく、うつくしい、ですね」
 きょとんと紅い瞳を丸く開いた姉は、それからたおやかな仕草で手を口元にあて、くっと笑ったようであった。
「ふふっ、まあまあ、ひゅうがったら。あなた、どこでそんな言葉を覚えてきたのかしら?」
 ありがとう、と笑うその姿は、陰日向にて淑やかに咲く、一輪の花にも似て。
 まだ齢十二ほどであったはずの私の姉は、それでも、とても美しかった。
 そんな四人で暮らしていた私たちだが、強いて言えば他に、朝夕の二回食事を作り買い出しをしてくれる女中さんのような人が出入りしてはいた。が、私たちと彼女らの間に、それ以外の接点は生まれたことがなかったように思う。彼女らは私たちが話しかけようとするどころか、傍に近寄るだけでそそくさと逃げてしまうし、しかもひっきりなしに交代してしまうのだ。顔も名前も、覚える時間を与えられぬうちに。
 彼女たちが誰に何を頼まれてそんなことをしてくれているのか、そしてなぜすぐ辞めていってしまうのか。意識の生まれる前から「そういうもの」だった私たちには知る意思が与えられず、また質問は許されなかったから、その機会も与えられなかった。そしてなにより、女中さんたちの他にも、私たちには「そういうもの」である事柄や掟に、数多く囲まれていたから。
 たとえば、家からすこし離れたところにある、ぐるりと円に囲っている垣根を、けっして超えてはならないということだ。縁側からでは見えないが、家を出て二分も走ればその高い高い垣根は見えてくる。こちらとあちらをはっきり隔てるための境界線。私たちを囲い込み、守るように見えて――その実、外側にいる人々の安堵のために作られたもの。決して町に出てはならない、他の人間と話をしてはならないという掟も、多分に同じ理由で言い聞かせられていた。
 それから、平日は毎日昼から日が沈むまで、「けいこ」をしなければならないという決まりもあった。女中さんと同じようにまともな会話はせず、そして頻繁に交代する師匠が時間になるとやってきて、様々なことの稽古をつけた。剣道や柔道、居合、合気道、弓の引き方まで。身体を作るためだとかいって延々と辺りを走らされることもあったし、精神鍛錬のために真冬の川に入らされたこともあった。
 他の妹たちと違い、長姉のふそうはあまり身体が丈夫でない。だから稽古のあいだ何度も顔色を悪くし倒れそうになるのだが、どの師匠も手加減をしなかったし、なによりふそうがそれを望んでいなかったように思える。いせややましろも稽古の時間がくるたびふてくされたり辟易したりしていたし、私だって師匠のことが好きでなかったが、それでも稽古に精を出したのは、その姉の姿を見ていたからなのだろう。
「ああ、いたいた、ひゅうが。探したのよ、なにをしているの?」
「姉上。いまは、すぶりをしていました。せんせいから、かたちがわるいといわれたので」
「まあ、そうなの? ひゅうがは稽古にとても熱心なのね。確かに粗削りだけれど、あなたはとても強いみたいだし」
「つよい、ですか?」
「ええ。ひゅうがは、強くなりそうね」
「……つよくなりたい、です」
 身体の弱い姉が、無理をして立ち上がる姿を見ているばかりではいけないと思ったのか。姉上が守ろうと頑張らなくても良いよう、守られる必要もないほど強くなろうと思ったのか。
 今の私には、――汗と泥に塗れてなお立ち上がり見たあの風景を、あまりにも遠くに行き過ぎてしまった私には、もう、はっきりしたことはわからないが。


「ねえ、みんな。姉とかくれんぼをしませんか」
 ふそうがそう言ったのは、私が八つ、いせが十、そしてやましろが十二になった年の春、からりと晴れた昼のことだった。その日は稽古のない土曜日だったので、私たちは朝餉をたっぷりいただき、庭で独楽を回したりゴム跳びをしたりして遊んでいた。
 いつもだと、ふそうはそんな私たちを見て、縁側で本を広げている。だがなぜかその日だけ、姉上は私たち妹三人ともをみな集め、わくわくしたような顔でそう言ったのだ。
「しましょうよ、姉も久々に遊びたいわ。ね、鬼は姉がやるから」
「じゃんけんはしないのですか?」と驚いたような、でもふそうと遊べるのが嬉しいような顔を隠せずにいるやましろが尋ねると、ふそうは首を振った。
「鬼がやりたいの。見ていなさいね、姉がみんな見つけてあげるから」
「ふっふーん、どうだか! ふそう姉、わたしはぜったい見つかりませんよ!」いせが手まで挙げて元気に言う。一つ上の姉のやる気は十二分のようだ。さあどうかしら、とふそうがくすくす笑う。
 絵本を読み聞かせてもらったり、勉強を教えてもらったりはしたものの、姉上と身体を動かして遊ぶのはどれくらいぶりだろうか。なんとなく、私は黙っていた。
「さ。みんな、今から姉が百数えるから、その間に隠れなさい。ちょっとでも音を立てたり、動いたりしたらすぐに見つけてしまうから。がんばって隠れてみなさいな」
 ふそうらしくなくからかうような、挑発するような言葉に私たちはみな俄かに沸き立った。
 姉上と久々に遊べる、というのもそこに加わって、いつもは渋々としか参加しないやましろも、そしていせに付き合っているつもりでいた私も。ふそうが庭の真ん中でしゃがみ、いーち、にーい、と数えはじめたころには、絶対に見つからない場所に隠れて、ふそうをびっくりさせてやろうという気で満々だった。私たちは一瞬顔を見合わせたのちぱっと散って、急いで互いのだれよりも優れた隠れ場所を探しに家じゅうを駆け回った。
 私が隠れたのは、台所の床下、梅干しや糠漬けやなんかの壺が仕舞われている場所の物陰である。とても狭いところだったが、だからこそ良いと思ったのだ。私は姉妹の中でもまだいっとう背が小さかったし、姉上には持ちえない目線の場所に隠れることができたと誇らしくすらあった。
 冷たい壺にあまり触れ過ぎぬようぎゅっと身体を縮めて、私は息を潜めていた。今いくつ数えたところだろう、あとどのくらいで探しに来るだろう。やましろやいせならもしかしたら知っていたのかもしれないが、姉上はかくれんぼが上手なのだろうか。ほかの姉たちは、どこに隠れたのだろうか。
 見つかるまいと思って隠れていたのは確かだが、しかしいずれは見つかりたいと思ってたことも否めない。なるべくならいせよりもやましろよりも後に、たったひとりだけ長いこと探されて、その挙句に見つけられたかった。ひゅうが、ひゅうが、と姉が私の名を呼ぶのをここでたくさん聞いたのち、たとえば壺を順々にどかしたあと、暗い視界に射しこまれた光の向こうで、見つけた、と微笑まれてみたかった。
 だが、だからこそ、それまでは見つかるわけにはゆかないのだ。幼い私はさらに小さくなり、もっともっと息をひそめる。
 どれくらい経った頃だろう、足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……?」
 複数の足音が。
 いせややましろがもう見つかったのだろうかとほんの一瞬だけ考えるが、それはすぐに他でもない自らの耳によって否定されてしまう。違う、いせややましろの足音ではない。姉上の足音ですら、きっとない。床を踏み鳴らす低い音。どっどっどっ、と小走りに近づいてくる。
「くそっ、こっちにもいない」
「よく探せ。区画の外には出ていないはずだ」
「この忙しい時に、手間をかけさせてくれる……!!」
 複数の――たくさんの足音と、苛ついたような声が。先程までとは全く異なるふうに、身体が縮こまる。誰。誰だ。男の声。男たちの声だ、私たちを、探している? どうして? なにを、するために?
 ちょうど蓋の上を誰かが踏んでいったとき、私は身体がびくりと震えるのを、とうとう止めることができなかった。肘が微かに、ほんの微かに、壺にぶつかる。
「……今、何か音がしたか?」
 身体じゅうを流れる血がいっぺんに冷え切ってしまったかのようにぞっとした。怖気が走る。何度も走る。心臓が痛いほどに脈打ち始める。息を潜めたいのに、苦しくてなかなかうまくゆかない。台所を荒らすような音が、上から聞こえてくる。鍋をひっくり返す音、食器の割れる音。棚の戸を乱暴に開け放つ音。そのたびごとに、心臓の音は大きくなっていく。耳鳴りがしそうなほどに。男たちは、私のことを探し続ける。
「そこの床下はどうだ?」
 飛び上がりそうになるのを、すんでのところで堪えた。蹲って、握っていた腕にぎりりと爪を立て、血が滲みそうになるまで握りしめた。痛みで恐怖を押さえつけようと躍起になって、私はぎゅうっと目を瞑る。目元がびりびりするほど瞑る。それでも、蓋が開かれたことによる光が、目蓋の向こうから瞳を突き刺してくる。怖い。だれだ。なんで。私たちを、どうするつもりで。いせ。やましろ。姉上。――姉上。
「いや、なにも見当たらんな……」
「チッ、鼠かなにかか? まあいい。ここはもう探すところもないな……他を当たるぞ」
「わかった」
 あねうえ、

