1020・ひかりをあげるよ




 どんなことにだって、資格が必要だ。
 それはいつでも目に見えないというだけで、必ずあるのだということに変わりはなくて。だから、しらずにものごとに飛び込んでしまったら、きっと薄いけれどもけっしてやぶることのできない壁のように、そこにあり続けるそいつに、鼻先をひどくぶつけてしまうに違いない。きっととても痛いに違いない。
 そのことをしていいかどうかとほかの誰かに、あるいは自分自身から問われたとき、きちんとこうだから、と答えられるような。資格が必要だ。とにかく、資格が。
 痛いのは、とても怖い。

 ひとつ、ゆっくりと息をついて、青葉は鉛筆を置いた。黄ばんでかさついている原稿用紙の上、びっしりと並べた文字の上に一度ざっと目をすべらせて、それからぐんと伸びをする。カーテンの隙間から覗くあかりは、いつのまにか夜明けの色になっていた。
 太陽が顔を出すよりもすこし前、藍色の空気と乳白色の沈黙がふわふわとふくらんでいるような時間のことを、青葉はそれなりに気に入っている。その乳白色の沈黙の中、青葉の転がした鉛筆の音が、からからと軽く落っこちた。週末、それまでの一週間かけて存分にかき集めた話を書き出して写真の整理をしていると、だいたいはそんな時間になっている。そして青葉は、出撃も演習もない日曜日くらい思い切り寝坊することにしているのだった。
 低くてぼろっちい机のわきで、寝ているときまでなんだか元気のいい寝息をくーすかたてていた加古が、口のなかでなにごとかもごもご呟きながら寝返りをうつ。もう朝晩はそれなりに冷えこんできているというのに、加古ときたらしっかりお腹をだしてしまったままだ。
 ため息ののち二十秒はためらったけれども、結局もっと重いため息をついてから、青葉は加古の足元でくしゃくしゃにけりとばされていた布団を引っ張って、掛けなおしてやる。ふだんの加古のようすからするに、むしろ多少は調子を崩してしまったほうが静かでいいかもしれないなんて思わなくもないのだが、そうなると加古以上に調子を狂わせてしまう子が何人かいるので困りものなのだ。
 それはたとえばいつでも加古とつるんではなにごとか暴れるための言い訳を探している天龍であったり、その天龍に引っ張られてやってくる木曾であったりするのだが(ようするにそのあたりがまとめて風邪でも引けば鎮守府はずいぶん静かになるのだろうが、それはそれでおもしろくなさそうだ)、でもたぶん、いちばんおろおろしてしまうのは。大丈夫だよ、つらいのは加古だものって言いながら、たとえば箸を持ったままぼやっとしてしまいそうなのは、きっと。
 せっかくきせてやったにも関わらず、ばったんと大きく寝返りをうち、今度は背中を丸出しにしてしまった加古にいよいよ頭を抱えたくなりながら、青葉はちらりとその隣に目を移す。加古の寝相があんまり元気なせいで、布団三分の一くらいの浸食を受けてしまってはいるけれど。
 そんなのはもうとうになれっこなのか、古鷹は、なごやかに目を閉じていた。
 ねむっているときのにもほほがあかいのはどうしてなんだろう。どちらが健やかかといえば寝息の時点ですぐに加古のほうに軍配があがると思うのだが、それだけは古鷹のほうがずっとずっと顕著に見える。かみが、くりいろだからかな。眠気よりもなにかずっとだるさを孕む、徹夜明け特有の重たい水めいたものに浸された頭に、ふつりふつりと、そんなことが浮かぶ。
 いろが、しろいからかな、それともべつのなにかかな。じんわり、あかい、きっととても、あたたかい。ふるたか、さん。泡のように、弾けて消える。
 古鷹さん。
「………、」
 人間の身体は不便だ。立って歩いたおぼえなんてないのに、自分で身体を動かしたおぼえなんてちっともないのに、気がつけば後戻りできないところまできてしまっている。気がつけばもう、すぐそばまできてしまっている。耳のこっち側から聞こえていた加古のむにゃむにゃいう声が、どういうわけかもう耳のあっち側だ。古鷹さん。
 古鷹さん、の、まつげは、ながくて、きれいだ。
「ん……」
「……っ」
 新しい命になった私たちは、体温や匂いやそのほかものを持ってしまったから、時々ひどくやっかいだ。触れあうほどに近づいてはいないはずなのに、そろりと伸ばした手のひらは、一瞬にしてそのひとの放つ気配のようなものにとらわれてしまう。とらわれて、ひかれる。ひっぱられる。人差し指と中指のあいだを、しめったかすかな寝息が通り抜けていく。古鷹さん。古鷹さん。
 ふるたか、さん。
 古鷹の、安らかに閉じられた両目にふたをするように、手のひらをそっとのせる。
 人間の身体はとにかく、とにかく不便だ。ふんわりした肌の感触と、ひたり、吸いつくような温度と。指先とか手とかなんてこんなにこんなにちいさなものなのに、わかることが多すぎる。伝わってくることが多すぎる。しかもそいつが、血管だの神経だのとはまたすこし違うらしい、けれども身体のすみずみまではりめぐらされている線をぶあっと走って、あっさり胸の奥までたどりついて、心臓をわしづかみになんてしてくるものだから。ほんとうに、ほんとうに、やっかい、だ。