 足音が遠ざかっていって、家じゅうが静かになり、やがて夜になると、あたりからはいつも通りに虫の鳴き声が聞こえ始めてきた。それでも私は随分長いこと身体を動かせずにいて、このまま壺のように固まってしまうのだろうかとすら思えていた、そのときだ。
「ひゅうがっ……ひゅうが!! ねえ、居ないの!?」
「っ!!」
 いせの声だ。
 関節も筋肉もひどく固まっていたが、その確信はそれらを打ち砕くだけの力をただしく持っていた。声を上げることはあいにくできなかったが、私は入ってきたのとは逆の手順で壺に足をかけ、蓋を思いきり押して、ついに外へと顔を出した。澄んだ空気が、頬を打つ。
「ひゅうがッ!」
 荒らされ、変わり果てた台所の入り口で、ひどい顔をした伊勢が立っていた。「いせ、」その時になってやっと、私の喉が仕事を思い出す。「ひゅうがっ、ひゅうが、ひゅうがぁ、よかった……!!」飛びついてくるいせの身体をもちろん受け止めきれず、私たちはあちこち陶器の欠片の散る台所の床で、見事に尻餅をついてしまった。
 だがいせの身体に触れ、痺れきってしまっていた頭が、凍りついていたようであった心が、すこしずつすこしずつ体温を取り戻していく。何があったのかを、理解するときだった。理解しなければならないときだった。
 泣きじゃくるいせだって、ずっと身を隠していなければならなかったというのは無論私と同じだった。だが縁の下の隙間に空いた穴、大人には覗きこむことすら敵わないような場所にて身を潜めていたやんちゃな姉は、しかし外にとても近かったがゆえに、私では知り得なかったことをいくつか知っていた。
「ふ、ふそう姉が数かぞえきってもうごかないから、変だなって思って。でも、出ていこうとしたら、黒い車が……ッ、車が、たくさん、表に止まって」
「くろい、くるま……?」
「いっぱい、大人がおりてきてっ……そ、そいつ、そいつらが、ふそう姉のことも、やましろのことも、連れていっちゃったんだ……!」
 まだ隠れることができていなかったのか、それとも隠れていたのに見つかったのか――ああ、ああ、そういえば、なんということだ、やましろは、かくれんぼがあまり得意ではなかった――やましろと、そしてふそうの二人は車に乗せられ、どこかへと走り去ってしまったそうだ。私たちを探すのを、諦めてしまったあと。
 一晩中泣き止まなかったいせが疲れ果てて眠ったのは、夜明け近くになってからだ。押し入れの中も端からひっくり返したのだろう、床じゅうにばらばらと散った布団で、夏用の薄いのと冬用の分厚いのをめちゃくちゃにきて、いせはようやく寝息を立ててくれた。もう二度と消えないのではないかと思えるほどくっきりと、頬の上に残った涙の痕。私はそれを一度だけ指先で擦ってやって、雀の鳴く薄靄の中、そろりと立ち上がった。
 足が向かった先は、やはり例の本の部屋だった。いくらなんだって、あんなにぴったりな時にかくれんぼを始めるわけがない。ふそうはきっとなにかわけを知っていたのだ。そう思って、なにか手がかりがないかと探しに行ったのが半分。
「……姉上」
 残り香のひとつも期待せずにはいられなかった、というのが、もう半分だ。
 室内はもちろん酷い状態だった。本棚がないため積み重ねられこそしていたが、それでも整然と並んでいた本は、すべてがぐちゃぐちゃに倒されて、あちこちに山を作っていた。ページや表紙の切れ端が、床に散らばってしまっている。乾いた紙の匂いはぞっとするほどに濃く、私が抱いていた後者の期待は無残にも打ち砕かれてしまった、というほかない。
 だが前者のほうは違う。「うん?」折り重なる本の山のあいだで、「それ」は一つだけ異彩を放っていた。肌色や乳白色の重なりの中、姉たちの瞳とはまた違った赤を放っていたそれは、文字通り異なる彩であった。だからこそ目立ち、わずかに視界がぼやけていたようであった私でも見つけられたのだ。 
 それは赤い赤い、封筒であった。封は既に切られており、だが私はそれがいつ届けられたものなのか、誰から届いたものなのか、何一つ知らなかった。そもそも私たち姉妹に手紙など届くわけがない。姉は、そんな話を一度だって私たちにしなかった。消印は、一昨日のものになっている。
 ひっくり返すと、薄い便箋が一枚きり、さらりと落ちた。なぜだかやたらと緩慢な仕草でそれを拾いあげる。ざらついた手触りの紙に、冷徹なほど整った文字が均等に並んでいた。手習いの折、姉が書いてみせてくれた文字の記憶とは似ても似つかない。それが手書きではなく印字されたものであると見抜く力すら、私には足りていなかった。
「し、シュウ、ショウシュウ、レイ……レイ、なんだ? コウクウ、セン……たたかい……? ヤマシロ、い、イ……もしかして、イセ、か……? じゃあ、これがフソウ、こっちが、ヒュウガ……?」
 日付、知らない誰かの名前、「召集令状」。その後に並べられていたのは、私たちの名前だった。だが、知らない書かれ方をしている。扶桑。山城。伊勢。日向。――「以下四名の艦娘に鎮守府への出征を命ずる」。
 わからないことだらけ、わからない言葉だらけの中でも、私は何度も何度もその手紙に目を走らせた。そのうちに床から辞書を、私が初めて手にしたところの本である辞書を手に取り、ひとつひとつ読みや意味を調べていった。それが言葉やものの意味を記したものであるとは知っていたが、引き方を知らずにいた私は、およそ数千ページにわたる分厚い辞書を一単語ごとにすべてめくりながら探し、解明していかなければならなかった。また、辞書を引いただけでは意味のわからなかった言葉は、部屋じゅうに散った本をひとつひとつ開き、同じ文字がないか漁ることで理解して言った。
 気の遠くなるような作業だったが、辞めるわけにはいかなかった。それでも時間がかかったことだろう。それこそ、疲れ果てて眠ったはずのいせが、とうとう起きてくるまで。
「ひゅう、が……? なに、してるの?」
「……いせ」
 私はそのとき、どんな顔をしていたのだろう。今になっても、そんなことをふと考えるのだ。
 汚い走り書きを紙にしつくし、とうとう床まで鉛筆で引っ掻いて、手紙を読み解いたあのときの私は。私は、どんな顔をしていたのだろう。
「かんむすめ、って、しっているか」
 唐突に、疑問ですらなかった色々なことへの理由付けがはっきりしていった。
 まだ幼い頃から、私たち姉妹が四人きりで暮らしていたこと。垣根で覆われ、無機質に世話役をあてがわれ、外との関わりを絶たれていたこと。それだのに、なぜだか厳しい鍛錬だけは受けさせられ続けたこと。――そしてあの日、あの凧を買って帰った日に、子どもらが私たちをバケモノと呼んだことやなんかの、理由が。
「いせ、つまりわたしたちは、ふつうのにんげんじゃあない。かんむすめ、っていうそんざいなんだ」
「か、かん、むすめ……?」
「そうだ。ぐんかんの、たましいをやどすためのしょうじょのうつわ。おくにのてきと、たたかうための」
「う、うつわ? お国の敵……? ねえひゅうが、さっきからなにを言ってるの、ぜんぜんわかんないよ……!!」
「たぶん姉上たちは、たたかうためにつれていかれた」
 ただひたすら戸惑っていたようであったいせが、また頬に涙を落してしまいながらも、私のその言葉に、ぎしりと表情を固める。
 出征、は、軍に属すること。鎮守府、は、海軍の拠点のこと。疲れ果てぼんやりと熱をもってしまったような頭で、私は漸く理解していた。姉上たちは、そこで国の敵と戦うために、連れていかれたのだ。あの男たちに見つかって、連れていかれたのだ。
「……きっと、姉上は、」私たちの、優しい優しい姉上は。「わたしたちを、にがそうとしてたんだ」
 やましろ、いせ、ひゅうが。こっちにおいで。
 みんな、姉とかくれんぼをしませんか。ね、みんなで、いまからかくれんぼをしましょうよ。
 鬼は姉がやるから。あなたたちは、しっかり隠れていなさい。
 ちょっとでも音を立てたり、動いたりしてはだめ。がんばって、隠れていなさい。
 けっして、けっして、みつからないように。
 どうか――かくれて、いて。
「いせは、どうする」
「どう、って」
「わたしはいく。……わたしは、姉上たちのあとをおう」
 いせはしばらく黙っていたが、しかし唐突にぎゅううっと強く目を閉じ、目蓋の辺りに引っかかっていた雫を無理やりに押し出した。最後の一滴がぽとりと床に落ち、いせが顔を上げる。温かな、けれども震えている手が、私の身体をがっしと掴んだ。
「ひゅうがが行くなら、わたしも行くに決まってるでしょ。一人でなんか、行かせない!」
「……そうか」
 ありがとう、と言ったら、いせはひどく怒った。二度とそんなことを私に言うなと、ひどく怒った。
 今でも、この話をするたび、いせは――伊勢は、このとき礼を言った私のことを思い出しては怒る。


 こうしてかつての伊勢型戦艦伊勢、そして日向の魂の憑代となった私たちは、新たに伊勢、日向として戦いの日々を送ることとなった。
 魂を受け容れる、というのがはたしてどういうことなのだか私には想像もつかなかったし、不安が無かったかといえば嘘になるが、思っていたよりもその影響は少なかったといってよいのだろう。もしかすると記憶のひとつも飛ばされるのかと、直前になってからしか思い当たらなかった私も私だが、特にそういうこともなく戦艦日向としての新たな記憶を受け入れただけだった。開発部の連中によれば、もとより魂の概形が合う者が適合者として選ばれるのだから、心のありようや身体にそこまでの変化は及ぼさないものらしい。ただ一点戦闘力は、もちろん比べ物にならないほど強化されるそうだが。
 もっとも鎮守府が複数あり、配属先が自由に選べないというのは計算外だったとしか言いようがない。私たちが後を追ってきたはずの姉たちは、私たち伊勢型が配属されることとなった鎮守府にはいなかったのだ。(噂くらいならそれでも耳にはしたのだが、なんだかそれは元の姉を知る私たちには随分荒唐無稽なものに思えていたので、あの時の私たちにとって姉の行く末を知る手がかりはほぼないに等しかった。)
 だが同じ海で戦っているのなら必ずまた会えるに違いないと、私にせよ伊勢にせよ強く信じ込んでいた。それは、長く続いたさらに厳しい訓練に耐え抜くため、私たちにとって必要な礎でもあったのだろう。いつかまた、姉たちに会える日が来るに決まっているから。だから私たちは鍛え、強くなり、生き残っていなければならない。血反吐も吐けなくなるような日々で、薄汚い泥水の上澄みを啜って生きるには、そう信じるほかなかったともいえる。
 しかし――日々をすんでのところで踏み堪える私たちを嘲笑うかのように、時ばかりが無情に流れていった。
 いくつかの鎮守府を転々とし、お国の敵、引いては世界の敵と呼ばれる深海棲艦どもを沈め続け、航空戦艦への改造を受け。あれほど鮮やかだった記憶に郷愁の影が濃く射し始める頃、私はとうとう十九になっていた。
「うえぇぇ、また異動ー!? ここのところやけに多くない!?」
「戦況が揺れ動いている時なんだ、仕方ないだろう」
 頓狂な声を上げる伊勢の文句を聞き流しながら、ほぼ寝るためだけにしか使っていない部屋の壁に寄りかかり、私は先刻提督より頂いた辞令に目を通していた。伊勢と日向、伊勢型航空戦艦の二名にべつの鎮守府への移動を命じるものだ。
「だが、そう嫌がるものでもないかもしれないぞ。今回ばかりはな」脱力したように寝転がる伊勢に、私はそう言葉を投げかけてやる。というのも、行き先の鎮守府ではどうやら航空戦力がたいへん枯渇しているそうで、話に寄れば別の鎮守府にも辞令を出しているそうなのだ。たとえば正規空母、たとえば軽空母、たとえば航空巡洋艦――そして、ほかの航空戦艦。
「航空戦艦といえば、今のところ私たち以外には艦型一種しか見つかっていない」
「あ……もしかして、扶桑型!?」
 伊勢の負の感情も正の感情もすっぱり表に出るところは、今も変わらずである。古くさい藺草の匂いのする畳からがばりと身体を起こした伊勢は、途端に目を輝かせた。「ってことは、扶桑姉や山城たちに、会えるかもしれないのね!」
「確証はないがな。すくなくとも今までの異動より、その可能性は高いだろう」
 直後、隣の部屋から壁を叩かれるほどの歓声を上げた伊勢を私は慌てて諌めたが、私とてこれほど心待ちにしてしまった異動は初めてだった。
 山城は元気にしているだろうか、あのふてくされた性格もすこしはましになったのだろうか。姉上はあの美しい姿のままで戦場の海に出ているのだろうか、身体に傷など残していやしないだろうか。心の奥底で再会を信じ込んではいても、徐々に徐々に話題にすることの少なくなっていた姉たちのことを、私と伊勢は異動の日を待ち毎晩のように遅くまで語り合った。あれほど昔の思い出話をしたのは初めて、そのたび伊勢は幼い私にちょっかいをかけからかったことばかりいうので、少々憮然としたものだ。
 だがもっともばつが悪かったのは扶桑の話を出された時で、なんだかんだで(若しくは余計なところでばかり)ものごとをよく見ている伊勢は、「日向って扶桑姉のことだーい好きだったものねぇ」と、いっそ子どもめいているほど意地の悪い顔で笑った。
「な、……なんだ、いきなり」
「べっつにー? あー眠い眠い、さ、明日は異動で早いんだしもう寝よーっと」
「待て、伊勢。なぜそう思ったんだ、聞かせろ!」
「ひーみーつ。思い出してみてもわかんないんなら、どうせ言ったってわかんないわよ」
「言ってみなければわからんだろう、言え!」
「あーうるさいうるさい。とっとと寝ろ日向」