 青葉は目を閉じる。自分で自分の姿を見ることはできないけれど、こうしてしゃがみこんで目を閉じるのは、なんとなくみじめに懺悔をするかっこうとよく似ていると思う。でも懺悔なんてしないよ、しないのです、けっして、けっして。
「………。」
 ふるたかさん、ふるたかさん。
 ごめんなさい、絶対そんなこと、しないから。
 青葉は、古鷹の両目をふさいだ手のうえに、かわいたくちびるを、ちょん、とおとす。

「衣笠さん的にはさぁ」
「え?」
「ああいうの、古鷹さんが起きてるときにしてあげればいいと思う」
 そういえば、なんてまるで今日鎮守府で猫を見かけたよという話と同じような軽さで衣笠はあっさりとそう口にしたのだが、衝撃は十二分に青葉のことをぶったたき、具体的にいうとお茶を吹き出した。それはもう盛大に吹き出した。
 なまじ言うにしたって、なぜあとワンテンポ遅いタイミングを選んでくれなかったのだろう、おかげでお昼のドライカレーが台無しだ。もう全然ドライじゃない。唯一の救いといえば、午後二時過ぎという間宮さんのおやつの時間には早く、お昼の時間には遅い微妙な時間帯のせいで、食堂に人がまばらであったことだが。それでもいく人かはいた子たちが、ごっほごっほとわれながら痛々しく咳き込む青葉に、目を丸くしている。
「まあ艦娘ってなんでかしらないけど基本いつもお腹空いてるからねー、母港の食堂がまるきり空っぽって見たことないかも。それにしたって、こんなに遅い時間にお昼してんのは青葉だけだけどねぇ」
「ごほ……っ、い、いいでしょべつに、こっちは朝まで起きてたんだし、休日なんだから寝てたって……ていうか! そうじゃなくて!」
「んん?」
「……な、なん、」
 なんで知ってるのさ、という言葉がひょっこり出かけたのを、すんでのところで飲みこむ。だってそれでは衣笠のいう「ああいうの」がなんなのかをきちんと理解して、かつそれを古鷹にしてしまったのだということを、すっかり認めてしまうようなものではないか。
 それはわかっていたのだけれど、飲みこんだ言葉のかたまりで喉が詰まってゆくばっかりで、結局何を言い返してやればよかったかはちっともわからなかった。けして口にしてはいけないことならいつでもすごくはっきりしているのに、言葉にしてもよいことはどういうわけかひとつも思いつかない。いつも、そうだった。
 ひどいことだがたいていの場合、沈黙を守るというのは降参してしまうことにほど近い。つまりそのときだって青葉は、何か言ったわけではないが、衣笠の言ったことを否定することもまったくできなかった。そして衣笠は、あっさりとそれを肯定の意に解釈してしまうことができたというわけだ。
 言葉はつかうということももちろん難しいが、つかわないということだって、同じかそれ以上に難しい。
「ああいうのみてたら、青葉ってやっぱり古鷹さんのこと好きなんじゃん、って思うけどさ」
 おもうんだけど、さ。のんびりと繰り返した衣笠は、きゅっと二つに括った髪がくしゃくしゃになってしまうのもかまわず、食堂の机につっぷするようにして、青葉のほうを横目で見上げた。
「それでもね」自分とよく似ているようにも、似ても似つかないようにもみえる瞳が、ゆるやかにこちらを射抜いてくる。「それでもね、たまに、いやもうしょっちゅうかなぁ、うん。最近しょっちゅうなんだけど」
「……なに?」
「最近、わりとしょっちゅう、青葉って古鷹さんのこときらいなのかなあって、思えちゃうよ」
 あのひとの瞳のことも、名前のことも、もしかしたらあのひとが、ふんわりとやわらかに微笑むことですらも。
 実際のところ嫌ってなんかはいないのだから、即座に否定すればよかったのに、青葉は一瞬黙りこんでしまった。そしてその息を飲むたった一瞬ですら命取りにはなりうるのだ。無邪気なのか飄々としているのか、深い考えがあるのかなにも考えていないのか、さまざまなことをいつもはっきりとは読み取らせない妹の手が、予期できないときにひょいと伸びてくる。
「わ、」それが、出撃がないとき、いつも耳に引っ掛けている鉛筆をねらっていたのだと気がつけたのは、取り上げられてしまってからのことだった。しかもズボンのポケットに入れている、すこしぼろぼろになってしまった手帳までさっと抜き取られてしまったのだから衣笠ときたら手際がよすぎる。
 愕然としてしまった青葉の前で、鉛筆の先をちょんと舐めたあと(そのくせは青葉のとまったく同じで、手際のよさみたいなものは全然似ていないのに、こういう変なところばかりが姉妹らしい)、だいぶ適当に破りとった紙になにごとかがりがりと書きつけていた。
 なんだろうと、青葉が覗きこむよりも早く、衣笠はそれを鼻先に突きつけてくる。
「……っ、」
「ほら」