 十九年の人生のうちで心底実感してきたこととしては、予感とは概ね悪いものしか当たらない、だったが、その時ばかりは違っていた。
「うっ、わーああああ! 扶桑姉、それに山城! すごい、すごい久しぶりです……!!」
「へ、は? え、なに……あなた、もしかして伊勢? と、日向?」
「あら、まあ……」
「……お久しぶりです、山城。それに……姉上も」
 見紛うはずがない。迷うはずがない。たとえ重い艦装に身を包み、少女をとうに脱した女性になっていたとしても。私と伊勢が、姉たちを見つけられないわけがなかった。
 礼のみで済ませるというのも薄情である気がしたが、伊勢のように無邪気な抱き着きかたは私にはできない。そもそも抱き着くなどという行為が似合わないのだが、どうしたものか。「ちょ、伊勢、苦しい! あと暑い、うっとおしい、邪魔!」「きゃー山城、その辛辣さ全然変わらない!」まるで時計を戻したかのようにはしゃいでいる伊勢と山城の横で、私はしばし惑っていた。その清らかさに磨きをかけ、息を飲むほど美しくなっていた自分の姉を前にして。
「……日向。噂は聞いていましたが、やはり伊勢型戦艦として戦っていたのは、本当にあなたたちだったのね」だがそんな私に、姉上はそう言いながらそっと手を差し出してきた。私は一瞬面喰ってしまったが、慌てて道中の潮風にべたつく手を袖で拭い、差し出された手を握る。握手、私にはちょうど良いくらいの親愛のかたち。あの戦場に在るとは思えないほど華奢でなめらかな手をしていた姉は、細い指先にそっと力をこめ、きゅ、と握り返してくれた。なぜだか途端に骨ばって皮膚も固くなった自分の手が恥ずかしくなってきたが、その戸惑いも丸ごと包むような優しい笑みを、扶桑は浮かべてくれる。
「そう。辛かったでしょうね……けれど、強くなったのでしょうね。伊勢も、日向も」
「……はい、」
 私は自分でもそうとわかるほど深いところから声を出し、そっと頷いた。とうとう山城を観念させた伊勢は、なんだかんだで最も懐いていたと見える一つ上の姉にくっついたまま、満足そうな笑みを浮かべている。誇らしそう、と言ってもよかったのかもしれない。まるで今までの苦労が端からすべて報われてきたような、そんな気持ちで。
 少し気障ったらしいかもしれないと思いもしたが、私は片手を胸に、そして扶桑の手をもう片方の手で捧げ持つように握り、両目を閉じる。
「はい。これからは、お側でお守り致します、姉上」
 私は、そのために強くなってきたのですから。
 黙って微笑んでいた姉上の手は、――とても、とても、冷たかった。


 その夜私は久々に、懐かしいあの頃のことを思いだしていた。
 排除されなければならない、目障りだとみなされているものは、たとえ身の程をわきまえて大人しくしていたからといって、まったく害されずに済むことはあまりない。不気味なものとか、恐ろしいものとか、醜悪なものとか。そういったものは存在自体が弾劾されるべき罪なのであり、たとえ普段目に入らなかったからといって、突然思い出したように攻撃されたとて文句は言えないのだ。
 あの頃の私たちだって――周囲から化物と呼ばれていた、艦娘候補の私たちだって、きっとそうだった。
「おまえらは兵器なんだ。恐ろしい兵器だ!」
「兵器っていうのは、他の奴らを殺すための道具なんだろ。だったらおまえらは、生きてるだけで悪いやつだ!」
「そうだ、そうだ。みんな、やっちまえ!」
 私たちは垣根に辺りを囲われた隔離区画に住んでいたし、そこから出ることや、外と接触することを禁じられていた。もちろん近くの村にだって、ここに近づいてはならない、私たちと話してはならないという御触れは出されていたろうが、子どもというのは概ねルールの外にある存在だ。そして自分の感情や集団の正義に、とても敏感である。
 だから、垣根を越えてやってきた子どもたちが私たちに石を投げることだって、それなりにあることだったのだ。ひとと違うことを恐ろしく怖がる、とても臆病で憐れな人というのもいるのだと、私の姉はよく教えてくれた。
「お前が親玉だな!?」
「セイバイしてやる、覚悟しろ!」
「きゃ……っ!!」
 だがそのときばかりは、それなりにあること、かれらは臆病だから、で済ませるわけにはいかなかったのだ。
 家の裏庭で素振りをしていた私は、騒ぎを聞きつけ慌てて駆けつけた。家の庭よりも外、表に一本だけ通っている道のところで、四人の見慣れない子どもたちが輪になっている。その子たちが一様に紺や茶の着物ばかり身に着けていたからなのだろうか、かれらが囲む中蹲っていたにも関わらず、私はあの真っ白な着物を即座にみとめた。
「姉上、」そばに柿の実が転がっていた。いくつか踏みつぶされ、ひしゃげてしまった柿。出かけてゆくのを見たと思い出したのはそのときだ。朝早く、こっそり出てゆく姉の立てた物音に、私は目を覚ました。姉は唇の前にそっと指を立てて、やましろたちには秘密にしていてね、あのね、少し離れたところ、垣根の側だけれど、とっても美味しそうな柿がなっていてね、と、言って、私に笑いかけて、「もう逃げようだなんて思うなよ、バケモノ!」
 そいつらが、姉上の髪を引っ張った。
「っ、姉上になにをする!!」
 気が付くと私は腰にさしたままであった木刀を抜いていた、いや、既に一人の頭を思いきり殴りつけていた。ふそうを囲んでいたうちの一人が頭を押さえながら頽れて、地面に蹲っていたふそうが目を丸くしていたのが見えるようになる。が、それにより私は逆に髪を乱暴に鷲掴む手だとかまでをもはっきり見せられてしまったので、安堵するどころか全身の血が一気に燃えた。
 木刀なのかそれとも自分の骨なのかもわからないが、みしみしと軋むほど両手に力が入る。ずぐり、と、重々しい音でたった一度、心臓が脈打つのを聞いただろうか。それすらもはっきりしないうちに、私は刀を振りかざして残り三人に向かって行った。
「うわっ、な、なんだこいつ!」
「ば、バケモノの手下だっ、こいつもやっちまえ!」
 首領格らしい最も大柄な少年がそう指示を出し、二人が一斉に飛びついてくる。しかし、私はそれを難なく躱すことができた。私は姉妹の中だと末っ子だったし身体も小さかったが、こと武道となると、姉たちを凌駕する力を発揮することができたのだ。とはいえ型を守っているとはお世辞にも言えない、噛みつく野良犬のような剣を見て、師匠はいつも渋面を浮かべていたものだが。
 相手の体格も武器もまちまち、しかも複数人となると、寧ろそのほうが好都合なこともある。小柄な体格を存分に活用し、ひとりずつの懐に潜り込んだ私は、下段に構え直した刀で顎をねらって振り上げた。一人目はそれで沈め、躱してきた二人目も、姿勢を崩したところで足を払って脳天に一撃をくれてやった。思うに私は武術に長けていたというよりも、どう武器を振れば相手を砕けるかを見抜き実行する、その一点にだけ長けていたように思う。
 どう戦えば、私の大事なものを害してくる存在を砕けるか。それだけが、私にとって重要なことだった。
「姉上を、はなせ」
「く、くそっ……!!」
 あとひとり。そいつが掴んでいた髪を振り払うようにしたせいで、ふそうは後ろに身体を引きずられてしまう。その姿と、少年の指の間からするすると落ちていった黒い数本が、もういったいどこから湧き出ているのかもわからない力を、刀を握る両手へとさらに流しこんだ。
 胴に一発、小手に三発。面にも一発入れたところで、とうとう少年は膝をついた。地面では彼の仲間たちが呻き声を上げている。その声を聞いたからなのか、一瞬にして怯えの色を濃くした顔で、少年は私を見上げた。
「が、っ!」
 その顔に、片手で真っ直ぐ振り上げた木刀で、正面から一発を叩きこむ。
 かなりいやな感触がした、と、思う。正直、それはあまり覚えていない。どちらかというと、鼻の骨でも砕けたか、血を流して無様な声を上げながら転げまわっていた光景のほうをはっきり覚えている。単にそこまで関心がなかったのだろう。
「きさまこそ、かくごしろ」もはや両手で狙い澄ます必要すらなさそうだった。私はほぼ無力と化した相手に向かって、もう一度木刀をゆらりと振り上げ、
「おやめ、ひゅうが!!」
 ぴしゃりと言った、ふそうは。
 さっきまで倒れていたはずの扶桑は、いつのまにか私の正面にまで駆け付けていた。
「……おやめ。もう、いいから。ね?」
 優しく笑った、姉に前からそっと抱きすくめられ、私はようやく、木刀を手放した。
 握りのところに滲んでいた赤黒い血。這う這うの体で逃げていく子どもたち。ひしゃげた柿にはさっそく蟻がたかりはじめていて、背中のほうからやましろだかいせだか、それとも二人ともだかが駆けつけてくるのがぼんやりと、ぼんやりと聞こえていた。
「ひゅうが、あなたはとても優しい子。姉は、ちゃんとわかっていますから」
 ひゅうが、かわいいひゅうが。
 家に戻った後、裂けてしまった私の手の治療をしてくれながら、ふそうは私の名前をいつもよりたくさん呼んだ。たくさん呼んで、それから何度も、私の髪を撫でつけた。そして手のひらの記憶は殊の外鮮明に、私にすら考えもつかないような深いところに、くっきりと焼き付いているのだ。

 そんなこともあったかなと、まだなんとなしに形が身体に馴染んでいない気のする、重くて固い支給布団に寝転がり、私は物思いに耽っていた。ちなみに私の隣で大の字にほど近い格好で寝そべる伊勢は、早々に健やかすぎるほど健やかな寝息を立てている。鼾と言ってやらないところが、いっそ優しさですらあるほどに。
 とはいえ私も、普段ならば枕が変わったことなどにいちいち違和感を覚えたりはしなかったものだが、今夜ばかりはわけが違った。寝返りをうち、夜闇にぼうっと見えるくすんだ色の壁を見つめる。
 隣の、扶桑型の部屋では、今頃私の姉たちが眠っていることだろう。私たちは、つまるところ私たち伊勢型と姉たち扶桑型は、明日朝早くに出撃を控えていた。だからこそ早く寝るべきなのはわかっていたが、どうにも気が落ちつかない。
 思うに人は強く渇望したことを目の前にひょいとぶら下げられると、喜ぶ以前に混乱してしまうものなのだろう。あまりにも長く、そして深く考えていたことが明日実現するとなると、膨れ上がり過ぎた覚悟や逸る気持ちが破裂して散り散りになり、どうまとめたものやら惑ってしまうのだ。感情や想いに関しては、伊勢の振れ幅が大きいことに寄りかかり、勝手に補われでもしてしまったかのように、私は鈍重であったようだから。(と、伊勢によく噛みつかれてきたから。)唐突に振りかかられると、情けない話、軽く眩暈がする。
 けれどきっと。深く息を吸い込んで、吐き出す。けれどきっと、それほどまでに私は、あの姉のことを、扶桑のことを守りたかったのだ。ずっと、そうだった。
 この両足をかの人のもとへ駆け付けるためだけに使い果たし、この両手をかの人の前にて広げるためだけに使い果たしてでも。この心を、そのためだけに苛烈に赤く塗りつぶされてしまったとしても。
 それでも私は――ただあなたのことを、守りたかった。
 もちろん山城のことも、伊勢のことだって守りたいと私は強く思っていたし、その意志には一片の曇りもないと自負している。だが扶桑のことだけは、私にとって別格だった。飛び抜けていたというのでなく、圧倒的だったというのでなく、多分に他と比べる意味のないような位置に、彼女のことは在ったのだ。
 ずっと、ずっと、そうだった。