 しわを寄せて、がたがたに破り取られた紙のうえ。くせのつきかたにひどく見覚えのある、絶妙にいやな感じにそっくりな文字が、真っ黒に濃く、くっきりと刻まれている。
 ――ひくりと、喉が鳴ってしまったのが、聴こえたというわけでもないだろうに。
「やっぱり、痛そうな顔する」
 彼女はそれが、そのたった二文字が、青葉の心に突き刺すにあたって、どんなに尖った武器よりも必殺であることを、きちんとしっているのだ。
 衣笠いわく空になったことのない食堂は、ひどく穏やかで健康的なにぎわいに包まれっぱなしだ。三時を待ちきれない駆逐艦の子たちなんかが、今日の食事当番らしい天龍にせっついては煎餅だの丸ぼうろだのをもらっている。お菓子を分けてもらうことはできそうにない戦艦の連中が、食堂を覗きにいこうとしては龍田に笑顔で追い払われている。しょんぼりと帰ってきた比叡は、金剛に慰められると一瞬で元気になる。
 周囲のものものはとても正常に回転していて、けれどもそれだから、自分のなかが大きく軋みを上げている音は、やたらとくっきり聞こえてしまうのだろう。
「……きらいじゃないよ」
 青葉は、衣笠の手からゆっくりと紙を受け取って、ていねいにていねいに四つ折りにする。そこに記された、あのひとの名前は、呉の港から見える山からとられたそうだ。
 一葉の小舟を嵐から守った鷹の、その命を讃えて名付けられた、あの山から。
「きらいなんかじゃ、ないんだ」
 けれども、ねえ、あなたの名前と同じ山は、とても、とてもきれいでしたよなんて、そんなことを口にする資格が、はたしてどこにあるというのでしょう。
 あの日、青と藍色の底に身体が飲みこまれていった日はすごくよく晴れていて、そのせいかもうぎりぎり見えているだけだった視界にはちらちらとした光のようなものが無数に舞っていて、その光が、ぼんやりと、あの山のことを照らしだしてくれて。それはとてもきれいでした、なだらかに連なる峰のふちが青空と混ざって、とても、とても、きれいでした。
 そんなことを、口にする資格が
 いったい、どこに。

 悪いことをしてしまったひとが悪いことをしてしまったと嘆く権利なんて、きっとないのだと思う。
 起きてしまった事件について悲しむ権利が認められているのは、やっぱり徹頭徹尾被害者だけで、たまに聞く加害者の権利なんてもの、そんなややこしそうなもの、ほんとうのところだれも認めたくなんてないに決まっているのだ。たとえ加害者みんながみんなそうでなくたって、青葉にとってはそうでしかなかった。
 青葉にとって、どう考えてもとりかえしのつかないほど悪いことをしてしまった自分に、嘆いたり謝ったり、許しを乞う権利なんて、なにひとつないとしか思えなかった。
 だから青葉は、笑っておくことにしたのだ。
「天龍、久しぶり! 青葉です。覚えてますか?」
「おわ。なんだ、新しく来たやつって、お前だったのか」
 かつて戦っていた場所とは違う、なにかみょうなところのたくさんある鎮守府へと青葉がやってきたとき、最初に出会った顔見知りは天龍だった。相変わらず駆逐艦たちには懐かれているようで、そのときも電の手を引きながら涼風を肩車してやっているという忙しさだった。
 しばしぎょっとしたように目を丸くしていた天龍は、そのあとふうんといいながら、青葉のことをじっと見つめてきたのだ。よく覚えている。その目線にすくなからず刺々しさのようなものがこめられていたことも、よく覚えている。
「……まあ、元気そうで何よりだな」
「はい。青葉、元気です!」
「あの! あの、青葉さん、ですか? 天龍さんの、おともだちの」
「オトモダチ、っつーか……あー、まあいいや。そうだよ、重巡洋艦の青葉だ。おら、二人とも挨拶しとけ」
「はいっ! えっと、駆逐艦の電なのです。よろしくお願いします、なのです」
「白露型駆逐艦、涼風! 青葉、よろしくな!」
「電さん、涼風さんですね。ふむふむ……ではお二人、こちらの鎮守府について……そうですね、まずは提督について、一言お願いします!」
「うぇっ!? え、なん、なんだよいきなり! て、天龍!」
「あー……お前、まだその記者の真似事みたいなのやってんのかよ」
「えへへ。恐縮ですっ!」
 青葉は笑っている。とても、きちんと笑っている。
 悪いことをしたやつに落ち込むことが許されていないのは、たいていの場合、ひとというのがそこまで残酷になりきれないからだ。すでに泣いていたり傷ついていたりするものにたいして、さらなる追い打ちをかけるようなまねをするのは、どちらかというとやる側にめんどうなエネルギーを必要とさせる。おまけに虚しさだとか罪悪感だとかいったものまで、時として引き連れてきてしまうものだから。
 けれどもそれらは、その犯人が笑ってさえいれば解決できることなのだ。悪いことをしたのに笑っている、というのは、弾劾するにあたってぴったりな理由になれる。それは正しいことなのだから、余計なエネルギーだって必要ない。
 だから青葉は笑っていた。なんてことをしてしまったんだろうなんて泣いたりしない、みんなごめんなさいそんなつもりじゃなかったんだなんて懺悔して許しを乞うたりしたい。そんな権利を、まず青葉自身がもっとも自分に許さない。かわりに、何事もなかったかのようににこにこ笑って、粛々と準備をしていた。
 そうする権利のあるみんなから、正しく罰せらるための、準備を。
 みんなみんなお前のせいだって、お前が間抜けなことをしなければあんなひどいことにはならなかったんだって、じゅうぶん責め立てられるための、準備を、
「おーっ、青葉! 青葉じゃんか、お前はもうここに来てたんだな!」
「……加古、さん?」
 ――なにかについて準備をしておくというのは、またべつのなにか、たとえばそれとはまったく反対の位置にあるものにたいして、まるきり無防備であるということに変わりない。
 そのときも残念ながらきっとそうだった。ひどいことだけれど、青葉はそのとき、突然鼻先にこつんとぶつけられたものにたいして、かなしいほどになんの準備もできていなかった。
「よかったよかった。天龍のヤツは駆逐艦たちと遠征中だっていうしよ」
 顔を見たとたん殴りつけられるくらいのほうがきっとずっとましだった、拳がぶっ飛んでくるよりもずっとずっと大きな衝撃に、青葉はまばたきすらできない。
 そんな準備、できてなかった。
「いやーあたし昨日来たばっかでさ、母港のこと全然わかんねぇんだわ。なぁ、食堂ってどっちにあんの? もーこっちはお腹ペコペコなんだよ!」
「え、と、食堂でしたら向こうの……角ひとつ曲がって、渡り廊下の先です、けど」
「おうっ、マジか! よしわかった、サンキューな、青葉!」
 にっと笑った、わらった、加古は、古鷹の妹である加古は、ひらりと片手を振って、青葉の示したほうに大股で歩きだし。
 けれども数歩歩いたかと思うと、くるんとかろやかに振り向いて、それから青葉にむかって、大きく両手を振ってみせた。
「つーかさ、元気そーでよかったよ! また後でなー、青葉!」
 そんな、ふうに。
 うれしそうに、にっと笑顔を向けられる準備なんて、ほんとうに、ひとつもできていなくて。
 いやな予感がしていなかったかといえば大嘘になるけれど、だからといってその予感をすんなり受け入れることも、青葉にはできなかった。加古は、そう、もともとあんまりものごとにこだわらなさすぎるところがあったから。それかあのとんでもない眠たがりの加古さんのことだから、ちょっとまだ頭あたりがぼんやりしてるか眠っているかで、私のこともはっきりとは思い出せていないんですよ。そうだ、きっとそういうことに違いない!
「おい青葉、青葉聞いたか!」
「うわあ!? び、びっくりした……どうしたんですか加古さん、そんなにあわてて」
「工廠工廠! 新しいヤツが建造されたんだ、それで行ってみたんだけど……あーもういいや、見たほうが早い! ほら、行くぞ!」
「うわ、わ、わ、か、加古さん加古さん! いきなり引っ張るとあぶな、ぁいたあっ!」
「なに頭ぶっつけてんだ。青葉はトロいなー」
「あ、あなたよりわずかですが青葉のほうが身長が高いのですよ、加古さん……」
「うっわムカつく! ほんと雀の涙くらいしか変わんないのに!」
 口のわりにはけらけら笑いながら、加古は青葉の手を引っ張り続けた。なんとなく赤くなっているような気のする、部屋の出入り口でぶつけた額をそっとさする。加古は加減というものをしらないようで、ぐいぐい引かれる手までもがじんわり赤くなりつつある。でも痛いのはそこじゃない。いつだってそこじゃない。わかっている。
 いやな予感はずっとしていた、でも絶対に認めたくなんかなかった。鎮守府内で自分の姿をすぐ見つけては、青葉、青葉と無邪気に話しかけてくる加古の表情をうかがうたび、頭をひやりとよぎるそれから青葉は必死に目をそらし続けてきたのだ。だってそのいやな予感は、どこか、期待とよく似ていて。期待だなんてものは、後悔とか懺悔とか謝罪とか以上にずっとずっと、自分に許されてはいけないはずのもので。
 そう、だったから、認めずにきたのに。
「よーっ、青葉連れてきたぞ!」
 工廠は、新しく鎮守府に仲間入りする艦を一目みようとやってきた艦娘たちで賑わっていた。青葉や加古が仲間入りしたころよりもずっと規模が大きくなったせいか、人だかりもずいぶんこんもりとしている。「ほら、行ってこい!」だというのに加古は、その人だかりを飛び越す力を、たった一押しで青葉の背中に与えてしまった。
「わっ、とっ、と!」
 前につんのめった青葉の身体は、不都合なほどうまいこと人だかりの中心まで運ばれる。妙高四姉妹のお尻だの高雄型たちの胸だのにぶつかったり圧迫されたりしながら、すぽん、と吐き出されて。
「あ……青葉!」
「っ、ふ、」
 ふるたか、さん。
 そうして目の前、ほんとうになんの距離もない目の前で、ぱあっとひらいた笑顔に、青葉はすっかり、打ちのめされてしまったのだ。