 ――そうだったのです、

「……なさい、」
「え?」

「そこを退きなさい、伊勢型の!!」

 そうだったのです、よ、姉上。


 突き飛ばされた、などということで立ち尽くしている場合ではなかった。庇おうとしたことすら間違いだったのか、前に立ちはだかろうとしたことすら間違いだったのか。いや、私たちの旗艦は扶桑だ、それを守るのは僚艦の務めだ、他に何の理由が必要か。姉だから、で、なくたって。そんなことを今更確認している場合ではないのに、頭が余計なことばかり順繰りに確認することに躍起になって、景色に追いつくことができない。ここは戦場なのだ。ここは戦場なのに!
 しかし、跳ね上がった海水よりさらに冷え切ったなにかで凍りつきでもしてしまったかのように、私の身体は動かなかった。言うことを、聞いてくれなかった。霧のように舞い散った水飛沫が全身を叩く。逆巻き、うねる海で私はなぜだか打ちのめされて、立ち尽くしてばかりいる。
 なぜだか、打ちのめされて。そこをどきなさいいせがたの。なぜ、あねうえ、どうして。まるで幼子の泣き声のようなそれが、耳鳴りとしてこだまする。あねうえ、どうして。どうして、わたしは、わたしは、ただ。
 ただ、
「……ッ!!」
 その耳鳴りを打ち破って、直上、撃ち落し損ねた爆撃機が低い音を立て近づいてきた。もはやなんの意味もなく手のひらを伸ばした。迷子が道行く人の服の裾へと、無意味に縋りつくのにも似て。
 その指の隙間で、黒い雨が降り注ぐ。無数の水柱が、跳ね上がる。爆発音。爆発音。なにかが、砕け散る音。こわれるおと。
「う、あぁああああっ!!」
「日向!!」
 今のは伊勢の声だったのだろうか、それとも山城か、わからない、もうわからない。いせがたの。伊勢型の、という呼び方ばかりが、さっきからずっと鳴っている、から。
 武器だろうが手だろうがめちゃくちゃに振り回して、視界を邪魔する煙と水飛沫を払った。けれどほんの一瞬、一瞬だけ、目の前にした光景に私は、どうしてそんなことをしたのだろうと後悔した、後悔、してしまった。ひどい話、だけれど。そこにあるものがどんなに辛く目に映しがたいものであれ、それこそが現実であるのなら、私は迷わず目に焼きつけるべきだ。戦場とはそういう場所だ、私たちがいるのはずっとそういう場所だった、わかっては、いたけれど。
 それでも私は、目を覆いたくなっていた。目の前にした酷い光景に、両目を覆って、多分に、泣き出したい気持ちだった。
「あね、うえ、」
 そうやって泣き出してしまいたかった、たとえばその手を優しく取ってくれる誰かを、迎えの誰かを渇望する迷子のように。
 ひどい、ひどいひどい有様だった。彼女の頭から流れ出た血が、あの美しく長い黒髪を、こめかみからべったりと貼りつかせている。さながら赤黒い渦だ。焼け焦げた肌、顔の皮膚が乾いて裂け、鮮烈な色の肉が覗いていた。痩せた顎を伝って滴り落ちた赤黒い血が、どうにか身体に引っかかって残っているだけの白い着物を、転々と染め上げていく。
 私のほうはといえば、半ば滑稽なほどに無傷だ。与えられた任務は容易くこなせそうに思えていた。今朝早く、航空戦艦の一団として、桟橋に四人並び立ったあの時。ちらりと横目に見れば、記憶とまったく変わらないように見えた穏やかに美しい微笑みがそこにあったあの時。渦潮の向こうに隠れている船団だろうがなんだろうが、程よく骨が軋むほど握りしめたこの拳で、端から打ち砕けそうな気さえしていたのに。
 それなのにどうしてこんなことになっているのだろう、わからないことがたくさんある、わからないことがあるのは、苦手だ。昔から、そうだった。どうして、「まあ、ひゅうが、そんなにむずかしい顔をしてどうしたの。ふふ、姉に話してごらんなさい?」――どうして、こんなことになっているのだろう。誰も教えてくれない。
 もう誰も、教えてくれはしない。
「旗艦大破! 司令、撤退命令を……司令! くそっ、ふざけんじゃないわよ、無視すんなぁっ!!」
「敵艦、戦艦タ級攻撃態勢に入っています! 姉様……!」
「……大丈夫よ、山城」
 違う、私は。
 私は、あなたに、ただ、そんな姿になってほしく、なくて、
「伊勢型には、」
「っ、」
 せめて反撃だけでもと構えようとするも、目前に突き出されたずたずたの腕に阻まれる。姉上、あねうえ、あなたは。旗艦を守る当然の動きとして立ちはだかった私を押し退け、助け起こす手すら必要とせず、ぼろ布のようになってもなお立ち上がった、あなたは。
「伊勢型にだけは、負けるわけに、いかないの……っ!!」
 あなたは、どうして。
 既に幾筋も彼女の顔を汚していた赤黒いものに、鮮烈な赤が、あと一滴、混ざって流れ落ちる。それは彼女の唇の端から、――噛みしめられた唇の端から、新たに滲み出たものであった。
 そうして、身体じゅうを傷つけられてなお退く素振りを露ほども見せなかった姉上は、いや、扶桑、は。
 扶桑型航空戦艦、一番艦の扶桑は、最後の力の一滴を使い果たしてまで、敵旗艦をその主砲にて撃ち抜いた。

 変わり果ててしまったとしか言いようのない扶桑の様子について、山城はそれこそ虚しくなるほど、非常に短く簡潔な言葉で説明してくれた。
「同調異常……?」
 掠れた声で繰り返すしかできなかった私に、山城は低く小さく頷く。山城のその仕草をいつものように俯いただけだ、と断じずにいられたのは、なんだろうか、姉妹であるが故の理解の深さだろうか。今となっては、なんとも虚しい話だが。
 重い鉄扉で閉ざされたドッグ前、山城の横顔をぼうと照らしていた未使用の緑色灯が、使用中の赤色灯に切り替わる。目に痛いほどの赤。けれど先ほど海で見た赤よりましだ、目と言わず胸の内と言わず染み付いて、脈打つような痛みを放つあれよりは。
 作戦は完遂できたものの旗艦扶桑の大破により、私たちは撤退を余儀なくされた。司令官からの言葉は手痛い出費だ、とそれきりで、無線の応答がなかったことに関してはジャミングだろうという結論で落ち着いた。真偽のほどは確かめようがない。そもそも真実は、ことこの場に於いてはそれほどたいした価値をもたない。
「な、によ、それ……同調異常って、だって私たちは艦娘なんでしょ? そういうふうに、そのためだけに、ああやって育てられてきたんじゃ」
「それでも、戦艦の魂を飲みこみきれない器だっているわ。向き不向きとか、持って生まれた能力とか……要するに、それだけの話よ」
「それだけって、」
「でも他に選択肢なんてなかったんだから!!」
 薄暗いドッグ前に、山城の叫びが悲痛に響く。等間隔に並ぶ、扉というよりは円形の重苦しい蓋にも似たそれが、残響にびいんと揺れていた。「それしか、なかったんだから、しかたないじゃない」
 いいえ姉様は、それでいいのだとすら言ってらっしゃったわ。笑って、そう言ってらっしゃったわ。
 あのとき捕まえられたのは、軍備の補強が急務であった当時すぐに艦娘となる儀を受けられたのは、扶桑と山城しかいなかったから。たとえ異常がみとめられようと、新たに艦娘となる器の少女を育て始めるような余裕は、もはや残されていなかったというわけだ。私たちを逃がしたという可能性もある扶桑に断る権利はなかったし、彼女自身にもその意志はなかったという。「伊瀬や日向を、それで守れるならと。私を、ひとりで戦わせずに済むのならと、そう、言って、姉様は」
 その次の朝に私と伊勢が決意したとて、着任までには数日かかった。たった数日だろうが、ほんの一瞬だろうが、手遅れは、手遅れだ。
「山城」
「……なによ」
「姉上は、どうなってしまうんだ?」
 その、同調異常によって。
 戦艦扶桑の魂を飲み込むことのできなかった、あの、少女の器は。
 私たちの姉上は、
「……当然でしょう」
 今度こそ完全に俯いてしまった山城は、吐き捨てるように言った。その結論を出してしまうまでに、彼女はどれほどの時間を要したのだろう。どれほど、それを受け入れることを拒否してきたのだろう。想像を許さない、そこにある苦痛に手を伸ばすことを許さない、そんな容易さで山城はあっさりと言った。
「飲みこみきれなかったら、飲みこまれるの。扶桑姉様の心はもう、ほとんど戦艦扶桑としての遺志に引っ張られて、……だから」
「そうか」
 ああ、山城は、私の二番目の姉は変わっていないなと、少しだけ笑ってしまいそうになった。
 なにしろ、それでも彼女は最後まで口にしなかったのだから。多分に、私と伊勢のために。
「そうか。今の姉上は、私たちのことが疎ましいのだな」
 戦艦扶桑としての矜持に、飲まれた彼女にとっては。
 目前に立ちはだかる私たちが、かつて彼女の存在意義としての戦いの場を、そして航空戦艦となる栄光の機会をも奪い去っていったところの存在である「伊勢型」の私たちが、邪魔なのだ。
「……そうか、」