 しかもことはそれで終わりではなかったのだからまったくひどい話で、今まで話をしていたらしい利根と筑摩の二人にもぺこっと会釈した古鷹は、いよいよ真正面から青葉のことを見つめてしまう。夜のはじまりとおわりに光る星とよく似た色の瞳が、こっちを、見ている。
 片目が。
「ああ、よかった青葉、あなたはもうここにいたのね」
 古鷹さん、片目が。
 そこにかぶさってなければならないレンズを失ったみたいに、光を外まで漏らしてしまっている瞳を、古鷹はすこしはにかんだように片手でおさえた。でもそれだけで、それについてはなにも言わなかった。
 間違いなく青葉のせいで、青葉を守るために前へと躍り出たせいでつぶれてしまったその片目について、古鷹はなにも言わない。どころか彼女がかつて海へとかえされてしまったのも青葉のせいであるというのに、そうだったから、青葉はずっと笑っていたのに。
 もっともその権利のある、青葉の笑顔を打ち砕く権利のある彼女は、ただやさしく青葉の手をとった。
「あおば。青葉、また会えて、すごく、すごくうれしい」
 いやな予感は――もしかすると、この古鷹ですら加古と同じように自分に笑顔を向けてしまうのではないかという、唾棄すべき期待ともよく似た予感は、みごとにあっさりと的中した。
 それまでこれといってなんとも思っていなかったのに、青葉はそのときはじめて、ひとの身体はいやだと思った。同じ触れあいのことで何度も同じことを思う羽目になるが、その最初はこのときだった。
 ひとの身体はいやだ。
 古鷹さんの手は、あたたか、すぎる。
「あら? ……ねえ青葉、額をぶつけたの? ここ、ちょっと赤くなってるみたい」
「……っ!」
 あまりにも弱々しくて情けないしぐさだったから、伸ばされた手を振り払ったのだと理解できたのは、きっとたった二人しかいなかっただろう。ひとりはもちろん、その行動の主語である青葉で。
「……あお、ば」
「ふっ、……古鷹さん、ようこそ、佐世保鎮守府へ!」
 そしてもうひとりは、弱々しくても、情けなくても、たしかにぱしんと手をぶたれた、古鷹。
「新しい身体は、どんな感じですか? どうぞ、一言お願いしますっ!」
 やめて、ください、おねがいだから。
 古鷹さん、ふるたかさん、お願いだから私に笑いかけないでください、手を伸ばしたりしないでください、よかったなんていわないで、どうして生きてるのなんてことでもいいから、どうか、どうか、言ってください。
 そうで、なければ。
「おっ、ちゃんと挨拶してきたか? いやーよかったよな、青葉! やっぱり古鷹がいないとあたしも調子でないけどさ、なによりお前、古鷹のこと、」
「加古!!」
 自分で出したはずの大きな声の残響が、胸ではじけて、あちこちちくちくと刺してまわる。痛いなんて言っていいわけがないのに、びっくりしているのは加古のほうなのに、痛くて痛くてたまらない。
「……加古、さん。今度は古鷹さんが新入りさんなんですし、母港の中を案内してあげてはいかがでしょう?」
「え……いや、青葉、それはお前が」
「青葉は取材がありますので! それではっ、失礼しますねー!」
 ぴっと軽く敬礼してすぐに踵を返したのは、もううまく笑えている自信がないからだった。頬のあたりがきしきしいっている。奥歯が変な感じにぶつかって、頭の中でがちんと音が鳴る。笑えていたのだとしても、きっとすごくいびつだ。でも今日までは、さっきまではちゃんとできていた。じゃた明日になったら元通りにできるだろうか。またうまく笑えるだろうか。わからない。わからない。わからなく、なってしまった。
 責めたててもらえなくて、再会を歓ばれて、足元がいっぺんにぐらついてしまったような気分。古鷹さん、古鷹さん、どうして。ぐらぐらする、倒れそうになる。倒れこんで、さっき触れられそうだった額を、そのまま地面にすりつけて。
 ごめんなさい、なんて、言いそうになる。
 ごめんなさい、私もあなたと会えてうれしいです、生きていて、よかったです、なんて。
 そうやって醜く許しを乞うてまで、またあなたと笑いたくなってしまうんです、そんなことできるわけがないって言い聞かせられなくなるんです、だから古鷹さん、どうか、古鷹さん。
 どうか、私に、やさしくしないで。

 ひとの繋がりかたやかたちを見るのだったら、後ろからがいちばん都合がいい。青葉たちの鎮守府に、加古、古鷹もきて最後に加わった衣笠は、いつかそう口にしていた。
「青葉のいう、資格とか権利とかそーゆーのは、私にはよくわかんないよ」
「……だれかにわかってほしいって思ってるわけじゃ、ないよ」
「でも青葉と古鷹さん、二人ともがどんな顔してるかなら、ちゃんと見てるよ」
 青葉がしらないこと、私はしってるよ。
 なにしろいちばん後ろですからね、となぜだかやたらと誇らしそうに胸を張った衣笠は、それから青葉の鼻先に、さっきから持ったままだった鉛筆の尻を突きつけてくる。
「さっきも言ったけど、青葉は痛そうな顔してる。まあ、これは自分でもわかってるかもしんないけどさ。でも、古鷹さんがどんな顔してるかは、青葉、しらないよね」