 扶桑がドッグから出てくるのは、その日の深夜ということになっていた。きっと山城はいつだってその扶桑のことを一番に迎えてやっていただろうに、その彼女は今日私たち伊勢型の部屋で寝息を立ててしまっている。ぶつぶつ文句を言ってはいたが、ぶつぶつ文句を言いながら、気落ちする伊勢の横にずっといてくれた山城。ただそのまま眠ってしまうつもりはきっとなかったのであろうが。私は私の分の布団を山城にかけてやり、なるたけ音を立てぬよう部屋を出た。
 深夜の鎮守府は、青黒い静けさに満ちている。低く繰り返される潮騒と、時折あちこちに忍びこむ夜風のみがわずかにあたりを騒がせていただろうか。その静けさに浸されながら私はしばらく外を歩いて、浜辺から森の始まるあたりで、ふと足を止めた。
「花か」
 花、という以外の呼び方をできないのが、なぜだか今夜はやたらと心残りだ。まるでそれを埋めるかのように、我ながら丁重な所作で屈み込み、月光を静かに受けるごくごく小さな花を見つめる。指の先ほどしかないが、細い花弁はきちんと喇叭型に、寄り集まるように咲いていた。
 きっと似合わないと伊勢や山城あたりには笑われるであろうし、私とて今まで半分忘れてしまっていたようなことだけれど。ひんやりと冷たい葉や茎のあたりに触れながら、そばで波の打ち寄せるのと同じように思い出す。私は、花を見るのが割合好きだったのだ。
 春に絨毯めいて咲き渡る菜の花も、夏に雨どいをするするとのぼりゆく朝顔も、秋に庭の裸になった木の横で揺れる秋桜も、冬に跳ね回った雪の下から顔を出す蕗も。可笑しいものだと、自分でも思うが、今となっては笑えてしまうようなことだが、私はわざわざ眺めにゆくほどそれらを愛おしく思っていた。いや、そう思いたいと願い続け、とうとう現実にすらしてしまった、というほうが近いのか。
 おそらく私は。「ひゅうが、ああ、待って、ひゅうが、そんなに急かすと、姉は転んでしまうわ」どうにも昔から刀を振ることにしか能の無かった私は、知りたかったのだ。たとえば花のように、この肉刺だらけの固い手で触れれば容易く壊れてしまいそうなものを、ただしく愛でる術を。「姉上、はやく、こっち、こっちです。こっちに、すごくおおきなひまわりが、」
「……っ」
 ぷつりと、呆気ない音がした。
 先ほどまで撫でていた花の一輪が、いつの間にか握りしめていた拳の中にある。手折られた茎の残りが、千切られたような細い筋をいくつも夜風に揺らしていた。
 花は好きだ。好きだった、のだ。名前もわからない、わかってあげられぬ花の小さな小さな花弁が、重油の匂いの抜けない手のひらの上で転がる。
 ドックでの治療を終えた扶桑と行き会ったのは、宿舎へと続く深閑とした廊下でのことだ。
「こんばんは。夜更かしなのね」
「あね……扶桑。具合は、もういいのか」
「ええ、もうすっかり。あなたたちには迷惑をかけてしまって、悪かったわね」
 いつもと変わらぬように見える、穏やかな笑み。それを姉と呼べなくなったのは私の方で、扶桑は早く寝なさいね、と促し、私の横を通り過ぎようとした。
 ――その、こめかみあたりで、頼りない月明かりに照らされた髪の、さらりと揺れるのが見えたから。
「あ、」
 声を取りこぼした時にはもう、指先に流れる感触があった。春の風よりなおたおやかに、夜の海よりなお冷たく。手を伸ばした先で、彼女の髪が静かに揺れる。
 あれほどひどい有様で張り付かせていた赤黒さは、もうここにはない。「……どうかした?」
 腰に届くかというほど長い先をふわりと靡かせ、扶桑は私に向き直る。すらりと整った顔の輪郭、薄く濡れたように光る瞳、白い、しろい肌。ああ。
 ああ、あなたは、やはり、
「美しいと、思って」
 凪いでいた扶桑の瞳に困惑が揺れる。
 それが水の面に立つ細波のようであったのは、大きく一歩足を進めた私に追い込まれた扶桑の背が壁にぶつかったからだったのだろう。とん、となにかの終わりにしても始まりにしても静かすぎる音を立て、扶桑は逃げ場を失った。戸惑うように横に逸らされた目線は、焦れそうなほどゆっくりと、私の方に戻ってくる。
「っ、」きっとあなたは隠したかったのだろうに、思わずこみ上げてきた笑いを噛み殺そうともせず私はくすりとこぼした。こうして追い詰められ、距離を狭められ、不利な駆け引きをしなければならなくなったあなたは。きっと、私の手が肩に触れた時、華奢なそれがわずかにでも縮み上がったようなことを、私に悟らせたくはなかっただろうに。びくりと揺れるのを確かめるまでの間、私はそこに触れていた。もう片方の手で、ずっと髪を撫でながら。「なに、を」
「扶桑。あなたは、とても美しい」
 花を刺す。
 私が何をしたか、扶桑はまだあまり理解できていないようだった。だが感触くらいはあったのだろう、今は小さな花の揺れている耳の上あたりまで、おずおずと彼女の手が持ち上げられる。ゆったりとした彼女の着物の袖が、折られた肘のところまで滑り落ちて。肌が、露わになる。
「い、っ……!」「あなたの手や、姿は」細い手首をまるごと掴むのは、私にとって驚くほど容易いことだった。女の手だと、思う。
「戦うには、向かない」
 扶桑の表情が変わった。
「……そう。そうなのね、伊勢型の、つまり、あなたは」
 背が再度壁にぶつかるのも構わず、扶桑は手を大きく振って、握っていた私の手を振り払った。それから、ふるえるほど強すぎる力のこもったそれをもう一度持ち上げて、今度こそ髪に飾られた花に触れる。
 触れる――否、引きちぎる。
「あなたは、私のことを愚弄しているのね」
 彼女の指の間から、散った薄紫の花が、はらはらと舞い落ちる。扶桑はもう、笑顔ではない。
 その紅い瞳に凛と光る感情を、私はよく知っている。幼い頃からこんな場所に、血と鉄の塊の飛び交う海にいたから、いっとうよく知っている。
 あれは憎悪だ。
 澄み渡るほど純度の高い、あれは、憎悪だ。
「そこを退きなさい、無礼者……! ッあ、」
「ほら」両肩を突き飛ばし、私の体を引き剥がそうとした扶桑のことを、今度こそ掴み上げた手首を壁に縫い付けることで阻む。痛そうに歪んだ顔を、やはり彼女は隠せなかった。袴の間に足を割り入れ、蹴ることも許さない。無論、逃げ出すことも。「言っただろう。あなたの体は、あまりに華奢なんだ」
「黙りなさい!!」
 軋むほどに歯を食いしばる扶桑の、爛々と光る両の瞳が、私のことを真っ直ぐと射抜く。頬を張ろうとでもしたのか振り上げられた手を掴み、両手首とも捩じ上げる。黒髪を振り乱して、彼女は暴れている。そのひと筋が口の端に引っかかり、けれど手足の自由の効かない彼女はそれを拭うこともできず、ああ。
 ああ、ああ、それすらも。
「扶桑」
「っこの、……!」
 触れた頤は、やはり、清らかに痩せている。
「あなたは、本当に美しいよ」
 血の味だ。
 押し付けた唇に鋭い痛みが走ると共に、とても馴染み深い味がして、しかしそれはあの話にばかり聞く檸檬の味などより、ずっと確かなものである気がした。おかしいこと、だったのだろうが。
「ッふ、」
 くぐもった声を上げる扶桑はどうにか顔を逸らそうと躍起になっているようだが、そのたびごとに顎を捕らえこちらを向かせるのは、笑ってしまいそうなほど簡単なことだった。引き結ばれた艶やかな唇を食むのも、強く閉じられた目蓋の震えを覗き込むのも同じこと。せめて噛み付いてやろうとしていたようなのも、徐々に力を失っていく。
 息が切れてしまうのだって、彼女は愛おしいほどに早かった。押し付けた体の下でそこばかり豊満な胸が痛々しく震え、私が少しだけ離れてやると、扶桑がたまらず短く息をつく。
「は……っ」
 愛おしいほどに?
 いや、愛おしいのだ。
「ふそう、」
「や…ん、ん、っ」
 もはや歯を食いしばる力も、彼女には残っていない。抵抗を押しとどめるためにあったはずの私の手も足も、ひょっとすると体も、今はそうしていなければ倒れこんでしまいそうな彼女を支えるためにあった。
 舌先で突き、押し開いた咥内は、しっとりと濡れている。血の味だけが、まだ残っている。あなたがそんなにか細いのどをしているから、私は、そこを何かが滑り降り、飲み込まれてゆくのを、ありありと見てしまった。
 ひたりと湿った音を廊下に響かせ、離れると、扶桑はとうとう床に膝をついた。私も跪き、浅い呼吸を繰り返す彼女の背に手を回す。
 扶桑は、初めこそびくりと震えていたようであったが、焦点すら合わぬ瞳に、無理やり輝きを取り戻した。そうだ、憎悪の輝きだ。「……伊勢型の、あなた」
「なんだ?」
「あなた、私に劣情を抱いているの?」
 答えずにいると、扶桑が、少しだけ久々に笑った。
「無様ね」と、嘲笑った。
「そう。いいわ、好きにしなさいな」
 好きなだけ醜態を晒せと、そういうことなのだろう。剣呑に微笑み、今度は私の頤にすら触れてくる扶桑。私が彼女に堕ちてゆく姿は、彼女の心を、かつての魂に飲まれてしまったその心を、幾許かでも満足させるのだろうか。
 私はゆっくりと、ゆっくりと、扶桑に覆い被さる。
「なあ、扶桑」
「なにかしら」
「名を、呼んではくれないか?」

 私は、花をただしく愛でる術を知らない。
 それを教えてくれる人も、もう、いない。

「嫌よ」

inserted by FC2 system