「いや、それは……」
「嘘ついたって衣笠さんにはわかっちゃうぞー。……しらないよ、青葉は。だって見てないもん」
「……衣笠」
「古鷹さんのこと。青葉は、ちっとも見てあげてないじゃない」
 名前を見ても、目を見ても、まるでただ見てしまうことですら極悪なことみたいに、逃げ出してしまうばっかりで。
「まあそれはどっちもどっちっていうか。正直ね、見てていっそ笑えてくるよ、二人は」とても静かに、しんと通る声で、衣笠が言う。「顔を合わせるときはさ、二人ともなんとなくおんなじような笑顔なの。で、顔を背けてあっちとこっちに歩いてくとき、どっちも、すっごく痛そうな顔、してんのよ」
 どっちもどっち、お互い相手にすごくすごく悪いことをしてしまって、謝ることもできないみたいに。
 なにか言い返さなければならない、こんなことを認めてしまってはならないと、青葉の頭はがんがんするほど警鐘を鳴らしていたのに、心はおどろくほど空っぽで、ただ穏やかに凪いでいた。それはいつかの海ともよく似て、そうなのだとしたら、ちらちらまたたく光はきっと。
「古鷹さんも、青葉も、相手の顔見てあげなさすぎなんだってば。権利とか資格とかの前に、古鷹さんがどう思ってくれてるのか、青葉はちゃんと古鷹さんのこと見て考えたこと、あるの?」
 きっと、落ち着いているようで、淡々としているようで、その実必死に語りかけてくれている、衣笠の声と言葉だ。
「……権利とか資格とか、許すとか許されないとか、たぶんもうそんなのは、私にとってだけの意地みたいなものなんだ」
 そのまばゆさに目を細めているうち、ぽとりとこぼれてきた言葉に、自分でもびっくりした。
 心のとても深くてやわらかなところに、そっと埋れていたほんとうのことは、考えておいたり、予期しておいたりしないときにばかり、そうやって顔を出してくる。
 いやな予感だったものはいつのまにかもう逃げられない確信に変わっていて、あのサボ島沖海戦で被害をこうむった人みんな、古鷹でさえ青葉のことを責める気は毛頭ないみたいだった。それなのに責めてほしいと願うのは、もはや青葉のエゴでしかない。そんなことは、もうわかっている。
 だから、あとたったひとり、たったひとりだけ、青葉に笑い続けることだけしか許していない人間がいるとしたら、それは。
「痛そうでも。きらいじゃないんだよ、古鷹さんのこと」
「うん、しってるよ」
「……好きだよ。すきなんだ、古鷹さんのこと」
「うん。それもしってる」
「好きだから、許せない」
 私は、私のことを、許せない。
 あなたの笑顔をみて、やわらかい気持ちになるたびに。
 あなたの名前をきいて、胸がそっとあたたかくなるたびに。
 あなたの、ことを、すきだと思うたびに。
 なんどもなんども刻みこまれるのです、もう血も出ないほど深く理解させられるのです、私は、私を、許してはいけない。
 許したくなんか、ないのです。
 衣笠は黙って聞いていた。よくよくみればやはりそれなりには似ているような気のする、沈んだ色の瞳に、自分の顔が映っているのがぼんやりと見える。とてもきちんと笑えていて、すこしだけほっとする。
 でも衣笠がゆっくりと目を閉じてしまって、それは見えなくなった。
「……青葉が古鷹さんのこと、好きなんだとしたら」
 その気持ちに殉じたいと、ほんとうに思っているのなら。
 開いた、衣笠の目は、じんわりと赤い。
「私はやっぱ、青葉は青葉のこと、許さなくちゃいけないと思う」
「……どうして」
「そうでないと、今に古鷹さん自身が、古鷹さんのこと、嫌いになっちゃうからだよ!」
 痛い顔を、していたのだという、あの子は。
 逃げるしかできない青葉の、背中すらも見ることができずに、どんなことを、考えていたのだろう。
 わかるわけがないし、勝手に決めていいことでもないのに、青葉は気がつくとすごく必死にそれを考え始めていた。衣笠が初めて上げた大きな声にびりびり鼓膜を叩かれて、頭のあちこちが目を覚ます。
 十全にわかりあっているようなタイミングで、衣笠は、ねえ、と言った。
「いいんだよ、青葉。青葉は、青葉のこと、許したげていいんだ。それで、古鷹さんのこと、好きになっていいの」
 妹が、こういうふうに微笑むのを、青葉はずっとしらなかった。
 見てあげていなかった、の、かもしれない。
「全部、いいの。だってそしたら、青葉の好きな古鷹さんに、すごくすごーくいいことがあるんだから」
「……な、に?」
「うん。なんとなんと、なんとね!」
 まるで彼女のよく見ている、テレビのコマーシャルみたいなおおげさっぷりで、衣笠は言う。
「古鷹さんが、青葉の好きな古鷹さんのこと、ちょっとだけ好きになれる!」
 きっともう、痛そうな顔なんて、しなくてよくなるよ、二人ともね。
 今までずっと、目も合わせてないのに、そろって同じ顔ばっかり、してたんだから。
 きっとちゃんと向かい合ったら、いままでなんて吹っ飛ばしちゃうくらい、笑えてしまうに違いない!

 ところで妹たちがもどかしい姉たちを気にかけてくれていたというのはありがたいことなのだが、それにしたってもっとやりかたというものがあるのではないか。衣笠と話してからたった一日あとのこと、青葉はそんな気持ちでいっぱいだった。
「あの……青葉?」
「はっ、ひゃい!?」
 いっぱいだった、はずなのだが、たった一言でいとも簡単に吹き飛ばされてしまったので、ここから――艦娘が寝泊まりするための宿舎、その隅のリネン室から出られたのち妹たちにきちんと文句を言えるかは、正直かなり怪しいところだ。
  真っ白なシーツだの枕カバーだの布団だのがぎゅうぎゅうに敷き詰められている、つまるところ逃げ場も場所の余裕もほとんどないなかで、くらくらしそうになりながら、青葉はぎりぎりそれだけ考える。そしてそれが、べつのことを考えていられる最後だった。
「ええと……そう、さっき加古と衣笠が言ってたこと、だけど」
「う、は、はい」
「私に話したいことって、なに?」
 あとはもう、そう言ってことりと首を傾げてしまった古鷹さんのことで、いっぱいです、いっぱいなんです、いっぱいに、なってしまいました。
 幸い出撃もなかった月曜日、話をするなら早いほうがいいと衣笠に叩き起こされた時点で、なにかまずいことになりそうだとは思っていたのだ。けれども現実のできごとというのはおおむね予想を悪い方向に上回って起きてしまうものであり、どうやら加古共々洗濯当番だったらしい古鷹のもとに連れて行かれたあたりで、もうだいたい手遅れだった。めずらしく加古がちゃんと家事当番してる、なんてちょっと感心している場合ではなかった。
 かなりの大所帯になっていた鎮守府全体の艦娘たちの洗濯事情はたいへんな戦場っぷりなので、服に肌着にその他諸々にと、わりと細かいところまで当番は分けられている。その日古鷹と加古に割り当てられたのは寝具で、庭じゅうにロープを張り巡らせた広い広い物干し場では、太陽の匂いをたっぷり吸い込んだシーツを抱えた古鷹が、てきぱきと動き回っていた。
「ほらほら、青葉も手伝ってあげようよ」畳んだシーツをリネン室まで運ぶというところまで四人ですることになったのは、たしか衣笠のその言葉が原因だった。指を合わせながらありがとうと笑う古鷹の目を相変わらず見つめられないまま、宿舎までの道を歩いた。そこまでならよかったのだ。
 問題は、というか大問題は、リネン室の扉の前にきたときだった。
「ところでさ、古鷹」
「うん?」
「青葉がな、話したいことがあるんだって!」
「はっ!? ちょっ、加古さん、」
「今だ衣笠!」
「がってーん!」
 言うが早いか衣笠は素早く後ろに回りこみ、青葉の背中をどんっと押す。「うわあぁっ!!」「きゃっ!?」両手いっぱいにシーツを抱えていた青葉は、なすすべなく前へと押し出され、ちょうどその先にいた古鷹も巻き込んで、リネン室の中へと放りこまれてしまう。
「い、たたた……っ、加古、衣笠!!」
 あわてて声を上げるが、もう遅い。
 見えたのは、ぎりぎり細く開けられた扉の隙間からにやにや笑う妹たちが手を振るようすで、それがぴったりと閉じられ見えなくなった直後、外から鍵をかけられた。輪に金具の引っかかる、かっちゃんという音がかなりまぬけに響いたことを、ひどいことによく覚えている。
 それからたっぷり三分は呆然としたのち、冒頭のやりとりをしたというわけになる、のだが。
「……青葉?」
 首を傾げたままの古鷹は、なんとなくまばたきを繰り返しているのだが。あっ古鷹さんのそのしぐさちょっとかわいいなあって、そうじゃなくて。
 思わず見つめてしまっているうちにかちんと目があって、そらしそうになって、また逃げそうになって、だけどできなかった。しなかった。部屋の中が狭すぎるからというのと、あとすこし、あとほんのすこしは、青葉自身の努力だ。
「……ふるたか、さん、あの」
「うん。どうしたの、青葉?」
「あの、……あの」
 古鷹さんの、ほうを、見る。
 あたたかそうに赤いほっぺたを、ふんわりとくせのついた栗色の髪を、星と同じ色をした両の瞳を、古鷹のもっているもの、青葉が好きだ思っていたもの、だからこそ見られなくなっていたもの、ぜんぶを見る。
 なにを考えているかだとか、なにを願っているかだとか、わかることがあるわけではないけれど。でももしあるとしたら、ひとつも見逃したりなんてしないように、まっすぐ、ちゃんと見る。
「……っ、あ、」
 あなたのこと、傷つけたかったわけじゃ、ないんです。きらいになってほしくなんて、ないんです。
 だってあなたの顔が見られなかったのも目が見られなかったのも名前が聞けなかったのもぜんぶあなたのせいじゃなくて、ただ、私がどうしようもなかっただけで。
 どうしようもないくせに、それでもあなたのこと、大切にしたかっただけで。
 またあなたが傷ついてしまうなんてひどいことにならないように、そんな原因を作ってしまうやつをあなたに近づけたりなんてしないように、私はきっと必死だったのです。必死に笑って、いたのです。その躍起になって守り抜こうとする距離を、あなたに笑顔や呼びかけたったひとつで何度も何度も飛びこされながら、それでも、やめられなかった。
 だって、だって私、私はね、古鷹さん。
「ふるたか、さ……っ」
 とうとう、声が出なくなった。
 古鷹にも青葉のただならぬようすは伝わってしまったのだろう、瞳いっぱいに心配がゆらめくのがたとえようもなくきれいに見えた。でもそれが、青葉には伝えられない。
 今までしてこなかったことをそう簡単にひょいとできるようになるわけがない。世界はそんなに都合良くできていないのだ。どんなに喉を抑えても、ひゅう、とむなしく空気が行き過ぎてゆくばかりで。
 そして、
「……そうだ、青葉。書いてみたら、どうかな?」
 そして、ひとの手のあたたかいのは、きっとこういうときのためにある。
 古鷹さんの手はそのときもあたたかかった。振り払われたことをその指先は覚えているはずなのに、それは迷いなく私の手を取って、すこしためらいがちにきゅっと握ってくれた。
 ほら、こうやって。なんだかちょっと不器用にくしゃくしゃさせながら、どうにか青葉の指を取った古鷹は、その先を自分の手のひらにとんとん、とあてる。「青葉、よくたくさん書き物してるでしょ? 言いづらくても、書くほうならできるかなって……だめ?」言葉は出てこないくせに、ぶんぶん首を振るのはすぐにできるというのも、なんだか滑稽な話だった。
「じゃあ、書いてみて。大丈夫よ、私、目閉じてるから」
 言って、古鷹ははにかんだようにうすく笑んで、そのまま細まった瞳をそっと閉じた。大丈夫よ、これでなんて書いたか、ちゃんとわかるから。古鷹の手のひらはそんなに大きくない、そんなにたくさんのことは書けない。
 言い訳も遠慮ももうできない、伝えられるのは、いちばん大切なことば、ひとつだけだ。
 とん、と人差し指の先を、今度は自分から古鷹の手におそるおそる触れさせる。古鷹がいっぺんに緊張したのが、そう面積が広くないなかでもすごくはっきりとわかった。そうだ、なんて書いたか、このひとは、ちゃんとわかってしまうだろう。
 いいのかな。
 いい、の、かな。
 ――いいんだよ、と、古鷹でも加古でも、衣笠でもないだれかが、言ったような気がした。
 ゆびさき、ふれて、想いを描く。

『す』
『き』

「っ、え、」
「……目、閉じてるって、言ったじゃないですか」
 でもやっぱり、あなたの瞳は、とても、とても、きれいです。あんなに出てこなかった声は、あんなに出てこなかったのが不思議になるくらい、あっさりと染み出てきた。
 古鷹の頬が赤いのはどうしてだか、今なら、すごくはっきりとわかる。そんなことを考えていたら、青葉はなんだか自分もかっかと熱くはあった頬のあたりがやたらとむずむずしてきて、胸の奥から不思議なふるえがこみ上げてきて、とうとう、くすっと吹き出した。
 ずいぶん長いことしていなかったように思えても、身体はちゃんと、心から笑うということを覚えている。人間の身体はたくさん不便でやっかいだけど、そういうところだけは好きになってもいいような気が、すこししていた。
「……っ、青葉」
「はい」
「青葉。あおば、」
 あの、あのね。
 青葉の首もとのあたり、頭をこしこしと擦り付けるようにして(ちょっぴり、いえそのほんとはすごく、くすぐったいです、古鷹さん)、なんだか消え入りそうな声で何度も青葉を呼んだ古鷹は、最後に青葉の肩をきゅうっと握った。
 その手がちいさくふるえていることに、胸が押しつぶされそうになる。
「私……っ、わたし、あなたに、たくさん、つらい思い、させて。き、……きらわれてるんじゃ、ないかって、思って。私、」
「あー……あの、その、ですね、古鷹さん」
 泣かないでくださいって口にするよりも、もっとたくさん、泣かないでって気持ちを伝えるには、どうしたらいいんだろう。
 あなたのことをもうすこしずつわかるようになれば、いつかそんな日もくるのでしょうか。こんな私でも、あなたの涙を止められる日が、いつかはやってくるでしょうか。
 なんだかあまり想像つかないけど、そうだったらいいなと、願います。ちょっとだけ期待、しちゃいます。
 だから今は、今私にできること、せいいっぱい。
「古鷹さん。どうぞ、青葉の好きな人のこと、そんなふうに言わないであげてくださいね」

 世界は実際のところいつでも変わらない色をしているだけで、それをまぶしくさせたり暗くさせたりするのは、私たちの目の勝手なのだろう。その日の朝焼けがやたらと目にしみたのも、きっとそういうわけなのです。
 作業にずいぶん熱中してふと顔を上げてみれば、さすがにもう夜明けというよりは朝に近い時間帯になっていた。そうはいっても週末なのでたっぷり惰眠を貪らせてもらうつもりだが、いつもいつも食事当番の片付かないという文句を受けては起こしに来させられる衣笠が、そろそろ怒ってしまうかもしれない。まあそれはそれで、いつかの仕返しということになるのだが。
 さてぼやっとしてないでいい加減眠ってしまおう、とあくびをかみ殺しつつ布団へ向かった青葉だが、前述のとおりいつかの仕返しもまだなのに、さらに仕返ししてやらねばならないと思わせる光景がそこにはあって、思わず脱力しそうになる。
「……いやいや、ちょっと」
 どうせ眠っているのだしとついぼやいてしまったが、まったくもってちょっと待ってほしかった。はてこれを考えたのは加古か衣笠か。あなたたちね、今まで私たち、妹姉妹姉、でうまいこと法則づいてたじゃないですか。布団の置く順、加古さん古鷹さん衣笠で私、だったじゃないですか。
 それなのにどうして、左から三番目、古鷹の隣の布団だけが空いていて、いつも青葉の寝ている四番目で、衣笠が健やかな寝息を立てているのだろう。
「ああ、もう……」
 いい、もう、眠いし。
 ここまで起きていると実のところ眠いを通り越してただただぼんやりしてしまうだけなのだが、いい加減考えるのがめんどうになったのでやめて、青葉はそろりそろりと空いた布団のところまでいった。うわわ、寝息、寝息が聞こえます。夜通しの書き物作業で、そんなエネルギーはどこにも残っていないはずなのに、焦る心はいつでも元気いっぱいだ。
 そうして気にしていたらいつのまにか視線がひっぱられていて、身体も、ひっぱられていて。ちゃんと伝えはしたけれど、こういうところはそうそう簡単には変わらないものなのです。青葉、情けないです。古鷹さん、ごめんなさい、ごめんなさい。
 頭の中で確かに二回謝って、今度こそ懺悔のように目を閉じて、そろり、そろり、古鷹のまぶたのうえに、くちびる、寄せて、

「……つかまえた」

 くるんと回された腕、古鷹さんの肌は、ひたりとあたたかく、青葉の首に、吸いついてきたのです。


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